2012-01-15

情報強者という名の病

最近ネットブラウジングをしていてよく考えることがある。

自分はこんなにタブを開いているが読んでいるのだろうか、全て読む必要があるのだろうか、したいことはなんだったんだろうか。

はてブツイッターを見ながらタブでどんどん開いていき、読むのがめんどくさくなったらブクマをはる。なんのための情報集めだったんだろうか。

有益な情報がたくさん見つけられて、興奮する瞬間もある。

『有益な情報』、特にライフハック』と呼ばれるものは”方法論”で、”こうすればうまくいく”とか”これはよんどくべき、やっておくべき”だとか。

そんなこんなで、情報を集めたあと、実際に自分の行動を選択する瞬間がやってくる。

現実に活かす時だ。この時を待っていた。

有益な情報の中から『選択』をする。全てをやる時間はないし、それぞれの情報には齟齬が生じる。そこで取捨選択が必要になってくる。

このとき無意識なうちに心がけてしまうのが、『一番公平で』、『一番万人に通用しそうな』、正しく一番『合理的な』方法情報はどれであるか。

ここで変なのが、はなっから自分』が存在しないということである。合理的というのはいかに自分を消すかということであり、万人に通用するような一般則をみいだすかである自分という文脈を完全に無視している。ある意味自分を否定することから始まる。

もう一つおかしなことがある。選んでいる自分自身は『合理的』・『無私的』かもしれないが、その情報論理の飛躍があるかもしれないし、誰かの主観が凝り固まったものかもしれない。

ここで言いたいのが、論理の飛躍や、主観の凝り固まり情報の質を著しく損なうものであるかといえばそうでもない。

むしろ、強烈に面白いと思われる物、人、情報は往々にしてなんらかの論理の飛躍論理では説明できないなにかを内包している。

面白いというのは価値である。絶対である面白さ=品質である

しかし、面白い情報を集めることに意味があるのだろうか。それらを厳選して、凝縮して、合理的に、無私的に。

集めている段階から自分を殺しているのだから自分の血にも肉にもならないし、なったとしても魅力的ではない。つまり面白くない。

情報の質はそれぞれ高いかもしれないが、それが脈絡なく量となって降りかかって来る頃には無価値となる。

結局人が求めているのは成長と共感である自分自身の成長を感じる、か、自分自身と照らし合わせる、の2択である

その情報が嘘かホントか、合理的か非合理的か、が問題になる情報は少ないし、そもそもインターネットという媒体にはそぐわない。

嘘でもいい。自分フィードバックがあれば。自分フィードバックを求めるためには、インターネットの中に自分を置かなければならない。虚構の固まりの中に。

発しなければ、返ってこない。今受け取っているものはその他大勢に発せられた無価値ものである孤独を催させ、自分を否定するだけのものである

ライフログとしてのインターネット情報を体験に変えるものと信じて。







いつも何気なくインターネットを見ていたブラウザInternet ExplorerSafari。どれもただブラウズ=閲覧という意味を越えている。

もともとそうなのかもしれない。自分自身が入っていかなければならないのかもしれない。インターネット探検家として。

インターネット探検家。私自身、いつもそうありたいと思っています

そして今、卒業して新たな人生を踏み出すあなた方にもそうあってほしい。

インターネット探検家

ありがとうございました。

  • http://anond.hatelabo.jp/20120115031103

    分かりやすい「面白さ」というのは、送り手が読みやすいように情報に施した糖衣のようなものであって、情報そのものではない。「面白くて次々リンクをクリックしたりタブを展開し...

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