はてなキーワード: 教養とは
高校生でつきあって、大学、就職と、楽しいことも辛いことも一緒に経験してきた。
今では同棲していて、自分も相手もまわりもそのうち結婚するだろうと思っている。
彼女のことはとても大事だと思ってるし、彼女以外と結婚も考えられない。
その子は気が強く大人びていて、学級委員になるような優等生タイプだった。図書館に通いよく本を読んでいた。自分のあまり知らない世界をたくさん知ってる彼女にとても教養を感じていた。自分でも本を書いていたようで、それを見つけてからかったら、今までにないほどにらまれたこともあった。
男子人気はあったと思うんだけど、気が強く男子ともよくケンカしてたから、「あいつはいいや〜、こえ〜し」みたいな感じで少し敬遠されてる節もあった。
自分はその子のことが好きだったけど、好きだから付き合うなんて発想もまだなく、ただその子のことを意識していただけだ。
中学進学。
その子は結構裕福な家庭で頭も良かったので中高一貫の私立にいってしまった。
それっきりだ。
お別れだっていうのは前々から言葉ではわかっていた。でも実際に中学生になって、本当にあの子とすれ違うことすらなくなってしまった。
あの子が好きだったのだ。
あの子は、自分の知らない私立中高一貫の世界で、自分の知らない人たちと、自分の知らない経験をしてる。
かたや自分はというと、あの子がいない、ぽっかり穴の空いた世界で毎日を過ごしてる。
会いに行くなんて勇気はなかった。
ただの小学の同級生が会いたいから会いにきた、なんてキモいに決まってる。
だからただ、その子の家の近くを通るたびにすれ違いを期待していた。
高校に進学しても、ずっと思い焦がれていた。
同じ街に住んでいれば、いつか会うこともあるかもしれないと思っていたけど、結局ただの一度もなかった。
中学3年間まるまる会わなかったのに、いきなり会いに行くなんて不自然だ。そんな勇気は自分にはなかった。
大学生になって、県外の大学に進学した。もう万が一にもすれ違うことはないと思うと、この思いはますます強くなった。
恐る恐る検索をかけると、でてきた。
会いに行けるんじゃないか?
彼女を思う度にそう考えたけど、結局、会いに行くことはなかった。
そんな勇気はなかった。
ひとつ、チャンスだとおもっていることがあった。
成人式だ。
会えなくなった中学生のときから、このタイミングだけは絶対あえると楽しみにしていた。
その子は遅れてやってきた。
一目見たときドキッとした。
いる。
やっと会えた。
でも結局、なにも言えなかった。話しかけることすらできなかった。
何年も待ちわびた成人式で、昔と同じように何も出来なかった。
そこから、この思いはこじれた。
好きだった、でも良い。
気持ちが大きくなりすぎて、別に付き合いたいわけじゃなく、この気持ちを吐き出したかった。
それくらい辛かった。
よく夢を見るようになった。
その子がでてくる夢。
いつも偶然の再会から始まる。
決まったパターンだ。
勇気を出して話しかけてみると、自分のことを覚えてくれている。
「あの頃好きだったんたんだよね」
ずっと言いたかったことが言えた。すごい満足感、充足感を覚える。
すると、はにかみながら、
「あたしもだったよ」
そう返ってくる。
その瞬間の幸せさったらない。
なのに半年に一度、一年に一度その夢を見るたびに、その子のことを引きずってるんだってことを意識させられる。
もう自分はリアルな彼女の姿をまったく知らない。どんな性格になっているのか、なにやってるのかもわからない。
自分の中の理想通りに成長した、存在しない幻想の彼女がいつもいっときの幸福と、莫大な虚無感を運んでくる。
そんな女は存在しないし、実際会えたとしてもなにもかもが違うだろう。
歳を重ねるほどに、袋小路に迷い込んでいる。
どうやったって今更なこの気持ち。
どうして忘れた頃に、またこんな夢を見せるんだ。
もう疲れた。
あの夢を見ながら、死にたかった。
[追記]
思った以上に反響いただいていて嬉しいです。
実はこれ一カ月以上前に書いたものなんですがさすがにキモいかなと思ったのと、冷静じゃなかったんで寝かしておいたものです。
一カ月たってみてもなおキモいですが、まぁそのときの本当の気持ちだし埋もれさせとくのももったいないなと思って投稿しました。
本当に普段は全然未練なんてなくて、彼女ともうまくいっているし、とても大切に思っています。この件も「自分が好きだと言えなかったから叶わなかった初恋」として、良い思い出に昇華できてると思います。
でも、この夢を見るタイミングだけ、猛烈に上に書いたような気持ちに襲われるんです。
きっともうどうやっても叶わないことがわかっているからなんでしょうね。
これさすがにキモいって自覚はあるので誰にも話したことなかったんですけど、こういう気持ちを吐き出せて、さらに反応まで返ってくる、ここって良いところだなと思います。
みなさん本当にありがとうございます。
ただ、夢を見ないように祈るばかりです。
東浩紀さんが中心となって出した「ゲンロン8」ゲーム特集の内容について、主にゲーム開発者の方々が批判して炎上している件。
ざっと見た限り、電ファミニコゲーマー編集長の平信一さんのtwitter・Facebook周辺が一番熱いようです(東浩紀さんご本人の他、イシイジロウさん、米光一成さん、大前広樹さん、濱津英二さん、島国大和さん、多根清史さん、清水亮さん、川上量生さん、やまもといちろうさんなどもコメント。平さんご自身は、ものすごく冷静ですが)。
中でも、痛烈に批判しているのが、ゲーム開発者の岩崎啓眞さんのようです。
Facebookの公開投稿も検索して見てみたのですが、岩崎さんの以下のコメントが箇条書きでまとめられていて、わかりやすい。
https://www.facebook.com/jun.okada.906/posts/2082518138456655
岩崎 啓眞 今回、ゲンロン8を読んだことで本当に思ったこと。
1)ゲームは技術と複雑に絡み合ったプロダクトであり、フルタイムで仕事にしている人間とそれ以外でとんでもない差がある。
2)特にスマートフォンになってからは出る数も膨大になり、そもそもの調査の段階からフルタイムVSアマチュアでは差が出てしまう。
3)技術を知らず、調査しきれない人間と調べないとリングに上がることもできない世界で生きている人間では「基本のラインが違いすぎる」
4)結論:作り手と同じレベルの話を出来るようになってから来い。
最初は怒ったけど怒る気すらなくなった。
なかなかすごい。
しかしこれはどうなのでしょう?
銀座のいろんな寿司屋にけっこう通ってる客が「サーモンはA店、まぐろはB店が旨い」などと語っていたら、
寿司屋の大将が「サーモンは輸入なンだからどこの店だって同じでぃ。素人は寿司を語るな」と言っているようなもののような気がします。
サーモンに関しての事実誤認に関してはそうなのでしょうが、だからって寿司を握った人でないと寿司を語ってはいけないというのは言い過ぎではないでしょうか。
岩崎啓眞さんがふだんどのようにゲームを語っておられるのかと思って、ググってみて、最初に「「レベルを上げて物理で殴る」の素晴らしさをゲームデザイナー視点で語ろう。ドラクエで学ぶ「RPGメカニクス」の3大メリット【ゲームの話を言語化したい:第四回】」という記事を見つけました。
その中に、以下のように書いてあります。
http://news.denfaminicogamer.jp/column05/170905b
プレイヤーがバトルに敗北したとき、『ドラクエ』は経験値やキャラクターをロストせず、所持金を半分にして、最後に訪れたリスポーンポイントから復活させるシステムなのだ。
「最後に訪れたリスポーンポイント」と書いていますが、ドラクエ1のリスポーンポイントはラダトーム王の1マス下のひとつだけで他にありませんので、「最後に訪れたリスポーンポイント」の部分は正確な表現ではありません。
http://news.denfaminicogamer.jp/column05/170905b/2
1. プレイヤーはひとりで旅を始める
→これは『ドラクエ』と同じ構造にしてプレイヤーの負荷を下げるため
→ここも『ドラクエ』とほぼ同じ構造になっている。なお『ドラクエ』というゲームの偉大さのひとつは、このチュートリアルを30年経ってもやることだ
とありますが、ドラクエ2の1人目のプレイヤーキャラ(ローレシアの王子)は魔法(より正確には呪文)は使えませんので、4の「ふたりめの王子(引用者注:=サマルトリアの王子)がパーティに加わる」前の話なので、「2. アイテム・装備・魔法の使いかたを覚える」の「魔法」の部分は事実誤認です。
このように、ゲーマーの基礎教養であるドラクエ1・2に関しても事実誤認があります。
実はやってないのでしょうか? うろ覚えなのでしょうか?
このような事実誤認によって、この記事全部が意味がないものになるかというとそんなことはなく、変わらず大変興味深い指摘だと思います。
「事実誤認を見つけたからこの本・記事は意味がない」という姿勢はいかがなものか、ということです。
そんなことはないのでは。
事実誤認があれば指摘して、著者も素直に訂正し、それとは別に議論を深め、ゲームに対する言論を高めていく、というのが健全ではないでしょうか。
だって、ゲームを本気で語ろうなんていう人たちの規模はこんなにちっちゃいんですから。
ゲーム開発者が、ゲームの遊び手がゲームを語るのを弾圧するっていうのは本末転倒では。中国政府ですか?
ゲーム開発者の方は映画やアニメを語るのが好きな人も多いですが、「映画(アニメ)作ってないお前に語る資格はない」って言われたら嫌でしょ?
あとオンラインゲームやオープンワールドやスマホ・ブラウザゲームなどはメジャーなものだけでも全部まともにやるのは、一般社会人にとっては時間的に不可能な現実もありますので、「このゲームすらやってないのか」的な言いがかりも、いまの時代、やめた方がいいのかなーと。
全部やるのは無理だから、教えあうしかないんじゃないですかね。
https://www.facebook.com/TAITAI999/posts/1977782982291793
じゃあ一方で、ゲーム業界側(ゲームメディア含む)が、その”正しい認識の歴史”とやらをきちんとまとめるなり、伝えるなりしてきましたか?というと、少なくとも僕は見たことがないんですよね。(…)
つまり、いわゆる“ゲーム業界人”(あるいはコアゲーマー)は、長年の経験を踏まえて正しい文脈を知っているかもしれないけど、それを整理して残す努力はしてないんじゃないかと思うのです。それって、僕からすると「ゲーム業界側の負い目」に思えてしまう(少なくとも、ゲームメディアがやれてこなかった仕事だと思う)。そりゃ、業界の外の人が分からなくて当然だろうと思うのです。
とおっしゃっているので、平さんあたりが音頭を取って「ゲーム業界人から見たゲームデザイン史」的なものを作ってくださるのも素晴らしいと思います。
今回の議論でもある通り、ゲームには作り手でないとわからない高度な技術的な側面がありますので。
あ、ただ、それを「正史」にする、という発想はまた違う気もしますけども。
映画業界人が作った「映画正史」とか、小説家組合が作った「文学正史」みたいのはあまり聞いたことないので。作り手が主張する歴史が正史だ、っていうのも、なんか中国政府っぽくないですか?
そして最後にゲーマー日日新聞J1N1さんのこの部分を引用しておきたいです。
そこで自分が言いたいことは一つだけ。自分たちのゲームは自分たちで語るべきだということだ。
自分たちのゲームを語り、周囲の人や後世の人に伝えるのは、自分たちしかいない。批評家や評論家の肩書を持った偉い人たちや、経済的な課題を常に抱えるメディアに、全て丸投げする程期待してはならない。
「昔は小説(夏目漱石など)も低俗と言われていた」などと言って、まるで現代では低俗と言われてないなどと主張しているが、現代でも小説なんてのは低俗なんだよ。教養のない人たちが「本読んでる。すごい!」とか言ってるだけで、小説なんてのは子供の読み物だってのは今も昔も変わってない。
ラノベオタクは昔低俗と言われていた小説が現代では高尚なものと言われているのだから、現代で低俗と言われているラノベも将来は高尚なものと言われるだろうと主張している。
ほんとにそうなのか。現代で高尚なものとされているというその主張が謎である。まともな大人は文学なんて読まない。
あるいは漫画やアニメも昔はこんなもの読んでる(見てる)と馬鹿になるなどと批判されていた、とか、テレビばかり見ていると馬鹿になると批判されていた、とか。まるで現代では批判されていないかのような主張である。が、実際に漫画やアニメばかり摂取してきた人間はやはり馬鹿になっているし、テレビばかり見てる人間もやはり馬鹿になっている。
主張としてはラノベもやがてこれらと同じく世間に受け入れられるだろうということだが、漫画やアニメは別に今でもそれほど世間に受け入れられてはいない。実際漫画の売り上げは下がっているし、アニメが受け入れられていると言ってもそれはジブリなどの映画アニメであって、オタクが好きな深夜アニメが受け入れられているわけではまったくない。テレビに関してはたしかに受け入れられてはいるが、若者のテレビ離れも言われていて、もはや時代はテレビではないことは明らか。
さらに言えば、ラノベは何も新しい表現ではなくただの小説であるという問題がある。漫画やアニメは初めの頃は確実に新しい表現だった。しかしラノベはただの小説である。どこにも新しい要素はない。19世紀で完成した大衆文学を現代オタク流にアレンジしているだけの作品群である。
そして小説はラノベ以外にもたくさんあるということ。なぜラノベだけ特別視しているのかが謎である。大量にあるくだらない小説の一部にラノベというラベルを貼っているだけ。何も特別なものはない。大量にあるくだらない小説からラノベだけが生き残るなんてことがあるんだろうか。
たしかにくだらない大衆文学は残るかもしれない。未来においてそういったものが教養のない人たちから高尚な読み物と言われるかもしれない。しかし教養ある人たちはそんなもの相手にしないし、くだらないと思っている。ただ、わざわざそう主張しないだけだ。敵を増やすだけだから。
沖縄で生まれ沖縄で育ち、沖縄で働いている純ウチナーンチュである身として、一度は教養としてみておくか、と思い、宜野湾市民会館で上演された、沖縄お笑い米軍基地14を見に行った。
沖縄のローカルラジオ、テレビではひっぱりだこで、県内に知らない人は(たぶん)いない芸人さん、小波津正光さんことまーちゃんさんが座長として企画・脚本・演出を行っているコントショーが、この「お笑い米軍基地」である。
今回で14回目を数えるこの公演は、沖縄では非常に人気が高く、私が見に行く旨を人に話す度「あい!いいはず~感想聞かせてね~」という反応はあれど「なにそれ?」という人は誰もいなかった。実際、1200人キャパの会場はほぼ席が埋まり、私が行った公演以外にもあと何回か沖縄県内各地で上演されるということである。そもそも毎年上演し、今回で14回を数える辺り、企画側の熱量とそれを受け止めるだけの県民の人気があるんだなあと感じる。
コンセプトは「基地を笑え!」。沖縄県の面積の内およそ10パーセント以上を占めており、沖縄県について語られるときに必ず問題の一つとして触れられる米軍基地だが、ぶっちゃけ県民の(主に若者の)大半は「反対運動とかが激しいのってあれでしょ、本土から来た人とか政治団体とかそういう人たちなんじゃない?…わかんないけど…まあなんか窓とかヘリとか飛行機とか色々落ちてるし、戦闘機はうるさいからまあ、なくなるならもちろんそのほうがいいけど、わざわざ座り込みとか行くのは違うかな~左翼とか右翼とかよくわかんないし…」などと言う人がほとんどである。(あくまで私の体感ではあるが)
若者の政治参加の主体意識が足りない!と言われてしまうとほんとその通りではあるのだけど、恥ずかしながら私もそういったその他大勢のひとりである。正直基地がどうとか言う前に、政治してる人たちは生活に密着した問題からどうにかしてくれ、と思う。子どもの貧困とか。いや、その辺とも繋がってたりするから根深いのか?よくわかっていない。
山積みになっている沖縄県の問題のど真ん中にドンと居座り続けている「基地問題」。そこをどう笑いに落とし込むのか。前評判は良すぎるほど良かった。期待半分不安半分で会場に足を踏み入れた。
そして観終わった感想だが、「100点!最高!面白かった!」とは正直まったく思えなかった。
なお、細かい内容は「SNSには書かないでください」というアナウンスがあったので割愛する。
まず、全体を通して(「米軍基地」という「沖縄県民にしかわからないあるある」を扱っている以上、前提がそうなので当たり前ではあるのだが)めっちゃくちゃ内輪ノリがすごい。
そこがハマると面白いのかもしれないけど、沖縄県は究極の「ムラ社会」の文化なので、各地域の文化の隔絶もすごい。なので県民でも「いや、わかんねーし…」が結構多く、ハマらないとむしろ見続けるのが非常にしんどくなる。最後辺りには完全に「業界の内輪ネタなんだな」とわかるものだけでひとネタ作られているものもあり、関係者席らしきところからは爆笑すら聞こえたが、業界人でもローカルテレビ大好きマンでも何でもない私は正直置いてけぼりだった。
沖縄県にはM-1グランプリならぬ「O-1グランプリ」という番組がある。お正月時期に放送される、名前の通り沖縄の芸人の1番を決めるという番組だ。そのネタを見てもらえばわかるが、沖縄の芸人は「沖縄らしさ」を前面に出したコント・漫才、つまり「内輪のあるあるネタ」を組み込んだものを作ることが圧倒的に多く、またレースにおいてもそのほうが有利である。その番組にはもちろん今回の「お笑い米軍基地」に参加しているFEC(沖縄にある芸能事務所「演芸集団FEC」)の芸人さんも数多く出場しているので、その流れを汲んでいるのも当然といえば当然である。
そして、気になったのは「お笑いだから」「俺たちはバカだから」という言葉を盾にした、差別やいろんな権利の侵害の嵐だった。もちろんすべては洒落であり、まじめに取り合うほうがアホであるというのはわかるのだけど、正直現代の「ボーダーレス」な風潮からは相当遅れた認識があるんだなということは感じた。
私個人として特に興味があって学んだこともある界隈の問題だったのもあって、過剰反応してしまったところはあるが「いや、ダメでしょ…」と引いてしまうような描写・演出が非常に多かった。
違和感の何よりの原因は、前説で座長が「所詮俺たち三流芸人の言うことなのだから怒ったりしないで聞き流してほしい」という旨の発言をしていたことだったと思う。
私たちは無意識に差別をしてしまうものだし、気づかずにだれかを傷つけてしまうのは仕方のないことではあるが「差別?いやいやネタだから。何マジになってんの?」という言い訳を用意してしまうのは、ちょっと違うなあと感じた。この公演に誇りをもってやっているのなら「差別的な表現かもしれないが、より伝わると思って選択した」と言い切ってほしいな、と思った。イジりとイジメの境界線はあいまいだが、「強者や権力を笑うのがお笑い」だというならば、自分たちが本当に強者としての力を持っていないか?というのも常に問い続けてほしい。
また、全体を通して「左」より「右」を笑うことが多かった、というのも違和感のひとつとしてあった。どっちも滑稽な部分はあるのだからもう少し両方を笑ってくれたらよかったのかな、と思う。あと「右」を揶揄するネタの時に、笑いどころでもなく盛り上がりどころでもないセリフで「よくいった」というようなかけ声や拍手があがっていたのは驚いた。どちらでもないフラットな状態で見に来たつもりなのに、いつの間にか政権批判団体の集会に参加させられていた、みたいな気まずさがあった。怖い。
以上のように全体的に右寄りかつ品がなく沖縄県民の県民性の悪い部分を煮詰めたような「内輪に甘い」感が強く、正直全体を通して「また行きたい!」とは全く一ミリも思わなかった。私は特にスクールカースト下層だったタイプの人間なので、沖縄の芸能界に蔓延する「スクールカースト上層部っぽいノリ」(ウェイ感とでも言うのか)にはついていけなかった。この辺はたぶん好みの問題なのだろうと思う。
ただ、ここまでゲロカスに批判してきたが、この公演を見たあと、文句を言いながらも私は「じゃあ右や左のそれぞれの主張ってどうだったけ?」「ほんとうにこの芸人さんたちが言っていたことは正しいのか?」「自分は偏っていないのか?」ということをいつの間にか考えていた。
まーちゃんさんの著作を図書館で借り、基地問題についてネットで自主的に調べ、右翼と左翼についても少し勉強した。
そうして、ハッと、こうして主体的に考えているこの行為自体が、この公演のねらいである「基地について、何かひっかかりを感じて考えてほしい」というところにばっちりハマってしまっていることに気が付いた。
なるほど、ならば。この公演は私にとって意味があったのだなと納得できた。してやられてしまったな、と思った。チケット代2000円もったいねえことしたわ、だったのが、安いじゃん、になった。
エンディングで歌われたFECの社歌の中に「とにかくやることを大事にしている」というような歌詞があった。沖縄県民は先ほども言った通り「内輪に甘い」。そして変化を嫌う。そんな中で新しいこと、前に進むようなことをするのは、本当に難しいことだと思う。勇気がいることだと思う。「まじめ」をバカにする風潮のある沖縄で、「まじめ」にバカをやるというのも、ほんとは難しかったんじゃないかなと思う。その勇気に敬意を表して、私はこの感想を書こうと筆をとった。「とにかくやる」そしてやることで誰かを動かす、それはほんとうにすごいことだ。と、何もできない私は思った。
でも、個人的におもしろくなかったのは事実なので、沖縄の芸人さん各位にはマジでもっとがんばってほしい。笑いどころを説明してしまう癖があって全体的に冗長だと思う。言葉選びが雑。オチやツッコミのワードが説明的で長すぎる。「金の斧銀の斧」のいさお名護支部さんのくだりと、タイワンオオカブトの幼虫のくだりは勢いがあって好きだった。
https://www.asahi.com/articles/ASL6H63FTL6HUTIL04M.html
「無防備力も女子力だと思います」というコピーとともに幼い女の子の写真が掲げられた西日本鉄道の広告が、批判が多かったということで撤去になったというニュースを見ました。
広告はしばしば炎上してるの見ますが、打ち切りまでしなくても…買わないけどさ…と思うこともありますが今回のコレはもうアウトでしょ。
言及するという時点でだいぶフィルターがかかってるにせよ私のツイッター観測範囲では「広告としても意味不明だし、アウトな点があり過ぎ」「どうして誰も止めなかった」という論調が多いですが、
「なぜ性犯罪の話が出てくるのかわからない」「そんなに言うほど?」「こじつけにしか思えない」という人という人もいるので
暇な私は書き出してあげましたよ!!!
個人の感想だーっと書いただけなので穴はいっぱいあると思います。
「幼い女の子みたいに性犯罪に無防備になったほうがモテるよ!」です。
これをストレートに書いてあったとしたらマズイのはいくらなんでも誰でもわかりますよね。
では私が何故そのように読み取ったか細かく行ってみましょうー。
「無防備力」はよくわからないので「無防備さ」として考えました。
①広告としての意味が全然わからないです。広告としての強いメッセージが読み取れないから余計な連想を呼んでしまうのはあると思います。たくさんある広告のひとつらしいので、イメージ広告みたいだったり女性をことさらに取り上げるのはいいとしても、やっぱり意味がわからない。
②女子力というワードが既に陳腐だし、広告に使うには危険な炎上覚悟ワード。「男性目線の女性への恋愛対象や性的対象としてこうあるべきという価値」の言い換えとも言える言葉。
特にSNS界隈では女性への一方的なジャッジや抑圧の言葉と取られます。揶揄や自虐、軽いノリで使うこともありますが、場面と発言者と発言先によって意味合いが全然変わってくる取り扱い注意の言葉だと思います。
この言葉を使う以上「男性目線の、女性へのジャッジの言葉」という前提は必ずあり、扱い方によってそのままの意味だったりアンチテーゼだったりするんでしょうけども、この広告は後者をやろうとして失敗したという印象です。
③女性の性的魅力を含意させて使われがちな「女子力」を「無防備」と合わせることで「無防備であるのが魅力的で好ましく価値が高い」という意味に取りました。
④女性の性的魅力を含意させて使われがちな「女子力」を「幼い女の子の写真」と合わせることで、幼い女の子もその評価の対象であり、しかも他の見本となるほど性的価値が高いという意味に取りました。
⑤「無防備」というワードは痴漢をはじめとする性犯罪で被害者側が責められる時に使われることが多く、しかもこれは痴漢が多く発生すると言われる鉄道の広告。連想するなと言う方が無理な話。無防備にするなと責め立てられた挙句、無防備なのがいいとか言われんの??痴漢しやすくしろってこと?鉄道会社がそれ言う?ちょっとふすまから虎出してくれない?
⑥④と⑤を合わせると、幼い女の子が性犯罪の対象となる危険性が際立って見えてくる。子供まで巻き込むのほんとやめて。最近そういうニュースもあったのに。
⑦ちょっと話がずれるし意味はないんだろうけど、何故Tシャツが星条旗?政治的な意図がないなら地方都市のローカル企業の広告にしても軽率すぎないですか。
政治的な意図があるとしたら余計まずいし余計に意味がわからないけど。
1つの要素だけならそんな過剰反応せんでもいいのにと思いますが、まあよくもこんなにコンパクトに的確にポイント押さえてきたなというのが個人的な感想です。
他にも「どうせ無防備って"ぼくのかんがえたさいきょうのむぼうび"的なやつだろう」とか「思います、ってお前誰だよ」とかあったけど長くなるしちょっとこじつけっぽくなるのでやめました。
大人の女の人が自分の意思でいわゆる女子力的なことが好きだったりアピールしたり無防備に振舞ったりするのは個人の自由だし、それに魅力を感じる人がいてももちろんいいと思います。
それを全年齢対象全性別対象の公共の場所の広告でやるなよ、その思惑にまみれた概念を子供にも適用するなよってこと。
広告主の意図としては「幼い頃のように肩の力を抜いて無邪気で飾らない姿が本当の自分らしさかも」ということらしいですが、それを聞いてもわからんね。
映画やドラマや小説を理解できるのにある程度の文化理解教養が必要なように、炎上や差別的表現の理解にも一定の感受性や訓練がいるのかもしれません。
「ああ捕まったな」「無知な女性」「彼女は残念ながらフェミニズムという思想体系をアカデミックに咀嚼するだけの教養がある人ではない」「「その思想はヤバイで!やめとき!」と助言する」「できれば聡明な女友達の口から「それはフェミニズムじゃなくて男性蔑視だよ」と伝えてあげるのがいい」
…
といった表現、相手が男性(友達)でも使うのか?と疑問に思う。少なくとも自分なら、友達に対してこういう「格下認定」を前提としたようなことは書かないな。
そこまで書きつつ、しかも彼女の「いいところ」に一言の言及もないから、「格下認定して気持ちよくなるためだけの関係」なの? という印象を他人に与えるんじゃないか。
一介の兵士の娘と言われるが、大変な美女で、教養もあり、20歳のときにフランス王シャルル7世と出会い、その後に愛人となった。
フランス史上初の公妾といわれる。
これまで男性しか付けなかったダイヤモンドを女性で初めて身につけるなど、贅沢のかぎりをつくしたが、四人目の子供を妊娠中に28歳の若さで亡くなった。
現代の研究者が調査したところ、遺骨から大量の水銀が検出されて水銀中毒死とされ、毒殺されたとも言われる。
自らの美しさに自信があったためか、片方の乳房を丸出しにすることを好み、その姿で多くの絵に残っている。
ツイッターでつながってる友達(女)のリツイートに、いわゆる「ツイフェミ」「クソフェミ」系のツイートが混じり始めた。もともとそういうのと親和性高そうな人だなとは思ってたけど、「ああ捕まったな」と。失望とも無力感とも違う、なんとも言えんやりきれなさがある。
俺もまっとうなフェミニズムとクソフェミを自信を持って区別できるほど理解してはいないけど、「女ばかりがこんないやな目に遭う(だから男ももっと苦しめばいいのに)」みたいな負の公平を振りかざすやつとか、そもそも女尊男卑の意識が明白なやつとかは顧みる価値のないクソフェミだと思っている。
そういう意見はたいてい日常の身近な出来事や些細な不平不満を題材にして主張されることが多いので、無知な女性の共感を得やすく、背後にある男性嫌悪を意識しないまま拡散されやすい。ギリ子某とかマルクス某とかみたいな、落ち着いて読めば即座にクズとわかる白ハゲマンガが大量RTされるのは、熟慮せずに雰囲気で拡散する斜め読みユーザー(つまりおっちょこちょい)がツイッターの大多数だからだ。
おそらく件の彼女のタイムラインにもそういったおっちょこちょいが多くて、一見女性の権利を代弁しているようでいて男性を逆差別しているだけのクソを喰わされまくった結果、徐々に影響を受けていったのだろうと思う。彼女は残念ながらフェミニズムという思想体系をアカデミックに咀嚼するだけの教養がある人ではないので、このままいくと無自覚なままミサンドリーに染まっていく気がしてならない。というか、内心はすでに堕ちていてオトナの理性で黙っているだけなのだろう。
そんな女性に対して男性から「その思想はヤバイで!やめとき!」と助言するのは地雷原でタップダンスするようなものだと思うので、できれば聡明な女友達の口から「それはフェミニズムじゃなくて男性蔑視だよ」と伝えてあげるのがいいと思うのだけれど、まあ期待できそうもないな。
アフィカスがまとめたくだらないまとめをまた読んでしまった http://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1236466
ラノベオタクはすぐにラノベの「定義」がどうのと言うけど、このことこそ彼らがいかに無教養かということを示している。「定義」を絶対視し厳密に議論しようという科学的態度の自分たちこそ教養ある人間だと思っているかもしれないが、実はそれは単なる盲目的な科学主義にすぎず、文学(もちろんラノベも含まれる)という現場とは相性が良くない。いかにも中途半端な理系が多そうな発言ではある。
本来言葉の定義というものは存在しない。辞書に書かれてあるのは編纂者が勝手にまとめたものにすぎない。彼らは神ではない。権威ある辞書の存在しない時代にも言葉はすでに存在したなんてことは誰にとっても明らかだろう。
言葉というのは使い方によって意味が決まってくる。言語使用こそがすべてである。辞書に書かれた定義という閉鎖的な意味だけを持つのではなく、言葉というのはもっと開放的で自由なものだ。もっといえば創造的なものだ。それこそが詩というものであるわけだし。極端なことを言えば、同じ言葉でも発されるたびにすべて意味的にも差異がある。本質的に言葉というのはいつもアドホックな意味を持っている。辞書の定義そのもので厳密に語られるということは実はそれほど多くない。
文脈を共有し言葉にアドホックな意味を込める、そしてその意味を共有しあう、そういうのが人間同士のコミュニケーションだ。定義通りにやり取りするのはAに対してはBという動作で確実に反応するようにプログラムされたロボットだろう。ラノベオタクはこういうロボット的なコミュニケーションこそ科学的で崇高で尊敬されるべきだと考えているのかもしれない。しかし現実はそうではない。むしろ逆だ。冗談を言い合うとき、無意識のうちに通常の辞書的言語使用とはずれた使い方をするし、そういうずれをお互いがすぐに理解して笑いあう。そんなことは日常生活に当たり前に存在する。「定義」がどうのと言っているのはそれこそ文字通りにしか文章を読めない人たちであり、彼らはたしかに科学者ではあろうが、文学者ではない。ラノベオタクにはそういう科学者的態度の人が多いというのが不思議だ。彼らは文学愛好家ではないのか。
件のまとめも、定義がどうのと言わず意図を読み取ろうとすれば読み取れるわけで、またつまらない揚げ足をとって、他者の発言を理解しようとしていないではないか。ラノベオタクというのは基本的に他者に対する興味が乏しい。世間の人々は平凡な言葉にアドホックな意味を込めて使うが、ラノベオタクはそういった辞書的定義から外れた言語使用を嘲笑して、そんなものは厳密な言語ではないからと認めようとしない。これは他者を理解しようという意志がないということを意味する。要するにラノベオタクにとって世界に他者は存在せず、自分しかいない。だから自分の攻撃性には無自覚で、簡単に人を傷つけ、ひどい差別語で罵るようなことを毎日やっている。
ラノベオタクはたくさん読書をしているのに、想像力が貧困で、人文科学を蔑視し、科学主義に凝り固まっている堅物でしかない。そして彼らは自分たちこそ真に教養ある知識人だと思っていて、自分たちのやり方以外のもの、自分たちの思考様式を外れたものは非科学的で嘲笑すべきと思っている。これによって出来上がるのは他者に対して不寛容な厄介なおっさんなのである。
まず、自分が考えてることを整理して、ちゃんと他人が理解できる文章にできる力を手に入れることが先じゃないかなぁ。
ロジカルシンキングを伸ばしたいのか「論理学」そのものについて学びたいのかがよくわかんないし。それと、論理学そのものが増田さんがいう「教養」とか「審美眼」に繋がるかが疑問。
とりあえず、最初に指摘した件については「考える技術・書く技術―問題解決力を伸ばすピラミッド原則」っていう本おすすめです。
余計なお世話だったらごめんなさい。
とりあえず質問に答えると、戸田山和久の『論理学をつくる』とかが定番
しかし目的であるところの「教養」や「審美眼」を論理学によって身につけられるかっつったらすげえ疑問
もちろん論理は学問を基礎づけている重要な要素ではあるが、論理学として本格的に学ぶような定理やらを使って自然言語を解剖しながら読み進めるなんてしんどいし、少なくとも「教養」や「審美眼」やらを身につける段階ではする必要もないだろ
とりあえず何でもいいから一つの分野を物にして「世界を切り分ける」ための視点を手に入れるというのは悪い戦略ではない
でも、そうやって得られるものはどちらかというと、世界を細かく分節して深く知るための武器であって、元増田が求めてるような幅広い知識を得るための手段としてはちょっとズレがあると思う
俺のおすすめの戦略は各分野で定番とされている入門書を一通り読むことなんだが、まずはそれらを探し当てるための検索スキル(検索エンジンに限らず、人とか図書館を使って調べる技術)が必要なんで、そういう探し当てる技術ってのを手に入れるのが最短ルートじゃねえかな
というわけで元増田はまず井上真琴『図書館に訊け!』を読むのだ
ネットで知識を漁るのは、本で基礎を身に着けてからにした方がいいと思う
よい記事、よい書き手をふるいにかけるための基礎知識を押さえといた方が楽だし早いし安全だ
俺の書いたクソ文章も信用すんな
タイトルの通りです。