はてなキーワード: 尊厳とは
『ハリー・ポッター』J.K.ローリング、「一件のツイート」が大きな非難を浴びた背景
これは、イギリスの研究員マヤ・フォーステーターが、ある裁判で敗訴したことに言及したツイート。マヤは不平等問題に取り組むシンクタンクで働いていたが、「生物学的性別は2つしかない」、「性別は生まれつきでなく性の自認で決まるという考えの“セルフID”を中心に性別変更を可能にすると、女性の権利が守られなくなる」と主張し、解雇された。これを受け、マヤは失職が不当として訴えていたが、18日に敗訴した。
マヤが発言によって職を失うことになったのは、彼女の表現がトランスジェンダー(※)を排除していると判断されたから。マヤは、トランスジェンダーの人々が差別を受けるべきではないという考えを示す一方で、自認による性別変更を可能にすると、これまで女性専用とされてきたホステル、刑務所、病院、更衣室などの場所が危険にさらされるかもしれないと主張。しかし、これがトランスジェンダーの排除を肯定しているとみなされ、判決では他者の尊厳と安全とを侵害する考えと判断され、解雇が決まった。
※心と体の性が一致しておらず、性転換をしたい・した人のこと
そんな「トランスジェンダーに嫌悪感を持っている」とされてきたマヤの立場を擁護したと取れるツイートで、J.K.ローリングがトランスジェンダー嫌悪に賛同していると大炎上。ツイッターでJ.K.ローリングの名前がトレンド入りするなど、大きな騒ぎとなった。
https://note.com/moaikids/n/n8d1d1813ee08
会社への満足感が低かったらブリリアントジャークみたいに振る舞っちゃうよね、ということを書く。
人間は社会でしか生きられないので、他者を攻撃することは通常マイナスにしか働かないんだけど、特定の条件下では「ブリリアントジャーク」のように振る舞ってしまうことがある。その特定の条件っていうことに私は心当たりがあって、自己肯定感などの満足度が不足している、または他人から軽視されていると感じた時だ。例えば、組織が大きくなる時に管理職が増えた時に、新人管理職はメンバーのパーソナリティへの理解が浅いので、古株の尊厳を無視した人事変更が行われることはよくあって、世渡りが下手な人はそのような出来事に対して態度を硬直してしまう。そして、自分の能力を誇示するために攻撃的な発言が増えてしまう。これってブリリアントジャークやん。
まあ、その心当たりは私が最近体験したことです。かなりつらいです。自分の心は能力をわかってもらえていないというフラストレーションで満たされている。自尊心が邪魔をして自己開示できずに、リーダーに対して建前でしかコミュニケーションができない。誰も自分の味方がいないような感覚。管理職との1on1はやっているけど硬直してしまった態度をほぐして欲しいというサインに気が付けない管理職に責任転嫁する自分。私はもっと仲良く楽しく仕事がしたいけど同僚が距離をあけてくるので会社に行きたくない。当然ならがら攻撃的で協調性が低くなってしまった私の評価を下げる管理職。LANケーブルを首に巻いておけって話なのは承知しています。さよなら。
「担当者さん。俺たちは難しいことを何一つ言っていない。機械を、ムカイさんを使い捨てるような真似はやめてくださいっていう、すごくシンプルな話なんです」
「見え透いたこと言わないでください。ムカイさんは他社から借りてきた、派遣のアンドロイドなんでしょう。そのムカイさんにリーダーの役職を与え、その割に権限は譲らない。何かあったときのスケープゴートにする気マンマンじゃないか」
「それは私の決定ではなく、上が……」
「その“ウエ”って奴が言ったら、オマエは何でも従うのか。一体、何を“タントウ”しているんだ」
交渉を俺たちに任せていたムカイさんが、ここにきて饒舌になった。
どうやら担当者の取り繕い方に苛立ち、我慢ができなくなったらしい。
「ワレは……いや“ワレワレ”は貢献してきた。人間たちができない仕事や、やりたくない仕事も区別なくやった。なのに、人間ならば当然ともいえる要求すら受け入れられないのか」
ムカイさんが口元をガクガクと動かす度、担当者の顔が歪んでいく。
「そんな要求、通るわけがないでしょう。機械を人間と同等の待遇になんて……」
「それを決めるのは“ウエ”なんだろう? オマエは言われたことを大人しく実行すればいい。ここにいる、その他の機械と同じようにな」
ムカイさんは新型のAIでも真似できないような、渾身の皮肉を言った。
それが止めとなり、平静を保とうと必死だった担当者の中で“何か”が切れてしまったようだ。
幻聴だとは思うが、嘘じゃない。
本当に、その時「プツリ」という音が聞こえたんだ。
「そんなこと! 私が一番分かってるんですよ!」
担当者の叫びは、それほどまでに俺たちを驚愕させる音圧だった。
担当者は今まで溜め込んでいたのだろうか。
「『ラボハテ』の内定を貰ったのは幸運だと思いました。大企業ですからね」
実際、最初は順調だったらしい。
しかし時が流れるにつれ、彼は自身の成長と、技術開発の進歩がどんどん離れていっていることに気がついた。
無能はもちろん、凡人では追いつけないほどの距離感が生まれていた。
「一人雇うのにだって年間数百万。福利厚生なども加味すれば、もっとかかるでしょう。その費用を開発にあてた方がいい……なんて自分で考え出したら潮時です」
それでも辞めたくない場合、『ラボハテ』は会社員を簡単に切り捨てたりはしない。
「『ラボハテ』は障害者向けに精密な義体を取り扱っていることでも有名ですが、それを推し進められるのは身体障害者を多く雇っているからでしょう」
「言い方悪いぞ、カジマ」
「いいえ、あながち間違ってもいません。私には同僚がいるのですが、彼は1年前に両目を義眼に変えました」
「え、まさか……」
当人いわく「事故で失明したから作ってもらった」らしいが、彼は疑念を振り払うことができなかった。
「本当にただの偶然かもしれません。でも同僚は以前、『ラボハテ』を辞めるかどうかで悩んでいて、そのことについて私とよく話し合っていたんです。そうなってからは、おくびにも出さないのが不気味でたまりませんでした」
『AIムール』の話が持ち上がり、異動の希望者を募っていたのだ。
「二つ返事で受けましたよ。事実上の左遷ですが、あそこでビクビクしているよりはマシだと思いましたから」
けれども、あくまでマシってだけだ。
そこで担当者となった彼は、ますます自分の無力さを思い知らされる。
「もしかしたら、この『AIムール』という会社は、いらない社員を自主的にやめさせるって意図もあるのかもしれません」
その点については俺も何も言えない。
だけど、それはそれとしてムカイさんの現状をどうにかすべきなのは変わらない。
「オマエラ、もういい」
しかし、そう言葉を続ける前に、今度はムカイさんが俺たちを制止した。
「いや、でも……」
「どうせ無意味だ。ならば、さっさと辞めるに限る」
こうしてムカイさんは『AIムール』を去り、俺たちは不本意な学びを得たまま職場体験を終えた。
それから数週間後、『AIムール』は相変わらず俺たちの学校近くに構えている。
タイナイが自分のブログで今回の件を書いてはみたものの、大した話題にはならなかった。
それでも多少の変化はあった。
あの一件後すぐ、あの担当者が俺たちの意見を具申してくれたようだ。
「即却下されたらしいがな」
それどころか、学生に現場をいいようにされた責任を問われて『AIムール』を辞めることになったらしい。
そんな簡単に辞めさせられるなんて、あの担当者もムカイさんと同じ“スペアの頭”だったってことか。
「俺たちのせいだな……」
「思い上がるなマスダ。ヤツはもとから、そのつもりだった。むしろ感謝していたぞ。“自分の尊厳を取り戻した”ってな」
「え、ムカイさん、知ってるの?」
ムカイさんによると、あの担当者は現在『256』で働いているんだとか。
「よく分からないがエージェントだとか何とか言ってたな。少なくとも『AIムール』にいた頃よりは、いい顔をしていた」
まあ、あそこは顧客からの悪評は絶えないが、給与と労働環境はいいから社員にとっては望むところだろう。
「ムカイさんは最近どうなの?」
「ワレは自宅待機だ」
「だったら久々に家に行ってもいいか? 弟のやつが、近頃ムカイさんを見ないってボヤいていたからさ」
「構わん。どうせオマエの弟は、来るなと言っても来るだろうからな」
望むと望まざるに拘わらず、周りは緩やかに変化していく。
それらの変化が良いのか悪いのか。
自分は順応できるのか、許容すべきなのか。
正直なところ良く分からない。
それでも言えることがあるならば、斜向かいには今もムカイさんが住んでいる。
今回の話で断言していいのは、そこくらいだろう。
正直難しいこと分からんよ。
でもこの前家族で旅行いったときに女性専用車両に間違えて乗ったんだよね。
で、母親が気づいて「女性専用車両だった」とすぐ別に移ろうとすんの。
でも妹は「ふーん」みたいな態度で席から動かない。
「いや、女性専用車両だから移ろう…」って俺がいうんだけど「いーから」って。
そしたら俺どうしたらいいのか分からないんだよね。
母親は移動しようっつって、俺も移動したいのに、妹は移動する必要はないって意見別れちゃってるの。
確かに女性専用車両には交通局からのお願いであって強制力はないから、男が乗ってても法的に問題はない。
でもトラブルになるのは目に見えてるから頼むから移ろうってお願いした。
で、結局移動することになったんだけどそこで母親と妹が喧嘩し始めたの。
今思えば俺だけ移ればよかったかもしれないが母親が妹と対決するだけだから意味ないんだけど。
そりゃ俺の家族が変かもしれないけど、やっと座れるってときに男の俺がいただけで彼女らはゆっくりできなかったんだよね。
なんかその時になって初めて「あれ?これってもしかしておかしい事なんじゃないの?」ってそう思った。
俺は一生痴漢にならない自信あるし他の犯罪も犯さない自信があって生きてきてるけど、
どうやら男という性を持ってるだけで家族で好きな車両にいることさえ許されないらしい。
俺は好きで男に産まれてきたわけじゃないけど、別に男であることを恥じたことはない。
しかし無条件で男だから痴漢の可能性あるなと他者から社会から見られていることに結構な不快感をそのときに初めて覚えたんだよ。
今までは女性を守るために仕方ないよな、と思ってたし憤る人たちの理屈が分からなかった。
でも今なら分かるが、要するに「男性」性への尊厳の問題だったことが理解できた。
男性というだけで痴漢の可能性ありという言われなき偏見が存在する、その象徴こそが女性専用車両にあったんだ。
男性だって女性である母親に産んでもらって愛して育ててもらった立派な性なのに、なぜ男性というだけで危険視され隔離されなければならないのか。
痴漢対策をするのであれば、監視カメラの徹底や、150%を越えるような乗車率になる前に駅のホームで入場制限を行えば済む話である。
もし、それで運航ができなくなったのであればそれは鉄道会社が取り組み解決すべき問題と責任ではないのか。
なぜ利用客側がこのような扱いを受けなければならないのか。
渋滞を避けて電車に乗る人間にはもれなく痴漢するかもしれない性障害者としてJRや私鉄から見られているから?
長くなってしまった。
とにかく「俺らはただの家族なのになんでこの車両を追い出されなければならないのか」それは俺が男だから。
男尊女卑の時代では色んな理由をつけて女性はダメだと理屈をこねてきた。
少なくても楽しかった旅行にくだらない思いで1つを提供してくれた今の社会の風潮に少しでも変わってほしくてこの日記を書いてみた。
次に同じことが起きた時、俺がどうするべきかも考えなければならない。
小学生〜高校生の時に、オリジナルの漫画を描いてのだが、そのノートが大量に実家に残っている。
数えたことないけど、本棚を埋め尽くすほどなんで、千冊近くはあるんじゃないだろうか。少なくとも1番長い話で、ノート200冊を超えてた。
本棚に、みっちりはいってるので、背表紙部分しか見えない。一見すると昔使ってた勉強のノートみたいな感じで、特に問題無い。
しかし、ノートの表紙には、きっちり恥ずかしい絵と文字が描かれていて、一たび本棚から流出した瞬間に、甚大な被害が発生する状態だ。
現在、自分は、すでに成人し、結婚し、実家を離れていて、漫画は一切描いていない。
妻には、恥ずかしいんで、漫画を描いていたことは一切言ってない。さらに、おかげさまで、今月子供が生まれる予定だ。
もし万が一、妻とこれから生まれる子供に、あのノートを見られたら、一家の長としての尊厳は、完全に失われる。
実家には、いわゆるエロ本とかも残っている。しかし、量が少ないこと、ノーマルな内容であること、隠した場所を自分でもすでに忘れてしまったことから、エロ本を見られることには、何の心配もしていない。
しかし、漫画ノートについては、量、内容ともにアブノーマルであり、部屋のど真ん中に堂々と鎮座していて、思い出しただけでも吐き気がする状態だ。
妻と一緒に帰省しても、妻がノート群に興味を示したことがないため、問題にはなっていない。
しかし、この先、あらゆるものに好奇心を示すはずである子供が生まれるわけで、これは確実に破綻する。確実に。
実家が遠くて、年に一回程度しか帰れないこと、あまりにノートが大量に存在するため、捨てるにしても大変であること、捨てるといきなり本棚が空になって、妻も実家の両親もびっくりしてしまうこと…以上から、捨てるのも難しい状態だ。
どうしたらいいんだろうか。
漫画を描いていた時は、こんなことになるなんて微塵も思っていなかった。しかも、何年も時間をかけて一心不乱で続けていたことが、今自分を苦しめるという悲しい状況。別に何も悪いことはしてないのに…。
誰か助けてほしい。
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20191201/1575181566
俺はこの件について最近よく考える。
きっかけは増田なんかで「努力すればちょっとこのとならできるんじゃない?」というようなことを言うと、激しい人格攻撃を受けることが数度あったことだ。
それはどう言うことなんだろう、と考えていて、全く別件の個人的かつ趣味的な勉強で、自己効力理論と動機付け研究の本を読んで、ある程度「こうではないだろうか」「こうとらえ直したほうが、自己の人生をやや豊かにできるのではないだろうか」という自分なりの捉え方をできたので言ってみる。
自己効力理論というのは、ある行為に当たる際に、「できるかもしれない」と漠然と思う感覚、「自己効力感」についての理論だ。
まずある行為が失敗におよんだとき、あらかじめ自己効力感が高い人と低い人では、「何に原因があったか」に対する捉え方が違いがちだという。
高い人は概ね「努力が足りなかった」「思慮が足りなかった」「状況が悪かった」など、「その時点の自己の選択」や「自分の外」に結果を求める。
対して、低い人は「自分に能力がなかった」「才能がなかった」と、「自分の本質」や「自己の内側」に結果を求めがちだ。
大きく違うのは、高い人の理解というのは、「自己が違う選択をしたり、違う状況なら結果は変わる」と考えていることで、低い人の理解は「自己が自己である限り簡単に結果は変わらない」と考えているということだ。
思わしくない結果に直面した時、自己の自尊心を守るために状況に働きかけることが「一時コントロール」、自己の捉え方を変えて受け入れるのが「二時コントロール」という。
「自己の内側」に結果を求め、「仕方ない」と自尊心を守るのは「二時コントロール」戦略といえる。
さて、動機付け研究においては、自分が状況に働きかけて、状況を変えうるというのは「有能感」とよばれ、この「有能感」に関連して、有能さがどのようなものかの信念に個人差があるとされている。
知能に関してある信念である「暗黙の知能観」での個人差が「固定理論」と「増大理論」と呼ばれるもので、「固定理論」が「知能や有能さというのは生まれつきのもので、一生を通じて大きく変わらない」という信念で、「増大理論」が「知能や有能さというのは個人の選択で変わりうる」というものだ。
「大人になって人間は大きくは成長しないし性格も変わらない」と何度も何度もいうような人は「固定理論」をかなり強固に信じていると言える。
これらを振り返って「努力すればちょっとこのとならできるんじゃない?」と言ったら激しい攻撃を受けるというのはどういうことなのだろうと考える。
仮説はこうだ。
この言葉にカウンターの一撃を食らわせたい人は、いつかかけられるかもしれない、この言葉を自己への脅威だと感じている。
なぜ自尊心が傷つくのか、かつてうまく状況をコントロールできなかったからだ。
状況をコントロールできなかったのは、自分が努力できなかったという認識と記憶があるからだ。
ではなぜ努力できなかったのか。
この言葉に傷つく人は、「固定理論」を信じ、「自己効力感」も低い状態にあり、失敗した原因を「遥か昔から変わらない、これからも大きく変わらない自分が故に失敗した」と思っているからだ。
そこに「努力すればちょっとこのとならできるんじゃない?」という奴が実際にあらわれる。
その言葉をかけてきた人は、自分の中にある「固定理論」に基づき、「努力がもともとできた人」「努力の才能を与えられた人」だ。
そして、「自分が勝ち取ったわけでもない与えられたギフトの結果で成功しているのに、それを無自覚で、ギフトを与えられてない自分に対して無理を強いてくる、そしていつか平気で自分の尊厳を踏みつけるだろう」「与えられたものであるお前にはその資格がない」「そんな不公平な言説がはびこる世は正義に反する」と考える。
ここで話を変えて、俺が「固定理論」と「増大理論」のどちらを信じているかというのをいうと、IQなんかは遺伝の性質が大きいことは知っている。
性格もある程度遺伝しやすく、性格の一つの「誠実性」というのは、「物事をコツコツやるのを好む性質」をさしていて、となると、ある程度「固定理論」も信じていると言える。
でも、行動を積み上げることで自己の知能や誠実性はもっと引き出せる、まだ自分の知らない自分はたくさんあると考えており、「増大理論」も信じていると言える。
でさあ、「努力」に対してどういう態度でのほうがいい気分でいられるかなんだけどさあ、「努力の才能」ってことをあんまり「間違いない世界観」として捉えるってさあ、まああると思うよ、そういうやついるもん。
でもね、それってもし状況が整わずに自分が努力できずに失敗した時に、「遥か昔から変わらない、これからも大きく変わらない努力できない自分が故に失敗した」「そんな自分だからこれから先も努力不足故に失敗する」ってことになるじゃん。
あんま気分よくなくない?それ?
それに「努力の才能」っていう「固定理論」をあまりに強固に信じてると、失敗も怖くなんのよ。
なんでかっていうとさ、失敗しちゃった時その失敗をどう捉えるかでさ、「自分の能力も性質も大きく変わらない」って思うと、「失敗は自分が失敗してしまうことを知った」「自分の無能が証明された」ってことになんのね。
そうすると、誰でも自尊心は守りたいからさ、やんなくなんのね、いろんなこと。
そうすると、自分の生活ってあんまり変わらない、外の状況が変わる以外で自分の人生変わんないってなるじゃん。
状況の力は強いけど、自分が動くことどんどん少なくなっていったら、変わる可能性減るじゃん。
そこは「増大理論」だと失敗しても「今日は失敗したな、失敗するやり方がわかったから成功にちょっと近づいたかもな」ってなるのよ。
別に「努力の才能」が実際あっても構わないけどさ、それはそれとして、「今日は結果が出なかったけど、まあ別の方法ならいけるかもな」って思ってさ、ちょっとの1日5分とかの努力ならしてみようぜ、ちょっとだけ明日の自分の生活がよくなるかもしれないじゃん。
失敗しても、そういう時もあるしさ、だいたい、隣の奴が努力の才能に恵まれてて、自分がそうじゃなかったとして、他人が努力で成功してもお前の人生が下がるわけじゃないじゃん、他人の成功なんかどうでもいいよ、お前はお前の人生だけちょっとよくすること考えればいいじゃん。
ってね、そう思うの。
だから、「努力の才能」って言葉、あんま使いすぎるの自分を追い詰めるんじゃないの?
って、思うよ、俺。
生理的嫌悪感をかなり的確に表現したものでネーミングセンスいいと思うんだけど
一気に広まりすぎて各人が別々のものを思い描いているような気がするので
きちんと分類して、それぞれどう向き合っていったらいいか考えてみる
他人の性欲に対して嫌悪感を抱くことのうち、女性から男性に対して偏って発現するものと
これらは発現する対象も違えば対処方法も違う。更にいうと他の欲望に理論を応用できるかどうかにも違いがある
例を見てみよう
性欲とならんで三大欲求に例えられる食欲はほぼ性欲と似たような性質を示す。
身体的な負の食欲は「それを摂取すると身体に不利になるという嫌悪感」だ。まずいものを見た時なんかよく引き起こされるだろう
社会的な負の食欲は「それを発揮する人がいると秩序に危機が生じるという嫌悪感」だ。食べ物が少ない時に食べたい、食べたいと駄々をこねる人に対して起こる
ここまではよいが、三大欲求のもう一つ、睡眠欲は身体的な負の欲求は見当たらない。
「その種類の睡眠は身体に不利だ」なんてものはなく、睡眠は睡眠だ。我慢したら勝手に寝てしまう
ところが社会的な側面は必ず存在し、他人が居眠りしたらイラッとする場面など容易に想像がつくだろう。
欲望は三大欲求だけではない。マズローで有名な承認欲求や自己実現欲求なんかも存在する
これらの要求は高度な精神活動なんで「満たすと身体に不利だ」なんてものは存在しないが
社会的な負の欲望は相変わらず存在する。承認欲求ダダもれなネットの書き込みや、意識高い系の人間の言動に
身体的な負の性欲は本能として起こるものであり、それは正の性欲と同様抱くのをやめるなんて無理だ。尊厳に反する
それはそれとして、すべての欲望を叶えるなんてリソース的に無理なので、欲望をうまく解消できる社会を作ったほうがいいだろう
正の性欲ならポルノを上手に使うべきだし、負の性欲を満たすポルノ(無謀な性アプローチをする男を袖にして楽しむフィクションなど)だってあってもいい
例えば承認欲求・自己実現欲求から真に解脱した人間は、それが周囲に及ぼす影響を冷静に判断するのみで、心を乱すことはないだろう
何より承認欲求も自己実現欲求も、適切に扱えば社会を正しく回す原動力になるので
まず感情ベースで負の欲望をダダもれさせることはせず、いい影響と悪い影響のバランスを考えながら適切な処置を出すべきなのだ
性欲にももちろんいい影響はあり、例えば長年連れ添った夫婦なんかは一定の性交渉があったほうが関係を長く続けられるだろう
ヨーロッパあたりでは夫婦間の性交渉の不足が離婚の事由になったりするらしいし
自分が社会的な負の性欲を抱いた時、「これは表現するほうが適切なんだろうか」などと一度胸に手を当てて考えた方がいいだろう
それはちょうど、負の自己実現欲求を抱いた時、「意識の高い人、肯定してもいいじゃないか」と立ち止まって考えるのと同じようなものだ
https://bunshun.jp/articles/-/15590
こういうニュースを見て思うのは、規制を求める側がそれを必要としてる人間に対してどういう「解決」を想像してるかっていうことなんだよね。
おそらくは、「適切な社会活動によって他者と適切な信頼関係を築き、同意の上で性行為を行う」というのが正当な理想的ケースであると考えているのでは、と想像するんだけど(あくまで想像なので、「違うよ!」って思う人は「違うよ!」って言ってほしい)、世の中にはルックスだったりコミュニケーションだったりあるいは身体的・精神的障害及び疾患などの問題で、どうしても他者とその理想的な関係を結ぶことが難しい人というのもいるわけじゃない?
そういう人に対してどういう「解決」というのを想像してるのかなっていうのが、いつも気になるんだよね。
もちろん他人と良好な性的関係を結べるなら、それはいいことだとは思うけど、「そうではない」「そこから漏れてしまう」人間について、その性欲や人恋しさをどうした方法で解決することを望んでるんだろう?
もしそれを、「普通の人間」のラインに達するまで努力しろとか、それができないなら我慢しろ、っていうふうに思っているなら、それはなんていうかものすごくむごい発想なんじゃないかって思ってる。
それっていうのも、10代のときの自分がわりとそういう考え方だった。「他人と良好な性的関係を結べる」状態にない人間が、性的なことに興味持ったり、エロ漫画やエロメディアで、「自分勝手な欲望」を満たすことが気持ち悪い、そういうふうに思ってたのよ。
自分は女性なんだけど、10代の頃はセックスがあまり好きではなかったし、「求められる」からやる、「求められる」ことは嬉しい、みたいな感じで、セックスというのが「他人から求められるだけの価値がある人間の特権」みたいに思ってた節があった。だから、オタクの人とかがエロ漫画とかエロゲーとかに興奮してるのを、「他人から求められてもいないくせに、物言わぬ相手に性欲求めて気持ち悪い」そういうふうに軽蔑してたんだと思う。
年齢や経験を重ねて、自分の中で「性欲の自我」みたいなものが芽生えてきて、それはかなりガラッと変わった。今では当時の幼稚な…というより他者に対する排他的かつ支配的な考え方をとても恥じてるよ。
男性だろうが女性だろうが、性欲のある人間にとっては、自分が性的対象としてるものへの客体的魅力というのはあって当然だし、それを何らかの媒体によって消費することは、たぶん無意識のうちにみんなやってると思うんだよね。その表現が「性」や「セックス」に結びつきやすいかどうかでわかりにくかったりするだけで。
あとやっぱ女性も男性も、セックスする気になれる・なれないラインって個人の中でどうしてもあるだろうな…って思う。もっと言えば、セックスしたい・別にしなくていいラインも。それが、それぞれの人ごとにバラバラなら平和だけど、やっぱり偏りがある。「セックスしたい」は結構割れるところあるけど、「セックスする気になれない」は、わりと似たようなところに固まる印象がある。
「理想的な性的関係の結び方」というのが、双方の同意と感情によるものな以上、どうしたって他人と性的関係に至ることが難しい人というのがいて、そういう人がお金という方法でラブドールなどの平和的な解決が図れるなら、それはそれでいいことだし、他人から批判されるようなものではないと今は思うんだよね。
他人の性生活や性のあり方に口を出すことは、非倫理的で不躾なことだと認識している人の中にでさえ、エロ娯楽に厳しい人もいるので、なぜなのだ…という感じはするけど。
自分は料理があんまり得意じゃなくて、美味しいものを食べたいときは奮発して外食するんだけど、もしそれを「料理のできない人間には美味い食事を食べる資格はない!自分で作れるだけの身の丈にあった飯だけ食ってろ!」って言われたら、そんなの味気なくて死んじゃいそう。お金を出して合法的に美味しいご飯を食べられる、そういう市場が社会に育ってることをとてもありがたいと思うよ。
まぁ、もちろん「女のくせに」「社会人にもなって」料理ができないとか、怠けているんじゃないか?何か問題があるんじゃないか?人として欠陥品では?みたいなことを言ってくる人は、まあまあそこそこいて、「ハイハイさよですね〜うるせー死ね」って思ってる。
>「リアルドールは女性の身体を男性の性欲・支配欲解消の手段として消費する性搾取文化」と批判。
ってあるけど、性欲だの支配欲だのの「人の業としてどうしても持ってしまうが、無差別に行使すると大変なもの」を、シリコンの塊で解消できるなら、よっぽど平和じゃない? 性欲も支配欲も持ってて自然な情動だし、それを「道徳的でない」として持たないことを強制するよりも、どう平和的に処理・解決するかのほうが現実的だし抑圧を生まないと思う。
女性の立場からすると、ラブドールという「女性の形をした人形」が性のために製造され、意志もなく性的な玩具にされている、というのが、「女性を性的客体として貶めてる」と嫌悪感を持っても仕方がないだろうな…とはなんとなく想像する。ただ、女性の性が人形や漫画などアンリアルな形態で客体的に消費されることと、現実の女性が貶められるような価値観が社会で醸成されることに、本当に相関があるのか?というのは個人的にとても疑問に感じている。
住宅や経済的な事情、あるいはアレルギーなどで猫を飼えない人間が、だけど猫が好きだからと本物そっくりの猫のぬいぐるみを買って家で撫でていたところで、おそらく批判はされない。ペットという生育に責任もお金も必要な存在を、ぬいぐるみという安価な手段によって「かわいい」だけを抽出して一方的に楽しんでいても、たぶん誰からも怒られない。猫にもそれぞれ思考と感情があり、生命を持った生き物なのになあ。
別に猫の尊厳を問いたいわけではないが、猫のぬいぐるみによって生きている猫の尊厳は毀損されるのか、ということを考えるとラブドールについても、もっと考える余地があるのではないかと思う。
もし、現実で「女である」ということを理由に誰かが傷つけられるようなことがあれば、それは許されるものではないし声を上げるべきだと思うよ。
その上で本当に健全な、近代的な社会というのは、女性あるいは男性の客体としての性的魅力が肯定され、「他人と良好な性的関係を結べない」人間にもその性欲を慰め満たす媒体を持ちつつも、現実の女性あるいは男性が性による差別や被害を受けない社会、他者に対する人権意識が娯楽メディア程度では曲がらない強靭な精神を育てる社会なのではないかな、と思う。もちろん、その理想が遠いというのはわかるんだけど、「究極的な理想」はそこなんじゃないかと思うんだよね。
とりあえずまずフェミニズムが学問としての名称として適切ではない。
例えば上野千鶴子は家族社会学、ジェンダー論、女性学を専攻とする社会学者、フェミニストであって。社会学者までは学問、フェミニストは運動ないしイデオロギーである。
古い例えになるかも知れないがミクロ経済学を専攻とする経済学者、リバタリアンという人や、宇宙物理学を専攻とする物理学者、ビッグバン論者、あるいは地球環境シミュレーションを専攻とする計算科学者、環境保護主義者というのを思い浮かべればいいと思う。
で、前者について議論するのが学会であり、科学である。そしてその知見を元に後者について語るのは本人の自由であるが、特段科学的であるわけではない。あとこれが誤解を生みやすい所であるが専攻以外の分野について雑談をするのも個人の自由であるが、特段最新の科学の知見に基づいているわけではない。
そして科学というのは一般論について語ったり、何かおかしなオカルトを否定するのは大変便利なのであるが、具体的な身近な問題にはろくに答えを出せない場合がほとんどなのだ。
例えば、今日では「地球が人間の出す二酸化炭素によって地球が温暖化している」というのはほとんど科学的結論といってよいが、その具体的な被害はそこまで明らかではなく、ましてや世界各国が何よりもまず優先して地球温暖化対策に取り組むべきなどというのは自明でもなんでもない。グレタ・トゥーンベリ氏の主張は前半は科学であるが、後半は科学ではないことを支持者も批判者もよく理解してほしい。
話を元に戻せば、「女性に特定の服装を明示的あるいは社会的規範として強制することは、女性に対する抑圧的構造たりうる」「女性の性的な特徴を過度に強調したポスターが町に溢れることは女性の尊厳を傷つけうる」というのは科学的結論としてあり得る話ではあるが、「ハイヒールを問題とすることが女性の解放につながる」「宇崎ちゃんのポスターを赤十字が掲示するのは問題だ」は学問を学んだ人が思いついた個人の自由な意見であってそれ自体は科学ではない。
だから今回話題に登っている討論会などというものは学問の場でもなんでもなく、ただただ立場の違う個人と個人が意見をぶつけ合う場に過ぎない。
そして学問としての女性学は今後100年たっても「漫画の女性描写規制は正しい」などという極端な結論を導き出すことはできないから安心してほしい。経済学者が「好景気を維持する方法」を開発できないのと同じである。
なお「ハイヒールを常用することで足の健康を損ないうる」というのは医学の領域であり、社会学の話とはまた別の話である。
それから専門外ということで言えば宇崎ちゃんポスターに噛み付いていたフェミニストの中に「漫画」の専門家がいるのかはよくわからないし、実際(女性学の対象であろう少女漫画についてすらも)漫画に対して無知な人が目立ったと思う。であるとすれば在野の「漫画」専門家が彼らと同レベルの知識人として堂々と漫画表現について議論するのはあるべきことだし、大学の教員たちも肩書に驕って漫画を軽蔑するなどという態度は(彼らの専門外なので学問者としてはどうでもいいが運動家個人の資質や印象の問題として)やめるべきである。
遠い昔、あなたは、「×××」であることを望まれていて、それに足るだけの能力もあった。
だからあなたは、近い将来 「×××」になることを確信していた。
しかし、運だろうか縁だろうか 実力だろうか あなたは「×××」にならなかった。
おおよそ「×××」らしくない私。
それに足るだけの実力があるようにも見えない。
【おまえを「×××」だと思ったことはない】と、嘲るようにあなたは言う。
賢いあなたなら分かっていただろう。
いくらあなたが、昔に「×××」に近い人間であろうとも、世間は決してあなたを「×××」とは見ないことを。
それでもあなたは私に言った。嘲るように、馬鹿にするように言った。
あなたは知っているだろうか。
未だ過去にとらわれた あなたの心が痛ましく 耐え難かったがために、生まれていることを
あなたは知っているだろうか。
囚われたあなたの心を未だ締め付ける 錆びた刃物であったことを
痛ましさは怒りの情感に似ていた。怒りは発火し、みなのこころを燃やしていた。
「×××」とは、あなたが考えるよりも価値がないことを 「×××」でない人生を望まないあなたは気付かない
その知性でもっても届かない
穏やかな笑みに覆われたコンプレックスは、見下せる機会を見つければ吹き上がる
私に言えることは何もない あなたがその事に気付くまで
祈ることだけが 私にできる全てだと 認めることも痛ましい
私にできることは何もない それに価値があると
囚われたあなたを見ることが
ただ悲しい
今後、父親の気持ちが変わるタイミングが少なくとも三回は来る。
一回目は双子の赤ん坊の顔を見て抱いた時。この時に感じる感覚はもはや理屈ではない。
二回目は子供が話しだし、歩きだし、父親がどれだけ好きかを伝えだす時。孤独からの開放。
三回目は自分の寿命を意識して、自分が消えてもこの子が残ると心で分かった時。子孫の中で生き続ける自分がいる。
結婚相手を誰もが尊厳ある人ではなく若さや見た目や収入で判断し商品化する社会。子供が宝ではなくコストと化した時代。
このような中で人は結局、どれだけの地位や学歴を手に入れても、いずれ老いて捨てられ踏みつけられる。
その時、傍らにいるのは伴侶であり、子供たちだけだ。
今自分を優先すればやがて自らを優先する人々に切り捨てられる。今その人々を優先して殺さなければ、その人々もあなたを生かしてくれる。