はてなキーワード: ありすとは
就活辞めたい。
いや、心当たりがありすぎる自分の至らなさを自覚して落ち込む。
嘘を書く度に心が締め付けられる。
嘘を話す。落ちる。
自信持って話すことが全くできない。
結局何かしてきたことなんて何もなかった。
エージェントが偉そうにブラック企業を勧めてくる。嫌嫌受けて落ちる。
就活をしてないのにエージェントしてるやつまで現れて偉そうに語る。
想像してたTwitterの有名人?からも返事が来ない。失礼なこと言ったか?
頑張って就活用の仮面を作ってるのにそれを否定されて、ビビってさらに仮面を厚くしてしまってる気がする。
大学4年間ずっと彼女作るだとか、友達とうまくするだとか、初対面の人と仲良くなるみたいな対人関係にずっと向き合ってきたけど結局解決出来ずに、就活でそのツケが回ってきたような気がする。
就活辞めたい。
例の豊島区の「あらゆる性暴力の根絶を目指す決議」はPAPSが絡んでいるから真っ黒だな。デジタル性暴力という珍妙な単語を使っているのでピンときた。入江あゆみ議員、大丈夫か? 豊島区男女平等推進センターはアウトで、対策を考えないとマズイ。https://t.co/POyVjkxaqW https://t.co/ePrxlK5VTM— 鳥山仁@comiczinで新刊委託中。 (@toriyamazine) 2020年3月19日
相変わらずこの手の地方のロビーで規制を通す手法をやっているのね。
これもこいつら当時から使っている手口みたいだしねぇ。
児童ポルノ禁止法にしろこの手口で地方から圧力をかけられたし、青環法に関しては国政まではまだ何とか言っていないけど、都条例とか明らかに弊害が出ているレベルの規制をされているのは事実。
しかしこの手の性暴力だの性的搾取だの児童ポルノだのの世間が反論しにくい話題で攻めれば、規制をしていけると今だに踏んでいるのも地方議員がそれに同調するのも本当に不味い話だよね。
いい加減この手の規制自体逆効果や弊害がありすぎて、世間もうんざりしだしているからこそ、昨今フェミニストや人権団体の行動が問題視され始め出しているのにね。
最も昨今はこの手の地方から大暴れして、国政に圧力をかける手段を多用しすぎ、弊害が出だしたのと川崎のヘイトスピーチ条例や香川のゲーム障害に関した青少年条例等の暴走とも言える行動が世間でも問題視され始めたのは事実なので、いい加減この手の地方自治や条例のあり方そのものの見直しが必要とされる所まで来ているのは事実。
この場合地方自治法の見直し等根本的な部分の改正がまず行われるんじゃない?
何せ今は法律と条例のバランスが崩れ始め、明らかに条例の方が優先されるおかしな事態すら招いている所すらあるのだから。
私がイタリアの対応に関心を持っているのは数人亡くなり、感染者が150人超えたあたりで学校閉め、役所閉め、とサクサク進んだのが意外だったから。あれだけ電車が遅れる国はグズグズしているのかと偏見を持っていたら逆だった。うちの国は電車は時間通りに来るが危機ではグズグズになるらしい。— suzuky (@suzuky) 2020年2月25日
7度5分以上の熱に4日間耐えろ、病院には来るな、検査はしない、自宅療養しろと。これ事実上の感染者放置宣言ととるしかない。どこにこれほどまで自国民の生命を守らない、守る気のない政府があるだろうか。イタリアや韓国の真剣な対応を見れば一目瞭然だ。— 塚谷肇 Tsukatani Hajime (@H_Tsukatani) 2020年2月25日
ミラノの知人から電話🇮🇹
ミラノ・トリノでも感染し、医療・自治体・警察・軍隊で発生源の町を隔離し閉鎖🎈
なぜこれまで迅速に徹底かは、13・16世紀に欧州でペストが猛威を振るい、イタリアも多くの死者で何十もの町が消失したからという❗️
関係者は、日本政府の遅滞な対応に驚いているという‼️ pic.twitter.com/B8OUgk6mjp— MALTA (@hilo77357922) 2020年2月24日
コロナ対策で、日本なんかより、チャランポランでグータラといわれるイタリア、直情径行といわれる韓国や中国の方が、格段に素早く合理的な対応してる。もう恥ずかしくて、外国の人に、日本人だと言って付き合ってもらうのも気が引けるほど。— 偏光プリズム (@prism31415) 2020年2月24日
安倍はトランプとイタリアより無能
根拠
日本とイタリアの対応を見てみましょう。てかイタリアじゃなくても他のどの国よりも対応劣ってます。台湾と日本比べるともう差がありすぎて問題外。イタリアちゃんと対応してても感染者あんなんだぞ?日本コロナを舐めすぎ。— Alicia R Glarestone(female for 1 week)૭ (@blacktealoverEL) 2020年2月27日
NHK向けに作られたアニメに対して、しばしば言い表せない居心地の悪さを感じている。
ラブライブ!のように他局で放送したアニメの再放送や、スポンジ・ボブのような海外アニメは楽しく見ているが、他のものは独特な気持ち悪さというか、なんかよくわからない居た堪れなさとか、共感性羞恥じゃないけどぞわぞわっと寒気がして恥ずかしくなって一緒に見ている家族の輪から離れたくなる感じを感じてきた。
習慣的にNHKアニメを見ていたのが子供時代と、自分の子供が見るようになった近年であって、長年見続けてきたわけではない。
困っていることがあって、仕事等でたまたまむしゃくしゃしている日に子供が見ているNHKアニメの音声が聞こえてくるとうっかり嫌悪感を口走ってしまう。
子供の好きなものを否定したくない気持ちはあるのに「なんではなかっぱ嫌いなの?僕ははなかっぱ好き」と悲しい目で言われて自己嫌悪に陥るのだ。
経験上嫌悪感が溢れ出てしまう状況を制御するためには嫌悪感の理由をできる限り言語化して訳の分からない感情への安心感を得、余裕を持つことが有効ではないかと考えている。
嫌悪感を感じるNHKアニメの共通点はなんなのか、民放アニメとの違いはなんなのか、全然わからないのだ。
なので誠に勝手なのですがこれを見て何か思い当たることがあった人は思ったことなんでもいいので教えてください・・・
NHKアニメと括ってるけど全部見てるわけじゃないので、特にぞわぞわした居心地の悪さを感じた作品をあげて所感を書いておく。
公式サイトの一覧を見ながら思い出したことを羅列してみて少しわかったことがある。
苦手な作品が多かったため偏見は未だ強いがNHKアニメでも好きな作品がちらほらあった。
おじゃる丸、ふうせんいぬティニー、コレクター・ユイの3作だ。
https://www6.nhk.or.jp/anime/program/
「NHKアニメは苦手だ」という強い思い込みから起こる居た堪れなさも多少あるだろうから、好きな作品もあると意識できたことは収穫だ。
好きな作品と苦手な作品、何が違うんだろう、苦手な作品の共通点は何だろう。
苦手なNHKアニメでは苦手さの"質"が近いと感じている。ノリ?としか表現できないが……。
居た堪れなくなる感じは巷で言う共感性羞恥に近いと思うのだが、特にキャラが恥をかくシーンばかりで感じるわけではない。
これって、なんなんでしょうね?
相対音感 ある音の高さを他の音との関係において識別する能力。
ヒトには音の高さを感じる能力があります。内耳の蝸牛に聴覚細胞が並んでいて、周波数によって興奮して信号を発する部位が違っています。これが脳の聴覚野で処理されて音の高さとして認識される。
長さに例えると長短は比較できますが「ものさし」がありません。何㎝と分かるには、単位を決めて物差しを作らないといけません。作成したものさしを基準点に合わせて長さを測ります。
音の高さはラ=440Hzの基準を決めます。周波数が2倍の880Hzの音を人間は「同じ音」に感じます。この音程・音の高さの間隔を1オクターブといいます。合成された波形の周期が元の周期と一致します。音の高さには「トーンハイト」と「トーンクロマ」という2つの考え方があり、トーンハイトがオクターブ単位で違う音はトーンクロマが同じと感じられます。
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周波数が2:3の音程は美しく響き合うと感じられます。合成された波形が単純な繰り返しになります。音楽ではこの音程を完全五度と名付けています。
2:3の関係で音の高さを決め、1オクターブの範囲を超えたら周波数を半分にして折り返します。こうしてできる12音の音列を半音階といいます。この方法をピタゴラス音律と呼びます。ピタゴラス音律では13音目が最初のラと「ほぼ同じ」なのですが、このために和音の響きが濁ります。不快な「うなり」が発生します。この音程の誤差をピタゴラスコンマと呼びます。
これを補正するために、様々な音律・半音階の周波数比が考案されてきました。ピタゴラスコンマを分散させています。
ピタゴラスコンマを均等に割り振ったのが平均律。きんとうに和声が濁ります。
ラ=440Hz と 平均律の音程 を 覚えて、半音階上の位置を判定します。これが相対音感。ラの周波数は可変です。半音階の音高に「音名」をつけます。が、ドレミファソラシは7音・全音階に命名されていて、半音階は♯♭をつけて表されます。
絶対音感は訓練によって、半音階の音の高さを記憶して、絶対的なものさしとして使います。記憶には短期間で忘却する短期記憶と長期間保持し続けることのできる長期記憶があります。短期記憶を繰り返すことで、長期記憶として定着すると考えられています。絶対音感・音の高さの長期記憶は、幼児期でないとできないとされています。脳の発達により能力が失われる。相対的な音の高さを思考できるようになると、単純な記憶をする訓練が妨げられる。諸説あります。
色覚はたくさんの色を認識することができます。これは光の周波数・波長を感じています。日本の文化では、赤橙黄緑青藍紫が波長の順に命名されています。
絶対色覚……という用語はありません。緑と青の間にも無数の色があり、これを明確に区別することができないから。
絶対音感は、ドレミファソラシの周波数を固定的に記憶しています。
ドとド♯の間の音は「わからない」 精度が低ければ近い方に誤認します。ドに近い・ド♯に近いと分かるために、相対音感で補間をします。
赤~紫の光は、赤・緑・青の3つの合成で作ることができます。0~256の強さで表すと256*256*256の色を表現できます。
音には1秒間の振動数で表すHzという単位の他に、音楽では1オクターブを1200分割して1セントとする単位があります。
可視光を7分割するのは、日本の文化。文化によって色名の数は異なります。
絶対音感があると、音がすべて「ドレミに聞こえる」という誤解があります。音感があると音の高さが「ドレミで分かる」だけです。もし「ドレミファソラシ~♪」という音声が聞こえていたら、それは脳が作り出したもの。生活に支障があるならばそれは「幻聴」という病気。
絶対音感で記憶している半音階に拘りがありすぎると、強迫性障害を発症します。長さが1cm刻みぴったりでないと許せないと言い出したら病気ですね。
人には聴覚から入ってくる情報を取捨選択して無視できる能力が備わっています。これを「カクテルパーティー効果」といいます。言語の音声を多数同時に処理できるほうが稀な能力ですし。雑踏の話し声がすべて頭に流れ込んでくるとか、どこからか話し声が聞こえてくるとか言い出したら病院へ
音感があっても複数のパートを同時に処理し記憶することは容易ではありません。そのような優れた音感・記憶力は「絶対音感」と誤解されていますが、音感の種類である絶対・相対とは関係ありません。
よもぎ団子氏、ラブライブの西浦ミカンのコラボイラストに激怒「確信犯でもはや私たちへの挑戦ではないか?」
https://togetter.com/li/1468788
なぜよもぎ団子氏は社会に不満を持ち、エロを憎み、フェミニズムに目覚め、献血ボイコットを呼びかけるに至ったのか。その原因を調べてみたブログが話題に
https://togetter.com/li/1468858
もうこの団子は病院連れて行くなり、被害受けた人が訴えて隔離するなりした方が良い頃じゃないかなぁ?
先日も女性に対して相手の子供を引き合いに出しての侮辱や暴言をした上に通報しまくって凍結させたみたいだし、余りにも害悪な行動ばかりし過ぎている。
しかしこの界隈例の炎上弁護士がまたJAに対して嫌がらせをしたりまともな人間が一人もいないのがある意味凄い。
いい加減こんな連中の政治的主張所かクレームは全て無視するような世の中にしないとだめだよ。
幾ら子供の権利や女性の権利と言う弱者を盾にして、反論しにくかったとは言え、こいつらの言い分を余りにも聞きすぎたからこそ、こいつらがここまで増長して、今や社会的経済的文化的にも害悪な存在と化したのだから。
何よりこいつら弱者の権利を盾にするだけして、その弱者を救う所かより追い詰めているのだから糞だとしか言いようがない。
子供にしても余りにも規制が厳しなりすぎた結果、子供に関わるだけでもリスクがありすぎて、誰も子供に関わらなくなり、余計に子供が危険に晒される様になったし、女性の権利にしても何故かその権利とやらで、今や逆に女性の職業弾圧をしている有様なのだから。
まあキンタの変化も中々だったが、気になったのは今回の集会だ。
見回すまでもなく、参加しているネコが普段より多いのが分かった。
俺みたいにヒトの住処にいて参加が難しかったり、或いは病気で調子が悪かったり。
毛づくろいや、食い物を集めるのに忙しい場合もある。
他にも、原因は上手く説明できないけれど、どうにも気分が乗らない日だってあるだろう。
他の集会所はもう少し厳しいようだが、ここはネコたちの自由を尊重してくれるんだ。
だから、今回わざわざ集められたというのが奇妙だった。
「キンタ。俺を呼んだのはなぜだ? どうやら他のネコたちも集められているようだが」
「あたしも知らな~い。みんなが集まったときに詳しく話すから~とにかく知り合いに呼びかけてくれ~ってモーロックに言われたのん」
「モーロックが?」
キンタに理由を尋ねてみたら、意外な答えが返ってきた。
モーロックは皆に指示を出したり、グイグイ引っ張ってくれるようなタイプじゃない。
けれども、そのおかげで俺たちは伸び伸びといられる。
強いネコがリーダーになりやすい世界で、現役とはいえない老ネコがトップにいてくれるから、この集会所は体幹を保てているわけだ。
そのモーロックが俺たちを呼びつけた。
何か異様なことが起きているという感覚を肌で感じる。
「静粛に、静粛に!」
他のネコたちもピリつき始めた頃、ダージンの号令が響き渡った。
俺たちは喉に引っかかりを覚えながらもグッとこらえ、モーロックの方へ首を向けた。
「えー、これより第……うん回の、大定例集会を行う」
モーロックは皆を見渡せる定位置の場所に鎮座し、何回目か分からない集会の始まりを告げた。
「まずは定期連絡だ」
「この時期に増えている行方不明のネコや、体調不良を訴えるネコについて……ケンジャ、前へ」
あれがケンジャだ。
「拝承しました」
ケンジャは賢いことを意味する名前らしいが、自称なのか誰かに名づけられたのかは知らない。
ただ、その名前に誇りを持っていることは確かで、実際いろいろなことに詳しい。
「わたくしの調べによりますと、どうやら“チョコ”という食べ物が原因のようですね。ヒト用の食べ物らしく、この時期は特に欲しがる習性があるようです」
どこかで聞いたことがあるな。
我が住処にいるヒトが、そんな話をしていたような気がする。
住処には小さいのと大きいのがいて、確か小さい方がチョコらしきものを差し出してきた気がする。
それを大きいヒトが、凄まじい勢いで止めに入ったんだ。
大きいヒトは落ち着いていることが多いのだが、その時は非常に荒々しかったから今でも印象に残っている。
「つまり、その食べ物がネコには合わず、食べてしまうと体調不良になるのか?」
「ええ、食べる量によっては、最悪の場合は死に至るのだとか」
「や~ん、こわ~い」
そんなに危険な代物だったのか。
あの時は「ヒトだって体に悪そうなものばっかり食べているくせに、なんで俺だけ」と思っていたが。
「それは、どのような特徴があるのだ? 例えば色だとか」
「たまに白いものもありますが、基本的に黒いです。危険度は黒ければ黒いほど上がります。形は色々ありすぎて、わたくしでも把握できていないのが現状です、はい」
黒かったり、白かったりするのか。
俺がたまに食べる“あの虫”に似ていて、ややこしいな。
「じゃあ、味は? うっかり口に入れても吐き出せるようにしたい」
「よく分からないんですが、ヒトが言うには“あまい”らしいです」
「“あまい”と言われてもなあ……他にはないのか?」
「後は苦いらしいです」
うげえ、苦いのか。
だったら、あの時に食べなかったのは、いずれにしろ正解だったな。
二月一日
間もなく、特別展「人、神、自然-ザ・アール・サーニ・コレクションの名品が語る古代世界-」が終了すると気づいたので足を運んだ。自分は美術館に通う習慣を身に着けてから大体十五年が経過しているが、東京国立博物館の東洋館をきちんと観たことはない。いい機会だと思い、東洋館全体をのんびりと回ることにした。
特別展の会場は東洋館の二階にあり、会場そのものは常設展の最初の部分、すなわち中国や西域の仏像のあるあたりを抜けた後にある。特別展の内容そのものは興味深かったが、コレクション全体が雑多なもので構成されているというか、あまりにも時代と地域に幅がありすぎて、どのように展示したらいいのか少し迷っているような印象を受けた。とはいえ、普段はなかなか見られないマヤ文明の仮面などをじっくり見られたし、普段なら絶対しないような比較をする楽しみもあった。知らなかったのだが、グアテマラのほうがメキシコよりも良質の翡翠を産出するらしく、文明の中心地の人々は必死になってそれを求めたり、乏しい材料で何とか良いものを作ろうと苦心したそうである。
で、常設展に関してだが、展示スペースが地下階から五階にまで渡っており、ざっくり見ても三四時間はかかった。その中で特に面白く思われたのは、中国や朝鮮半島の品々だ。というのも、青銅器や勾玉などの作りが、日本とよく似ているところもあればまるで異なっているところもあり、比較する楽しみがあるからだ。また、饕餮の刻まれた祭器の類も自分は好きで、根津美術館に立ち寄った時にはのんびり眺めている。理由はわからないのだが、自分はそれと同じくらいに玉の類にも心惹かれる。西欧の君主たちの王冠も立派だとは思うが、金やダイヤモンドではどうも少しまぶしすぎる。自分が東アジアの文化が好きな人間だからそう感じるのだろうか。
とはいえ、自分が好きなのはどうやら宋代までらしい。どうも、明代になると技巧的になりすぎるというか、色が鮮やかすぎるように感じられる。確かに、黄色などの発色は鮮やかだし、竜のうろこなども実に細かく表現されているのだが、技術的に優れていることが美しさに直結するかどうかは別問題だ。自分としては唐三彩と呼ばれる、赤や緑や土の色を活かした陶器が美しいと思う。ある程度の素朴さがないと、親しみが持てない。台湾で見た、清代の象牙を削って作った細工なども、優れてはいるが技巧をひけらかしすぎているように思われる。
あとは、天然の石を削ってザクロに見立てていたものはよかった。故宮博物館にあった、翡翠だか瑪瑙だかを削って作ったのと同じ発想で、天然の石の色彩や質感を生かしながら表現しているものだ。あとは漆を刻んだものもよい。色がおとなしくて上品だ。
もう一つ興味をひかれたのは、漢代の画像石だ。学生時代の古典の教科書の表紙に出ていたので覚えていたのだが、実物を見たのは初めてである。宴の様子が見て取れるようで、ある者は楽器を弾き、またある者はボードゲームをしている。そのボードゲームの盤は真上から見たように正方形で表現され、遠近法は無視されている。エジプトの絵画と同じで、何が書かれているかがわかりやすいことが、写実性よりも優先されたのだろう。十字軍時代のチェスをする騎士を描いた絵画でも、似たようなことをしていた覚えがある。
そうだ。途中のフロアでは「生誕550年記念 文徴明とその時代」という、また別の企画展をやっていた。自分は書に対しては無知なのだが、解説によれば、文徴明は科挙には合格しなかった人物だそうである。しかし、温厚な人柄と勤勉実直な性格で、やがて文章の校閲に関する職に就いた。九十年の生涯のうち三年しか勤務しなかったが、一流の人々と交わることでその才能を開花させた、とのことだ。人生は仕事だけじゃないよな、という気持ちをまた新たにした。
自分にはそれこそ古代中国の官僚のように、職を退き水墨画に描かれたような山奥に引っ込んで、時折訪れる友人と琴棋書画をたしなむ、みたいな生活にあこがれる傾向があるのだが、ほどほどに働きつつ、土日に友人とボドゲをしたり美術館に足を運んだりするのは、十分近いんじゃないか、って近頃は思っていて、そんな気分になれたのも、今日の気分転換に成功したからなのだろうな、という気がした。
近々、同じ敷地内の法隆寺宝物館にも行こう、と帰りの電車で考えた。あそこのカフェは閉館間際になるとほとんど人がいない穴場なのだ。
二月八日
特別展「出雲と大和」にふらりと向かった。前回の「正倉院の世界」がとてもよかったので、これも行くしかない、と思われたからだ。
おおよそ弥生時代から奈良時代初期にかけての日本美術を楽しめる。特に銅鐸などは、教科書で見たものもたくさんあり、懐かしく思われた。国宝や重要文化財がごろごろとある。三角縁神獣鏡も大量に見ることができた。恥ずかしながら、これが中国の神仙思想と深い関係にあることを知らなかったので(忘れていたので?)、そこに刻まれていたのが解説を読むまで西王母だとはわからなかった。しかし、こう考えると日本への道教的な要素の導入は、かなり早いのだな、と思われた。
他にも多くの埴輪があり、細かく当時の祭祀の様子が説明されていた。これは知らなかったのだが、出雲の周囲では四隅突出型墳丘墓という、独特の形をした古墳が広く分布しているそうである。そういうまじめなことをしかつめらしい顔をしながら読んでいると、自分は振り向く鹿を表現した埴輪に肛門があるのに気づいた。正確には肛門ではないかもしれない。埴輪を焼くうえで必要な技術的な要請から開けられた穴なのかもしれない。しかし、尻に穴が開けられていたのは間違いない。
下世話な話だが、自分は動物の彫刻を見るといつもその性別を確かめたくなる。別に馬の彫刻に陰茎と陰嚢があって何が面白いのかと問われればそれまでなのだが、生真面目な騎馬像にもそういうものがついているかと思うとどことなく愉快な気持ちになる。それから、先週観たような民俗学的なものであっても、素朴な男性像と女性像ではどんな風に性器を表現しているかを確かめるのは、文化ごとの感受性が端的に表現されていてなかなかに面白い。
脱線が続くが、本当に不思議なのは、世界中の文化で男性器と女性器を絵にしたり彫刻にしたりすることが普通に行われているし、中には神々として崇拝することだってあるのに、ギリシア・ローマに由来する彫刻や絵画では、女性器も陰毛もすっかり省かれてしまっていることで、これは男性像の性器も小さいほうがよろしいとされたことと関係しているのだろうか、などと何かと勘ぐってしまうのである。
閑話休題。この特別展で私が一番見たかったのは、七支刀である。「日本書紀」を読んでからぜひ見てみたいと思っていたものだ。刻まれた金の文字はかすかにしか読み取れないが、専門家でも何でもない私が「月十六日丙午」とある部分を読み取れたので楽しかった。だいたい、こういう文字の刻まれたものを見るのは楽しくて、ほんの二つか三つの変体仮名をしっているだけでも、巻物を見る楽しみ増えるというものだ。
ほかにも、神社に奉納された刀剣や武具などもあったが、私はそれらには、古代の品々ほどには心はひかれなかった。あとは、「出雲国風土記」が朗読されているコーナーがあったが、そこでは本当にハ行がファ行で発音されて、チやヅがティやドゥと読まれていた。
帰りは東京駅の田舎そばを食べて帰った。非常に歯ごたえのあるそばだが、定期的に食べたくなる味だ。いつもは昼に寄ることが多いので肉野菜そばか天ぷらそばだけだが、夕飯なので野沢菜と肉味噌れんこんをつけた。ちょっと贅沢をしたので気持ちよく眠れた。
学園恋愛ものに物理の公式を描写されても邪魔なだけなのとおなじ。
・だから漫画家は(島耕作のようなサラリーマンそのものが主題になる作品を書こうとしているのでないかぎり)無駄に長いサラリーマン体験なんてしなくていいっていってる。
・そしてサラリーマンのほうも漫画家修行なんて(広報部で漫画やろうとしているのでもないかぎり)やらなくていい。
だからあなたのいってることは私と同じことだよ。なんの反論されてるのかわからん。
・漫画家でプロになれる人は学生時代から漫画修行開始したりなんなら連載開始しちゃってる人も多いんだから
そりゃ一般人で漫画をかかない学生にとっても大変な「熱心に学ぶ大学生」やら「熱心に昇給昇格をめざすサラリーマン」などを、二足のわらじでやれるわけがない。単純計算で常人の2倍の体力や才能が必要。(まあ荒川弘あたりは3倍くらいの体力あったみたいだけど)
・さらにいうと漫画家ってのはフリーランスであり世間的に弱い。クレジットカードももてないし納税さえ自分でやらないといけない(徳井さんの脱税騒ぎ、知ってる?)。サラリーマン(社畜)の楽さと安定収入になれてしまうと、編集者の気分一つで収入がとだえるフリーランスってのはとても恐ろしいものにみえる。漫画家になりたかったけど一度社会に出てサラリーマンを経験しようとおもっていたら最後までサラリーマンでおわっちゃった、という人のほうが漫画家よりはずっと多いだろう。
・逆にいうと、漫画家やれる人は企業からすると個性や才能がありすぎて使いづらい。「才能を花にかけていて生意気で客先に出せない上に漫画のせいで残業せず土日祝日年末年始もカレンダーどおり休暇をとりたがり、ハテは徹夜して会社にでてきてぼーっとしているつかえないやつ」。ま、オリンピックに出場するようなスケート選手なんかも正味の仕事面ではそういう評価だろうけど。才能ある人は企業からすればこんな評価だよ。会社に適応するならいつかは漫画を捨てざるをえないし、漫画に適応するならいつかは企業に適応できなくなる。無個性に適応するなら個性を捨て、個性に適応するなら無個性には適応できない。