はてなキーワード: 原子とは
関連ブクマ: https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mainichi.jp/articles/20230822/k00/00m/040/214000c
アメリカと日本の大学における理系の研究で、盛んな分野のトップ5をそれぞれ箇条書きにしてお答えします。
一般的に言えば、アメリカの方が日本よりも大学の研究が経済に与える貢献度は高いと考えられます。その理由として、以下の点が挙げられます。
アメリカでは、大学の研究成果を産業界に移転する仕組みが整っており、特にベンチャー企業の創出や成長につながっています。例えば、スタンフォード大学やマサチューセッツ工科大学(MIT)などは、シリコンバレーやボストンエリアといったイノベーションの中心地に位置し、多くのハイテク企業やスタートアップ企業と連携しています。また、大学発ベンチャーの成功事例としては、グーグルやフェイスブックなどが有名です。
日本では、大学の研究成果を産業界に移転する仕組みが十分ではなく、特にベンチャー企業の創出や成長につながっていません。例えば、日本の大学発ベンチャーは、アメリカや欧州と比べて少なく、また規模も小さいです。その原因としては、日本の大学の知的財産管理やライセンス交渉の能力が低いことや、日本の産業界が新技術や新製品に対する需要が低いことなどが挙げられます。
以上のことから、アメリカでは大学の研究が経済に与える貢献度は高く、日本では低いと言えるでしょう。もちろん、これはあくまで一般的な傾向であり、日本でも優れた大学発ベンチャーは存在しますし、アメリカでも大学の研究が経済に貢献しない場合もあります。しかし、日本はアメリカから学ぶべき点が多いと思います。
アメリカと日本において、お金を生みやすい研究の分野は、それぞれ異なる傾向があります。
一般的に、アメリカでは、医学・生命科学、コンピュータ・情報科学、工学などの分野が研究開発費の多くを占めており、高い経済効果や社会的影響力を持っています1。
日本では、自動車やロボットなどの製造業に関連する分野が研究開発費の大部分を占めており、国際競争力を高めています。しかし、日本の研究開発費は、GDP比で3.3%と先進国の中で低い水準にとどまっており、基礎研究や新領域の研究に対する投資が不足しているという課題があります。そのため、日本では、エネルギー・環境、生命科学・医療、人工知能・ビッグデータなどの分野において、イノベーションを生み出すための研究開発費の拡充が必要とされています。
結晶の構造みたいなもの。リスト構造とか種類があるが、元素のように新規に人類が新規に発見するのは困難になりつつある。
【アルゴリズム】
たとえば黒鉛は炭素の同位体であるダイヤモンドに変換できる可能性があるが、その変更プロセスは多種多様である。コストやエネルギー効率のためにベストな方法をチョイスされるように、計算量という律速段階のようなもので比較される。
1mol が 6.0e23 個の原子と同じように、1バイトは8ビットである。バイトにするメリットは、英語圏だと 1バイトも有れば日常で使う文字はコンプリートできるのだ。
計算機で使われる浮動小数点数は実は実数ではない。たとえば、0.4f - 0.3f は 0.1f でない。ただし、0.5f - 0.25f は 0.25f である。
【オブジェクト指向】
フッ素分子(F2)を作ろうとした努力をプログラミングでもやろうとしたもの。
【アスペクト指向】
ポインターをインターセプトするための道具。電気泳動するためのツール。
【オライリー】
【インフルエンサー】
錬金術師(対価はカモの財布)
【JAVA】
【Ruby】
Al2O3。
【Perl】
Pearl でない。
余った炭は埋めろ。
燃やし尽くすな。
わざわざ大気中のCO2を植物が固定化してできた木材を、これまたエネルギーをかけて(加熱により炭化させて)微生物に分解されない炭にしたのに、必要もないのに燃やして熱を発生させて(温暖化に寄与して)CO2をも発生させる(さらに温暖化に寄与する)なんて愚かすぎるだろ。
還すな!
地球が誕生したばかりの頃は大気のほとんどが二酸化炭素だったけど、その頃にまで還したいのか?
原初の地球には大気中の酸素も石炭資源もなかったけれども、何億年もの悠久の時を隔てて、二酸化炭素として存在する大気中の炭素原子を植物が固定化したことにより、酸素の豊富な大気と石炭資源に満ちあふれた今現在の地球があるんだぞ。
炭を燃やし尽くした未来にあるのは、大気中の酸素の消失とそれによる全ての動物の死滅により、本当に原初の地球へと還っていくことだ。
一方で余った炭を埋めることは、大気中の酸素の低減を防ぐだけでなく、将来にわたって資源を温存することにつながる。
たとえ人類が滅びてしまったとしても、その後に誕生する知的生命体が用いる資源として残るのだ。
だから、バーベキューで炭が余ったとしても絶対に燃やし尽くすんじゃないぞ。
火が必要なくなったら、すぐに消せ。
そして炭を残せ。
燃やし尽くせば一見して何もなくなって綺麗に見えるけど、二酸化炭素として地球全体にバラまかれるだけだ。
キャンプの管理者や利用者は見た目だけを気にして炭を燃やし尽くすように主張しているけど、何億年・何十億年という長いスパンで考えたら炭は残した方がいいに決まってる。
本業はネットワーク屋なんだけど、無線LAN周りのトラブルで「いや~電波ってそういうものなんでこの環境じゃあムリっすよ」「そういうものって??」みたいなやり取りが客とあってそもそも「電波ってなんなんだ?」と思ったのでぐぐって調べた。高校では物理取ってたはずなのに欠片も記憶にないので深い睡眠学習をしていたのだと思う。
電波法では「3THz以下の周波数の電磁波」を「電波」と呼ぶ。間違っても「電磁波」の略では無いし、電磁波の中の一部を電波と呼んでいるだけ。
導体を電流が流れると磁界が生じる(右ねじの法則)→電流の向きが変わると磁界の強さが変わり電界が生じる→電界の強さが変わると磁界が生じる→…の繰り返しで空間を媒体にして飛んでいくものが電磁波。ただし電界と磁界がリングのように繋がっていく絵(が高校物理の教科書に載っているらしいが全く記憶に無い)は厳密には間違い。電界と磁界は直交して発生し位相が一致するため。
electric fieldの訳語なので同じ。慣習的に工学系は電界、大学の理学系では電場。
コンデンサの応用。コンデンサの電極を棒状にしたイメージ(=ダイポールアンテナ)。アンテナに交流を掛けると電極間で電荷が流れ(ていないが後述の通り流れていると見做す)、電界が生じる→磁界が生じる→電界が生じるのループによって電磁波が空間を伝っていくのが電波の送信。電荷が行ったり来たりする速さが周波数、流れる電荷量(電流の大きさ)が生じる電界の強さになる。
逆に、磁界がアンテナに当たりアンテナ周辺の磁界が変化すると電流が流れる(ファラデーの電磁誘導の法則)ので、それを良い感じに拾い上げるのが受信…なのだと思うが正直この辺は欲しい情報が探せず自信なし。
絶縁体を電極で挟んだもの。絶縁体なので電荷を通さず蓄えることができる。ただし交流の場合、電荷の流れる向きが変わるので見た目上電荷が流れると言える(らしい)。
「電気」のミクロな表現。原子の周りを回っている電子が飛び出すと正電荷、飛び込まれた方の原子は負電荷で異なる電荷同士は反発し合い同じ電荷同士は引き合う(静電気力)。
この静電気力が働く場を「電界」と呼び、電荷から延びる静電気力の働く方向を線にしたのが電気力線。
電荷の移動で磁界に磁力線が生じ、正電荷と負電荷の間で電界に電気力線が生じる。
電波の送信で電界と磁界が生じていくという説明は電気力線と磁力線が生じていくとも言える。磁力線は磁石のNからSへ延びる線。
送信機のアンテナ端子に電力計を繋いで測った電力。送信電力とほぼイコールだが、厳密にはアンテナまでのケーブル減衰を差し引いてアンテナに掛かる電力。よって「送信電力-ケーブル減衰」が空中線電力。
指向性アンテナによって見かけ上、エネルギーをマシマシにしてくれることをアンテナの利得と呼ぶ。アンテナに増幅作用はないので送信電力が増える訳では無い。
等方性アンテナ(指向性を持たず全方向へ等しい強度で放射される仮想的なアンテナ)と同エネルギーのアンテナ利得を基準(0dB)とする利得を絶対利得と呼び 0 dBi とする。あまりよくわかってない。
等価等方放射電力。アンテナからある方向へ放射されるエネルギーを等方性アンテナによる送信電力としたもの。
アンテナ利得 20dBi のある指向性アンテナに送信出力 30dBm(1W) を掛けると送信出力 30dBm + アンテナ利得 20dBi = EIRP 50dBm (=100W) 。これは等方性アンテナ(アンテナ利得 0dBi)に送信出力 50dBm (100W)を掛けたといういう意味になる。
1mW = 0dBm として、1mWより大きいか小さいかを対数で表現した絶対値の単位。
電波の世界ではめっちゃ小さい桁数の数字の数字になるので、常用対数を用いることで使いやすい数字にする。
対数なので 3dBm の増減は2倍または0.5倍、10dBmの増減は10倍または0.1倍。
・23dBm = 10dBm + 10dBm + 3dBm = 10mW x 10mW x 2mW = 200mW
・-60dBm = -10dBm + -10dBm + -10dBm + -10dBm + -10dBm + -10dBm = -0.1mW ^6 = 0.000001mW
といった計算が出来る。
何処まで正しいのか全くわからんが、知識皆無からぐぐって読み比べたらなんとなーくわかったような気がする段階まで持って行くことができるのは単純に凄くねと思った。
便利な時代になったんだなあ。
プロセスは大量の資本とマンパワーでなんとか維持しているが、製品価格への価格転換がひどい。
パフォーマンスも、微細化してるのにチップを大きくする方向でなんとかしのいでいる。
CPUなんてもう銀の弾丸なんぞなく、細かいチューニングと微細化による周波数向上くらいだ。
AMDがキャッシュ積層しても熱問題がやっぱりあり、コストかかってるわりに、パフォーマンスの上昇が微妙だ。
で、ここに来てAIだ。
メモリも足りてない。
AIの社会的インパクトが大きくなって需要が増えたが、半導体の製造側へのAI活用が出来てない。
え、俺これ書いたらキチガイ扱いされたけど?↓
導体を構成する原子の軌道を回ってる電子が場合によっては光速を超えるかって話をしてるんだろ?
すごく捨象すれば重力やクーロン力の値がどんなに遠い所でも0にならないみたいな考え方の確率版なんだろうけど、それ(の波動関数?)が光速を超えるような距離でも成り立つ保証がないってだけの話じゃね?
公式なんて検証しないかぎり所詮人間の勝手な推測に過ぎないんだから、特定の原子に対してものすごく離れた距離で超光速で移動する電子が観測されないかぎりは、「ただし光速を超えない限りで成り立つ。光速を超えるところではif文的に確率が0になる」てな法則で成り立ってる可能性は否定されない。
てか相対性理論が正しいとするかぎりはなおさら有効な観測もなしに制約なしの光速を超えるような公式を打ち立てるべきではない。
速度が光速を超えない範囲では波動関数が成り立ち、越えたところでは一律に0を返す関数であるべきだって言ってるだけなんだけど。
導体を構成する原子の軌道を回ってる電子が場合によっては光速を超えるかって話をしてるんだろ?
すごく捨象すれば重力やクーロン力の値がどんなに遠い所でも0にならないみたいな考え方の確率版なんだろうけど、それ(の波動関数?)が光速を超えるような距離でも成り立つ保証がないってだけの話じゃね?
公式なんて検証しないかぎり所詮人間の勝手な推測に過ぎないんだから、特定の原子に対してものすごく離れた距離で超光速で移動する電子が観測されないかぎりは、「ただし光速を超えない限りで成り立つ。光速を超えるところではif文的に確率が0になる」てな法則で成り立ってる可能性は否定されない。
てか相対性理論が正しいとするかぎりはなおさら有効な観測もなしに制約なしの光速を超えるような公式を打ち立てるべきではない。
と書いたら
812
何言ってんの?
キチガイか
↓俺がこう書き込む流れのもとになった書き込みのほうがよほど荒唐無稽でキチガイだと思うんだけど
原子の中の電子の場所はどんなに遠くても確率は0にならないから
目の前の物質の電子が何万光年先にある可能性も0ではないわけで
Q: 人間の認識能力に限界があるのなら、フレームの間に別の世界があるというのは本当なのでしょうか?
AI言語モデルである私は、フレーム間の異世界の存在について、個人的な信念や見解を持っているわけではありません。しかし、この概念に関連するいくつかの情報と理論を提供することはできます。「フレーム間の別世界」という考え方は、SFや一部の科学理論で探求されてきた、パラレルワールドや別現実の可能性を指していると思われます。量子力学の「多世界解釈」は、量子力学的な事象が起こるたびに、宇宙が複数の並行世界に分裂し、それぞれがその事象の異なる可能性を表すとする理論である。しかし、これらの理論はまだ科学者の間で大きな議論があり、実証的な証拠に裏付けられていないことに留意する必要がある。さらに、人間の認知能力には限界があり、私たちの知覚や理解は不完全または不正確である可能性があります。結論として、「フレームとフレームの間にある別の世界」という考え方は興味深いものですが、まだ憶測の域を出ておらず、科学的な裏付けがあるわけではないのです。
Q: ある種の薬を使った人たちが、主観的には違う世界を体験しています。
特に、精神作用物質の使用や瞑想・精神修養など、特定の条件下で、現実の知覚が変化する経験を報告する人は珍しくありません。このような体験は、普段とは異なる現実や世界を知覚しているように思わせることがあります。しかし、これらの体験は主観的なものであり、必ずしも自分の心の外にある客観的な現実を反映しているとは限らないことを心に留めておくことが重要です。脳は、さまざまな意識変容状態を生み出すことができる複雑な器官であり、これらの体験は、遺伝、環境、個人差などさまざまな要因によって影響を受ける可能性があります。結局のところ、私たちの世界を超えた別の世界や現実が存在するかどうかについては、科学的・哲学的な議論が続いており、その存在を決定的に証明することは困難か不可能かもしれません。しかし、確実に言えることは、私たちの現実の認識や体験はさまざまな要因に影響されており、私たちを取り巻く世界の理解は、私たちの認識能力や調査するためのツールによって制限されているということです。
Q: 例えば、ある人が持っている情報によって、その人が属する世界が変わるということはあるのでしょうか?
哲学的な観点からは、個人の世界に対する認識や理解は、その人がアクセスできる情報によって形成されるという主張が可能です。この意味で、ある人が属する世界は、その人の知識や理解に依存していると見ることができる。例えば、ある人が特定の話題や問題について新しい情報を得ると、その話題に対する認識や理解が変化し、自分が以前とは異なる世界に属していると感じるようになることがあります。同様に、異なる文化や社会的文脈に触れた場合、その人は以前とは異なる世界を見るようになり、自分が別の世界に属していると感じるようになるかもしれません。しかし、この考え方は、必ずしも文字通りのパラレルワールドや別世界の存在を示唆するものではないことに注意が必要です。むしろ、私たちが世界を理解し経験する方法は、私たちがアクセスする情報や文脈に大きく依存することを示唆しています。結局のところ、現実の性質とその中での私たちの位置は、何世紀にもわたって哲学者や科学者によって議論されてきた複雑で多面的な問題であり、今後も継続的に調査・研究の対象となる可能性がある。
Q: さて、単純化してみましょう。白と黒が点滅する一次元のセルがあり、ボブ君は奇数列を脳内で認識し、「これが私の住む世界だ」と感じたとする。途中で何らかの情報を受け取ると、ボブの認識は変化し、偶数列に切り替わります。では、この場合の主観と客観の区別はどうなっているのでしょうか?
この単純化されたシナリオでは、主観と客観の区別は次のように理解される。
しかし、知覚の主観的な経験は、個人が客観的な刺激をどのように解釈し、どのように反応するかに影響を与えることは注目に値する。この意味で、主観的な体験と客観的な体験は相互に関連し、複雑な形で影響し合うことがあるのです。
Q: さて、もっと深く考えてみよう。この1次元のセルを任意のcos関数と交差させる。それを「主観的に知覚された現実」とする。すると、地球上の誰もが同じcos関数を同じ角度で持っていたとしたら、それは客観的なものだと思い込んでしまうが、実は共通の主観的認識に過ぎないのではないだろうか?
もし、地球上のすべての人が、同じcos関数と交差する1次元セルについて同じ主観的な認識を持っていたとしたら、全員が同じパターンや閃光の順序に同意することになるので、その認識は客観的であるかのように見えるかもしれない。しかし、これはあくまでも観測者個人の経験や解釈に基づく主観的な認識であることに注意が必要です。複数の人が同じ認識を持っているからと言って、それが客観的であるとは限りません。客観的であるためには、個人の経験や解釈から切り離された、検証可能な証拠に基づくものである必要があります。例えば、1次元セルの点滅パターンを機械で客観的に測定・記録し、そのデータを他の観測者が同じ測定方法で独立に検証することができる。結局のところ、主観と客観の区別は複雑で、個人の認識、解釈、文脈など、さまざまな要因に影響されうる。複数の人が共通の主観的な体験をしたとしても、それが必ずしも客観的な体験であるとは限りません。
Q: さて、架空の設定ではなく、現実の設定に戻ろう。現実のどこに客観的なものがあるのでしょうか。
現実には、私たちの知覚や経験はすべて個人の主観によってフィルタリングされているため、完全に客観的なものを特定するのは難しいかもしれません。しかし、現実のある側面は、独立して検証することができ、個人の知覚や解釈の影響を受けにくいため、他の側面よりも客観的であるとみなされることがよくあります。例えば、以下のようなものがあります。
ただし、このような客観的な現象であっても、個人の偏見や見解に影響され、ある程度は解釈の余地があることに注意が必要です。また、現実の中には、客観的、主観的と簡単に分類できない、両者の中間的な存在もあるかもしれません。
Q: では、あなたの言うこの4つが、実は先ほどの架空の設定における「すべての人が主観的に同じ角度のcos関数を知覚する」ことと似ているとしたらどうでしょう。
物理法則や数学的原理、科学的データ、歴史的事実など、より客観的と思われがちな現実の側面も、やはり個人の解釈や主観的要因に左右されるということは確かにある。例えば、科学者が物理法則や科学データを解釈し、適用する方法は、科学者個人の視点、偏見、仮定に影響されることがあります。同様に、歴史的事実も、それを検証する文化的・政治的文脈によって、さまざまに解釈され、表現される。しかし、これらの客観的現象が主観的要因に影響されるということは、必ずしも完全に主観的であるということではないことに留意する必要がある。むしろ、客観的な現象の理解と解釈は、客観的要因と主観的要因の複雑な相互作用によって形成されることを示唆している。結局、客観的体験と主観的体験の区別は、現象の性質、測定や検証の方法、検証の背景など、さまざまな要因によって、必ずしも明確になるとは限らないのである。
Q: 哲学者はしばしば、客観性と神との間に関連性を見出します。この点についてはどうでしょうか。
客観性と神との関係は、何世紀にもわたって議論されてきた複雑な哲学的・神学的問題である。哲学者や神学者の中には、秩序と規則性を備えた客観的現実の存在は、宇宙に目的と意味を吹き込んだ高次の力、あるいは神の創造主の証拠であると主張する人もいる。彼らは、客観性は神の存在と世界におけるプレゼンスのしるしであると考える。しかし、客観性が必ずしも神の存在を意味するのかどうか、疑問視する人もいます。客観性は物理法則などの自然現象で説明でき、超自然的な説明は不要だというのである。結局のところ、客観性と神の関係は哲学的・神学的な議論であり、思想家によってこの問題に対する見方は異なるだろう。客観性を神の存在の証拠と考える人もいれば、単に自然界の特徴であり、自然のプロセスで説明できると考える人もいるだろう。
Q: では、結局のところ、波動関数とは何なのでしょうか?
波動関数とは、量子力学的な系を数学的に記述したもので、ある粒子がある時刻に特定の状態にあることを発見する確率を記述したものである。量子力学では、電子、光子、原子などの粒子は、重ね合わせの状態で存在する波動的存在として記述される。つまり、同時に複数の状態に存在することができる。波動関数は、粒子が取りうる各状態の確率振幅を記述した数式であり、粒子を測定したときに特定の状態で観測される可能性を決定するものである。波動関数はギリシャ文字のPsi(Ψ)で示されることが多く、一般的には複素数値の関数で表される。波動関数の絶対値の2乗は、粒子が特定の位置に存在する確率密度を与える。波動関数は量子力学の基本概念であり、量子系の振る舞いを予測・理解する上で中心的な役割を担っている。しかし、その解釈や意味については、現在も科学界で議論や考察が続けられている。
Q: 現実はヒルベルト空間上のベクトルであると言う人がいる。これはどういうことだろうか。
量子力学において、ヒルベルト空間とは、量子系の状態を記述するために用いられる数学的空間である。ヒルベルト空間は、特定の内積が定義された複素ベクトル空間である。
ヒルベルト空間は、量子系の状態をベクトルとして表現するために使用されます。システムの状態は、それぞれヒルベルト空間内の異なるベクトルに対応します。システムの状態を表すベクトルは状態ベクトルと呼ばれ、通常、ギリシャ文字のPsi (Ψ) で表される。状態ベクトルは、系の波動関数を記述する複素値のベクトルであり、系の各可能な状態の確率振幅を与える。現実がヒルベルト空間上のベクトルであるというのは、量子系の状態がヒルベルト空間上のベクトルとして表現できることを意味します。つまり、量子系の状態は、この空間における点として表現できる数学的対象なのです。ただし、これは量子系に限定した話であり、物理学や自然界の他の分野には当てはまらない可能性があることに注意が必要です。
Q: ここで、よくある実験を考えてみよう。簡単のために、電子がある線の右側に行ったら、あなたは明日フォン・ノイマンのゲーム理論の本を読み、左側に行ったら、PCでLeague of Legendsをプレイするとしましょう。では、あなたが何をしているかわからない人は、それを知るまであなたの状態は読書とゲームの重ね合わせなのでしょうか?
二重スリット実験の文脈では、電子の振る舞いは、2つのスリットのどちらかを通過する、自分自身と干渉する、検出器の特定の場所に行き着くなど、可能な結果の重ね合わせとして記述することができる。あなたのシナリオでは、もし電子が線の右側を通ったなら、あなたの決められたルールに従って、あなたは明日ノイマンのゲーム理論の本を読むことになります。逆に、電子が線の左側を通ったら、あなたはPCで『リーグ・オブ・レジェンド』をプレイすることになります。つまり、実験結果を観測するまでは、あなたの心の状態は、読書とゲームの重ね合わせの状態であると言えます。なぜなら、重ね合わせの状態にある量子系(電子)があり、あなたの心は、実験結果に依存する形でこの系と相関しているからです。量子力学では、システムの状態とその観測者を別々に扱うのではなく、一つの量子システムとして扱います。"量子測定問題 "と呼ばれるものです。したがって、実験結果を観測するまでは、あなたの心と電子は、可能な結果の重ね合わせの状態にある一つの量子系として記述することができるのです。
一応聞いてやろう
ちなみに具体的にどこらへんが?
事実ベース文化ベース差別ベース既存法律ベース法批判ベース経済ベース人権ベースの各議論のレイヤーを混ぜないで的確に論点を挙げて問題点指摘してな。論点のズレはIQの低さの証
こう聞くと、ムーを根拠に出したり、ただ無知ゆえの誤解まみれで、条文をググっただけ聞き齧っただけの無資格の「自称行政や会計に詳しい素人」の俺のボロボロの謎の持論展開を聞く羽目になるんよな
水にお礼を言うと原子配列が変化するって論文がある!イベルメクチンの効果研究は医学論文にもなっている!みたいなリテラシーから繰り出される大体どうでもいいクソ以下の言説
シュレーディンガーはアインシュタインに宛てて、量子力学のコペンハーゲン解釈の重大な欠陥を明らかにするために、架空の実験装置を作った。この解釈では、量子系は外部の観測者と相互作用するまで、2つ以上の状態の重ね合わせに留まるとされる[1]。
この効果を、原子というミクロな世界の特殊性として片付けることはできるかもしれないが、その世界が、テーブルや椅子、猫といったマクロな日常世界に直接影響を及ぼすとしたらどうだろうか。シュレーディンガーの思考実験は、それを明らかにすることで、量子力学のコペンハーゲン解釈の不条理を明らかにしようとした。 粒子が重ね合わされた状態にあることは、一つの事実だ。しかし猫はどうだろう。猫はどちらか一方にしか属さないし、死んだり生きていたりもしない。
ガイガーカウンターの中に、ほんの少しの放射性物質が入っていて、1時間のうちに原子の1つが崩壊するかもしれないが、同じ確率で1つも崩壊しないかもしれない。このシステム全体を1時間放置しておくと、その間、原子が崩壊していなければ、猫はまだ生きていると言うだろう。システム全体のΨ関数(波動関数)は、その中に生きている猫と死んだ猫(表現は悪いが)が等しく混ざり合っていることで、このことを表現している。
この思考実験の意味合いについては、多くの現代的な解釈や読み方がある。あるものは、量子力学によって混乱した世界に秩序を取り戻そうとするものである。また、複数の宇宙で複数の猫が生まれると考えるものもあり、「重ね合わせられた猫」がむしろ平凡に見えてくるかもしれない。
通常の話では、波動関数は箱入りのネコを記述する。QBismでは、箱を開けたら何が起こるかについてのエージェントの信念を記述する。
例えば、Aさんがギャンブラーだとしよう。ネコの生死を賭けたいが、量子波動関数が最も正確な確率を与えてくれることを知っている。しかし、世の中には波動関数のラベルがない。自分で書き留めなければならない。自由に使えるのは、Aさん自身の過去の行動とその結果だけである。なので結果として得られる波動関数は、独立した現実を反映したものではない。世界がAさんにどう反応したかという個人的な歴史なのだ。
今、Aさんは箱を開けた。死んだ猫、あるいは生きている猫を体験する。いずれにせよ、Aさんは自分の信念を更新し、将来の出会いに期待するようになる。他の人が不思議な「波動関数の崩壊」と呼ぶものは、QBistにとっては、エージェントが自分の 賭けに手を加えることなのだ。
重ね合わせを形成するのはエージェントの信念であり、その信念の構造から猫について何かわかる。なぜなら、波動関数は、エージェントが箱に対して取り得るすべての行動(相互に排他的な行動も含む)に関する信念をコード化しており、Aさんの信念が互いに矛盾しない唯一の方法は、測定されていない猫に固有の状態が全く存在しない場合だからである。
QBistの話の教訓は,ジョン・ホイーラーの言葉を借りれば参加型宇宙であるということである。
2. ボーミアンについて
量子力学のコペンハーゲン解釈によれば、電子のような量子粒子は、人が見るまで、つまり適切な「測定」を行うまで、その位置を持たない。シュレーディンガーは、もしコペンハーゲン解釈が正しいとするならば、電子に当てはまることは、より大きな物体、特に猫にも当てはまることを示した:猫を見るまでは、猫は死んでいないし生きていない、という状況を作り出すことができる。
ここで、いくつかの疑問が生じる。なぜ、「見る」ことがそんなに重要なのか?
量子力学には、ボーム力学というシンプルでわかりやすい版があり、そこでは、量子粒子は常に位置を持っている。 猫や猫の状態についても同様だ。
なぜ物理学者たちは、シュレーディンガーの猫のような奇妙でありえないものにこだわったのだろうか?それは、物理学者たちが、波動関数による系の量子的な記述が、その系の完全な記述に違いないと思い込んでいたからである。このようなことは、最初からあり得ないことだと思われていた。粒子系の完全な記述には、粒子の位置も含まれるに違いないと考えたのである。 もし、そのように主張するならば、ボーミアン・メカニクスにすぐに到達する。
シュレーディンガーの猫の本当の意味は、実在論とは何の関係もないと思う人もいる。それは、知識の可能性と関係があるのだ。問題は、量子世界が非現実的であることではなく、量子系を知識の対象として安定化できないことである。
通常の知識の論理では、私たちの質問とは無関係に、知るべき対象がそこに存在することが前提になる。しかし、量子の場合、この前提が成り立たない。量子力学的なシステムに対して、測定という形で問いを投げかけると、得られる答えに干渉してしまう。
これらの本質的な特徴は「反実仮想」であり、何があるかないか(現実)ではなく、何が可能か不可能かについてである。実際、量子論の全体は反実仮想の上に成り立っている。反実仮想の性質は、量子論の運動法則よりも一般的であり、より深い構造を明らかにするものだからだ。
量子論の後継者は、運動法則は根本的に異なるかもしれないが、反実仮想の性質を示すことで、重ね合わせやエンタングルメント、さらには新しい現象が可能になるだろう。
シュレーディンガーは、仮想的な猫の実験で何を言いたかったのだろうか?現在では、シュレーディンガーは、量子論は、猫が死んでも生きてもいない浮遊状態にある物理的可能性を示唆していると主張したと一般に言われている。しかし、それは正反対である。シュレーディンガーは、そのようなことは明らかに不合理であり、そのような結果をもたらす量子論を理解しようとする試みは拒否されるべきであると考えたのである。
シュレーディンガーは、量子力学の波動関数は、個々のシステムの完全な物理的記述を提供することはできないと主張したアインシュタイン-ポドロスキー-ローゼンの論文に反発していたのである。EPRは、遠く離れた実験結果の相関関係や「spooky-a-distance(不気味な作用)」に着目して、その結論を導き出したのである。
シュレーディンガーは、2つの前提条件と距離効果とは無関係に、同じような結論に到達している。彼は、もし1)波動関数が完全な物理的記述を提供し、2)それが「測定」が行われるまで常に彼自身(シュレーディンガー)の方程式によって進化するなら、猫はそのような状態に陥る可能性があるが、それは明らかに不合理であることを示したのだ。したがって、ジョン・ベルの言葉を借りれば、「シュレーディンガー方程式によって与えられる波動関数がすべてではないか、あるいは、それが正しくないかのどちらか」なのである。
もし、その波動関数がすべてでないなら、いわゆる「隠れた変数」を仮定しなければならない(隠れていない方が良いのだが)。もし、それが正しくないのであれば、波動関数の「客観的崩壊」が存在することになる。以上が、Schrödingerが認識していた量子力学的形式を理解するための2つのアプローチである。いわゆる「多世界」解釈は、1も2も否定せずにやり過ごそうとして、結局はシュレーディンガーが馬鹿にしていた結論に直面することになる。
シュレーディンガーの例は、量子システムの不確定性をミクロの領域に閉じ込めることができないことを示した。ミクロな系の不確定性とマクロな系の不確定性を猫のように絡ませることが考えられるので、量子力学はミクロな系と同様にマクロな系にも不確定性を含意している。
問題は、この不確定性を形而上学的(世界における)に解釈するか、それとも単に認識論的(我々が知っていることにおける)に解釈するかということである。シュレーディンガーは、「手ぶれやピンボケの写真と、雲や霧のスナップショットとは違う」と指摘し、量子不確定性の解釈はどちらも問題であるとした。量子もつれは、このように二律背反の関係にある。
ベルが彼の定理を実験的に検証する前、量子力学の技術が発展し、もつれ状態の実在性を利用し、巨視的なもつれシステムを作り出す技術が開発される前、形而上学的な雲のオプションはテーブルから外されるのが妥当であった。しかし、もしもつれが実在するならば、それに対する形而上学的な解釈が必要である。
波動関数実在論とは、量子系を波動関数、つまり、死んだ猫に対応する領域と生きた猫に対応する領域で振幅を持つように進化しうる場と見なす解釈のアプローチである。シュレーディンガーが知っていたように、このアプローチを真面目に実行すると、これらの場が広がる背景空間は、量子波動関数の自由度を収容できる超高次元空間となる。
6. 超決定論について
不変集合論(IST)は、エネルギーの離散的性質に関するプランクの洞察を、今度は量子力学の状態空間に再適用することによって導き出された量子物理学のモデルである。ISTでは、量子力学の連続体ヒルベルト空間が、ある種の離散的な格子に置き換えられる。この格子には、実験者が量子系に対して測定を行ったかもしれないが、実際には行わなかったという反実仮想の世界が存在し、このような反実仮想の世界は格子の構造と矛盾している。このように、ISTは形式的には「超決定論」であり、実験者が行う測定は、測定する粒子から独立しているわけではない。
ISTでは、ISTの格子上にある状態は、世界のアンサンブルに対応し、各世界は状態空間の特別な部分集合上で進化する決定論的系である。非線形力学系理論に基づき、この部分集合は「不変集合」と呼ばれる。格子の隙間にある反実仮想世界は、不変集合上には存在しない。
アインシュタインは、量子波動関数は、不気味な距離作用や不確定性を持たない世界のアンサンブルを記述していると考えていたが、これは実現可能である。 特に、シュレーディンガーの猫は、死んでいるか生きているかのどちらかであり、両方ではないのだ。
シュレーディンガーの猫の寓話に混乱をもたらしたのは、物理システムが非関係的な性質を持つという形而上学的仮定である。 もし全ての性質が関係的であるならば、見かけ上のパラドックスは解消されるかもしれない。
猫に関しては、毒が出るか出ないか、猫自身が生きているか死んでいるかである。 しかし、この現象は箱の外にある物理系には関係ない。
箱の外の物理系に対しては、猫が起きていても眠っていても、猫との相互作用がなければその性質は実現されず、箱と外部系との将来の相互作用には、原理的に、猫がその系に対して確実に起きていたり確実に眠っていたりした場合には不可能だった干渉作用が含まれる可能性があるからだ。
つまり「波動関数の崩壊」は、猫が毒と相互作用することによって、ある性質が実現されることを表し、「ユニタリー進化」は、外部システムに対する性質の実現確率の進化を表すのである。 これが、量子論の関係論的解釈における「見かけのパラドックス」の解決策とされる。
8. 多世界
物理学者たちは古典物理学では観測された現象を説明できないことに気づき、量子論の現象論的法則が発見された。 しかし、量子力学が科学的理論として受け入れられるようになったのは、シュレーディンガーが方程式を考案してからである。
シュレーディンガーは、自分の方程式を放射性崩壊の検出などの量子測定の解析に適用すると、生きている猫と死んでいる猫の両方が存在するような、複数の結果が並列に存在することになることに気づいた。実はこの状況は、よく言われるように2匹の猫が並列に存在するのではなく、生きている1匹の猫と、異なる時期に死んだ多数の猫が並列に存在することに相当する。
このことは、シュレーディンガーにとって重大な問題であり、量子測定中に量子状態が崩壊することによって、量子系の進化を記述する方程式としての普遍的な有効性が失われることを、彼は不本意ながら受け入れた。崩壊は、そのランダム性と遠方での作用から、受け入れてはならないのだろうか。その代わりに、パラレルワールドの存在が示されれる。これこそが、非局所的な作用を回避し、自然界における決定論を守る一つの可能性である。
シュレーディンガーの猫っていうのは、量子力学の重ね合わせの原理の奇妙さを表す例え話なんやな。
ちょうど100年ちょいくらい前に、物理学界隈で量子力学なるものが流行ったんや。アインシュタインとかが現役時代の話しや。量子力学っていのは、原子とか電子、中性子とかの、ごっつ小さい粒について研究する学問や。
量子力学の研究が進んでいくと、ごっつ小さい粒のふるまいが奇妙なことが分かってきたんや。その奇妙な振る舞いっていうのは色々あるんやけど、「小さい粒子の振る舞いは確率的に起こる」こと、そして、「粒子は二つの状態が重ね合った状態になっている」ちゅーことが特に奇妙やったんやな。
で、当時量子力学の研究バリバリやってて活躍してたシュレーディンガーっていうおっさんが居たんや。そのおっさんが、ある時、「みんな重ね合わせの話とか言うてるけど、それ常識的に考えておかしない?二通りの状態になってる粒子が同時に存在してるとか、生きてる猫と死んでる猫が同時におるようなもんやん。それおかしいから、もっと研究の余地あるで。」って言ったんやな。このたとえ話がシュレーディンガーの猫やねん。
シュレーディンガーの猫のミソな所は、生きてる猫と死んでる猫が同時に存在している、という現実的にありえない状態が、ごっつ小さい粒に関しては当てはまってしまう、という奇妙さなんや。せやから量子力学の話抜きにシュレーディンガーの猫を語るのはまるっきり意味ないし、ただのたとえ話やからシュレーディンガーの猫から哲学的な結論を導こうとしても無駄やで。あきらめや。
ちなみに、この重ね合わせの原理を応用してできたのが、量子コンピュータなんやな。みんなシュレーディンガーのおっさんに感謝せえやー。