はてなキーワード: 行方不明とは
30 :ソーゾー君:2014/03/08(土) 20:00:50 ID:djYafCIE
地村と蓮池は単なる駆け落ち。
で・・当時は普通に北朝鮮と通商してたから北朝鮮行きの船なんか腐るほどある。
まー赤十字=統一協会=人権団体に相談して支援をしてもらうが絶対条件だなどな・・
「分かりやすく言うと留学です。統一協会系の教育機関に徹底的に
中学になって素行が悪くなって家出を繰り返していたから将来を悲観したのでしょうね・・」
「良くあることです・・未成年の行方不明なんか良くあることでしょ?そう言うことです。」
ね・・少し考えたら簡単でしょ?w
良くかあることなのですねw
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/movie/10043/1388615873/
747 :朝まで名無しさん:2012/02/08(水) 16:49:02.66 ID:qJnrIviC
大分の事件酷い…実の母でも娘を裸で遺棄するんだね
748 :朝まで名無しさん:2012/02/10(金) 03:07:11.89 ID:/CmNmq2i
でも一つ間違えたら豊明のゲーセン駐車場で寝泊りしてた気弱なオッサンや
このスレの青年みたいな人間が今頃法廷に立たされていたかも知れないんだよな。
あー、やだやだw
749 :朝まで名無しさん:2012/02/10(金) 11:23:05.12 ID:wmbk0tv1
でその~年後偶然幼児の白骨遺体が発見されDNA鑑定が行われると
のスレの事件のように一歩間違えなくて本当によかったね
750 :朝まで名無しさん:2012/02/10(金) 13:38:15.22 ID:ZmNOk542
幼児がまっぱで捨てられてた場合は変質者だけでなく近親者の可能性も含めて疑わないとあかんてわけだ
何かどこかの事件みたいだな
751 :朝まで名無しさん:2012/02/15(水) 10:42:09.46 ID:9JLTeM+Y
そうだね。
もちろん、親が悪くないとは言いません。
小学校を卒業した子供が、その日中に連絡なしで帰ってこない時点で
やはり、親としては学校や警察に連絡を取るべきだったと思います。
という言葉は言い訳でしかないし、私は親としての管理責任能力の欠如を指摘したいです。
しかしそうは言っても、
そのような家で育った生徒だから
といって、不登校に対して適切な指導を行っていない学校側にも問題があります。
この学校の生徒は、昔は少し世帯収入が平均より下回ったものが多く
いわゆる「荒れた」学生が多くいました。
そこで、今の校長が抜擢されその荒れた学校を改革していったのです。
地域ではあの中学の改善っぷりに、教師たちに尊敬の眼差しを送っていました。
けれども、これは教師の力ではなく地域の住民の質が変わったから、なのです。
生徒たちを威圧して指導するようになった。暴力だって厭わない、それが物理的だって精神的だって。
・・・・
まとまりのない文章になってきたので、この辺にしておきましょう。
私が言いたいのは、
ということです。
薬によって性欲をなくすのが「本質的」な解決だとは思わないな。それは「痴呆老人が徘徊しないように縛っておけば良い・鎮痛剤を打って寝かせておけばいい」というのと一緒だろう。あるいは障害者の性に関しても似たようなこと。
また、ホロコーストとかの人種差別とセックスに関する話は違うだろう。(男の)性欲は(普通は)有限だし、性欲は生物として本来的な欲望だ。価値観の問題を別として、単純な事実として、男と女がセックスして子供を産まなきゃ種が存続しないのだから。
【徘徊老人ホイホイ】老人ホーム前に偽バス停を設置→徘徊老人が爆釣れ 行方不明防止に有効
http://fesoku.net/archives/7013434.html
↑こんな話もあったけど、やっぱりなるべく本来持った欲望や衝動をある程度は尊重しつつ、それを害の無い方向へ向けて発散する、というのが一番じゃないかな。
田舎の人とは「のんびり」していて流行りにも疎いと、基本的には思われているらしい。
でもそんなうちの田舎でも、ADSLや携帯電話の普及は早かった。
特に携帯電話は、遭難、急病、事故などの際の緊急連絡用という需要があったからだ。
極論かもしれないが、都市部では一時的に通信機器から隔離されても、深刻な孤立状態に陥ることはない。
交番、書店の地図、駅など、頼りになるものがいくつもあるからだ。
林道での行方不明者の発生が防災無線でアナウンスされることもままある。
万一の時、周囲の目をあてにできないのだ。
だから、脱・現代技術のようなムーブメントが起こるのは、いつも都市部からだ。
都市という、巨大な現代技術の内部で生活しているからこそ、個人が技術から距離を置いても生活できるのだ。
その様子は、田舎の人にとってどこか滑稽で、冷めて映る。
1.本作の主題?
大々的に宣伝されていたこの作品の主題は「家族の絆」であった。「時をかける少女」「サマーウォーズ」で、揺れ動く思春期の心情を細やかに描き出してきた細田守監督が、特殊な事情の母子家庭の波瀾万丈を通して、母と子の結びつきを表現する王道の家族劇であろう、と私は予想していた。
しかし実際には、冒頭でおおかみおとこと主人公の花が「哲学」の講義をきっかけに出会うことに示されているように、家族それぞれの社会的承認やアイデンティティの確立といった「生き方」への問いかけが大きなウェイトを占めている。いずれ花と結ばれ父になるおおかみおとこは、人間社会にひっそりと適応しながら、大学にもぐりソクラテスの「無知の知」についての講釈に耳を傾けていた。彼自身の特殊性と人間社会との融和点、すなわち「自分は何者なのか」を彼はまだ知らない。もっともそれは花も同様である。彼らが「真に何者であるのか」が判明するのは、その後の人生の中で、主観的にも客観的にもそうだと考えられる地点に辿り着いた時である。
13年という長い月日を描く作品であるため、一時期に割ける時間は限られている。花は前半の少ない上映時間の中で、おとぎ話のようなおおかみおとことの恋と別離から、残された二人の子どもの育児という生々しい現実へと転がり進んでいくこととなる。わざわざアニメーションという媒体で母子家庭の奮闘記を描くのであれば、母子家庭の「リアリティ」をどれだけ表現できるかが生命線となる。そのためにも花は一刻も早くおとぎ話から抜け出す必要があった。
しかし出産も子育ても、半ばおとぎ話の状態からなかなか抜け出せずに進んでいく。その一つの要因として、花がすでに片親の父を亡くしている(母は離婚、別居済み)、という極めて日本のアニメ文化的な手軽で便利な設定の中にいたことにある。したがっておとぎ話のような恋の終わりと厳しい現実の到来を告げるはずの「親との葛藤」のシーンはない。東京に下宿させていた女子大生の娘が、フリーター(?)の狼に食われて子どもを作り大学を辞め、しかも(おおかみこどもであることを知られるわけにはいかないため)全く子どもに会わせようとしないなど、並の親なら勘当ものである。両親が既にいないにしても、親戚や最悪の場合行政施設の関係者などの後見人や身元引き受け人もいない、では未成年の大学生が家を借りるにも何をするにも無理が出てきてしまう。しかし花は劇中ではほとんど言及されることのない両親不在設定を免罪符に、自由におおかみおとこと結ばれ雪を出産し、一年後雨を生んだ後におおかみおとこと死別するまで、誰と葛藤することもなく擬似的な新婚生活を満喫するのである。しかも医者にもかからず独学で自然分娩を行い、子ども達も一度も医者には連れて行っていないなど、事情はわかるが少し無理のある状況が続く。リアリティのある家族を描くためには、例え核家族であったにせよリアリティのある一族が描けなければならない。そしてそのためには、リアリティのある社会が描けなければならない。しかし作品の土台となる花の周りの人々との繋がり(親族関係、社会関係)が抜け落ちた「おとぎ話」のまま、二人はほとんど社会から孤立して描かれている。
親族や後に移住する田舎社会の人々に、意を決しておおかみおとこの血を引くこどもたちの秘密を打ち明けていたなら、物語は一風変わった方向へ進んでいただろう(行政や医療組織に打ち明けていたなら、悲しい話になってしまうかもしれないが)。しかしこれは二者択一の選択である。おおかみこどもの秘密を守り通そうとするなら、一家は孤立するしかない。秘密を打ち明けてある範囲の人々を味方に引き込んでいたなら、出産、子育て環境のリアリティはある程度担保されるが、おおかみこどもを受け入れる周りの人々、というまたまた別種のおとぎ話的な絵が出来上がってしまう。この部分のリアリティを保つのは並大抵のことではない。本作は前者、おおかみの本性を隠し通すことで、雨と雪の存在のリアリティを保つ代わりに、一家を孤立させて社会生活との折り合いのリアリティを失うことを選んでいる。
3.本作の根底を貫く3つの近代的概念:①選択権としての自由観
社会から孤立した者を待ち受ける宿命は、社会からの排除である。雨と雪を隠し続け、医者も児童相談所も拒み続ける花は、居場所を失い田舎への引っ越しを決意する。この辺りから見え隠れし始め、映画のクライマックスで明らかになるのが、取捨選択の権利としての自由を尊ぶ近代的な自由観である。花が田舎へ引っ越した主な理由は、人目を避けるためでもあるが、雨と雪が「人間か、おおかみか、どちらでも選べるように」したいということが大きなウェイトを占めている。そして学校や田舎の人々に対して秘密を守りながら姉弟は大自然の中で育ち、おてんばの雪と引っ込み思案の雨という当初の関係性を逆転させ、最終的に雪は人間として、雨はおおかみとして生きていくことを決意する、と読み取れるあたりでこの作品は幕を閉じる。二人の姉弟が(そして母が)どのような生き方を「選ぶ」のか、というアイデンティティの「選択」が事実上の主題となってくるのである。つまり、二人のおおかみこどもは、人間として生きる事も、おおかみとして生きる事も可能であり、その選択権を自分自身で持っているという考え方が根底に存在している。こうした権利概念や自由観は、歴史の悲劇から人類がようやく辿り着いた価値ある理念ではあるが、問題が無いわけではない。
「おおかみであること」はファンタジーではあるが、現実の例えとして捉えることも可能である。元来日本語の慣用句でも「一匹狼」などのように「狼」は単に動物を指すだけではなく、社会の周縁に生きるしかないアウトサイダーを指す言葉でもある(押井守監督の『人狼』に描かれているように)。そこから暴力的な存在という意味合いを除外して考えれば、「おおかみであること」は何らかの理由から迫害され、多数派と融和できない少数派に「非自発的に」刻まれた「抑圧のスティグマ」である。先の近代的自由観に基づけば、我々はあらゆることを強制されず、自発的に選択する権利としての自由を何よりも大事なものとして持っているが、実は選択していないにもかかわらず押し付けられているものもたくさんある。我々は男性として、あるいは女性として生まれることを選んだ覚えはなく、この国、この家族の元に生まれることも選んではいない。選択の自由を行使する以前に、強制的に親や社会から色々なものをもらって今の私たちは存在している。こうした、我々が意図せずに所属しているアソシエーションから抜け出すことは、それが被抑圧的アソシエーションであればなおさら、多大な困難を伴う。
いわば「人間か、おおかみか」どちらかの生き方を選べ、というのは私に対して「日本人か、男性か」どちらかの生き方を選べと言うのに等しい。日本人であることも、男性であることも、やめること自体は可能であるが、多大な葛藤と苦労を伴うし、何より大半の日本人は日本人であることをやめたがっているわけではなく、大半の男性は男性であることをやめたがっているわけでもない。当然私は「日本人男性」として生きざるを得ないが、それを嫌がっているわけではない。「おおかみであること」は、私にとって「日本人であること」以上に雨と雪の二人のアイデンティティに深く絡み付いている。彼らは望んで「おおかみこども」として生まれたわけではなく、そして何より自己の不可分の半面としての「おおかみであること」を辞めることは不可能だからである。逆もまた然り。雨と雪にとっては、「人間であること」も捨てることはできない。したがって大多数の人間が、国籍や人種などの複数の非自発的アソシエーションに従属して生きざるを得ない以上に、彼らは「おおかみにんげん」としてしか生きられないはずである。人間としてだけ生きていてもおおかみの本能は満たされず、おおかみとしてだけ生きていても人間の知性は満たされない。一方を選択して他方を捨てることでは、幸福な真の自由は訪れない。というのも、私を含め大半の日本人男性が、日本人であることや男性であることを嫌がったりしておらず、むしろそれを誇りに思うことも時にはあるように、雨と雪も本心から「おおかみであること」あるいは「人間であること」を嫌い、やめたいと感じているわけではない。真相は逆である。雨と雪に限らず「抑圧のスティグマ」を持つ人間が求めているのは、それを捨て去ることではなく、周囲が抑圧的な処遇をやめ、そのスティグマが価値あるものとして社会的に承認されることである。黒人や女性は差別されるから黒人であること、女性であることをやめたがっているわけではない。彼、彼女らが求めているのは、差別をやめること、すなわち黒人であることや女性であることを誇らしく思えるような、他の人々と対等の処遇である。自分の非自発的なアイデンティティを差別や迫害を理由として捨て去ることは、雪がおおかみに変身することを必死に避けていたように、それ自身当人にとって新たな大きな抑圧となるだけであり、それを捨て去ることを強制することもまた、抑圧からの真の救済とはなりえない。
「人間であること」のみを選択した雪は、今後もおおかみの衝動に苦しめられ続けるだろう。「おおかみであること」のみを選択した雨は、おおかみとして生きるだけでは無力であり、人間から森を守ることはできないことにいずれ気がつくだろう。したがって雨も雪も、「人間であること」か「おおかみであること」のいずれかを選ぶ権利としての自由を持つ、のではなく、彼らはどこまでも「おおかみにんげん」として生きることを運命づけられている。そのため彼らを幸福な真の自由へと導くのは一面を捨て去る選択ではなく、両面を受け入れる承認、すなわち抑圧されることなくありのままの「おおかみにんげん」として生きていくことを人々、社会から認められることでなければならない。そしてその基点にして起点となるのは、二人の秘密を知る唯一の存在、母である花のはずだった。しかし雨と雪は選択権としての自由を行使し、「人間であること」、「おおかみであること」の一方を選んで他方を捨て去る。この彼らの選択は同時にもう一つの取捨選択となって現れている。それは、特に雨に顕著なように「個人」としての自己の生き方を選択する代償として、それまで所属していた「全体」としての家族を捨て去っていくことである。
取捨選択の権利としての自由観には、この近代的な自由観と表裏一体になって形成され、社会に受け入れられてきたある考え方が寄り添っている。取捨選択の権利としての自由は、何に帰属しているのかを考えればその考え方も見えてくる。「生き方」の選択の権利は、国家にあるのでも何らかの組織にあるのでも、両親にあるのでもない。近代的な自由は常に「個人」の手の内にある。「個人」は選択の権利を持ち、それを他者に妨害されない権利もまた持っている、というわけである。こうした個人観も尊重されるべき人類の英知だが、その発達によって我々人間は別の問題に現在直面している。「個人」の肥大化により、家族や社会等の共同体の絆を、そして古い慣習や信仰などに息づいていたいわゆる「大きな物語」や「宇宙的秩序」を破壊して、人類がただのバラバラの個人の寄せ集めになってしまう「アトミズム」に陥るという問題である。したがって家族という、人々の繋がりを描くべき物語の根底に、こうした個人観を置いてしまうと、家族は崩壊してしまう。雨は山へ飛び出したきりおおかみとして生活し、どういうわけか雪も全寮制の中学に入り、あとに残されたのはひとりぼっちの花だけ、というわけである。雨は個人としての自分を選び、家族を捨ててしまったのである。
家族を最小の社会であると考えたヘーゲルは、市民社会、国家、世界史へと繋がっていく人倫の弁証法のスタート地点を家族においている。そして王道的な家族の物語はおおよそ、仲の良い親子(正)に何らかのきっかけで対立が生まれ(反)、最後は和解して「雨降って地固まる」(合)という弁証法的なプロセスを辿るし、実際の子育てにおいても、子どもは両親べったりの幼少期から、反抗期を経て、何らかの和解を踏まえて真の自立へ旅立っていく。反抗期が自立そのものなのではない。このようなプロセスが多くの家族ドラマで踏襲されているのは、それが流行っているからでも面白いからでもない。人間が最初に個人として生まれるのではなく、家族という全体の一員として生まれることが不可避である以上、家族の絆を知るには、家族と対立して家族そのものを対自化、対象化しなければならないからである。毎日当たり前のように存在する両親と、本当に強い絆で結ばれているのかを知るためには、わざと両親に反発し、お互い真剣に向き合う期間が必要だというわけである。こうした視点から本作を見ると、ただただ雨と雪のためだけに「個人」としての自己を押し殺して子育てに奔走する花と、それをただただ当たり前のこととして享受する幼少期の二人は、弁証法の正の段階、無垢な統一としての家族である。そして二人が小学校の高学年に近づくにつれ、激しい対立、反の段階が現れてくる。雨も雪もお互いの違いを強く認識し、雨は特に自分を家族の一員ではなく個人(個狼?)として考えるようになる。花の言いつけに反しておおかみの力を使ってしまった雪や、徐々に自然の世界の魅力に飲まれ、家を空けがちになる雨、そして激しい姉弟喧嘩など、家族はそこかしこに対立の火花を散らすようになる。
しかしここまでである。その後一家は和解して家族の絆を再確認することはない。雨は嵐の山から母を助けはしたが、家を飛び出して以後母と会話をすることはなかった。雪は草平と嵐の学校の中で自立への憬れを語り合い、その後母が迎えにくる描写も、直接会話をする描写もない。花は山で気を失っている間、おおかみおとこと再会し、彼にそれまでの人生を肯定し承認される言葉をもらっている。しかしそれは夢の中の出来事に過ぎない。花は以後雨の遠吠えを聞き、祈りの中でおおかみおとこと対話することによって家族の絆を信じ込むのである。真理は主観と客観の統一にある。どれだけ心の中で絆を信じていようとも、花の現状は孤独である。そこには反発しつつも助け合うという家族の現実的な絆も、現実的な幸福もない。雨が個人(個狼?)として家族を捨てて旅立ち、残された花は母としてのアイデンティティを失い空虚に祈るしかない。この物語は家族ドラマの王道スタイルである弁証法の構造の反の段階以後を切り捨ててしまったような形になっているのである。だから少なくとも映画の終わりの段階では、家族がバラバラになり、皆、特に花は絆を失って見えるのである。そんな状況になっても、どんな時でも笑顔を絶やさない花の表情は不憫ですらある。この物語の家族が弁証法のプロセスにおける対立から総合の段階へと移行できなかったのは、無論、前説の自由観に付随する個人観が差し挟まれ、家族の再統一、和解を妨害しているからである。個人としての生き方を選択し、家族を捨て去ってしまうことが子どもの「自立」である、という錯覚がここにはある。個人(個狼?)として生きることが家族として生きることと両立不可能なら、雨にも花にも真の幸福は訪れない。家族がバラバラの個人に分解してしまうことも、幸福でもなければ自立でもない。
5.本作の根底を貫く3つの近代的概念:③価値を放棄する平等観
そして何よりも花を不憫に思わせてしまうのは、単に雨がいなくなってしまったからではない。雨が「おおかみとして生きること」を選んだからである。しかし劇中では、雨がおおかみとして生きることに、花は戸惑いはしたものの最終的には肯定したし、作品全体のスタンスとしても、別れの悲しさはあっても、「おおかみとして生きること」自体は肯定的に表現されている。ここには、前二節の近代的な自由観、個人観から導かれる第三の概念が潜んでいる。すなわち、生き方の選択権としての自由が個人には備わっており、それは何者にも妨害されてはならない尊重されるべきものである。したがって、「個人が生き方を選択する」こと自体が重要で価値のあることであり、その選択自体を尊重するために、政府や他者は個人の選択した生き方の「内容」にケチをつけてはならないという平等観である。これも近代以後の社会には欠かせない重要な概念である。職業に貴賤はなく、魚屋として生きる生き方と教師として生きる生き方はどれも同等に尊重されるべきである、というわけである。この概念も、極端に押し進めると、我々人類を文明的に発展させてきた一つの原則、すなわちチャールズ・テイラーがAuthenticity(ほんもの)と呼んだ理念そのものの破棄へと到達する。この理念は、「ある生き方は、別のある生き方より価値がある」として、人間の生き方には価値の序列があることを前提に、真に人間が生きるべき姿、「ほんものの生き方」を模索するというスタンスを形成する。近代的な平等観に慣れ親しんだ人々にとっては、生き方の優劣を価値付けることは、政府による不必要な介入や、職業身分による差別など危険な事柄を助長するようにも思えるだろう。しかし逆に急進的な平等観の元では、あらゆる生き方が平等の価値を持つと見なされる。言い換えれば、「生き方」の選択を重視してその内容を無視するということは、あらゆる「生き方」の内容が平等に論争点にはなりえないどうでもよいもの、すなわち無価値となる。偉大な学者の生き方も、高名な僧侶の生き方も、愚かなギャンブル狂の生き方も、みな平等に無価値なのである。
このことが本作においてはどのように現れてきているのかというと、「人間として生きること」が「おおかみとして生きること」と平等に価値ある選択肢として描かれている点である。そしてそれは裏を返せば、「人間として生きること」は「おおかみとして生きること」と同等に無価値であるということの表明に過ぎない。だから姉弟がどの生き方を選んで「決定」するのかということだけが重要視され、その選択した生き方の「内容」の善し悪しは一切吟味されないのである。人間の人生が理性を持たない単なる動物に過ぎないおおかみの Permalink | 記事への反応(2) | 08:36
943 :ソーゾー君:2013/12/20(金) 21:40:10 ID:6GU5uUEU
http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/27714954b3b2ddc4cfe9c18a201cb4ac
>その証拠に、福島第一原子力発電所では、事故の収束にあたった作業員が、
>1年6ヶ月の間に4~5人、突然死していますが、
それは現場で倒れて誤魔化せず渋々認めた数でしょ?
「疑いがあると渋々認めた数だアホ・・」
実際は少なくとも千人以上は死んでるよ・・
「福島の病院に千人近く運び込まれてるけど一人も来てないことになってるよ」
「そんな事出来るわけがない?元から住所不定の戸籍を喪失してるホームレスだから帳簿上は0に出来る・・」
「その証拠に政府は福島原発作業員、約数万人と連絡が取れない事を認めている。」
「ホームレスの死体は何も語らないし何処に行き何故ここで死んだのかも語らない・・」
「住所不定の名無しの権兵衛の死体は誰の死体か解らない・・連絡が取れない=行方不明だ・・」
「行方不明だから死んだ事にもならん・・死体は有るけど身元不明だからね・・」
「身元不明だから何処で働き何で死んだのか解らない・・身元不明の無縁仏と行方不明者の数が増え続ける」
ね・・簡単でしょ?福島で働かして体調崩して死んだら(殺す)ワンボックスに乗せて公園に捨てる。
「身元不明の死体が誕生w捜索願いも出てないホームレスなんか捨てるほど居る・・」
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/movie/10043/1378650618/l50
943 :ソーゾー君:2013/12/20(金) 21:40:10 ID:6GU5uUEU
http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/27714954b3b2ddc4cfe9c18a201cb4ac
>その証拠に、福島第一原子力発電所では、事故の収束にあたった作業員が、
>1年6ヶ月の間に4~5人、突然死していますが、
それは現場で倒れて誤魔化せず渋々認めた数でしょ?
「疑いがあると渋々認めた数だアホ・・」
実際は少なくとも千人以上は死んでるよ・・
「福島の病院に千人近く運び込まれてるけど一人も来てないことになってるよ」
「そんな事出来るわけがない?元から住所不定の戸籍を喪失してるホームレスだから帳簿上は0に出来る・・」
「その証拠に政府は福島原発作業員、約数万人と連絡が取れない事を認めている。」
「ホームレスの死体は何も語らないし何処に行き何故ここで死んだのかも語らない・・」
「住所不定の名無しの権兵衛の死体は誰の死体か解らない・・連絡が取れない=行方不明だ・・」
「行方不明だから死んだ事にもならん・・死体は有るけど身元不明だからね・・」
「身元不明だから何処で働き何で死んだのか解らない・・身元不明の無縁仏と行方不明者の数が増え続ける」
ね・・簡単でしょ?福島で働かして体調崩して死んだら(殺す)ワンボックスに乗せて公園に捨てる。
「身元不明の死体が誕生w捜索願いも出てないホームレスなんか捨てるほど居る・・」
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/movie/10043/1378650618/l50
1.仕事を教えてくれない
みんな自分の仕事を奪われたくないから仕事を教えないっていうこともある。
なんとか仕事に慣れて効率良く回せるようになると、たまに同僚から「もうちょっと仕事してるフリして残業した方がいいんじゃないかな」とかアドバイスを頂く。
2.同僚がひどい
仕事に対してやる気がない。出勤しても休憩ばかりで「社長に見られたら困るから」って言って上司がバレないサボり方を教えてる。
3.未来がない
1. 授業で演技指導してもらえない
『演技実習』でアニメや外画を観て感想文書かされる。意味が分からない。
アニメ(同じ専門学校のアニメ学科の人が作ったもの)にアテレコして、それでオシマイっていう授業もある。
たまに声優さん(全然有名じゃない人)が来て、「もうちょっと感情を込めた方がいいんじゃないかな」なんて指導とはほど遠い感想を頂く。
2. 同輩が酷い
私がアニメや映画や芝居の話をしても「何それ知らない」って言われる。
授業の出席率が低い。出席してもノートさえ取らなくて、「会社に入った時困るから」って言って講師がメモの取り方教えてる。
大学に進んだ友達がアニメ研究会に入って楽しそうにしてるのが恨めしい。
3. 未来がない
先日の園遊会の場で、わたくしが天皇陛下に手紙をお渡しをした件に関しまして、今一度皆さまにご説明をさせていただきたく存じます。
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まずは、この場をお借りいたしまして、関係者の皆さま方に大変なご迷惑をおかけしておりますことをお詫び申し上げます。
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参議院議員である私が、このような行動を取ったということによって、議会制民主主義の観点、象徴天皇制の観点などから、大変に重大な影響が各所に及んでいるということは、まさしく、皆さまがマスコミの報道を通じてご覧になられているとおりであります。私自身、あの場で、あの行動に及んだ際に、そうした意味を事前に十分理解をしていたかというと、大変申し訳ないのですが、答えは否であり、その点におきまして、私の認識不足・勉強不足であり、軽率であったことを率直に認めたいと思います。有権者の方々、選挙を通じて私をご支持いただいた支援者の方々にお詫び申し上げたい。また、天皇陛下に対してこのような言い方をするのが適切なのかどうかもわからないのですが、天皇陛下にご迷惑をおかけしていること、これを心からお詫び申し上げたいと思います。
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私が、あの行動、天皇陛下に対して自筆の手紙をお渡しするという行動に至った背景といいますか、心境に関してご説明をさせてください。
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2011年の3月11日の震災のあの日を境に日本は大きく変わりました。津波により多くのの方々が命を失い、また、いまでもなお行方不明の方が多くいらっしゃいます。そのような方が約2万名もいらっしゃいます。そして、福島第一原子力発電所の事故により、住み慣れた故郷の地を追われた方が多くいらっしゃいます。放射能の影響で健康な生活を失った方、健康被害におびえる方々が数多くいらっしゃいます。
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震災から2年と半年がたち、日本は確かな復興の道を歩み始めたように世間では言われております。東京でオリンピックを開催することが決まりました。東北で起きたことは過去のことで、われわれは、すでに未来に向かっている、そのように感じられます。しかし、はたしてそれは正しいのでしょうか。私たちがこのようにしている今この瞬間にも、震災により苦しみ続けている方が日本に何万人もいるという事実、収束の見込みのない原子炉の暴走に対してわが身を賭して立ち向かう方々が何千人もいるという事実、そうした事実に対して私は言いようのない焦燥感を感じるのです。私たちは向き合うべき事実から目をそらしているだけでないか。未来に目を向ける前に、現実、悲惨でやるせない現実、重苦しい現実に目を向けるべきではないか、そのように私は考えるのです。
--
政治家とは、国民に対してビジョンを示さねばなりません。参議院議員である私はどうすべきか。オリンピック開催をはじめとする、華々しい未来、経済発展、科学技術により生活の向上が日本の進むべき道なのか。経済発展を推し進め、国民が経済的にさらに豊かになるという姿が日本の目指すべき道なのか。3月11日以降に我々が感じた迷いを忘れ、成長への道を再び、がむしゃらに歩むのが正しいのか。私には、どうしてもそのようには感じられません。
--
私は考えます。今は一歩踏みとどまり、考えるべき時であると。思わず目を背けたくなる事実と向き合う。つらい境遇、本当につらい境遇に今ある人々たちに寄り添うこと。そして、我々の今までを振り返り、反省すべきことは反省し、改めるべきことは改める。成長のスピードは落ちるかもしれません。しかし、それが我々にとって真の豊かさと平和を与えてくれるのではないか。日本を取り囲む世界の人々と本当の意味で理解しあい、そして共に歩む未来になるのではないか、このように思うのです。
--
園遊会の前は私は一睡もしておりませんでした。園遊会というものに関して最初に知りました、その時から、何か私には、インスピレーションといいますか、私の思いを天皇陛下にお伝えすべきだ、とその一念に取りつかれておりました。そして、園遊会の3日ほど前からでしょうか。私は最初はおぼえがきのようなつもりで自らの考えを書き始め、書いては、やはりそのようなことは大それたことと思い、それを破り捨て、しかし思い直しては、やはり書き直し、ということを私は何度繰り返したかわかりません。そして、もう最後は、赤坂御苑に向かう車の出発するその時間まで、机の上の自筆の紙と向き合い、悩み続け、それをどうすべきか迷いながら、そして、最後は私の中の情念といいますか、そのようなもので自分の迷いを押し切る形で天皇陛下にお渡しをした、それがあの手紙でございます。
--
私の起こした行動により、大変な影響が生じておりますこと、冒頭に申し上げました通り、大変申し訳なく思っております。しかしながら、あえてこの場で申し上げたい。震災によって生じている現実から目を背けるべきではありません。そのことに関しましては、私は、今現在も信念は変わりませんし、国民の皆さまに同じことをこれからも訴え続けていきたいと思います。このような言い方をすると、関係各所の方からお叱りを受けると思いますが、私が仮に、またあの園遊会の同じ場におりましたら、同じことを行います。迷いながら、そして、不器用ではありますが、お伝えすべきこと・訴えるべきことには、声を上げ続ける。大変申し訳ありませんが、それが私のスタイルです。今後ともなにとぞ、ご支持ならびにご鞭撻を賜りますよう心よりお願いを申し上げます。
昨日、モノを捨てた。って言うか、捨てられた。
昼前に起きて一階に降りたら、ステレオセットの上にのっていたものが降ろされていて、掛っていたカバーも外されていた。
どうしたのか訊いたら、捨てると言う。昨日の内に業者さんが下見に来ていて、今日これから引き取りに来るって。
エレクトーンも捨てるって。
せめてと思って、慌てて埃を払って廊下へ出した。廊下と玄関の間の引き違い戸を外して、運び出し易くした。
そうしたら、ちょうど業者さんが来た。
記念に撮影したかったけど、いい歳したオッサンがね、そんなこと言うのも気が引けて、ちょっと待ってとも言えなかった。
みんなドナドナされていった。晴れていた。昼前だけど。トラックだけど。
・ヤマハ エレクトーン C-80 & イス(エレクトーンの相方)
母方の伯母夫婦に買ってもらった。当時はお金の出所なんて知らなかったけど。
小さかったころ、知らない人が家に来て、母に「やる?」って訊かれて、よく解らないまま「うん」って言ったら、音楽教室に通うことになった。
結局、よく解からないまま、ロクに弾かないままやめてしまった。
やめてからもときどき音を出していたけど、高校受験を控えたあたりからかな、全然使わなくなって、それきりになった。
本体/ヘッドホン/イスのトリオでウチに来たけど、いつの間にかヘッドホンが行方不明になっていて、本体/イスのコンビで送り出した。
レコードプレーヤーは4段切り替えだったかな。持ってたレコードは33回転と45回転のものしかなかったけど。
プリアンプはトランジスタ、メインアンプとチューナは真空管で組まれている。
電源を入れると背面の放熱口から真空管の光が漏れて暖か味を感じさせる。使っている内に本体の天板が実際に暖かくなってくる。
夏はすごく熱くなる。ウッカリのせっぱなしにしてあったソノシートがふやけたようになってダメになった。
チューナーにはステレオビーコンがついててFMのステレオ放送を受信すると赤いランプが点る。うまくランプが点るようにチューニングするんだよね。
ずいぶん前からロクに使ってなかったけど、ときどき電源を入れると音は出た。ノイズ混じりだけど。真空管かなり傷んでるからね。
プレーヤーとアンプを繋ぐコネクターも傷んでいて、ちゃんと繋ぐにはコツがある。
コネクターの樹脂部分の中で接点金具がズレるんだ。だからガタツキのある接点に繋がったリード線をつまんで接続面側に押し付ける。
押し付けた状態でコネクターの樹脂部分とリード線を持って接続すると、接点がきちんと接触する。
ほかにも傷みは多いし、付属品も欠品が多いけど、説明書はみつけたので一応つけておいた。
こいつは自分が生まれる前からウチに居たらしい。40年くらい前から。
クラッシックのレコードやソノシートが数枚ばかりあったから、あれで胎教でもしてたのかな。
小さかったころは、母にねだってレコードや雑誌の付録のソノシートを掛けてもらったり、一緒にラジオを聴いたりしていた。
生まれた瞬間が人生の頂点だったかもしれない自分にとって、まあまあ幸せだった幼児期を思い起こさせるモノ。
母が死んだら一番の形見になると思ってたけど、その母に捨てられた。まあ、母の持ち物だし、形見なんてあっても仕方ないけど。
形見を見ながら「お前のお婆ちゃんはね…」なんて思い出話しをする相手もいないし。
親が死んだら食い詰めるし。こいつを持って、公園だの橋の下だのに移住するのも大変だもの。
他にも幾つか捨てられたけど、思い入れのあるモノはこの二点だけ。
どちらもウチで過ごした期間の大半は置物/物置台の状態だった。不遇だよね。「スキルを活かして働きた~い」的な意味で。
どちらもまだうごく筈。どうかどうか中古市場の方に流れて、新たな持ち主に恵まれて、モノとしての寿命を全うできますように。
いまだに気持ちがモヤモヤして落ち着かないので、試しに吐き捨ててみようと思って書いています。全くの私事なのだけど。
要らないモノを捨てると、心がスッキリするんじゃなかったっけ?"捨てる"と"捨てられる"とでは話が違うのかな?
何年か前から"整理術"とか"捨てる技術"とか"断捨離"とか流行っていて、テレビでも紹介されているでしょう。
あれで例示されてるケースって、服とか本とか一人が専有/専用しているモノばかりじゃないかな?
家族で共有/共用しているモノはどうするんだろ?詳細は本で?また要らないモノが増えちゃうな。
母も自分も"捨てられない人"なのだけど、今回はその母が突然"捨てた"わけです。自分にとっては「何でそれ捨てるかな?」ってモノをね。
母は食品なんかの空き箱/空き瓶をため込んでいる。保存容器などに使うために。でも、同じ商品を頻繁に買うので、同じ空き箱/空き瓶がどんどんたまる。
いま在る分を捨てても同じものがすぐにたまるのだから、それこそ捨てていいモノだと思うし、そう言ってるんだけどね。
キャリアの末端の人間の立場からも、オプションが要らないユーザーはオンラインで買うか店を変えてもらえればと思う。
確かに、携帯ショップでオプションをてんこ盛りにしている理由はキャリアのインセンティブ制度にある。3キャリア全ての実情を知ってるわけではないが、販売台数のうちのオプション付け率にノルマがあって、それの達成有無でインセの額が一気に変わるのは確かにその通り。説明もなしにオプション加入させたりとか、加入しないと売らないとか、制度もアレだが本当に歪な運用だ。顧客に迷惑をかけていると思う。
ただ、「ほぼ100%つけないと店舗運営もままならない」っていうのはキャリアによるかなと思っていて、ある程度店頭の対応力に期待をしているドコモなんかは特に、もともと店舗を運営するだけなら十分な支援費を出しているはずだ。auも含めて、赤字になってしまっている店舗なんて全国でもあまり無いと思う。(ソフトバンクは知らない。キャリアの方針として、弱い店から順番に淘汰しているなんて噂がよく流れるくらいだし)これはキャリアショップに限った話で、その辺にあるちっちゃいケータイ屋とかは全然別の世界だが。
自分の目から見ると、代理店はキャリア本体以上に利益に追い立てられていて「こいつが落としたから今月この分のお金落とした」「おまえの店、なんでこんなに落としたの?」はそれこそ日常の風景だ。オプションの加入者数やそこからのARPUを伸ばしたいキャリアの都合で「たくさん加入者をとれば利益が上がる」仕組みを作っていて、ヤクザな方面から来ることの多い代理店の幹部が、その中で最大限あがりを増やそうとして現場を叩きに叩いている。で、無理やり加入させちまえ、っていう話になる。
煽りを食らう現場では、スタッフのお姉さんは泣くわ、店長は病んで飛ぶわスタッフと不倫して行方不明になるわ、説明不足の責任が誰にあるかをキャリアのコールセンターや営業と綱引きするのが日常業務になったりしていて、まあそれはそれで大変だ。こっちは一応、安いが残業代だけはある程度保証されているので、営業先の代理店で軟禁されてノルマを下げるように言われたりしてもぼちぼち我慢して働いている。新卒で入ったときはこんな業務だとは思わなかったが。ストレスで自殺しちゃったり廃人になる人はキャリアの社員でも山ほどいることはいる。だからって客に詐欺まがいの売り方をする言い訳には100%ならないけど。
もう、アコギな商売ができるような制度をつくっているキャリア、それをフルスロットルでしている代理店、どっちにも多大な問題がある。重ね重ね申し訳ない。
で、はじめの話に戻る。恥知らずを承知で言うと、購入時に変な条件とかを付けられてしまいそうな時はぜひ別の店に行ってもらえないかと思う。
キャリアの方も、現場レベルではこんな売り方悪いに決まっていると思っているので(たぶんドコモとauは一緒のはずで、ソフトバンクは本当に営業がやれって言っちゃてる時もあるっぽいが)加入しないと売らない、なんて店があればきっちり話をつけているし、短期解約に応じてインセンティブも没収したりしている。全ての客にサービスを薦めるのは商売だからお客様の側も割りきって、というか許してほしいのだが、押し売りしかしないような店舗は潰れるべきだと自分たちも考えている。堂々と断って、自然淘汰にご協力をいただけないだろうか。ご家族ご友人にもお声がけいただきたい。
「リテラシーのない客から利益をふんだくるな」というのは仰るとおりで、そこはもう地道に無くしていこうとしているところだ。利益構造としてそういう売り方では金にならないようにしていくので、こっち側からはきっとマシにできると思っている。客のリテラシーを上げるのもキャリアショップの仕事みたいになっている所もあるので、よく分からないくせにiPhoneを買いたがるお客さんも贔屓にしてくれるような店、代理店、キャリアをつくろうとみんな概ね考えているのだ。
「そんな事言ってないで黙って土管やってろよ」っていう方は知らん。こっちも商売だから、プラスアルファの利益のためにやっているのでお好みで入るか入らないか選んでいただければと思う。キャリアなんてメーカーと顧客の間の中抜きでしかないと言われればそれまでだが、通信だけできればいい人のために、格安SIMもいっぱい出てきているわけだし。
それで思い出したことを書く。
私自身子供の頃アニメや絵本でよく見ていたし、子供相手の職業についてからは子供の好きなキャラクターとして認識していたアンパンマン。
何故だか子供たちはあの丸顔パンのキャラクターが大好きで、一番最初に好きになるキャラクターがアンパンマンだという子は少なくない。
だから当然、アンパンマンマーチやアンパンマン体操などの歌も私は知識として知っていた。
そう思っていたが、それが全く違う意味に取った時がある。
電気も水道も止まり、ガスはプロパンだったけれども怖くて使えない。寒さに震えながら避難所で寝た。
明日から職場や家の片づけをしなくちゃ。大変だけど週明けの月曜日まで終わるかな。
そう思っていたが、12日の早朝に状況は一変する。
原発から10キロもない避難所にいた私は同僚と一緒に追われるように避難した。
大渋滞の中やっとのことでついた避難所も20キロ圏内にあり、原発が爆発したというニュースを聞き、そこからも逃げた。
真っ暗で波打った道路に疲れ切りながら車を運転している中、カーラジオは絶望的なニュースしか伝えてこない。
もうニュースを聞いていたくなくて、でもラジオを聞かずにはいられなくて、その時聞いたニュース以外の番組でアンパンマンマーチを流していた。
『そうだ うれしいんだ いきるよろこび』
歌詞が追い詰められた心に沁みた。
ヨウ素剤まで配られそれを飲み、原発が爆発したと聞かされ、それ以外の何の情報も持たなかった私は深刻なレベルでの被曝を疑っていた。
明日ではないかもしれないけれど、放射線を浴びた影響で私はじわじわ弱っていくのかもしれない。死ぬのかもしれない。
そんな心にあの歌詞は私も生きているのだと思い知らされた。
津波で行方不明になった知り合いのこと、ラジオで聞こえてくる沿岸部に数百の遺体があるというニュース、少しだけ見れたテレビから流れていた真っ赤に燃えているコンビナート…多分、たくさんの人が死んだ。
でも私は生きているし、生きていたい。
私は泣きながら車を運転し続け、丸二日かけて実家に帰った。
アンパンマンマーチにこれほど心を揺さぶられたことはなかったと思う。
それにあの曲調はとても明るくて、全部壊れてしまった日常も思い出されて、頑張らなくちゃいけないのだと思い知らされた。
あの時、大げさに言ってしまえばあの曲は私に希望と生きる意欲をくれた。
後になってから、余震におびえる子供たちのために放送されていたのだということも知ったけれど、大人の私にもアンパンマンは希望をくれた。
やなせ先生のご冥福をお祈りします。
ホームレス一歩手前、コミュ症、昼休憩に行ったまま行方不明、雨が降ってきたら自主的に休憩時間…
コミュ障、ホームレス一歩手前はまあ事情があるかもしれんしその他の分野で活かすこともできるように思うけど、後ろ二つは完全に社会不適合でしょ
元増田です。
いくつかブクマをもらったので気になる所だけ言いに来た。
・ぐっどうぃる最盛期はまだ派遣業界にいなかったけど、聞く所によるとすごかったみたいだな。
派遣先にも派遣会社によって入れるスタッフの最低枠が用意されてるだろうからとりあえず誰でも良いから埋めて
辞めたらどんどん補充していくっていう人が集まる大手だから出来た事なんだろな。
・20代から派遣で技術を磨き続けた40代の人を見逃すのは惜しいけど、そういう人は他の派遣会社が持ってって
うちの会社は専門技術者の派遣はなく、完全に単純作業の派遣だったからなぁ…自分も入社したては40代でもぐいぐい推したけど、
まず社長に40代行かせるなら若いのでいけって言われるし、それでも40代を推ししたら次は派遣先からもっと若いのいないの?って言われる。
んでそれでも本人ヤル気あるんで!って推して就業開始したらそのスタッフが健康状態やら精神状態が…って言い始めてほらやっぱりーの繰り返しで
40代は使えないって切り捨てる事にした。
でもそれなりの技術があったら家庭の事情とかがない限り社員に誘われたり紹介派遣でそのまま社員に…って話が来ると思うけどなぁ。
・派遣と社員の壁、というのは間違いなくあるだろうな。ただ職種によってその壁の高さはまちまちという印象。
うちの場合、工場系はあんまり聞かなかったかなぁ…スタッフが言わなかった、こちらが見抜けなかったのかもしれないけど。
・社間取引額を提示したなんて一言も言ってない、どこか言葉が足りなかったか?
自分がいた時で1人100人程度のスタッフを受け持つくらいの小さな町の派遣会社だ、手動で事足りるし社長の対話方針っていうのもある。
・別に派遣社員はまともな人がいないわけでもないし使い捨てでもない。
まともな人は出勤時間になったらきちんと出勤する、お仕事をする、出来る時は残業もする、自分たちも信頼するので契約が切れても色んな所を紹介できる。
遅刻欠勤、派遣先で揉める、ごねる、行方不明になる人は信頼できないよね、こっちも変な人を派遣したら派遣先との信頼問題に繋がるから。
だからなかなか紹介できない、使い捨てと思われる、仕方がないと思うんだけど何か良い方法はあったのかなぁ。
なんか色々思い出せて楽しかったよ。