はてなキーワード: 矯正とは
この春、大学生になった。地方から上京してきて、都内にある女子大に通っている。
そこで仲良くしている子たちはとても可愛い子もいれば普通の子もいるが、特に仲良くしている子はみんな、痴漢やセクハラなど男性から危害を受けたことがあるらしい。
私は生まれてこの方、全くと言ってそういう事態に遭遇したことがなかった。
彼女たちはしばしば痴漢やセクハラを受けたこと、男はクズであるということを話題にしては、盛り上がっている。
強いて言うなら喋り方を馬鹿にされたことくらい。それは中学生のときのことで男の子だけでなく女の子からもだったし、本当に一時的なもの(言い返したらすぐやめた)だったので、特に気にしていない。
セクシャルな事柄で危害を加えられたことが本当に一度もないのだ。
地元でも痴漢に遭う子はいた。痴漢に遭ってすぐに私に電話をかけてきた友達が2人もいる。地元がとても田舎すぎたから、私は痴漢に遭わなかったということもない。
今は都会に住んでいるから、尚更のこと痴漢に遭わない理由が都会や田舎ということとは関係が無いと思われる。
きっとこれを読んでいる人たちは「あなたはなんて運が良いんだろう!」と思うかもしれないが、そう思われることに腹が立つ。バカにされているように思う。お前が何も魅力のない女だから何もされないんだと言われているようで恥ずかしくて悔しくてどうしようもない。
TwitterでMeToo運動や痴漢被害の「この日本で痴漢されたことのない女性はいない」だとか「女性はみんな痴漢やセクハラに遭って苦しんでいる!」というツイートを見るたびに、私は女性ですらないのだと思ってしまう。女性の身体を持つが、女性である資格がないのだと言われているようで悔しい。私は男性や無性になりたいわけではないし、女性になりたいわけでもないが、これまで女性の身体で女性として生きてきた(育てられてきた)からには、女性として人間のコミュニティに属したい。
痴漢されたことのある人に対して「あなたは魅力的だから被害にあったのだ」というのは御法度なのは知っているし理解できるが、どうも納得できない。どうしても痴漢されるほど魅力的だったのだと思える。
痴漢は女性の容姿に興味が無いという話も聞くが、私の周りでは明らかに可愛い子ほど痴漢に遭っている。
親は私が痴漢に遭わないか、不審者に遭わないかとても心配しているが、本当に心配する必要なんてないと思う。
こんなに何もないなんて、私がデブでブスで魅力に欠けた女だからだと思う。
本当に好きになった人はアプローチを掛ける前に結婚していたことが判明した。
ちなみに私は164cm62kgのデブだし一重だし、(縮毛矯正はしているが)癖っ毛だし、顔は大きいし、ダメなところばかりだ。黒木華に似ていると言われることが多い。彼女は可憐だが、私はどうだろうか。
毎日丁寧にメイクしていて、女の子たちには「今日のメイクいいね!」と言われるが、実はもしかしてそれは本心ではないのかもしれない。「下手くそなメイクしてこのブスが」と思われているのかもしれない。
やっぱり痴漢やセクハラに遭わないのは私がデブでブスだから以外に理由がない気がする。逆に痴漢やセクハラに遭うのは彼女たちがとても魅力的だからに違いない。
どうして私はそれを主張すると怒られるんだろう。事実じゃないのか?誰も私のことをお世辞ですら可愛いと言ってくれない。それなのに、容姿は関係ないだとか、男はクズだからと言うのだろうか。
私は男性をクズだとは思わない。女性より頭が良くて仕事ができて愛しいとばかり思う。恋愛ばかり考えているのは女性の方で、男の人の方が冷静で趣味に恋愛に勉強に精を出しているように思える。
私の周りの女性たちはただのフェミニストを装ったミサンドリストなだけなのではないだろうか?
私は男性の優れたところを多く知っているし女性の劣ったところをよく知っている。
痴漢されない女の苦しみを知ってほしい。痴漢されないのは自分の魅力の無さだと嘆く自由が欲しい。痴漢されない理由を自分の魅力の無さだと思わなければならない苦しみを知ってほしい。
どうして私は痴漢されないのか教えてほしい。
私がブスなら素直にそう言ってくれ。無理ならお世辞でも良いから可愛いと言ってくれ。どっちかにしてほしい。私だけが怒られなければいけないのは理不尽だ。
痴漢されたい。
痴漢されて彼女と同じ立場になったみたい。そうしたら堂々と痴漢は容姿を気にしていないって言ってあげられるから。ただのミサンドリストにしか見れなかった彼女たちをフェミニストだと思うことがきっとできるから。
これ2005年だってよ。10何年も前からこれだよ。ひどいもんだな。
http://www.paradisearmy.com/doujin/pasok_hitoga.htm
この様子はテレビで中継され、罵声の主が遺族や被害者、被害者家族などではなく、単なる報道記者 (大阪読売新聞 社会部) だったことから、「事故からたった2時間、現場は被害者救出で精一杯だろうに、原因が分かるわけがないだろうが」「目の前に助けを求める被害者が何百人もいるのに、それを無視して原因調査をやってたら逆にびっくりするわ」「正義の味方のつもりかも知れないが、公平で冷静な記事を書くべき記者が、あんなに感情的でいいのか」「事故原因と死者がでていることと、何の関係があるのか」「何様のつもりだ、不快だ」 と、ネット 上の 掲示板 などで批判が噴出。
その日の深夜 (26日1時) には、掲示板 2ちゃんねる のガイドライン板 に 「人が死んでんねんで」のガイドライン」 スレッドが立ち、元からネット掲示板住人らの 「反マスコミ」 の空気もあり、ある種の流行語のような扱いになってしまいました。
事故を起こし被害者を出したのは JR西日本ですし、その後の対応に疑問点もあります。 しかしその後もマスコミは、この事故の遺族や被害者の家族などを執拗に追い掛け回して扇情的な報道を繰り返したため、それを揶揄し批判するような使い方で 「人が死んでんねんで!」 が書き込まれるようになっています。
なおこの記者が発したと思われる発言は別の日の会見のものも多数あり、「わかってるちゅうねん!そんなん!」「あんたら、もうエエわ (社長を) 呼んで!」「あんたらみんなクビや!」「遺族の前で泣いたようなフリをして、心の中でベロ出しとるんやろ!」 などがあります。
好きな人が出来た。
いつもにこやかだけど、真意がつかめない(めちゃくちゃ空気読んでそう、気を遣ってそうなタイプ)。
連絡先も知ってるし、電話したこともあるし、毎月4回くらいは顔を合わせている。ただしプライベートではない。
自分は絶望的な出っ歯で、中学校まで矯正をしていた。ニキビがひどく、体はつるぺたでガリガリで、髪はへんなショートカット、根暗でいじめられっ子だった。多分、クラスにいたどんなに優しい女の子にも一度は「出っ歯」あるいはさんまと言われた。あの頃は、で、という音が聞こえるだけで全身に緊張が走ったものだ。この経験があるから、人の外見に言及しないことにしている。また、どんなに良い人でも、ハゲとかデブとか肌荒れすごいとか言っている人は、心の中で静かに締め出すことにしている。
話が逸れてしまった。
あの頃、入った部活で「今日は可愛い子誰もいないじゃん!やる気でねぇ〜」とか言われて、その場にいた新入部員全員で萎縮したことがあった。また、先輩に廊下で挨拶したら「キモ」と言われたこともあった。また、母と二人で街を歩いていたとき、ウェーイ系の人たちが後ろから来て、自分の顔を見て「うわブスだった!外れ外れ!」といって笑いながら走っていったこともあった。母は若い頃結構美人で、父も昔はどちらかというと整っている方だったので、なんでこんな糞ブスが産まれちゃったんだろうと申し訳なくて、でも泣きたくなくて辛かった。
高校でもニキビはあったけど、矯正が終わって生理も来て髪を伸ばしたらいきなりモテるようになった。最初は新手のいじめとか、あるいは罰ゲームかと思ったけど違った。一目惚れされたこともあった(自分にはどう見ても美人要素がないので、たぶん趣味が変わっている人だったのだと思う)。
大学は女子が少ない学部だったので、そうした環境のおかげでモテた。
しかし、中学校までの負の経験が大きすぎて、人間に期待できなくなっていた。いじめられる前までは、もっと素直に人を信じることができていたと思う。でも、クラスメイトからいじめられ、異性からキモいブスと言われてきたから、
心のどこかにある自分の基地みたいなところにいつも片足をつっこんで、人とは半分の自分で接して、傷ついても大丈夫なようにするという処世術をしっかりと身につけてしまった。自分のあやし方ばかり上手くなってしまった。
だから人とある一定以上の親密な関係を築くことができない。親友や恋人というのは自分自身をある意味さらけ出す仲だと聞いた。
彼氏とおぼしき人を、エスカレーターに乗りながら振り返って至近距離で見つめたり、電車の中でお互い向き合って顔を寄せ合ったりしている幸福そうな顔をした女の子は、こんなこと思ったりしないんだろうなと考えると苦しくなる。
好きな人はとても優しくて良い人だ。多分、老若男女に優しくすることに慣れているのだという気がする。
さっき書いたように読めないタイプだけど、会う前はすごく緊張するのに、いざ会うと空気みたいで安らいだ気分になって、よく分からないけど満たされたような感じがする。
自分は淋しさというものをずっと感じたことがなかったのだが、ここ最近淋しいということがどういうことか少しわかったような気がしている。うまく言語化はできないけど。
“私には、あなたのために、その淋しさを根元から引き抜いて上げるだけの力がないんだから。”
と言っていたけど、
その人は淋しさの原因でもあるのだけど、その淋しさを引き抜いてくれるのではないかと期待してしまうような雰囲気を持っているのだ。
今日は少しでもしゃべろう、雑談みたいなこともしてみよう、私も親しげにしてみよう、バスで乗り合わせたら隣は無理だけどすぐ後ろに座ってちょっとしゃべったりしよう、道を歩いてて遠くにもしその人が見えたら手は振れないけど気づいたよって合図したほうがいいって思うのに、
いざその時になると、いや、気持ち悪くない?馴れ馴れしいって思われたら?勘違いしてて本当は迷惑なんじゃないの?
と誰かが、多分昔の自分がささやいて、私はいつも通り無口になって、ときどきしか笑うことができなくて、用意してた雑談も話せなくて、バスに乗り合わせても遠くに見えても気づかないふりをしてしまう。
あんな過去がなかったらこんな風に萎縮しないで済んだのかもしれないな、と思う。キモい根暗なブスだった私が悪いんだけど。キモいとかブスは言われなくなっても、根暗なのは変わってないけど。出っ歯は直ったが、前歯がでかいのは変わってないけど。
そうやって私は何も行動をおこせずに終わってしまうんだと思う。このままでは。
どうやって萎縮する気持ちを持ち直せばいいと思いますか?それとも身の程知らずだからこのまま大人しくしてたほうがよいでしょうか。
最近Twitter上で小説の表紙を描きたい・描いて欲しい系のタグが流行っているのを生温い目で見守っている。
私は、いわゆる「字書き」といわれる二次創作者が苦手だ。
だが、もともとそうだった訳ではない。
人をカテゴライズすることを失礼だとは思いつつも、そうせざるを得ないくらい「字書き」には苦い思い出しかない。
長文乱文につきご注意ください。
私は絵描きなのだが、ありがたいことに相互フォローの字書きから小説本の表紙イラストの依頼が来たことがある。
誰かに寄稿を頼まれたこと自体が初めてだったのでジャンル別とはいえ、本当に嬉しかった。
数あるフォロワーの中から私に依頼が!と舞い上がっていたと思う。
表紙のデザインの打合せをして、「ああしたい」、「こういうのもいいよね」、なんて言い合いながら遂に表紙は完成。タイトルデザインも私。
気合を入れて制作したのが功を奏したのか、相手も気に入ってくれていたみたいだった。
賞賛の言葉を頂いて、「ああ、頑張った甲斐があったな」と充実感を得ていた。
イベント直前、字書きは新刊の宣伝をしていたので私自身の本ではないとはいえ、わくわくしながらチェックした。
…ん?私の名前は?
Twitterやpixivにも表紙画像付きであげているのに、紹介文に私の名前はどこにも無かった。
その後のツイートでも私に触れられることは無い。
通常「表紙は□□さんに描いて頂きました」とか書いてあるものだと思っていたけど、
この界隈はそんなものなのかな?と少しモヤモヤしたままその場は何も言わずにスルーしていた。
そんな気持ちのまま、イベント終了後に「表紙ありがとう」と書かれた旨の手紙と共に本が届いた。
字書きの名前は勿論、Twitterやpixiv IDまでしっかり記載されているというのに、だ。
え?なんで?と頭に衝撃が走って、真っ白になったのを覚えている。
もしも表紙イラストを気に入って私に興味を持ってくれた人が…、なんて淡い期待を思い切り打ち砕かれた。
でかでかと表紙イラストを飾っているにも関わらず、この本に「私」は存在しないのだ。
普通、ライトノベルでも文学作品でも表紙デザインの作者名は載っているもではないか。
あんなに打合せしたのに。装丁の相談だって受けたのに。睡眠時間を削って描いたのに。
全てがショックで心が張り裂けそうだった。
普通の人なら「奥付に名前の記載が無いんだけど!」と抗議しそうだが生来、人の顔色を窺って生きてきた私にとっては困難だった。
この一件で嫌われたらどうしよう…。
噂を広められて活動できなくなったらどうしよう…。
そんな考えが頭を巡って、結局どうすることもできなかった。あたしって、ほんとバカ。
聞いた話によると、この本の売り上げが字書きにとって過去最高の頒布数だったそうだ。
クソが。
残念なことにまだまだ続く。
上記の件もあり、すっかり疑心暗鬼になった私は表紙依頼を受ける時は、奥付に必ず私の名前を明記することを約束したうえで引き受けることにした。
今度は同ジャンルの字書きから、新刊の表紙イラストの依頼があった。
奥付の件も納得してもらえたので、表紙イラスト~タイトルデザインを制作。
問題なく入稿し、相手もイベントを楽しんでいたようで本当に良かったと思った。
イベントも終わって落ち着いた頃に、新刊を送りたい旨の連絡があったので私は快く承諾。
すると字書きは
「本代○○円 送料○○円 合計○○円です。」
は?????????????????????????????????
目玉が飛び出るかと思った。新手の押し売りかよ。
今まで表紙を手掛けてイベントに不参加の場合には、献本という形で送ってもらっていたので本当に驚いた。
一万歩譲って「私が表紙を描きたいと字書きにお願いした」のなら、上記の内容も分かる。
しかし、「字書きが私に表紙を描いて欲しいとお願いした」のにこの有様。
字書きは更に「振込はこちらにお願いします」と続けた。どうやら振込手数料も私持ちらしい。
印刷費厳しいのかな?と思い込むことで怒りを抑えて、支払った。
ええ、支払いましたよ。あたしって、ほんとバカ。
その後、奥付だけ確認して読まずに捨てた。高い勉強代だと思った。
クソが。
そんなことがありつつも、中には好きな字書きもいた。
支部で作品を読んで、その精巧な話の組み立て方、キャラクターの心情表現の緻密さに魅了された。
本職なのでは?と疑うくらいに、作品のクオリティが桁違いだったと思う。
Twitterで作品を紹介させて頂いたところ、ちょうどTwitterを開設したばかりの字書きの目に留まり相互フォローになって仲良くなっていった。
本当に好きだった。崇拝していた。
前述したとおり、私は絵描きなのでTwitterにイラストを投稿する。
字書きもそれに反応して、よく感想をくれていた。
しかし、徐々に感想は私のイラストとは関係ない字書きの宣伝にすり替わっていった。
イラストを投稿すれば「イラスト素敵ですね!そういえば、支部に作品を投稿しました。(支部のURL)○○が××する話なのですが、△△も出てきます」という具合に。
最初こそわざわざ教えてくれてありがたいな、と思っていたが8割方宣伝ツイート、
感想はおまけ程度、感想クレクレが滲み出た会話内容にだんだん疲れてきた。
字書きにも徐々にフォロワーが増えていき、私に構うことも減ってたまに会話する程度になった。それはそれで楽だった。
ある時、字書きは「○○はこんなこと言わないw」とツイートした。
私の新刊の内容であることは明らかでそれに派生して界隈を巻き込むプチ論争になっていたようだったが、私も納得する部分があるため傍観していた。
しかし、字書きの
「私の○○はこう!誰にも批判させない!」
この発言を、私は許せなかった。
撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ、とどこかの皇帝も言っている通り批判したからには批判される覚悟を持たなければならないだろうと私は考える。
しかし字書きは、批判はするけど私のことは批判しないでね☆彡ときたものだ。
もう許せなかった。その思想が。神経が。
今まで積もり積もった鬱憤もあり、全てをブロックした。全てを。字書きの作品が目に入る全てを。
愛情の裏返しとは凄いもので、今まで敬愛していた作品も全部汚物のように思えてブクマを外した。
ぶっちゃけ最後は字書き関係ないけど、上記の以外にもいろいろあって字書きが苦手だ。
あと、字書きって聞いてもいないのに何で自分語りばかりするの?承認欲求の塊なの?
○○さんに私の作品が好きって言われました!××さんに新刊渡せた!とか、わざわざDMで送ってくる。聞いちゃいねぇ。
最近も、頼んでもいないのに字書きに新刊の紹介をされて押し売りされた。
イラスト等と一緒で絵柄の好みがあるように、小説だって文体の好みってものがある。
あと、ある字書きは奥付の記載には自分の名前とTwitter、pixiv IDや連絡先を載せてるのに、表紙担当の私は名前だけなのは何故なの?Twitterの宣伝でも頑なに私のID載せないけどなんなの?そういうものなの?これが普通なの?絵描きの情報開示したら死んでしまう病気にでも罹っているの?頼む治療してくれ。
絵描きだってアレな奴居るじゃん!と思われる方がいるだろうが、少なくとも私は絵描きに今までそういったことを受けたことはない。
中には良識的で素敵な作品を書き上げる字書きが居ることも知っている。
しかし、それさえも掻き消してしまうような特殊な字書き共が私の周りには多すぎた。
いや、苦手という言葉では生温い。
私は「モラルと常識が無い字書き」が嫌いだ。大嫌いだ。消えてしまえばいい。
当初述べた表紙タグで良心的な絵描きが、私のような目に遭わないことを切に祈る。
私は今請け負っている表紙イラストで小説本のお手伝いは今後一切もうやめる。
まだやってんのかよ!、と思われた方もいるだろうが断れない性格って本当に損するので今から矯正できる人は矯正した方が絶対にいい。
あたしって、ほんとバカ。
もう疲れた。
全てフィクションです。
LGBTに対しては、世の中は比較的寛容になってきたけど、ペドフィリアは何故いつまでも許されないのだろう?と疑問に思った事があった(今でも思ってる)。
誰かが『力の勾配』みたいな説明をしてくれた。要は大人と幼児では力関係が対等ではないのだから、仮に幼児の同意があっても周りが鵜呑みには出来ないだろう、みたいな話であると思う。
だが僕は何も幼児との性行為を許すべきだ、と主張しているのではない。そんなものは当然NGであろう。
要は法に触れたり公序良俗に反する行為をしない限りは、当人の性的指向に他人が踏み込むべきではない。主張としてはこれだけだ。
例えば幼児をレイプするような大人がいれば、それは性的指向を矯正するプログラムを受けさせるなりなんなりもやむ無しとは考える(ただし積極的には賛成しない。理由は後述)。
LGBTの性的指向に寛容な人達ならば、このくらい分かってくれるだろうと思っていた。…のだが、どうも現実はそうとも言いきれない様だ。
むしろLGBTに寛容な人達の方がペドフィリア許すまじな空気を醸し出し、LGBTに嫌悪感・拒否感を示しそうな人達がペドフィリアを擁護(?)しているんじゃないか?とすら感じる時がある(後者は前者への当てこすりのためにペドフィリアなどを持ち出している可能性もある)。
何でだ。何で皆そんなに他者の性的指向をコントロールしたがるんだ。
自分の子供が犯罪の餌食になることを恐れるあまり、特にペドフィリアを排斥しようとする感情は理解出来なくはない。だけど、実際にそれをやっちゃあおしまいだと思う。
餅は喉に詰まって人を殺すし、自動車は事故で人を轢き殺すし、人は殺意を持って人を殺す。でもいずれも抜本的な対策が取られたことってないはずだ。
それに性的指向が矯正可能となったら、絶対にLGBTはおろか、普通性愛にも累が及ぶ。実のところそれが僕の最大の危惧である。自らの主義主張、もしくは利益のために他人の精神を改造するなんて鬼畜以外の何者でもないだろう?
イケメンに取り合いされるハーレムからの1番粗暴な奴を最終的に選ぶヒロインみたいな
小学校〜中学校の夏休み、どこの学校でも自由研究が宿題に課されていたと思う。
私はそれがひときわ苦手だった。
まず、テーマが出てこない。自分が何をやりたいかが出てこないのだ。
出てきたとしても、それは既存の実験やら本に記載されたアイデアの焼き直し。
小学校の頃は、親に渋々手伝ってもらって、テーマを一つに固定して行ったことを覚えている。
中学の頃は、統計のような資料を基にしてある種あたりまえのようなことを述べるだけだった。
そしてそのどちらも、テーマに関する考察や疑問が設定できず頭を抱えたものだった。
今になって思えば、ああいう課題は子供の発達障害(の一部)を見分けるために出しているのかもしれないと邪推している。
紋切りや媚びた文章で覆い隠されがちな読書感想文よりも、よっぽど自己発露が試されるからだ。
ちゃんと自発的に考えられるか、きちんと疑問を持ち、それに対して解決できる小柱や実験を計画できるか。
そういったことを見定めるある種のファクターとして活用できる、もしくはされていると思う。
ただそれは、研究室時代に子供の頃から矯正を放棄されていた考え方を改善されたから。
教授や先輩にミッチリしごかれたからこそ、無事論文を提出し、就職できたと思っている。
今でこそ研究テーマを自分から持っていき、質疑や討論を出来るようになったものの、
(たまに重箱の隅をつつくような意味なし質問をしていまうこともあるけれど)
配属当初はアウトプットがボロボロすぎて「君はなんのために研究をして学問を学ぶのか」と詰問された程だ。
これが本人の投稿だと信じるとして、件のブログに納得できる部分もあるもののどこか無性にムカツク理由が分かった。
「クジラックスの作品がコロコロ」とかいう糞みたいな例えでな。
結局いつもの「あなた向けのフィールドではないということが分からない人たち」問題だからだ。
ジャンプ+は週刊少年ジャンプのWEB漫画ではない。ジャンプという名前こそついてはいるがヤンジャンと同じで週刊少年ジャンプとは全くの別の層をターゲットにしている。終末のハーレムとか、週刊の方には載せれないけどプラスなら掲載できる。その温度差が分からないからそんな馬鹿みたいな例えが出てくるんだ。
案の定、普段からプラスを読んでた訳ではなく、ツイッターやはてなで目についたからイナゴってみたと。
「女性の裸体が軽く扱われる」ことが問題なら、まず終末のハーレムやら早乙女姉妹やらに噛みつかなきゃ順番がおかしいもんな。でも実際には問題になってないだろ。既にジャンルという括りで緩やかにゾーニングされてきたんだよ。プラスは。
乳首も出る、ラッキースケベ有り、謎のサービスシーン。そういったエロが今まで許容されてきたフィールドに、たまたま1作品を読んで次の日には去っていくお客さんに、そのフィールドの方向性を外部の規範で「矯正」する権利なぞない。
これから俺がやろうとしているのは、オタクにありがちな、しかし絶対にやってはいけないとされる
『新しいコンテンツにハマった時に、前にハマっていたコンテンツを腐して後ろ足で砂をかける』という行為だ。
こんなことをしても誰も得しない、双方に悪印象を与える。ツイッターや某匿名掲示板で対立煽りに使われるのがオチだ。
だがしかし、書かずにはいられないのだ。書くことで救われるものがある。これは俺のエゴだ。
某アイドル育成ゲームをプレイする人々の目的はなにか、愛するアイドルを育成して、トップアイドルに導くことか、違う。
某アイドル育成ゲームをプレイする人々はある暗黙の了解のもとにプレイをしている
某アイドル育成ゲームをプレイする人々の目的は、某アイドル育成ゲームが続くことにある。
某アイドル育成ゲームの運営は某アイドル育成ゲームが続くために、あらゆる手段を講じる。
ゲームにとどまらず漫画、アニメと多方面に展開する。矢継ぎ早に新展開、ここぞという時に新アイドルを登場させる。
だがそうする中で、設定はとっちらかって、媒体ごとにブレが生じる。
新展開、楽曲、グループの活動はやがて人気のある特定のアイドルに偏り始める。アイドルの人格もウケが良かったものに矯正される。
気がつけば、自分の愛するアイドルは他のアイドルの割りを食って無下にされることが当たり前。活躍したかと思えば別人のようになり
それまでのそのアイドルの歩みを否定するような望んだ活躍とは程遠い。お前はそんなことを言わなかったはずだ、と思うことがざら
にある。
でも仕方がない、全ては某アイドル育成ゲームを続けるために必要なのだ。人格が変わったのは成長したからだ決してキャラ崩壊ではな
い。人気のあるアイドルに活躍を集中させるのもビジネス的に考えたら当たり前だ。それが運営の判断なのだ。それが正しいのだ。
そう自分に言い聞かせてるのが某アイドル育成ゲームをプレイする人々だ。
だが冷静になって考えて欲しい。いちプレイヤーに過ぎない俺達が、なぜ運営の言うことに盲従しなければならなかったのか
今ならハッキリ言える。某アイドル育成ゲームは、アイドルを人質にした運営のやることなすことに盲従するゲームだ。
俺達はもっともっと運営に対して抗議の声をあげるべきだった。もっとちゃんとアイドルたちのために考えてくれと、愛するアイドルの
ために声を上げるべきだった。もっと自らのエゴを隠すことなく表に出すべきだった。
某アイドル育成ゲームは人生に例えられることがある。だがいつしか自分を押し殺して運営に盲従することで、心は疲弊して、その人生
は生き地獄となる。終わりのないのが終わり、それが某アイドル育成ゲーム。
そうだここには物語がある。
某アイドル育成ゲームで僅かな描写から限りない考察を続けたが、ろくすっぽ設定も顧みられず憤懣やるかたない思いをしたあなたの望みを叶え
るものがある。
愛するアイドルが成長したかとも思えば、別人格のように変わり果ててなかったことにされてやるせない思いをしたあなたの望みを叶え
るものがある。
アイドルたちに平等に活躍して欲しいという当たり前のあなたの望みを叶えるものがある。
ここには、成長がある。物語がある。私達が滂沱の涙を流したことに意味がある。なかったことにはされない。
そして何よりエゴがある。
某アイドル育成ゲームをプレイする中で一度ならずも思ったはずだ。「なぜこの子はアイドルをやっているのだろう、この子にとってのアイドルとはなにか、アイドルを続けることがこの子にとって本当に幸せなのか、こんないい子が自分なんかに追従しているのが幸せなのか、なんのために自分が居るのだ、自分とアイドルの関係はなんなのだ」
アイドルとして活躍してほしいと思う一方で、アホみたいなクソでかい思索があった感情があったエゴがあった。だがそう思いながらも関係なしに運営に盲従してきたのが私達だった。
ゾンビランドサガのアイドルたちはゾンビである。アイドルとなりアイドルとして生きる、死んでるけど生きる。それ以外に道はない。
そしてゾンビランドサガのアイドルたちの目的は佐賀を救うことある。そのために無茶振りをされる。それに応えるのがゾンビランドサガのアイドルたちだ。
ゾンビランドサガには理屈を超えたでっかい何かがある。そしてその裏には無私の心などではない。どでかいエゴがある。
ゾンビランドサガには、理屈抜きにもっともっとアイドルとして活躍しろという純粋なエゴをむき出しにしていい。それが俺達にとって救いにもなる。
そして俺は確信しているゾンビランドサガには、こうしたエゴを何ともしない何かがあると、そして某アイドル育成ゲームにはない。