はてなキーワード: 曲解とは
いい力と悪い力があるとする、幸福につながるか不幸につながるか
言葉に力がないのならいったい人間は何によって学び、何によって何事かを成すのだろうな
伝言ゲームになりがちなら妄信と曲解の権化、自分に都合のいい事実の歪曲を止める能力もない
眼中にないそれらを目に入れていなかった故に理解も及ばなかった
思い上がり、自己の失敗や間違いを言葉を理解できない自分を棚に上げて他人のせいにする人種
間違えることの常態化によって恥を恥だとも思わなくなったくせに人一倍自分の愚かさだけは理解している
すべてを拒絶することで身を守っているのだから
懐疑とは思考し続けることではあるが、その真逆の拒絶という思考停止を処世術として使っている
痛ましい劣等感の塊
そりゃ私より沢山給料やボーナスをもらっている人は世の中にいっぱいいるでしょう。自分はそんなに有能じゃないし、大した肩書きも持っていないんだから、私より有能で偉いポストにいる人は当然月収もボーナスも高いはず。
ただ、みんなにお金を使って日本経済を回してもらうには、無能な人にも非正規雇用の人にもある程度の収入を与えないとダメだと言いたかったのに曲解されている気がする。
ただ、フリーランスで稼いでいる人はいくら高収入でも、不安定で社会保険料も自己負担というリスクを背負っているので、人によって向き不向きがあると思う。自分もフリーランスとかやってみたいけど、営業から経理から税金の申告まで全部自分でやらなきゃいけないかと思うと身震いがする。組織に頼らずに生きていける人が羨ましい。
言葉の意味が良く分からない時は、素直に原典を読もう。提唱者のブログだ。
より客観的に知る為には、なぜかニコニコ大百科が詳しいようだ。
負の性欲とは
https://dic.nicovideo.jp/a/%E8%B2%A0%E3%81%AE%E6%80%A7%E6%AC%B2
残念ながら、みんな大好きWikipedia にはあまり詳細は書かれていない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%A0%E3%81%AE%E6%80%A7%E6%AC%B2
ここまで読んでから、改めて最近話題になった「負の性欲」記事を読むと
曲解甚だしく、只々じぶんの言いたいことを言ってるだけというのが良く分かる。
https://anond.hatelabo.jp/20191126010427
昨日上げられたこの記事を読んで、感じたことは、おっさんずラブは本当に地獄コンテンツになったなということ。
ただ、こんな地獄(S1信者とS2信者が泥を投げ合って、ライトなドラマをライトに楽しめない)の状況にしているのはただただおっさんずラブ公式の不誠実に起因してると思う。
・結婚して永遠を誓った相手がいる世界(映画)と並行して、パラレルワールドと謳いながら同じ名前で別の人物との新しい愛を描くという設定。
・同じ名前、同じキャラクター(ポンコツでお人好し)、S1(33歳)からS2(35歳)年齢を重ねたような地続き設定、唐揚げが好き、高校はバスケ部等
・全く違う世界と言いつつ、似たようなセリフを出す、同じ小道具を使う
もちろん、ほとんどのライト層には上に書いたことはたいしたことではなく、受け入れられて別物として楽しんでいるのが大半だと知っている。
けれど、受け入れられなくてそんな自分の心の狭さに罪悪感を感じている層もいる。
わたしが見える世界のS1ファンでS2を受け入れられてないほとんどの層は、受け入れられない、応援できない自分自身に罪悪感を感じているし、出演俳優のことを悪くいう人もほとんどいない。
ただただ、S2を批判することなく、耐えて時間が過ぎ去るのを待っている。
素晴らしいと思った人も多くいるでしょう。
わたしも途中までそういう世界の見方があるんだな、この人がS2で面白いと思えてよかったな、と、思ったと同時に、最後まで読んでいって怒りに震えた。
同性愛者に苦しんでほしいなんて思ってない。
そう望んで見る視聴者なんていない。
今回は葛藤があんまなくてつまんないね、と、書いている人は確かにいたし見かけたが、同性愛者に苦しんでほしいと書いている人は見たことがない。
なぜそれを同性愛者に苦しんでほしい、と曲解し、かつタイトルにもしたのか。
ドラマには“葛藤”や"欲求”があり、それを叶えるために乗り越えるべき“障壁”があって、はじめて面白さを感じる。
だから葛藤がなくてつまらない(感情移入できる人がいない)というコメントを書いている人がいるんじゃないか。
だけど葛藤がないからつまらないという感想を曲解して"同性愛者に苦しんでほしい"というのはあまりにも乱暴だと思った。
そうやってこのブログの筆者は、
忌み嫌う相手と同じ手法(同性愛差別という正義を片手に)で、自分の好きなものに対する批判を否定しているのかなと思ったらものすごい地獄みを感じた。
あえて相手を傷つけないと気が済まないのか。
そして、そのほかのS2擁護者は、このブログを錦の御旗にして、
この素晴らしい世界観が理解できないS1ファンは可哀想、と上から目線で示唆すらしている。
考えるだけで地獄。
実際、S1信者にちょっと目も当てられない行動する人がいるのはたしかだけど、S2信者にも同じようにびっくりするようなのいます。
S1サゲはもちろん、
怒りを向ける先がここしかなかったのか、
探せばいろいろ出てきます。
低いのはお互い様だよ。どっちもどっちのレベルのくその投げつけあいしてて本当に地獄。
こっちも勝手に悲しんでるし、なんなら同じように放っておいてほしいわ。
公式の悪手は他にもある。
抽選期間も発表前。
抽選申し込み時(9/22)〜in the sky発表前にクレジットカード決済を選択した人は、抽選結果発表と同時に購入で返金できず。
また、S1とS2の曲を両方やるのかという問い合わせにも現時点で答えてない。
ただし、オケコングッズを発表しており、その中にS2のキャラのものが含まれるため、S2もやるのだろうとファンは予想している。
映像と音で振り返る、と、書かれているからドラマの映像も流れるんでしょうけど、正直9/22の時点で抽選に申し込んだ人はまさか自分が知ってるドラマ以外のものが流れると予想するだろうか。
しないと思う。
そして、S1は春田と牧の物語ではなく、春田と武蔵が主軸のラブコメだったとS2のために主張しながら、
劇場版DVD発売時には春田と牧のウエディングギフトをイメージして作ったボックス仕様だと言う。
おっさんずラブは春田と武蔵が主軸、と言いながら販促の時は春田と牧の純愛を強調するの?
あくまでもわたし個人はそのやり方にとんでもない不誠実とダブルスタンダードを感じる。
とくにアウティングなんてどっちもしてる。
ブログ書いた人は、差別のない世界ではアウティングにならない、とか書いてたけどそれこそダブルスタンダードに感じる。
隠したいことを他人が言うのはハラスメントだから差別が存在しようがしなかろうがS1のアウティングをアウトと言うならS2もアウトでしょう。
好きなものにはどこまでも盲目になるのはもう、お互い様としか言いようがない。
そんな優しい世界だと言うなら、ルッキズムやエイジズムもない優しい世界を描いてよ。
(極論だと分かっているしこれは皮肉です。差別を盾に粗を探せば、言えること根源的な差別はもっとたくさんある。)
千葉雄大と田中圭が結ばれるのはビジュアルが良いもの同士だから?
つーか、
わたしは、男女のドラマの続編では絶対に有り得ない、無意識に透けて見える、男と男のドラマなら相手役を変えていいという姿勢に、ものすごく不誠実を感じます。
(のだめが受けたから、のだめだけ残して千秋様を変えたり、タッチの達也だけ残して、みなみちゃんを変えたり、花男の道明寺だけ残したりするか?しないよな?)
春田と武蔵が主軸だというなら、ドラマも映画もその2人を主軸に販促してくれよ。
Twitterで検索すると出てくる、おっさんずラブ、地獄というのは本当に合ってると思う。
ここは地獄です。
君に出会わなければよかったし、
君を好きにならなければよかった。
できれば次回以降デザインにもっと留意して改善してほしいと考え、発言しています。
と言う一方で、実際のデザイン(乃木坂46による広告)が(北村紗衣先生が定義するところの)倫理的理念という基準に反しているようなのに批判しないので、先生の倫理的理念を実際の広告を例にすれば明確になるのでは、と思って質問しています。
日本赤十字の広告を改善してほしいという北村紗衣先生の希望は、不明確な基準のままで改善を要求するのなら、「基準は教えないけど、私がOKを出すまで仕事をやり直して」と指示するパワハラ上司のようです。でも北村紗衣先生はパワハラ上司ではないので、自分の発言でデザインを改善したいと望む限り、発言が示す基準を明確に更新し続けるはずです。この意味で、増田による質問への回答は(質問者の増田だけでなく)北村紗衣先生にもメリットがあります。
元増田さんが書いたように、好感度高い有名人が献血を呼び掛けたときの方が自発性が低くなるのではという疑問があります。それに加えて、実際のデザイン(乃木坂46による広告)では、直接献血をするようはっきりと書いてあり、自発性が低くなるのではという疑問があります。
北村紗衣先生の自発性を理解するために、直接指定・婉曲質問という言葉を定義します。この観点では、乃木坂46による広告の方が自発性が少ないとみなせます。
直接指定 相手の行動をそのまま指定すること。(例 乃木坂46による広告の「あなたが献血に行けば私は嬉しい」、「絶対この機会に献血をした方がいいと思う」)
婉曲質問 相手の今後の行動に関係する質問をすること。(例 「まだ献血未経験なんスか?注射が怖いんスか~?」(献血した方がいいとは言わない))
直接指定の内容が正しければ、相手に選択肢はなく指定された行動を取るしかない、自発性の乏しい状況です。
婉曲質問の内容が正しくても、答えに選択肢の幅があり、関係する行動を取らないこともできます。例では、注射が怖くないと否定すると献血につながりますが、注射が怖いと認めてしまえば、(とことんからかわれる代わりに)献血に促されにくくなります。婉曲質問における自発性は、選択肢を選べるわずかな分、直接指定よりはあります。
乃木坂46による広告は北村紗衣先生が定義する倫理的理念という基準に反しているので、先生が乃木坂46による広告を批判するか、非難しない理由を明確にしないと、先生の倫理的理念に一貫性がないという疑いは妥当です。
元増田はちゃんと「理念に限定ということにしても変わらない」とあらかじめ書いており、そこを見落としたか誤読したとおぼしきブコメへの反論までしているのに、まだ「曲解」と主張する方がいるのだなと
元増田さんとこの増田は別人で、元増田さんの書いたことに頼って書いたので、おかしい理屈があれば、単にこの増田の理解不十分のせいです。すみません。
これも0点。「呼びかける=自発性を阻害する」なんて、氏は一言も言ってない。曲解マジ見苦しいから速やかに止めた方がいい。
その通りです。北村紗衣先生は直接的な呼びかけが望ましくないかどうか発言していません。婉曲的な「注射が怖いんスか~?」は自発性を尊重する倫理的理念に反しているなら、より自発性の低い直接的な呼びかけも倫理的理念に反しているように見えているのか確認しないと、先生の批判に一貫性がないことになってしまいます。
増田は、直接の呼びかけは「不適切な広告なんでしょうか?」と質問しているだけで、自分の理解は何も書いていません。その理解が曲がっているかどうか以前に、増田の理解が見えるとすれば、Ayrtonism さんは超能力者でしょうか?何が見えているのか、教えてください!
流れを見てると、saebou氏はお母上が亡くなられたことでSEALSの女子高生(家でお母さんがご飯作って待っててくれてる)や日赤やついでにキモオタに対して報復(八つ当たり)してるのかな?と穿った目で見てしまう。
安心してください。お元気ですよ。北村紗衣先生の「献血ポスター問題について 」の最初に書いてあります。
曲解して難癖付けてるだけだと、そろそろ気づきなよ。あまりに下らない難癖で返答の価値もないエントリだけど、無視されたら勝利宣言でもするつもり?攻撃したいという欲望だけで動いていて、本当に気持ち悪い…
「不適切な広告なんでしょうか?」と質問しているだけです。書いていない増田の理解が(曲がって)見えるとすれば、sadamasato さんも超能力者でしょうか?何が見えているのか、教えてください!
北村紗衣先生が直接指定の形をとる表現の可否を示さず、ただ改善するべき、と発言を続けるなら、デザインする人や日本赤十字社は基準がわからず、何も広告できなくなるかもしれません。それは誰の勝利でもありません。
全体的には「役に立つ行動だから協力を」という趣旨の呼びかけで、「自発性の阻害」には当たらないだろう。だが、「血液検査の結果の通知」を得られるから「無償協力」に抵触する、という理屈は流石に馬鹿すぎる。
Arturo_Ui さんは、直接「絶対この機会に献血をした方がいいと思う」と勧めるのは献血について自発性を阻害せず、婉曲的な「注射が怖いんスか~?」と勧めるのは献血について自発性を阻害すると考えているのでしょうか?もしそうなら、その理屈を教えてもらえませんか?
北村紗衣先生がだめだと言っている売血は、お金をもらうという意味で自分のためであるだけでなく、血液を提供するという意味で他人のためでもあります。「血液の検査成績を希望すると、健康状態も知れて「自分のため」にもなる。」と乃木坂46が言っているのと、グラデーションが違うけれど大枠では同じです。もちろん、そのグラデーションが大事なので、私は許容範囲だと書きました。東京都赤十字血液センターの検査サービスと似たレベルの検査を受けると2,100円かかる場合があります(料金にばらつきはあるので、参考です)
ここで質問しているのは、「「血液検査の結果の通知」を得られるから「無償協力」に抵触すると北村紗衣先生が考えるかどうかです。どこまで許容するのか、一切認めないのか、まったく不明です。Arturo_Ui さんの主観で馬鹿に見えていても、それは議論の外の話です。
多分、北村先生はあんまり具体的なことは考えてなさげなので、何を投げ掛けても「そんなことは一言も言ってない」以上の答えはたいして帰ってこないと思う
「そんなことは一言も言ってない」のはこの質問の本質ではありません。「できれば次回以降デザインにもっと留意して改善してほしいと考え、発言しています。」と書いて、他者である日本赤十字社に先生の発言を取り入れるよう要求しているからには、先生が今から考えて不明確な発言を補わない限り(北村紗衣先生の考える)改善は他者に不可能でしょう。高い倫理性を他者に求めた北村紗衣先生なら、高い倫理性にもとづいて返答する可能性もあるかもしれません。
「表現の自由」を唱える人たちが、ポスターを批判する側の主張を曲解した上で、よってたかって炎上で潰している風景は本当に酷い。なぜ矛盾を一片も感じないのだろうか。
「表現の自由」を語るのであれば、他者の批判(特に顕名で覚悟をもって発言している人の批判)に対しては謙虚に受け止め、その内容について丁寧かつ正確な理解に努めることが最低限だろう。この最低限に到達している人がほとんどいない。
しかも、今の時代こんなの当たり前だとか、エロに感じているのはお前だけだとか、若い人は違和感を持っていないとか、自分を「多数者」「時代の潮流」の側に置いて、「今の時代はこれが多数派だから正しい」というレトリックを濫用している。批判者が「時代遅れの少数者」だとして、その主張を尊重することが「自由」を尊重することではないのだろうか。
「自分の趣味をキモいと言われない権利」を主張しているならむしろ賛同するが(ポスター批判者も別にそれを否定している訳では全くない)、「表現の自由」を語る以上は倫理的な面での批判に謙虚にならなければならない。
また、心を盗まれた。
言うまでもなく、ペルソナ5THE ROYALのことだ。
発売日が決定してすぐに有給を取得し、万全の体制で臨み、5連休が終わる直前にクリアした。(クリアできたのは八十稲羽の大神の力による所が大きかった)
あまりにも、あまりにも素晴らしかったので、2周目に突入する前に、作中の「怪盗信者」である三島のように、テキストエディタを立ち上げ、「僕らの光」を何度も流しながら、支離滅裂でキモいテキストを書き散らしている
ペルソナシリーズの存在を名前だけは知っていたが、普段ゲームなぞ殆どしない自分は、2016年の秋、8年ぶりに同シリーズの最新ナンバリングタイトルが出るという素晴らしいニュースがあったことすら露知らず、どうしてもやりたかったうたわれるもの二人の白皇の為に、PS4を購入して(こちらも言うまでもないほどのADVの大傑作だ)プレイし、Suaraが歌う、ボーカル付のシーンで涙を流していた。
それ以外やりたいソフトも無く、当時大学生で暇を持て余していた自分は、近場の家電量販店に行き、たまたま見つけた赤と黒のソフトを手に取っていた。
それがペルソナ5との、ひいてはペルソナシリーズの出会いだった。その世界にあまりにハマってしまったせいで、ペルソナ5を通算500時間ほどプレイした。そしてペルソナ3で命の答えにたどり着き、ペルソナ4ザ・ゴールデンで霧を晴らし真実を見つけ出した。それでも飽き足らず(無印と2はまだやっていないにわかにではあるが)アニメを見て映画を見て、アリーナで闘い、ダンスを踊った。
ペルソナ5は現実世界と認知世界(というもう一つの現実との)と東京という「現実」にある世界の3要素が絶妙にリンクしていて、ある意味残酷とすら思えるほどの没入感を与えることに成功している。
教室で自分の目の前に座っている杏、竜司とともに食べた荻窪のラーメン、真と共に闘ったパレス、双葉と共に食べたカレー、春と飲んだコーヒー…一緒に眠ったモルガナ…「痛み」を共有した仲間たちとの楽しくどこかくすぐったいような日々だけではない。無気力な大衆、どこにでもいそうなパレスの主たちまで、確かに存在する。
そして、プレイを終えたあと、自分は確かに怪盗団であったこと、しかしこの世界には怪盗団がいないということを実感せずにはいられない。
ペルソナ5の物語は、当事者になってしまった鴨志田事件から、真加入の前半は勧善懲悪的な物語であり、中盤は、大衆の期待に煽られていき、「人一倍許せないこと」があり、それを貫いていく、という怪盗団のポリシーがブレはじめ、絶頂と凋落を味わう。
終盤はその大衆の集合的無意識を切り口として、人々の世界のどこにでもありふれている閉塞と怠惰の中で、それでも人間には前進していく・立ち向かっていく意志と希望があり、(矛盾しているが)それらを自ら選択していくエンドである。
「人間の希望を集めて作られた」モルガナが「人間には、世界を変える力がある。今はそれをほんの少し忘れてしまっているだけ」という台詞であらわされるように、作中には「意志と選択」がありふれている。
その最たるものとして、主人公は獅童の事件の証言者として、警察に出頭し、少年院に入ってしまうことになるわけだが、「痛み」を共有した仲間たちが主人公の冤罪を証明する。
作品の答えが、そして作品のテーマであった「真なる更生」が果たされる。彼らの「意志」はわれわれの現実にも還元され、ありふれた怠惰と閉塞の世界で、「ほんの少し」忘れていた希望と意思を思い出す。
さて、ペルソナ5 THE ROYALでは、そんな「意志と選択」の物語であったペルソナ5から、今回の「ROYAL」な3学期では、異なるシチュエーションで「意志と選択」の物語が繰り広げられることになる
パーフェクトであった物語に、一学期から当然のように追加される新しい登場人物たち。
言うまでもなく、芳澤すみれと丸喜拓人のことだ。ネタバレになってしまうが、二人には共通点がある、「大切な人」を失ったという「痛み」を持っている点だ。丸喜拓人は恋人を、芳澤すみれは、姉であった「芳澤かすみ」と自分自身「芳澤すみれ」である。丸喜は恋人であった留美の家族が殺されたショックで、留美が廃人になる。
芳澤すみれは、世界を獲ると共に誓った姉を、自らの不注意で事故に遭わせてしまい、失う。
丸喜は「彼女を救いたい」という「願い」をもって、ペルソナを覚醒させ、留美を救った代償に、留美は丸喜のことを忘れる。
すみれは「かすみになりたい」という「願い」を持ち、それを丸喜が認知を「曲解」させることで、すみれは自身を「かすみ」と認識して生きていく。その代償にすみれはすみれ自身を失う。
3学期に解禁されるすみれコープにおいて、芳澤すみれは「かすみ」のように凛々とした少女ではなく、いつも姉の背中を追いかけている内気な少女として描かれる。
かすみの影から自ら脱却し自分の意志で歩み始める。彼女のコープで、下していた髪を再度括るシーンは、かすみの持っていた強い目が、すみれの中に宿っていた。
すみれの強さと脆さ、そして主人公や丸喜にすがってしまう点は「怪盗団」の女性にはない、どこかギャルゲーチックなトラウマの向き合い方で大変好みだっただけに、もう少し長く仲間として使いたかったという本音もある。
話しを怪盗団に戻そう。怪盗団が無意識にも願っていた願いが叶えられた世界。「幸福な幻想」の中にいる怪盗団は、自分たちが「現実にいない」ということにすら気が付かない。彼らが無意識にも願っていた願いが変えられた世界。モルガナは人間になり、竜司は陸上を続け、杏は志穂と共に過ごす。真や春には父がいて、双葉には母もいる。かすみはかすみとして、凛々とそこにいる。ただ、主人公だけであるジョーカーは違うかのように描かれる。現実が、現実ではない感覚。彼は同じようにここが現実ではないと気がついていた明智、そしてパレスを見つけていた芳澤と協力して、元の世界へ戻ろうと調査を始める。
パレスを発見したのち、戦力を増やすためにもまず、ジョーカーは一人一人一味を説得していくわけだが、改めてジョーカーの精神的な意志の強さには驚嘆する。彼は問いかける「これで本当に幸せか?」自ら痛みを乗り越え、選ばなければ意味がなかったんじゃないのか?
仲間たちは気がつく。竜司の言葉でいうなら「あいつの言葉が正しいと思ったからなのかも」
その瞬間、幻想は打ち砕かれる。
丸喜は「みんなが幸せに暮らす」世界を作りだすことによって全てを救おうとする。そのことに気がついた時、怪盗団は今まで考えていなかった、改心することの是非を問われる。という問いにぶつかる。しかし!目を覚ました怪盗団の答えは自明である。「幸福」よりも「意志と選択」を尊ぶのだ。例え、その現実が幸福なものでなかったとしても。
丸喜は叫ぶ「僕は君たちも救いたいんだ」そして、共闘している明智という存在が「ジョーカーがもう一度闘いたい」という願いに丸喜が応えたことによって生まれた存在だということを明す。そして、明智は自らの存在のことを知りながらも、主人公に、自らの「意志」を貫くよう勧める。明智らしい、突き放すような言い方で。
その時、私はそうか、と少し嬉しくと思う。ジョーカーにも、きちんと願いがあり、後悔があったのかと。あまりにも強靭な精神を持っているので忘れていた。私ははじめてジョーカーが真なる意味で「我々の仮面」になったような実感を得た。
そこから先はもう言うまでもなく、「歪んだ善意」と「まっすぐな意志」との対決である。本来怪盗団に改心することの是非や葛藤など必要ではない。大義名分を気にしてるようでは怪盗団なんかやってないからだ。確かに今回の丸喜は根っからの悪人ではないし、どこか衛宮士郎を彷彿とさせるような一種の正義の味方だと思う。それでも、怪盗団にとっては悪人なのだ、自分の力でまだ見ぬ未来を切り開いていく障害になるものは。
ラストバトルで、ジョーカーは仮面を外し、丸喜といかにも陰キャな殴り合いを行う。少し狙いすぎるきらいはあるが、その青臭さと眩しさを再度確認できただけでも、ペルソナ5THE ROYALは最高の物語であったと私は言える。
エンディングムービにおいて、丸喜はタクシー運転手として主人公を駅まで載せていくシーンがあり「大人になってから失敗しても、もう一度やり直せる。それが僕の復讐かな」(大意)丸喜も見事に未来をつかむことが出来たのだと思い、うれしくなる。
見送りの際にかすみが現れないのも、怪盗団の見送りがやけにあっさりしている所も、自らの「意志」によって、自分だけの道を歩みはじめたことの証左だろう。新幹線のホームで、「前を向いて歩けよ」という声がする。前を向くと、強い目をした「すみれ」がいる。「それでは」という挨拶だけを交わして、二人はすれ違っていく。前を向いて進む、だが、二人は同じ方向を向いていない。なんと素晴らしい別れ方だろうか。
かすみと、怪盗団と、もう一度会いたいと思わずにいられない。もう一度、ありふれた閉塞と怠惰から、未来を切り開くために。そして別れをする為に。その為に何度もペルソナ5THE ROYALを周回し、そのたびに、自分自身の心の中に怪盗団があることを確認するだろう。
「ターゲット層になれるって幸運で幸福だな」だけで済む話をダラダラ書きます。内容はないよ!ただの自分語りだよ!
多ジャンルを長らく好きで反復横跳びをしていると、いろんなジャンルの色々な側面が見えてくる。
それはファン同士の人間関係だったり、制作側の裏事情だったり。特に狭いジャンルであればあるほどそれはよく見える。
私は女性で、少女漫画を読んで育ち、中高時代は乙女ゲームをやって育つという所謂「女性向け」のターゲット層の人間だ。今でもジャニーズが大好きだし、女性向けゲームも好んでプレイする。
でもその一方で「男児向け」とされる特撮だって大好きだし、男性プレイヤーが多いアクションゲームも好んで追っている。
そこで思ったのが「ターゲット層になれるかなれないかで、そのジャンルの生きやすさは変わる」っていう当たり前のことだった。
まず当たり前だけど、制作側が目指す方向と、自分の要望の方向が合いやすい。ジャニーズや女性向けゲームは大体いつも解釈が合うし、追っていて(財布以外は)苦痛じゃない。一方で、男性プレイヤーが多いゲーム(以下男性向けゲーム)の制作側が目指す方向と、自分の要望は今ズレにズレまくっていて、正直追うのが苦痛でほとんど追うのをやめている。このまま嫌いになれればどんなに楽なんだろうと担降りしたいジャニオタみたいなことをよくぼやいている。特撮は概ね合っているのは運がいいんだなって思う。
まあ、制作側が目指す方向と自分の要望の方向性の合う合わないは仕方ないと思う。だってターゲット層が違う。少年誌に「もっと男女の胸キュンシーン入れてよ」みたいな要望が通るわけないのだから当たり前だ。
生きやすさというのはこの場合、ファンコミュニティでの生きやすさである。
私は長らく某男性向けゲームをメインジャンルとして生きていた。男性向けゲームと便宜上書いているが、男性プレイヤーがちょっと多めかな?というか運営は男性に売りたいんだろうな?くらいなので女性ファンも結構いて、かけがえのない友人たちともそこで出会えた。男女比でいえば6:4くらいなのではないだろうか。
その男性向けゲームの民度はお世辞にもいいとはいえず、出会った友達の二倍か三倍くらい「やべー奴」というのが存在した。ネット上にもよくいる「女オタクってだけで害悪腐女子認定」マンたちだ。ボスみたいなのが数人いて、その金魚の糞みたいなイキリオタクがいて、ストーリーやキャラの一貫性のなさなどの不満を言えば「そもそもそんな要素求めるなよw」と嘲笑う人たちだった。議論も何もあったものではなく女性ファンというだけで粗を探して叩きのめす人たちだった。
ブロックをしまくることでそういう人たちと距離を置き、ついでにジャンルそのものにも疑問を持って離れていたところに、新たな女性向けジャンルと出会った。始まったばかりの赤ちゃんジャンルというのもあるかもしれないが、治安の良さに驚いた。自分の発言を曲解して責め立てる日本語通じない日本人もいなければ、所属や性別だけでこき下ろしたりしないジャンルだった。ファン同士でちゃんと会話が出来ることに感動した。どんだけスラムだったんだ前ジャンル。
なんか涙が出てきた。女性向けだから女オタクってだけで責め立てられないし、迫害されないし、当然運営の方針と解釈合うし。ターゲット層になれるだけでこんなに人権保障されるんだって思った。
ネットでこんなことを言うのが間違ってるかもしれない。
もともとここは様々な人が参加してそれぞれの知見から建設的なことを語る場所ではないのだろう。
まぁ、ただの日記だ。しかしそれにとどまらない側面があったのは事実だと思う。
前はまだそういった意見を目にすることが新鮮で面白いと感じる度合が大きかったから楽しかっく、そういった側面を強く感じられていた。
でも今は違う。慣れてきたからだろうか?
なんだかみんながみんな、自分の意見が正しいと思っていて、相手を理解し、自分の考えを伝えるのではなく、
相手の揚げ足をとり、曲解し、否定することばかりが目についてしまう。
どこかに様々な人々がそれぞれの知見から相互に説明したり、理解したりすることができる場所はないだろうか。
家柄や育った環境など、本人の能力とは関係なく人生が始まった時点で決まってしまうものは確かに存在するし、それらが学歴や年収と言った人生の成功のバロメータと相関があることもちろん理解している。
いわばRPGにおける初期ステータスや初期装備みたいなもんだ。
ただ、「成功者は運が良かっただけ」「環境に恵まれていただけ」とひとまとめに言われると、初期ステータスがボロクソな状況から自力で成功(だと思っている)を収めた私はイラっとしてしまう。
・実家は電車で東京から1時間半ほどかかる駅から徒歩20分の田舎
・その実家はバブル末期のアホみたいに金利が高い時期に頭金0で買ったせいでローン地獄
・父親は再就職するもギャンブルでの浪費と家のローンで家計は火の車のまま
・親の年収が無駄に高いせいで利子無し奨学金や学費免除は通らない(ただし家のローンと父親のギャンブルのせいで学費など出してもらえないという最悪のパターンの)ため、大学/大学院の学費と交通費は自分でバイトして稼ぐ
・学業でも研究でも成果を上げ、大学推薦で業界一位の大手企業に就職
・父親を反面教師にしギャンブルは一切やらず、リスクヘッジで副業を始め成果を上げる
・持ち家あり/既婚(こども1人)
こんなことを書くと本音や嫉妬で「そんなんで努力とか成功とか言ってんの?レベル低くね?w」と言う人はいるだろうし、
実際私の何倍も努力して何倍も富や名誉を得ている人もたくさんいると思う。
ただ、私は満足のいく成功を収めていて、それは運が良かったのではなく自分の努力の結果だと自負している。
もし「お前は運が良かっただけだ」というならば、どこに運要素があったのか是非教えてほしい。
もちろん「家に隕石が落ちなかった」とか「通り魔に刺されなかった」みたいな「極端な不運が起きなかったこと」を運が良かったと曲解するような言いがかりは無しだ。
私と同じような思いを抱いている人がいると信じているが、リアルでこんなこと言ったらただの痛い奴だから、ここで吐き出させてもらった。