はてなキーワード: 血税とは
どっちの陣営もそれぞれを持ち上げたい連中が大本営発表してる。
面白いのは「僕らの友達がこんなに倒されてます>< 許せません:-( 血税で買った兵器を壊すな٩(๑`^´๑)۶」みたいな書き方ははどっちもしてないこと。
もうねどっちも同じようなこと書いてるんだよね。
ざ~こざ~こ。
敵国が小さく見える。
ってことはこっちが勝つってことだよ!」
「考えるまでもないけど正義はウチラにあるよね。
ほんまあんだけテレビや国民のお口にチャックでプロパガンダで恥ずかしくないのかな?
まあトップの人間が持つカリスマを必死にアピールして誤魔化すだけなんだろね。
だって歴史は正しさを証明してる以上は今この瞬間のライブ感で誤魔化すしかねーもんな。
あわれ。
いとあわれ。
プゲラ」
本当に許せないよ。
こんなのとっととやめて白旗をふればいいのに。
自分たちに正義がないって分かってるからこそ勝つしか無いと思ってんだろうね。
本当惨めだ。
耐えて欲しい。
ほんまこんな感じのが両陣営について飛び交ってる。
小学生の「はいバーリア」「バリア貫通」「スーパーバリアー」「超スーパービーム」「は?俺の方は100倍強いから」「俺のは10000倍だけど?」みたいな世界。
どっちの言うことも信用できんわ。
現地に潜入している各国記者とかも結局脅されたり金握らされて嘘ついてるっぽいし、こりゃもう真実は一生誰も分からんと思うぐらいでいいな。
丁寧に書いててえらいと思う。意見は異なるが。
>いわゆる凶悪犯罪に関する資料を読んでいると、「人を殺したら死刑になる(からやめておく)」みたいな歯止めが一体どれくらい有効なのか
ご存じだと思うが、それは歯止めにならない、がファイナルアンサーでもう出てしまっている。
死刑ある国と無い国の比較、死刑があった時代と無い時代の比較は、データで用意だからね。
それは今の時代、制度側も先刻承知なので、抑止の為に死刑をするわけではない。
抑止にならないから死刑止めよう、って意見は成り立つが、今は少し弱い。もともとそれ狙いじゃないから。
>更生出来る人がいるわけだから、それを否定するのはおかしいとも思う。
ここは明らかにおかしくて、少なくとも日本の死刑制度は、「更生したうえで死ぬ」ことを求めている。
死刑がなかなか実行されないのはこれが理由。麻原彰晃の死刑がなかなかされなかったときに、まだ反省た足りないないから、という理由で先延ばしになってたのが有名だな。
それは日本独自の礼だけども、反省しようがしまいが刑は刑なのが普通だ。反省したら駐車違反罰金割引とかないでしょ。
ここは同感。そもそも感情に配慮とかで司法判断を左右するべきじゃないし、感情は個々人や時間によっても変わる。
その日殺してほしかったが、明日は生きて反省してほしいということもある。
>「国家」という仕組みを自分はそこまで信頼してないんだよね。
結局のところここが全てで、20世紀リベラル教育を受けた世代としてらしいセリフ。君の言う通りここが根幹なのではないか。
ただ現代では、国家よりも国家以外(大衆など)がもっと信用ならないのがバレてしまっているので。ネトウヨと言われるかもしれんが、こういう考えはどんどん無効になっていくだろうと確信している。国家を信じないなら何を信じるのか、というのは旧きリベラリズムにとっての急所だし。そもそも国家が信用ならないなら、終身刑のほうが不安だ。国家が正しく終身刑をやりとげる、という「国家への信頼」はいったいどこから発生するのか。
実は君はここで、致命的なスキを晒していると俺は思う。
>「いや、実はお金がないからお前には死んでほしいんだよねー」って話になってる
遺族感情に配慮すべきではないし、抑止効果はないし、国家の信用の有無は判断基準になり得ないのだから。
でもさ、逆にいったら、金がかかるんだよ。文系哲学やってると金を軽視しがちだが、これは実に重いぞ。
大金をかけてまで、終身刑の人生を、つまり終わりなき苦痛を作っている?
大金をかけてまで、ほんのわずかだが、再犯や脱走のリスクを作っている?
言い方次第でだいぶ話が悪くなる。終身刑と死んでるのとどう違うのか、って指摘している人もいっぱいいるよな。
お金っていうのがさ、いわば他の人の人生のわけじゃない。血税っていうじゃない。我々の血をかき集めてそれをやっているわけだ。
最終的に「死刑をしないことにその金をかける価値があるのか」という判断にしかならない。
だからさ、俺には死刑反対派の意見ってのは「美しい矜持を飾るのためにお金を払おうぜ」と言ってるようにしか聞こえないんだよな。
死刑しないことによりメリットも、死刑することによるメリットも、正直薄すぎるよ。
だったら、コストを使わない、という判断になるのが普通だと思う。
まあイルミネーションみたいなもんにコストを払うのは自由だし、皆で話していざ死刑廃止になったら止めやしないが。
でも、今コスト使ってないものを、もっとコスト使おう!とする理由が無い。
色んな世代の人と話す機会があるんだけど、特に若い人はかなり高い確率で眞子さまの結婚を祝福している。
もちろん観測範囲内の話なので、これは「男の子が恐竜が好き」みたいな話だと思ってほしい。恐竜が好きでない男の子もいるし、恐竜が好きな女の子もいる。
若者は「さとり」なんて言われるように、政治的な事にあまり熱心ではない。
関心がないというよりは、大人、特に政治を主導するような中高年の事をそもそもあまり信用しておらず、旧時代的な野蛮人だとでも思っている節があるのだろうか。
政治がなにかおかしなことになっていたり、ベテランの人が炎上したときの態度は、「まあ、大人が言うようなことなんて全部変でしょ」みたいな感じだ。
今の偉い人たちが死ぬまでじっと待つ必要があってそれからが自分たちの社会だ、という様子にも見える。
対して、烈火の如く怒りだすのが40代以上のおじさん・おばさんである。
特に今の40歳周辺の人物は、なまじネットの使い方にも長けていたり、氷河期時代の犠牲者でもあるので、とにかく政治不信が強い。
50代以上になるとパソコンやスマートフォンは少しとっつきにくい若者の機械として認識する人が徐々に増えるが(特に働いていない専業主婦)、3、40代ぐらいだとむしろネット黎明期に詳しいような人も多く、仕事で当たり前に使ってもいる。
若者と同様に大人(高齢者)を信じてはいないのだが、若者が他人事としてある程度距離を置こうとするのに対して、この世代は直接的な行動を伴う。
どっちがいいという話ではないのだが、このような態度の違いと言うのは確実にある。
表題の眞子さまの結婚の件に戻るが、これに反対しているのは自身の観測範囲では殆どおばさんであった。
若者のほとんどは、やはりこういった上の出来事をあまり自分事には捉えない傾向にある。
何人かと話したが、「1億円支払われるっていっても別に1人1円でしょ?1億円の税金とかちょっと道路工事したらなくなりそう」という1億円の価値がいかに低いかについて語る者もいれば、
結婚そのものの価値観が自由であるべきと考えていて、本人たちが望んでいるならどのような結婚でも祝福されるべきとか、他人に咎められる必要はないという発想の者もいた。これは昨今の同性婚の流れなどに敏感というのもあるのだろう。
払った税金の総額が積み重なっている事や、またその殆どが既婚者であることから結婚というものの障害も肌にしみて気になるのだろう。
また「皇室の品格」や「血税」というワードを良く使用するのもこの年代だ。他人の結婚に対して熱烈な興味があるというのもこの年代の特徴なのかもしれない。
ちなみにではおばさんではなくおじさんたちは何をしているかというと、この話自体にあんまり関心がなさそうに見える。
誰が結婚した、離婚したみたいなニュース自体にあまり興味が無いのかもしれない。「はじめは関心があったがもうさっさとこの話終わりにしてくれ、いい加減うざったいな」みたいな態度の人が多かった。
小室氏が天皇家に加わる訳でもなければ一時金も辞退しそうなので、もう他人事というかどうでもいいのだろう。
あとは男性視点から見た時に、皇族との結婚は少しばかり夢のある話なのかもしれないと感じるシーンも多かった。
男性としてわずかにある小室氏への親近感や共感のようなものが、この話に積極的に批判を浴びせたがらない原因なのかもしれない。
もちろん観測範囲内の話なので、これは「男の子が恐竜が好き」みたいな話だと思ってほしい。恐竜が好きでない男の子もいるし、恐竜が好きな女の子もいる。
乱暴な意見だけど、声高に叩いている人たちは、日々の生活や過去でどこかしら抑圧されているんだと思う。そういう人たちにとって、皇室ってのは「理想の抑圧仲間」なんじゃないかな。自分の意志を通すことはできず、国民の代表として立派に振る舞うことが課せられている。抑圧はされているけれど、エレガントで素敵な暮らしをしている。なんか見てて慰められるというか、気持ちいいんだよね。
だから、皇室の人たちが自己を主張し始めたりするとイライラする。自分と同じ抑圧仲間だと思っていた人が、抜け駆けしてどこかに行ってしまう。残された自分のいる場所は、あるいは自分が理想だと思っていた場所は、やはり居場所の悪いところだったんだ。慰めてくれる可愛いお人形さんに裏切られたような。(国民が勝手に神格化しがちなのは象徴天皇制の良くないところのような気もするけど…)
私生活が充実しているような人は、まあ忙しいし彼らをそこまで叩き続けることないよね。多少うーんと思っても、単純に自分の娘が結婚するって言って彼を連れてきたらちょっと嫌だなあ、とかお金関係が不透明でそこがなー、くらいのレベルで。
私は正直言って、彼に対して良い印象も悪い印象も持ち合わせていない。
ただ、ニュースに上がるたびに執拗に叩き続けるネットの人々には、嫌悪感と恐怖を強く感じる。
最近話題の髪型と態度についても、そこまでおかしいものだろうか?
ロン毛と書かれることが多いが、後ろで束ねていて悪印象は抱かないし、むしろ最近のオシャレな若者みたいだという印象を私は受けた。
当時の全体像を見ることができないので何とも言えないが、あんな風に急に取材を受けたら急いで立ち去ろうとするのも無理はない。
ここ数年の報道を受けて、真摯に対応しようとする人間がどれだけいるのだろう。
「皇族と結婚するのだから……」、などとそれらしい叩き文句を言う人も良く見かけるが、それこそ古臭い因習だ。
皇族といえど人間なのだから、まして一般人である小室さんにどれほどの振る舞いを求めるのだろうか。
あれだけ執拗に叩いておきながら、自分たちに愛想よく笑いかけろとはクレーマー気質も甚だしい。
また、彼らの過去を根掘り葉掘り調べて掲載してきたマスコミ、週刊誌の報道にも疑問を感じる。
そもそも関係者A、みたいな人物は本当にいるのだろうか。でっちあげていないか?
まず前提として、本当に小室圭さん自身が過去に何らかの犯罪行為(法律上問題のある行為)を起こしているなら、私刑ではなくまっとうな手続きのもとで裁かれるべきだ。
だが、真偽を確かめようがない過去の行いなどを取り上げて、さもそれが絶対的な真実のように叩く姿は気味が悪い。
疑惑の解消を、なんてコメントも見かけたが、週刊誌などがいくらでも盛れる根拠のない疑惑を永遠に産み出されてはキリがないだろう。
学生時代の素行についても、自分が100%品行方正だったという人はどれくらいいるのか。
キリストの言葉を借りるわけではないが、他人の行いに石を投げるならまずは自分の過去を振り返ってみてはどうだろう。
週刊誌やマスコミに踊らされて、理不尽に叩き続ける人たちを見ると本当に困惑する。
ラジオ番組を聞いて本当にエイリアンが襲来したと勘違いしてパニックを起こした、
なんて海外の古い話があるが、そのレベルにまだ留まっている生きる化石みたいな人間のなんて多いこと。
母親についても数多の問題が取り上げられているが、そちらについても疑問が残る。
小室圭さん本人ではなく母親が起こした問題について、彼はどこまで責任を負わされるのだろうか。
これも非常に古臭い考えを持っている人が多すぎるように思える。
犯罪者が出たら一族郎党まで罪に問う、なんて前時代的な考えをまだ持っている人がいることに恐怖を覚えてしまう。
やや大げさだが、犯罪者の父を持つ子や、片親の子に対して偏見を持つ人がいるが、根底にあるのはそういった差別意識のように思える。
親の行いに対して、子に責任を背負わせるというのは非常に酷だ。
まして彼の母親もただの一般人で、あれほど連日マスコミに叩かれ続ければ表に出てくることに抵抗もあるだろう。
彼女の行いがどこまで真実か分からないので肯定も否定もできないが、少なくとも無関係な人が口を出したり、文句を言うことには疑問を覚える。
こういった意見を述べると、「一般人と皇族は別」という話をする人がいるが、それも残酷な話だ。
皇族はかくあるべきだと決めつけて、個人の自由すらも他人が口出しするのは現代的ではない。
それは結局、一個人の幸せを願わず、皇族だからこうしろと他者の意見を押し付ける残酷な考え方だと思う。
少なくとも私は、好きな人と結婚したいと願う気持ちがある人に対して、結婚するななんて言う理解のない人間にはなりたくない。
言っていいのはギリギリで親や親戚で、それもあくまで助言や意見の交換程度で決定権は本人たちにあるべきだ。
まったく無関係の一般人が他者の結婚にアレコレ口出ししているのは、異常な光景に見えてしまう。
まして、結婚により皇族ではなくなるというのなら、もう放っておいてあげればいいのにと常々思う。
まだ憎いのか、まだ叩きたいのか?
税金がー、国民の血税がー、と怒る人々もいるが、それほど大きなお金だろうか?
我々の税金の大半は、私たちが日々利用する公共施設やインフラ整備に回されているわけで。
一個人へ怒りをぶつけるなら、国会中に寝ている議員たちに怒ったほうがまだ建設的だ。
税金が無駄遣いされている箇所なんていくらでもあるのに、1億5000万程度であれほど怒れる人々はどういった目線を持っているのだろう。
その1億5000万円も辞退されるとのことで、なにも問題ないのでは?
とまあ色々書いてきたのだが、週刊誌やネットニュースに踊らされるがまま叩く前に、もう一度理性的になって考えてみてはどうだろうと思った次第。
皇族だから、なんて日本のために犠牲になれという押しつけがましい願いより、一個人の幸福を願ってみてほしい。
あと、本当にこれだけは言いたい。
「国民は怒っている」「国民に説明の義務を果たせ」、「国民に失礼」
チンパンジーの部隊や狩猟採集民の文化では、暴力による死亡率が現代文明よりもはるかに高い。これは、少なくともチンパンジーとの共通の祖先にまで遡ると思われるが、チンパンジーの軍隊も常に戦っていた。
戦争には、殺し、傷つけ、拷問し、誘拐し、レイプし、そのような運命を避けるために貢ぎ物を強要するなどの行為が含まれていた。隣接する部族同士が戦争をしていないときは、一方が他方に貢ぎ物をしているのが普通である。貢ぎ物は、同盟関係を結び、戦争の規模の経済を実現する役割も果たした。ほとんどの場合、それは勝利者にとって、敗者にさらなる暴力を振るうよりも有利な搾取の形態であった。
戦争に勝利すると、敗者から勝者へ即座に支払いが行われることもあった。多くの場合、これは熱狂的な勝者による略奪という形で行われ、敗者は必死に収集品を隠した。また、定期的に貢ぎ物を要求されることもあった。この場合には、敗北した部族の財やサービスの供給能力と勝者の需要を一致させるような、精巧な現物支給のスケジュールによって、三重の偶然性を回避することができたし、時にはそれが実現した。しかし、このような解決策であっても、原始的な貨幣はより良い方法を提供することができた。つまり、共通の価値を持つ媒体として、支払い条件を大幅に簡素化することができたのである。これは、条約の条件を記録することができず、暗記しなければならなかった時代には非常に重要なことであった。イリコイ連合で使用されていたワンパムのように、収集品が原始的な記憶装置の役割を果たしている場合もあり、そのままではないものの、条約の条件を思い出すための補助として使用することができた。勝者にとっては、収集品はラファー最適値に近い形で貢物を集める手段となった。敗者にとっては、収集品を隠しておくことで「過少申告」が可能となり、勝者は敗者がそれほど裕福ではないと信じて、要求額を少なくすることができた。また、収集品の隠し場所は、熱狂的な貢ぎ物収集者に対する保険にもなった。原始社会の富の多くは、その秘密性の高さゆえに宣教師や人類学者の目に触れることはなかった。このような隠された富の存在を明らかにできるのは、考古学だけである。
隠蔽などの戦略により、貢ぎ物を集める人たちは、現代の徴税人と共通する問題を抱えていた。それは、いかにして自分たちが取り出せる富の量を見積もるかということである。価値の測定は、多くの種類の取引において厄介な問題であるが、敵対関係にある税や貢ぎ物の徴収においては、これほど厄介なことはない。このような非常に困難で直観的でないトレードオフを行い、それを一連の問い合わせ、監査、徴収行為の中で実行することで、貢ぎ物の徴収者は、たとえその結果が貢ぎ物の支払い者にとって非常に無駄なものに見えたとしても、効率的に収入を最適化することができたのである。
ある部族が、以前に戦争で敗れた近隣の部族数人から貢ぎ物を集めているとする。その際、各部族からどれだけの金額を引き出せるかを見積もらなければならない。推定値が悪いと、一部の部族の富が控えめになり、他の部族は実際には持っていない富の推定値に基づいて貢ぎ物を払わなければならなくなる。その結果、被害を受けた部族は縮小する傾向にある。利益を得た部族は、得られるはずの貢ぎ物よりも少ない量を支払うことになる。どちらの場合も、勝利者にとっては、より良いルールで得られるかもしれない収入よりも少ない収入しか得られない。これは、ラファー曲線を特定の部族の運勢に適用したものである。この曲線は、優れた経済学者アーサー・ラッファーが所得税に適用したもので、税率が上がると収入額は増えるが、回避、逃避、そして何よりも課税対象となる活動に従事する意欲がなくなるため、税率に比べてますます遅い速度となる。このような理由により、ある一定の割合で税収が最適化される。ラファーの最適値を超えて税率を上げると、政府の収入は増えるどころか減る。皮肉なことに、ラッファー曲線は、政府の収入に最適な徴税の理論であって、社会福祉や個人の選好満足度に最適な徴税の理論ではないにもかかわらず、減税を主張する人々に利用されてきた。
もっと大きなスケールで言えば、ラッファー曲線は政治史の中で最も重要な経済法則と言えるかもしれない。チャールズ・アダムスはこの法則を使って、帝国の盛衰を説明している。最も成功した政府は、自分たちのインセンティブ(短期的な収入への欲求と、他の政府に対する長期的な成功)によって、暗黙のうちにラッファー曲線に従って収入を最適化するように導かれてきた。ソビエト連邦やローマ帝国のように納税者に過剰な負担を強いた政府は歴史の塵となり、最適な収入を下回った政府は、資金力のある隣国に征服されることが多かった。民主党政権は、資金力のない国家を征服するよりも、もっと平和的な手段で、歴史的な時間をかけて高い税収を維持することができるかもしれない。民主党政権は、外部からの脅威に比べて税収が非常に高く、税収のほとんどを非軍事分野に使う余裕がある歴史上初めての国家である。彼らの税制は、これまでのほとんどの政府よりも、ラッファー最適に近い形で運営されている。(このような贅沢は、民主主義国家が徴税を最適化するインセンティブを高めたのではなく、核兵器が攻撃を抑止する効率性を高めたことで可能になったとも考えられる。) ラッファー曲線を応用して、様々な部族に対する条約上の貢納条件の相対的な影響を調べてみると、収入を最適化したいという願望から、勝者は敗者の所得や富を正確に測定したいと思うようになるという結論が得られた。価値を測ることは、富を隠したり、戦いや逃亡によって貢ぎ物を回避したりする支那人のインセンティブを判断する上で極めて重要である。一方,支那人は,収集品を隠しておくなど,さまざまな方法でこれらの測定値を偽装することができるし,実際にそうしている。貢ぎ物を集めることは,インセンティブが一致しない測定ゲームである。
収集品があれば,支流が供給できるものや勝者が必要としているものではなく,戦略的に最適なタイミングで貢ぎ物を要求することができる。勝利者は、貢ぎ物を取られた時に富を消費するのではなく、将来的に富を消費するタイミングを選ぶことができる。その後、紀元前700年頃には貿易が盛んに行われていたが、貨幣は貴金属製の収集品のような形をしていた。これを変えたのが、アナトリア(現在のトルコ)のギリシャ語を話す文化圏、リディア人である。具体的には、リディアの王たちが、考古学的・歴史学的に最初の主要な貨幣の発行者となったのである。
その日から今日まで、コインの発行は民間の鉱山ではなく、自ら独占権を与えられた政府の鉱山が中心となっている。なぜ、当時の半市場経済圏に存在していた民間銀行家などの私利私欲による鋳造が行われなかったのか。政府がコインの発行を独占してきた主な理由は、政府だけが偽造防止策を実施できるからである。しかし、現在も当時も商標権を行使するのと同様に、政府は競合する民間の鋳造所を保護するために、そのような措置を講じることができたはずである。
コインの価値を見積もることは、収集品の価値を見積もるよりもはるかに簡単であった。物々交換ではなく貨幣を使った取引の方がはるかに多く、実際、取引から得られるわずかな利益が初めて取引コストを上回ったため、多くの種類の低額取引が初めて可能になったのである。収集品は低速度貨幣であり、少数の高価値取引に関与していた。コインは速度の速い貨幣であり、多数の低価値取引を促進した。
これまで見てきたように、原始貨幣が貢納者や徴税者にとって有益であることや、そのような支払いを最適に強制するためには価値測定問題が重要であることを考えると、徴税者、特にリディアの王が最初に貨幣を発行したことは驚くべきことではない。徴税によって収入を得ている王には、臣下が保有し交換する富の価値をより正確に測定する強い動機があった。また、交換のための媒体を商人が安価に測定することで、効率的な市場に近いものが生まれ、個人が初めて大規模に市場に参入できるようになったことは、王にとっては偶然の副次的効果であった。市場を流れる富が増え、課税対象となったことで、国王の収入は、通常のラッファー曲線の効果である税源間の誤計測の減少以上に増加した。
徴税の効率化と市場の効率化が相まって、税収全体が大幅に増加したのである。徴税人たちは文字通り金鉱を掘り当てたのであり、リディア王のミダス、クロイソス、ギゲスの富は今日まで有名である。
数世紀後、ギリシャのアレキサンダー大王は、エジプト、ペルシャ、インドの大部分を征服したが、その壮大な征服の資金は、低速度の収集品の集合体であるエジプトやペルシャの神殿を略奪し、それらを溶かして高速度のコインにすることで得られた。彼の後には、より効率的で包括的な市場経済と、より効率的な徴税が生まれた。
貢物の支払いは、それだけでは収集品の閉ループを形成しない。貢物は、最終的に勝者が結婚、交易、担保など何かに利用できる場合にのみ価値があった。しかし、勝者は、たとえ敗者の自発的な利益にならなくても、収集品を得るための製造を敗者に強要することができた。
古代の狩猟採集民には、現代のような不法行為法や刑法はなかったが、現代法でいうところの犯罪や不法行為に該当するような紛争を解決するための類似した手段があった。紛争当事者の一族による罰や支払いによって紛争を解決することは、復讐や復讐戦争のサイクルに代わるものであった。アメリカのイリコイ族からキリスト教以前のゲルマン人に至るまで、ほとんどの近代以前の文化は、罰よりも支払いの方が良いと考えた。些細な窃盗から強姦、殺人に至るまで、すべての実行可能な犯罪には価格(ゲルマン人の「weregeld」やイリコイ人の血税など)が設定されていた。お金があれば、支払いはお金の形で行われた。牧畜文化では家畜が使われた。それ以外では、収集品の支払いが最も一般的な救済策であった。
訴訟などの損害賠償の支払いには、相続や結婚、年貢などと同じように、事象と供給と需要の三位一体の問題が発生した。訴訟の判決は、原告の損害賠償能力と、被告の損害賠償による利益を得る機会と願望が一致する必要があった。原告がすでにたくさん持っている消耗品を救済措置とした場合、救済措置は罰としての役割は果たすが、被告を満足させることはできないであろうし、したがって暴力の連鎖を抑制することはできない。このように、収集品には、紛争を解決したり、復讐の連鎖を断ち切るための救済策を可能にするという付加価値がある。
紛争の解決は、支払いによって復讐心が完全になくなるのであれば、閉ループを形成しない。しかし、支払いによって復讐心が完全に消滅しない場合、支払いは復讐の連鎖に続くサイクルを形成する可能性がある。このような理由から、より密に接続された取引ネットワークが出現するまでは、復讐のサイクルを減らすことはできても、なくすことはできないという平衡状態に達していた可能性がある。
統計学を「演繹的推論」に使ったら、事故ばっかしてるじゃん。特に社会学や、医学で。小保方晴子の事件よりも、ディオバン事件の方がヤバいよ。これは、ノバルティスもまずいけど、日本の医学部の闇なんだよ。本当は意味のないのに無理やり数値を弄って、血税を奪い取っているのが明らかになっている。実は、日本の医療研究がクソっていうのは世界的に知られているのよ。そんでもって、大概「p < 0.05」「信頼区間は1を跨いでない」だろ。おかげで、日本の生物学の連中は国内では職もなく、海外では信用されない、という駄目っぷりよ。生物系は医者が嫌いだと思うよ。
https://news.yahoo.co.jp/byline/enokieisuke/20190626-00131623