はてなキーワード: 姦通とは
「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。 」
日本国憲法第31条に明確に規定されているこの言葉は、いくらか人によって解釈が違う。例えば刑事罰に於いて犯罪者に対し口頭での罰や晒し刑などは当然存在せず、また誹謗中傷の類は生命或いは自由を奪うものではないとして、ネットリンチを正当化するものがいる。(ただし31条に関係なく名誉毀損罪として訴えられるケースは多々ある)不倫報道が出れば当たり前のようにネット中で罵詈雑言が書き込まれ、しかもそれが正義などと囃されたりする。
何度も人に言ってきたことだろうが、上記の通り法律の手続きなくして個人個人が他者を不当に罰することは法律上認められるものではないことを忘れている人間が少なからずいるようである。ネット私刑と言ってネット上での私刑行為を問題視する動きもあるが、時折それはネット上でのみ私刑が行われるというような、問題をある概念に閉じ込めてしまう不可思議なロジックを感じることがあるためここに明言しておきたい。ネット以外でも私刑というのは存在する。
姦通が行われて、復讐のために一方が他方を害するというのはときおり聞く話である。(弁護士局部切断事件((某大学の法科大学院に通う青年が、妻の浮気相手である男の局部を切断した事件))が一例)ただ、この場合は強姦されたと勘違いした男側の凶行だったそうだが、率直に言って、強姦であっても私刑が認められるということはありえない。強姦だから、大切な人を殺されたから、自分の尊厳を著しく傷つけられたから……感情的には理解できる理由だし、被害者の権利などを損なうつもりもなく、また加害者を守ろうという意志もない。ただ私刑がいけない。というより、これらは私刑でもなんでもなく明確な「犯罪」である。当然、それを行った人間は(さらにいえば、そこが正当な法治国家であるなら)他の犯罪者と同様に裁かれる。
ただし、裁判において情状酌量がないわけではない。例えば尊属殺重罰規定違憲判決(実父殺害事件((実父から恒常的に性交渉を迫られて、父との子供まで出産し夫婦同然の関係を強いられていた女性が父親を殺害した事件)))のさいには被疑者側の事情や心情などを斟酌して、合憲違憲の判断に関わらず、すべての裁判所が能う限り量刑を軽くする方針を示し、その過程において尊属殺の法令を見直し違憲に至ったという事例があるし、平たく言えば、裁判官だって鬼ではない。同じ犯罪であっても同情の余地がないものは重刑となるし、上記の通り減刑されることもあるだろう。
一体なにが言いたいかと言うと、被害者、あるいは被害者親族と加害者間に於ける私刑は、それが行われた時点で法律上明確な「犯罪」として認識され、刑法に則った判決が下されるということ、第二に、私刑という観点からのみ指摘できる事由ではないこと、第三に一般的にそれは個人と個人との事件であるということである。親族を殺されたものが復讐のために加害者を殺せば当然罪に問われるし、そのさい殺害に至った様々な問題(メディア・リンチ、経済的、精神的な救済の不十分)が見直される。さらに言い及ぶなら、すべての復讐殺人などをなくそうというのは極端に言ってすべての犯罪をなくそうと言うようなもので、私刑のような一義的観点から捉えられるものではないものの、明確な「悪行」として判断できる事由として扱える。
栃木実父殺害事件がどれだけ同情の余地があろうと無罪になることは決してない。あの京都認知症母殺害心中未遂事件でさえ、刑は執行されたのである。さきほど法律は鬼ではないと言ったが、だからといって温情に充ちているわけでもない。設けられた基準の範囲内で酌量するだけのことである。
ところが、第三者がアジテーションの如く私刑を推進したり、「この事例に於ける私刑はいいけど、この事例に於ける私刑はダメ!」などと何故か私刑を差別化しているような人間をままみる。全部駄目だ。
ネット以外でも私刑があるとは言ったものの、それが私みたいな一庶民にまで広がってくるツールはだいたいネットで、こんな日記を書き出したのも「不倫をしたやつにはこうしてやれ!」という攻撃的な文体とともに男性器(おそらく偽物と思われる)を女性がジャンプして踏みつけ続けるという奇天烈な動画を見てしまったからである。最初も私は「なんだ、過激なジョークだ」と笑っていたが、それに寄せられた一連のコメントを見ても冗談ごとではないようだった。しかも動画を投稿した人の(動画自体は拾い物らしいが……)発言が「女の方が男より二倍浮気をしやすい。だから、女が浮気したときは熱した金属を流し込め」などというもので、ひどく戦慄した。もちろん、こんなものは広いネットの世界におけるごくごく一部の一例にしか過ぎない。だからネット上、引いて現実でこのような復讐が認められているなどとは思わない。
けれども、どこかしら皆「悪人なら攻撃したっていいだろう」と思うところがあるかもしれない。しかし、それは間違いである。どんな理由があるにせよ悪行は悪行である。「あいつムカつくから攻撃してやろうぜ」というのと全く変わらない。いじめられる方が悪いなどと言って逃げる場合もあるが、いじめ自体が悪いということに変わりがない。どれほど正当化したところで絶対の誤りである。
世間は非常に大きなうねりを持った流動的な性質があるので、一個人の考え方だけが改まってもしようがない面がある。だからこそ線引が難しい。私刑を撲滅したいからと言って一人ひとりの言論や行動に政府や法律が過干渉すれば、それはディストピアである。ただ、逆説的に言及すると、ディストピアにせざるを得ないような民衆が力を持っているのも考えもので、人によっては、ある程度制限された世界のほうがずっと平和のように思うかもしれないのである。それはネットによって個人個人が情報発信能力を持つことで、なんの権力も地位ももたない一般人も、言動や論理性、道徳的な真偽など情報発信するものに必然の悩みを抱えなければならないからこそ、より切実に考えられるべき問題なのである。ネット私刑なんてものは、人々が出す機会もなかった攻撃性や偏狭な視点が顕在化した結果生まれる単語であり、その本質には一部の人間が私刑を……もっと悪質であれば、自分のストレスの発散のために他人を陥れることを良しとしていることにある。それに対抗するためには、その考えを持つ個人を糾弾するのではなく、その考え自体を批判しようという姿勢が大事だ。「罪を憎んで人を憎まず」と言う言葉には深い含蓄が込められており、この私刑問題を考えることによって再確認することができるだろう。
こういうことを聞いて少しは反省するもの、この考えに肯い「そうだそうだ」と声を上げるもの、犯罪者がいるなら石を投げるのが正義だと考えるもの、いろいろいるだろう。もしこの文章を見て少しは私刑を改めようと思ったとき、こういう風に考えてみてほしい。
「自分は知らず知らずのうち、こうした行為をやってしまってはいないか」と。
私もそうするようにしている。これは悪いんだなー、なんて悪いやつだ、と考える前に自省する。これがとても重要である。窃盗をしたものを馬鹿だと笑ってみても、よくよく思い出せば幼少期に、冗談ごとで済まされたとは言え窃盗じみた行為をしていたかも知れないし、いじめは良くないと憤る人が、いじめまがいの行為を無意識にしてしまっていたということもありうる。罪を犯さない人は理想的だが、そうそうそんな人は現れない。ぜひ、私刑を嫌う人も考えてみてほしい。「私刑を嫌った結果、私刑を行う人々に、また私刑じみた行為を働いてはいないだろうか」。殴る、蹴る、罵詈雑言を吐く、情報が消えづらいネットに個人情報を流す、ありもしない話をまことしやかに流布する……。こんなものはすべて私刑である。
余談だが不倫事件で話題になったベッキーと川谷絵音氏の事件で、ネット上に不倫が許せないあまり過剰な罵詈雑言が散見されることに苦言を呈していた増田へ、「不倫したいからそんなこと言うんだろう」とか「不倫しなきゃいいじゃん」とか、「人の性だから仕方ない」とかいうコメントがつけられていて驚いたことがある。きっとあの増田にとっても予想外のコメントだったと察されるが、それらのコメントを見てどのようなことを思ったのだろうか……。
看護師で、複数人に対して処女喪失の相手となった側の男性です。大変お疲れ様でした、、。
女性にとって破瓜は1回きりのことですが、男性は0回から複数回経験する可能性があります。
なぜか当時の彼女は処女の方が多かったので、現在の医学的知識と合わせて少し書いてみようと思います。
経験した当時は医学的知識などまったくなかった頃なので、この記事は過去の経験と現在の知識を統合して考えた内容ということになります。
私は処女喪失を4名分経験していますが、1人を除いてみな初めてのときはとても痛そうで、1人はあまりに痛がるので結局途中で断念しました。
結論から言うと、「サイズを選ぶ」「先行鎮痛」「リラックス」「翌日は休めると良い」です。
ずいぶん前の話にはなりますが、当時調べたときには、「破瓜の痛みは処女膜が破れる痛みは少しで、膣壁が初めて男性器を受け入れ押し広げられる苦痛と、恐怖など心理的苦痛が大きい」ということでした。
医療職で、創傷を扱う現在では、「普段刺激がない敏感な粘膜がちぎれて、その後も摩擦されるとかめっちゃ痛いに決まってるやろ!」と思うのですが、それ以外にも膣の大きさや心理的な構えが関係しているように思います。
「僕も童貞、彼女も処女」という初めて同士のときの方は全然痛くない様子で、彼女は僕より背が高かった(>170cm)し、他の女性と比べるとナカも広い(狭く感じない)方でした。
膣の大きさは男性器のサイズのようにわかりやすくはありませんが厳然として存在し、人によって狭さ・深さともかなり違います。主観的には狭い方は浅いことが多いように思います。
私の男性器のサイズは変わらないので、このサイズで余裕がある方、狭めで窮屈に感じるという方、大きすぎて痛いという方(非処女)など様々です。
ご自身のサイズを見極めるのは難しいですが、指を入れてみる、タンポン使用時の感覚、ご自身の身長などから類推して使用するもののサイズを調整してもいいかもしれません。
物理的には「荒廃したトンネル」との表現にあるように、経験のない部位を異物で押し広げられる圧力と違和感は避けられません。
これに対しては、上述の通り必要以上に大きなサイズを選ばないという対策がメインになります。
また、2回目は1回目より痛くなかったとのことですが、粘膜損傷の痛みと「押し広げられる痛み」は別物に思います。これは慣れです。クスコはそれほど大きくないので、2回行う必要があるかわかりませんが、、
1回目は粘膜の損傷を伴いますので普通にケガです。自らケガしようとしているので、手術後の方がリハビリ前に痛み止めをするよう、予防的鎮痛をしたほうがいいですね。
キシロカインゼリー(表面麻酔)、と言いたいところですが、キシロカインショックに至る可能性も0ではないので素人さんにはオススメできません。
ロキソニンなどを30分ほど前に服用してからことに至るのをおすすめします。
最も苦労し、ついに完遂できなかった方は、指だけでもとても痛そうで、「指から慣らし、2~3回目で挿入」という当時の僕の対処女作戦も全く通じませんでした。
この方は、心理的にセックスに対して恐怖感もあり、全身は力み、僕はそれを緩和することができませんでした。
がん医療などの現場でも、痛みは学習される、痛みは身体的なものだけでなく、心理的・社会的・霊的な要素で構成されるとされています。彼女の場合はその恐怖感が苦痛を相乗的に高めてしまったのでしょう。
筆者さんの場合は、自らディルドでもってこじ開けようとされる程の方ですので、心理的な恐怖などは少ないように感じました。
行為に対して恐怖や不安が強い方は、できるだけリラックスできる環境を整える必要があるでしょう。
ゆっくりできる場所・音楽・アロマなどリラックスできる環境を整え、気持ちを整えましょう。
また、複数の方が、姦通後も、帰り道は歩くだけでも痛い、足がガクガクする、股間の違和感、何かが挟まっていて足が閉じている感じがしない、などの訴えがあり、翌日も自転車に乗れないなど影響は残っていました。
お風呂などを済ませ、もう寝るだけの状況で。できれば翌日もゆっくりできる日取りを選ぶといいと思います。
まず、ご自身がシャワーを浴びて清潔になり、道具も流水で洗浄、消毒します。
マキロンの成分はよくわかりませんが(調べてみたけど)、手術に使用するヨードが良いように思います。
イソジンうがい液7%を原液のままディルドにぶっかけ、乾くまで待ちます(消毒は乾くときに殺菌効果を持つ)。これにコンドームを被せれば完璧です。
使用したディルドは石鹸で洗ってください。ヨードが長期間皮膚についていると良くないのでコトの後もシャワーを浴びてくださいね。
長々と書いてみましたが、、、僕はいったい何を書いているのだろうという気分になっていますが、同様の経験をされた方が複数名いるようですので今後の参考になる方もいるかもしれませんね。
「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。 」
日本国憲法第31条に明確に規定されているこの言葉は、いくらか人によって解釈が違う。例えば刑事罰に於いて犯罪者に対し口頭での罰や晒し刑などは当然存在せず、また誹謗中傷の類は生命或いは自由を奪うものではないとして、ネットリンチを正当化するものがいる。(ただし31条に関係なく名誉毀損罪として訴えられるケースは多々ある)不倫報道が出れば当たり前のようにネット中で罵詈雑言が書き込まれ、しかもそれが正義などと囃されたりする。
何度も人に言ってきたことだろうが、上記の通り法律の手続きなくして個人個人が他者を不当に罰することは法律上認められるものではないことを忘れている人間が少なからずいるようである。ネット私刑と言ってネット上での私刑行為を問題視する動きもあるが、時折それはネット上でのみ私刑が行われるというような、問題をある概念に閉じ込めてしまう不可思議なロジックを感じることがあるためここに明言しておきたい。ネット以外でも私刑というのは存在する。
姦通が行われて、復讐のために一方が他方を害するというのはときおり聞く話である。(弁護士局部切断事件((某大学の法科大学院に通う青年が、妻の浮気相手である男の局部を切断した事件))が一例)ただ、この場合は強姦されたと勘違いした男側の凶行だったそうだが、率直に言って、強姦であっても私刑が認められるということはありえない。強姦だから、大切な人を殺されたから、自分の尊厳を著しく傷つけられたから……感情的には理解できる理由だし、被害者の権利などを損なうつもりもなく、また加害者を守ろうという意志もない。ただ私刑がいけない。というより、これらは私刑でもなんでもなく明確な「犯罪」である。当然、それを行った人間は(さらにいえば、そこが正当な法治国家であるなら)他の犯罪者と同様に裁かれる。
ただし、裁判において情状酌量がないわけではない。例えば尊属殺重罰規定違憲判決(実父殺害事件((実父から恒常的に性交渉を迫られて、父との子供まで出産し夫婦同然の関係を強いられていた女性が父親を殺害した事件)))のさいには被疑者側の事情や心情などを斟酌して、合憲違憲の判断に関わらず、すべての裁判所が能う限り量刑を軽くする方針を示し、その過程において尊属殺の法令を見直し違憲に至ったという事例があるし、平たく言えば、裁判官だって鬼ではない。同じ犯罪であっても同情の余地がないものは重刑となるし、上記の通り減刑されることもあるだろう。
一体なにが言いたいかと言うと、被害者、あるいは被害者親族と加害者間に於ける私刑は、それが行われた時点で法律上明確な「犯罪」として認識され、刑法に則った判決が下されるということ、第二に、私刑という観点からのみ指摘できる事由ではないこと、第三に一般的にそれは個人と個人との事件であるということである。親族を殺されたものが復讐のために加害者を殺せば当然罪に問われるし、そのさい殺害に至った様々な問題(メディア・リンチ、経済的、精神的な救済の不十分)が見直される。さらに言い及ぶなら、すべての復讐殺人などをなくそうというのは極端に言ってすべての犯罪をなくそうと言うようなもので、私刑のような一義的観点から捉えられるものではないものの、明確な「悪行」として判断できる事由として扱える。
栃木実父殺害事件がどれだけ同情の余地があろうと無罪になることは決してない。あの京都認知症母殺害心中未遂事件でさえ、刑は執行されたのである。さきほど法律は鬼ではないと言ったが、だからといって温情に充ちているわけでもない。設けられた基準の範囲内で酌量するだけのことである。
ところが、第三者がアジテーションの如く私刑を推進したり、「この事例に於ける私刑はいいけど、この事例に於ける私刑はダメ!」などと何故か私刑を差別化しているような人間をままみる。全部駄目だ。
ネット以外でも私刑があるとは言ったものの、それが私みたいな一庶民にまで広がってくるツールはだいたいネットで、こんな日記を書き出したのも「不倫をしたやつにはこうしてやれ!」という攻撃的な文体とともに男性器(おそらく偽物と思われる)を女性がジャンプして踏みつけ続けるという奇天烈な動画を見てしまったからである。最初も私は「なんだ、過激なジョークだ」と笑っていたが、それに寄せられた一連のコメントを見ても冗談ごとではないようだった。しかも動画を投稿した人の(動画自体は拾い物らしいが……)発言が「女の方が男より二倍浮気をしやすい。だから、女が浮気したときは熱した金属を流し込め」などというもので、ひどく戦慄した。もちろん、こんなものは広いネットの世界におけるごくごく一部の一例にしか過ぎない。だからネット上、引いて現実でこのような復讐が認められているなどとは思わない。
けれども、どこかしら皆「悪人なら攻撃したっていいだろう」と思うところがあるかもしれない。しかし、それは間違いである。どんな理由があるにせよ悪行は悪行である。「あいつムカつくから攻撃してやろうぜ」というのと全く変わらない。いじめられる方が悪いなどと言って逃げる場合もあるが、いじめ自体が悪いということに変わりがない。どれほど正当化したところで絶対の誤りである。
世間は非常に大きなうねりを持った流動的な性質があるので、一個人の考え方だけが改まってもしようがない面がある。だからこそ線引が難しい。私刑を撲滅したいからと言って一人ひとりの言論や行動に政府や法律が過干渉すれば、それはディストピアである。ただ、逆説的に言及すると、ディストピアにせざるを得ないような民衆が力を持っているのも考えもので、人によっては、ある程度制限された世界のほうがずっと平和のように思うかもしれないのである。それはネットによって個人個人が情報発信能力を持つことで、なんの権力も地位ももたない一般人も、言動や論理性、道徳的な真偽など情報発信するものに必然の悩みを抱えなければならないからこそ、より切実に考えられるべき問題なのである。ネット私刑なんてものは、人々が出す機会もなかった攻撃性や偏狭な視点が顕在化した結果生まれる単語であり、その本質には一部の人間が私刑を……もっと悪質であれば、自分のストレスの発散のために他人を陥れることを良しとしていることにある。それに対抗するためには、その考えを持つ個人を糾弾するのではなく、その考え自体を批判しようという姿勢が大事だ。「罪を憎んで人を憎まず」と言う言葉には深い含蓄が込められており、この私刑問題を考えることによって再確認することができるだろう。
こういうことを聞いて少しは反省するもの、この考えに肯い「そうだそうだ」と声を上げるもの、犯罪者がいるなら石を投げるのが正義だと考えるもの、いろいろいるだろう。もしこの文章を見て少しは私刑を改めようと思ったとき、こういう風に考えてみてほしい。
「自分は知らず知らずのうち、こうした行為をやってしまってはいないか」と。
私もそうするようにしている。これは悪いんだなー、なんて悪いやつだ、と考える前に自省する。これがとても重要である。窃盗をしたものを馬鹿だと笑ってみても、よくよく思い出せば幼少期に、冗談ごとで済まされたとは言え窃盗じみた行為をしていたかも知れないし、いじめは良くないと憤る人が、いじめまがいの行為を無意識にしてしまっていたということもありうる。罪を犯さない人は理想的だが、そうそうそんな人は現れない。ぜひ、私刑を嫌う人も考えてみてほしい。「私刑を嫌った結果、私刑を行う人々に、また私刑じみた行為を働いてはいないだろうか」。殴る、蹴る、罵詈雑言を吐く、情報が消えづらいネットに個人情報を流す、ありもしない話をまことしやかに流布する……。こんなものはすべて私刑である。
余談だが不倫事件で話題になったベッキーと川谷絵音氏の事件で、ネット上に不倫が許せないあまり過剰な罵詈雑言が散見されることに苦言を呈していた増田へ、「不倫したいからそんなこと言うんだろう」とか「不倫しなきゃいいじゃん」とか、「人の性だから仕方ない」とかいうコメントがつけられていて驚いたことがある。きっとあの増田にとっても予想外のコメントだったと察されるが、それらのコメントを見てどのようなことを思ったのだろうか……。
非モテっていうのは恋愛市場で勝てないか、勝つ見込みが小さいために本人が諦めてしまっている状態なのだから、勝てる見込みを増やしてやるのが支援の内容になる。
で、なんで勝てない奴がいるかっていうと、
だったら対策は、
ということになる。
どれも実現可能だ。
まず、市場参加者を増やすには、妥協したくないために最初から諦めて参入していない人たちに、妥協するインセンティブを提示して参入させれば良い。これで二つの問題が解決する。
具体的には結婚のインセンティブを増やせば良い。税制改革で可能だ。また、恋愛市場全体を個人にとって居心地の良いものにする対策も有効だだろう。セクハラを含む性犯罪の取り締まりを強化し、厳罰化すれば良い。
残りの課題は需給ギャップを減らすことだけだが、これは需給ギャップを拡大させる行為に負のインセンティブを与えれば良い。二股や不倫などの行為だ。
姦通罪を復活させ、男女平等に適用する。二股を刑事罰にしても良いかもしれない。現在結婚前のお付き合いには法制度が全くないが、婚姻の前段階の関係を法的に認め、税金や給付金などのインセンティブを与え、二股などの行為を不倫に準じるものとして厳しく取り締まれば良い。法的に認められていない関係のものが性行為を行うことを法律で禁止してもいいだろう。一夜限りの関係で満足し、特定の相手を持たないような人が特定の相手を見つける誘引になる。
これら全ての対策を行えば、恋愛市場参入者が増え(最初から参入しないものが減り)、需給ギャップが小さくなり(あまり者が減る)、インセンティブのために妥協して相手を見つけるものが増える(魅力がないために相手が見つけられない、妥協したくないために相手を見つけない者が減る)。
平成の世に青森の山村で生を受け、田舎者としてのアイデンティティを育みながら高校を卒業。現役で都内の大学の文系学部に入学し、初めて覚えたお酒やタバコ、麻雀に塗れて遊び呆けること4年、かつて純朴たる津軽っ子だった私は3度目の留年の危機に晒され、平穏無事に3度目の留年が確定したのが、つい先月のことだった。
入学時、私が胸に抱いていた”憧れの大学生活”とは、椎名誠の作品に見られる”酒に振り回される共同生活”や、森見登美彦の作品のような、”汚い豚小屋みたいな下宿”に住まうことであって、このように退廃的な大学生活を希求して一人暮らしを始めてしまったが故に、大学の単位はことごとく落とし続け、すべからく留年を3度、他人から見たら紛れもない奇行に突っ走る人間となってしまった。しかし自分でさえこの行為を”そろそろヤバイな”と感じ始めたのは、精神的な成長の一歩と数えて片付けるよりは、むしろ目の前にある現実的な要因を検討するべきであり、その要因とは単純明快、自分と同期の女の子、つまり今年卒業する女の子に愛の告白を断られたからである。しかも2人。
恋の終わりの始まりは1ヶ月前に遡る。春休みに入ってから、いよいよ卒業する同期の友人たちの事を考えていたら、お互いが学生であるというまたとない機会に一度飲むべきとの結論にたどり着き、この4年間何がしかの付き合いがあった友人たちに”酒を飲もう”と、DMの配達員ばりに無差別にメールを送りつけた。多様な返事、または声無き返事が返ってきた中で、”暇なお前を相手にする時間は無いよ”と、事実暇な私に対する軽蔑を露わにする内容もあれば、”暇だけどいいや”と、私への嫌悪を隠そうともしない内容までもあった。そんな辛辣な電子のやり取りにおいて、慈善事業の一環なのか、この私と酒を酌み交わしたいと申し出る者も数名いた。ありがとう、ありがとう。君らだけが友人だ。では飲もうじゃないかと、ここ1ヶ月間、相手を代わる代わる酒宴を開いていた中で――20代前半の青っちい我らである。若い男女が杯を重ねれば当然のように――情事は常に避けられない。この1ヶ月、何度かの姦通があり――これもまた必然――、男女が淡い恋の色を見出すこともあった。一度ならず、二度。つまり、私はこの1ヶ月の間で二度の恋を経たのだった。そして、既に明かしているが、二度フラれた。
恋の遍歴に関しては誰も興味無いだろうし、思い出すだけで地獄の業火のような苦しみに焼かれるので、端折って私が敗北を喫した台詞まで飛ぼう。それは、二人とも――まるで示し合わせたかのように――、全く同じ文言で――ホントに示し合わせたんじゃないだろうかと疑うほど――、「増田君、卒業するの3年後でしょ?私そんなに待てないから、ごめん」と。なんという悲劇!私が自ら求めて送った退廃的な学生生活の終着点は、モテないという事実だったのか!一人目まではよかった。仕方あるまい、次に進もうと、滑稽なまでに楽観的な自分を保つことが出来た。しかし二人目まで同様の言葉を吐いた時にはもう、私の精神は切り刻まれてバラバラになり、じっくりコトコト煮込まれて、三留陰気クソ野郎のシチューが完成した。こんなドロッドロで塩っ辛いシチューを食べたがるバカ舌の妖女は今後現れるのだろうか。私は二人から留年を理由にフラれたことによって、自分の恋愛市場における価値の低さをようやく認識するに至ったのだった。
”留年したからフラれた”というのは本質的には”将来性が無いからフラれた”という事実に直結している。確かに私は”将来性”なんてなんの根拠も無い信仰みたいなものでしか無いと考え、”俺は今なんだよ”とツッパリ続け、この4年間、それを育む行為を一切放逐した生活を送ってきた。この事実は自認しているのだが、まさかこんなにも早く、”将来性”のビハインドが影響する年齢に達するとは想像もしていなかった。三留って世間的に見てかなりヤバイんだなと自認するには二度の恋の敗北が無ければあり得なかったというのも、またヤバイのだが。
恋愛市場の非情な一面とは、同年代の男女の需給が年齢によって一致しないところである。男はいつまでも恋を求めるが、女性はそうではない。どこだかの著名な先生が言っていたが、女性は大学を卒業するタイミングで、男を評価する視点を”恋愛”から”婚活”へとスライドするらしい。すなわち男に求める要素が変化する。それも驚異的に。私がここまで絶望しているのは、奔放な大学生活において比較的モテる立場にあったのが、加齢に伴う恋愛市場の変容によって、唐突にオケラ級にモテない立場にすり替わったからである。未だに自分はモテると信じたいのが本音だが、実際に同期の女の子からしたら、私はオケラだ。彼女らからしたら、将来性なんて一ミリも感じないだろう。私も感じていないのだから。
私は高をくくった羽ばたく鳥であったが、恋愛市場の神の見えざる手は飛ぶ鳥をはたき落として、地面にめり込んだ私は三留オケラ野郎として慎ましく穴でも掘って生きていくことを余儀なくされている。人生つら。
まず児童ポルノは二次三次を問わず禁止な、設定上ではなく20歳未満に見える創作物はすべて単純所持でアウト
ただし6歳以上14歳未満かつ実在しない男性であれば25歳以上の女性との組み合わせに限ってセーフ
あと痴漢・レイプ・セクハラ・暴力・売買春描写は犯罪を助長するから禁止な
ただし加害者が25歳以上の女性で被害者が6歳以上14歳未満かつ実在しない男性であれば例外的にセーフとする
それから姦通・援交・いじめ・近親相姦の描写も社会の秩序を乱すから禁止な
ただし近親相姦は当事者に6歳以上14歳未満かつ実在しない男性が含まれていれば例外的にセーフ
普通に考えれば、不倫自体が悪い。誰がやっても悪い。当たり前だ。
しかし、ゲス以降の騒動を鑑みるに、どうも不倫した人間が「優等生ポジションの芸能人」だったり、
「わざわざ育児休暇を取るような意識高い系議員」だったから、余計に叩かれた印象がある。
どうも、運動部の奴らが好き勝手するのはしょうがないけど、陰キャラが同じことをするのは許されない、
ベッキーはあれから番組下ろされたり、違約金を払うハメになったり散々らしいが、
例えばプロ野球の監督があれだけ不倫しといて、そのせいで辞めることになった人は何人いただろうか。
角界や梨園なんかその辺乱れに乱れまくっていると聞くが、みんな見てないふりをしている。
育児休暇を取った議員が辞める一方、どこぞのコスプレポピュリストは涼しい顔だった。
サラリーマンなら、不倫が社長にばれれば降格や退職といった罰は免れないだろうが、
不倫の社会的制裁というのは思った以上にガバガバである。一部の世界(の男)に甘すぎる。
ちなみに乙武氏については、叩きたい人は普通の人みたいに叩いていいんじゃないかと思う。
というのも、そもそも彼は「障碍者だからといって固定観念で見てほしくない」という主義でデビューしている。
むしろ望むところだろう。
いろいろ考えられるだろうが、とりあえず最大公約数的に言えるのは、夫が妻子を平気で捨てたり、
誰が親かもわからない子がそこら中にあふれたりという環境は、大多数の人間にとって望ましくないと思われる。
かつての武士階級では、不貞がわかれば重ねて四つに斬るという時代もあったらしいし、
近代までは姦通罪というものもあったが、現代の日本では民法上のみ制裁の対象となる。
ただ、慰謝料の相場は、ケースにもよるが数百万円というのが大半だと聞く。
上で挙げたように、ある程度収入のある立場の人間には、むしろ社会的制裁の方が痛い。
ただ、社会的制裁はどうも命中率が悪いし、かといって金は今の相場だと払える奴にはそこまで痛くない。
それ以外、何に頼って不倫が抑止できるのだろう。そもそも、そこまでしてでも抑止すべきという合意があるのか。
殺されるまでもない、刑法で罰するまでもないから、そういう決まりはなくなったのではないか。
なんだかわからなくなってきた。
性欲の盛り、16歳で童貞を捨てた俺は大学受験を機に彼女と別れ、時忘大学に無事合格した。
入学した先は私立のマンモス大学だったので、受験の開放感や大学デビューを目指すチャラけた奴らが多かったが、すでに性欲の盛りで姦通を済ませていた俺は特に焦りもせす高みの見物、という感じであった。
そしたらそのまま、もうすぐ30歳である、学生時代の出会いも別に焦ることはない、と高をくくっていたらいつのまにか学生時代は終了し、社会人になってからというもの会社と仕事の往復で恋愛をしている隙間はいったいどこにあるというのだろうか。
しかもなまじ学生時代はちやほやされる側だっただけにいまの出会いがない環境やくたびれてしまった自分が恋愛大縄跳びの輪に入っていくきっかけがつかめない
イスラームの教義における性
婚外セックス・レイプ
一般的なシャリーアの解釈では、同意の上での婚外セックスを犯した男女は、既婚者の場合投石による死刑、未婚者の場合100回の鞭打ちである。またレイプに対しては、加害者は投石刑に処される。
実際のイスラーム世界における性文化
婚外セックス
(略)
上に挙げたとおり、同意の上での婚外セックスへの刑罰は、シャリーアの規定上は男女平等であるが、実際はこのような場合、男性の側は『女が誘惑した』と言い逃れをするのが常道であり、司法部もかなりの事例においてこれを認めるので、男女ともに死刑になるべき事例であっても、実際は男性の側は酌量により鞭打ち100回、女性のみ死刑となることが少なくない。
(略)
それに加え、上記にあげたレイプ被害者に対して求められるイスラーム教徒男性4人の証人の確保も現実の男性中心的な社会では難しく、意を決して性的被害を訴えても、同意の上での婚外セックスであるにもかかわらず、男性を落としいれようとしたとして、逆に姦通罪や偽証罪に問われ投石刑で処刑される事例が少なくない。
(略)
また国法での罰則とは別に、未婚者の女性の婚外セックスは、同意・レイプ問わず、家族の名誉を穢した汚らわしい行為として見られ、私刑として殺されてしまう事例が少なくない。
まさにそういう話ですね。
文化的な習慣や倫理というのは、それなりの根拠や(主に集団の)利益に資するところがあって成立しているわけですが、
一旦文化として確立してしまうとその根拠と関わりなく「それが自然で正しい」という思い込みを生み、場合によっては
法制化されたりもするわけです。
実際にその習慣の根拠が成立している間はそれで構わないわけですが、それが失われて別の利益を損なっていても
その思い込みはなかなか払拭されないわけです。
近親相姦タブーの場合は「人的交流の閉鎖性」が失われて「個人の自由意志の尊重」という価値が認められてきた、
という社会変化をどう反映するかで扱いを考えるべき問題でしょう。
→社会的損失
犯罪者の臓器を配ればいいと思うよ。
話ずれるけど、江戸時代の、例えば、
姦通は死罪
放火は馬で市中引廻しの上火罪
というのは今も適用されればいいのにと思っている
これを、講義の一環とかで賛成派に立たされる人はかわいそうだなあとおもう
ということで、サバイバル・ロッタリーでぐぐったら、
少し前に流行った、一人轢かれるか五人轢かれるかというたとえ話とつながるらしい。
http://ameblo.jp/ubqubq/entry-10701501109.html
○山下義信君 先生に伺いますが、私もその点を伺おうと思つてここにチエックしておいたのでありますが、男女の結合が生殖を目的とするということが第一、その立場から愛情の有無と受胎のパーセンテージというものが、学問的にわかるのでありませうか。その点が一つ。それから今松村委員からお尋ねしようとなさつたところは次の点にあるのじやないかと思うのであります。優生学上から愛情の深い者同士の間から天才が生れるということはいわゆる世俗で申しますが、不義の子供には偉い者ができるということをよく世間で申します。そういう意味で、愛情の深い者同士の子供に果してそういう優良兒ができるかどうかということを伺いたいと思います。
○松村眞一郎君 私の質問を補充するようなことをおつしやつておりますが、私はそういうことを要望しておりません。そういうものはないと考えております。遺傳学上から考えて極く純粹に考えております。そんなことで大体良い子供ができるということは遺傳学上否認いたします。そういうことでない、もう少し何と申しますか、自然科学の方面から、遺傳学以外に何かありませんかということなんです。環境ということになりますと、遺傳学じやありません。今すでにお尋ねになつた中にも一つあるのですが、例えば両性の結合が愛情のある結合であるならば、ここに生殖ということも或いは行われることがあるか知れません。愛情がなければ、良い結合がなければ成功しないという虞れが起つて來るわけでありますが、そういうことが何かありませんかという考えなんです。
○証人(安藤畫一君) ちよつと私はつまり初めの方の御質問の核心に触れ得ないのですが、私は遺傳学のみからこの問題を論ずるという趣旨で申上げたのでありませんが、一番重大な遺傳学を採り上げて説明の手段にしたのであります。無論人間が良くなるか惡くなるかという問題は、そういうことだけで考えられないので、昔から氏より育ちと言つております。だから、今氏の問題を言つておりますが、育ちの問題が加わることは、当然であります。環境の影響があります。それでありますから、母親の責任を問うた場合に、環境の大部分は母親が重大な影響を持つているということを申上げたのもそれであります。
それから先程ちよつと二度ばかりお話がありましたが、結び付いたものが遺傳学的に良いものでなかつた場合に、それを良くするために良いものを一つ加えてもいいじやないかというお話は、私は不賛成ということを申上げた。人間というものはそういうふうな勝手はできない。一度結び付いた以上は止むを得ない。これは結び付く前にそれを講ずるものであつて、結び付いた後にそういうことをやるべきじやない。言い換えれば、なんぼ遺傳的に良いものを作つても、やはり姦通というものはいけない。こういうふうな立場であります。
○松村眞一郎君 それは法律制度としてはあなたと御意見は同じなんです。法律制度としてはそうだが、医学的に言えないかということをお尋ねしている。
○証人(安藤畫一君) 医学的に言つているのです。医学的にはとにかく生殖というものが限局されている。動物と違つて点は、動物は自由に許されている。人間は二人しか許されていない。その立場からいいと言うのです。
○証人(安藤畫一君) 医学的にも説明できるのです。さつき言いましたように、遺傳という問題をいつも持つて來る。いわゆる雜婚、日本人の間の雜婚の意味で、人種でない。ともかく二人を目的としたのは、そこに純血性を見たのでやはり遺傳を持つて來たのです。それ以外においてやはり医学的にもそういうふうに考えられるのであります。法律学的でなく……
○松村眞一郎君 御趣旨はよく分ります。私の考と一致しているのです。言い方で法律的と医学的となる。意見は一致している。それではもう少し何か物足りないのです。
○証人(安藤畫一君) 愛情と受胎率の関係の御質問がありましたが、私の方でも不妊症に陷つている者に子供を生ませるようにするにはいろいろな因子があります。生れないためにもありますが、生むためにいろいろな因子がある。その中に性交時の性慾の差、これは愛情と同じものでないかも知れませんが、それが何時も問題になるのであります。これは絶対的のものではないのです。無論これは一つの補助因子になりますが、絶対的のものではない。というのは強姦をされておる際でも、受精します。だからこれは愛情というものは絶対的のものではないと、我々は見ておる。無論補助因子だから、愛情だけで以て受胎を左右するということは考えられておりませんが、受精をたやすくする可能性を多くする意味において、その時の、例えばこれはちよつと申上げ兼ねますが、オルガニスムスと快感の絶頂を両者で合せるものとか、性的技巧の中に加わつておるのですが、これは絶対的のものじやない。このくらいの程度のお答えしかできません。
○山下義信君 それから愛情の深い者同士から優良兒が生まれるとか……
○証人(安藤畫一君) ちよつと聽いておりませんが、私の遺傳に関する知識からは考えられないように思います。
○松井道夫君 只今松村さんのお尋ねがありました点について、安藤先生は何処か核心を掴めないでおると思います。私はこれは安藤先生がちよつと誤解しておられるのじやないかという氣がいたしますが、今日は要するに証人という立場で來て頂いておりますので、前回の公聽会とは違いますので、それで純粹に医学上の立場から我々に資料を與えて頂く。こういうことなので、法律制度としての姦通罪を残すかどうかということは、これは我々の方で試みるべきことなのであります。ですからその点の御意見は拜聽しないで結構なのであります。ただこれに対して資料を與えて頂くという趣旨なのであります。それで私の質問に入りますが、純潔ということを只今申されたのでありますが、純潔という観念は、これは宗教上、道徳上倫理上の観念であつて、医学上の観念では普通はないように解釋されるのでございますが、ただ私は医学上も純潔ということを考えていいのじやないかということを考えておりますのは、要するにこれはいわゆる血液が汚れる。こういうことが普通言われておる点であります。例えば梅毒ならスピロヘータが血液の中に滲み出す。それが遺傳因子の方にも作用を及ぼす。これはそういうことがあるかどうか伺いたいことなのでありますが、さような場合に初めて医学上純潔が云々されるのではないかと存ずるのであります。それでその意味におきまして、姦通の子に何らか医学上の純潔を欠く。即ち正常の結婚から生れた子と比較して劣つておるとか……只今山下さんから優れたということを伺いましたが、劣つておるとか、その他医学上純粹の意味で純潔を欠くような場合があり得るか、想像できるかということをお尋ねしたいのであります。
○証人(安藤畫一君) ジユンケツということい今文部省あたりで純潔と書いておるようです。あなたの方はどうですか。
○松井道夫君 私の方はどちらでも結構ですが、実は医学上、生態上、変化を生ずるかという意味です。
○証人(安藤畫一君) これはどうしても、潔いにしても血にしても、どういうことを純というかを医学的の観点から言いますと、純ということは何処までも、先程から何度も申しましたように、許された夫婦間においてのものばかりを純と申します。それ以外を不純と申します。
○松井道夫君 ちよつとその点は分らないのですが、許された夫婦間の性交ということは、これは医学上の問題でございましようか。
○証人(安藤畫一君) 人間というものは正常というものを、或る限局されたものに置かなければならん。
○松井道夫君 ところが支那では法律上は一夫一婦でありますけれども、現実は一夫多妻が行われておるのです。又法律上一夫多妻が認められておる所がある。一夫一婦の法律であるから、それを維持して行くということは普遍の原則でなければならない。日本における一夫一婦の制度に立つた医学でありまして、私のお尋ねしておるのは、普遍の、世界に通ずる医学の原則をお尋ねしておるのであります。
○証人(安藤畫一君) そういうものはやはり決められていないと思うのであります。
○松井道夫君 今の純というのは私の言葉で、血の純で結構ですが、そういつたような純医学的、遺傳学的の関係で、不義の子と、正常の結婚の子と差がありやということであります。
○証人(安藤畫一君) それは血清学上に言う差異はありません。ただ遺傳学的にのみ考えられる。それ以外には考える余地はありません。
○松井道夫君 それならば純血という文字を撤回して結構ですが、医学上、遺傳学上、結婚外の子と結婚内の子と差異があり得るのですか。
○松井道夫君 下世話では、密通の子は何処か素質が惡いとか、或いは体が弱いとか、或いはその後本当の子供ができても、間男に似るとか、いろいろなことを言うのですが。
○証人(安藤畫一君) それは一貫したお答えでいいと思います。そういうことは全然ないわけであります。遺傳的に考えて全然ないのです。さつき鬼丸さんのお答えに説明が足りないで、後を古畑君から図によつてお話になりましたが、犬の場合の説明は隔世遺傳で以て説明できると思うのであります。最初にかけ合せた親が純血種であつたかどうかというときに、それが雜種であつた場合に、そのときに現われないで、幾代か後で現われて出ることはありますから、その点は大いに考慮されないと、解釈の誤謬ができて來ると思うのであります。それで、どうしてもこの問題は、今お話の最後の方の御質問では遺傳的に見るより仕方がないのでございます。その外には、例えばスピロヘータの入つた場合に血を汚すか、それは子供に傳わるかというと、無論スピロヘータは、受胎した後に胎内でスピロヘータは母親の血液から胎兒に移るけれども、遺傳的に見ては血は不純にならない。どうしても遺傳という問題を切り離して、この純潔という問題を持つて行かなければ不合理だと私は信じております。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/001/1340/00108191340015c.html
○鬼丸義齊君 私共は全く素人でありますから、甚だ卑近な例で当らないかも知れませんが、最も憂うると思いますことは、先般もやはりこの委員会で申上げたことでありますが、犬の場合に、洋犬が和犬と一回の交尾によつて受胎いたしました場合に、その最初の一回の受胎によつて……その後洋犬の牝としては、一代のうちに幾回かの分娩をいたしますが、その分娩の度ごとに最初の一回の和犬の交尾ということが一つありますために、一代分娩の度ごとに最初の和犬の子供ができる。それは勿論犬の場合でありますから人間とは違うでありましようが、そうした大きな影響が人間にあるかないかということについて、実は虞れを持つておるために伺つたのであります。交接によつて、性交によつて遺傳が始まるということは、その遺傳というのは、その交接によつて受胎した子供にのみ限られるのであるか。先程私の例を申しましたごとくに混血のような場合には、やはりその受胎いたしました子供の遺傳もやはり同樣に混血的の遺傳を持つのではないか。例えば先般もこの委員会から捨兒の寮を視察に参つたのでありますが、混血兒が捨兒になりました。そうした場合に最初種族の違いまするものとの交接によつて、その婦女子の一代の間にずつとその受胎の影響があるのではないかということに非常に虞れを持ちますので、その点を一つはつきり伺いたいと思います。
○証人(安藤畫一君) 私の知つておる範囲内で申上げます。今の御心配の点は、遺傳学的に見ますると全然杞憂に属するものと思います。大体遺傳というものは、遺傳の担荷体が遺傳というものを担つておる。遺傳をする役目をする物質はどこにあるかというと、性細胞の核の中の染色体というものに潜んでおるのであります。從つてこの以外のものでは遺傳は行われないのであります。でありますからして、或る時の性細胞と性細胞の性質はそれによつつてできた子孫までは傳わりますが、今度変ればその次に一方は同樣であつても、例えば母親が同樣であつて男性の方が違つた場合には、元の影響が現われるわけが起り得ないのであります。生れたその第一回に、例えば混血の場合を申しますと、甲と乙との受精によつてできた子供には甲と乙との遺傳が起るのでありますが、今度は甲と丙との場合に、その乙の影響が現われるわけはない。その甲と乙との間に生れました子供の中には甲乙の遺傳質は入つておりますが、これが又その子供が他の者との間に性交して、そうしてできました子供の中には前のが現われます。それと全然無関係な、同じ母親が第三者、丙なら丙の人とやつた場合に、乙の影響があるわけはどうしても考えられません。遺傳学的には……。おわかりかと思います。
○鬼丸義齊君 いや、分りました。
○証人(安藤畫一君) だから、こちらは洋犬でありますが、日本犬と洋犬とが交尾しましてできました場合には、今度はその次に日本犬と日本犬とやつても洋犬の影響が残るかというお話であります。それは残り得ないわけであります。その和犬の生む子供には起り得ないわけであります。その和犬と洋犬と最初の交尾によつて生れた子供の中には洋犬の影響は残つております。今度別な和犬と交尾した場合にできるものに前の洋犬の影響は起り得ない。どうしても考えられません。
○鬼丸義齊君 これは私共のやはり本当の実驗でありますが、例えば洋犬を買います場合に血族種で以て買います。それで和犬との一回の交尾でもありまするというと、最初の血統のままであつて、純血のままであつたら相当の高價で取引されますが、一度和犬と交尾したというような歴史ができますと、これはその洋犬の價値は殆んど無價値に近いものである。ということは、その後洋犬同士の間で交尾が行われましても、その後の分娩の度ごとに最初の一回の和犬という一つの歴史のために、ずつと何回かの分娩に必ず一匹なり二匹の和犬が出て参ります。これは私共の現に知つております常識であります。それから最初の一回の和犬との交尾によりまして、非常な高價なものが殆んど無價値になりますというところに、私共は非常な恐れを持つのであります。只今の御説明によると、一回の受胎によつて、すでに分娩が済んだならば、もうそれで以て最初の交尾はすつかり清算されてしまうのであつて、あとには全く何にも残らぬということでありますが……
○鬼丸義齊君 それが非常に……実はこれはひとり私が素人ということだけでなくして、やはり專門家の医者の方にも聽いて見ましたが、やはり人間の場合でも同様に考えられる。すでに最初の一回の受胎によつて……受胎せない場合は問題でありませんで、受胎せない時分には最初の何と言うのですか、精子の発育が全然ないので、そのまま死滅してしまうのであるが、受胎という一つの事実があるならば、それによつてその体質に変化を來す。ただ一回の交接によつて、一回の分娩で以て全部清算されてしまうものじやない。こういうふうにも聽いておりますので、その点に対しまして、非常ないわゆる純血を害することになつて、この姦通罪に対する取扱につきましても非常に大きな影響があろうと存じまして、伺つたのであります。
○証人(安藤畫一君) その点は私の或いは知識が足りないのかもしれませんが、最初の例えば犬の場合は、和犬の影響が体に血清学的に或いは精神的にあるということは考えられますが、少くとも遺傳という問題に対してはどうしてもそういうことは考えられません。
○鬼丸義齊君 遺傳まで行かなくても……
○証人(安藤畫一君) だから、その洋犬が一度和犬と交尾してできたならば、その次にずつと洋犬と交尾しても、その間に挾まつて和犬ができるというようなことはどう解釈しますか。これは遺傳学という本質から言つて考えられない。それは或いは私の遺傳に対する知識が足りないのかも知れません。遺傳の方の本当の学者に聽くより仕方がないが、私の今まで信じておる遺傳では考えられないと思うのであります。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/001/1340/00108191340015c.html