はてなキーワード: 排外的とは
例の「私、日本人でよかった」ポスターの件。増田のネタ投稿http://anond.hatelabo.jp/20170505015130読んで、遅まきながらその気持ち悪さに説明がついた。ここに用いられている日本語が、決定的に気持ち悪かったのだ。翻訳してみようと思えばすぐその違和感の正体に気づくと思う。このコピー、たとえば英語にするとして、あなたならどんな英語に訳すだろうか?
もしこのコピーの趣旨が「I love Japan.私は日本が好き」なら、当然まったく炎上しなかったと思う。そんなのその人の勝手だからだ。それはアイデンティティにかすりもしない発言だし。
だから、これはこのコピーの含意全てを説明しきっていないと思う。
だが、もう少しこのコピーに寄せて
「I appreciate that I was born in Japan.私は日本に生まれ『て』よかった」あるいはもう少しアイデンティティの問題に寄せて
「I appreciate that I was born as Japanese.私は日本人として生まれ『て』よかった」という言い方であっても、まだこのコピーを十分説明しきれているようには思えない。
なぜなら、このような屈折した自己愛表明行為ですら(それはそれで怪しいものだが)、まだ元コピーに感じられるほどの気持ち悪さには及ばないのだから。
最初の「私、日本人『で』よかった」というコピーが含意するのは、結局のところ「ほかでもない日本人『で』」という排外的ニュアンスだ。ポスターへの反応に
自分の遺産を誇りに思うことは何も問題ではないけど「他でもないこの国籍に生まれたのはとてもよかった」と言うのはちょっと差別的かもしれない。
というものがあったが、まさにそれだ。そのことに気づくのに、ずいぶんかかってしまった。この「で」には、他の可能性と比較して(~デアッテ、ソノ他デハナクテ)というニュアンスが含まれうる。そして、マイルドにあるいはあからさまに排外主義的主張を行うことが流行っている現代社会を背景においてみれば、このコピーの作者はその含意を十分に分かった上で、まさに確信犯的にこの「で」を選んだということは確実に言いうるだろう。自国のことを誇るのは普通じゃないか、という言い訳を一方におきながら、実にこっそりしかも堂々と(!)拝外主義的主張を大っぴらに口に出せるというのが、まさしくこのコピーが選ばれた理由だろう。そして、そのように「暗い意図を大義名分に隠してはしゃいでいる」雰囲気、それこそが「気持ち悪さ」の正体なのだと思う。
いや違う、考えすぎだ、という人は、日本人「で」なく不利益を被っている/被った様々な人たちを目の前にして、このセリフを口にする自分自身の姿を想像してみるとよい。
・戦争で祖国を追われて亡命してきた人に向かって、あなたはほほえみながらこのセリフを口にできるか?
・両親が外国人であるなどして、自分のルーツと現に暮らす国の間でアイデンティティを引き裂かれ悩んでいる子どもに向かって、同じことが言えるか?
・海外に出て、今なお残る人種差別、民族対立、移民問題などに直面したとき、現地の人に向かって、このセリフを口にすることができるか?
それがどれほどグロテスクな絵面になるか、少しは想像していただけるだろうか? アイラブジャパンにはない、このセリフに潜む他者切り捨ての姿勢。それでもあなたはこのコピーが無実だと唱え続けられるだろうか?
私は愛国が悪いと言っているわけではない。愛を表明するのは自由だし勝手だ(そして、愛というのは、それがなかったとしても強制したり責めたりするべきものでないことも、もちろんのことだ)。むしろ、世界の人と語り合う上で、自分のルーツを愛し誇りを抱くことは、相互理解の上で重要なことであり多くの場合必要なことだろうとすら思う。だから、世界に出て、お前はどういう人間なんだと聞かれたときに、あいあむじゃぱにーずあいらぶまいかんとりー、と言えるのはとてもいいことだ。ざっつおけぃあいしー。だが「日本人『で』よかった」←このコピーはダメだ。そこには他者への理解や尊重という視点が決定的に欠けている。内輪で閉じた集団の自慰的満足のニオイしかそこには感じられない。陽の下で成熟した人間同士がオープンに交わすコミュニケーションの「愛」ではない。強いて言えばそれは暗い部屋の中で、想像上のイコンに対し己の歪んだ欲望を一方的になすりつける孤独な行為のような思想だ。それをおおっぴらにやろうとしている。やめてくれ。
かようなものをポスターにして国際観光都市に貼り付けるなど、暗い欲望を公衆の中で密やかに開陳する露出行為のように彼らの快感を非常によく満たすことなのかもしれないが、普通に考えて国際的には恥なので、関係者はそこのところを考えて適切に判断されるのが望ましい、と私は考える。それとも、こういうHENTAI行為こそ彼らの考える「クールジャパン」なのか。ちょっとあまりにCool過ぎやしないか。
なお、いろいろと私にもの申したい人もいるかもしれないが、とりあえず、露出行為ならばこうして公にその行動や意図をさらされるとその快感の半ばは台無しになるものなので、こうした文章を書き公にした時点ですでに私の意図の半ばは達成されているということだけは申し添えておく。
来ないと思うなあ
米国にしても欧州(EU)にしてもこの二つが極右や極左の支持の媒介になってる
米国は言うまでもなく世界最大の軍事力と経済力を誇り、しかも近隣諸国との武力衝突のリスクは皆無に等しい
欧州(EU)も経済軍事の両面で強固な同盟国の集合体で、これまた侵略のリスクは極めて低い
外敵の脅威が感じられないから極左の非現実的な理想論がまかり通りやすく、移民の存在感が大きいから極右の排外的な主張が受けやすい
外敵の脅威が比較的身近に感じられるから極左の現実度外視な融和論は見向きもされないし、移民の存在感が薄いから脅威と映らず攻撃の対象になりにくい
ADHD診断済の者です。
ここ最近、借金玉氏のブログ(http://syakkin-dama.hatenablog.com/)が立ち上がったり、そこでの記事が話題を呼ぶのを見て、にわかにはてな界隈でも発達障害に関する話題が盛り上がっているのかなと思っていた所、
http://anond.hatelabo.jp/20170206102543
↑こちらの中学受験の話と、それに付いていたブクマコメントが、あまりにも「そうッ!」という思いだったため、少し乗り遅れた感ありますが思わずキーを叩いてしまっています。
そのコメントとは、id:Outfielder 氏の
知能に遅れのない高機能発達障児は、中学で内申が出ないから高校受験で詰んでしまい人生終了がほぼ確定してしまうから少々無理してでも中学受験すべき、という体験談は聞いたことある
というもので、まさに自分がそれだった、その通りや…と瞠目してしまいました。
自分がそれ、と言っても結局中学は公立に進んだのですが、幸いなことに人生終了は(おそらく)しておらず、今は自分にとっては環境面・経済面でも充分有難い場所で働かせてもらっています。
でもそれはたまたま、運が良かっただけという気がしていて、振り返るとこれまでの人生の中で、ADHDのせいとは一概には言えないけれど、幾つかの「挫折ポイント」があったので、もしこれからの進路にお悩みの発達障害傾向のあるお子さんを持つ方などが居たら、参考になればと思いつつ振り返ってみます。
(多分あんまり参考にはならないですし、それよりも自分が整理して書き出してみたいというADHD的衝動によるものが本心です)
子供の時から、自分は周りとは違う人間だ、という自覚は多少なりともありましたが、それは割とポジティブに捉えていました。運動は苦手だけど、勉強はわりといいところ、そして休み時間や家ではマンガを書くこと、それを披露することでクラスで固有のポジションを得ていた覚えがあります。
(絵師の皆さんなどもどこかで記憶のあるような体験なのではないでしょうか)
問題のポイントが、中学受験。親の方針もあり、自分もなんとなく説得され特に断る理由もなかったので(通学が遠くなるのはめんどくさいなあくらい)小4くらいから中学受験に向けた塾通いをするようになります。
しかし、それがだんだんキツくなり、小6のいつ頃だったか、日曜も朝から夕方まで模擬試験、しかも提携してる友達も居ない知らない塾まで通っての体制になり、多分その環境に自分のストレス耐性がピークに達してしまった気がします。
と同時に、なぜ今の小学校の友達と離れてまで、遠い中学に通わなきゃいけないのか、さっぱり意味がわからないと涙ながらの突然の抵抗。自分が覚えている限りの自我の芽生えその1です。
結局、これ以上は無理と親も理解したらしく、中学受験は断念、塾も同じ塾内の進学コースから普通コースに移動しました。この時の迎えてくれた友達の安心感たるや今でも思い出します。
この公立中学が地域圏内では割と悪評の高い、まあいわゆる「荒れてる」と言われるような学校だったようなのですが、幸いなことに僕が入学する直前辺りから目立って悪い行いは無くなっていったようで、中学の3年間は気の合う(ヲタクな)友達も狭い付き合いながらも出来、全体的には、例えばいじめに遭うなどという特段嫌な思い出もなく平和に過ごせました…
が、
心境的には、中学2年辺りから周囲との違和感を強く感じ始めていました。
まぁこれは、誰にでもある思春期の訪れだとも思うのですが、良くないことに同時期に、インターネットに桃源郷を見出してしまいました。
テレホタイムは親のPCでこそこそチャットや掲示板に入り浸り…(なんとなくこれで年齢が分かりますね)
今思えば、このあたりもADHDの衝動性、過集中にフィットしてしまい、その後にやってくる虚脱によって学校を休むことが増え、やがて内申はどんどん悪くなっていきました。。
はい。ここで2度めのポイント、そして最大の「人生終了」感を味わいました。
中学での内申に引っ張られ、「お前はここにしか行けない」という公立校にヒィヒィ言いながら入りました。(試験の点数だけで言えば中の上レベルの人たちと張ってたのに…と今でも悔やむことがありますが、まあしょうがない)
なんで辞めたのか。今でも正直言ってこれといった理由が言葉に出来ないのですが、幾人かの「いやなタイプ」の人の顔、そして、排外的な雰囲気、それに合わせることの絶対できない自分の中の何か。
気づいたら高校に行けなくなっていました。僕みたいな人間は、居心地が良くないとマジで死ぬんだなあ、ということが身に沁みてわかりました。
多分この時ほど親は、上記のコメントと同じことを思ったことは他にないでしょう「少々無理してでも中学受験すべきだった・・・」
その後、半年ほど引きこもりをしてから、今度は底辺私立校に一年から入り直すことになります。
ぶっちゃけ誰でも入れるような所で、周りを見渡せば一目瞭然の発達障害、ヤンキー、そしてほぼ知的障害とも言えそうな人まで、ワケアリな人種ばかりが揃った愉快な空間でした。
それでも、そんな所に高いお金を払って再チャレンジさせてくれた親には大変感謝しているし、また学校行けなくなるのではという恐怖も乗り越え再びやり直すことを決めた当時の自分も、割とがんばってたと思います。(引きこもってた時分は外に出るだけで怖かったです)
そしてこの私立校が、思いのほか自分には合い、割と気ままに過ごすことが出来、大人になった今でもLINEでくだらないことを言い合うような親友も出来ました。
特にその学校ではPCを使った授業に力を入れていて、もともとネットにハマってたくらいなのでPCに触ることは自然だったのですが、その中で自分の特性に合ったジャンルを先生が見出してくれて、「大学受験してみないか?」という運びになります。
その高校での先生たちの手厚いサポートのおかげで、(あの悪評高い)AO入試制度を使い大学への入学を果たします。
2ちゃん等ではFランと呼ばれるランクでしょうが、世間的にはそこそこ名だけは知られているところでした。
そして自分の学生時代を見返してみても、この大学時代が一番輝いていたように思います。
興味のある授業内容、自由な雰囲気のキャンパス、そしてどことなく普通じゃない人達の集まる文化系サークルに出会い、居場所と夢中になれることの両方が目の前に広がり、自分の人生が本格的に始まった感じがしました。
色々あったけど、特にここで語るべきことはこれ以上ありません。
就活は例に漏れず苦痛でしたが、それでも思ったよりあっけなく、自分に合いそうな所に内定を得ることが出来ました。
そして、光に満ちた4年間が終わり、ここから暗く長い旅の始まりです・・・。
といっても、第3のポイントは1年目序盤にあっさりと訪れます。会社に数日行けなくなりました。
体が動きません。会社のメールも見れません。連絡したくありません。何もかもから逃げ出すことしか考えられなくなりました。
それでもなんとか数日休んで、這うような思いで出社し、耐え、またしばらくすると行けなくなる、を繰り返しました。
メンタルクリニックにも行き、「抑うつ状態」の診断書を突きつけたりもしつつ、それでも時には自分に合った業務に携われる期間もあり、何より会社の人が良い人だったので、なんとか辞めたり休職したりはせずに、自分の心と身体を騙し騙し、一つの仕事に人より何倍も時間を浪費しながらも、続けられていました。
ADHD的に特に難しかったのは、やはり外部とのコミュニケーション、スケジュール管理、企画書作成といったところでしょうか。
これらを、自分を無理に奮い立たせながら乗り切っていたため、やがてそういった業務をすればするほど、図太くなるどころか気づいた時にはストレス耐性が全く無くなり、再びしょっちゅう休むようになりました。
それがここ1年ほどのことです。
再びクリニック通いを再開し、軽うつに対応するような薬を飲みつつも、相変わらず同様の環境で仕事を続けており、このままじゃどんどんダメになるのではという漠然とした不安と焦りが募っていました。
そして約半年前、同じクリニック内で医師が代わり、その医師の診断方針もあり状況を見直した所、「ADHD」という判断を受けました。
それまでもネットで色々情報は見ていたため、あ~やっぱり、という感じでした。
その後、自分はADHDであり、こういう業務はどうしても脳の形状的に難しいのだと諦めがつくようになり、まずは環境を変えなければどうしようもないと思い、同じ社内ではありますが異動を相談したところ、あっさり通り、そして始めのほうに記したような、落ち着きつつある現在の状況があります。
中学受験・高校・社会人と何度も「周囲との違和感」「やってみてはダメになる」「周りと同じような適応は出来ない」を繰り返してしまっていたのですが、それでも、親や教師の理解やサポート、たまたま巡り会えた環境に恵まれ、なんとか人生終了せずに、今は地道に日々の幸福度を回復させていけるようになりました。
中学受験に成功していれば全てが上手くいった、とは思わず、結局はどこかで周囲とのギャップ、そして挫折を経験していたと思いますが、それでももっと早くADHDという認識を与えられ、それに対応した生活の見直しや進路を定められていたら、もうちょっと楽に歩むことが出来たんじゃないかなと思います。
一歩間違えれば人生終了待ったなしだった気がするので、それを回避するためにも、もし自分が、そして自分の子供がちょっとあやしいなと思ったら、診断を受けてみたり歩み方を普通の人とは変える、認識を良くも悪くも諦めるようなタイミングが、必要なんじゃないかなと思うのでした。
最近のHIPHOPブーム(?)から感化されて自分のにわかラップ愛が燃えて色々手を出して見るかと思ってきたので軽く調べてみた
ケツメイシやリップスライム,、m-floらへんの売れ線くらいしかまともに聴いてこなかったし、本場寄りのHIPHOPはそこまで琴線に触れてこなかった
食わず嫌いはやめようと思って日本語HIPHOPと呼ばれる音楽に手を出そうと思ったのだが音楽以前にHIPHOP界隈の人間が残念すぎて聴く気失せまくり
汚いdisり合いとかは文化として受け入れてもいいが、zeebraがどうこう内輪ネタでキャーキャー言ってコミュニティーレベルじゃなくジャンル巻き込んでの内輪ネタで盛り上がり
売れ線のHIPHOPをセルアウトだの逃げただの排外的な扱いして悦に入る姿が気持ち悪くて気持ち悪くて。
別にどんな汚い音楽をやろうがコミュニティーレベルで内輪ネタしようが構わんがなぁ...
こういう内輪に引きこもってない日本語HIPHOPやラップバトル、あとJラップ(っていうのかな?)のジャンル名、コミュニティーがあったら教えて欲しい限りだ
スーパーマリオってゲームは不平等なわけ。俺は茶色い物体を飛び越えることができないの。
タイミングが合わない運動神経をもって生まれた人間からしたら、マリオこそ最高に不平等なゲームなわけ。
スプラトゥーンとかイカ臭いクズゲーで、指先コントロールテクニックを振りかざしてドヤ顔かましてる人間の皆様聞いてますか?
そもそも世の中は不平等なわけ。
そしてソシャゲというのは、ガチャという人類の能力差をリセットする機能を備えた最高に平等なゲームなわけ。
ちょっと操作がうまくて、ソシャゲになってドヤれなくなったからって騒ぐんじゃねえ!
その間に俺らは汗水たらして金稼いできたんだバカやろう!
ガチャの前では五体不満足の乙武もプロ・ゲーマーウメハラも平等なんだ。
ファシズムよろしく排外的思考で弱者を排除しようとしている○○○○○ちろうは死ね!
はてなダイアリーとはてなブックマークで、なあなあと慣れ合いながら、少し排外的な「はてな村」は、崩壊を始めている。
移民の受け入れに失敗したからだ。ドイツのメルケル首相を笑ってる場合ではない。
受け入れ失敗には、3つの大きな過ちがある。
はてなブログを受け入れず、結果、定着した時に誤った作法が広がった。
はてなブログへの移行後も、結局、はてなダイアリー的な使い方しかせずに、新しい使い方を拒否した。
結果、ブログに対するスターやコメントなどの「はてなブログ内」にコミュニティを移行できなかった。
相変わらず、はてなブログに対する一番の交流場所が「はてなブックマーク」のままというありさまだ。
なるほど、郷に入っては郷に従え「はてなブログ」は「はてなブックマーク」で交流するのか。
その結果、「はてなブックマーク」にはブログの作法を持った移民が大挙して訪れる事になる。
「いや、拒否はしないよ?でも、ココはこういう作法だから」としてきた姿勢が、大量の移民を前に崩れ去った。
キャッチーではあるが誤ったラベリングを受け入れ、排斥運動が「頑迷な未開人の叫び」になった。
「はてなブックマークスパム」という、昔からあった長いが正しい方向性を、
「はてな村互助会」と言う、キャッチーだが間違ったラベリングで議論しだした。
そもそもはてなブックマークは、idを用いた慣れ合いがかなり長い間あった。
「村長」や「会長」と、なんの説明も付けずに書いたとして伝わるという、身内受けするネタも数多い。
また、「スパムの売買」という認識も間違いなくあった。(はてな村奇譚20あたり参照)
その方向性が一気に変わったのがコレ→はてなブックマーク - 有名ブログですら互助会ブックマークが必要という現実
まだ、「互助会」というラベリングではなく、「ブックマークを集める手法」という承認欲求の一種としての取り扱いだった。
次に、載っかたのがコレ→はてな村を汚す、はてなブックマーク互助会の暗躍
そして、決定的に定着させたのがコレ→はてなブックマーク互助会と炎上耐性 - あざなえるなわのごとし
この2つを切り離して考えられなかった(考えたくなかった)のが、主な誤り。
本当に基礎の基礎の知識だが、圧倒的にネットリテラシーが欠けていた。
もともと、「遠くからヤイヤイ言う」というはてブは、かなり最初期からお行儀云々言われていた。
ネットウォッチにも、荒らしに対する反応にも、びっくりするぐらい相性が悪い。
ここで、「はてブを専有するに相応しくない話題」だと考え時に、徹底無視を貫けなかったのが、誤り。
(「他の人間がブコメしてんだから、俺がしないと大喜利にならないだろ」みたいなのが主因だと思うが)
はてなブログからはてなブックマークに人が流入してきて、本来の意味で「はてなブックマーク」が使われだした。
つまり、「はてなブログに参入する人が、読みたい記事の集合体」が、ホットエントリを占めだした。
いくら稼いだとかなら今からでもスパム扱いすりゃ良いんだけど、もう遅いんだよ。
見てみろ今のエントリー。2chまとめ、グラビアまとめ、Twitterのまとめ。
ぶっちゃけて言うけどさ、「しいたけのアイコンが変わった」がホットエントリになるの、スパムにしか見えない。
もちろん、「●●アクセスで、■■円稼いだ!」みたいなのは、ホットエントリには相応しくないと考える。
これをキチンと分けて考えた上で、慣れ合いを許容しつつ、はてブにふさわしい話題の議論をして、
「荒らしに反応するのも荒らし」とマサカリをガッツリ投げあえなかったのが、敗因。
慣れ合いを村スパムと弾劾できなかった時点で、あとは自警団に期待するしか無かったんだが、
オマエだよオマエ。グラビアに無言ブクマしたオマエだ。ホッテントリが壊れたのはオマエのせいだ。
会長だの村長だのしいたけだのコンビニ店長だの身内向けのブコメを節操無くつけてたオマエのせいだ。
もはや「弾劾は身分保障された対象を訴追する際に使うのでこの場合は断罪」とか言うはてな村は死んだ。
P.A.WORKSが製作したアニメの『グラスリップ』見ましたよ。中々でした。
#
※以下ネタバラシ有
#
#
売上が良くないと言われたら「そうだね」としか言えません。
『グラスリップ』には「あざとい」もそこまでありません。
もっと金を巻き上げてよかったのでしょう。次の『SHIROBAKO』が人気だから、まあ、ほら。
#
内容に関しては「おや突拍子もないね」というシーンはありましたが言われている程は、
気になりませんでしたね。口下手な脚本さんなのでしょう。いいじゃありませんか。
だけど頻繁に家を訪ねるの、あれは気になりましたね。ジャスコ行きなよ、田舎学生なんだから。
#
#
ともかく舞台がP.A.WORKSらしいというか『true tears』っぽかったです。
主題歌、学園、ニワトリ、ちびキャラの走るエンディング、三角関係、とかとか。
その一方で止め絵とかアイコンとか、新しい要素もあって感心しましたね。
#
デフォルメアイコンを出してコミカルにやるのは慣れましたね、悪くなかったかも。
止め絵は基本的には「ここで止め絵かいな」とよく思いましたけど、
個人的には「いいな」ってシーンも一回二回ありました。難しいでしょうねアレ。
止め絵で映像は停止しているのに音声とか時間は自然に流れていくので、
真面目なシーンで止め絵が入ると「今どうなってるの! 早く!」って気になって、
止め絵が好きになっちゃう人もいるでしょうね、私みたいに。でも、不評でしょうね。うん。
#
あ、あとダビデくんの分身心の声。アレ、実写だとそこまで違和感ないでしょうし、
気にならなかったのですけど、ネットだと面白おかしく取り上げられてますね。
人間生きてれば分身ぐらいすることもあるでしょう、さもありなん。
#
やっぱりアングルはやや斬新でしたけど、そこまで感心するところはありませんでした。
改善を要求する。評価としては三角でしょうが挑戦したその心意気や良しという感じですね。
#
③恋愛要素
#
ダビデくんの父親が半分専業主夫みたいだったり(建築家らしい)、幸(薄幸目鏡文学少女)が新しい恋愛したり、
「私は女だけど透子ちゃんも祐くんも恋愛的に好き」って、二人を呼び出してさらっと殴った割に
「(透子にはダビデがいるし?)(祐と二股になるし?)透子ちゃんとはこれからも友達として」って、凄いですよね。
幸(薄幸)ちゃん新しい、素晴らしい。
ともかく世間を先取りした恋愛を提示するのは名作の役目ですね。『グラスリップ』が名作かどうかは、まあ。
#
恋愛全体に関しては、感情移入はしませんでしたが逆に悪くないような気もしました。
一話でニワトリをどうするか突然悩んで「相手の意見なんて自分はこれまで聞いてこなかったんだ」という、
当然の事実に主人公の透子は気づいて、そこから周りに目を向けていったら無神経な透子は裏目裏目で悪くなっていく、という。
#
改めて周りを見れば、透子を含めて相手と上手くコミュニケーションできない人間ばかりで、
不和も生まれるのだけど「そういう無神経なところ(不器用さ)が好き」という結論が採用されていく。
そういった「相手を許していく」作風なので、ネット的・自己責任論的・他罰的視点で見ると面白くないでしょうね。
#
#
キャラクターを見る際に例えば「透子を取られてしまうのではないか」という問題が作中ありますが、二通りに分けましょう。
ダビデの突然の登場に戸惑って喧嘩する雪哉に対して、やなぎはダビデと直に話す(怒る)ことで場を収める直接性を示す。
透子とダビデの仲を静かに壊そうと企んだ幸に対して、祐は静かに怒って山に登るというまるで口下手な間接性を示す。
#
こう「関係を壊す」際には直接性と間接性と分かれるのですけど「関係を築く」際には統一性があるかもしれませんね。
やなぎは独白のように一方的に雪哉に告白したり、雪哉は電話をかけて「お前と話すと落ち着く」と言ったり直接的で、
幸と祐とも一応告白という形を取ったり唐突に親にボーイフレンドだと紹介したり大胆で直接的に関係を築くと。
仲直りの際には、やなぎと幸は口下手なメールを相手に送って、相手がそれに応えるという静かな感じで。
仲直りは静かで、告白は激しくて、分かりやすくていいですね。古典的で。確かにもう少し斬新でも良かったかもしれない。
#
透子とダビデはいつも全力という感じで「コミュニケーション滅茶苦茶下手」って感じですね。言うまでもない。
#
#
ダビデの親夫婦の仲睦まじい感じや、透子の親夫婦のデコボコだけれど仲の良い感じ、
なんだか悪くなかったですね。イチャイチャとしていて、平和で、健やかで、落ち着いていて。
#
ガラス工房の娘の透子が未来を、ガラス等がきっかけとなって「見える」と言うのと、
ピアニストの母を持つダビデが未来が「聞こえる」というのは似た者同士というか、恵まれているというか。
#
こう似ている割に、誰からも好かれる透子と、侵入者として扱われて✝唐突で当たり前の孤独✝を抱えたダビデという、
無神経でコミュニケーション下手同士の癖に、まるで察せない透子と相手を知ってもまるでなってないダビデという、
なんとも対照的というかなんというか、という感じでしたね。なんというか、かんというか。
#
⑥青春;動揺と、そのあっけなさ
#
『グラスリップ』のネット上の感想をざっと見ると「展開動いて」という意見が、ちらほら。
例えば物語序盤に「未来のカケラ」という未来を見聞きする能力のせいで透子とダビデは知り合うのですが、
実際に透子とダビデが見聞きしていたのは未来でもなんでもなかったという、あっけない結論に落ち着きます。
この「未来のカケラ」は恐らく夢のようなもので、まぐれで「正夢」を見聞きしただけで結局は現実でもなんでもないと。
#
序盤に「未来のカケラ」として見えた、線路を歩く「スタンド・バイ・ミーごっこ」も起きなかったし、
ダビデが墜落していくこともなかった上に、幸が入院するのもまるで大したことないと。なんともないと。
#
なんじゃそりゃ。
#
ただ、そういったハリボテの幻覚に透子は悩まされていきますしハリボテの「未来のカケラ」のおかげで、
最後ダビデの気持ちが分かったようになった、と。なんだかハリボテに悩まされもしたけど、悪くなかったと。
#
透子は母親から「青春時代に未来を見てると勘違いしてたけど、なんでもなかった」と言われ、
母が同じく昔「未来のカケラ」を見ていたことを知りますが更に、これより以前に透子は母親から、
本当に未来のことが分かったとしても「一粒で二度おいしい」だけで、別になんてことはないと諭されています。
混乱しても全然なんてことはない、と。『グラスリップ』はあっけない感じに持って行くのですよね。
#
劇中あっけないシーンは割と多くて、例えば「てへぺろ」を連発するおちゃらけた祐の姉が、
珍しく泣いて病室から出てくると思ったら、どうやら病室にいるのは彼氏らしいと。一大事じゃないですか。
だけど時が経つと無事に退院してコーヒーを飲みに来ると。なんてことはなかったと。そうなの? 嫌いじゃないけど。
#
新しい恋愛体系とか「そういう無神経なところが好き」とか、なんだか『グラスリップ』ってとても、
許容的で包容力あるなって思うのですよね。「おちこんだりもしたけれど、私はげんきです。」って感じで。
あっけなくて拍子抜けでコケオドシだけれど『グラスリップ』は積極的に許していくスタンスで評価に値します。
#
⑦雑な総括
#
基本的に映像も美しいですし、終盤の空とかガラスとか月とか綺麗ですよね。
私は『グラスリップ』、とても綺麗な作品だなと思いましたね。別にそんな悪くなかったです。
「ヘイトスピーチ」とか「過激派組織IS」とか排外的な問題が取り巻く今に、
女性の社会的地位を上げろというが、実力があれば誰でも社長になれる。
それが実力もないのに役員のイスに座らせろ、というのがフェミニストの論だから感情論以外の何物でもない。
実際、女性活躍の先進国であるノルウェーでは実力のない女性役員が増加して業績が悪化しているといった事例が報告される始末だ。
フェミニストの目は一体どこに付いているのだろうか。
不満はそれだけではない。
一種の病気でもあるが、女性専用車両に代表される女性の怠慢の象徴であるかのような税金の無駄遣いを推進し、他方レディースデーなどに反対すると排外的だからと取り合わず
自分たちの境遇を外国の例を湾曲して都合の良いように主張する。
主張が通らない時は喧しく騒ぎ立てては、まるで児戯ではないか。
女性の人権を守るべく主張するのは結構だが、社会的地位云々を主張する前に歴史的背景や当時の女性の社会的地位についてもう少し勉強してみてはいかがか?
あの当時の女性たちの境遇を現在の女性たちの境遇に重ね合わせるには無理がある。
経済とか境遇とかは今は何とでも変えられるが、逆にあの当時はああいう体でしか女性は社会的地位を得られなかったのは事実である。
また、フェミニストお得意の海外の例に目を向けると、ドイツやイタリアでは古くから公娼という市民権を与えられた特別待遇の慰安婦が存在している。
彼女らは参政権も与えられているので選挙に立候補したり投票権が与えられたりもしていた。
これは歴史背景が為せるものであって、差別されてきたとは必ずしも言えない。
ただ、日本の場合仏教伝来によって男尊女卑の思想が根付き、それはイデオロギーとなって現在までに至ったわけだから
フェミニストはそれを何とか改善すべきだと働いているのは知っているつもりだ。
しかしながら、海外の事例を基に身勝手な思想をフェミニストでない一般の人に植え付けるのはどうかと思われる。
そもそも慰安婦などというのは便宜上言われた記号でしかなく、娼婦あるいは売春婦が正式な名称だ。
歴史の何を以って強制性を語り政治的なニュアンスでこれに反対だと主張するのだろうか。
彼女たちは一体何と戦っているのだろうか。
この観念ですらも女性が女性である事を利用した証ではあるまいか。
女性の社会的地位の向上を求めるのであれば、従軍も女性は率先して積極的に志願すべきであった。
今日の女性が不遇という風潮はその昔からデモも何も行ってこなかったツケではあるまいか。
また、現在の実力制が女性の地位向上の足枷になるのであれば、それを撤廃すればいい。
女性専用車両にしても自分で自分の身を守る位の事が出来ないから痴漢されるのだ。
痴漢が嫌なら痴漢を滅多刺しにしてでも身を守れ、自己防衛が過剰防衛にならない程度にだが。
それに痴漢だと叫べばいいじゃないか。
男に守って欲しい女になろうとするな。
何でもかんでも自分の思い通りになるとは思わない事だ。
また、個人観も重視すべきだ。
いや世の中というのは広いもんで、書泉グランデに対する抗議が言論封殺に見えるというバカがいるらしい。
そんなバカにどれだけ言葉を尽くしても無駄ではあろうが、いちおう説明しておいてやる。
書泉グランデの最大の問題は、桜井の新刊を「オススメ」したこと。
したがって、それが非難に値する行為であれば、その責任は自ら引き受けねばならない。
当然のことである。
それでは、桜井の新刊を「オススメ」することは非難に値する行為か。
この点、在特会はその排外的活動が社会的に問題視されている集団であり、同会の活動家らの中には、朝鮮学校に対するデモに関し威力業務妨害などで有罪の確定判決を受けた者もいる。
そして桜井は同会の会長であり、「オススメ」された新刊も、そのタイトルからして同会が犯罪行為等をも用いて広めようとした主張内容と密接な関連を有することは明らかである。
とすれば、桜井の新刊を「オススメ」することは、その排外的活動が社会的に問題視されている在特会が犯罪行為等をも用いて広めようとした主張内容の拡散を手助けすることにほかならず、十分非難に値する行為である、と俺は考える。
また、仮に「オススメ」が非難に値しないと考えたとしても、「抗議(=批判)」と「言論封殺」とは全くの別物である。
公の場でなされた行為はすべて抗議の対象となり得るのであって、こうした抗議が言論封殺として許されないとすれば、およそ自由な言論は成り立たない。
もちろん、抗議に対する更なる抗議も許されている。
はじめに書いておくと、これは全て妄想であって全く根拠が無いし、単なる中二病と思ってもらって構わない。
公安や外務省は当然諜報活動を行っているとして、少なくとももう一つ日本には隠された巨大な諜報機関がある。
それは表面上は国家機関からは独立しているにもかかわらず国家権力と密接に結びついており、独自の財源を有し、日本全国に多くの支部を持っている。
それは排外的組織であるかかわらず問題にならず、国粋主義的であっても容認され、住民情報を有していても誰も問題にしない。
それは目に見えない組織ではなく、むしろ日本人ならば多くの人が当然のように慣れ親しんでいる組織であるが、にもかかわらずその内側について知る人はほとんどいない。
なんというか国を背負って戦に出陣する気負いみたいなのを、全力で表現したんだろうなあという感じ。
そう、コメントにもあるように、物凄くプレッシャーを感じる曲だった。ずっしりしている。
最初テレビで聞いたときはフレーフレーニッポンバレーって、あまりにもベタで、かっこ悪!と思ったのだが、
ちゃんと聴いてみると嫌いではない…むしろ割とかっこいいなあと思った。
しかしこれは…お祭り気分で盛り上がるというよりは、やっぱり戦に行く歌だよなあ。
なんつーか戦いに行かなきゃならない悲哀を感じるよ。自分は。
国を背負って選手が戦いに行く雰囲気が強過ぎて、正直あんまりそういうの好きではない。
先日起こった事件のような排外的な雰囲気にも流れやすいし、テーマ曲としてこれ採用するの結構危ういと思う。
勝ち負けにこだわるのもいいけど、そこに所属や同族意識が重くのしかかるのは、複雑な気分になる。
そこらへん完全に切り離すことはできないだろうけど、多少薄めてくれ、雰囲気だけでも。と思う。
皆で楽しもうぜ!!という雰囲気に持っていった方が安心してテレビ見れるのに。
少なくとも皆で楽しもうって曲ではないな。これは間違いない。
初めて書きます。
今日、GoogleNewsを見ていたら、中央日報(これがどんなニュースサイトかは知らない)の韓国旅客船沈没の記事に行き当たった。
気になったのは「【今日の感想】この記事を読んで…」というアンケートの部分だ。
感想は、面白い・悲しい・すっきり・腹立つ・役に立つ、の5つが選べる。
正直、気持ち悪いと思った。
別に人が死んだことに対して云々ということが理由ではなく、韓国を仮想的として日本が一つにまとまりつつあることに気持ち悪さを感じた。
思えば、私は一斉に行動している様が苦手なんだと思う。
見計らったように一斉に咲いて散る桜も苦手だし、テレビで映される動物や魚の群れも苦手だ。
集団化すると個々の意識が希薄になり、自分がしたいからしているのか、みんなに合わせてしているのか分からなくなってしまう。
もちろん、みんなに合わせることが自分のしたいことだったら別に構わないんだが…
嫌韓の人たちも上記の内容が当てはまると思う。
加えてもう一つ、物凄く排外的なところが特徴としてあげられる。
自分の主張を言うなら良いと思うが、他者を無自覚にレッテル貼りして不要に貶めるのはいかがなものだろうか。
(嫌韓の人たちと言っている時点で私もレッテル貼りしていると言われる覚悟はある)
なんだかここまで書いてめんどくさくなってしまった。
最初に書きたかった結論だけ書いておく。論理の飛躍、上の文章からつながってない部分も多々あるが、許してください。
①あまりに、韓国嫌いという色濃い眼鏡で現実を見ていると、目に入ってこない情報もあるはず。
②色眼鏡で現実を見てしまっているということを自覚した方がいい。
③情報を「比較検討」した上で嫌韓という「自分の結論」に至っているか。
大雑把にまとめると以上です。