はてなキーワード: 制作とは
結論:ゲーム制作(例でツクールMZとかそういったツールでゲーム有料作ってさくっと販売するとか)、本を出版して販売とか、そういった路線もありだと思うぞ。
何ならカクヨムとかでやるのも全然あり。リンクは最後に貼っておくから参考にしてくれ。
https://hatena.zendesk.com/hc/ja?return_to=%2Fhc%2Frequests
以下見た反応↓
これは難しいところではあるが、AIはサポートの役目、と考えてない・・・?
でもdiscordBOTのコードもプログラムだし、AIだってプログラムだと思うが・・・。
正直言うともう時代の流れでこれはあってる。あってるが・・・AIがサポートどころか仕事奪ってるから人が厳しい立場になってるようにも見える。
まだ法律が追いついてないんで何とも言えないが、下手に言うと海外が裁判起こしてきそうで怖い。
こういう人がいるからってなってエンジニアとかになりたがらなくなるのでは、という不安でもあるが。
>| エンジニア()にクソみてーな誇り持つんなら帰りのNAS位てめーで設定してサッサとあの世に帰ってくれよな。 |
何のためのVPSが用意されているサーバーがあるんだとか、そういう疑問がある。
むしろ私はエンジニアじゃないが、discordBOTを組んでいる身としては、サーバー問題は大きい。
NASとかそういったのが用意できない人にとってはここは壁になると思う。正直ここ。
NASとかで組める人が羨ましく思えるが、電気代のことも考えるとそこも壁ではないかと思われ。
今だとAIサポートになっちまってるから人間のプログラムは技術がなくてもある程度の単語でコード書いてるAIがいるから、正直に言うとこの部分が薄れてさみしいよ。
>| AIに仕事奪われる底辺の泣き言?ああそうだなw。じゃあ俺の何百倍の労力でアホの妄言実現する仕事してくれよスーパーエンジニアさんよ。出来んだろ?C言語出来るスーパーエンジニアさんならよ? |
とはいえ、PythonとかJavaScriptとか、そういった有名言語とかではもうAIがガンガン書き進んでしまう・・・っていうのもあるな。
>| どうせ大したことないんだろ?匿名でくらいイキりたいよな?すげーエンジニアさんよ。 |
むしろそれを言ったら5chとかdiscordとかそういったサービスはどうなるって話だ。
こういう人がいるから叩かれると思うんだが。
AIで片付けれるところはあるっちゃあるが、AIでもできないことはある。
そういうサポートを受けてようやく先に進めるのもあるかも知れないが。
こんなのもあるし・・・。
で、結局は著作権云々で慎重に議論はしているが、時代が追いついていないのも事実ではある。
https://store.steampowered.com/app/1096900/RPGMZ/ ツクールMZ
う、有料って人にはこれを置いとく↓
https://silversecond.com/WolfRPGEditor/
参考にしといてくれ
一.
ワイフもらって 嬉しかったが
何時も出てくる 副食物(おかず)はコロッケ
これじゃ年がら年中コロッケ
こりゃ可笑し(おかし)
二.
開けて見たらば金貨が
株を買おうか 地所を買おうか
思案最中に 眼が覚めた
こりゃ可笑し
三.
芸者が嫌なら 身受けしてやろ
帶も買ってやろ
ダイヤもやろう やろう
いふて呉れるやうな客がない
こりゃ可笑し
四.
亭主もらって 嬉れしかったが
何時も出て行っちや滅多に
帰らない 帰らない
これじゃ年がら年中 留守居番
こりゃ可笑し
NHKドラマ「おしん」のなかで、大正12年9月1日、田倉商会の新しい工場の開業祝いの準備中に子守を任された源じいが歌っていたのが、このコロッケの唄(大正6年版)。wikipediaによるとコロッケの唄は、その後、昭和37年に浜口庫之助(五月みどり)版、平成版、令和へとなんどかリメイクされて歌い継がれてきたようだ。
大正時代のコロッケは、現代と違って、手ごろなお惣菜ではなく、東京などの洋食店でしか食べられない高級食品。この夫婦が富裕層であることがわかる。二番以降もあわせてみると、大戦後の好景気を反映し、一般投資家が増大した世相を色濃く映した、興味深い唄だ。
それはおしんの番外編。1983年放送当時の8月、おしんを演じていた田中裕子が過労静養のため撮影を中断せざるを得なくなった事態になって、急遽制作され、放送時間帯に15分ずつ6日にわたって放送された番外編「もうひとりのおしん」だ。これは、おしんと同時代を生きた山形や東京の女性に当時の話を聞くという番組。関東大震災前、おしんはラシャ問屋がつぶれたあと、子供服の店を田倉と始める。同番組では当時、日本橋横山町で子供服を始めたというおばあちゃん(放送当時90歳)の話を聞く場面がある。まさにこういう話を聞きたくて、わざわざDVDまで購入したのだが、見てよかった。
それまで和服に日本髪というのが当たり前だった日本人の服装が、洋服に変わっていったのは、関東大震災の後だといわれる。
このおばあちゃんはインタビューで「大震災があったでしょ、それからみんな裸になっちゃいましたから。それからだいぶん、服が変わっちゃいました」と答えている。この簡潔な一言に歴史のダイナミズムが凝縮されている。
おしんの物語では、田倉商会が時代を先取りする形で安価な既製服商品としての子供服のポテンシャルを見抜き、田倉の再起を賭けた。そのドラマの展開にリアリティを与えるインタビューだった。
もっとも、おしんは当初、夫である田倉竜三の羅紗問屋の事業失敗に懲りていて、大して商才もないのに夢ばかり大きい夫の行動が不安で仕方がなく、本当は手堅く地固めをしたい。子供服作業場の拡張には反対していた。だがやがて夫を信じようと思いなおし、夫の夢に賭けるようになる。
おしんのドラマは、10年に一度くらい再放送で目に留まって数話くらいずつ散発的にみていたのだが、今回、腰を据えて全297話をみていると、ドラマの演出がなかなか面白いことにも気が付いた。例えば、夫に商売の才能がない部分を自分の働きで夫婦の稼ぎをカバーしようと自分なりの仕事を始めて成功してしまう場面。プライドを傷つけられた旦那は「髪結いの亭主」さながら飲み歩くだけの怠け者になってしまう。夫を堕落させたのは自分だと気が付いたおしんは、あえて自ら稼ぐことをやめ、夫を立て夫がいつかまじめに稼いでくれるのを信じることにした。その結果、やがて今日明日の米に困るほど夫婦は追い詰められてしまう。田倉はようやく目が覚めて商人の道を諦め、勤め人として働きだすようになった。その様子をみて安心したおしんは、田倉商会の将来的な再興を目指して、子供服の商売のための子供服のデザインなどこつこつと準備を始める。おしんのデザインをみた田倉はおしんの才能を知り、いったんは勤め人として手堅く暮らそうとしていたのに、勤め人をやめて子供服の商売にまた再起を賭けようと夢を語り始めた。おしんに相談もせず勝手にミシンを購入したり、ひとを雇ったりとおしんを戸惑わせた。あげくは事業拡大のために借金をして工場建設をすると鼻息荒くしていう。
そんななか、ドラマの背景で、東京の街中で流れてくるのは「船頭小唄」。おしんの不安を象徴させる、にくい演出だと思った。
そして、大震災当日の朝、順風満帆で工場開業の祝賀を催す準備のさなか、田倉竜三の子供のころからのお目付け役である源じいが歌っていたのが冒頭の「コロッケの唄」だ。源じいは昼に発生した地震で亡くなってしまうので、源じいが幸せだった最後の瞬間だったといえる。その浮かれた雰囲気を、その時代の空気とともに、この歌はとてもよく演出している。
その後のドラマの展開は、田倉の本家である佐賀へ舞台をうつし、橋田壽賀子お得意の嫁姑地獄が待っている。
フリーランスでゲームエンジン担当したり調整したりの仕事を今でもやってます。
「ITがつまらなくなった」「ゲーム制作がつまらなくなった」のは違う角度の話も入りますが同意です。
おそらく現在40歳あたり以降の人たちは「めちゃくちゃコード書けた時代」の人たちだったと思います。
私もめちゃくちゃコード書いてましたし、他人のコードも修正してたし(それでキレられたり1日中討論したりも)、何より車輪の再発明がすごく楽しかった。
Game Programming Gemsが唯一の経験者のナレッジの詰め合わせで、貪るように読んでましたね。懐かしい。
というよりそうでないと生き残れなかった。
何よりもコードを書くのが楽しい、起きてる間は全てコーディング、アーキテクト、新技術の調査に時間を充てるような生き方しか出来ない人たち。
生産性?それよりもテンプレートプログラミング面白くね?意味あるか分からんけど。そういやこのコンパイラいいよね、メモリの使い方上手くてさあ。
プログラミング全般の技術力は、正しい知識を身に着けているかも重要なんですが、それよりも重要なのはライブラリの仕様を覚えるくらい何度も何度もアウトプットすることなんですよね。
DirectXやOpenGLの仕様を追えばだいたい効率的な計算方法や描画手法は身についちゃうので。
技術体系に紐づくものだったり、デザパタとかある程度知っておくものもあるにはありますが、何なら自分で見つけたくらいの方が遥かに理解度が高い。
頭で創るより、実際に書いてコンパイラ通して目で確認するほうが何倍も重要。
3Dゲームの知見がまだまだ日本に足りていない時代、ドラマチックな演出を行おうとしたら別の技術が必要になった。
今の時代では、ただFPS/TPSにすりゃええって回答になっていますが、模範解答として映画しかモデルが無かったんですよね。
しかも日本の画作りは時間を使った画作りより、止め画、見栄を軸とした画が多くて、海外のセンスとはジャンルが違う。
最先端の技術を生業にしていた大手ゲームパブリッシャー、デベロッパーは頭を抱えていました。
なにせ、個人の技術で戦ってきてしまっていた日本では太刀打ちできないことがわかったからです。
すでに海外では映画や映像の最先端の技術者やクリエイターをかき集め、サイエンスとしてナレッジ化を進めていました。
物理学者を集めまくってたのもそのときだったのを覚えています。
結果的に、大手は各社最高のグラフィックエンジンやクロスコンパイルエンジンを自社開発しようとして、(ほぼ)全て断念していますね。
……ただフォローのつもりで言いたいのですが、失敗ではあったと思いますが、そこで得た技術は非常に重要なものでして
日本は失敗を許容しない組織が多く、初めるのが遅く、辞めるのも遅い、それでいて二度と挑戦させない文化なので育つ土壌が無いんだと思います。
だいたい誰かが俺仕様で作ったクソみたいなコードを修正して、高速化したりメモリリーク改善したりがメインです。
「またコレか…」のパターン多すぎる。これがつまらなくなった所以です。
GCの仕様くらい考えたらなんでスパイクが起こるかわかるやろ……なんで調べんのなんて思うこともあります。
ただ出来ない人が多い、才能の無い人がビジネスだけでゲーム作ってる時代でもあるので、そのおかげでおまんま食べられてるんだよなって考えてます。
プロジェクトが破綻してることも多くて、その大部分はエンジニアがクソすぎるってのが多いですね。
体制の問題もあるにはあるんですが、ゲームにこだわることもなく、ただ稼げるで来ちゃった人たち。
だからそんな人達に何か伝えても響くことも無いし、生き方も違うので何も言わない。
ゲーム自体もどこかで見た何か。なので正解が存在するのでアーキテクトや制作に頭をひねる必要も無い。
感謝されるのでやりがいはあるんですが、当時激論を交わしていたような人たちはゲーム業界から離れ超ホワイトな外資系や大手でぬくぬくやってます。
幸いなことにソーシャルゲームバブルが起こり、その波に乗れた人たちです。
たまたま私の周りはコミュニケーション能力や問題解決能力、分解能力が高かったのでちゃんと地位を築き、ちゃんと生活しています。
ChatGPTさんによる要約
この記事は、ゲーム開発業界の変遷についての筆者の考えを述べています。以下に要約します。 かつてゲーム開発は、職人芸的な要素が強く、リードプログラマーが中心となり、物理エンジンや数学ライブラリを自作することが求められていました。しかし、UnityやUnrealのようなゲームエンジンの普及により、こうした職人技は無意味に近いものとなり、開発者はゲームエンジンを使いこなすスキルが求められるようになりました。その結果、コードをゼロから書く職人的な仕事は減り、ゲーム開発はコンテンツ制作に近い作業へと変わりました。 また、筆者は、ゲーム開発やIT業界において、老害的な態度や若い世代をバカにすることの問題についても言及しています。新しい技術や若い世代の感性を受け入れ、彼らから学ぶ姿勢が重要であると述べています。 要するに、ゲーム開発がかつての職人芸から標準化されたエンジンを使った作業に変わり、これに適応できない人々の不満や葛藤を描きつつ、新しい世代との関わり方について考察しています。
AIに要約してもらった。
この文章は、ゲーム開発の変遷に対する筆者の考えを述べています。
昔のゲーム開発は、リードプログラマーが自前でエンジンや物理演算を作り上げる職人芸的な仕事でしたが、今ではUnityやUnrealのような汎用ゲームエンジンが普及し、エンジンを書く仕事がほとんどなくなりました。
これにより、ゲーム開発はコードを書く作業から、コンテンツ制作に重点が移り、以前のようなプログラミングスキルがあまり必要とされなくなったことを嘆いています。
また、技術の進化によって、昔の職人技が不要になり、その結果、ゲーム業界で活躍する機会が減ったプログラマーもいると指摘しています。
筆者は、時代の変化についていけない自身や同世代のプログラマーが「老害」となりつつある現状を認識し、技術職の未来に対する不安を表明しています。
203X年、西欧諸国によるエロ規制が地球を覆い尽くし、あらゆるクレジットカード・電子決済にて18禁コンテンツの支払いが不可能になった。
一方でそれに比例する形で反表現規制勢力の活動は勢いを増し、ヤマダ議員とケン=レドマツは表現自由党を結成。
表現自由党を後ろ盾としエロコンテンツ決済に特化したEROS社を立ち上げる。
同社の電子マネーEROSとクレジットカードEROSカードは着々と利用者を増やしていくのであった。
そんなある日、エロ規制過激派による活動も加速しファンメイドでエロコンテンツを作ってい者たちの個人情報が一斉に晒し上げられる事件が発生。
多くの同人エロ制作者は本業を失い、エロコンテンツ制作により食い扶持を稼いでく必要に迫られた。
彼らが文字通り命を賭けて作り出した情熱溢れる作品は人々の心に眠っていたエロへの情熱を掻き立てた。
一時はAIの台頭による粗製乱造で縮小していた同人エロ業界の売上高は急上昇を見せる。
そして、それらの決済の大多数がEROS社によって行われたのである。
EROS決済はインターネット上における小さな経済圏を形成していく中、その経済効果に目をつけた者たちによってとある陰謀が動き出していた。
つづかない
Xで某av女優の方が制服を使用したavについて発言しているのを見た
歳の近いカップルが性行為をする話で、その時に女側が制服(架空の学校の制服)を着ている〜っていう内容?なら別にいいと思う
でも女子高生が痴漢されているとか無理やりされている、とかはちょっと、、、とも思う
そういう作品は冒頭か最後に『痴漢行為は犯罪です』とか注意画面が表示されたりするのか?知りたい
正欲の映画を観て人の嗜好を制限したり責める権利は誰にもないと思った
フィクションとして弁えたうえで女子高生が痴漢されているav作品を好んで観ている人がいるのは別にいいと思う
でもその作品が実社会に良くない影響を与えているのであれば規制も考えないといけないのでは?とも思う
某av女優さんの主張を一通り見たけど
性癖もavも理解して受け入れてもらいたがっている印象を受けた
痴漢も援交も犯罪だし社会的に理解されることも受け入れられることも無理だと思う、創作物だとしても
でもそれを楽しんでいる人がいるから社会はその存在を認めていて、ただ推奨も公的場に出てくることの許容もしていないと思ってた
それってあなたの感想ですよね。オイラが思うに、ドラマとかアニメが嫌いなのはあくまで個人的な好みの問題であって、万人が感じるわけでもないんです。作られた物語に感動するのが嫌いってことですが、そもそもそれがエンターテインメント業界の目的なんですよ。
意図的に感動する場所を指定されてるのが嫌いって言いますけど、逆に言えばそれがプロの仕掛けなんですよね。制作側がどうやって感動を引き出すかを狙ってやるのは当然のことですし、それをわざわざ嫌うのはちょっと了見が狭いんじゃないですか。
本で読む小説やドキュメンタリー映画が好きだってことですけど、それも結局は誰かが意図して作ったものですからね。なんでそれがOKで、ドラマやアニメはダメなのかって、その基準が曖昧すぎますよ。
「インサイド・ヘッド2」についての感想を共有してくれてありがとうございます。映画やメディアに対する視点や解釈は人それぞれであり、このような意見も重要ですね。ただし、映画解釈の際には様々な視点からの評価や意見を取り入れることも大切です。
作中のシーンやストーリー展開について詳しくは知りませんが、このような解釈が生じる場合、制作者の意図や背景を理解し、それを基にどのように解釈されるべきか考えることも大切です。具体的なシーンやキャラクターの行動には、明確な文脈があり、それを考慮して映画を評価することが求められます。
もし本作がそういったメッセージを伝えていると感じたのであれば、それに対する声を上げることもひとつの方法です。映画やメディアが社会に与える影響を考えることは重要な課題であり、観客としての意見も大事なフィードバックとなります。
続き。
「私と同じだ」「身につまされる」という感想を持つことは自然だし、それを否定しているわけではない。自分はほとんど経験ないが、そういうタイプの名作映画・ドラマもあるのだろうと思う。しかし自分はやはり受け入れられない。
わかりやすい例を取り上げれば、戦国武将を扱った歴史ドラマを見た職場の上司が、「家康に共感した」「リーダーの苦労が身につまされる」、などという感想を口にしたらどう思うだろうか。「家康と同じなわけないでしょ」と突っ込みたくなるだろう。朝ドラの舞台は現代により近いものの、本質的な問題は同じだと思う。
時代と社会体制があまりにちがう人物に、自分を完全に投影できてしまうとしたら、はっきり言ってそれは嘘である。それはあくまで、脚本や演出が現代社会を投影するような内容に作り込んでいるからであり、そして視聴する側が制作側の期待通りに消費しているから、という以上のものではない。
生成AIについて、特に詳しいわけではないからいろんな知見があると嬉しいと言うことが大前提なのだけど。
イラストに関する生成AIの批判が多いのは肌で感じるけれど、文章に関する生成AIの批判はそこまで盛り上がりがない気がするのはなぜなのだろうか。
文章もほとんどが人によって創作、制作されたものであって、同様に批判されてもおかしくないのだけれど、イラスト生成AI反対派は、文章に対するAI技術(翻訳等含む)は使わずにいるのだろうか。
そもそも著作物の定義に関しては、法律が規定しているものであり、それをどう改定していくかは、時代の流れとともに変わっていくものであるとは思うけれど、ベストなバランスを見極めるのは困難なのだろうなと思っている。
私自身は、生成AI自体に関しては批判的ではなく、単に過渡期だからこそ批判が多いのだと思っている。
写真技術が登場した時に、写実系の画家から反対運動が起こったと聞いたことがあるが、写実すると言う価値の絵画の需要はほぼ無くなったが、絵画自体は別の方向で発展を遂げたり画家が描くことに価値が出来たように、生成AIが普及したところで、今の創作物も別のところで発展や需要、価値が生まれるだけだと思う。(もちろん、同様に現在の価値感は残らない場合もある)
生成AIが普及したとしてと、アート・エンタメ系の場合はディレクションに重きが置かれるだけな話だと考えている。
全員がディレクターになるだけで、多分根本的な創作活動は何も変わりはしないのではないかと思う。
そんなスタンスである私は、なぜイラストを中心とした「一見、工数が多そうなもの」ばかりが批判され「一見、工数が少なそうなもの」は批判の的に上がらないのだろうか。
正直、理解ができていない。
数年前、美大を卒業していることもあり興味を持って一巻だけ読んだ。
しかし結果的に私の美大藝大コンプレックスがうずうずしてしまい、それ以上読み進みたいと思えなかった。
私は幼少期から絵を描くことが好きだった。
最初はテストプリントの裏に落書き、少女漫画に出てくる女の子の絵をよく描いていて漫画家になりたいと思っていた。
中学に入ってからは雑誌に載っている海外の景色を絵の具を使って模写するのが好きで休みの日は部屋にこもって絵を描いていた。
高校は美術科に進学したいと考えていたが美術教師の勧めで普通科の高校に進学した。
高校時代はひたすらボケーっと過ごし、絵も授業以外ではあんまり描いていなかった。
美術の授業の自由制作では何をつくりたいかわからず何週間も悩んだ末に、紙粘土をただ丸めたものを出したのを覚えている。
あっという間に大学受験の時期になった。
高校では全く勉強をしない人間になっていたため今更勉強はしたくない、でも大学には行きたい。
絵を描くのが好きだったし、進学後も興味を持って勉強できるなら美術かな?ということで高3の5月くらいに予備校に行き始めた。
木炭を使うのは初めてだし、美術の授業以外でデッサンをするのも初めてだったので全然描けなかった。
そこからデッサンや油絵、クロッキーをひたすらこなしたが…藝大、多摩美、武蔵美全て落ち、浪人した。
浪人時代は都内大手の予備校に変えて、楽しい浪人時代を過ごした。
ひたすら課題に向かうだけの毎日、気の合うクラスメイト、たまに息抜きに都会の街に繰り出す。そんなの楽しいに決まってる。
当時の私は今思えば、自分の表現したいものがよくわかっておらず、おもろい(と自分が思う)絵、ショッキングな絵をひたすら描いていた。
それでも人生の中で初めてレベルで悔しくて、藝大の二次試験前なのに講師にお願いして多摩美に入学するか、浪人してまた芸大を受けるか涙を堪えながら相談しに行った。
多摩美に入学して新たな出会いや刺激を受けて、また藝大を受験してもいいのでは、という助言で多摩美に入学することに決めた。
私はなんとなく予備校時代と同じようにおもろいと思う絵を描いたと思う。
講評会でみんなの作品と自分の作品を見比べたとき、私の絵は全然おもろくなかった。
気付いてしまった。私は自分自身が何を表現したいのか、わからなかったのだ。
大学1年生の時にもう一回だけ藝大を受験したがやはり一次にすら通らなかった。
講評会前に慌てて制作を始めて、中途半端な出来のものを提出。自分でも思い入れが一切ないインスタントな作品。
だって自分が表現したいものがわからない、つくりたい・描きたいものが何かわからないから。
かといってサークルを熱心にやるわけでもなく、友達も少なく、ただ単位を取るためだけに大学に行ってひたすらバイト。
そんな自分が就活などうまくいくはずもなく、なんとか卒業してその後フリーター。
最終的に就職はできたが、卒業してから時間が経つにつれて後悔が押し寄せるようになった。
「美大ってことは絵が上手いんでしょ?私は全然絵とか描けなくて〜」
「才能があるんだね!」
初めて会った人からそう言われるたびに、「美大卒」という肩書きだけで実力も美術への熱意も伴っていない自分を恥じた。
せっかく親にお金を払ってもらったのに、受験に受かったのに、私は自分の表現したいことがわからなかった。
描写力を上げる努力もできない、制作に熱中して、思い入れのある作品を生み出すこともできない。
卒業後も制作を続ける人たちをSNSで見て、私はなんでみんなみたいにすごい作品を作れないんだろうといつも虚しい気持ちになる。
絵を描くのが好きだったはずなのに、本当に絵を描くことが好きなら仕事以外の時間に描けばいいのに。
結局「絵を描く才能」なんていうものはなくて、「何か一つのことを継続する才能」のある人たちなんじゃないかと私は思う。
私は絵を描くことは好きだが、努力して継続することはできなかった。
だから「ブルーピリオド」の中で制作にひたむきに向かう登場人物を見て、自分はこうなれなかったということを改めて実感して苦しくなってしまうのだと思う。
私は現在、転職して小さな会社で絵を描いたりデザインしたりする仕事をしている。
お金をもらっているから一生懸命やらなきゃいけないし、与えられた条件の中でどう表現するかを考えなきゃいけない。
私にはきっと、自由が向いてなかったのだ。
その事に気付いてから少しだけ楽になった。
私はブルーピリオドにもハチミツとクローバーにも登場するような人物ではなく、凡人だ。
凡な自分を受け入れ、大学時代に何もできなかった分、少しでも学んだことを生かしてお金を稼ぐ。
人から、すごいね、良いねと言われるような仕事を頑張っていくしかない。
いくら後悔しても、もう大学時代のように自由な時間は戻ってこない。
大人になってから押し寄せる後悔に対しては、今の自分を受け入れ、今までの自分の行いをどう正解にしていくか、辻褄を合わせていくしかないのだと思う。
フワちゃんのCMでgoogle pixelの認知は上がっただろうけど、フワちゃんに憧れてpixelを買う気にはならない
テレビ制作現場からすると、収録で何かしらやってくれる(やらかしてくれる)からキャスティングするには便利だったんだろうけど
萌えミリタリーアニメ界隈で精力的に活動していた友人は、「特定の作品を認める・認めない」などの萌えミリ界隈で何度も繰り返されるいざこざに嫌気がさしており、合同誌制作をきっかけに炎上の的にされてしまい界隈を去った。
また、友人は「自分の好きになった作品がすぐ展開終了になること」に強いコンプレックスを抱いていた。そんな彼が「毎日新情報が来るし、絶対に展開が終わらない」新天地として見つけたのがVtuberだったが、見る見るうちに転げ落ちていった。
久しぶりにその友人と会う機会があったが、もはやアニメ漫画を捨てている状況で、ゲームもVtuberのプレイしたゲームしかやらない。あれだけ高く積みあがっていた積みプラモデルの数々も、全て売り払ってVtuberへのメンシやスパチャ代に消えているらしい。
会話のレパートリーもいかにVtuberは素晴らしいか、Vtuberを認めないアニメ漫画のオタクがどんなに醜いかという内容しかない。もはやミリタリーすらどうでもよくなった彼は、あれだけ嫌っていた萌えミリ界隈の口汚いオタクかそれ以上の攻撃性を持つようになっていた。
「Vtuberは生きているアニメキャラなんだ。ギャルゲーの進化系なんだ。」こんな支離滅裂な発言をするまでに落ちぶれた友人に、もはやかつて共にアニメを語った姿の面影はどこにもない。
俺が昔好きだったA(仮名)というイラストレーターも、オリジナル同人誌の商業化が頓挫してからVtuberへとのめりこみ始め、潤羽るしあ解雇の際にAが「解雇される理由が全くない、3期生の絆は理不尽な解雇に負けない」と擁護を始めたのに呆れてフォローを外した。
現在、Aは完全に同人を捨てて、鳴神裁を妄信する個人Vと結託してVtuber事務所を設立していると聞いたが、詳細は知らない。
人の弱みに付け入り洗脳するコンテンツであるVtuberがカルトでなければなんなのか。このような文化を野放しにしてはいけない。