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はてなキーワード: 指輪物語とは

2017-11-08

anond:20171108101404

獣の奏者」読んでるんなら、同じ作者で「狐笛のかなた」(少し恋愛要素が入る)。

指輪物語」読んだなら、作者同士がお友達ということで「ナルニア国物語」。


そんなつながりで読んだら?


まあ、古典として「ゲド戦記」と「はてしない物語」(個人的には同じ作者の「モモ」)ぐらいは読んだほうがいいのかもしれないが、無理に読むもんでもない。

「盗まれ記憶博物館」「パーラ」のラルフ・イーザウは、はまる人にははまるかも。

ソフィーの世界」で有名なヨースタイン・ゴルデルも、好きな人は好きだな。理屈っぽいのが嫌ならやめといたほうがいい。


他のトラバでもあったダイアナ・ウィン・ジョーンズは、「クレストマンシー」のシリーズおすすめ。それ以外は、あえて勧めない。かなりパンクで、頭がクラクラするようなのが多い。

まり売れてない本だが、「リリー海賊身代金」は、ちょっとおもしろかった。

アルテミス・ファウル」は、おもしろいと聞いてるが、読んでない。どうなのかね?



以上、ウチの本棚から厳選してとりあげた。

凄い面白いファンタジー小説が知りたい

今まで読んだことのあるファンタジーラノベ含む)

狼と香辛料

ゼロの使い魔

アリソン

ロードス島戦記

ベルガリアード物語

デルフィニア戦記

ハリーポッター

指輪物語

空の鐘の響く惑星

鋼殻のレギオス

烙印の紋章

シャングリ・ラ

家守綺譚

獣の奏者


あれ。全然読んでいない。

恋愛物がいいなぁ


【追記】

ギャッ!ホッテントリに入ってる!!

沢山のトラバブコメありがとうございます><

昼過ぎに出先から戻ってきたら全部チェックします。

【追記2】

ブクマが500を超えている!!

ありがとうございます

トラバブコメで紹介してくれた作品エクセルで表にして管理させていただきます

これで今後10年は読む物に困らない!!

2017-09-19

anond:20170919113647

すでにツッコミまくられてるけど別にヨーロッパ限定じゃないし既存作品もそうでしょ。

昔のヨーロッパというより指輪物語からさらに変形したJRPG世界観が基礎になってる作品ばかりじゃん

というか「異世界から自分勝手世界を作れる=歴史的文化的ツッコミを受けづらい」からこそ書き手もいっぱいいるわけでさ

2017-06-19

https://anond.hatelabo.jp/20170619112815

少年漫画ならハガレン小説なら精霊の守り人十二国しゃばけ烏に単は似合わないとかファンタジーブーム火付け役ハリポタからか、近年話題になったのを上げてくと女性作家が多くて、最近出て来てる男性ファンタジー作家萌え系にジャンルが偏ってる感じがする。

ベルセルクとか指輪物語とか男性作家ももちろん好きだけどファンタジー女性作家が弱いジャンルではないよ。

てゆか栗本さんが女性だと知らんレベルから硬派を読んだら男性作家自動変換して勘違いしてんじゃね?

2017-05-03

http://anond.hatelabo.jp/20170503101016

たいてい自動翻訳スキル付与されるので何のエクスキューズもなく言葉が通じるほうが珍しい。

というかこの手の「ジャガトマ警察」的なツッコミは「異世界固有名詞日本語翻訳している」という指輪物語方式だということにすれば済む。

世界転生よりも手垢がついているツッコミドヤ顔披露してんなボケ

2017-02-24

http://anond.hatelabo.jp/20170224115351

何か勘違いしてるようだがSFは「science fiction」つまり科学が題材ならSFというジャンルに含まれから

ガンダムミノフスキー粒子っていう嘘科学を元に作られたSFだし、

マジンガーZ光子力という架空エネルギーを設定してるからSF

スーパー戦隊だって動力源を設定してたらSFになるよ。

ハリーポッター指輪物語SFじゃない。

最初から魔法科学とは別物として描かれているから。

けものフレンズサンドスター周りは科学とは関係ないと言われたらSFとは無関係になる。

その作中の登場人物は「これは科学」と認識していれば科学であり、それが現実になく再現できないものならSFになる。

 

とにかく作品の基盤として嘘科学が要素としてあればSF代表作という扱いにならなくとも

SF作品の1つという扱いにはできる。

それくらいSFは器が広いと考えて欲しい。

女の子が出て来たら萌えジャンルくらいの認識であってほしい。

その中でSFという要素が前面に押し出されてて話にボリュームがあれば純SF文学とでも言えばいいのだろうか?

そういう扱いになる。

ただし、それ以外はSFになれない、SFとは認めないというのは話しがおかしい。

もし海猿現実ではないような海底探査メカが出て来たら海猿SFになる。

それくらい温い認定

からこれはSFだとかSFじゃないとかっていうのは持ってる定規からしてまず間違ってる。

SFという名の定規自体はそんな厳しいもんじゃない。

SFをメインテーマに扱った上でヒットするという条件が厳しくて、

その代表作をもってしてこれ以外はSFじゃないと主張する、その主張がおかしく間違っている。

スターウォーズSF要素を前面に出して売れた作品ではないことは分かる。

やってることは冒険活劇の宇宙スケール版だから

ただし根幹の設定からSF要素は外せないのでこれはSF作品の1つだ。

2017-01-10

オークって初出指輪物語?で、ぜんぜん豚人間ってわけでもないんだな

人間イメージあったから驚いたわ

2017-01-05

戸田奈津子尊敬されるための唯一の方法

インタビュー字幕翻訳者戸田奈津子さん「エッ?と思う字幕は、どこかおかしいの」

https://www.buzzfeed.com/eimiyamamitsu/interview-with-natsuko-toda?utm_term=.bhpJ8y62dK#.pf3GDwzR2e

 

を読んだ。全体的には一方的自己弁護を垂れ流すだけの提灯記事だが、インタビューという性質上これは仕方のないことなのだろう。この記事の良い点は、戸田奈津子という人の見当違いな自己顕示欲を浮き彫りにしているところだ。

 

「叩く扉もなかった」字幕翻訳という仕事に、その道の第一人者に直接食らいつくようにして取り組んでいった前半生は感動的でさえあるし尊敬もしよう。しかし一人前として仕事を任され、一定の地歩を固めつつあった頃には、質的研鑽よりも量的なアピールに重きを置く仕事ぶりだったことがよく分かる。

 

それは時代というか当時の映画産業要請でもあって、戸田個人責任を帰すことも出来ないだろうが、何度も立ち止まるチャンスが有ったにも関わらず、過剰な自信に満ちた「職人魂」みたいなもの自分を虚飾したい一心で、本質的には作品奉仕するべき字幕翻訳者のあり方を歪めた自己像を描出し、直そうともしなかった。それがこのインタビュー記事表現されている「字幕翻訳女王」の実態だ。彼女はことあるごとに「文字数自由だし調べ物にもゆっくり時間をかけられる文芸翻訳とはわけが違うのよ」式の言い訳師匠発言の一部を都合よく切り取ったものだ)をして、質を犠牲にしてることを棚に上げて早業自慢を繰り返すが、この記事もまさにその例を一歩も出ていない。ほとんど馬鹿の一つ覚えだ。

 

せっかく日本一名の売れた字幕翻訳者になったんだから個人の早業を自慢するよりも、字幕質的向上のために制作・配給側が用意する時間予算の拡充をアピールするのが筋なんじゃないのか? と私などは思うのだが、そんなことは自己否定になりかねないのでできない。映画や観客より自分大事からだ。徹底して裏方仕事に向いてない性格なのに(だからこそ喰らいついていけたとも言えるが)、なぜか字幕翻訳者なっちゃった人で、その上根っからダンピング体質なんである。広く「第一人者」と呼ばれるものの最悪の事例として歴史に記録されるに値する人物だろう。

 

戸田字幕の具体的な問題点については、今ではある種のネットミームと化していて、山のように検証を綴ったページがヒットするので、ここでいちいちあげつらうことはしないが、この記事を読んでそれらガッカリ字幕根本的な原因を確信できた気がする。戸田奈津子自身映画作品に対する理解力が低いのだ……というのはあまりにも失礼なので、観客(想定読者)の理解力を低く見積もりすぎ、と留保つきで言うべきなのかもしれないが、とにかく画面に映っているもの脚本に対する読解力が低い翻訳をしてしまっている。軍事用語や「指輪物語」の専門用語に通じてないせいで勝手流に造語ちゃうみたいなことは、専門の監修者をつければ(それさえ不服のようですが)済むことだが、理解が浅いまま手癖で字幕をつける悪癖についてはせめて直そうとする姿を見せてほしいと思う。

 

どんな作品であれ受け手によって読み出せる情報量は変わるものだが、戸田字幕はその理解力の設定が最小限になってるみたいな字幕なのだ。そんなとこを端折ってしまったら、まるで子供の頃に見た「大人映画」のように途中で筋が追えなくなるだろうな、と思うことさえある。一通りセリフが聞き取れるとか、背景知識も揃っているような人間が見ると「エッ?」となるような訳を乱発してしまっているのである。これは映画字幕という表現媒体のものの制約なのだろうか? 単に投下すべきコスト時間人員)をケチってるだけじゃないのか? なにしろ理解力が乏しいゆえにかえって回りくどい表現をして、大切な字数を浪費している例さえあるのだ。単にこなした本数が多いから下振れが記録されているだけと擁護することも出来るが、それを言うとかえって早業自慢の露悪性が強調されるというものである

 

そして戸田字幕に感じる理解力の低さ、雑さの遠因が、このインタビューでは明らかにされている。ただの映画ファンとして、「作品ファン」としての経験を積まずに映画を見まくった原体験が、映画を十分理解せずに、ざっくりと筋がわかれば(たまにそれにも失敗する)いい、という仕事を次々とこなすことを良しとする「映画字幕女王」を産んだのだ。それは映画というもの立ち位置が変わってしまった現在には全くそぐわない態度であると私は思う。

 

多くの人が週末には何かしらの映画を見て、学生なんかは金の続く限り映画館に入り浸って、それ自体が楽しみで、何度かに一回面白いものがあったら儲けもの、といった時代はとっくに過ぎ去った。多少荒っぽい仕事があっても、「まぁそんなこともある」と納得してすぐにまた映画館に足を運んでくれる観客は絶滅危惧種と言っていい状況で、「とりあえず筋の追えるものを今週中に」みたいな品質でつけられた字幕を使う理由ほとんどないと言って良いんじゃあるまいか。なにもタコツボ化したマニアけが字幕翻訳者理解不足を責めているのではない。字幕スクリプト情報量100%伝えろという不可能要求しているのでもない(そんなことを言ったら、原語が完全に理解できても伝わらない部分は常にある)。娯楽が多様化する中で、金と時間を使うに値する丁寧な仕事競争できているか問題なのだ

 

そもそも多くの映画は長い時間をかけて作られるものだ。製作に着手してから数年かかることはザラだし、驚くべき短期間で撮影が終わったというような作品でも、原作を読み込んで脚本化するのに何十年もかけていることだってある。そしてそれを待つファンも何十年越しで待っていることだってある。それだけの労力と期待を集めて公開される作品最後工程に、パッと見の印象を伝えるので精一杯みたいな字幕がついていて良いのだろうか? 日本人英語力の向上には役立つかもしれないが、自分で聞き取れるようになったからといって問題が無くなるわけではない。「自分は内容がわかっても、あまりにも作品無理解字幕がつけられていることに耐えられない」という作品ファン心理考慮せずに仕事を続けることは、今や娯楽の王座から落ちて、比較的嗜好性の強いものになった洋画ファンには悪印象しか与えない。それに洋画ファンだけの問題でもない。どんなジャンル仕事であっても、雑な仕事というのはそれに初めて触れる者に「なんとなく面白くないな」という印象を与えてしまものである。それを防ぐために必要なのは、十分な準備期間と作業時間を用意することによって得られる翻訳者の深い作品理解だ。翻訳者に十分な時間リソースが与えられ、一つの作品に使える労力を拡大することのほうが誰にとっても良いことなのではないか? すべての原因を「文字数の制約」や「納期の短さ」に帰することが出来るという甘ったれた足かせを自慢できればそれでいいのか?

 

戸田字幕映画理解力の低さが、意図的に設定されているものではないと疑う理由がもう一つある。戸田字幕翻訳単独作業である理由として、「セリフ言い回しリズム統一するのに余計な時間がかか」るということを挙げている。そんなことを言っていたら、作中でセリフ言い回しリズムを敢えて変えることで、登場人物心理的変化や場面転換を表現する映画原理的に字幕に乗らないことになる。これほど馬鹿な話はない。「こいつは最終的に悪ものになるやつだから最初は丁寧にしゃべってても荒い口調で統一しとくのが親切」みたいな字幕が付けられた映画を、誰が見たいだろうか? 一つ一つの映画作品性質をよく理解しないまま、ちぎっては投げみたいな仕事を続けてきたせいで、どんな映画も同じような構図に当てはまるよう訳すのが当たり前になってしまっているからこそ、セリフ統一感があることが「透明な字幕」の必要条件だという勘違いを起こしてしまうのだろう。映画が転調したときには字幕も転調するのが「透明な字幕」で、そのためには複数視点必要になることだってある。脚本演出意図を読み違ったまま、理解をし損なうことは避けられないからだ。いつまでも「一人の字幕翻訳者が短い期間で理解できた範囲」としての映画字幕が作られ続ける状況を肯定することは、この人の取るべき道ではない。それは決して映画のためにはならない。

 

ロード・オブ・ザ・リング」の第二作以降は、原作翻訳者スクリプトの全訳を事前に行った上で、それを参照して戸田字幕作成し、改めてチェックを受けるという体制が敷かれたようだ(インタビューではその経緯をまるっきり無視していて、結果的に監修者の仕事を貶める傍若無人ぶりが表れている)が、これに似たことが常識的に行われるように働きかけしているんですよ、といった風のアピールをするほうが、「第一人者」としての尊敬を集めるのではなかろうかと私は思う。

  

現在洋画の年間公開本数は80年代末以来の第二のピークを迎えている一方、戸田仕事は当時の1/5近くまで減っている。文芸関係に限って言えば50歳ごろに確立した仕事のペースを守っている80歳なんていくらでもいるので、年齢のせいばかりでもないだろう。その事自体戸田翻訳者待遇改善に取り組んだことの証左だと弁護することも出来るかもしれないし、実際にセリフ聞き取りながら見て「ここをこうやってまとめるのか、上手いなぁ」と思える翻訳者が増えてはいるので、まぁ戸田奈津子問題ある訳というのも、そろそろ過去の話だよね……と最近は思っていたのだが、私はこのインタビューを読んで気が変わってしまった。やはり早いとこ全面的に後進に道を譲って、ご自身字幕翻訳質的向上のために翻訳者待遇改善する言論を起こされるなどしたらいかがだろうか。それが名の売れたものの使命と思ってはもらえまいか。いい年してよいしょインタビューに答えて、自分の大ポカで迷惑をかけた監修者の名誉を傷つけるような非道言い訳を垂れ流している場合ではない。

 

さら早業自慢を封じられるのは、自己認識からすれば転向に映るかもしれない。ひょっとしたら一気に老け込んじゃうかもしれない。しかし、昔よりずっと観客同士の横のつながりが強くかつ広範囲で、作品についての情報も手に入れやすい今だからこそ、字幕翻訳要求される水準が上がっていることを認識し、それに適切に対応するように送り手たちに働きかけをする姿は、映画ファンの心に強い印象を残すはずだ。個人的な快刀乱麻の仕事ぶりを自慢するのはもうやめて、業界全体で作品の質に貢献する、充実した作業環境を残せるよう声を上げる好機なのではないか。それでこそ「字幕翻訳女王」としての尊敬を集められるのではないか。今のままではせいぜい良くて「時代の徒花」といったところである

2016-12-05

http://anond.hatelabo.jp/20161205155103

それもう揚げ足取りに堕してるでしょ。

あえて言うならACは「遠い未来地球です」と言われて違和感はない。

まあ、そういうと指輪物語も設定上は遠い過去地球の話だから・・・という話になって、

そのあたりの区別が難しいかファンタジーSFの切り分けが困難になってるわけだけどな。

2016-11-02

http://anond.hatelabo.jp/20161102162639

硬www派wwwなwwwファwwwンwwwタwwwジーwww


指輪物語氷と炎の歌でさえ

信者が「硬派なファンタジー」とか言ってたら馬鹿にされるのに

FFで硬派とか腹筋シックスパックやわ

2016-09-20

ハイファンタジーの名作を教えて欲しい

ただし指輪物語とか十二国記とか、もう古典というかド定番ラインは流石に読んだのでそれ以外が良い

できれば20年以内に発売されたものが良い

2016-07-22

日本人指輪物語でいうとゴラム(スメアゴル)に似ている

日本人ゴブリンに似ているという人が多いけど実際にはゴラムに似ていると思う

陰湿なゴラム良心的なスメアゴルという感情を使い分けるのは日本人本音と建前に似てる

邪悪指輪の力に魅入られ孤独人生を歩むのはアニメゲームに夢中になる日本人そっくり

ホビットなので身長が低く 火を通さな食事を好むのも似ている

2016-07-12

ハイファンタジー」の定義をめぐる問題

小説家になろう」のジャンル再編の影響で、「ハイファンタジー/ローファンタジー」の定義について議論になっている。

http://syosetu.com/teaser/genre/

問題の原因は、「ハイファンタジー」の定義が、異世界舞台としたファンタジー異世界歴史文化が作りこまれ重厚ファンタジーとに分裂している点にある。特に後者定義採用している人物が、Web小説ライトノベルファンタジーを指して「あんものハイファンタジーではない」と発言し、周囲の反発を招くことが多い。以下、便宜的に前者を「舞台」派、後者を「重厚」派と呼ぶ。

まずは「小説家になろう」の定義を見てみよう。ジャンル改編に際しての説明の中で、「なろう」の運営は「ハイファンタジー」を以下のように定義している。

ハイファンタジー

現実世界とは異なる世界を主な舞台とした小説

ローファンタジー

現実世界に近しい世界ファンタジー要素を取り入れた小説

まり舞台」派である異世界転移系の扱いについて当初は混乱があったが、「主な舞台」が異世界であれば、異世界転移系でもハイファンタジーに分類するのが、「なろう」基準では妥当だと思われる(実際に多くの作品がそう分類されている)。

次にWikipediaを参照しよう。

ハイファンタジー (High Fantasy) は、ファンタジーサブジャンルの1つ。「異世界ファンタジー」と呼ばれる事もある。

独自世界観や歴史もつ架空世界異世界)を主な舞台とし、現実世界(の直線的な歴史風俗)とはかかわりが薄いのが特徴の物語で、ロー・ファンタジーと対比して使われる語句である。明確な定義ではないが、

どうやら「舞台」派の定義採用されているようである

ただし続けて、

本稿では主にハードファンタジー視点とした内容を記述する。

として、「その世界に生きる者や世界の成り立ちそのものから作られている」「作品傾向としては重厚」「シリアストーンで進行する」「叙事詩エピック)的である」「勢力の壮大な対抗をテーマとする」などの特徴が挙げられている。「重厚」派にも配慮した記述と言えよう。また、異世界転移系は基本的にはハイファンタジーに含めるが、ときに分類されないことがあるとも書かれている。

英語版Wikipediaも見てみよう。筆者に英語力は皆無なので誤訳もあろうかと思うがご容赦願いたい。

High fantasy is defined as fantasy set in an alternative, fictional ("secondary") world, rather than "the real", or "primary" world. The secondary world is usually internally consistent, but its rules differ from those of the primary world. By contrast, low fantasy is characterized by being set in the primary, or "real" world, or a rational and familiar fictional world, with the inclusion of magical elements.

ハイファンタジーは「現実世界」とは異なるもう一つの架空世界を描いたファンタジーとして定義される。異世界の内側には一貫した法則性存在するが、それは現実世界のものとは異なっている。対照的にローファンタジーは、現実か、もしくは現実に近い架空世界の中に、魔法的な要素が内包されるという点で特徴づけられる。

やはり「舞台」派である

ハイファンタジーにしばしば含まれる特徴的な要素として、「特別な才能を持った主人公」「ビルドゥングスロマン」「善と悪の対決」「エルフドワーフゴブリンドラゴンなどの種族」「魔法使い」「人工言語」などが挙げられている。

また、「異世界召喚ものであるナルニア国物語』は、こちらでもハイファンタジーに分類されている。

重厚」派の一部には、「エルフゴブリンが出てくるようなゲーム的なファンタジーは(始祖たる指輪物語を除いては)ハイファンタジーとは言えない」とか、「善なる英雄が悪を倒すというようなファンタジー(いわゆるヒロイックファンタジー)はハイファンタジーではない」とする者たちも存在するが、英語版Wikipedia記述は彼らの主張とは異なるように思われる。

ローファンタジーの項目では、

The word "low" refers to the level of prominence of traditional fantasy elements within the work, and is not any sort of remark on the work's quality.

「ロー」という言葉は、作品内における昔ながらのファンタジー要素の度合いについて語っているもので、作品品質についてのことではない。

などとわざわざ書かれていることにも触れておこう。

ちなみに英語版Wikipediaが「High Fantasy」の命名者として指定しているLloyd Alexanderのエッセイ『High Fantasy and Heroic Romance』(1971)はこちら。

The Horn Book

In modern literature, one form that draws most directly from the fountainhead of mythology, and does it consciously and deliberately, is the heroic romance, which is a form of high fantasy.

現代文学において、神話という水源から最も直接的に流れを汲んだ一つの形態として、それは意識的かつ意図的ものだが、ハイファンタジーの一形態であるヒロイックロマンスがある。

微妙に訳しづらいのだが、要するに「神話を源流とするヒロイックロマンスハイファンタジーの一形態である」としてしまってよいのか。

さらヒロイックロマンスで高い評価を得ている作家として、『世界のかなたの森』のウィリアム・モリス、『ペガーナの神々』のロード・ダンセイニ、『ウロボロス』のエリック・エディスン、『マニュエル伝』のジェームスブランチ・キャベル、『ナルニア国物語』のC・S・ルイス、『永遠の王』のT・H・ホワイト、そして『指輪物語』のJ・R・R・トールキンらの名前が挙がっている。

ハイファンタジー定義を具体的に説明している箇所は無く、あまり参考にならないような気がする。

実際に「ハイ異世界」「ロー=現実世界」が明確に定義された最初期の例としては、R.H.BoyerとK.J.Zahorskiによって編纂された『Dark imaginings』(1978)の序文がある。

Dark imaginings: a collection of Gothic fantasy - Google ブックス

Dark Imaginings is also unique in bringing together two distinct types of fantasy under one cover: High Fantasy with its imaginary, secondary worlds and Low Fantasy with its realistic primary world.

想像上の異世界を扱ったハイファンタジーと、現実的なこの世界を扱ったローファンタジーという、二つの異なるファンタジー類型を一冊にまとめている点もDark Imaginingsの特徴です。

これで少なくとも「舞台」派の用法が、ごく最近になって現れたものではないということが分かる。

もちろん、これをもって「重厚」派が完全に否定されるわけではない。

昔は「異世界舞台にする」といえば「異世界歴史文化を作り込む」のがほとんど自明だったのだろうし、また現在ほどの多様なファンタジー形式を想定していたとも思えない。

ただ、とにもかくにも現代においては「ハイ異世界」「ロー=現実世界」という区分けのほうが、より明確で、より普及し、より平和であることは間違いない。

追記

ハイファンタジー」「異世界ファンタジー」を巡る問題についてはこちらも参照のこと。

『ロードス島戦記』は異世界ファンタジーではない……のかもしれない。 - 限界中年生存日記(仮)

追記2。

異世界召喚もの」についてもう少し言及しておく。

舞台」派を採用するならば、多くの「なろう」系作品ハイファンタジー問題ないと思われる。

多くの場合ナルニアハイファンタジーに分類されるのであるし、主人公知識現実に由来するものであっても、作品舞台異世界であることは紛れもない事実からだ。

ただし「異世界かどうか」の判断は実のところ難しい。

たとえば、ハイファンタジー代表格たる『指輪物語』の世界は、現実地球古代の姿であることが明言されている。

ハリー・ポッターシリーズホグワーツ魔法魔術学校は、まるで異世界のように描かれつつも、設定では「イギリスのどこかにある」とされる。

深く考えるほど、異世界舞台にしているか現実世界舞台にしているか判断するのは困難となる。

2015-08-04

http://anond.hatelabo.jp/20150804121911

ダンまち最大の問題は、アニメめっちゃくちゃ面白いんで、原作擁護に傾いちゃうことなんだよなぁ。

指輪物語とか、風と共に去りぬとかジュラシックパークなど、ほぼ学者訳者による和訳古典なんかも結構よんだけど、文章は丁寧で正確無比でも絶対的文字数が多く読みづらいし、雰囲気も逐一細かく描写しているけどその描写に一ページをまるまる使ってたりと読み解くのに5分から10から時間がかかりすぎて、文章から脳内イメージが浮かぶ前に次の文章を読み解く方向に思考が使われちゃって、せっかく構築したイメージ霧散する状態になってしまい、つまらないことこの上なかった。

原作面白いと再認識したのは、映画を見て世間一般で使われる共通イメージ自分の中に身につけて定着してからの、再度読破に挑戦して読了してからだねwww

ラノベのよさは、あいまいさとスピードと、雰囲気だと思う。

すべてが頭の中に湧いてでてきて、なおかつひととおり消費するまで映像と音声が残ってる、安くて美味くて速い感覚

加えてストーリーアンチが突っ込めない程度のつじつまが合ってキャラクターアニメセオリーどおりなら言うことないわ。


ただこれだといわゆるケータイ小説肯定せねばなくなってしまう。

ぐぬぬ

2014-11-22

http://anond.hatelabo.jp/20141122132637

記事読んでみたけど、まあ典型的メンヘラで、こういう人の主張を真面目に受け取る必要はないんじゃないの。「メンヘラと呼ぶな」というその発想からして頭悪いよね。

しかし、今ちょっと思いついたが、「名前を言ってはいけないタイプのあの人」とでも呼べば満足してもらえるかもしれん。指輪物語とかハリーポッターみたいな感じで。

2014-09-11

魔法使に大切なこと

もうじき無職童貞のまま三十歳を迎えるのだけど、

なにか魔法使いとしてふさわしいお祝い(風俗除く)ってあるのかな?

有意義誕生日のすごし方を考えてみたい。

このままだと例年通り、両親とケーキを食べ、

本を読んで音楽を聴いてすごすだけで終わる気がする。

それも悪くはないのだけど、せっかくヤラサーとなるのだし、

ちょっと趣向を凝らした、気の利いたお祝いを考えたいな。

話は変わるけど『指輪物語』の瀬田訳(だったかな、うろ覚え)で、

灰色ガンダルフが「魔法使い」じゃなく「魔法使」と送り仮名なしで表記されてて、

ちょっと格好いいなと思った。

自分ガンダルフのような偉大な魔法使になれるのかなあ?

このままみすぼらしい貧乏おっさんとして一生を送るのはイヤだなあ。

0916追記

誰も見てないと思うけど追記。

ブコメ意見を見てたら引っ越しもいいな、とか思いました。

しゃべる黒猫はいないけど、どこか遠くの土地引っ越し隠者みたいな生活を送りたい。

2014-09-05

http://anond.hatelabo.jp/20140905003920

ヴォの人はハリポタで、サウロン指輪物語っぽいよ。

後に英国魔法界を混乱に陥れると、多くの魔法使いは恐怖の余り「ヴォルデモート」の名を口に出すことさえ恐れるようになった。そこで彼を示す言葉として例のあの人 (You-Know-Who) 、名前を言ってはいけないあの人 (He-Who-Must-Not-Be-Named) などが用いられる。

かの者(the One)

名を申すをはばかるかの敵(the Nameless Enemy)

名を言うをはばかるかの者(the Nameless One)

2014-04-23

http://anond.hatelabo.jp/20140423062141

ロードス島以前って

D&D時代からエルフは森から出てくるし

指輪物語の時点でもエルフは森から出てくるのでは?

 

そもそもエルフを明確に描いたのはトールキン指輪物語シリーズだと思うけど、

それ以前で、エルフを描いている作品ってあったっけ?

途中でエルフが地下から出てきても、その作品異端なのでは?

2014-01-13

冬馬かずさを待ちながら

きっかけはWHITE ALBUM2のアニメ版テレビ放送だった。

悪いのは、WHITE ALBUM2のアニメがあまりにグレートだったかなのだ

起こったのはごく単純なことで、僕はネットたまたまWHITE ALBUM2 の第1話を見て、久方ぶりにアニメの視聴を開始し、第9話をみて、PS Vita本体と、WHITE ALBUM2のダウンロード版を購入した。それだけのことだ。

そして、アニメ最終話までゲームを開始するのを我慢して、いまこうして正月休みゲームクリアしたというだけだ。遣る瀬ない気持ちでキモいサイトを久しぶりに巡って、こうしてどうしようもなく、テキストエディタを立ち上げて、今これを書いている。

冬馬を愛しすぎていたために、"浮気end"(冬馬ノーマルend)の近くまで全く気がつかなかったが、WHITE ALBUM2の物語構造は、裏返しの聖杯探求譚としての"指輪物語"と同じである。それは、冬馬=トラウマを捨て去る地獄巡りの物語なのだ。また、ここからWHITE ALBUM2の本筋は"浮気end"(冬馬normal end)にあることがわかる。"冬馬end"の"雪菜end"の両者とも、トラウマ想像的に解決するに留まっている。例えば、何でもいい、エヴァでもまどまぎでも、ハッピーエンド二次創作が描かれるのも、それは原作のバッドエンドという現実があるからこそであり、それに根ざした幻想であるのと同じことだ。

ところで、ギャルゲーにおいて、トラウマをめぐる物語はありふれている。ギャルゲー歴史に刻まれるべき致命的な傑作である"ONE", "AIR", "Sense off"の3作品を唐突に思い返してみよう。ONEにおいては、トラウマ積極的表象されない("みさお"という引っかかりのない固有名詞わずかなテキスト)空虚として、"Air"においては観鈴の劇症発作の原因として釣り合うはずのないあからさまな幻想として、"Sense off"においては宇宙人超人類といった誇大妄想として存在している。素朴な作品が、トラウマささやか心理学物語還元するのに対し、先の3作品は、トラウマ表象することの失敗を通じて異様なリアリティを放っていた。

さて、対してWHITE ALBUM2では、凡百の作品と同様に素朴に真正からトラウマを描きだそうとするかにみえる。しかし、それはいったいなんという力技であったろう! トラウマの原テクストとしての、"opening chapter"を思い返してみよう。高校3年生の文化祭きっかけとした主人公ヒロイン二人の三角関係の恋は、悲劇的な結末が予告されている謎めいた空間の中で進展する。自分が恋しているかも知れない女のまなざし、謎めいた行動、ほのめかし、光、音楽ー歌とピアノー、いつ痛みに転嫁してもおかしくない、危うい、享楽にも通じる喜び。無意識がすべて通じ合う、情動的な空間。そこにおいては、超絶ギターソロを一週間でマスターすることなど問題ではなく、高めの女に恋されるという奇跡がおきてもおかしくはないだろう。そして予感は、悲劇成就する。喜びが、光が、その強度そのままにそのまま痛みに転換する。男は女を2人とも失う。女はもう1人の女と男を失う。それは、あまりにも強く3人が結ばれていたことの罪なのだろうーー。

大げさに過ぎただろうか。しかしここまででは、単に良くできたメロドラマにすぎないとも言い得る(その意味では、アニメ版の方が、ほとんどあらゆる意味原作に勝っていると思う)。しかしほんとうに凄いのが、ここからの周到さである。"closing chapter"の入りがいい。校内ラジオからあっけらかんと流れ出す、"届かない恋"と、春希と千晶との会話のシークエンス。そう、ここでは、トラウマの種は、世界にあからさまに薄く広く偏在している。"opening chapter"では2人以外の女がほとんど存在しなかったのに対し、攻略対象の女がギャルゲーならばそれが当然とでもいう装いで追加導入され、唐突に、我々が慣れ親しんだ、おなじみのギャルゲー形式のギャルゲーが始まる。決定的なことはすべて過去に起こってしまった薄闇の世界と、主人公を慰めるための都合の良い女性キャラクターたち。ここではじめて、WHITE ALBUM2は、"ONE"や"AIR"の出発点にたどり着く。しかし、ここには冬馬が、われわれが本当に愛した女はいない。その女は選択肢に現れない。だからここで進行するのは、ひたすら耐え忍ぶ、息の長い治療過程である。注意しなければならない。偏在するトラウマは、たえず現在の些細な出来事をきっかけに、"opening chapter"の各シーンをを縦横に引用しつつ実体化する。"opening chapter"における決定的なシーンのみならず、読んだことを忘れるようなささやか日常シーンさえも、絶えず痛みと後悔をともなう新しい解釈が施される。"opening chapter"のあらゆるシーン、あらゆるエピソード、あらゆるささやかな喜びは、それが不在になってしまった現在に徹底的に対比され、恐るべき呪いに転換される。WHITE ALBUM2がそれを成し遂げるその執念、持続力にには驚嘆せざるを得ない。また、トラウマの作動をここまでつぶさに可視化しえた作品は他に思いつかない。つらく長い治療過程においては、悪霊を追い払うために、3人のキャラクターが生け贄に捧げられ、物語の都合に奉仕させられ、使い捨てられる。そしてついに訪れた結末。そこでは、聖なる原典、聖なる楽曲が、新たな解釈を施され再演されるだろう。アコースティックバージョンで歌われる"届かない恋"。そこにやっとたどり着いた男と1人の女。まさに寛解という言葉がふさわしい、穏やかな時間

ーーそして、唐突に、"coda"が始まる。

冬馬かずさが回帰する。それはまさに運命的な、恐怖とも歓喜ともつなないつかない瞬間であり、われわれはただ滂沱の涙を流すほかになす術がない。これは感動などというものではない、あまりに強烈なドラッグ強制的に注入された生体の防御反応としかいいようのない、デトックスの涙である。われわれが唖然とするのは、冬馬のあまりの弱さ、あまりのいじらしさ、あまりの変わらなさである。なにしろ5年ものピアノ毎日10時間引き続けながら、その実、ピアノを通じて毎日はるきと会話を続けていたというのだ。なんたる痛切な、ほとんど自傷的な喜び。何も変わらない。何も終わってはいない。そして再会を果たした二人は、おたがい避け難い力でからあいながら蟻地獄のような愛の日々に巻き込まれていく。もとより、"opening chapter"の神話的な磁場により張り巡らされたリアリティが、"closing chapter"において、はるきが冬馬曜子の雑誌記事を書くあたりでほつれてはいものの、"coda"のマンションの隣の部屋での生活に至って、ほとんどギャルゲーのように(ギャルゲーだが、、)ほどけさってしまう。われわれは一方で熱が冷めるのを感じながら、しかし、他方では、そこで演じられる距離0の愛の関係、おたがいまる馬鹿のように傷つけ合い、愛し合うほかはないその様子から目を離すことができない。冬馬がもともと備えていたはずの、凛とした、というキャラクター造形は、ほとんど"浮気end"の最後まで見る影もなくなっている。しかしそれは、最後最後に鮮烈なかたちで炸裂する。ふたたび悲しみをもたらすために。ふたたび作品に残酷リアリティをもたらすために。

"浮気end"において決定的なことが起きてしまったあと、いわば、エピローグの序曲ともなる、短い小春日和の瞬間において、ふと、この、ダンテの"神曲"のように長い螺旋を描いて進んできたこの物語総体、ただ一人のキャラクタのためにすべての女が動員される大伽藍起源が問われることになる。冬馬は問いかける。なぜ私のことが好きになったのかと。決定的な問いである。そして春希は惑いもせずに答えるだろう。終局において、作者に課せられたあまりの重荷、あまりの苦難のあまりほとんどシンジ君のように幼児退行してしまった春希が、もともと持っていた率直さ、本当に貴重な少年らしい生真面目さ、控えめな正義感、雪菜も冬馬も本当にそれが好きだったはずの少年ファルスの片鱗を、かすかに遠くこだまさせながら。

顔が好みだったからだよ!

一目惚れだよ!

これが、この巨大な地獄起源だったのである。何とシンプルで、何と美しい言葉だろう。ふと、地獄のなかにぽっかりと真空地帯が発生し、なにごともなかったような日常現実が発生したかのような、はっとさせる言葉だ。大団円といってもよい。我々は涙を飲み込みながら思う。これは、この巨大な物語の終局にふさわしい。しかし、何も終わらない。決して、終わることはできない。だとしても、冬馬は成仏することはない、、、

* * * * *

ギャルゲーにおいて、われわれは徹底的に受け身な、マゾヒスティック主体たらざるを得ない。ギャルゲーにおいては、本来テキストスキップ機能など必要なく、われわれは、永遠とも思える退屈のなか、ひたすら単調にマウスクリックを続け、何度でも、水増しされたテキストをめくり続けるだろう。なにがしかの男らしさを発揮するために、全てのヒロインを"攻略"(ギャルゲーにおいてこの言葉ほど空疎ものがあろうか)し、CGコンプするという仮の目標を設定することはあまりにいじましい偽の能動性としかいいようがなく、雪菜を選んで胸を撫で下ろしたり、"不倶戴天の君へ"に救いを感じてしまうのはヌルオタとしかいいようがなく、よく訓練されたギャルゲーマーは、すすんで空虚のなかに留まり自らの空虚に向き合うことで快感を汲み上げ続けるだろう。そして、画面を閉じてもゲームは終わることがなく、ギャルゲーマーがとるのは、ただひたすらの"待ち"の体勢である。"coda"において、"浮気end"において物語はまた振り出しに、"closing chapter"に戻ってしまった。"opening chapter"の一撃によって生まれた世界は、"coda"によりいっそう強く永遠に閉じられてしまったのだ。われわれは、それらの各シーンをときにふれ思い出しながら、ひたすら待ち続ける。冬馬を。もう一度彼女に会いたい。いや、彼女はいる。われわれは知っている。われわれは、いや、わたしだけが彼女が全宇宙に偏在していることを疑うことはないだろう。

ここにいたって僕に残されたささやかな唯一の希望は、アニメ版2期, 3期においてよりいっそう美しくバーョンアップした冬馬が再臨してくれることである。もう一度お別れをするために。僕は、つまりは、よく訓練されたギャルゲー主体は、さよならをいうために、すべてが終わってしまった後の世界で、はてしなく続く終章のなか、冬馬かずさを待ち続ける、、、

2013-10-25

指輪物語における馳夫さん問題について

あなたの手元に指輪物語の本はありますか?

あるならば、カバーをめくってみて下さい。

版によっては赤い表紙になっている事でしょう。

私達が読んだ・映画で見た指輪物語は「赤表紙本」

と呼ばれるフロド、サム達が記した手記の近代

おける翻訳版に過ぎないのです。

トールキン自身が言うように彼の英語版もそう。

と、考えると色んな翻訳があってもしょうがないんじゃ

いかなぁ思うのです。

そして、あれが誰かの手記である以上、糞つまら

い序章のホビット村の解説もサムが自分の村の歴史を記

たかったんだろうと思うのです。

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