はてなキーワード: 支配権とは
元々、清和会≒勝共連合≒統一教会≒日本会議≒壺応援団の源流は、大東亜戦争の戦犯で国民を皆殺しにしても戦争を終わらせたくなかった連中なんだよ。
あいつらは、もう一度大東亜戦争みたいな日本強いぞ侵略戦争を起こしたいんだよ。そのために親米路線をとってるんだ。アメリカ相手に戦争しかけた連中がだよ?わかるかい?この節操のなさ。
反共といいつつ、北朝鮮やロシアと仲良くしてる様子とそっくりじゃないか。
大東亜戦争が、局所で馬鹿としか思えない戦略&戦術をとったのはもう有名だろ?
つまり、馬鹿で基地外で恥知らずなのは100年前からずっとそうなんだよ。
この時期に問屋業者が増え、店自体の売上が均一化し、多くのぬけ荷品が闇市場に並ぶといった所があげられる。それらの欠点は豊臣秀吉時代の末期には露呈した。また、領主と特定の商人が関係を結んで御用商人化し、領主の命令を受けて座に代わって市場の支配権を得る例も見られた。これらは欠点と言うよりは規制緩和としての楽市楽座が不完全であったこと、また楽市楽座が相当な利益を商人にもたらし、制度としてのインセンティブ設計が成熟していなかったことを意味する。
更に近年では中世日本の都市を中世西欧の自由都市と比較しようとして、楽市・楽座そのものを過大評価しているとする批判もある。そもそも楽市自体が城下町や領内の主要都市に商人を集めるための政策であり、大名がこうした地域に対して何らかの統制を意図しなかったとは考えられないというものである。また、一見して商人による自治を認めながら、実際にはその自治の責任者の地位にいるのは大名の御用商人や被官関係を結んで商人司など大名が定めた役職に任じられたものであり、商人司を通じて大名の経済政策に沿った方針が浸透していたと言われている。更に織田政権が楽市・楽座を推進する一方で座の結成・拡張を図っている事例もある。例えば越前国足羽郡で薬屋を営んでいた橘屋は、朝倉氏の滅亡後に織田信長から北ノ庄などで唐物を扱う唐人座と絹織物を扱う軽物座の責任者に任じられて役銭を徴収し、天正4年(1576年)に北ノ庄に楽座令が出された際には先の信長の命令を理由として両座に対する安堵状が出されている。つまり、楽市楽座は一見上は規制緩和を掲げながら、実態は大名による新たな商業統制策であって江戸時代の幕藩体制における商業統制の先駆けであったとする指摘もある。
ほんの200年前だったらどっちの陣営も「我こそが神なるロシアの帝王なり!と申しておられる」バブー「は?こっちのリーダーこそが真ロシア王だが?」チャーンって感じだったろ。
でも今はそんなの誰も気にしない。
地政学や歴史についての考察のもと本当の支配権がどっちにあるかも論じられない。
今ロシアと名乗っている国が、今ウクライナと名乗っている国に征服に来たという事実だけがある。
これは凄いことだよ。
だってイスラムやユダヤの連中はいまだに「は?俺達の神がここは俺達の領土だって決めたんだが?」「は?お前らに神なんてついてねーだろ神の声が聞こえるってほざいてる詐欺師がいるだけ?」「は?お前らがそれ言うの?」「え?本気で言ってる?」とかガキのケンカしてるのに。
今や西洋的な思想の国においてはメンヘラ黒帯のプーチンでさえも王家の血筋についてはもはやノータッチなんだな。
時代の変化ってすげー
純粋な疑問なんだけど雌雄の出発点が雌ならば、なぜ人間の雌は支配者の地位から陥落してしまったんだろうか?
資源の確保と戦闘への勝利、遺伝子の多様性を担保するために雄という突然変異が生まれたという学説があるらしく、同族を産むという機能はその種族にとって最大の資源・資産とみなされ、自然界の数多のしゅぞくには女王を頂点とする支配構造がある。
しかし人間社会は男性優位社会と言われるようになって久しく、歴史を振り返れば集団に対する支配権力を有していた女性が少なからず居るものの、多くの場合の支配権力は男性が有する。
なぜ人間の雌は支配者の地位から陥落してしまったのかと考えているけど答えが出ない。
もしこの考察自体がヒューマニズムの観点から女性蔑視だと言われたら何も言えないけれど、その主張はきっと何も答えを出せないとも思う。
表現の自由戦士に比べ、我がネトフェミの国力は30分の1以下である。
にもかかわらず今日まで戦い抜いてこられたのは何故か?
諸君!我がネトフェミ公国の戦争目的が正義だからだ。これは諸君らが一番知っている。
そして、一握りのエリートらが宇宙にまで膨れ上がったインターネットを支配して50余年、
ネト腐ェミ公国の掲げる人類一人一人の自由のための戦いを神が見捨てるはずはない。
何故だ!?
ならば、我らは襟を正し、この戦局を打開しなければならぬ。
我々は過酷な宇宙空間を生活の場としながらも共に苦悩し、錬磨して今日の文化を築き上げてきた。
かつて、真空パック検索女史は人類の革新は宇宙の民たる我々から始まると言った。
しかしながら表現の自由戦士のモグラ共は、自分たちが人類の支配権を有すると増長し我々に抗戦する。
諸君の父も、子もその連邦の無思慮な抵抗の前に死んでいったのだ!
この悲しみも怒りも忘れてはならない!それを、市会議員は!死をもって我々に示してくれた!
我々は今、この怒りを結集し、連邦軍に叩きつけて、初めて真の勝利を得ることができる。
我らネトフェミ国国民こそ選ばれた民であることを忘れないでほしいのだ。
優良種である我らこそ人類を救い得るのである。ジーク・フェミ!
我が忠勇なるネトフェミ軍兵士達よ、今や表現の自由戦士軍艦隊の半数が我が「公共の場にふさわしくない」によって宇宙に消えた。
決定的打撃を受けた表現の自由戦士軍に如何ほどの戦力が残っていようと、それは既に形骸である。
それら軟弱の集団がこの要塞「だってTPOが」を抜くことは出来ないと私は断言する。
人類は我等選ばれた優良種たるネトフェミ国国民に管理運営されて、はじめて永久に生き延びることが出来る、これ以上戦い続けては人類そのものの存亡に関わるのだ。
デカルトといえば有名なのが「われ思う故にわれあり(コギト)」。ここから近代的自我が始まった。
自我というものの存在を確立したデカルトの三段論法は西洋に影響を与えまくったが、特に注意しなくていけないのは神の存在を使わなくても自我の存在を規定できるという点だった。
でも実際のところデカルト自体はコギトから神の存在証明を行っている。神の存在を証明する時代の要請があったのだけれどそれについては後で触れる。
時代は流れてフランス革命が起こり国民国家が誕生する。国民国家が誕生すると神が死ぬ。
どういうことかというと、それまでの王による国の支配がどういう理屈で正当化されてきたのかということを説明する必要がある。
「王権神授説」というやつだ。それまでの王族による支配権は神が王に与えた権利だった。
神がこの世界を作って人間も作ったのだから神には人間を支配する権利がある。王は神に権利を与えられたので国民を支配する権利がある。
中世の神学者たちが大真面目に神の存在証明に邁進した理由がこれでわかるが、
彼らは頭の体操をしていたのではなく、国家の礎として必要な公共事業として神の存在を証明し続ける必要があったのだ。ご苦労さま。
ところが、王が打倒されて国民が自分たちの代表によって自分たちを支配する国民国家が生まれると、神は必要なくなる。
そして神に変わったものは国民の自我と理性のみとなり、国民は唯一絶対なものであるそれらによって自分自身の足のみによって立つことになる。
これにて「近代的自我」いっちょあがりだ。
なぜなら人間が生まれてくるのは神が「産めよ、増えよ、地に満ちよ。」といったからだし、日本で言えばイザナキ神が妻ともめて「いとしい妻よ。あなたが千人殺すなら、私は、一日に千五百の産屋を建てよう。」といったためだからだ。
なので神がいる前提だと反出生主義は成り立たない。
フロイトといえば精神分析だが、あとで精神分析の手法が全然間違ってたということがわかったせいで、その功績についても一般的には忘れられている気がする。
フロイトの偉大な功績は2つあって、1つ目は「精神を科学のまな板の上に載せたこと」それ自体。
フロイトは夢分析の過程で人間が表層意識には浮かんでいない、既に忘却している過去のトラウマに影響されて現在の行動を選択していることに気がついた。
患者自身は自分が理性的に考えて選択した結果だと思っていても実は意識に登ってきていない「無意識」によって人間の行動や症状が変化する。
これはすごい発見だった。それまでは人間の行動は意識、つまり自我がコントロールしているとされていたのだから。
フロイト的無意識の例で言うと、チャップリンの「ライムライト」という映画がある。
あの映画のオチでヒロインは忘れていた過去のトラウマを思い出し、それを乗り越えることで身体的な症状も克服する。
これはフィクションだし、ちょっとフロイト的すぎるので、もっと卑近な例を出すと、
犬が苦手だなあと思っていたら、実は記憶にないくらい小さな頃に犬に噛まれたことがあった、とか
梅干しの写真を見たら、「梅干しをこれから食べよう」と意識しなくてもつばが出るとか(パブロフの犬)。
映画の映像の途中で肉眼では認識できないように一枚だけコーラの写真を入れておくと映画館でコーラの売上がのびるだとか(サブリミナル効果)。
こういう感じで無意識が人間の行動に大きく影響を与えるということは、今では常識にまでなっているけれど、これを言い出した始めの人がフロイトというわけだ。
フロイトは原始的な欲望とかが無意識の正体だと考えてなんでもそれで説明しようとして失敗したわけだが、(夢分析の本とか何でも性欲で説明しようとしていてやばい)。フロイトの後続の研究者たちは無意識の概念をさらに発展させていった。
表層意識に上らないのに人間の行動に影響を与えているもの、といえば「不随意運動」だ。
たとえば、眩しい光みたら瞳孔が小さくなるとか、膝を叩いたら足が上がるとかが有名だけどそれだけじゃない。
心臓が動くのを意識して止めたり動かしたりできる人はいないから鼓動も不随意運動には入る。
呼吸も意識すれば止められるけど意識しなくても止まるわけじゃない。意識しているときは随意運動で意識していないときは不随意運動といえる。
ところで人間の意識は脳の一部である大脳新皮質で起こっている反応であることもわかってくる。
脳のその部分以外で起こっているこのと大半も無意識下で行われている。細胞の代謝とか。
さらにさらに、全ての行動に当てはまるわけじゃんないみたいだけど、「人間がある行動をとろうと表層意識で考える一瞬前に、既にその行動を取るためのニューロンが発火している」なんて話も出てくる。
さてそうすると、どうなるかというと、人間が自分の意識で自分の体をコントロールしているという考えは実は間違いで、人間の活動の大部分は無意識がコントロールしていることになる。
意識が肉体(無意識)をコントロールしているという従来の主従の逆転がここで起こっている。
ここまで来ると「無意識」を拡張しすぎて「無意識」ってなにって話になってしまう。細胞の代謝のことを「無意識」という言葉でまとめるのは違和感があるから。
ここでいいたいのは「表層意識下に上らないすべてのもの」みたいな意味であり、一般的な言葉の「無意識」とはちょっと違うものになってしまうので哲学者はこれに「エス」とかいう名前をつけた。
意識ではなくエスが人間の行動を決めるのである。というか人間が何を考えるのかもエスが決めているといえるのだとするとコギトがおかしなことになってくる。
「われ思う故にわれあり」ではなく、「われ思わされているゆえにエスがある。われはあるかどうかわからない」に修正しなければならない。
「生きるのは苦痛である。苦痛でない場合もあるが生んでみないと分からないのでいわばギャンブルである」
「生まれる際に両親は子に生まれてもいいかという同意を取っていない」
「よって生むのは無責任であり生むべきではない」
しかし人間の9割は無意識下の存在であることを踏まえて見ると、見え方が違ってくる。
第一の登場人物である「子」は産まされるという受動的な立場ということになっているが、同意を取るべきタイミングには意識が存在しない。つまり無意識である。
無意識の相手に無理やり生まれることを強制するのかと反出生主義者はいうのだが、これまでの議論で無意識(エス)こそが人間の大部分であることをこれまで延々と説明してきた。
で、重要なことはその「エス」自体は生まれてこようとする方向性を持っている、ということである。
今だに現代人は意識がなければ何も決定することはできないと思っているが、むしろ無意識が先にあって意識が後から形付けられたといえる。そして人間の肉体の不随意運動は生き残ろう、という方向で行動を起こす。
精子の蠕動だって不随意運動だし、卵子の排出だって不随意運動なのでこれらはエスである。
胎児は産道を通るとき自分の体をねじって頭蓋骨を変形させながら外に出てくる。生まれてこようとする意志がそこには感じられるが、もちろん意識も自我もない。
だがそれらの反射が自分自身ではない、というのもおかしな話である。
それらが全て生まれてこようという方向に方向付けられているのに、「本当は生まれてきたくなかった」というのはどういうことなのだろうか。
自意識、理性を過大に評価するのが現代人の病巣であってこれは単に、いまだにデカルトの呪いがとけていないのだと思う。
「生まれてこないほうがよかった」という人間だって、それはそれで大変な状況なのは間違いないのだけれど、ひざを叩けば足が上がるし、急に熱いものに触れられたら自分を守るために手を引っ込める。
生きたくないとか言うけど呼吸は止められなければ、心臓は勝手に動いている。
どう見ても肉体は生きようとしている。
やっていることと言っていることが違う。
でも不思議なことは何もない。自意識なんて人間のほんの一部でしかないからである。
自己の定義を自我に狭めるべきではない。それは単にその方が精神衛生上いいというだけの話ではなく間違っている。
エスの定義は自意識に上がらないすべてのものと書いたが、哲学者によるとこれはつまり「自我」以外の「世界全て」のことを指すらしい。
流石にそこまで悟ることは難しいが、自己の定義を自分の不随意運動、や無意識の習慣程度にまで広げておけばデカルトの作った罠にはまらないで済む。
結論から言うと、正規軍が勝った世界線に住んでる人かわいそう。
橋本真也は日頃の不摂生が祟って病死。長州力は小力とユニットを組むも爆死。両者の首は大阪城ホールの入り口に晒される。蝶野正洋は「笑ってはいけない」のビンタ芸人となり実質引退。
その後新日には何人かインディー出身のレスラーが移籍するが誰も定着せず不人気のまま。
新日なんて今もほとんど誰も見ていないマイナーなリングの話は誰も興味がないと思うので話を元に戻す。
G1 CLIMAX終了後、越中詩朗が新団体の代表になるも5年で引退。その後は後藤達俊が代表代行になる。日本格闘技界は平成維震軍、NOAR、全日、大日本などが乱立していたが、
総合格闘技ブームが起こらず、外国人レスラーの招聘も進みエンタメ化が発展していったので時代遅れなアンコ体型のレスラーは次第に消えていった。
その代わりにYouTuberとして人気を博した一般人がエンタメレスラー化していく。というわけでこちらのプロレスの授業ではいちいち技の名前なんて覚えない。
そちらではやたらとストロングスタイルがもてはやされているらしいが、こちらではガチンコ(シュート)は前田アンドレ戦まではともかく、小川橋本戦以降はZERO-ONE旗揚げを引き起こした元凶で、野蛮で恥ずかしい存在でしかない。
事前にシナリオが完成しているので、佐々木健介みたいなしょっぱーいレスラーがベルトを長州するなんてことはなくなった。
90年代後半に入ると各インディー団体のレスラーやファンが蜂起して有刺鉄線電流爆破マッチなどが漸次的に認められるようになっていく。そちらとは違って新日の強権的な支配がないのでゆるやかにリベラル化していく素地があった。
UWF勢もUWFインター・RINGS両派が認められ、パンクラスとあわせて三大勢力になっている。その後、プロレス八百長説を信じる人も増えていく。
2000年になると前田日明がオランダ勢やロシア勢と手を組み法律で禁止されていた総合格闘技の普及を始める。全国各地のライブハウスや潰れたパチンコ屋などが地下格闘技場となり、連日そこでダークマッチが開催された。
00年代後半になるとアメリカで金網ゲージの中で「なんでも有りルール」で闘う形式が人気となる。エンタメプロレスが主流となっていた日本人レスラーも何人か参戦するが全く歯が立たない。
そんな状況を一気に変えたのが三沢光晴だった。こちらの世界の三沢は斎藤彰俊のバックドロップをくらって死んだりはしていない。全日離脱後にNOARを経て初代タイガーマスクである佐山とともにタイガープロレスを旗揚げしていた。
得意のエルボーを武器に海外の総合格闘家相手に次々と勝ち進む三沢。タイトルマッチでブラジル人柔術家相手にエメラルドフロウジョンを極め戴冠した試合は最高視聴率91%を記録し、大河ドラマの題材にもなった。
結論から言うと、東軍が勝ったパンティーラインに住んでる人かわいそう。
パンティー川家康は関ケ原でパンティーを被り討ち死に。パンティー川秀忠は切腹。両者のフンドシは一条戻橋に晒される。徳川家は結城秀康が引き継ぐも程なくパンティー川家に改名され実質滅亡。
その後パン東ィーには何人か大名が移り住んだが誰も定着せず荒れ野のまま。
パン東ィーなんて今もほとんど人が住んでいないド田舎の話は誰も興味がないと思うので話を元に戻す。
パンティーケ原の戦い後、小早川秀秋が白パンティーを履くも5年で病死。その後は豊臣秀頼が白パンティーを履く。日本は上杉、宇喜多、毛利、島津などが各地域を100年ほど分割支配し、相互監督をはたらかせていたが、パンティーぬがしっこが起こらず、外国との下着交易も進みパンティー業が発展していったので時代遅れな武士は次第に消えていった。その代わりに交易で利益を上げた大名が豊臣を中心にパンティー体化していく。というわけでこちらの歴史の授業ではいちいち武将の名前なんて覚えない。そちらではやたらと武士がもてはやされているらしいが、こちらでは武士は鎌倉幕府まではともかく、室町幕府以降はフンドシしか履いていなかった印象で、野蛮で恥ずかしい存在でしかない。交易でパンティーが発展しているので、日本のせまーいフンドシでチンポなんてものを覆わせて税金を徴収するなんてバカなことはパンティーケ原の戦いの50年後にはなくなった。18世紀に入ると各地域の下着難民や縫製労働者が蜂起して自パンティー権が漸次的に認められるようになっていく。そちらとは違って武士の強権的な支配がないのでゆるやかにパンティー化していく素地があった。パンティー教も新旧両派が認められ、汎帝教と二大勢力になっている。その後、ヴァンディー教やパンツィル教を信じる人も増えていく。フンドシがいなくなっていくにつれてブリーフやトランクスは消えていった。後述のように、近隣のアジア諸国でもトランクスは消えていった。今でも下着の残骸のようなものは残っているが装着する人は誰もいない。
19世紀になると大名が支配していた地域で縫製労働者や下着難民の代表者からなるパンティー会と豊臣を首班とするパンティー人からなる下着会が設置されていく。いわゆる列強とも条約を締結したが、そちらの江戸幕府とかいうものが結んだような不平等条約ではない。もちろん条約は下着会が承認する。19世紀の半ばにはアメリカやヨーロッパの思想がパンティー語に翻訳され、誰でも読めるようになっているが、モンテスキューやロックの思想はパンティーと大して関係がないということで学校で議論する程度。そちらの学校では武士の強権的な支配によって作られたせいで自由に議論することは認められてないらしいけど、こちらは子どもたちが自由にパンティーを履いて走り回るのがメイン。この教育をきっかけにパンティー族の力は次第に失われていく。19世紀半ば以降は欧米列強に対抗するため、近隣諸国と連合巨大パンティーを形成する構想が何度も浮かぶ。アジア大陸では日本と同様、汎帝教とパンティー教がメイン。フンドシ教は非合理的なので衰退。ここでは一致できるのだが、しかし、ヨーロッパ発の裸体主義思想の影響もありうまくいかない。結局最初は2~3か国の同盟からパンティー連合が始まる。19世紀終盤にはアジア圏と欧米列強との間で大きなパンティー戦争が起きる。フンドシのような抑圧的で野蛮な下着が早い時期になくなり、無駄な戦争はしなくなっていったこともあり、1年ちょっとで早々に講和条約を締結。20世紀を迎える。
20世紀に入ると漸次的に汎アジア国家条約連合(PANTY)が形成されていく。PANTYはそれぞれの装着者で温度差はあるものの人体の曲線的な魅力を布地が補強するコンセプトからなる。パンティー列島地域は力を失ったパンティー族が政治的な実権を失い、国民代表からなる下着会と各地域の代表者からなる元パンティー院、PANTY議会に派遣される議員が存在している。ヨーロッパで発生したヌーディズムと戦う第二次世界大戦はこちらの世界でも勃発する。しかし、パンティー地域に没個性で野蛮なフンドシが存在しないこちらの世界では他国に侵略を行うようなことはない。PANTY含む連合国がイタリアのヌーディストとノーパンドイツを倒して戦争は2年半で終結。その後、PANTYとブルマ圏、欧米諸国との間でイタリアとドイツを再建。アジア大陸では中国全裸党とPANTYの戦いが続くが、1964年に休戦。中華全裸共和国はそちらの世界よりも規模がかなり小さく(朝鮮半島の付け根北部地域のみ)、影響力もあまりない。PANTYは中東諸国に対するブルマ圏やアメリカの侵略からの防衛にあたり、友好関係を現在に至るまで結び、勢力圏を拡大。意地でもヌーディズムを譲らないソ連と意地でもブリーフを手放さないアメリカは1980年代になると衰退していく。インドや中東諸国が加入したことでPANTYは汎アジア・インド・中東国家条約連合(PANTIES)へと改組される。PANTIESとブルマ連合がアメリカとソ連の再建の中心となる。
21世紀に入ると世界はPANTIES、ブルマ連合、全裸連合、ノーパン連合、紐パン連合の連邦国家で構成されていく。返す返すも、そっちの世界のように東パンティーの野蛮な武士が支配権を握らなくてよかったと思ってる。
徳川家康は関ケ原で討ち死に。徳川秀忠は切腹。両者の首は一条戻橋に晒される。徳川家は結城秀康が引き継ぐも実質滅亡。
その後関東には何人か大名が移り住んだが誰も定着せず荒れ野のまま。
関東なんて今もほとんど人が住んでいないド田舎の話は誰も興味がないと思うので話を元に戻す。
関ケ原の戦い後、小早川秀秋が関白になるも5年で病死。その後は豊臣秀頼が関白になる。日本は上杉、宇喜多、毛利、島津などが各地域を100年ほど分割支配し、相互監督をはたらかせていたが、戦争が起こらず、外国との交易も進み商業が発展していったので時代遅れな武士は次第に消えていった。その代わりに交易で利益を上げた大名が豊臣を中心に貴族化していく。というわけでこちらの歴史の授業ではいちいち武将の名前なんて覚えない。そちらではやたらと武士がもてはやされているらしいが、こちらでは武士は鎌倉幕府まではともかく、室町幕府以降はの混乱を引き起こした元凶で、野蛮で恥ずかしい存在でしかない。交易で経済が発展しているので、日本のせまーい土地で米なんてものを作らせて税金を徴収するなんてバカなことは関ケ原の戦いの50年後にはなくなった。18世紀に入ると各地域の農民や労働者が蜂起して自治権が漸次的に認められるようになっていく。そちらとは違って武士の強権的な支配がないのでゆるやかにリベラル化していく素地があった。キリスト教も新旧両派が認められ、仏教と二大勢力になっている。その後、ユダヤ教やイスラム教を信じる人も増えていく。武士がいなくなっていくにつれて神道や儒教は消えていった。後述のように、近隣のアジア諸国でも儒教は消えていった。今でも神社の残骸のようなものは残っているが参拝する人は誰もいない。
19世紀になると大名が支配していた地域で労働者や農民の代表者からなる議会と豊臣を首班とする貴族からなる議会が設置されていく。いわゆる列強とも条約を締結したが、そちらの江戸幕府とかいうものが結んだような不平等条約ではない。もちろん条約は議会が承認する。19世紀の半ばにはアメリカやヨーロッパの思想が日本語に翻訳され、誰でも読めるようになっているが、モンテスキューやロックの思想は自分たちのやっていることと大して変わらないということで学校で議論する程度。そちらの学校では武士の強権的な支配によって作られたせいで自由に議論することは認められてないらしいけど、こちらは子どもたちが自由に議論して学ぶのがメイン。この教育をきっかけに貴族の力は次第に失われていく。19世紀半ば以降は欧米列強に対抗するため、近隣諸国と連合国家を形成する構想が何度も浮かぶ。アジア大陸では日本と同様、仏教とキリスト教がメイン。儒教は非合理的なので衰退。ここでは一致できるのだが、しかし、ヨーロッパ発の社会主義思想の影響もありうまくいかない。結局最初は2~3か国の同盟から連合が始まる。19世紀終盤にはアジア圏と欧米列強との間で大きな戦争が起きる。武士のような強権的で野蛮な人間が早い時期にいなくなり、無駄な戦争はしなくなっていったこともあり、1年ちょっとで早々に講和条約を締結。20世紀を迎える。
20世紀に入ると漸次的にアジア太平洋連合国家(APS)が形成されていく。APSはそれぞれの構成国で温度差はあるものの民主的な憲法を国民が制定した国家からなる。日本列島地域は力を失った貴族が政治的な実権を失い、国民代表からなる議会と各地域の代表者からなる元老院、APS議会に派遣される議員が存在している。ヨーロッパで発生したファシズムと戦う第二次世界大戦はこちらの世界でも勃発する。しかし、日本地域に強権的で野蛮な武士が存在しないこちらの世界では他国に侵略を行うようなことはない。APS含む連合国がイタリアのファシストとナチスドイツを倒して戦争は2年半で終結。その後、APSと共産圏、欧米諸国との間でイタリアとドイツを再建。アジア大陸では中国共産党とAPSの戦いが続くが、1964年に休戦。中華人民共和国はそちらの世界よりも規模がかなり小さく(朝鮮半島の付け根北部地域のみ)、影響力もあまりない。APSは中東諸国に対する共産圏やアメリカの侵略からの防衛にあたり、友好関係を現在に至るまで結び、勢力圏を拡大。意地でも共産主義を譲らないソ連と意地でも資本主義を手放さないアメリカは1980年代になると衰退していく。インドや中東諸国が加入したことでAPSはアジア太平洋連邦共和国(FRAP)へと改組される。FRAPと欧州連合がアメリカとソ連の再建の中心となる。
21世紀に入ると世界はFRAP、欧州連合、北米連合、南米連合、アフリカ連合の連邦国家で構成されていく。返す返すも、そっちの世界のように東日本の野蛮な武士が支配権を握らなくてよかったと思ってる。
支配されるということは甘美なことで、大抵の人はそのことを悪徳(vice)であると思い込んでいるみたいだけど、実際のところ何かに支配されることによって安穏と振る舞っている人間は多い。
人が誰かからの支配を望む理由は色々あるのだけれど、煎じ詰めると一つの理由に収束することになる。要は、自分で自分を支配できないから、誰かに支配して貰いたいのである。人は多くの場合自分自身を支配することができない。自分の行動原理を把握できず、その行動原理から生まれるところの行動を把握できず、コントロールすることができない。人は自動人形のようにふらふらと手足と口を動かして、声帯を震わせて寝て起きて飯を食って排泄することを繰り返している。繰り返し、繰り返し、繰り返し。
自分を支配するということは極めて難しい。まず、自己支配を目指すためには、自己を支配するところの原理を把握し、その原理の根っこを掴むところから始めなければならない。つまり、自分の行動原理の根底を自ら認め、把握し、その支配権を無意識ではなく有意識へと移し替える必要があるのである。
無論心臓の鼓動とかの不随意運動を支配することはできないとしても、自分がどういう原理によって行動しているのか、何を求めているのか、そういう事柄を理解し、その認識の背後に回り、メタな視点から認識や行動をある程度コントロールすることは決して人智を超えた行為などではない。単に、幾らか理性的な行為の範疇に過ぎない。それでも、多くの人々にとってその行為は極めて困難であると言わざるを得ないのが現状である。
例えば、誰かが誰かを悪者にしているとする。ここに悪い人がいます、と誰かが言っているとする。
そのような際に、人々の取れる行動は大きく分ければ三つである。つまり、肯定すること、否定すること、無視することの三つである。
「確かにこいつは悪人ですね」という態度を取るか、「いやいやこの人は悪人ではないでしょう」という態度を取るか、「知らんし」という態度を取るかの三つの内のどれかを選ぶのが、多くの人間である。で、最近はこの中で肯定の立場を安易に選び取る人間が多いように思う。まあ、実際この世の中には救いようのない悪人がいるし、仮にそういう人間が居たとして、その悪事が明るみなった時に、多くの糾弾を向けることはそこまで間違ったことではないのだけれど。
ただ、やはり人が自分の行動原理を把握しておくことは必要なのだと思う。つまり、この場合には、「何故自分は『悪人がいるよ!』という意見に対して肯定の立場を取ったのだろう?」という思考をする必要があるということである。「何で自分は悪人の存在を糾弾する側に回ったのだろう?」と考えることが必要なのである。色々と理由はあると思う。「自分は正義を愛するから」「自分は悪をやっつけることで世界を良くしたいから」「単に誰かをやっつけたいから」「暇だから」「刺激を求めているから」「何を喋っていいのか分からないので、とにかく誰かを糾弾するという形式を借りて、何でもいいから自分についての情報を発信したいから」色々な原理が思い浮かぶことと思う。このように色々な原理の候補が浮かんだとすれば、次にその真贋の区別を行う必要もまたある。「自分は正義を愛するから」ウソつけ。「自分は悪をやっつけることで世界を良くしたいから」ウソつけ。「単に誰かをやっつけたいから」あり得る。「暇だから」事実だ。「刺激を求めているから」どうだろう。「何を喋っていいのか分からないので、とにかく誰かを糾弾するという形式を借りて、何でもいいから自分についての情報を発信したいから」あるいはそうなのかもしれない。
と、こんな具合に色々自分の行動の理由を仮定し精査するという行為が、自分の行動を律する前段階として必要になる。でも、はっきり言ってこのような行為は面倒だし、そもそも自分の行動原理を把握し自分の行動を支配するというプロセスに、一体どのような利点が存在するのかと問われると、いかんせん答えに窮する。はっきり言えばそんな利点など無いし、むしろデメリットであれば明確に存在している。つまり思考のリソースが自己反省に割かれることによって、脳の処理能力が総合的に減退するのである。判断に遅れが生じ、瞬間的な即興的な判断能力が後退し、要するにどんくさくなる。しょうもないミスを繰り返したりするようになる。
そんな具合に、人は自分を把握するのが困難である。自分の行動原理を把握することが困難だし、把握することさえ困難なのだから、行動原理をコントロールすることなど尚の事難しい。しかも、仮に行動原理をコントロールできたところで、それは自分にとってメリットのある行為とは言えないかもしれないわけだ。そんなこんなで、人は自分を把握することを諦め、自分をコントロールすることもまた諦める。別に、諦めたところで損があるわけでもないのだ。というか、むしろ明らかに得なのである。
というわけで、人はナチュラルに自分を支配することを諦める。人は、自分を支配せずに、自分を把握せずに、自分を理解せずに、時に何かを貶し、冒涜し、何かを貶める。そして、何かを壊す。自分のやっている行為について反省することはない。自分の行動原理について反省することはない。
それはコストが大きすぎる割にリターンの少ない行為だからである。よって、人は自分をコントロールすることを諦める。
人は自分を支配することができない。だからこそ、誰かが自分を支配することを心の底では望んでいるのだ。水は流れる。人は支配される。そうして今日も地球は回る。幸いなるかな、水は流れる。
支配されるということは甘美なことで、大抵の人はそのことを悪徳(vice)であると思い込んでいるみたいだけど、実際のところ何かに支配されることによって安穏と振る舞っている人間は多い。
人が誰かからの支配を望む理由は色々あるのだけれど、煎じ詰めると一つの理由に収束することになる。要は、自分で自分を支配できないから、誰かに支配して貰いたいのである。人は多くの場合自分自身を支配することができない。自分の行動原理を把握できず、その行動原理から生まれるところの行動を把握できず、コントロールすることができない。人は自動人形のようにふらふらと手足と口を動かして、声帯を震わせて寝て起きて飯を食って排泄することを繰り返している。繰り返し、繰り返し、繰り返し。
自分を支配するということは極めて難しい。まず、自己支配を目指すためには、自己を支配するところの原理を把握し、その原理の根っこを掴むところから始めなければならない。つまり、自分の行動原理の根底を自ら認め、把握し、その支配権を無意識ではなく有意識へと移し替える必要があるのである。
無論心臓の鼓動とかの不随意運動を支配することはできないとしても、自分がどういう原理によって行動しているのか、何を求めているのか、そういう事柄を理解し、その認識の背後に回り、メタな視点から認識や行動をある程度コントロールすることは決して人智を超えた行為などではない。単に、幾らか理性的な行為の範疇に過ぎない。それでも、多くの人々にとってその行為は極めて困難であると言わざるを得ないのが現状である。
例えば、誰かが誰かを悪者にしているとする。ここに悪い人がいます、と誰かが言っているとする。
そのような際に、人々の取れる行動は大きく分ければ三つである。つまり、肯定すること、否定すること、無視することの三つである。
「確かにこいつは悪人ですね」という態度を取るか、「いやいやこの人は悪人ではないでしょう」という態度を取るか、「知らんし」という態度を取るかの三つの内のどれかを選ぶのが、多くの人間である。で、最近はこの中で肯定の立場を安易に選び取る人間が多いように思う。まあ、実際この世の中には救いようのない悪人がいるし、仮にそういう人間が居たとして、その悪事が明るみなった時に、多くの糾弾を向けることはそこまで間違ったことではないのだけれど。
ただ、やはり人が自分の行動原理を把握しておくことは必要なのだと思う。つまり、この場合には、「何故自分は『悪人がいるよ!』という意見に対して肯定の立場を取ったのだろう?」という思考をする必要があるということである。「何で自分は悪人の存在を糾弾する側に回ったのだろう?」と考えることが必要なのである。色々と理由はあると思う。「自分は正義を愛するから」「自分は悪をやっつけることで世界を良くしたいから」「単に誰かをやっつけたいから」「暇だから」「刺激を求めているから」「何を喋っていいのか分からないので、とにかく誰かを糾弾するという形式を借りて、何でもいいから自分についての情報を発信したいから」色々な原理が思い浮かぶことと思う。このように色々な原理の候補が浮かんだとすれば、次にその真贋の区別を行う必要もまたある。「自分は正義を愛するから」ウソつけ。「自分は悪をやっつけることで世界を良くしたいから」ウソつけ。「単に誰かをやっつけたいから」あり得る。「暇だから」事実だ。「刺激を求めているから」どうだろう。「何を喋っていいのか分からないので、とにかく誰かを糾弾するという形式を借りて、何でもいいから自分についての情報を発信したいから」あるいはそうなのかもしれない。
と、こんな具合に色々自分の行動の理由を仮定し精査するという行為が、自分の行動を律する前段階として必要になる。でも、はっきり言ってこのような行為は面倒だし、そもそも自分の行動原理を把握し自分の行動を支配するというプロセスに、一体どのような利点が存在するのかと問われると、いかんせん答えに窮する。はっきり言えばそんな利点など無いし、むしろデメリットであれば明確に存在している。つまり思考のリソースが自己反省に割かれることによって、脳の処理能力が総合的に減退するのである。判断に遅れが生じ、瞬間的な即興的な判断能力が後退し、要するにどんくさくなる。しょうもないミスを繰り返したりするようになる。
そんな具合に、人は自分を把握するのが困難である。自分の行動原理を把握することが困難だし、把握することさえ困難なのだから、行動原理をコントロールすることなど尚の事難しい。しかも、仮に行動原理をコントロールできたところで、それは自分にとってメリットのある行為とは言えないかもしれないわけだ。そんなこんなで、人は自分を把握することを諦め、自分をコントロールすることもまた諦める。別に、諦めたところで損があるわけでもないのだ。というか、むしろ明らかに得なのである。
というわけで、人はナチュラルに自分を支配することを諦める。人は、自分を支配せずに、自分を把握せずに、自分を理解せずに、時に何かを貶し、冒涜し、何かを貶める。そして、何かを壊す。自分のやっている行為について反省することはない。自分の行動原理について反省することはない。
それはコストが大きすぎる割にリターンの少ない行為だからである。よって、人は自分をコントロールすることを諦める。
人は自分を支配することができない。だからこそ、誰かが自分を支配することを心の底では望んでいるのだ。水は流れる。人は支配される。そうして今日も地球は回る。幸いなるかな、水は流れる。