はてなキーワード: 宗教団体とは
下記のエントリー(anond:20220701074807)で色々と書いてある点について。目下話題になっている「表現の自由」について。自分用の整理として。
目下話題の「表現の自由」は、いかなる意味で表現の自由なのだろうか。それは憲法21条1項に見られるような法的なそれだろうか。それとも、憲法21条1項のようなものとは異なった何かなのだろうか。たとえば、JAなんすんが制作した『ラブライブ! サンシャイン!!』のキャラクターを利用したポスターについて、絵の内容がが性的である※1という批判があった(なお、これや宇崎ちゃん欠缺ポスター事件の余波で、赤木氏らツイッター凍結騒動があったりした。覚えているだろうか?)。
ここで、抗議をJAなんすんが考慮して、ポスターを撤回したとする。すると、「誰の」自由が「誰によって」侵害されているのだろうか。侵害者をざっくりと抗議する者として捉え(本来、ツイッターで批判的な言葉を言っている者、電話をかけて意見を伝える者、付和雷同していたずら電話をする者、大量の手紙を送りつける等のいやがらせをする者等を十把一絡げに全部抗議者として捉えるのは適切ではあるまいが)、被侵害者をさしあたってJAなんすんとして、JAなんすんが抗議者に対して抗議をやめる(たとえば、ツイッターで「ポスターを撤回すべし」等の意見をつぶやくのをやめさせる)ように請求する法的資格を有する、というのが表現の自由主張の趣旨か。
はっきりいえば、そのような主張は法的には認められない。私人間効力の論点を見直すべきであるとしか言い様がない。ここで、抗議をやめるように要求する資格があると裁判所が肯定すれば、抗議者の表現に裁判所(=国家機関!)が介入することになり、それこそが表現の自由の侵害である。この構図において、憲法21条1項が保障する表現の自由の恩恵に浴するのは抗議者の側となるだろう。目下話題の「表現の自由」は、憲法21条1項とは異なる問題であると解するのが相当である・・・のだろう。
元々のエントリーでは次のような言明がある。
言いたかったのは、フェミニストはあくまで「女性の実質的な表現・言論の自由を高めるための環境づくり」を目指しているのであって、「表現規制派」というレッテル貼りは間違いだということ。フェミニストやリベラル派が目指すのは、あらゆる階級や属性の人が等しく表現の自由を行使できる社会だ。
これに対するブコメはこう言っている。
preciar おまえ等がぶっ叩いてきた作品のほとんどが女性の手になる物である時点で、ただの妄想というか開き直りでしかない/そもそも平等のために表現を規制しろと言う主張が「規制派」でなくてなんだ?恥に加えて知恵も無い
後段の「そもそも平等のために表現を規制しろと言う主張が「規制派」でなくてなんだ」という部分に注目したい。再びポスターを題材とする。「規制」という言葉を使うのは公権力ではないから不適切のように思うけれども、例のポスターに対する抗議は、ポスターを掲示することを抑制しようとする意図を有し、ある一つの表現を抑圧する行動である、という部分を問題として切り出すことにしよう。ここで想起するべきなのは、表現すべてがまったく自由(というより、放縦のまま)とされることなどあり得ないということである。たとえば名誉毀損的な言動は認められない。名誉毀損的言動をしている者を叱りつければ、それは一つの表現の抑圧には違いない。しかし、名誉毀損をされないというのも重要な利益であり、自己表現の利益と考量される対象となる(そうならないという人はいないだろう)。プライバシーも同様である。ノンフィクション『逆転』事件を想起すれば良い。前科を実名で暴露されない利益を重視する見地から、『逆転』における表現が抑制されている(この事件では、慰謝料の請求を裁判所が認めているから、公権力による「規制」ですらある!)。プライバシーの保護のために表現を抑制するべきであるという主張は「規制派」であろうか。
名誉毀損やプライバシーは具体的な個人の利益が問題となっているが、女性蔑視の問題はそうではないと思うかもしれない。しかし、番組準則のように、社会に薄く広く広がる利益保護(たとえば、放送番組の政治的公平性)を保護するために、表現を抑制する(番組編集準則であれば、放送局の自由)ということは、そうおかしな話ではない(なお、憲法学では、番組準則は、それへの違反が総務大臣による放送免許の取消原因になり得る等の効果をもつ限りで違憲であるとしている。)。たとえば、大阪府知事・大阪市長・橋下徹のトーク番組に対して、政治的に公平ではないという批判は、無論番組作りを抑制する可能性がある。実際、激しい批判を浴びて、大阪毎日放送は社内調査を行って検証したのである。これも「平等のために表現を規制しろと言う主張」だから「規制派」となるのだろうか?それはそれで一貫した立場ではある。それこそ「知恵も無い」と思うが。
なお、念のためにいえば、プライバシーも名誉権も日本国憲法は明文で保障していない。そのような利益であっても、憲法21条が保障する表現の自由にとっての対抗利益となることができる。憲法の明文で保障されていない権利は表現の自由の対抗利益になり得ないという考え方は、畢竟独自の見解に過ぎない。
選挙において「表現の自由」を掲げる政治家がいる。彼らの問題意識は極めて偏頗ではないか。日本の表現の自由をめぐる問題状況は深刻なものがある。ところが、こと選挙で「表現の自由」を旗印にする者の言動を見ていると、選挙運動の規制、公務員の政治的意見表明やストの広範な禁止、放送資源の分配問題、政府情報の保全・公開等々、様々な形で存在しているはずの問題状況が捨象されて、取り上げられているのは「マンガ・アニメ」の自由ということになっている。また、「アニメ・マンガ」だけを対象にしても、取り組む分野が偏っているのではないか。たとえば、これ(https://twitter.com/KenAkamatsu/status/1542366137979400193)には『国が燃える』事件が入っていないが、右翼の抗議は免罪されているのか。あるいは、最近の『「神様」のいる家で育ちました』も入っていないが、宗教団体からの抗議は免罪されているのか。上記は、批判としてはマージナルかもしれない(忘れていただけかもしれない)が、刑法175条の廃止等(ポルノの合法化;「有害図書」販売規制の廃止ないし合理化)を公約に入れていないのはどうしたことか。
「表現の自由」を掲げる政治家の言動を観察していると、一つ気づくことがある。彼らは、表現の自由を抑制している制定法を改廃するのではなく、規制の対象外となるように関係機関に働きかけを行って「免除」(制定法の外部で活動しているのだから、お目こぼしに近い)するという活動に主眼を置いているようである。念のためにいえば、そういった活動を政治家が行うこと自体は奇妙なことではない。問題は、「表現の自由」といった一般的・普遍的権利を掲げながら、規制の廃止を唱えるよりも、特定の表現に限って規制を免除するように(制定法の改廃ではなく)法執行機関に働きかけをしていることである※4。取締当局に働きかけをして有利な方針を引き出すという方向性は、自由にとって脅威であることに変わりはない。結局、働きかけをする人物の意向によって「自由」の内実が左右されることになるからである。「免除」の仕組みを動かす人物が特定の出版社や特定の作品群を代表している場合、その他の出版社・表現には「免除」を拒否するという形で脅威となる可能性が存在し続ける。政治家の言動をナイーブに受け止めてはいけない。
なお、私は実は「アニメ・マンガ」の中の特定の作品群のみを対象とした偏頗な政治運動自体がけしからんというつもりはない※5。しかし、「表現の自由」という看板は下ろしてもらいたい。
「表現の自由」を掲げる政治家ないしツイッターアカウントを見ていると、「エロ(・グロ・ナンセンス)」の自由を重視しているような印象がある。こういった表現一般について、公権力の介入を排除する防御権があるのは当然だ、という前提があるような気がする。しかし、「わいせつ(obscenity)」にあたる言論は憲法上の権利として保護されないはずである。憲法上の権利として保護されないということは、内容規制をしても合憲であるということになる。日本の最高裁の考え方もそうであろう:
なお性一般に関する社会通念が時と所とによつて同一でなく、同一の社会においても変遷があることである。現代社会においては例えば以前には展覧が許されなかつたような絵画や彫刻のごときものも陳列され、また出版が認められなかつたような小説も公刊されて一般に異とされないのである。また現在男女の交際や男女共学について広く自由が認められるようになり、その結果両性に関する伝統的観念の修正が要求されるにいたつた。つまり往昔存在していたタブーが漸次姿を消しつつあることは事実である。しかし性に関するかような社会通念の変化が存在しまた現在かような変化が行われつつあるにかかわらず、超ゆべからざる限界としていずれの社会においても認められまた一般的に守られている規範が存在することも否定できない。それは前に述べた性行為の非公然性の原則である。この点に関する限り、以前に猥褻とされていたものが今日ではもはや一般に猥褻と認められなくなつたといえるほど著るしい社会通念の変化は認められないのである。かりに一歩譲つて相当多数の国民層の倫理的感覚が麻痺しており、真に猥褻なものを猥褻と認めないとしても、裁判所は良識をそなえた健全な人間の観念である社会通念の規範に従つて、社会を道徳的頽廃から守らなければならない。けだし法と裁判とは社会的現実を必ずしも常に肯定するものではなく、病弊堕落に対して批判的態度を以て臨み、臨床医的役割を演じなければならぬのである。
「エロ」の自由を擁護していくとなると、「保護されない言論」の判例法理の桎梏をいかに除去していくかを考えるべきであろう。スウェーデンではポルノも出版の自由の対象とされていることに注意する必要がある。スウェーデンの憲法典の一部を構成する出版の自由に関する法律は、出版の自由を制限できる場合を限定列挙する。児童ポルノは出版の自由を制限できる場合に挙げられている※6が、ポルノ一般は挙げられていない。他方で日本の状況を考えてみよう。もはや何の修正もなく『チャタレイ夫人の恋人』は出版されているが、刑法175条自体は生きている。最高裁は判例を変更していない。捜査機関が取締りの方針を変更すれば、刑法175条でもって再び刑事罰が科されるであろう。他の成人向けのアダルト・ビデオにしても、マンガにしてもアニメにしても同様である。一般に「エロ」の表現の自由を目指していきたいのであれば、少なくとも刑法175条を廃止しなければならないはずである。しかし、この最大の桎梏の存在を認識していない者も少なくないように思う。もしかすると、このような規制状況はもはや動かしがたいので、所与としなければならないと考え、より低い脅威度のものを優先しているのかもしれない。あるいは、彼らが取り組んでいる「マンガ・アニメ」は実は「わいせつ」にあたらない物件のみで、ハード・コア・ポルノ的な「マンガ・アニメ」は眼中にないのかもしれない。しかし、それでは『チャタレイ夫人の恋人』や『悪徳の栄え』、あるいは『蜜室』に取り組んだ人々と比べてあまりにチャチな取り組みだと思う。
丸山眞男を引き合いに出すまでもなく、日本人は既成事実に弱いと指摘される。いったん規制されると大変だから、規制される前に対処する政治家が必要であるという言い分を聞くが、既成事実に屈服して「一端規制されると大変」な状況を強化しているのは誰なのだろうか。
※1 ここで「性的」として批判されているのは、単に裸体だとか性器が描写されているという意味ではなく、ほぼ女性蔑視的という意味に等しいことに注意するべきである。
※2 書いているうちに思ったが、リュート判決の構図に似ている。
※3 スウェーデンなどの欧州諸国ではポルノが合法化されている。スウェーデン等で購入したヌード写真集を日本に輸入して税関検閲に引っかかる、というのが税関検閲諸事件の流れだ。
※4 なお、児童ポルノ禁止から創作物を除去せよとの主張は、一般的な規制の問題として評価できよう。
※5 むしろ、出版社の利益を守るためと考えれば、個別の出版について規制をお目こぼししてもらう活動も大事だろう。だが、あくまで出版社の権益であり、表現の自由という共通財の問題ではない。
※6 日本で出版されている成人向けマンガ・イラストが児童ポルノにあたるかと言った事件があったのだが、スウェーデン最高裁はマンガの表現形態に十分配慮した判断を行っている(NJA 2012 s. 400. 翻訳もある。外国の立法255号[2013年]223頁)。このような判断を日本の最高裁がするかというと、全然しないだろう。
生まれながら入っていた。15歳くらいのときに、まるでこいつら信用ならないな、と見切りをつけてから20年以上経つ。祈れば何でも好転する。病気も治れば夫婦仲も良くなる、希望の大学に入学できるなど。まあ、勝手にしてればいいんだけど、政治にも首を突っ込むのは宗教団体の常。
社会的な弱者や性的なマイノリティ、特定の国籍の外国人、不治の病を抱える病人は、いないもの、あってはならない存在とされていた。宗教的な悪行ゆえに存在している、いてはならない人間と扱っているようにも思う。
理屈はこうだ。
「不治の病を抱えた人は、前世で悪行がやまほどあった」
「性的なマイノリティは、社会に悪をもたらすために存在している」
自分たちが暮らしている、通り一遍の世界以外にいる人たちは、全てが自分たちの敵となる。
じゃあ、そんな人たちが、その信仰を受け入れたらどうなる?と悪意を込めて聞いたことがある。その回答も素晴らしい。
両親には伝えてないが、私はとある障害がある。一生治らない。その親として、どんな顔をしてそれを受け入れるだろう。
信仰を受け入れることがあったとしても、通院は続く。それが、その信仰の限界なのかと思う。科学はあくまでも科学。信仰はただの拠り所。
自民党は、創価学会・公明党の集票力を利用して今まで政権維持してきたから、それがカルト宗教団体である創価学会の延命につながってきたってことだね。だから「末端の学会員が何を考えても」立憲と公明党の組み合わせはあり得ない。自民党が立憲に譲るのは、リーマンショックや東日本大震災クラスが来ることを確信しているケースかな。
自民党が、その集票力を利用するため、オウムと同じようには創価学会を社会から排除せず、いわば(投稿者のような)無自覚な狂信者が日本社会で跳梁抜鈎するに任せた故、この国は停滞し、また、同調圧力だけが強くて生産性の低い斜陽社会になったのではないのかな? 1人当たりGDPでも韓国に抜かれたけど、学会員はそのことを喜んでいそうで怖いね。
この思考イメージを発展させていくと、新興国が発展していく一方で、「自民党が政権維持のために創価学会を利用し続けている」ために、日本という国は沈んで行く(国際社会で影響力を失っていく)未来が待ち受けているように感じられるのだけれど、そうではなく、この国には発展・繁栄の輝かしい未来が待ち受けていると、「マインドコントロールされている人々」は信じることができる、ということかな?
2022年7月10日に「第26回参議院議員選挙」(即日開票)が行われる。
表現の自由陣営(所謂「オタク陣営」)の間では、「比例代表制」に様々な政党から「表現の自由を守る」と主張する候補者が現れていて
「誰に投票するか悩む」となっているが、オタク陣営の皆の投票の参考になる話を書きたい。
素性を明かしたくないので匿名な場で記事として書かせて頂くが、きっと参考になると思う。
今回、私は、比例代表制では「藤末健三」に投票する。
今から語るのは、その理由だ。
相当主観の入った記事になるが、投票先を決める際の参考になると思う。
なお、前提として言っておくと私は藤末先生と会った事がある。
それは、昨年…2021年秋の事だった。
この頃、2019年の参議院議員選挙で54万票を獲得して当選した山田太郎議員は、
日本各地の同人誌即売会に赤松健先生と一緒に参加し、同人誌即売会の閉会後に
会場近くの施設でフォーラムを開催するという事をしていた。
大体、同人誌即売会は15時~16時ぐらいに閉会するので、フォーラムの開会時間は16時~17時頃だ。
フォーラム…言い方を変えれば講演会と言えば良いのだろうか?
支持者に対する政治活動報告会と、今後の政治戦略の発表だ。
その中で、山田太郎議員と藤末健三議員が同じ同人誌即売会に参加し、
その後、両方ともフォーラムを開催したという出来事が2回ほどあった。
その際、藤末健三議員は、山田太郎議員のフォーラムが終わる時間に開始時間をずらし、
両方に参加したい人は両方に参加できる様にと気を遣ってくれていた。
私は、その日、両方のフォーラムに参加した。
山田太郎議員のフォーラムは、赤松健先生をゲストに招いての物で、聞きに来ていた人の数は
凡そ、40名前後だった。
赤松健先生がゲストという事で増えた分も有るのだろう。
その中で、参加者から山田太郎議員に対して下記の様な質問が出た。
「参議院議員は、一度当選すると任期が6年と固定されています。
山田太郎先生が次に参議院議員選挙に出るのは2025年の夏になりますが
仮に、2025年の参議院議員選挙で落選した場合はどうするのでしょうか?」
という質問。
それに対して、山田太郎議員は
「2025年の選挙でも当選する事を考えていますが、表現の自由を守る政策のための
戦略として、2022年夏の参議院議員選挙に、一人、僕の後継者となる候補者を
立てようと考えています。
候補にする人は、”今まで政治家経験が無く”、”政治団体・宗教団体等といった支援団体の
存在していない、党派性に縛られる事なく活動できる人”という条件に当てはまる人を考えています。
その人と僕とでタッグを組んで、3年置きに交互に参議院議員選挙に出て当選し続ける仕組みを
作っていければ表現の自由関係の政策は盤石になると考えています。
もしそういう人で、僕に紹介したい人等が居たら自薦でも他薦でも良いので僕の事務所まで
メールを送ってください、今年(2021年)の年末ぐらいまでに何人か、条件に当てはまる人に
会って、候補者を決めたいと思います。」
と答えていた。
そして、2021年の年末頃に、漫画家の赤松健先生が山田太郎議員の推薦で自民党から
2022年7月の参議院議員選挙に比例代表の候補として出る予定である事が発表された。
話は、このフォーラムの日に遡る。
山田太郎議員のフォーラムの後、藤末健三さんのフォーラムに行った。
藤末健三さんのフォーラムに参加していた人の数は10人に満たなかった。
フォーラム開始前、私は藤末健三さんに疑問に思った事を聞いてみた。
その際、山田太郎議員のフォーラムに行っていた事も話した。
藤末先生は言った。
「実は、山田先生(山田太郎議員)のフォーラムに参加させてもらえないかと
山田先生に聞いてみたんですけど、断られたんですよ。」
この時は、藤末健三さんが何故断られたのかは解らなかった。
だが、藤末健三さんのフォーラムで話を聞いていて断られた理由が分かった。
藤末健三さんは2016年の参議院議員選挙で当選した現職(2021年秋時点)だった。
そして、前回(2016年)の参議院議員選挙の時点では、宗教団体系に近い支援団体が
付いていたそうだ。
山田太郎議員が述べた、タッグを組む人の条件の
「”今まで政治家経験が無く”、”政治団体・宗教団体等といった支援団体の存在していない、
党派性に縛られる事なく活動できる人”」とは、つまり、
「藤末健三議員は2022年の参議院議員選挙で改選対象になっているけれど
僕は、藤末健三議員を推してタッグを組む事はしない」
という宣言だった訳だ。
そんな話がされていたとは露知らない藤末健三は、フォーラムの中で
私以外の参加者から、2022年7月の参議院議員選挙で、どう票を集めようと考えているかを聞かれた際
「秋葉原に選挙事務所を構えて、山田太郎議員が前回(2019年)に
やった様にやれればと考えています。山田太郎議員から協力して貰えれば尚良いですが。」
と言っていた。
聞いていて、この藤末議員という議員はちょっと天然キャラなのではないだろうか…と思いつつ、
私は
「山田太郎議員には山田太郎議員のやり方が有って、藤末議員には藤末議員のやり方があると思います。
山田太郎議員と同じ事をするのではなく、藤末議員には、山田議員に無い魅力が有ると思うので
山田議員に無い、藤末議員の魅力を見せて行く方が良いと思います」
と意見した。
これは主観だが、山田議員のフォーラムと藤末議員のフォーラムの両方に行って
・山田議員はトップダウン型、即ち上からルールを作って表現者を守る事を政策として考えるタイプ
・藤末議員はボトムアップ型、即ち現場の状況から、現場を改善する政策を上に対して提案するタイプ
と、政策のタイプが真逆だと感じた。
そして、山田太郎議員は、自分のやり方・政策を浸透させる上で、藤末議員をどの程度かは知らないが
快く思っていないのではないかという印象を受けた。
邪推すると、山田議員は2022年7月の参議院議員選挙で藤末議員を落選させて、藤末議員の落選した枠に
自分とタッグを組む人物を議席に入れたいのではないかと感じた。
念のために言っておくが、主観で感じた話だ。
今回の選挙が始まってから、2021年の冬のコミケ開催に際して、藤末議員が相当に尽力したという話が
流れてきているが、これはその通りだと思う。
コミケ再開のために現場から提案する形で動いた藤末議員は実際に最大の功労者だろう。
これは、藤末健三さんがボトムアップ型で行動する人だから出来た事だと、私は見ている。
私は、赤松健先生と藤末健三さんで、どちらに投票するかと聞かれたら、藤末健三さん一択だ。
昨年秋の、参加者数が10人といないフォーラムで話をした時から、藤末健三さんに投票する方向にしよう
と考えていたが、それが選挙期間になってより固まった。
山田議員にしてみれば、多分面白くない事だろう。
タッグパートナーとなる赤松健先生の分の票が藤末議員に持っていかれる可能性もあると危惧しているかも知れない。
Twitterで、赤松健と藤末健三で検索してそれぞれの評価や、それぞれに関するツイート数を見ると、
どうも、今回の選挙では藤末健三を好意的に推している人が多い傾向が有る。
その理由には、表現の自由系のインフルエンサーが推しているとツイートしている事等もある様だが、
藤末健三さんを推すツイートは、静かだが熱を持ってる系も物が多く、赤松健さんを推すツイートは
表面的には熱いが、何処かお祭り騒ぎな印象の有る物が多いと感じた。
おそらく、山田太郎議員は、藤末健三を落選させて、その分の議席に赤松健先生を当選させたいと
考えていたのだろうが、もしかしたら、藤末健三さんの方が赤松健先生よりも得票数が多くなり
赤松健先生が落選する可能性すら、今頃危惧しているのではないかと思う。
あくまで、主観的に見てだが
「今回、もしかしたら藤末健三さんは赤松健先生以上の得票数で当選するのではないか」と、
私はそんな予感がしている。
その上で、私は藤末健三さんに入れる事を決めている。
他の人が赤松健先生と藤末健三さんのどちらに投票するかは知らないが、
この話が、赤松健先生と藤末健三さんのどちらかで投票を迷っている人にとって、
何らかの参考になればと思っている。
こうして、匿名で記事を書いていたのは、”政治の話は面倒くさいから極力したくない”からだ。
だが、”政治の話は面倒くさくないから極力したくない”が、私は藤末健三さんに投票したいと思ったし、
この話が投票の参考になればと思って、匿名で記事を書く事にした。
藤末健三さんには、私が誰かはバレているだろう。
ブクマカにすでに指摘されてるけど、
立憲民主・その他野党支持でかつ表現の自由尊重の人が栗下候補に投票すればいいだけだよ
そうすりゃ野党だって山田・赤松ペアじゃなくても表現の自由派候補が票を集めることは認識できるし
立憲民主・その他野党支持層に表現の自由派なんてほとんどいないよ、自民支持層が投票しないと無理だよ、ってレベルなら、そりゃそんな政党に属したところでまともに活躍できると思えないし
あと
赤松は他党はさることながら、同じ自民の藤末候補とも実は協力関係にないので、票を融通する筋合いはない。
100万票を目標にしているのも、当落線上にいると必死でデマを拡散して支持者の引き締めを図っているのも、自分が1人ダントツで当選するためである。
ツイッター見てる限りだと赤松・藤末候補の事務所は秋葉原にあって、スタッフやら融通してるらしいから、この言い方は言いすぎじゃね?って思うよ
票を集めればそれだけ党内での発言力が上がるのはそうだけど、同党の候補をないがしろにしたら党内での立場は下がるからそんなことする理由はない
【社会との関わり】
オマンコ教は世界中に信者がいる巨大な宗教団体であり、その影響力は絶大である。
多くの著名人やセレブリティたちがオマンコ教徒として知られている。例えば、ハリウッド女優のジェ○ファー・ロペスや歌手のア○アナ・グランデ、イギリスの女優エ○・ワトソンなどもオマンコ教の信者であることが知られている。
社会活動においても、オマンコ教の影響力は非常に大きいものがある。例えば、現在世界で製造されている全てのコンドームはオマンコ教の信者たちによって作られたものであり、オマンコ教の信者たちは、自分たちの作った避妊具を広めるために、積極的にチャリティ活動を行っている。
また、オマンコ教の聖職者の多くは、オマンコ教の布教のために様々なメディアに出演している。例えば、オマンコ教の女教皇は、オマンコ教の宣伝のため、様々なテレビ番組やCMに出演し、下半身を露出させて自身の性器を見せつけるなどの過激なパフォーマンスを披露している。
オマンコ教は、LGBTQ+コミュニティにおいても積極的に活動していることで知られている。オマンコ教の聖職者の中には同性愛者もいることから、LGBTQ+の人々からは熱烈な支持を受けている。
さらに、オマンコ教は、世界中のあらゆる差別と戦うことを使命としており、同性婚の推進や、トランスジェンダーへの偏見をなくすための啓蒙運動などを行っている。
MOAはMokichiOkadaAssociationの略でしてよ。手かざしで有名な世界救世教の開祖、岡田茂吉が美術愛好家だったことからできた美術館ですわ。
滋賀のMIHOミュージアムでも思いましたけど、宗教団体は山の中にクソデカい施設作るの好きですわね。
けど山腹から見る海は絶景でしたし、設備も金かかってそうで良かったですわ。
展示室のガラスがすごい透明度で、一瞬何も無いのかと思ってしまいましたわ。隣のおじさまなんか額をごっつんこしてらっしゃいましたわ。
蒔絵を特集した展示だったのですが、時代別に並べられてその変遷が興味深かったですわ。
最初は仏の神々しさを表現するものだった金が武家や町人の文化と共に一般化、技巧化していくように感じられましたわ。
あと最後に展示されてた現代の工芸家が作った作品が、ため息が出るくらい美しかったのですわ。
当たり前ですけど、漆も金も銀も螺鈿も、作られた当初からはかなりくすんでしまっているのですよね。
世界救世教は自然派農法大好きで、古参はてなーには有名なEMを推進してる団体なのですわ。
EMがインチキでもEMを使うようなこだわりのある農家が作る野菜は大概うまいのですわ。
このまとめでは表現の自由戦士が顔真っ赤にして「エロばかり攻撃されてる!エロが最優先だ!」と仰っている。いやいや、エロばかり攻撃されてないから連載中止にまでなったんだが?
オタク達の間では、フェミが騒いでるだけでその騒ぎがスルーされていて広告が取り下げられてもいなければ連載中止にもなってないたわわの方が、連載中止となった宗教2世漫画よりも迫害されていて可哀想ランキング上位らしい。へー。大した表現の自由ですこと。
「たわわ」に関する問題点と宗教2世における問題点をごっちゃにするバカがいるの、何でだかわからないんだけど。無理矢理、相手に「表現の自由戦士」とか冴えないレッテル貼りした挙句、表現の自由に関するトピックなら全て闘え、というのは流石に無理筋だろ。
漫画表現に対する恣意的な基準に基づく圧力の話と、宗教教団の内部情報暴露に関する報道の自由の話は、「表現の自由」に所属する、という点でしか共通点がない。
そもそも、宗教2世の件で(そもそも誰にか分からんが)抗議をする事に、正当性があるかどうか、という点から怪しい。宗教2世漫画、教団の許可を取らずに内部情報を公開している訳で、これは表現の自由を踏まえても危ない橋を渡っている。報道の自由があるから何しても無問題、と言えないことは、先日の北海道新聞の記者逮捕の件からも明らか。しかも、今回の媒体は報道機関ではない。
特定の宗教教団の内部情報を公開するにあたって、許可が取れていないのであれば、教団側から「おいそれどういう事だ」とクレームが入るのは当たり前の事。教団側にも権利がある。潜入ルポ(に類する活動)をやるのであれば、教団側とどういうコミュニケーションを行うのか、について事前に十分に準備をする必要がある。
集英社が連載中止をしたということは、言い換えれば教団側の主張が勝ったということ。この件においては彼らの方が正しいのであれば、それを受け入れなければならない。なので、「集英社の担当者はしっかり準備して、著者や取材先を守れよ」ぐらいは思うが、それ以上の意見はない。教団側にも理がある場合、それも尊重するのは当たり前。何をしてもいい訳じゃない。
宗教2世の件、抗議するにあたっての法的正当性すら怪しいのだけど、法律よりお気持ちが優先なんだっけ。明らかに関係ない論点について説明しろ、というのはフェミニストの悪い癖だな。もっと丁寧に議論しろよ。
「ダンマリだ」論は結局森羅万象全てに言及せよという無茶振りになるからあまり好きではないが
自由戦士ってフェミに対してダンマリだ連呼しつつ「福井の高校生が演劇脚本を没収された」「宗教二世の漫画が圧力で打ち切りになった」あたりは完全スルーか言い訳程度に触れてても明らかにエロ批判とはテンションが全然違うんだよな
7万人の署名集めて宗教団体や出版社に提出とか、数千人対象のアンケート取って問題かどうか答えさせるとかそういう金かかることを普段エロ系では盛んにやってた奴らがやらなかった
「ガチの弾圧には臆して黙ってるくせにネットでエロ作品について批判的な感想を述べただけのなんの権力もない匿名の人間には群れをなして飛び掛かってる」
これじゃ馬鹿にされても仕方ない