はてなキーワード: 米光一成とは
東浩紀さんが中心となって出した「ゲンロン8」ゲーム特集の内容について、主にゲーム開発者の方々が批判して炎上している件。
ざっと見た限り、電ファミニコゲーマー編集長の平信一さんのtwitter・Facebook周辺が一番熱いようです(東浩紀さんご本人の他、イシイジロウさん、米光一成さん、大前広樹さん、濱津英二さん、島国大和さん、多根清史さん、清水亮さん、川上量生さん、やまもといちろうさんなどもコメント。平さんご自身は、ものすごく冷静ですが)。
中でも、痛烈に批判しているのが、ゲーム開発者の岩崎啓眞さんのようです。
Facebookの公開投稿も検索して見てみたのですが、岩崎さんの以下のコメントが箇条書きでまとめられていて、わかりやすい。
https://www.facebook.com/jun.okada.906/posts/2082518138456655
岩崎 啓眞 今回、ゲンロン8を読んだことで本当に思ったこと。
1)ゲームは技術と複雑に絡み合ったプロダクトであり、フルタイムで仕事にしている人間とそれ以外でとんでもない差がある。
2)特にスマートフォンになってからは出る数も膨大になり、そもそもの調査の段階からフルタイムVSアマチュアでは差が出てしまう。
3)技術を知らず、調査しきれない人間と調べないとリングに上がることもできない世界で生きている人間では「基本のラインが違いすぎる」
4)結論:作り手と同じレベルの話を出来るようになってから来い。
最初は怒ったけど怒る気すらなくなった。
なかなかすごい。
しかしこれはどうなのでしょう?
銀座のいろんな寿司屋にけっこう通ってる客が「サーモンはA店、まぐろはB店が旨い」などと語っていたら、
寿司屋の大将が「サーモンは輸入なンだからどこの店だって同じでぃ。素人は寿司を語るな」と言っているようなもののような気がします。
サーモンに関しての事実誤認に関してはそうなのでしょうが、だからって寿司を握った人でないと寿司を語ってはいけないというのは言い過ぎではないでしょうか。
岩崎啓眞さんがふだんどのようにゲームを語っておられるのかと思って、ググってみて、最初に「「レベルを上げて物理で殴る」の素晴らしさをゲームデザイナー視点で語ろう。ドラクエで学ぶ「RPGメカニクス」の3大メリット【ゲームの話を言語化したい:第四回】」という記事を見つけました。
その中に、以下のように書いてあります。
http://news.denfaminicogamer.jp/column05/170905b
プレイヤーがバトルに敗北したとき、『ドラクエ』は経験値やキャラクターをロストせず、所持金を半分にして、最後に訪れたリスポーンポイントから復活させるシステムなのだ。
「最後に訪れたリスポーンポイント」と書いていますが、ドラクエ1のリスポーンポイントはラダトーム王の1マス下のひとつだけで他にありませんので、「最後に訪れたリスポーンポイント」の部分は正確な表現ではありません。
http://news.denfaminicogamer.jp/column05/170905b/2
1. プレイヤーはひとりで旅を始める
→これは『ドラクエ』と同じ構造にしてプレイヤーの負荷を下げるため
→ここも『ドラクエ』とほぼ同じ構造になっている。なお『ドラクエ』というゲームの偉大さのひとつは、このチュートリアルを30年経ってもやることだ
とありますが、ドラクエ2の1人目のプレイヤーキャラ(ローレシアの王子)は魔法(より正確には呪文)は使えませんので、4の「ふたりめの王子(引用者注:=サマルトリアの王子)がパーティに加わる」前の話なので、「2. アイテム・装備・魔法の使いかたを覚える」の「魔法」の部分は事実誤認です。
このように、ゲーマーの基礎教養であるドラクエ1・2に関しても事実誤認があります。
実はやってないのでしょうか? うろ覚えなのでしょうか?
このような事実誤認によって、この記事全部が意味がないものになるかというとそんなことはなく、変わらず大変興味深い指摘だと思います。
「事実誤認を見つけたからこの本・記事は意味がない」という姿勢はいかがなものか、ということです。
そんなことはないのでは。
事実誤認があれば指摘して、著者も素直に訂正し、それとは別に議論を深め、ゲームに対する言論を高めていく、というのが健全ではないでしょうか。
だって、ゲームを本気で語ろうなんていう人たちの規模はこんなにちっちゃいんですから。
ゲーム開発者が、ゲームの遊び手がゲームを語るのを弾圧するっていうのは本末転倒では。中国政府ですか?
ゲーム開発者の方は映画やアニメを語るのが好きな人も多いですが、「映画(アニメ)作ってないお前に語る資格はない」って言われたら嫌でしょ?
あとオンラインゲームやオープンワールドやスマホ・ブラウザゲームなどはメジャーなものだけでも全部まともにやるのは、一般社会人にとっては時間的に不可能な現実もありますので、「このゲームすらやってないのか」的な言いがかりも、いまの時代、やめた方がいいのかなーと。
全部やるのは無理だから、教えあうしかないんじゃないですかね。
https://www.facebook.com/TAITAI999/posts/1977782982291793
じゃあ一方で、ゲーム業界側(ゲームメディア含む)が、その”正しい認識の歴史”とやらをきちんとまとめるなり、伝えるなりしてきましたか?というと、少なくとも僕は見たことがないんですよね。(…)
つまり、いわゆる“ゲーム業界人”(あるいはコアゲーマー)は、長年の経験を踏まえて正しい文脈を知っているかもしれないけど、それを整理して残す努力はしてないんじゃないかと思うのです。それって、僕からすると「ゲーム業界側の負い目」に思えてしまう(少なくとも、ゲームメディアがやれてこなかった仕事だと思う)。そりゃ、業界の外の人が分からなくて当然だろうと思うのです。
とおっしゃっているので、平さんあたりが音頭を取って「ゲーム業界人から見たゲームデザイン史」的なものを作ってくださるのも素晴らしいと思います。
今回の議論でもある通り、ゲームには作り手でないとわからない高度な技術的な側面がありますので。
あ、ただ、それを「正史」にする、という発想はまた違う気もしますけども。
映画業界人が作った「映画正史」とか、小説家組合が作った「文学正史」みたいのはあまり聞いたことないので。作り手が主張する歴史が正史だ、っていうのも、なんか中国政府っぽくないですか?
そして最後にゲーマー日日新聞J1N1さんのこの部分を引用しておきたいです。
そこで自分が言いたいことは一つだけ。自分たちのゲームは自分たちで語るべきだということだ。
自分たちのゲームを語り、周囲の人や後世の人に伝えるのは、自分たちしかいない。批評家や評論家の肩書を持った偉い人たちや、経済的な課題を常に抱えるメディアに、全て丸投げする程期待してはならない。
http://anond.hatelabo.jp/20100127001517
さらにヴァージョンアップさせるとこうなる。
この時期になると大学生向けに読むべき100冊みたいなリストが出回る。
あんなリストを真に受ける人も少ないだろうが……はっきり言って悲しくなるくらいお粗末だ。
ずらっと並べられた古典名著。あまりに埃の被ったラインナップにがっかりする。
こういった学問には「原書病」とでも言うべき、くだらない風習が根強く残っている。
原典や本文を極度に重視するのは不健全だ。それ自体は面白いとしても、その後発展と整理を経て洗練されている。
歴史的興味以外であえて出発点に戻る価値はすごく小さい。そんなところに本当の「教養」は存在しない。
難解で時代遅れな文章と格闘したって、趣味以上のものにはならないし、考える力は湧いてこない。絶対誤読するし。
そこで本当に頭を強くしたい人が読むべき書籍リストというものを作った。
これは単なる学問という空気に浸ってみたい人が読むものじゃなくて、日常に根ざした本物の力を分けてくれるものだ。
この100冊さえ読めば考える素材に困らないだけでなく、コミュニケーションの強者にもなれる。
飲み会で古臭い古典の話をしたって煙たがれるだけだが、この100冊をネタにすればそんなことにはならないし、
黙考はずいぶんと深くなるし、ブログのネタに応用すれば必ず一目置かれる。
選んだのは現代的で網羅的、そして極めて平易なもの。どの分野にも精通できるように色んなジャンルのものを配置した。
この100冊を大学生活のうちに読み切れば、必ずや一生の財産になるだろう。
ここに挙げられた本が、現代最新型にアップデートされた真の「教養」だ!
『逃走論』 浅田彰
『アメリカン・コミックス大全』 小野耕世
『よいこの君主論』 架神恭介
『おまえが若者を語るな!』 後藤和智
『シミュレーショニズム』 椹木野衣
『箆棒な人々』 竹熊健太郎
『新しい「マイケル・ジャクソン」の教科書』 西寺郷太
『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』 ばるぼら