はてなキーワード: 情報強者とは
http://anond.hatelabo.jp/20140406172155
俺の使っているタームの一部を紹介すると、
電車から降りてくる人の流れに逆らって、人混みを斜めに横断すること。
なるべくならこのような状況に陥りたくないが、タイミングによっては仕方なくこうなる。
■トレイル
上記のような状況で、自分と同じ進行方向の人が先に人をかき分けて進んでいるときがある。
その後ろにできた「トレイル」を素早くたどれば、誰にもぶつからずに通り抜けることができる。
■ザ・ワン
電車内で立っているとき、目の前の席が空けば、そこに座ることができる。
そこに座っていた人は、あとからそこに座る人の「ザ・ワン」である。
つまり、「自分のザ・ワン」を探しだして、その前に立つことにより、時が来たときには座ることができるのだ。
ドア脇に立ち続ける、悪名高いアレ。
二郎用語ですけど。
乗車の列の先頭ということです、もちろん。
■ピーピング・トム
LINE、Facebook、2chまとめなどを見ている人が多数。
はてブをチェックしてる俺ってなんて情報強者なんだろう、と優越感にひたれる。
■大いなる眠り
座っている俺の前に立ったのが、杖をついた老人だろうと、マタニティマークをつけた女性だろうと関係ない。
なぜなら俺は深い眠りの中にいるから。この席は誰にも譲らない!(←ダメじゃん)
■スライディング・トゥ・サイド
すでに座っているときでも、席の端があいたらすかさずケツをスライドして楽な位置をゲット。
列車の一番端だったら「スライディング・トゥ・サイド・オブ・サイド」。
戦いは続く……
1日に数回更新をチェックしてしまうほど、楽しみにしているネット上のある種の「コンテンツ」がある。
それは現在のところは、限られた人々によってのみ消費されていて、衆目に晒されていない。
(他のネットコミュニティに比べれば)情報強者の多いはてな民ですら、『ソレ』について言及したりブクマしたりしているのをほとんど見たことがないから、マイナーと言っても差支えないだろう。
だが、それは確実に、数万・数十万単位の人々に消費されても不思議ではない『面白み』を持っている。ポテンシャルと言い換えてもいい。適切なメディアによって適切な紹介がされれば、たくさんの人々が『ソコ』に集まって、『ソレ』について多くのことを語り合い、TwitterやFacebookでそのニュースが拡散されるだろう。ニコニコ動画には『ソレ』についての動画が大量にアップされ、ゲーム実況や歌ってみたレベルの一大コンテンツとしての地位を築くに違いない。これは俺の思い込みでは断じてない。今の状況は、本当に先述した予想を裏付けるのに十分なのだ。
そんなに面白いなら何で瞬時に広まらないのか、おかしいじゃないか、という意見はもっともなのだが、実は一般的な人々が『ソレ』にアクセスするには、飛び越さねばならない、ある『壁』がある。
俺はその『壁』を飛び越える方法をたまたま所持していたため、そのコンテンツを100%とは言わないまでも享受することができている。しかしその壁は、一般的な人々もその気になれば飛び越せる程度の高さである。一端大々的にその存在が知られてしまえば、その壁は悠々と壊されて、玉石混交の『消費者』たちがそのコミュニティに土足で上がり込むことになるだろう。
だから、俺は『ソレ』が衆目に晒されることを望まない。
ソレについて、まとめブログが話題にし、優に2,300を越えるはてブがつき、ネットに触れていれば一度は名前を聞くようになる、そういう状況を望まない。
そうなれば、『彼ら』には少数ながらも心ない言葉が投げつけられ、素直な『彼ら』はその一つ一つに丁寧に反応してしまうだろう。
そしてやがて、彼らはそんな不毛なコミュニケーションに疲れてしまい、そもそもの活動自体をやめてしまう可能性だってある。
俺は本当に『ソレ』を見たり聴いたり読んだりすることを大切に思っていて、そのコンテンツに関わる人々の人格や、彼ら同士のインタラクションを愛している。
だからこそ、多くの人にそれについて知られたくない。
好きなマイナーロックバンドがMステに出るようになったら嫌だ、という心理にも似ているかもしれない。
有吉の有名な言葉に『有名になるということはバカに見つかること』というものがあるが、俺はこの愛すべきコンテンツが『バカに見つかって』欲しくないのだ。それは考えただけで寒気のする、すごくいやなことなのだ。
だが、そのコミュニティもしくはコンテンツはココ数年で、一度火が付けば大々的に爆発してしまうほどに成熟している。
いつかは見つかって、心ない人々が彼らの心を傷つけるのは避けられないことなのかもしれない。
その日が今からできるだけ遠くなることを祈るばかりだ。
追記:
絶対来ると思ってた反応に返答。
だったら、ひたすら何も言わない方がいいのでは?
全く正論なんだけど、実際知られたら楽しいことになるのかなという期待もなきにしもあらずだから、ジレンマなんだよね。(もちろんバカに見つかる恐怖の方が何倍も大きい)
おれは虚構新聞なんて間違ってクリックしたことなんてないんだけど、いったいどういったわけで情報強者のはてなーさまたちが虚構新聞を見たくないにもかかわらず見てしまうわけ?
たとえばはてブの人気エントリからだったらすぐ虚構だってわかるからクリックしないで済むし、Twitterで流れてきていやなら虚構の記事にリンク張ったやつをフォロー外せばいいだけ。
なにがそんなに迷惑なのかよくわからない。迷惑だ迷惑だって、そういってるお前らの存在だってほかの誰かからすくなからず迷惑だと思われてるわけだけど。
おれにとって迷惑だからやめろってのは傲慢すぎやしないか。まあでもそれは素直だからまだいい。それがさ、最初は「おれにとって」だったはずなのに、どこかで「おれらにとって」にかわり、さらにすすんで「かれらにとって」になってしまう。冗談じゃない。卑怯なのはどっちだよ。
でもそんなのほかの人たちがおもしろいと思ってブクマしてるんだからしょうがないじゃん。世間がどうしておまえの都合のいいように動いていかなきゃいけないんだよ。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/yamamotoichiro/20131117-00029863/
別に人としてといっているわけじゃない。
「怒っても、怒鳴っても、懲りずにやるのは何故なのか分かりませんが」
ってそりゃそうでしょ。
怒る、怒鳴るというのは手がセットになって初めて効果を持つもの。
最近のゆとりは怒っても効果なしっていうのは、小さい頃から手をあげられてないから。
で、手をあげないでいうことを聞かせるにはどうしたらいいか。
答えは簡単。
情強になること。
それだけ。
では何の情強か?
どうも子供になめられている。
なぜかというと、子供がハマっているプリキュアの話題についていけないからだ。
その子供の中ではプリキュアのことをどれだけ深くわかるかどうか。
それで格上か格下か判断している。
ちょっとハマった。
その結果、格上とはいかないまでも、認めてもらえるくらいになった。
このように今そこにいる子供の「業界」で如何に上に行けるかどうかで
子供を動かせるようになる。
つまりは、情報強者かどうかはiPad>>>>>超えられない壁>>>>>山本さん だということ。
もうゴミですね。
これは相当口が上手くないといけない。
口が上手い友人がいるが、ある日遊園地に何人かの子持ちと行ったんだが、
友人はアトラクションに乗れないので5、6人ほどの子守を任された。
皆山本家並のワンパクばかり。
言わずもがなだと思ってたんだけど、ブコメで疑問や批判として書かれてたので、いくつか追記しとく。
まず、アグネスはなんで黒柳徹子の口座番号を書かないのかという話なんだが。「日本ユニセフ協会の大使であるアグネスも、グローバル組織の親善大使である黒柳徹子への個人口座へ入金をすすめるのが当然」という理屈…これ、自分の会社に置き換えてみたらどう考えても筋がおかしいことだってわかるでしょ。
アグネスの主たる職務は、自分が所属する日本ユニセフ協会のプロモーションと寄付金集めなのであって、その活動の成果を、任命組織じゃなくて親組織の側のエージェントである黒柳徹子に直接フィードバックせよ、っていうのは、あるグローバル企業の日本支社の営業マンが、自分の足を使った営業活動の末に取ってきた発注案件を「値段少し安くなるんで、本社直轄でやってるグローバルECサイトで飛び込みの新規客として注文しといてくださいね〜」って言うのと同じだ。
当然、そのぶんの営業成績は自分にも日本支社にもつかない。自分の部署のPR・営業・啓発活動のコストを持ち出しにして成果だけは別セクションにつけちゃうわけだから、控え目に言ってただのバカ、悪い言い方をすれば職務倫理違反。本社側にとっても、支部とWebで実際に投入された活動と得た成果の数字が対応していない=投下費用とリターンについて誤った指標を得ることになるわけで、長期的には全くよいことではない。
おわかりだろうか。ようするにひろゆきは、ルート営業さんが得意先に出入りして営業活動してるところにやってきて「お客さんのためを思うなら、グローバルのWebでモノ買ってもらうよう勧めるのが正しいのでは? なぜそうしないのか答えてくれませんか?」って公開質問状送ってるようなもんなのである。それをお客さんに伝えるならまだしも(それも相当ひどいが)、日本ユニセフ協会の営業マンであるアグネスに言うのはどう考えても筋違いだ。
前のエントリでは黒柳徹子氏の個人口座(トットチャンネルのお願いチャンネル)への年間寄付を1億以下ぐらいじゃないかと書いたが、これは少なすぎるかもしれない。めいっぱい多めのセンで見積もって、記述からするとこれまでのピークだったと思しき2700万円/月を12倍し、年間3億円前後が彼女の個人口座への寄付のポテンシャルの上限だとしよう。一方、日本ユニセフは去年に161億円を集めている。50倍強だ。この50倍の差が、そのまま黒柳徹子氏と日本ユニセフという組織の力の差なのである。
パンフ、ポスター、イベント、プレスリリース、TVCM、メディア露出、ネットバナー、街頭活動など、定番のマーケティングチャネルや営業ツールを駆使してAIDMAを廻し続け、顧客ベースを維持・拡大することが、B2Cの事業活動全般においていかに大切かは言うまでもない。そして日本においては、まさに日本ユニセフ協会がユニセフの協力組織として、20%のマージンを使って畑を耕し、種を蒔き、水を与え続けているのだ。この作業が途絶えれば、いずれ畑は衰え、収穫は途絶える。これを100%使い切ろうというのは、種籾食べて次世代の食い扶持をなくすのと同じ話である。
黒柳徹子氏はユニセフ親善大使として多大な貢献をしているが、そこはやはり個人ベースの活動だから限界がある。日本のオプラ・ウィンフリーとでも言うべき認知と影響力を誇る彼女でさえ、自前のWebに自分で人を集めるだけでは、多く見積もっても3億円/年、実績ベースで過去の総計50億円弱(と本人が書いてる)の集金力がやっとなのだ。「徹子がいるんだから日本ユニセフはイラネ」という奴はそこをよく考えていただきたい。
これは上の話とかぶるけれども。仮にユニセフ本部自体が日本にもリーチするためのPR活動を自分自身でやってて、日本ユニセフ協会はただの送金システムなのであれば、そりゃ19%は高いわ。しかし、実際はそうではない。日本でユニセフという組織がこれだけ認知されているのは、日本ユニセフ協会が推進しているさまざまなマーケティングミックスによって、我々が日常的にユニセフという組織について知り、理解して、共感して、実際に寄付に至るまでのさまざまなパスが提供されているからだ。
こうした活動の大半は、当然、固定費ではなく変動費である。一定のコストをかけて、何らかの施策を何らかの規模で投下して、一定のリターンを得るのだ。企業活動と同じである。「組織や拠出の規模が大きいから19%より下げられるはずだ」などというのは無茶もいいとこだ。あんたがたの会社は、売上規模が大きくなっても間接部門のコストはずっと一定でいいのか。暴動起きるぞ。規模のメリットによる生産性向上はありえるし当然あるべきだけど、その観点で評価しても、今の日本ユニセフ協会のパフォーマンスがことさら低いということはないだろう。それを「中抜き」とか「ピンハネ」と表現するに至ってはもう何をかいわんやである。
なお、自分はこうした団体に「利益率」という観点が必要なのかどうかは考えが定まっていない。たとえば日本ユニセフ協会が1000億円を集めて400億円をユニセフ本部に拠出できるとしたら(実際には協定の取り決めによりこれは無理なのだが)、それは現状より良いのか、悪いのか。限界効用ぎりぎりまでコスト投入して拠出の絶対額を限りなく増やすべきか、もっとレバレッジが効く他分野にその寄付を廻して社会全体のコスト効率を高めるべきなのか。これは読んでる人の意見を聞いてみたい。
http://www.unicef.or.jp/partner/partner_amb.html
ユニセフでは、世界的に著名な歌手や俳優、スポーツ選手などをユニセフの親善大使に任命しています。また、世界8ヶ所にあるユニセフ地域事務所の一部や、36ヵ国にある各国内委員会も ユニセフ本部の承認のもと、親善大使(地域大使・国内委員会大使など)を任命しています。こうして任命された大使の方々は、お忙しい時間の合間を縫って、全くの無償のボランティアで、ユニセフの活動に協力してくださっています。
ぐぐれば1発で出てくる情報について、わざわざブコメする時間使ってないない書いてるのは、情報強者たるネット民の沽券に関わらないだろうのか。ν速や保守速報あたりで「【悲報】日本ユニセフの会計が丸裸にwwww」とかってまとめられてないと読めないのか。なこたあないだろう。
2ちゃんねる的にいうとひろゆきと切込隊長が険悪になりはじめた頃から一貫してひろゆき派だし、いまでもその2人のどっちが好きかって言われたら前者を取るね。他のテーマでは面白いこと言うなと思うこともあるしテキストを興味深く読むこともある。けど、あーたは少なくとも経済倫理的な話をできる立場じゃないでしょ、という見方だし、この問題については、あのロジックは他への影響がでかすぎるからもう糞味噌書かせていただいた。後悔はしていない。
日本の税制では、認定公益団体への寄付金は課税控除される。しかも2011年からは従前の所得控除に加えて税額控除という仕組みも選べるようになり、たいていの場合、従来より大幅に控除額が上がった。「寄付が税金から控除される」というのは、どういうことなのか? 国民は、基本的には国家というシステムに公共サービスと再分配のためということで税金を納めるわけだが、このうち再分配のパートについては「再分配的な性格を持つ公益団体に直接寄付するというかたちで、自分が考える好ましい再分配のありかたに沿って、ある程度は自分の裁量で決めてもよいよ」ということだ。われわれは税金の細かい使途については全く関与できないけれども、「寄付して控除を受ける」ときには、かなり積極的に選択権を発揮できるのだ!
これは地味ながら大変うれしい権利だし、積極的に行使してゆくに越したことはないだろう。ブコメで「偉そうに言う増田は幾らしてるのか」「そういえばひろゆきは自分が寄付した話はしないよね」などという話題が出てたが、小金を貯めて寄付先を選んでエイヤと寄付するのは、自分にとっては汗水垂らして稼いだ金を「ただ税金として納めるのではなく、自由に用途を指定できる」という一種の娯楽であり、例年ある程度の枠を決めて、それなりに楽しませてもらっている。
まだ日本ユニセフ協会には寄付したことはない(資金力豊富だし、例の児ポがらみのアドボカシー活動の内容にはアグネス叩きのネット民と同じく共感しにくい点があるからだ)が、ユニセフが深く関わる「母子保健」というトピック自体には多大な関心があるので、ジョイセフという地味〜な団体に時々寄付している。あと災害に伴う緊急医療援助のときは赤十字と国境なき医師団(資金力豊富という点で同じだが、特に後者はマジで命を賭けてるし動きが速い)、移民支援ならAPFS(注:これは認定公益団体ではない)など。東日本大震災のときには初動が速かったCIVIC FORCEというところに寄付させてもらった。
一度やってみればわかるが、寄付行為というのは「人におしつけられてやるのは非常に嫌だが、主体的にやれば、得られる精神的満足感が思いのほか高い、コスパのいいエンターテインメント」なのである。家飲みでご機嫌になってるときにあれこれ考えて1000円を寄付するのは、もう2本ロング缶を飲むとかPPVでB級映画を見るよりもはるかに自分自身への効用が大きい。思わぬ収入があったときには思い切って20万円を3団体に分配して、もうドーパミンが出まくった。セブンで募金箱にジャラジャラ小銭を流し込む快感もお手軽だし悪くない。
だから「気持ちはあるけど日本ユニセフ&アグネスは嫌だから、いい寄付先教えろよ」という人には「いやいや、それは寄付するときの一番の楽しみをスポイルしてるよ、自分で探して選ばないと超もったいないよ」と言いたい。ただ、いまの時分はてっとりばやくフィリピンに寄付して1000円を3000円にするのもいいだろう(自分はあの記事を読んで日本赤十字経由で1万円を3万円にしたのでほくほく顔である)。
なんで「自分がいくら寄付した」という自慢話にもとられかねない話をわざわざ書くかというと、自分はかつて、ある偉大なはてな民(自らの行為に震えながら、100万円単位の寄付領収書を何度も(!!!)うpした(1・2)、あの方である)の寄付スタンスに多大な感化を受けたからだ。それまでは自分も「寄付したことは隠すのが美徳」などと考えちゃったりしていたが、今はそんな発想はさらさらない。我々のような凡夫が、思いつきで気軽に寄付して、それを気軽に公言することで、廻りの人間の10人に1人でも共感させればいいのである。
「懐具合に余裕のある志の高い人間だけがチャリティに関われる。自分などはとてもとても…」などという、意味不明なうえに誰も得しない謙遜はやめよう。たとえば風俗通いを武勇伝として同僚に話せる奴が、なぜ寄付のことを武勇伝とか「やっちゃった話」として職場で話せないのか。パチンコや競馬で毎週のように1万円を溶かしてる奴が、なぜ寄付で3000円スって「まあ楽しませてもらったけどな!」と強がって吐き捨てないのか。なぜ艦これのDMMマネー大人買いが「米帝」とおののかれるように、ネットで無名NPOへの高額寄付がおののかれるようにならないのか。そうなればいい。そうしよう。まずはあんたからだ。
ぐるなびのポイント「ぐポイント」というものがある。ちょっと前からこのポイントの大盤振る舞いっぷりがすごいことになっているが、意識の高いはてなー()の間では認知されていないようだ。なので書く。
ぐポイントとは、基本的にぐるなびと契約してる店に行ったり、メルマガに登録したりするとつくポイントで、1ポイント=1円で使えるものだ。
どうせ使った分の5%還元なんだろ、ポイントをためる労力に見合わんとか思うだろ。俺の話を聞け。これがどう大変なのか箇条書きで書く。
5%とかそんなレベルじゃないことが分かっただろうか。650円の定食を食って来店ポイント+メルマガ登録で1000ポイントつくことが普通にある。明らかに経済の原則からしておかしい、異次元といってもいいかもしれない。
さて、これは個人の感想であってぐるなびのステマではないので、よろしくない点も書いておく。
まず、ぐるなびのポイントが使える店が少ない。サイトで使える店を検索できるが、一人の行動範囲の中にせいぜい十数店舗だろう。新宿や渋谷、中央区に住んでいる/勤め先のある諸君は選ばれしものだ。23区でも端の方は壊滅的だ。なんとか県にお住まいの君は、えー、お察しください。リンガーハットは全国全店舗で使えるらしいからちゃんぽん食いまくるといいよ。
次に、これを一番伝えたかったのだが、タダメシを食い過ぎると頭がおかしくなる。先週など毎日銀座で昼メシを食っていたが、1円も払っていない。それなりにちゃんとした店で、サラダ・コーヒーつきのうまいメシを食い、金を払わないで出る。正当な対価を払わないことが、こんなにも、もやもやと据わりの悪いものだと思わなかった。
この大盤振る舞いがぐるなびが儲かっている証拠なのか、食べログに押されてのゴリ押し体力勝負なのかは判断がつかないが、そう長くは続かないだろうと思われる。Naverまとめとかブクマしちゃう諸君は今すぐぐるなびのサイトで検索して、歯ぎしりをするか狂喜するかして頂きたい。
野崎まど『know』を読んだ。早川SFクラスタでやたらと評判がよいのでいつか読もうと思いつつも、過去に同氏の作品を拝見した中生まれていたわだかまりと作品の底のようなものが邪魔をしていたのだが、ここにようやく機会を得たので所感をはき出しておこうと思う。
一言でまとめると、『know』という作品はSF的/ライトノベル的想像力によって描かれた『ブッダ』である。つまり〝知ル〟という名の少女が正覚を得るまでの生涯およびその後の万人救済を、それに連れ添ったものの手で描いた物語の体裁を採っている。宗派は技術系過激派の大乗仏教といったところ。福音書と呼んでもよいのだが、本書に織り込まれた示唆(エピグラフとクライマックスが創世記の引用であることなど)に反して作中で知ルらが辿った道は真言宗のそれに近いように思えたため本稿ではそちらの用語を採用する。
こう考えると『know』というタイトルも知ルという少女を指すとも解釈できる。だが最もわかりやすいのは目次に並ぶ章題だろう。〝birth〟から〝death〟までまさしく一生が記されている。
さて本作の舞台は2081年の京都、情報材と電子葉という未知のテクノロジーによって情報空間と現実と思考との直結を果たした世界である。一方で情報へのアクセスと保護の格差は法律で規定されるまでに進む。そんな中、語り手を務めるのは作中トップクラスの情報エリートである。
〝birth〟の章では全知を定められた十四歳の少女・知ルとの出会いとともに、社会革新の原動力となった研究、そして彼女の誕生が描かれる。ちなみにこの配置のために作者は作劇上結構な力業を用いている。またここではもうひとりのクラス9・問ウも登場している。彼の姓であるアリステラというのは「最上級」を意味する名前。位置づけがわかりやすい。ただ女性名なのは気にかかるが……。
〝child〟では神護寺を訪ねて高僧と悟りについて問答する。ここで択ばれた真言密教とは即身成仏を極意とし、また教えを秘する——つまりオープンの逆をゆく——ことを是とする仏教の一宗派であり、つまりは作品の主題と密接に関わる教義を掲げている。物語構成上からも初日にふさわしいといえよう。
〝adult〟では京都御所に匿われた古文書を通じてイザナミ・イザナギの二柱の行いから生きたまま黄泉路を往く手段を学び取る。これで境界を越える準備は万端、残るは実践のみである。
〝aged〟において知ルは当初の目論見通り入定を果たす。その前夜、主人公と知ルは〝知恵の実をかじる〟と称して情報交換における無上の行為に達する。つまりセックスをする。
〝death〟では知ルの死後の肉体と、彼女の還りを信じる主人公の姿が描かれる。この情景は高野山の奥の院で空海が今でも生存しているという伝説を想起させる。
そしてエピローグでは生還した知ルによる革新が成った社会が語られ、物語は終わる。
——わけだが、この小説の価値はなんと言っても計算されたフィニッシング・ストローク(最後の一撃)だ。
作中では真理に至るための方法を量子葉によって脳を育て、高密度の思考による情報のブラックホール化を行うことだと説明しているが、これはあらゆる意味で知ルを育てた天才技術者の言うように「我々では無理」なのだ。彼の生誕は2014年であり、刊行年の一年先に設定されていることに留意したい。アーサー・C・クラークの名作『幼年期の終わり』は年少の読者に対して希望を残したが、この作者の意地の悪さはそれさえ許さない。
しかも知ルが死後の世界で目にし、人々に広めたものが何であるかは一切語られることなく物語は終わる。
この物語が抱える問題意識は情報格差である。作者はそれを人類間のレベルから、全知の存在たる神との格差へと推し進めた。だからすべての人が全知となった瞬間、格差は消滅し、万人救済が果たされることになる。しかしそれはあくまで作品世界内の話にすぎない。読者はその外にいる。その格差を肌で感じた瞬間、初めて読者は揺さぶられ、知ることへの欲求を呼び覚まされる——格差を埋めたいという渇望によって。ただ純粋に「知ることと生きることは同じ」と断じた知ルに比べて何と浅ましいことだろう。けれどそれもまごうことなき人間の本質である。語り手が中途半端な情報強者に位置づけられていたことも、妙に鼻持ちならない人物であったことも計算ずく。すべてはこの一行の効果を最大化するための小道具に過ぎない。
もとよりメタフィクションを指向する作家であると感じてはいたが、人工的な世界を下敷きにすることでより巧みにそれを演出できるようになったらしい。
で。
実はここまではすべて前置きである。読者を操ることを至上とするこの作家がメタフィクションへの可能性をこの程度のウェルメイドな小説に留めるはずがない。
この作品に残された最後の謎はずばり〝ただひとりに向けられた暗号〟である。正直な話、この解明に挑む資格があるのは野崎まどの全作品を電子化して常に携帯するような気狂いだけに違いない。
けれど非才を尽くしてその手がかりくらいは拾い集めておきたいと思う。
(後編へ続く)
http://anond.hatelabo.jp/20130824111147 以前借りたAV、野外乱交モノで 女3人と男優3人が川原でキャンプしながら乱交っつーやつなんだけど、 女の子が「そろそろ飯盒炊爨やろー」とか言ったときに男優陣が、 「すいさ... http://anond.hatelabo.jp/20130824111147 これ1年以上前に2ちゃんねるで見ました。 ブコメ一覧は情弱リストとして使えそうですね。 http://anond.hatelabo.jp/20130824162650 はは 情強で記憶力がよろしいんですね きっとコピペの隅々まで目を通してるんだね、ごくろうさま http://anond.hatelabo.jp/20130824163812 このコピペってわりと有名だから、コピペの隅々まで知っている必要なんて全然ないですよ。
↑こういうやつ。これはマスダだけど。
「ネタにマジレス」って煽りは分かるよ。「これ常識的にみてネタでしょ。ジョークでしょ。なにマジになってんの」って意味で。
「コピペにマジレス」って煽ってる連中に「2chに常駐してコピペをたくさん知ってるんですね」みたいなイヤミを言ってみたら反論が帰ってくるんだけど、連中ってまじにコピペはぱっと見て分かるのが「情報強者」って思ってるのな。
「ラストワンマイル」というのは、社会資本の整備などで、最後のネックとなる部分。
「主要道路までは光ファイバー引いたが、最後の各戸引き込み部分が、どうしても整備できない」と嘆いてた、アレである。
しかし、社会啓蒙は、いわゆる「情報弱者」に届けなきゃならない。
情報弱者は、情報を受け取る資力に乏しい(例:新聞を取るカネがない)し、
情報を理解する能力に乏しい(例:新聞に書いてあることがわからない)し、
情報を取得しようと言う意欲もない(例:新聞を読もうとも思わない、新聞嫌い)。
ひどい場合には、情報を否定しようとする(例」「新聞に書いてあることは陰謀だ」)
ということで、情報弱者を啓蒙する活動は、まさに「ラストワンマイル」である。
先日、「消えた年金対策費、3,000億円が余った」というニュースがあった。
一見、喜ばしいニュースだが、よくよく見たら、実はとんでもないニュースである。
つまり、本来年金を受け取れる受給権者が、総額3,000億円分受け取れなくて、国の元に宙ぶらりんになっている、ということ。
しかし、国としても、必死になって、年金受給権者に「年金記録を確認して下さい」と啓蒙活動を行ってる。
国の啓蒙活動で「気付く」人は、あらかた気付き終わっている。
この段階で、「受給権あるのに、まだ気付かない人」というのは、国が啓蒙活動を10倍行ったところで、
恐らく気付きもしないだろう。
あるいは、石油ストーブの欠陥品のリコール・回収活動も、これに似ている。
ラストワンマイルの難しさを知らずに、女性手帳批判するのは筋違い。
高齢者の介護需要急増が問題になっていて、自治体は高齢者に対し
「要介護にならないように、筋トレしましょう」と介護予防事業を行っている。
介護予備軍、介護にならないように介護予防事業を受けなきゃならないのは、「運動嫌いの高齢者」
運動嫌いだから、自治体主催の筋トレ大会なんて、死んでも行きたがらない。
なので、各自治体の介護予防事業予算は大幅に余りまくり、民主党政権下では「仕分け対象」に指定される始末。
これなんかはラストワンマイルの典型で、消えた年金対策費3,000億円に近似。
わかっちゃいるが、暴飲暴食、タバコはやめられない。
最近はやりの「脱法ハウス問題」も、実は啓蒙のラストワンマイルの罠なんじゃないか?と思うようになった。
住宅難民、ネカフェ難民に対し、行政やNPOも無策なのではない。
様々な救済措置を用意してるし、或いは「地方だと、住むところも確保されます」てのもある。
仮にネットカフェ内に「住まいの相談窓口」の冊子を用意してあげても、彼らは手に取らないのでは?
日本人の有名な技術者たちが起業したとして話題のTreasure Data(トレジャーデータ)。最近日本市場に向けた販売強化をすると発表した。だが以前からずっと日本企業相手にビジネスやってきていたはずだ。過去にリクナビなどで広告記事も見た。なぜ今さら発表? と不思議に思っていたら、以前に比べて価格が大幅に値上がりしていることに気がついた。
現在の最低価格は2TB上限で月3000ドルだ(http://www.treasure-data.com/pricing/)。無料のメニューもあるが、1ヶ月に60クエリまでしか実行できないので、企業で使うなら事実上有料のメニューしか選択肢が無いと考えて良い。
だが実は、つい最近までTreasure Dataには月29ドル、月299ドルのメニューがあったのだ。Internet Archiveには4月11日時点の記録があった。これを見ると、500GB上限の月299ドルで、無制限のクエリが実行できる。だが今は無くなっている。
月3000ドルは決して安くない。使う容量が限られている企業なら、実質的に10倍もの値上げが行われたことになる。容量単価で見ても、2.5倍もの値上げだ。
有料サービスを検討している企業にとって、価格は最も重要なファクターの1つだ。数パーセント値上げしただけでも騒ぎになることが少なくない。それがこうも簡単に何倍も値上げされるようでは困惑する。しかも、サイトのどこを見ても、値上げの理由はおろか、値上げがあったことすらどこにも書かれていないのだ。プレスリリースの最新の日付は現時点で1月15日だ(http://www.treasure-data.com/press-release/)。これでは検討するにしても、また値上げされるんじゃないかと不安になる。
ここまで横暴とも言える値上げを何の告知も無く行ったのはなぜなのか。その理由が気になった。これまでの経緯をもとに真相を探ってみた。
フェアに売上も雇用も伸ばしているスタートアップの日本企業はいくらでもある。そういう会社にももっと目を向けてあげてほしいと思う。有名人がたくさんいることだけが全てではないはずだ。
世の中には「新しもの好きな人」と「ほどほどに流行を気にする人」と「流行に無頓着、我が道を行く」人がいる。
自ら流行を周りに発信するほどの新しもの好きを「Aグループ」、
ほどほどに流行気にするが、そんなに熱心に新しものを追いかけない人を「Cグループ」、
Aグループが人口の5%、Bグループが15%、Cグループが60%、Dグループが15%、Eグループが5%、
そんな感じだろうか?
民間企業が新商品を売り込む場合、基本的に「AグループBグループCグループを相手にすればいい」。
DグループEグループは高い宣伝費用掛けても買ってくれないし、
その宣伝費用をABCグループに投入して、リピーター、ロイヤルカスタマーに育てた方がはるかに売上は上がる。
極端な話、DグループEグループは「捨ててしまってかまわない」存在であり、民間企業はABCグループを大切にすればいい。
特に流行の発火点のAグループ(アルファブロガーなど)は重要で、企業はカネ払ってでもAグループを抱き込みにかかる。
つまるところ、民間広告は、基本的にABCグループへいかに情報を伝えるか?が勝負。
最近のネットSNS社会では、Aグループを発火点にして仕掛ける宣伝手法が進化している。
ところが、行政の啓蒙広告は、情報強者のAグループやBグループへの宣伝は意味がない。
なぜなら、AグループBグループは、情報の内容を既に知っているから。
行政啓蒙の主旨は、「リテラシー低く情報弱者なCDEグループにこそ、伝えなければならない。」という点。
つまり民間企業広告とは真逆であり、民間企業広告のメソッドは通用しない。
特にEグループの人は「自分の思い込みが激しい」「行政の広告にわざと逆らおうとする」という、
極めて「あまのじゃく」な人種の塊。
電通博報堂などは、ABCグループへの宣伝などは極めて上手だが、その手法は行政啓蒙広告には全く通用しない。
しかし行政が啓蒙広告する場合、信用と実績の電通博報堂が選ばれる。だから行政啓蒙広告は失敗する。
女性手帳が果たしてCDEグループ啓蒙に有効なツールなのか、「啓蒙工学」の真価が問われる
「こんなこと、女性なら誰でも知っている、今更女性手帳などで啓発するなんて、女性をバカにしているのか?」
と反発しているのだろう。
A・Bグループの人は、
「リテラシーボトムな人、情報弱者な人に対してこそ、情報を正しく届けなければならない、という
・はてブを利用している自分(達)は情報世界のピラミッドにおいて、一番頂点にいると自覚している。
・はてブに流れるエントリを拾っていれば、インターネットにおけるすべての情報を取得しているといっても過言ではないと信じてやまない。
・インターネットではこの世のすべての情報が得られると思っているので、インターネットだけ見ていれば大丈夫と思っている。
・自分の考え方はまったくもって論理的ですべて正しいと思い込んでいるため、コメントでは常に上から物を言う。
・それなりに力を持つものに対して嫉妬と執着心がひどいが、表面上は冷静に装い、顔を真っ赤にして関連エントリにすがりつき、仲間同士でスターを送り合って悦に浸っている。
・たかが個人がやってる1ブログの論調に対して、重箱の隅をつついてまでも批判をしなければ生きている気がしない。
・そのくせ親しいオフラインでの知人達に自分のアカウントでも知れようものなら赤面の極みのため、ひた隠しにする。
・もしくは、もう開き直ってアカウントを公開しているが、自分がいかに有意義な発言を繰り返しているかを見せびらかすが、周りの人たちは冷ややかな目線で見守っている。
・情報強者であるのは当たり前だと思っているが、レベル的にはインターネットにやや詳しい人レベルなだけなので、
ちょっと専門的に詳しく書かれているホットエントリがでてくると驚愕のため真っ青になり、ガクガク震えながら「役に立つ」とかコメントする。
・結局ホットエントリに踊らされている。
分かりやすい「面白さ」というのは、送り手が読みやすいように情報に施した糖衣のようなものであって、情報そのものではない。「面白くて次々リンクをクリックしたりタブを展開したり」するのは、単に情報の送り手に踊らされているだけであって、情報強者どころではなく単なる情報の奴隷に過ぎない。一日24時間TVを見て、チャンネルを変えてはゲラゲラ笑ったり、気が向いたら録画したりしているだけの人間を情報強者とは言わないのと同じ。情報に踊らされて自分を見失っているだけ。
そんなことよりも
…と思う、その感覚を大事にした方がいい。分かりにくい「面白さ」には価値があるし、それを分かるために「自分なりの」努力することにも価値がある。論理の「飛躍」ではない、自分にその論理が理解できていないだけだと思うべきだ。そして、そこからそういうモノを作りだせる人間になれば、それで飯を食っていける。分かったようなつもりでうまいこと言おうとするよりも大事なことがそこにある。
自分はこんなにタブを開いているが読んでいるのだろうか、全て読む必要があるのだろうか、したいことはなんだったんだろうか。
はてブやツイッターを見ながらタブでどんどん開いていき、読むのがめんどくさくなったらブクマをはる。なんのための情報集めだったんだろうか。
有益な情報がたくさん見つけられて、興奮する瞬間もある。
『有益な情報』、特に『ライフハック』と呼ばれるものは”方法論”で、”こうすればうまくいく”とか”これはよんどくべき、やっておくべき”だとか。
そんなこんなで、情報を集めたあと、実際に自分の行動を選択する瞬間がやってくる。
現実に活かす時だ。この時を待っていた。
有益な情報の中から『選択』をする。全てをやる時間はないし、それぞれの情報には齟齬が生じる。そこで取捨選択が必要になってくる。
このときに無意識なうちに心がけてしまうのが、『一番公平で』、『一番万人に通用しそうな』、正しく一番『合理的な』方法や情報はどれであるか。
ここで変なのが、はなっから『自分』が存在しないということである。合理的というのはいかに自分を消すかということであり、万人に通用するような一般則をみいだすかである。自分という文脈を完全に無視している。ある意味自分を否定することから始まる。
もう一つおかしなことがある。選んでいる自分自身は『合理的』・『無私的』かもしれないが、その情報は論理の飛躍があるかもしれないし、誰かの主観が凝り固まったものかもしれない。
ここで言いたいのが、論理の飛躍や、主観の凝り固まりが情報の質を著しく損なうものであるかといえばそうでもない。
むしろ、強烈に面白いと思われる物、人、情報は往々にしてなんらかの論理の飛躍、論理では説明できないなにかを内包している。
面白いというのは価値である。絶対である。面白さ=品質である。
しかし、面白い情報を集めることに意味があるのだろうか。それらを厳選して、凝縮して、合理的に、無私的に。
集めている段階から自分を殺しているのだから、自分の血にも肉にもならないし、なったとしても魅力的ではない。つまり面白くない。
情報の質はそれぞれ高いかもしれないが、それが脈絡なく量となって降りかかって来る頃には無価値となる。
結局人が求めているのは成長と共感である。自分自身の成長を感じる、か、自分自身と照らし合わせる、の2択である。
その情報が嘘かホントか、合理的か非合理的か、が問題になる情報は少ないし、そもそもインターネットという媒体にはそぐわない。
嘘でもいい。自分にフィードバックがあれば。自分にフィードバックを求めるためには、インターネットの中に自分を置かなければならない。虚構の固まりの中に。
発しなければ、返ってこない。今受け取っているものはその他大勢に発せられた無価値なものである。孤独を催させ、自分を否定するだけのものである。
ライフログとしてのインターネット。情報を体験に変えるものと信じて。
いつも何気なく、インターネットを見ていたブラウザ、Internet Explorer。Safari。どれもただブラウズ=閲覧という意味を越えている。
もともとそうなのかもしれない。自分自身が入っていかなければならないのかもしれない。インターネット探検家として。
インターネット探検家。私自身、いつもそうありたいと思っています。
そして今、卒業して新たな人生を踏み出すあなた方にもそうあってほしい。
ありがとうございました。