はてなキーワード: 夏休みとは
俺たち姉弟は不幸にも出来損ないの遺伝子を受け継いでしまった。
コミュ障で多動気味の父親と、美人だが(だったが)学習障害気味の母から生まれた私達は二人の特性を見事に受け継ぎ無能という名のサラブレッドとして現代社会の悲しき烙印を押された。
社会性がないため姉は中学2年生から不登校になった。県1の馬鹿高校に行ったが夏休みが来る前に中退した。
俺は別のアホ高校に入学するも高校2年のときにいじめに耐えかね姉と同じく中退した。
俺はすぐに高校認定を取った。意外とこの程度ならなんとかなった。
姉はネトゲ廃人だったりニコ生主だったりとよくわからない生活をしていた。たまにバイトらしきものをしてたこともあるがどれも一瞬で辞めていた。
18歳になった俺は1.5年程度だけの短期のIT系の専門学校に入学した。
普通に偏差値の高い大学卒の元社会人なんて優秀な人もいたが入試という学力によるふるいの概念がないためか何しに来てるんだろいうという人が多かった印象だった。
就活はかなり苦労した。短い学生生活の中で個人開発やプログラミングは好きになれたから喋りは下手だったがエンジニア面接では意外にも好評なことが多かった。
しかし無能であるが故にエンジニア外の人事面接と適性試験でふるい落とされるのだ。
俺みたいな無能がちゃんと弾かれるなんて現代社会の採用フローというのは大変良くできていると感心した。
オブジェクト指向という言葉すら知らない級友が次々と内定を取る中で応用情報持ちで何個かWebサービス構築経験もある俺だけが取り残されていった。
卒業間際になってなんとかギリギリ田舎の零細IT企業に内定した。
頭は壊滅的に悪く初っ端から愚鈍ないじられ役というポジションを確保したが、証券会社の株うんちゃらシステムを構築できるくらいの知能がギリギリ残っていたのは不幸中の幸いだった。
コンビニバイトもあんまり続けられなかったがSlackメインでほとんど人と喋らなくていいプログラマーという職業はまあまだましな環境だと思えた。しかし2年ほど勤めたがやはり上司のパワハラで鬱病を発症し退職した。
俺は遅刻しても怒られない、気が向かなかったらリモートワークOK、残業なしな自社サービス中心の県外のIT企業を1年かけて探し出して転職した。残業代で稼げない分給料はちょっと下がったけど、もろもろゆるいオタク中心の会社だったから生きるだけならギリギリなんとかなった。
姉が結婚したと連絡があったのは俺の転職から2年後くらいだったと思う。
出会いは親には言ってないらしいがペアーズがきっかけだったらしい。
相手は姉より2歳年上の大卒公務員。見た目は身長は160cm前半くらい。女に慣れているようには見えなくて、良く言えば誠実、悪く言えば陰気な印象を受ける男だった。
結婚の報告を聞いたとき俺は素直におめでとうと言った。姉は優しい夫に支えられる不器用な専業主婦になった。幸せになったようだった。
久しぶりにGWに自分と姉は実家に帰った。家族が実家に揃うのは随分と久しぶりだった。
そこで姉に「あんたも私みたいに良い人はよ見つけて幸せになりや。」というような無神経な言葉をかけられて俺は思わず頭に来てしまった。
『良い人を見つけて幸せになる?』そんな人生の救済ルートは無能な男には端から存在しなかった。
「俺は両親の無能を受け継いでしまったために毎日毎日地獄みたいな人生を送ってきた。お前みたいに俺と同じ社会の最底辺の無能なくせに女というだけで何の努力もせず冴えない公務員に媚売って養ってもらって人生救済されるような甘えきった人生送ってる奴と一緒にするな。頼むから俺みたいな不幸を作らないためにも子供は産まないでくれ。」というようなことを言ってしまった。流石にちょっと謝ったが姉は泣いた。
両親に怒られたが似たようなことを両親にも言った。
俺は無能な母親の甘えと冴えない父親の妥協により無能に産まれ、無能だからとありとあらゆる差別を受けてきた。
無能な男にポリコレの救済なんて存在しない。有能な同性愛者への差別にどんなに厳しい社会になったとしても無能な異性愛者の男に救済が訪れることなんてないのだ。
トイレの男女アイコンなんかに差別とかケチつけて大真面目に議論してる人達より俺は何百倍も苦しんで生きてきた自信があるからそんな彼らがなんだかとても空疎に見えた。
俺は社会になんて出たくなかった。姉のように優しいパートナーに養われるヒモみたいな人生を送りたかった。
答えは簡単、無能な女は男の性欲に愛されて、無能な男は女の性欲に愛されないから。
6年もニートやってた社会経験0のコミュ障な男に『公務員の女性と結婚して養ってもらう』なんて選択肢があるか?あるわけねーだろ。
脳みそ含めて五体満足生まれた有能な男女にはわからないかもしれないが、無能には無能の世界がある。無能な男は異性に媚売って守られる生き方すら許されず、それは即ち毎日が生きるか死ぬかの戦いで、この世に味方は一人もおらず、そこがどれだけ地獄なのか、考えたことはあるだろうか。
頼むから男は自分が狙える範囲だからといって無能な女性で妥協するのは辞めてくれ。
無能な女性は結婚して幸せになるのは百歩譲ってまだいい。ただ子供は作らないでくれ。少なくとも男を生むのだけはやめてくれ。
あなたは女性だからあなたのような無能でも生きていけたかもしれないが、男の社会はそんなに甘くはない。
俺は恐らく間違えてるんだろう。でもこういう風にしかなれないんだ。
俺はめちゃくちゃ人生苦しいよ。30までには死のうかなと思ってる。
例の小学生YouTuberの件で、色々不登校に関する記事を見かけたので、ちょっと自分語りを。
原因はいじめ?かな。正直いじめだとは思うけど、金をせびられたり、暴行されたりと言った事はなくて、無視されるとかキモい汚いと言われるとかそんな感じだった。
当時、私は結構ひどいアトピーで、それが原因でキモいだのなんだの色々言われた。そこから元々あんまり好きじゃなかった学校がどんどん嫌になって、2年生の時に夏休み終わった2学期の初日に行けなくて、それからズルズル休み続けた。
不登校の期間はあんまり覚えてないけど1年いかないくらいだと思う。
不登校を脱したきっかけは自分や親の力と言うよりは学校の先生のおかげかな。親がそっとしてくれたのもあるけど。
3年生の時に担任になった先生がすごく熱心な先生で、頻度は忘れたけど何度か家にきては「増田君!学校に行かないか!」とか言った感じで半ば強引に引き出してくれたおかげ。当時はすごくテンション高くてちょっと強引だったのは嫌だったけど、今となっては感謝してる。
今は良くなってるのかもしれないけど、もっと自然に社会のレールに戻れたら良いのにって思う。
私が不登校の間、不登校の子達が行く民間学校?みたいなところの見学もしたんだけど、そこはあまりにも今までの中学校と違いすぎて、私にはしっくり来なかったし、不登校の子として、学校に合わない子として扱われてる気がした。
今思えば、私は学校から自由になりたくて不登校だったんじゃなくて、学校に戻るきっかけが掴めずに不登校だったんだと思う。だから、不登校って言う事を特別な子として扱われてる事に私はなんだかすごく違和感がある。
特別な子も確かにいるんだろうけど、不登校の子の中の何人かはただきっかけが掴めなかったりするだけで、学校を変えるくらいでまた通えるんじゃないかなって。
フェイクは一切無し。知ってる人が見たら多分バレてしまうけど、それでも吐き出したかった。
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親にはそう説明した。
嘘ではない。実際に理科は好きだったし、数学も嫌いじゃなかった。
でも選んだ理由はそれだけじゃなかった。
高校の知名度は下から数えたほうが早いだろうけど、偏差値は中の下付近で極端に低いわけでもない。
頭が良ければもっと偏差値が上の高校を選ぶし、頭が悪ければもっと下に名前を書くだけで通るという有名な高校がある。
小学校・中学校と暗い学生時代を過ごした私にとって、“同級生と一緒になる確率が低い高校・学科”が高校選びの一番のポイントだった。
残念ながら中学の同級生0人とはいかなかったものの、クラスに3人だけ、全員私と同性だった。
彼女たちは数少ない同じ中学出身者というだけで、私を仲間に入れてくれた。
私がいじめられっ子だったことは、勝手に水に流していて何事も無かったかのような振る舞いだった。
そのことに傷ついた。
中学ではただ周囲に合わせていただけで、自分たちを守るために仕方がなかったのかもしれない。
私が何年もつらい毎日に耐えなければならなかった理由が、空っぽだったのだから。
私がつらい思いをしていた間、自分たちは守られていたのだから。
でもそんなことを今さら蒸し返すまいと、終わったことだと思うようにした。
過ぎた時間は取り返せない。これから楽しくやれれば、いつか忘れられる日がくるだろうと。
しかし、そうはならなかった。
そしてその子は不運にも何人ものいじめっ子と同じクラスになった。
見かねて声をかけようとすれば、周囲の子たちが私を止めた。
あれよあれよと勢いと人数が増え、その子は入学後半月もせずに孤立して保健室登校になった。
大きなガラス窓の保健室は昇降口の向かいで、むしろ晒し者という感じだった。
登校して一番最初に見えるので、クラスメイトの一言目がその陰口になるのはほぼ必然だったのかもしれない。
その子が教室にいないのに陰口は止まず、いつしかクラス内が常にギスギスするようになった。
クラスメイトの会話の内容は大部分が低俗な週刊誌のようになった。
駅で見かけたというだけで盛り上がれるほど狂っていた。聞いていられなかった。
日に日に不安が大きくなっていった。
このままあの子が保健室にいるとしても、教室にも標的が必要になるのではないか。
そしてそれは私になるのではないか、と。
忘れようとしていた過去が蘇って、毎日が苦しくてどうしようもなかった。
予想通りあの子のネタはすぐに尽き始めて、他の人にそれを求めるようになった。
クラス内は決まったグループでほぼ固定され、互いに監視し粗探しをするようになった。
あっちのクラスではこんな噂があるとか、着替えが遅いから更衣室を一緒に使うはめになって邪魔だとか、
会話ができる時間は誰もがそんなことばかり話していた。
私は、いつ小学校・中学校時代のことが掘り返されるか不安で不安でたまらなかった。
毎日が恐怖だった。
下手なことを言わないように、刺激をしないように、とにかく必死で顔色を窺った。
状況は何も良くならないまま、夏休みになった。
朝起きても学校に行かなくて済む。それだけで救われた。
でもそんな天国のような時間は永遠ではなく、夏休みは終わりを迎えた。
また戻るのか、大丈夫だろうか、休みの間誰からも連絡がなかったのは何かあるからなのではないか。
そんな不安がぐるぐると渦巻いた。
中学のころはそれでも登校できていたのに、もうできなかった。
うちのクラスは40人いるけど8人が同じように学校に来てなくて、先生も参っている。
女子も何人か休んでるけど、誘い合って一緒にがんばって登校してみないか。
そんなことを言っていた。
ぼんやりと話を聞きながら、40人中8人って多いなと考えていた。
そして休んでいるのは私だけじゃないということに、なぜか少しだけほっとしていた。
どうして登校しないのかと尋ねられた。
いろんな思いが膨れ上がって、言葉が出せなかった。
唯一絞り出せたのが、あのクラスにいることが辛いという一言だけ。
中学のころの出来事がフラッシュバックするのだと伝えるよりも先に、担任が口を開いた。
ほかの人がいじめられてるのが辛いなんてピュアな心はいいけど、それじゃあダメだ、と。
担任は、生徒のいじめを止めさせるのではなく、やられる側が諦めることを求めていた。
それに見当違いだ。
たしかに誰かがいじめられていたら心が痛むけど、私が一番苦しいのはそこじゃない。
きっとすでにクラスでは私のことが知られているだろう。そこにさらに自分で油を注ぐような真似はしたくない。
一度は伝えようとしたことを話すのをやめた。
いっときだけ仲間に入れてくれた同じ中学の子たちからは、そのあとも一度も連絡はなかった。
担任以外、誰も私を訪ねる人はいない。あのクラスに私の居場所はきっともう無い。
ここで休学にしたところで、行ける気も、行く気もしない。
私は退学を選んだ。
自分、スマホゲー(以下、時間で体力が回復するゲーム全般をこの語で表す)向いてないなと思う。
やりたいゲームがコロコロ変わるし、やめたゲームをある日突然また始めたりする。体力制だと一気にプレイできないのももどかしい。根本的に向いてないんだと思う。
だが、そんな私も細々と続けているスマホゲーがある。推しもたくさんいる。ガチャも結構回した(主観)。プレイしたりしなかったり、時には1週間単位で放置することもあるが、だらだらと体力を溢れさせながら遊んでいる。
同じゲームを遊んでいる友人にそのプレイスタイルを話すと、凄くもったいない!と言いたげな顔をされる。彼女はそのスマホゲーに完全に生活を縛られていて、6時間おきに必ず体力を消費している(その上で石も割って体力回復している。凄い)。
思えば彼女は毎日コツコツ宿題をこなしていた。私は逆に、最終日一気に片付け……きれる訳もなく、夏休みが終わってから取り組むタイプだった。
他の友達を見ても大体そうだ。真面目にやっていた子はスマホゲーも真面目にやるし、一気に片付ける子は体力を溢れさせる(もしくは体力制のゲーム自体やらない)。
ツイッターを見ればスマホゲーをコツコツ真面目に遊んでいる人ばかり目につく。そんなにみんな真面目くんだったのだろうか、日本人(クソデカ主語)。
アナログゲーム(ボードゲーム、カードゲーム)についての続きです。
でんしゃクジラ
麻雀を簡単にしたゲームだそうです。ポンジャンよりも簡単かな?
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https://store.shopping.yahoo.co.jp/amiami/toy-012981.html
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https://www.yodobashi.com/product/100000001003288546/
ゲームはふれあいシリーズなのですが。ハングリーパンダなど、オリジナルゲームかな?と思われる作品がいくつかあります。
500円ちょっとでオリジナルゲームを出しているなら凄い気がします。
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https://bodoge.hoobby.net/games/animal-mind
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どうぶつサッカー
https://bodoge.hoobby.net/games/dobutsu-soccer
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https://www.yodobashi.com/product/100000001001855000/
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シェフィ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%95%E3%82%A3
一人用カードゲームです。
3DS等でも出ていて、気軽に遊べます。
小学校〜中学校の夏休み、どこの学校でも自由研究が宿題に課されていたと思う。
私はそれがひときわ苦手だった。
まず、テーマが出てこない。自分が何をやりたいかが出てこないのだ。
出てきたとしても、それは既存の実験やら本に記載されたアイデアの焼き直し。
小学校の頃は、親に渋々手伝ってもらって、テーマを一つに固定して行ったことを覚えている。
中学の頃は、統計のような資料を基にしてある種あたりまえのようなことを述べるだけだった。
そしてそのどちらも、テーマに関する考察や疑問が設定できず頭を抱えたものだった。
今になって思えば、ああいう課題は子供の発達障害(の一部)を見分けるために出しているのかもしれないと邪推している。
紋切りや媚びた文章で覆い隠されがちな読書感想文よりも、よっぽど自己発露が試されるからだ。
ちゃんと自発的に考えられるか、きちんと疑問を持ち、それに対して解決できる小柱や実験を計画できるか。
そういったことを見定めるある種のファクターとして活用できる、もしくはされていると思う。
ただそれは、研究室時代に子供の頃から矯正を放棄されていた考え方を改善されたから。
教授や先輩にミッチリしごかれたからこそ、無事論文を提出し、就職できたと思っている。
今でこそ研究テーマを自分から持っていき、質疑や討論を出来るようになったものの、
(たまに重箱の隅をつつくような意味なし質問をしていまうこともあるけれど)
配属当初はアウトプットがボロボロすぎて「君はなんのために研究をして学問を学ぶのか」と詰問された程だ。
まだ先のことなのに夏休みの旅行の予約を取って、どのツアーがベストか同行者と延々とやり取りしている。
直行便がないところで乗り継ぎ必須なのと、どうしても行きたい場所の滞在時間がツアーによってかなり違うので、行き先が同じなのにかなり悩む。フライト時間が短く、行きたい場所で二泊ぐらいできるツアーが条件的にはベストだが、その分値段が高くなる。
同行者はなぜか条件の良いツアーを探して来るのが上手いので、よっぽど任せてしまおうかと思うのだが、そのわりに私の意向にやたらと気を遣うので面倒くさい。どの航空会社を使うかで、かなり値段に差がつくんだけど、安い方にすると乗り継ぎの待ち時間が長くなる。
往復含めて8日の旅を予定しているが、初日と最終日はひたすら飛行機に乗って過ごすことになる。最初は値段の安さ重視で予約してしまったが、乗り継ぎに時間がかかりそうだし、一番行きたいところに半日しかいられないのでキャンセルした方が後悔しないのではないかという話になっている。
だんだん金銭感覚がマヒしてきて、多少高くても条件の良いツアーにしてしまいそうだ。旅行は行く前にいろいろ考えるのが楽しいとは思っていたけれど、こういう連休の暇つぶしに使えるとは思わなかった。夏にそんな旅を予定しているので、GWはなるべくお金を使わない過ごし方をしようと思っている。
大学生頃から社会人10年目くらいまで、下半身を露出するおじさんに年内に何回かは遭遇していた。
理系だったし割と遅くまで大学や会社にいて帰宅が遅くなることが多かったからか、私の周りにもそういう被害者?が少なくなかった。
帰り道の公園で露出した状態で立ってたり、路地に入った曲がり角で見せられたり。大学院は田舎だったから自転車通学で、夏休みの閑散としたキャンパスを車で追いかけられたりもした。どんだけ見せたいんだ?
遭遇回数を重ねると慣れる、というか、彼らは驚かすことが目的であって危害を加えてはこないことを知ると、そんなもんか、となった。毎年同じ時期に同じおじさんに見せられてる友達が何人かいて、面白おかしく報告しあったりもした。(しかし文章にすると異常な光景だなと今更ながらに感じる。)
毎年暖かくなると、そういうおじさん達のことをふと思う。彼らは幸せに暮らしてるんだろうか、と。あんな夜遅くに、一人で暗闇で、来るかも分からない若い女を、ひどく滑稽な格好で待ち構えていた中年の男性。哀愁しかない。いま帰る家はあるのかしら、と。
その年と年収で旅行に40万~50万円かけちゃうのってすごいなぁ。まぁ長期に渡って行くとか高級ホテルに泊まるとかならお金かかっても仕方ないけど。
自分は年齢も年収も元増田の倍ぐらいだけど、夏休みの旅行に30万円かけるのに躊躇してる。休みをとりやすいのがお盆の前後なので、特に贅沢しなくてもツアー料金が全体的に高くてムカついている。まぁ自力でいろいろ手配したりトラブル対応したりする能力が低いので、大手旅行代理店を頼るしかなくて高くついてるんだけど。
テトリスという匿名ダイアリーを読んで、ほとんど同じような経験をしていたのを思い出した。
突然すぎる家庭環境の変化に耐えかねて、警察沙汰になるようなイタズラを外で繰り返していた。
ひねくれすぎて、小学校の友達に卑屈な態度をとっていたせいで学校内で虐められた。
やがていじめから逃げるようにして、学校帰りゲームセンターに通い、コインゲームにハマっていった。
知らないおじさんからもらったメダルや拾ったメダルで、ただひたすらにコインゲームをやっていた。
今にして思えば、あのコインゲームのスペースは寂しい人たちの集まりだった。
いじめられっこや家庭内で放置された子供、それから家に居場所のない老人。
そこで新しいコミュニティを築いた。同い年の不良から老人まで幅広い世代の人たちと交流し、そこでいろんな人に優しくしてもらった。
中学校を卒業するまでゲームセンター通いは続いて、高校へ入学と同時にゲームセンター通いは止まった。
増田と同じように大学受験に失敗して浪人が決まった時、ゲームセンター通いが再開した。
結局この時も、大学が決まるまで2年間通い続けた。
大学に入ってからも春休みや夏休みなど大型連休で精神的なバランスが崩れるたび、ゲームセンターに足を運んだ。ひたすらにコインゲームを続けた。
彼女に振られたとき、家庭内が不穏なとき、大学の課題がキツイとき、強いストレスを受けるたびにコインゲームに没頭した。
社会人になっても長い休みを見つけるたびに足は自然とゲームセンターへと向かう。
3000円を両替機に突っ込み、メダルをジャラジャラさせながらプッシャー機にメダルを落としてゆく。
きっとこれからも強いストレスや不安を感じるたび、ただただ無心でコインゲームに没頭する。
それがテトリスの増田と同じ、傷ついた心の回復方法であり、安定剤なのだろう。
近頃だんだんと数を減らしてゆくゲームセンターとコインゲーム。
全てが消えてしまった時、私はどうやって傷を癒せばいいのだろうか。
大型連休が終わろうかという頃にはいつも 、なんとも言えない敗北感が胸を掠める。娘が生まれてもうすぐ2年。日頃、仕事や家庭のことに手一杯で、やりたいこと・やるべきことはいつまでも消化されず積み上げられていくばかり。「夏休みこそ」「正月こそ」かすかに抱く希望をよそに、2,3の小さな予定をなんとかこなすだけで、連休は矢のように過ぎていく。紛れもない敗北である。これは個人の問題ではない、家族の問題であり、ひいては社会の問題でもある。多くの日本人は、大型連休に敗北し続けているのではないだろうか。誰のせいでもないし、誰かを犠牲にすべきでもない。計画力と実行力、ちょっとした機知と発想の転換でもってこの戦いに勝機を見出すことはできないものか。
奇しくも今年のGWは10連休。令和という新時代の休み方を模索する絶好の機会ではないのかと思い、筆をとる(話を大きくしていくスタイル)。
2歳前の娘ちゃんは、お熱を出したりご機嫌が悪かったり、当然ながら大人のようにコンディションは安定していない。デリケートである。正月休みまでは、そのあたりを踏まえたスケジューリングができていなかったのではないか。「予定どおりにいかなかった」という事実は、敗北感を増大させる。
大型連休は時間に余裕があるように思えてしまうため、「この機会に」とそれぞれのタスクを真っ当にこなそうとしてしまう。だが、実際にそれをやろうとすると想定以上の時間を要することになる。
また、得てして「時間があったらこれもやろう」というのは、実行に移されない。想定内のはずなのだが、敗因①と同様どうしても「結局できなかった」というネガティブな印象が残る。
大型連休は家族との絶好のコミュニケーションの機会だ。長時間ともに過ごし、いつもとは違う場所で遊び、ふれあうことは、家族の絆を深めることにつながる。しかし、すべてのタスクを家族とともにこなすことはできない。リサーチや意思決定のフェーズにおいては、一人または夫婦だけで集中して取り組む時間が必要になってくる。
(幼い子供との時間は貴重だ。見逃せばあっという間に過ぎていく。だからこそ、必要に応じて意識的に距離を置かなければ踏ん切りがつかない人もいるだろう。)
また、神経のコンディションを早期に整えなければ、日常のダメージを引きずったまま無為に過ごしてしまうことも考えられる。
幸いにも今回は10連休である。バッファの設定は比較的用意なため、休息日とは別に、前半・後半に1日ずつ予備日を設けることとする。休息日を含む8日間で処理しきれない予定やタスクは計画しない。
日常のルーティンは、このGW期間中は簡略化しよう。目につくのはやはり家事だ。まず食事。市販のルーを活用したカレーは、簡単かつうまい。毎日鍋を火にかければ、継ぎ足し・アレンジ・具材の変更も可能で、長く育てていくことができる。合間に会食や出前を挟みながら、カレーを食べ続けることにしたい。ただ、量は少なめを意識。カット野菜のサラダも合わせたい。
次に洗濯。こまめに洗濯機を回すのではなく、数日分をまとめて洗濯しよう。洗濯乾燥機なら、干す場所にも悩まなくて済む。
最後に掃除。ルンバを走らせるために最適な環境を初日に再整備する。また、神経のコンディションを乱さないためにも、余分なものは積極的に捨ててすっきりとした生活環境を心がける。それには一定の時間がかかることを理解し、余裕を見ておくこと。
このGWにやる必要がないタスク、平時の週末に対応できるタスク等は「やらない」と決める。本当に時間と気力が余っていたら、そのときにまた考えればいい。基本的には「やらない」。
意識的にひとり及び夫婦の時間を確保する。まず、「ひとりの時間」については、妻から確保させる。自分が娘ちゃんを遊びに連れて行く日を設定し、妻がフリーの日を1日設ける。一方、こちらも同様にフリーの日を設けてもらう。読書やパソコンでの調べ物などは家に居てもできると思ってしまいがちだが、娘ちゃんのかまって攻撃、妻の行動が気になってしまい集中できないところがある。可能であればカフェなどに行き、用事に集中すべきだ。家族が寝静まってからのひとり時間もリラックスにはよいが、大型連休では夜更かししてしまいがちになる。ほどほどにして翌日に備えたい。
「夫婦の時間」は、娘ちゃんのお昼寝中、就寝後に意識してつくる。だが、お互い疲れているので、睡魔に襲われ、ろくにコミュニケーションできず終わることも少なくない。日常のダメージを早期に抜くためにも、前半に休息日を設けておくべきだ。
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正直、これで勝てるかどうかはわからない。
今朝妻と相談し、お取り寄せグルメイベントを組み込むためモツ鍋を注文した。
イベントが増えていくなか、我々はどこまで戦えるだろうか。
諸兄の助言を求めたい。
今日学校で懇談会があって、時間が余ったので近くの人とグループ組んで情報交換的な事をしてよくなった。
そしたら、担任の先生すぐそこにいるのに、出るわ出るわ先生の悪口が。
担任の癖に無責任だとか、中途半端にやるくらいなら教師辞めろとか色々、聞くに耐えない罵詈雑言を聞かされた。私が反論しても全部遮られてしまう。
自分等の悪口にエキサイトしてしまって、ノリノリで、ほんの数メートルの所にいる、自分等よりも十以上若い担任に聞こえよがしに言いまくる。とても楽しそうに。
止められない私はなんて無力なんだ。辛い。
自分の娘が、将来教師とかなんか色々な仕事をして、妊娠したくらいでそんな風に言われたら嫌じゃないのか?私は嫌だ。
私としては、人生にはどうしても仕事よりも自分の身体や家族などを優先しなければならない時期があるというのを、子供達に当然だと思って欲しい。子供が生まれるという事にネガティブな感情を持って欲しくない。
担任の先生が妊娠中でそのうち産休に入るというのは、そういう意味ではラッキーなのではないだろうか。人間とはそういうものであるという事を、知れる。
先生も人間だから、妊娠出産の他に、病気や怪我で休養を取らなければならない事だってある。
人は壊れない機械なんかではない。そういう事を知って欲しいから、先生は完璧超人でなくていい。親だってそうだ。完璧超人でなくていい。
小学生の頃の夏休み、母方の従兄弟の父方の祖父の家に遊びに行ったことがある
当然自分とは何の血の繋がりもないが、母方の叔母が自分の姉=私の母とその娘=姪である私も誘ってくれた
祖父(ではないけれど便宜上そう呼ぶ)は九十九里の海岸沿いに別荘を持っていて、叔母家族と母と私でお邪魔した
祖父は優しい人だった
なんの縁もない私にも血の繋がった自分の孫と同じように接してくれた
ザリガニ釣りをしたりスイカ割りをしたりバーベキューをしたり、まさに「小学生の夏」のイメージそのままの1泊2日を過ごした
とても楽しかった
ちなみに「別荘」という言葉から当時の私は勝手に大豪邸を想像していたのだが、実際の別荘はそれより3回りは小さくて
内心「家ちっさ…」とか思っていたのは内緒だ 今考えると失礼な小学生だ
祖父に会ったのはその年とその次の年の夏の2回きりだった
叔母は母と私も葬儀に呼んでくれた
正直な話、この時既にもう祖父の顔も声もよく思い出せなかった だって2回しか会ってないんだから
それなのに涙が止まらなかった
忘れかけていたあの夏の思い出を一気に思い出した 浜辺に流れていた月の砂漠の物悲しいチャイムの音も急に思い出した
棺に手を合わせていたら後ろから知らないおばさん達が私の話をしているのが聞こえた
「○○さん女のお孫さんもいたっけ?」
「あの子は直接のお孫さんじゃないけど一緒に遊んだことがあるんだって(みたいなことを説明してた気がする)」
「あらそう、それなのにあんなに悲しんで泣いてもらってるの、○○さんも幸せねえ」
あんなに悲しくて泣いたのに、結局葬儀から数日もすれば私はまた祖父のことを忘れてしまった
なのに「泣いてもらって幸せだね」という言葉だけはなぜか強烈に頭の中に残っていて、
どうして泣いたんだろう、泣く資格とかあったのかなとか思った
ところで、それから数年経って私の血の繋がった祖父(父方)も亡くなった
葬儀では私は当然のように泣いたのだが、母もまた泣いていた
それを見た親戚のおばさんが、「お嫁さんにあんなに泣いてもらって、●●さんも幸せねえ」と言った