自分をむやみに責める。そうしたところで現実はいい方向へ行くはずもないのに。
きっと、自分を責めて、苦しい気持ちになったり、虚しい感じになったりするのが、どこか心地いいんだ。
メランコリー親和型だとか、誰かが言ってた。
憂鬱な雰囲気が、落ち込んでる自分が、「苦しくてかわいそうな」自分が、好きなんだ。
うじうじめそめそしている人を見て、よくあるシーンとして、
「なにうじうじしてんだよ!」的なのがある。それはきっと、そういう、憂鬱な雰囲気に耽溺して満足してしまっている様子がその人には透けて見えて、気持ち悪いんだろうと思う。
もしくは、「これ以上傷つかないための予防線」としての自責もあろうと思う。
こういうことを言うことで、本当に傷つきたくない所を隠す。本当にツッコまれたくない所を隠す。
こんな風に、自責している自分をさらにメタに見ることで、さらなる自責の余地が生まれる。
「苦しい自分に酔っちゃってる自分、気持ちわりい」、「つらい・限界、とか言いながら、本当に痛いところを守ってる自分、ださい」等。
でも、本文では何を書こうとしているかというと、自責している自分をさらに自責するとかではなく、
「ああ、俺はそういう、溺れるのをどこか楽しんでるふしがあるんだなあ」と気付いたので、それならそうと、それを肯定して、もっともっと憂鬱になって、もっともっとこじらせてはまり込んで、楽しんでやればいい。ということが書きたかった。
水が低いところへ流れるように、人の欲望も低いところ、もとい、その人にとって楽な方へ流れる。
いつも気づけば憂鬱で虚しく、今ここにいる自分の存在がうらめしくてしょうがなくなるのは、もしかしたら、それが自分にとって最も好ましいからなんじゃないか。
漫画やなんかで、「いつまでもうじうじめそめそしやがって・・・ そんなにうじうじめそめそしたいなら一生そうしとけ!」みたいなのがあったりするが、そういわれた主人公は、奮起するのではなく、もしかしたら、指摘通りにするのがいいのかもしれない。
確かに、憂鬱な状態は、体感として、実際に、「しんどい」。これは間違いない。楽ではない。精神はガス欠で、体も思うように動かない。だけど、それを、「己が本能的に・無意識的に欲しているんだ」ととらえれば、幾分ましになりそうな気がする。受動的だった責苦が、まるでマゾヒストの行いのように、能動的なものになる。それを意識することができれば、「好きでやっているんだ」「体が欲しているんだ」と思うことができれば、楽にはならないが、ましになる。たぶん。
きっとこんなことを書いたところで、来週には忘れていて、ただ単にいつも通りのしんどい感じになっているんだろうなあ。ブラックホールに落ちたのならば、とことん落ちて、ホワイトホールから異世界へ出るくらいにとことん落ちてやろう。今はそう思ってます。