はてなキーワード: 喫茶店とは
5年生のとき、当時の自分の中で精一杯のオシャレだったヘアピンを「似合ってない」「調子こいてる」「きもい」とクラスで馬鹿にされてから、『オシャレ』がトラウマになった。
今思えばくだらないことだが、あのときの私にとってはそうでなかった。小学生の私にとって学校は全世界だった。
だからさらに地味な服を着るようになった。好きだった花柄のシャツも着なくなった。気に入っていた髪飾りもつけなくなった。
オシャレをして攻撃されるのが怖かった。ブスで似合わないから、ブスが着飾っても見苦しいから、オシャレしてはいけない、資格がないと思うようになった。
中学、高校、大学ととにかく身なりに気をつかわなかった。髪は真っ黒モサモサひっつめ。所有するスカートは制服のみ。私服はジーパンにヨレヨレパーカー。化粧はおろかスキンケア皆無。眉はボサボサ。オタクメガネ。
それでも、いつか「綺麗になりたい」とは思っていた。
いつかパーマをかけて茶髪にして化粧をしてコンタクトにして、綺麗なスカートを履いてみたい。
今なら「したいならすればいい、アホか」と言ってやれるが、当時はそう思えなかった。
オシャレが怖いのに、オシャレに物凄く憧れていた。拗らせていた。
彼氏などいるはずもなく暇はあったので、アニメゲームの合間に勉強だけはした。コミュ力と容姿抜きでも就職しやすい分野を選んで必死で勉強就活して、周囲より相当遅れたがどうにか内定をもらった(就活時は「マナー」として、ムラだらけのファンデーションだけは塗っていた)。
そしてやっと転機。就職して一年後、たまたま激務だった時期があり夕食を怠ったせいで計らずとも痩せた。Mサイズの服が着られるようになった。アニメが豊作だったり残業代が多く入ったりで浮かれた私は、これくらいなら許してもらえないか、と水色で花形のボタンがついたカーディガンを買った。それまで茶・紺・黒のヘビーローテーションだったから、自分としては大冒険だった。レジに持っていくとき、比喩でなく本当に動悸がした。店中のひとが「ブスのくせにそんなの着るな」と思っているような気がした。病的だった。
そして二週間後(着る決心がなかなかつかなかった)、着て行ったら予想以上に職場で反応があった。小5のときとは違い、誰も馬鹿にしなかった。「珍しいね」「いいね」と言ってくれた。お世辞だとしても、何かが覚めるような気分だった。
ここでようやく考えた。
かかる費用はもう自分で稼げるのだし、今の環境ではバカにもされないらしい。
割と単純な気質なので、遅くなってしまったが頑張ってみようと決めた。
しかし魔法のコンパクトがあるわけでも、テレビ企画のようにスタイリストが1日で大変身させてくれるわけでもない。一気に化粧品をそろえ服を買い替えるほどの財力があるわけもない。そもそも何から手をつけていいかわからない。
だから脱オタ系のサイトやブログを読み漁り、書いてあることを少しずつ、素直に実行することにした。最低限のスキンケアにそれなりの化粧を覚えて、もう2キロ痩せて、近所のおばさん美容院でなくて街の美容院に定期的に行くようにして、眼鏡をかえて(コンタクトはドライアイで無理だった)、タンスの中に白や緑、薄ピンクなんかが増えるまで一年かかった。もちろん失敗もあったが、ドラッグストアや服屋をキョドりながら探検して自分に似合うものを探すのが、いつからか楽しくなっていた。整形したわけでないので当然美人にはなれなかったが、いわゆる「小奇麗なブス」にはなれた。喪女であることもオタクであることも変わらないが、職場では褒められた。親も喜んでくれた。素直に嬉しかった。
汚いブスから小奇麗なブスになって、私の場合は間違いなく生きやすくなった。打ち合わせの相手が優しくなった。上述のとおりもともと職場ではひとに恵まれていたが、みんなさらに優しくなった気がした。店員が話しかけてくる系服屋に入れるようになった。洒落た喫茶店で休憩できるようになった(もともと一人飯自体は苦じゃない)。バスや電車で、隣に若いお姉さんがよく座ってくるようになった。その他諸々。で、今に至る。
上記の経験を得て思ったのは、「オシャレしたいならしていい」ということ。オシャレしなくてはならない!ではない。
別に興味がなかったり、そんなものよりもっと大事と思うことに追われていたり、そういうひとに「オシャレすべきだ」などと主張するつもりは一切ない。
しかしオシャレしてみたい、でもブスな私には許されない、どうせ似合わない、世界が許さない、そんな風に拗らせている私のようなひとがもしいるならば、「ブスもオシャレしていい」と言いたい。私の場合は、「美人」ではなくて「人」になるためにしている。美人にはなれないが小綺麗なブスにはなれる。生きやすくなる。楽しくなる。
オシャレは強要されるものではないが、逆に誰かにやめろと命令されるものでもない(校則や仕事のTPOは除く)。クラスメイトでも親でもなんでも、「ブスで似合わないからオシャレをやめろ」と命令する権限はないんじゃないだろうか。
普通のひとなら「当たり前だろ」と言いそうなことに気付いた私は、とても出遅れてしまったが毎日楽しくブスオタクをやっている。
これはいいか悪いか微妙だが、ひとと会いたいという気持ちが生まれたのでオフ同人にも足を踏み入れた。オタクの友達もたくさんできた。本当に毎日楽しい。
しみじみとそんな回想をする小奇麗なブスオタクは、
めったにないことだけれど、日常生活の中で「でんがな」「まんがな」を聞くことがあると、ちょっと得した気分になる。
大阪市内のオフィス街で「でんがな」「まんがな」なんてのは、ギャグでない限り日常的に使われていないのだが、
ながいこと営んでおられる小さな会社のおじいさん社長や、地元密着の喫茶店でスポーツ新聞を広げている高齢者は使う。
とても心ひかれる。大阪に住んで10年になるというのに旅情を感じる。
漫画やら映画やら小説でしか接することのないパンチのきいた関西言葉に接すると、「お!」と反応してしまう、よそ者生活がもうすぐ10年。
直接聞いたわけでもないのに今まででもっとも衝撃を受けた関西言葉は、
「どくいり きけん たべたら しぬで」
事件当時小学生であった私は店頭から菓子がなくなる事態に遭遇したはずなのだが、よく覚えていない。
菓子に毒が混入される事件であり、小学生からの注目度はかなり高かったと思う。私も夢中になってテレビを見ていた。
しかし「どくいり きけん たべたら しぬで」は、後になってというか、ネットで文字列として認識してはじめて衝撃を受けた。
内容の反社会性はもちろん、どことなくユーモアのきいた恐ろしさのようなおもしろさ。
凄みのある顔つきの男が眉間にしわを寄せながら、片方の口角だけをあげてにやっとしたような気色の悪さに惹きつけられる。
それはそうと、豪栄道が優勝だ!
所要があって、久しぶりに京都を訪れた。
京都は初めて社会人を始めた街で、初めて新婚生活を送った街で、初めて子供授かった街だ。大好きな会社があって、大好きな同僚達がいて、何より大好きな夫と暮らした街だ。
新卒で入ったその会社は優秀な人が沢山いて、仕事は大変なことも沢山あったけれど、誇りと情熱をもって働ける良い会社だった。しかしながら、ずっとそんなに上手く行くわけはなくて、景気の悪化にともなって業績は悪化して、憧れだった先輩たちはボロボロと居なくなってしまった。社長を除く取締役は全員交代してしまった。経営は迷走するばかりで、私自身も経営陣に裏切られるような事が続いて会社をやめた。
やめて遠くの街へ行って、業種は変わらないけれど昔の会社とは距離のある世界で今は生きている。
会社をやめてから、ずっと京都の事が気になっていた。私とは違って、その会社をやめないで今も働いている元同僚たちのこと。夫とよくいった美味しい食べもの屋さんのこと。本当はもっと行きたかった沢山の寺社仏閣のこと。
もういちど、やり直せたら、たとえば元の会社に出戻ったら、もしかしたら、また働き始めたときの、幸せな京都があるのかもしれないと思っていた。
そして、今日数年ぶりに京都を訪れて、懐かしいお店でご飯を食べたあと、四条烏丸のとある喫茶店でゆっくりとする時間がとれた。
そして気づくのである、大好きだった会社は今もちゃんと存続しているけれど、メンバーの大半は知らいない人になっている事に。憧れていた先輩も、仲が良かった同僚も殆どはすでに退職していて、また一緒に働くことは不可能なのだという事に。行ってみたかった寺社仏閣も子供が楽しめる年齢でない今、訪問することは無さそうだという事に。飲食店だってべつにどこの街にもある普通のお店だった事に。
あの会社に所属していた数年間が特別な時間だったのだ。あの時にしかいなかったメンバーと働けたことが楽しかったのだし、あの時、夫とふたりきりで過ごしたから、京都は特別だったのだ。
憧れの街はもうない。少し考えれば分かりそうなことが、こうやって訪れてゆっくり現状を噛みしめるまで、私はわからなかったのだ。
もう私は京都に憧れないで生きていける気がする。
大学を卒業して約五か月が経った。勢いで内定を蹴り、辞めると言ったバイト先に頭を下げて、今はそこの収入と、他にいくつかバイトを掛け持ちしながら生活している。
遡ること高校三年生の秋、このままの成績では自分の入りたい大学にどう考えても入れないことを知り、無理目な大学を受けて全落ちした。
親から浪人は止められていたが、結果的にそういうことにしてしまえばいいと思っていた。
そして浪人は成功した。秋口までダラダラ勉強していたが、最後の三か月でケツに火が付いた。
きっと就職活動もそうなると思っていた。
今、「最後の三か月」が無い。あの「ここでやらなければ終わる」という感覚も目標設定も無いままにただダラダラと就活を続けている。
去年、本当に行きたいと思った一社、OB訪問もESの対策も頑張った会社に落ちて、愕然とした。
そこから斜に構えた。落ちてもいい言い訳を作りながら続けた。 その地続きのままに今の生活がある。
先月「ここなら、今までの遠回りも意味があった」と思えた会社の最終でサイレントお祈りを喰らい、完全に心が折れた。
友達はみんな働いていて、フリーターの友達は皆それぞれに活動があり、彼氏や彼女がいる。
俺は今一人で、好きな人も彼女もやりたい仕事も将来の目標も夢もないままに生きている。
本を読んだり、創作をすることが逃げ道だ。お気に入りの喫茶店でのひと時がかけがえの無い癒しだ。
でも一歩外を出ると暗くなる、いや、空っぽになる。
自業自得に対して落ち込むのはバカだ。ただの努力不足だ。だから落ち込む必要はない。やるしかない。
どこを妥協点にすればいい?ねんしゅう400まんのじんせい。一戸建てとかは無理だろうけど、でもそれなりに暮らしていければ。
キュウジンヒョウと向き合ってみる。
どこを妥協点にすればいい
去年行ったマイナビ新卒なんちゃらで脇にやたらを黄ばみのあるクソ男に、面接を進めている会社をディスられる、という意味不明の苦行を経験して以来エージェントに頼る気も起きない。
「編集・ライター」を希望する俺に介護職を何度も勧めてくるリクナビダイレクト既卒版を退会した。
うぜえことばっかだ。
完全週休二日、年間休日120日、未経験可、東京で転勤なし、できればちょっと頭を働かせる仕事、営業なら多少は興味の持てる商材を(多少の興味ってなんだ?)
仕事に就いたら中央線沿いに引っ越す、休日は喫茶店でだらりと本を読み、夜はバーで酒を飲む
そんな暮らしがクソほど遠くて難しい
やべーよ
さきほどはじめての「パパ活」をしてきた。ざっと感想を述べていく。
パパ活するにあたり、まず出合い系サイト数個に登録した。プロフィールにはっきり「パパ活」「身体の関係は求めていません」等のフレーズを散りばめていると、自分から探しに行かなくともパパ候補たちが名乗りでてくれる。
登録したサイト中1番大手のところでメッセージをくれた自分の父親とそう変わらない年齢の男性と次の日会う約束を取り付けた。
彼は「君の1番2番目のパパにはなれないかもしれないけど、月に数度会って食事をしてくれるなら電車代¥5000-ほど渡します。それにプラス何か欲しいものがあれば僕の買える範囲であれば全面的に援助させてもらいます」という旨のメッセージをくれたのだが、その控えめな感じが好感を持てたので会う約束をした。
メールで待ち合わせ場所や時間など決め、あっという間に会う時間になった。
芋ブスなりに精一杯オシャレしてきたつもりだったが、パパ活界隈では顔を見られた瞬間帰られたといったことがわりとあるみたいだったのでものすごく不安だった。それに顔見て速攻帰られることがなくとも、食事に行ってひとしきり食べた後、パパがトイレに行ったきり戻ってこなかったといった話も聞いたことがあるので、会って顔を合わせても油断はできなかった。
しかしそんな不安も会えばすぐに消え去る。待ち合わせ場所にいた男性はすごく良い人そうなオーラが出ていて、パパというよりおじちゃんといった感じの人でわたしはすごく安心した。
近くの喫茶店でコーヒーを飲み、他愛もない話を20分ほどして店を出た。この後どこかに行くのだろうかと思っていたが、今日はここで解散しようかとパパに言われ、ポチ袋に入ったお金を渡されて、別れて、今にいたる。
ポチ袋にはしっかり5千円が入っていた。
「こりゃ金銭感覚狂うな」とおもった。
その後もう1人の男性と約束をしていたのだが、待ち合わせ場所でそれらしき人を見つけ声を掛けようかと思ったらどこかへ行ったので「ああ、わたしの顔がブスすぎてだめだったんだな」と少し凹んだ。
斜陽だからってなくなったりはしない。その需要がなくなる=用済みになるっていう短絡な発想が増田の悪いところ。どうせディープラーニングが伸びるとか思ってんだろ。1度できた需要はそう簡単には潰えない。
法律書を今でも全くIT化せずに本で印刷してる会社がある。どうみても時代遅れだし、やり方も原始的な手作業だが、客もITを毛嫌う弁護士とかなので、彼らの需要がある限りなくならない。
町外れにあるいつ潰れてもおかしくない喫茶店が長続きして、新装ピカピカのスウィーツ店がすぐ潰れるのは、前者は定期的に通う顧客がいるのに対し後者はそれがないからだ。
あそこいい店だよね、とネットで評判が広まり初動はいいが、定着しない。いい店以上の価値がないから。通い続けたくなる要素がない。どうせ人もバイトだから入れ替わるし。
新しいものを取り入れなくても、主流から切り離されても、その時の止まった世界にいる顧客がいる限り、斜陽産業はいつまでも残り続ける
大手の上場企業に勤めている。上位10%に入るタイプの人間だと思う。
だからといって、世間と隔絶した生活をしているわけじゃなく、コンビニで電池を買うし、チェーンの喫茶店にも行くし、そこら辺のカラオケに行ったりもする。
すると、底辺・底辺・底辺。そこで働いている人がみんな底辺で、気疲れしてしまう。給料が低いだろうし、ストレスも多くて、その水準から這い上がることもないんだろうな、と思う。良い会社は東京にあるが、東京で生活することは、あらゆるサービスを底辺に支えてもらうことだ。そのアンビバレンツに身が裂かれそうになる。
居酒屋もコンビニもファミレスも美容師もアパレル店員もみんな底辺。
夜中にファストフードで働いている人も底辺だし、底辺と接する機会が多すぎる。
飲み会で知り合う女の子も底辺だし、こちらのステータスに食いついてくる姿もなんだか嫌になる。
仕事以外で、誰かと話すのが非常に気を使う。職業のことになると、特にヒヤヒヤする。
こちらが大手で働いていると言ったあとに、「あなたは?」と聞いて「派遣の事務です」なんて言われると「(あぁ……もうこの人とは話しづらい)」となってしまう。
発言が相手のコンプレックスを刺激しないかどうか、とても気になってしまう。
タクシーに乗っていて……世間話ができない。だってタクシー運転手さんは仕方なしにその職に流れ着いた底辺だから。
ポケモン1匹捕まえるのに、モンスターボール平均いくつかかってる?
俺の感覚では、だいたい3,4個かなあ、といった印象です
それに対して、ポケストップでモンスターボール出る個数はどう?
だいたい、平均して1回まわすと2,3個かなあ、という印象です
これってつまり、ポケストップに2回行ってようやくポケモン1匹捕まえられるって計算になるよね
都会民で電車通勤なら、日々の行き帰りだけで、2,30回は余裕で回せるんだろうなー、って思う
でも、俺、地方都市在住で一応政令指定都市なんだけど、車通勤だし、日々の生活で回れるポケストップは職場から100メートルほどのコンビニ前のひとつだけなんだよね
休憩がてら1日に2,3度行くけど、まあ、言うて1日で2,3回だけ回す、ってことだ
これって、最初の計算からすると、俺が無課金で捕まえられるポケモンは、1日1,2匹ってことになる
ただ、休日に駅前とかショッピングセンターとか繁華街とか、街の中心部に行くと、これはもう都会と変わらんくらいあって、モジュール咲き続けの、喫茶店で座りながら届くポケストップ3つとか、そういう不便ない状態
でもこれって、毎日駅利用とか、職場が中心部とか、そういう人しか東京と同じようなやり方ってできんのだよなー
そのくせ、一応政令指定都市だし、そこそこ人口いるので、住宅街でもポケモン自体は結構出る
俺の家の周辺でもレアポケモン出るし、俺が家で捕まえたポケモンは野良シャワーズにカブトにオムナイトにブーバーにミニリュウとか
というわけで、俺のような地方都市民のやり方はたぶん、こうじゃないかな
無課金こだわるなら休日に中心部で限界までのモンスターボール集め欠かさずやるしかない
日々、節約しながら使って行って、たまに深夜に家の周辺の4つほどあるポケストップで少々補充
週後半は明らかに足りなくなるので、課金勢はここでモンスターボール200個購入
そして週末へ
こんな感じ?
ただ、不満なく遊ぶには金がかかるなあと
金が嫌なら、深夜に中心部付近まで頻繁にわざわざ行ってボール集めが必須になる
まあ、これが経済効果になるんだろうなー
男性2人連れの客が入ってきた。
一方が女言葉で話した気がしたので、声の低い中年女性?と最初は思ったが見ると普通に男性だった。
うわあ、これがゲイカップルってやつか、東京だし銀座だしなー、ありふれてんのかもなーと思っていた、
が、しばらく様子を伺っていると、普通に地方から遊びに来た友人連れという感じだった。
え、なに、こんな年の離れたカップル?東京だし銀座だしなー、あるのかもなーと思っていると
目の前の年配の女性(あなたと呼んでた)はごく親しい立場であるけれど、彼の結婚式に参加するのに調整が必要な立場の人らしかった。
などとあれこれ詮索しつつも、そこそこ休んで足の疲れもとれたので店を出た。
追記:こちらにコメントへの回答など書いた。 http://anond.hatelabo.jp/20160801132452
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取材に3万円のギャラを要求した吉田沙保里選手の記事に対するブコメが見るに堪えないので、マスコミと呼ばれる業界の隅っこにいる者として、みなさんの説得を試みたいと思う。
http://b.hatena.ne.jp/entry/news.livedoor.com/article/detail/11825985/
残念ながら、マスコミが取材対象に謝礼を払うという習慣はこの業界にない。そういう予算の枠もない。せいぜい喫茶店のコーヒー代とか、遠方から来てもらった場合に交通費を渡すくらいだろう。
理由は簡単。取材対象とメディアは常に対等な関係にあるからだ。記事を書くにあたって、取材対象にお金を払うことはないし、逆にお金を受け取ることもない。件の記事にある「記者倫理」というのは、このことを指している。
じゃあメディアがちょくちょくステマに手を出し、バレて叩かれてるのは何なのよと思うかもしれない。なぜステマは叩かれるのか? それは「メディアの記事を金で買うことはできない」という前提があるからだ。金で買われた記事はそう分かるように、「PR」や「広告」などと表示しなければならない。
もちろんプロに業務として仕事をしてもらった場合には、相応の対価が発生する。たとえばプロスポーツ選手で無理矢理たとえるなら、よその試合で事故かなにかが起きて、その道のプロであるスポーツ選手に解説を求めた場合、謝礼というか、ちゃんとしたギャラを払うことになるだろう。実際、評論家の先生からコメントを取った場合にはギャラを払っている。評論家はコメントするのが仕事だからだ。
別の観点では、マスコミは商売に使うネタを仕入れるのに、相手に謝礼を払わないのはおかしい、と怒る人がいるかもしれない。それはもう、そういうビジネスモデルだからとしか言い様がない。マスコミはそういう商売なのだ。そうやって金儲けをすることで、絶対に採算が取れないけど社会正義のために必要な取材(紛争地の取材とか)のコストをまかなっている。うん、そうなんだ。嘘くさいけどマスコミって社会正義を実現することが使命のひとつなんだよね。
話を下世話なほうに振ると、芸能人の密会写真なんかを週刊誌に持ち込めば、謝礼をもらえるかもしれない。でもそれは買い取りだ。プロスポーツ選手の話を買い取ることができるとは思えない。「そのエピソードはうちが買ったので、他のメディアでは二度としないでくれ」などという契約は現実的じゃないだろう。
では取材を受ける側は、取材で拘束された時間分だけ丸損なのか? もちろんそうではない。まず、取材を断ること自体はまったく構わない。特定のメディアや記者を選んで取材に応じるのでもいいし、とにかくメリットがありそうだなと思ったときだけ応じればいい。「取材に応じる代わりに自著のタイトルと表紙画像を必ず入れてくれ」といったバーターも交渉の余地がある。
とはいえ、取材を断りたいという目的で謝礼を要求するというのは、あまりにも常識外れで業界のことを分かってない素人的な対応といえる。3万円という金額も生々しい。馬鹿にされたと感じて怒り出す記者がいてもおかしくない。それをエンタメにして下品に取り上げたのが件の記事だろう。
みなさんのご指摘の通りマスコミの中にはおかしな特権意識を持っている者も多く(特にテレビ)、取材現場で他のメディアを恫喝したりするのは日常茶飯事だ(特にテレビ)。だから「マスコミは何様のつもりなのか」と反感をもたれるのもよく分かる(テレビ屋は何様のつもりなのか)。
ただ、取材対象とマスコミの間には、ビジネスとか金銭のやりとりを抜きにした対等な関係が前提としてあって、ほとんどの真っ当な取材記事はそうした関係性の中から日々作られているのだということは覚えておいてほしい。
シン・ゴジラを観てきた。
私はいわゆる "全方位興味あるけど浅いヌルオタ" で庵野監督の作品は緩く全部観た人間なのだけど、シン・ゴジラはそれ含めあらゆる方位のオタが反応するネタがいっぱい散りばめられていた。
この作品を観た人の反応は主に下記5つに分類できると思う。
1. 政治経済オタ
2. 鉄オタ
3. ミリオタ
ネタバレは避けたいので詳しくは言及しないが、概ねこれらのオタが反応しないわけにはいかないネタがこれでもかと織り込まれていて、見終わった後はこれらのどれかもしくは複数について語りたくなってしまうような作品になっている。
もしあなたが女性で、付き合っている彼氏の本性を見極めたい場合、シン・ゴジラを観せることはタイトルにある通りのリトマス試験紙としてはたらくだろう。
この作品を観た男の子は、概ね上記5分類のうちどれかもしくは複数に反応するので、観た後の喫茶店か食事の際に話す内容をよく聞いてみるといいだろう。
そこで、何か一つでも合う話題や熱くなれる話題があったとしたら、そのジャンルで相性がいいと言える。
逆に "ああこの人とは趣味が合わないな" と思ったら素直に別れるのをオススメする。
という感じで、シン・ゴジラは男の子が強く反応する何かが散りばめられていて、語らずにはいられなくなってしまう作品になっている。
この作品を観た上で、何にも反応せずにいる男の子がいたとしたら、そいつは単にあなたとセックスしたいだけのヤリ目かよほどの世間知らずなので、むしろ別れることをオススメする。
http://anond.hatelabo.jp/20160729213257
それは大変そうですね。
他人の怒りはその人自身の問題であって自分に全く関係がないと思うと、大変楽です。例えば、自分がミスをして怒られたとしても、自分のミスに対して、優しく指導するという方法もあるのに、怒るという感情/行動を選択したのは相手なのです。
ただしこれは逆も出来たほうがいいです。つまり、担当でない仕事を/残業中に/断れない立場の人から/明日までにやっといて、とリクエストされてそれを徹夜でやったとします。疲れもあり、何でこんな仕事を急に押し付けられなきゃいけないんだ、と怒るという感情を選択するのは容易ですが、このような事情があったのではないか/次回このようなことを防ぐために何か提案してみようかと前向きな改善のための検討をすることも出来ます。外部からの刺激と自己の感情の間に、選択という理性のスイッチを挟むのです。
感情が扱いようのない(コントロールを超えた)モンスターに思えるから、もっとも強い感情の一つである、怒りが恐ろしく見えるのかもしれません。実際は感情は理性のスイッチで人が決定をしており、コントロール下にあるのですが。(ただ、多くのひとはそのことに無自覚です)
そうでなければ、ヤクザにコーヒーをかけられても、見るからに弱々しい喫茶店のウエイトレスにコーヒーをかけられても、同じ怒りの感情/行動を示すはずです。
怒っている人を見たら、この人は怒るという選択をしたのだ。とまずひと呼吸おいて考えてみるのは如何でしょう。
先日招待いただいて立ち寄った飲食店、スポットにはみな喫煙所と灰皿があった。喫茶店の店内に喫煙席があるところもあり、おどろいた。事前の調査の見事さである。そしてここで告白すると、喫煙所を使うのは生まれて初めてであった。
それにしてもなんだろう、民間はきちんと対応しようとしているし、商機につなげているな、とも思った。喫煙者が多く通るところであれば、喫煙所があるところと無いところ、あるところに喫煙者は立ち寄るだろう。またそれがネットなどで評判を呼び、喫煙者が目的地とするだろう。総合的に見て喫煙者が集まることがプラスになると考えるのであれば、たかだかと言ってはなんだが、喫煙所と灰皿くらい用意して置いておくというのは悪くないように思える。罠、ないし撒き餌である。
一方で、どうにも自治体系は対応が遅れているように感じてならない。いつだったか忘れたが、鎌倉の大仏だか八幡様だかに行ったとき、煙草を吸う場所がようわからなかったので、警備員さんに訊いたところ、「鎌倉は路上喫煙不可なんですよ」とか言われたりした。
また、仕事関係で、ある公立公園の園長さんと話しているとき、その公園に珍しく喫煙所と灰皿があるものだから話を振ってみたら「散歩コース沿いにあって、休憩する人たちが芝生にポイ捨てして芝生が傷むから、仕方なく置いた」とかいうことだった。とてもじゃないが、「自分もタバコ吸うので助かります」とは言えなかった。
何年か吸ってなかったおれがいうのもなんだし、昔から吸っていたわけでもないおれがいうのもなんだけれども、わりとなんというか路上喫煙者の人は増えてるんじゃないかなあ、という気はする。煙草に関する法整備も見直されたりしている。ストレス解消だのなんだのの御託はともかく、たとえば違法ドラッグに比べると伸びしろのある分野のように思える(とか言うおれは団地のベランダにずらりとならんだ喫煙者を見て、「ホタル族いいなあ」と思ったりしたんだけど)。
そんでもって、喫煙所と灰皿なんて場所をとらない、なんなら店内に置いたっていい程度(まあ、ちょっとスペース的にあらかじめ考えておかなきゃならんだろうが)、もっと広まってくれたらいいのにな。コンビニなんかにあればいいよな(あるところにはあるだろうけど)。だれも使ってないときはタックルでもしておけばいい。いや、コンビニにラガーマンいねえか。まあどうでもいいけど、そんなところで。以上。