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2022-06-14

欠点

この時期に問屋業者が増え、店自体の売上が均一化し、多くのぬけ荷品が闇市場に並ぶといった所があげられる。それらの欠点豊臣秀吉時代の末期には露呈した。また、領主特定商人関係を結んで御用商人化し、領主命令を受けて座に代わって市場支配権を得る例も見られた。これらは欠点と言うよりは規制緩和としての楽市楽座が不完全であったこと、また楽市楽座が相当な利益商人にもたらし、制度としてのインセンティブ設計成熟していなかったことを意味する。

更に近年では中世日本都市中世西欧自由都市比較しようとして、楽市・楽座そのもの過大評価しているとする批判もある。そもそも楽市自体城下町や領内の主要都市商人を集めるための政策であり、大名がこうした地域に対して何らかの統制を意図しなかったとは考えられないというものである。また、一見して商人による自治を認めながら、実際にはその自治責任者地位にいるのは大名の御用商人や被官関係を結んで商人司など大名が定めた役職に任じられたものであり、商人司を通じて大名経済政策に沿った方針が浸透していたと言われている。更に織田政権楽市・楽座を推進する一方で座の結成・拡張を図っている事例もある。例えば越前国足羽郡で薬屋を営んでいた橘屋は、朝倉氏の滅亡後に織田信長から北ノ庄などで唐物を扱う唐人座と絹織物を扱う軽物座の責任者に任じられて役銭を徴収し、天正4年(1576年)に北ノ庄に楽座令が出された際には先の信長命令理由として両座に対する安堵状が出されている。つまり楽市楽座一見上は規制緩和を掲げながら、実態大名による新たな商業統制策であって江戸時代幕藩体制における商業統制の先駆けであったとする指摘もある。

 
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