はてなキーワード: 主催者とは
格闘技は大好きだった。自信のなかった自分を救ってくれたのは格闘技だった。フルコンタクト系の空手を10数年続けてきた。
結局強くはなれなかったけれど、練習は自分にとっての修行だと考え、真摯に向き合ってきた。
先生に恵まれ、稽古仲間にも恵まれた。とても充実した時間を稽古の中で過ごすことができた。
K-1を見るのも大好きだった。道場では、フランシスコ・フィリヨ選手に稽古をつけてもらったこともある。ニコラス・ペタス選手には何度も手取り足取り教えてもらった。ものすごく楽しかった。武術家で、プロの格闘家でもあった彼らは、自分にとってのヒーローだった。憧れの対象だった。強くなりたくて、彼らの動きを見て、自分なりに研究しもした。結局、強くはなれなかったけれど、かけがえのない貴重な時間を与えてもらえた。
さて、中国武漢発の新型コロナウイルスが世界中に惨禍を撒き散らしている昨今、こういう状況下でK-1という一大イベントが開催された。やってはならないことだった。国に責任を押し付ける人々も多いけれども、それは子供じみた理屈だ。大きなイベントの主催者は、興行が不可能になる事態もあらかじめ想定して、中止のオプションも持っていなければならない。今回のK-1開催は、巨大な感染源を作る恐れが大いにあるなかでの、極めて危険な行為であり、多くの専門家が身を削って対策を練り、実行に移し、大勢の人々が感染を食い止めようと重ねてきた努力を無にするおそれのある非常に危険な行為だった。
主催者は、己の経済的得失と日本人全てが負うことになるリスクを天秤にかけ、己の利得を優先させたのだ。
K-1に出場した選手たちのなかには、誰がなんと言おうと格闘技は素晴らしいんだとか、こういう時期だけれども格闘技でパワーを得て帰ってほしいなどと、アドレナリンが頭に満ちたような言葉を発して盛り上がっていたようだが、端から見ていてばかにしか見えなかった。
彼らのように強くなりたいと思って努力を重ねてきた自分なのだが、なんだか冷めた。
落ち着いて考えれば、しようがないのかなとも思う。格闘技しかやってこなかったような人たちなのだ。極端に視野が狭い。特定の分野だけに限定した思考を重ねて来た、一種の天才たちなのだろう。視野の狭い思考しかできないというか、あえてそうなるように努めてきた人たちなのだろう。一般的な想像力に欠ける。そうでなければ、他人の頭部を思い切り繰り返し打撃するなど、できたものではない。
殴り合いや蹴り合いに強くなるよりも、もっと大切なことがあるのだ、ということを今回のコロナウィルス禍は私に見せつけてくれた。

主催者や偉い人がいるのはバックステージ。お客さんに対応するのは運営サイドが雇った派遣会社。その多くは日雇いのバイトです。
この実際にお客さんに接する日雇いバイトたちが、今困窮して苦しんでいます。
そう思った貴方は正しい。実際に多くのスタッフがイベント業界を諦め、別の業界に転職を始めている。
学生がバイトでやっているなら別の仕事を見付ければいい。フリーターならやはり別の仕事を見付ければいい。
日頃多忙で不定期の休みに小遣い稼ぎをする人たちは、残念だが終息まで休んでいてもらうしかないだろう。
では残っているのは誰なのか。
これはイベント業界特有の現象なのだが、日雇い=最下層の立場とは限らないのだ。
下手な社員よりも権限があり、現場のスタッフの指揮どころか評価まで任されている。給料も抜群に高い『日雇いバイト』
イベント会社にとって何よりも大事で、後継が育っていないと会社の屋台骨すら揺らぎかねない大事な人財である。
時給制で長時間勤務も多いので軽く30万以上稼ぐバイトチーフたちは、会社からの引き留めもあり転職が出来ないでいる。
だが、一月以上現場が全く稼働していない状態が続けば、さすがのチーフたちも限界が訪れる。
3月19日の会見で自粛がしばらく続くのが確定的となり、転職を目指す動きが一気に活発化した。
うちの会社で大人数の現場を仕切ってくれていたチーフも、故郷に戻り家業を継ぐという。引き留めなど出来るはずもない。
内情を明かす事になるが、私が勤めている会社は3月中には自粛が終わって再開すると見込んでいた。
もちろんいきなり100%には戻らないだろうし、ドームやアリーナクラスの会場はしばらく難しいとしても、各地の市民会館くらいなら出来るようになるだろうと。
何故かというと、イベント会社やフリーの技術者たちが仕事が皆無の状態で耐えられるのは一か月程度が限度なので、再開せざるを得ないという判断だった。
もちろん仕事量は大幅に減るが、チーフたちが働く現場さえあれば、終息後にまたバイトを増やせば現場は回るのだから。
再開した興行も、人数は本当の意味での必要最小限。余剰人員は一切なく、休憩すら満足に回らない状況だ。
普段ならそんな仕事は断るのだが、数少ない依頼を断る余裕などあるはずもない。
政府 :新型コロナを早期に終息させるため民間にイベントの自粛を要請。
主催者:イベントを開催するのは個人の自由。イベントに参加しないのは勝手だが返金はしない。
参加者:新型コロナは怖いけどチケット代が無駄になるしイベントを楽しみたい。
悪いのはだれ?
クラスターになることを選ぶのは”参加者側”なので、イベントを開催したからと言って事業者、主催者側が責められる謂れは本来ないんですよね。
『開催したけど人は来ませんでした。けれどコロナ騒ぎじゃ仕方ない』 となるのが普通で、『開催して人を呼ぶなんて馬鹿か!』と叫ぶのは決まって 参加しない人=感染リスクを負わない人 なんですよ。
『そういう場所に参加してんじゃねえ、参加したなら手を洗ってうがいして2週間は近寄るんじゃねえ』と叫ぶならまだ分かるんですが、
『そういう場所を開くんじゃねえ』っていう考えって行き過ぎたらダメだと思うんですよ。場所があるから行くのではなく、行きたいって思う人が居るから場所が用意されているんです。
さいたまスーパーアリーナのK-1、西村担当相も自粛要請 主催者は決行へ
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200321-00000046-mai-fight
椎名林檎の東京事変ライブ決行の時は炎上したのに、今日行われたK-1は、ほとんどトピックにも上がってこない。
K-1は興行時間が8時間とライブの比較にもならないほど長く、クラスター化してもおかしくない。
運営側が言っている感染予防対策も「マスク配布」とか「ミネラルウォーターを無料配布、定期的に水を飲むことが感染予防の対策」とか「会場内では加湿器と次亜塩素酸水を使った空間除菌」とか、頭おかしい。
何で話題やニュースにならないのだろう?とおもったらAbemaTV(テレビ朝日とサーバーエージェント)で中継やってるのな。(あと来週テレ東)
あぁ。やっぱテレ朝もサイバーエージェントもやっぱりなって漢字。
試合でも宿泊や移動でも「集団感染する3つの条件」を満たすことはほとんどないのに中止っておかしいでしょ。
「換気の悪い密閉空間」「人が密集していた」「近距離での会話や発声が行われた」
の3つ条件のうち、2つをなんとなく満たす場合も避けるって話ならそれは無理だろ。
「日本高野連の八田英二会長は4日「中止することは簡単、甲子園でプレーしたいという球児の夢のために」と思いを口にした。主催者側は、この1週間、代表校の関西への滞在期間を短くする、移動のバスの手配、宿舎を1人部屋にするなど、あらゆる感染防止策を考えてきた。だが、ウイルスという見えない敵の前に、無念の「中止」を決定した。」
って日刊スポーツで報道されてるけど中止の理由が意味わからんわ。
日本国民全員引きこもらせたいならさっさと緊急事態宣言でもなんでもだせや。
中途半端なことさせてんじゃねーよ。
【悲報】ヴィーガン、植物を軽視している者として認定される - Togetter
・グレタちゃんはゲストでスピーチをしただけでデモの主催者ではない。
・大規模な集会なので安全性への懸念があり、デモ主催者は警察と協議して安全対策につとめていた(この点は好評だった模様)。
・芝生の所有者はブリストル大聖堂であり、気候変動問題に積極的に関わっている。
・雨が降っているところに1万5千人も集まったので芝生が泥だらけになってしまった。
・ブリストル市はシートを敷くことも検討していたが、芝生の損傷を防ぎきれないし、滑る危険もあるとして取りやめた。
うーん、まあ「グレタ信者が勝手に野原を荒らし回った」的な報じ方はミスリードかな。
ちゃんと許可を得ているイベントだし、市議会は芝生が荒れるのを覚悟の上で貸し出したんだろう。
芝生を踏み荒らすのはお行儀が良くないというのはそうなんだけど、
大きい反応は3パターン。
1.「なに考えてんの?やめろよ」
3.「好きだったけどがっかり。嫌いになった」
私自身は「あ、やるんだ」くらいのお粗末な感覚だったのですが、
時間が経つにつれて、”ある考え”が大きくなってきました。
そして、
夢を売る仕事は、時に誰よりもリアリストであらねばならない、ということです。
決行を知って、最初にしたことはチケットのリセール探しでした。
致死率3%程度。
本場中国でも感染者7万9251人に対して、死者2835人 です。
(https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200229/k10012307571000.html)
武漢市のある湖北省を除いたら、致死率は約0.16%という報道があります。
これはインフルエンザの致死率の2倍程度。
(https://premium.toyokeizai.net/articles/-/22953)
武漢市の致死率が高いのは、
医療チームのクオリティや、病院のベッド数の不足が関係している、とされています。
(https://premium.toyokeizai.net/articles/-/22953)
大して変わらないだろうな、というのが正直なところです。
そんな楽観的な私が、
「だとしても今回のライブはロックやパンクではなく、迷惑」と思う理由は、
「閏年だったから決行したんでしょ?」という思いが拭えません。
2012年2月29日に解散。
そして8年ぶり、
2020年2月29日に再生。
東京事変はライブを開催へ チケットの払い戻しも実施 #正しい行動!林檎!さすが。命かけて演奏し命かけて聞きに行く。生活に必要な音楽。日常を新たにするもの。なくてはならないもの。今この日でなければならない出来事。— 井上 道義 (@daibutsumichiko) February 29, 2020
そう思われても仕方ないと思います。
というか私は思いました。
「じゃあ仮に、2012年に解散せず、毎年ツアーやってたら今回決行してたか?」
と考えたら、「決行してないんじゃないかなあ」と思ってしまいます。
はっきり「中止・延期・縮小して欲しいです」になっている状況です。
令和2年2月20日
新型コロナウイルスの感染の拡大を防ぐためには、今が重要な時期であり、国民や事業主の皆様方のご協力をお願いいたします。
最新の感染の発生状況を踏まえると、例えば屋内などで、お互いの距離が十分にとれない状況で一定時間いることが、感染のリスクを高めるとされています。
イベント等の主催者においては、感染拡大の防止という観点から、感染の広がり、会場の状況等を踏まえ、開催の必要性を改めて検討していただくようお願いします。なお、イベント等の開催については、現時点で政府として一律の自粛要請を行うものではありません。
令和2年2月26日(安倍総理)
政府といたしましては、この1、2週間が感染拡大防止に極めて重要であることを踏まえ、多数の方が集まるような全国的なスポーツ、文化イベント等については、大規模な感染リスクがあることを勘案し、今後2週間は、中止、延期又は規模縮小等の対応を要請することといたします。
こうした状況において、
中止という決断は、
「コロナ怖いからライブ行かなかった。でも、行けばよかったなあ…」と葛藤するだろうし、
ごめんなさい。泣く泣くライブ断念することにします。本当に辛い決断でしたが、やっぱり大切な家族や友達を感染させてしまうリスクは冒せないというのが私の答えです。本当に大好きな東京事変。もう二度と見れないかも知れないのは重々承知です。死ぬ程行きたかったけど今は守るべきものを優先します。— コケシ (@01__incidents) February 27, 2020
東京事変Live開催について母と口論になったが、こんな状況であっても
演るべき理由が東京事変にはある事をこのバンドの人生を知らない人には
到底理解し難いのだろうと即断し、
以降、静観でいる事にした。
8年ぶりの復活、閏年、閏日。他のバンドには皆無な要素だろ?この日じゃなきゃ意味がない。— Yeuxbruns (@hito_mazu) March 1, 2020
「なんで行ったんだ」「ふざけんな」と
家族・同僚・友人などから、バッシングの嵐になることは目に見える。
これが返金対応だと「なにが何でも行ってやる」という人も
「行けばよかった…」という人も増えてしまう。
返金対応があった。
それも素晴らしい対応だけれど、
ファンも残念だけどすっきりするんです。
妄想の域を出ませんが
オトナの事情なのかもしれません。
それは間違いないから、仕方ないのかもしれません。
でもだとしても、
そういうアーティストたちが実際にいたし、
彼らがすごくかっこよく見えてしまいました。
@numbergirl_jp
本日、3/1(日)Zepp Tokyoにて開催を予定しておりました公演に関しまして、新型コロナウィルス感染拡大を防ぐため公演延期とさせていただきますが、「無観客状態」でのライブ生配信、ライブビューイングは予定通り行います。
BAD HOP
@badhop_official
BAD HOPからのお知らせ。
この度、コロナウイルスの影響により3月1日に予定していた横浜アリーナの公演を中止とさせて頂きます事を深くお詫び申し上げます。
@sukima_official
2020年2月28日(金)19時より無観客ライブ生配信を実施することとなりました。
ツアーと同じ内容ではありませんが、千秋楽公演を楽しみにされていたお客様、
並びに日頃よりスキマスイッチを応援頂いている皆様へ音楽で貢献できたらという想いで実施致します。
詳細はこちらをご覧ください。
http://office-augusta.com/sukimaswitch/live/index.html#notice20200227
@TGCnews
【重要なお知らせ】
2/29(土)の『マイナビ TGC 20 S/S』ですが、新型コロナウィルスの感染拡大を受け、無観客開催となりました。
東京ディズニーランドおよび東京ディズニーシーは、「新型コロナウイルス感染症対策本部」からの「多数の方が集まるような全国的なスポーツ、文化イベント等については、大規模な感染リスクがあることを勘案し、今後2週間は、中止、延期又は規模縮小等の対応を要請する」という発表を受け、2020年2月29日(土)から3月15日(日)の間、臨時休園することを決定しましたのでお知らせいたします。
再開日につきましては、3月16日(月)を予定しておりますが、関係行政機関等と密に連絡をとり、あらためてお知らせする予定です。
ロックとはなにか
なんて私には語る資格もないですが、彼らの姿勢はロックだなと思いました。
その範囲の中で楽しむことができる。
ロックがかっこいいのかもしれません。
もし今回、東京事変が5000人の会場で、無観客ライブを配信していたら・・・
最高にクールな、歴史に残る復活劇だっただろうと思うと、いちファンとして(勝手に)残念です。
好きだけどね。
〜〜〜追記〜〜〜
「皆が自粛する中ライブやってロックだね!」というファンに対して
それは違くない?という話でした。
ロックを語りたいのではなく
国内各地で、首相による「大規模なイベントの今後2週間の自粛」要請を受けて、集会やコンサートなど各種イベントが次々と中止に追い込まれていますね。
それによって、損害を被った人は決して少なくないはず。筆者自身も、イベント関係の仕事が突然いくつも吹っ飛び、精神的にも経済的にも打撃を受けています。
さて、2/29に、以下の意見を各省庁・各党に送りました。
宛先は首相官邸・内閣府・内閣官房・財務省・文科省・厚労省・経産省の各省庁。および自民・公明・立憲・国民・維新・共産・社民・れいわの各党。
自民党の文字数制限が厳しく(600字以内)、これに合わせて書いたので随分ぶっきらぼうな文面になってしまいましたが。
______________________
本文:COVID-19予防策として、政府の要請を受け、多くのスポーツ・文化に関わる興行が中止・延期されています。
天災と異なり、感染症対策での興行中止では興行保険が適用されず、多くの主催者が施設使用料や出演料、チケット代返金対応などを自己負担し、大幅な赤字が生じています。
また、イベントの中止により、多くの出演者やスタッフが本来の給与・報酬を受け取れない事態となっています。興行に携わる出演者・スタッフにとって、興行は「不要不急」ではなく生業であって、被った大幅な減収は労働者の生活に関わる重大な問題です。
以上を踏まえ、以下4点の対応を政府ならびに各党に要請します。
1.中止・延期の実態調査
現状、今回の要請を受けた興行中止・延期の全貌が見えません。中止・延期となったイベントの数と規模、損害額、保険適用の実態、損害の負担者等、きめ細かな実態調査を求めます。
実際に損害を被った全ての興行主催者・施設設置者に、補償を行うことを求めます。
興行中止・延期によって急遽休業となり、収入がなくなった出演者・スタッフ等の全ての労働者に、休業分の給与・報酬の補償を求めます。
各省庁や外郭団体からの補助金や研究奨励金などの興行中止等への支給や翌年度へと繰り越す特例措置を求めます。
_____________________
何ら補償などがセットになっていない今回の「要請」によって損害を被った全ての主催者・労働者に、何らかの対応をして頂けることを願っています。
(センター試験で話題になったけど、全文読めるところが見つからなかったので)
底本:原民喜戦後全小説 下(講談社文芸文庫)1995年8月10日第1刷発行
I
私が魯迅の「孤独者」を読んだのは、一九三六年の夏のことであったが、あのなかの葬いの場面が不思議に心を離れなかった。不思議だといえば、あの本——岩波文庫の魯迅選集——に掲載してある作者の肖像が、まだ強く心に蟠(わだかま)るのであった。何ともいい知れぬ暗黒を予想さす年ではあったが、どこからともなく惻々として心に迫るものがあった。その夏がほぼ終ろうとする頃、残暑の火照りが漸く降りはじめた雨でかき消されてゆく、とある夜明け、私は茫とした状態で蚊帳のなかで目が覚めた。茫と目が覚めている私は、その時とらえどころのない、しかし、かなり烈しい自責を感じた。泳ぐような身振りで蚊帳の裾をくぐると、足許に匐っている薄暗い空気を手探りながら、向側に吊してある蚊帳の方へ、何か絶望的な、愬(うった)えごとをもって、私はふらふらと近づいて行った。すると、向側の蚊帳の中には、誰だか、はっきりしない人物が深い沈黙に鎖されたまま横わっている。その誰だか、はっきりしない黒い影は、夢が覚めてから後、私の老いた母親のように思えたり、魯迅の姿のように想えたりするのだった。この夢をみた翌日、私の郷里からハハキトクの電報が来た。それから魯迅の死を新聞で知ったのは恰度亡母の四十九忌の頃であった。
その頃から私はひどく意気銷沈して、落日の巷を行くの概(おもむき)があったし、ふと己の胸中に「孤独者」の嘲笑を見出すこともあったが、激変してゆく周囲のどこかに、もっと切実な「孤独者」が潜んでいはすまいかと、窃(ひそ)かに考えるようになった。私に最初「孤独者」の話をしかけたのは、岩井繁雄であった。もしかすると、彼もやはり「孤独者」であったのかもしれない。
彼と最初に出逢ったのは、その前の年の秋で、ある文学研究会の席上はじめてSから紹介されたのである。その夜の研究会は、古びたビルの一室で、しめやかに行われたのだが、まことにそこの空気に応(ふさ)わしいような、それでいて、いかにも研究会などにはあきあきしているような、独特の顔つきの痩形長身の青年が、はじめから終りまで、何度も席を離れたり戻って来たりするのであった。それが主催者の長広幸人であるらしいことは、はじめから想像できたが、会が終るとSも岩井繁雄も、その男に対って何か二こと三こと挨拶して引上げて行くのであった。さて、長広幸人の重々しい印象にひきかえて、岩井繁雄はいかにも伸々した、明快卒直な青年であった。長い間、未決にいて漸く執行猶予で最近釈放された彼は、娑婆に出て来たことが、何よりもまず愉快でたまらないらしく、それに文学上の抱負も、これから展望されようとする青春とともに大きかった。
岩井繁雄と私とは年齢は十歳も隔たってはいたが、折からパラつく時雨をついて、自動車を駆り、遅くまでSと三人で巷を呑み歩いたものであった。彼はSと私の両方に、絶えず文学の話を話掛けた。極く初歩的な問題から再出発する気組で——文章が粗雑だと、ある女流作家から注意されたので——今は志賀直哉のものをノートし、まず文体の研究をしているのだと、そういうことまで卒直に打明けるのであった。その夜の岩井繁雄はとにかく愉快そうな存在だったが、帰りの自動車の中で彼は私の方へ身を屈めながら、魯迅の「孤独者」を読んでいるかと訊ねた。私がまだ読んでいないと答えると話はそれきりになったが、ふとその時「孤独者」という題名で私は何となくその夜はじめて見た長広幸人のことが頭に閃いたのだった。
それから夜更の客も既に杜絶えたおでん屋の片隅で、あまり酒の飲めない彼は、ただその場の空気に酔っぱらったような、何か溢れるような顔つきで、——やはり何が一番愉しかったといっても、高校時代ほど生き甲斐のあったことはない、と、ひどく感慨にふけりだした。
私が二度目の岩井繁雄と逢ったのは一九三七年の春で、その時私と私の妻は上京して暫く友人の家に滞在していたが、やはりSを通じて二三度彼と出逢ったのである。彼はその時、新聞記者になったばかりであった。が、相変らず溢れるばかりのものを顔面に湛えて、すくすくと伸び上って行こうとする姿勢で、社会部に入社したばかりの岩井繁雄はすっかりその職業が気に入っているらしかった。恰度その頃紙面を賑わした、結婚直前に轢死(れきし)を遂げた花婿の事件があったが、それについて、岩井繁雄は、「あの主人公は実はそのアルマンスだよ」と語り、「それに面白いのは花婿の写真がどうしても手に入らないのだ」と、今もまだその写真を追求しているような顔つきであった。そうして、話の途中で手帳を繰り予定を書込んだり、何か行動に急きたてられているようなところがあった。かと思うと、私の妻に「一たい今頃所帯を持つとしたら、どれ位費用がかかるものでしょうか」と質問し、愛人が出来たことを愉しげに告白するのであった。いや、そればかりではない、もしかすると、その愛人と同棲した暁には、染料の会社を設立し、重役になるかもしれないと、とりとめもない抱負も語るのであった。二三度逢ったばかりで、私の妻が岩井繁雄の頼もしい人柄に惹きつけられたことは云うまでもない。私の妻はしばしば彼のことを口にし、たとえば、混みあうバスの乗降りにしても、岩井繁雄なら器用に婦人を助けることができるなどというのであった。私もまた時折彼の噂は聞いた。が、私たちはその後岩井繁雄とは遂に逢うことがなかったのである。
日華事変が勃発すると、まず岩井繁雄は巣鴨駅の構内で、筆舌に絶する光景を目撃したという、そんな断片的な噂が私のところにも聞えてきて、それから間もなく彼は召集されたのである。既にその頃、愛人と同居していた岩井繁雄は補充兵として留守隊で訓練されていたが、やがて除隊になると再び愛人の許に戻って来た。ところが、翌年また召集がかかり、その儘前線へ派遣されたのであった。ある日、私がSの許に立寄ると、Sは新聞の第一面、つまり雑誌や新刊書の広告が一杯掲載してある面だけを集めて、それを岩井繁雄の処へ送るのだと云って、「家内に何度依頼しても送ってくれないそうだから僕が引うけたのだ」とSは説明した。その説明は何か、しかし、暗然たるものを含んでいた。岩井繁雄が巣鴨駅で目撃した言語に絶する光景とはどんなことなのか私には詳しくは判らなかったが、とにかく、ぞっとするようなものがいたるところに感じられる時節であった。ある日、私の妻は小学校の講堂で傷病兵慰問の会を見に行って来ると、頻りに面白そうに余興のことなど語っていたが、その晩、わあわあと泣きだした。昼間は笑いながら見たものが、夢のなかでは堪らなく悲しいのだという。ある朝も、——それは青葉と雨の鬱陶しい空気が家のうちまで重苦しく立籠っている頃であったが——まだ目の覚めきらない顔にぞっとしたものを浮べて、「岩井さんが還って来た夢をみた。痩せて今にも斃れそうな真青な姿でした」と語る。妻はなおその夢の行衛を追うが如く、脅えた目を見すえていたが、「もしかすると、岩井さんはほんとに死ぬるのではないかしら」と嘆息をついた。それは私の妻が発病する前のことで、病的に鋭敏になった神経の前触れでもあったが、しかしこの夢は正夢であった。それから二三ヵ月して、岩井繁雄の死を私はSからきいた。戦地にやられると間もなく、彼は肺を犯され、一兵卒にすぎない彼は野戦病院で殆ど碌に看護も受けないで死に晒されたのであった。
岩井繁雄の内縁の妻は彼が戦地へ行った頃から新しい愛人をつくっていたそうだが、やがて恩賜金を受取るとさっさと老母を見捨てて岩井のところを立去ったのである。その後、岩井繁雄の知人の間では遺稿集——書簡は非常に面白いそうだ——を出す計画もあった。彼の文章が粗雑だと指摘した女流作家に、岩井繁雄は最初結婚を申込んだことがある。——そういうことも後になって誰かからきかされた。
たった一度見たばかりの長広幸人の風貌が、何か私に重々しい印象を与えていたことは既に述べた。一九三五年の秋以後、遂に私は彼を見る機会がなかった。が、時に雑誌に掲載される短かいものを読んだこともあるし、彼に対するそれとない関心は持続されていた。岩井繁雄が最初の召集を受けると、長広幸人は倉皇と満洲へ赴いた。当時は満洲へ行って官吏になりさえすれば、召集免除になるということであった。それから間もなく、長広幸人は新京で文化方面の役人になっているということをきいた。あの沈鬱なポーズは役人の服を着ても身に着くだろうと私は想像していた。それから暫く彼の消息はきかなかったが、岩井繁雄が戦病死した頃、長広幸人は結婚をしたということであった。それからまた暫く彼の消息はきかなかったが、長広幸人は北支で転地療法をしているということであった。そして、一九四二年、長広幸人は死んだ。
既に内地にいた頃から長広幸人は呼吸器を犯されていたらしかったが、病気の身で結婚生活に飛込んだのだった。ところが、その相手は資産目あての結婚であったため、死後彼のものは洗い浚(ざら)い里方に持って行かれたという。一身上のことは努めて隠蔽する癖のある、長広幸人について、私はこれだけしか知らないのである。
II
私は一九四四年の秋に妻を喪ったが、ごく少数の知己へ送った死亡通知のほかに、満洲にいる魚芳へも端書を差出しておいた。妻を喪った私は悔み状が来るたびに、丁寧に読み返し仏壇のほとりに供えておいた。紋切型の悔み状であっても、それにはそれでまた喪にいるものの心を鎮めてくれるものがあった。本土空襲も漸く切迫しかかった頃のことで、出した死亡通知に何の返事も来ないものもあった。出した筈の通知にまだ返信が来ないという些細なことも、私にとっては時折気に掛るのであったが、妻の死を知って、ほんとうに悲しみを頒ってくれるだろうとおもえた川瀬成吉からもどうしたものか、何の返事もなかった。
私は妻の遺骨を郷里の墓地に納めると、再び棲みなれた千葉の借家に立帰り、そこで四十九日を迎えた。輸送船の船長をしていた妻の義兄が台湾沖で沈んだということをきいたのもその頃である。サイレンはもう頻々と鳴り唸っていた。そうした、暗い、望みのない明け暮れにも、私は凝と蹲ったまま、妻と一緒にすごした月日を回想することが多かった。その年も暮れようとする、底冷えの重苦しい、曇った朝、一通の封書が私のところに舞込んだ。差出人は新潟県××郡××村×川瀬丈吉となっている。一目見て、魚芳の父親らしいことが分ったが、何気なく封を切ると、内味まで父親の筆跡で、息子の死を通知して来たものであった。私が満洲にいるとばかり思っていた川瀬成吉は、私の妻より五ヵ月前に既にこの世を去っていたのである。
私がはじめて魚芳を見たのは十二年前のことで、私達が千葉の借家へ移った時のことである。私たちがそこへ越した、その日、彼は早速顔をのぞけ、それからは殆ど毎日註文を取りに立寄った。大概朝のうち註文を取ってまわり、夕方自転車で魚を配達するのであったが、どうかすると何かの都合で、日に二三度顔を現わすこともあった。そういう時も彼は気軽に一里あまりの路を自転車で何度も往復した。私の妻は毎日顔を逢わせているので、時々、彼のことを私に語るのであったが、まだ私は何の興味も関心も持たなかったし、殆ど碌に顔も知っていなかった。
私がほんとうに魚芳の小僧を見たのは、それから一年後のことと云っていい。ある日、私達は隣家の細君と一緒にブラブラと千葉海岸の方へ散歩していた。すると、向の青々とした草原の径をゴムの長靴をひきずり、自転車を脇に押しやりながら、ぶらぶらやって来る青年があった。私達の姿を認めると、いかにも懐しげに帽子をとって、挨拶をした。
「魚芳さんはこの辺までやって来るの」と隣家の細君は訊ねた。
「ハア」と彼はこの一寸した逢遭を、いかにも愉しげにニコニコしているのであった。やがて、彼の姿が遠ざかって行くと、隣家の細君は、
「ほんとに、あの人は顔だけ見たら、まるで良家のお坊ちゃんのようですね」と嘆じた。その頃から私はかすかに魚芳に興味を持つようになっていた。
その頃——と云っても隣家の細君が魚芳をほめた時から、もう一年は隔っていたが、——私の家に宿なし犬が居ついて、表の露次でいつも寝そべっていた。褐色の毛並をした、その懶惰な雌犬は魚芳のゴム靴の音をきくと、のそのそと立上って、鼻さきを持上げながら自転車の後について歩く。何となく魚芳はその犬に対しても愛嬌を示すような身振であった。彼がやって来ると、この露次は急に賑やかになり、細君や子供たちが一頻り陽気に騒ぐのであったが、ふと、その騒ぎも少し鎮まった頃、窓の方から向を見ると、魚芳は木箱の中から魚の頭を取出して犬に与えているのであった。そこへ、もう一人雑魚(ざこ)売りの爺さんが天秤棒を担いでやって来る。魚芳のおとなしい物腰に対して、この爺さんの方は威勢のいい商人であった。そうするとまた露次は賑やかになり、爺さんの忙しげな庖丁の音や、魚芳の滑らかな声が暫くつづくのであった。——こうした、のんびりした情景はほとんど毎日繰返されていたし、ずっと続いてゆくもののようにおもわれた。だが、日華事変の頃から少しずつ変って行くのであった。
私の家は露次の方から三尺幅の空地を廻ると、台所に行かれるようになっていたが、そして、台所の前にもやはり三尺幅の空地があったが、そこへ毎日、八百屋、魚芳をはじめ、いろんな御用聞がやって来る。台所の障子一重を隔てた六畳が私の書斎になっていたので、御用聞と妻との話すことは手にとるように聞える。私はぼんやりと彼等の会話に耳をかたむけることがあった。ある日も、それは南風が吹き荒んでものを考えるには明るすぎる、散漫な午後であったが、米屋の小僧と魚芳と妻との三人が台所で賑やかに談笑していた。そのうちに彼等の話題は教練のことに移って行った。二人とも青年訓練所へ通っているらしく、その台所前の狭い空地で、魚芳たちは「になえつつ」の姿勢を実演して興じ合っているのであった。二人とも来年入営する筈であったので、兵隊の姿勢を身につけようとして陽気に騒ぎ合っているのだ。その恰好がおかしいので私の妻は笑いこけていた。だが、何か笑いきれないものが、目に見えないところに残されているようでもあった。台所へ姿を現していた御用聞のうちでは、八百屋がまず召集され、つづいて雑貨屋の小僧が、これは海軍志願兵になって行ってしまった。それから、豆腐屋の若衆がある日、赤襷をして、台所に立寄り忙しげに別れを告げて行った。
目に見えない憂鬱の影はだんだん濃くなっていたようだ。が、魚芳は相変らず元気で小豆(こまめ)に立働いた。妻が私の着古しのシャツなどを与えると、大喜びで彼はそんなものも早速身に着けるのであった。朝は暗いうちから市場へ行き、夜は皆が寝静まる時まで板場で働く、そんな内幕も妻に語るようになった。料理の骨(こつ)が憶えたくて堪らないので、教えを乞うと、親方は庖丁を使いながら彼の方を見やり、「黙って見ていろ」と、ただ、そう呟くのだそうだ。鞠躬如(きっきゅうじょ)として勤勉に立働く魚芳は、もしかすると、そこの家の養子にされるのではあるまいか、と私の妻は臆測もした。ある時も魚芳は私の妻に、——あなたとそっくりの写真がありますよ。それが主人のかみさんの妹なのですが、と大発見をしたように告げるのであった。
冬になると、魚芳は鵯(ひよどり)を持って来て呉れた。彼の店の裏に畑があって、そこへ毎朝沢山小鳥が集まるので、釣針に蚯蚓(みみず)を附けたものを木の枝に吊しておくと、小鳥は簡単に獲れる。餌は前の晩しつらえておくと、霜の朝、小鳥は木の枝に動かなくなっている——この手柄話を妻はひどく面白がったし、私も好きな小鳥が食べられるので喜んだ。すると、魚芳は殆ど毎日小鳥を獲ってはせっせと私のところへ持って来る。夕方になると台所に彼の弾んだ声がきこえるのだった。——この頃が彼にとっては一番愉しかった時代かもしれない。その後戦地へ赴いた彼に妻が思い出を書いてやると、「帰って来たら又幾羽でも鵯鳥を獲って差上げます」と何かまだ弾む気持をつたえるような返事であった。
翌年春、魚芳は入営し、やがて満洲の方から便りを寄越すようになった。その年の秋から私の妻は発病し療養生活を送るようになったが、妻は枕頭で女中を指図して慰問の小包を作らせ魚芳に送ったりした。温かそうな毛の帽子を着た軍服姿の写真が満洲から送って来た。きっと魚芳はみんなに可愛がられているに違いない。炊事も出来るし、あの気性では誰からも重宝がられるだろう、と妻は時折噂をした。妻の病気は二年三年と長びいていたが、そのうちに、魚芳は北支から便りを寄越すようになった。もう程なく除隊になるから帰ったらよろしくお願いする、とあった。魚芳はまた帰って来て魚屋が出来ると思っているのかしら……と病妻は心細げに嘆息した。一しきり台所を賑わしていた御用聞きたちの和やかな声ももう聞かれなかったし、世の中はいよいよ兇悪な貌を露出している頃であった。千葉名産の蛤の缶詰を送ってやると、大喜びで、千葉へ帰って来る日をたのしみにしている礼状が来た。年の暮、新潟の方から梨の箱が届いた。差出人は川瀬成吉とあった。それから間もなく除隊になった挨拶状が届いた。魚芳が千葉へ訪れて来たのは、その翌年であった。
その頃女中を傭えなかったので、妻は寝たり起きたりの身体で台所をやっていたが、ある日、台所の裏口へ軍服姿の川瀬成吉がふらりと現れたのだった。彼はきちんと立ったまま、ニコニコしていた。久振りではあるし、私も頻りに上ってゆっくりして行けとすすめたのだが、彼はかしこまったまま、台所のところの閾から一歩も内へ這入ろうとしないのであった。「何になったの」と、軍隊のことはよく分らない私達が訊ねると、「兵長になりました」と嬉しげに応え、これからまだ魚芳へ行くのだからと、倉皇として立去ったのである。
そして、それきり彼は訪ねて来なかった。あれほど千葉へ帰る日をたのしみにしていた彼はそれから間もなく満洲の方へ行ってしまった。だが、私は彼が千葉を立去る前に街の歯医者でちらとその姿を見たのであった。恰度私がそこで順番を待っていると、後から入って来た軍服の青年が歯医者に挨拶をした。「ほう、立派になったね」と老人の医者は懐しげに肯いた。やがて、私が治療室の方へ行きそこの椅子に腰を下すと、間もなく、後からやって来たその青年も助手の方の椅子に腰を下した。「これは仮りにこうしておきますから、また郷里の方でゆっくりお治しなさい」その青年の手当はすぐ終ったらしく、助手は「川瀬成吉さんでしたね」と、机のところのカードに彼の名を記入する様子であった。それまで何となく重苦しい気分に沈んでいた私はその名をきいて、はっとしたが、その時にはもう彼は階段を降りてゆくところだった。
それから二三ヵ月して、新京の方から便りが来た。川瀬成吉は満洲の吏員に就職したらしかった。あれほど内地を恋しがっていた魚芳も、一度帰ってみて、すっかり失望してしまったのであろう。私の妻は日々に募ってゆく生活難を書いてやった。すると満洲から返事が来た。「大根一本が五十銭、内地の暮しは何のことやらわかりません。おそろしいことですね」——こんな一節があった。しかしこれが最後の消息であった。その後私の妻の病気は悪化し、もう手紙を認(したた)めることも出来なかったが、満洲の方からも音沙汰なかった。
その文面によれば、彼は死ぬる一週間前に郷里に辿りついているのである。「兼て彼の地に於て病を得、五月一日帰郷、五月八日、永眠仕候」と、その手紙は悲痛を押つぶすような調子ではあるが、それだけに、佗しいものの姿が、一そう大きく浮び上って来る。
あんな気性では皆から可愛がられるだろうと、よく妻は云っていたが、善良なだけに、彼は周囲から過重な仕事を押つけられ、悪い環境や機構の中を堪え忍んで行ったのではあるまいか。親方から庖丁の使い方は教えて貰えなくても、辛棒した魚芳、久振りに訪ねて来ても、台所の閾から奥へは遠慮して這入ろうともしない魚芳。郷里から軍服を着て千葉を訪れ、晴れがましく顧客の歯医者で手当してもらう青年。そして、遂に病躯をかかえ、とぼとぼと遠国から帰って来る男。……ぎりぎりのところまで堪えて、郷里に死にに還った男。私は何となしに、また魯迅の作品の暗い翳を思い浮べるのであった。