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はてなキーワード: マルクスとは

2023-02-04

荀子はとんでもない極悪人だと思う

くわしくはググってほしいが、今の中国ロシアがやっている行動の多くは荀子に通じるものがある

人類崩壊させる恐ろしい思想家だと思う

マルクスレベルだと思う

 

追記

中国人ですら荀子のヤバさ理解してなくてワロタ

その結果がいまの独裁虐〇国家なのね

2023-01-28

難しいことを簡単説明するのが知性だ。

難しい言葉説明するのは間違っても知性の印にならない。

樋口ベストセラー本は言ってるが。

その理屈だと難しい言葉説明してるだけでなくそのこと自体によって賢く見られたい人に「難しい言葉説明すると賢く見えるんだ」と思わせる難解な思想書の著者は知性がないだけでなく知性ない人を生み出す元凶ってことになるんだが。

奇しくも彼らの著書がお前みたいな予備校講師仕事道具でもあるんじゃないか

矛盾しすぎで草だわ。お前は難しい本を書く人を肯定するのか否定するのかよどっちんだよ

当然個人的にはものものしい言い方とかしてるわりに中身が空疎ってのはだめだと思う。

中身がすかすかと思われないよう表現レベルも落とすべきだわ。饅頭一個を段ボールに詰めておくってもしょうがないようにな。

だけどあれはい大人が読むマルクスとか孔子とかも視野に入れて言ってるんだからそれをやさしく説明できずに受け売りするのが馬鹿だって言うなら難しい表現をしてる著者当人たちも当然馬鹿ってことになるしかないよな。

なんだよ受験馬鹿文章を読まされてるのかってなる。いよいよこっちが頭おかしいのかと思うぐらいわけわからなってくるわ

2023-01-25

デェ学の講義真面目に聞いてると、マルクス労働からの疎外の理論とか、ウェーバーの拡大再生産が自己目的化した経緯とか、ホンマかいなって感じのこじつけじみた話がままある

2023-01-24

anond:20230124111001

それは「疎外論」であって、「マルクス疎外論」じゃないんだよ

疎外って、少なくともヘーゲルフォイエルバッハマルクスで分けて考えるべきなんだよ

マルクスという名前を持ってくるなら、マルクス疎外論じゃないといけない

資本関係言及しないと

Wikipediaですら「疎外」と「マルクス疎外論」を分けてページを作ってるぐらいだ

それくらい別もんなんだよ

簡単に言えば「言葉の使い方が雑すぎて素人ってすぐ分かる」ってやつだよ

ITでも「パソコンメモリ容量は256Gは必要」って言われたら「いやそれストレージのこと?」ってツッコミが入るはず

その言葉遣いだけでその人の理解度が分かるんだよ

anond:20230124104404

たとえばこの人は、

http://matsuo-tadasu.ptu.jp/yougo_sogai.html#%E7%96%8E%E5%A4%96%E3%81%AE%E4%BE%8B

「考え方」「理念」「思い込み」「決まりごと」等々といった頭中の観念人間から勝手に離れて一人立ちし、生身の人間を縛り付けて個々人の血の通ったくらしの都合を犠牲にしてしまうことを、フォイエルバッハ青年マルクス用語で「疎外」と言う。

と言ってるし、「疎外」の本質的意味合いを考えたら、やはり、婚活にも当てはまるのでは?

anond:20230124105125

類似してないんだって

疎外論資本主義の話

でもお金財産持っている人間モテるのは太古の昔からなんだよ

マルクス疎外論我田引水引用してるから、有り得んよこんな話って苦笑してしま

陰謀論ってこうやって生まれるんだろうなって

マルクス信者共産主義者ってこうやって生まれるんだなってよく分かるよ

anond:20230124104404

そりゃ誰だってマルクス婚活のことを意識して、疎外論を書いたわけじゃないことくらい、承知のことだろうさ。

記事あくまでも、婚活の厳しい現実に、疎外論との類似性見出したってだけじゃないかな。

婚活マルクス疎外論は全く関係がない

婚活マルクス疎外論を絡めた記事話題になってたけどさ

はっきり言って、婚活マルクス疎外論関係ないんだよ

マルクスわかってるやつがブクマカに皆無なのがよく分かる

せめて資本論と経哲草稿と共産党宣言くらいは読んでるんだろうな?

解説本じゃなくてさ

マルクス疎外論って、資本主義における労働疎外の話なんだよ

本来労働は喜びなんだが、資本によって労働の喜びが失われるって話なんだ

そこから人間疎外という話になる

資本支配されることによって、人間らしさが奪われるという話なんだ

これが唯物史観(物によって人間が動かされている)なんだよ

から資本主義をやめて生産物労働者の手に取り戻し、人間らしさを取り戻そうという話になる

そこで婚活の話。

婚活って資本主義関係あるのか?

かに収入によって選ばれないひとも出てくるが、そんなの資本主義以前からだろ?

古代でも中世でもそんなの当たり前だったんじゃないの?

金持ってるやつ、地位が高いやつ、見た目がいいやつ、若いやつが有利なのはずっと昔から変わらんのよ

資本主義関係なくないか

マルクスの本をちゃんと読んでないから、我流マルクスの話を婚活に絡めてしまうんだよ

ちょっと考えれば分かることだよ

自分大学経済学部だったから多少マルクス学んだだけで、そこまで詳しくはないけどさ

こんな雑な話に納得してしまうのは本当に程度が低いとしか思えないよ

https://anond.hatelabo.jp/20230124090359




追記

こういう増田は伸びない。面白くない話だからもっと煽らないと食いつかないんだよなぁ…

婚活している人間はいくら踏んでもいいという風潮

婚活の場はなぜあんなにもつらいのか、マルクスを使って解説する

婚活の場はなぜあんなにもつらいのか?

人間が物象化され、疎外に晒される場だから。』

https://ta-nishi.hatenablog.com/entry/2023/01/23/171921

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/ta-nishi.hatenablog.com/entry/2023/01/23/171921

相変わらず、婚活している人間に対しては婚活している時点で売れ残りだのまともな人間婚活なんかしなくても結婚出来るだのと自己責任論全開で踏みつけるブクマ

普段自己責任論を嫌ってお優しい人達も、こと恋愛結婚話題になると何故か思いっきマッチョになり、しかもそれを止めようとする人も少ないのは何故なんだろう

人間が物象化され、疎外に晒される場だから。』

…って、そんなの別に婚活の場に限らず恋愛もっと言うなら人間関係全般そうじゃない?

幼稚園の頃から、異性に(同性にも)モテるのは女子は目が大きくて可愛い子、男子は足が早くて明るい子と相場が決まっていて

人間関係は最初からスペック勝負だよ

それは学校に入ってからもっとそうで、人間関係特に自由恋愛なんて値踏みの連続であり、スペックから離れた個人人格を見てもらえるなんて匿名場所くらいしか有り得ないのに

何故婚活けが特に値踏みが発生すると思うのだろうか

私は婚活しなくても結婚出来た人達ってスペックが高くてなおかつスペック相当の相手に巡り会う運もあったってだけの話であって

人間性の問題にしてしまってはいけないと思うんだけど

2023-01-22

マルクスを読ませたAI「いずれは共産主義になります

言いそう

anond:20230121222629

男同士でも同担拒否

それ昭和時代はいっぱいあったやん

同じ裕仁萌え同士の統制派皇道派帝国陸軍内の殺し合いとか

同じマルクス萌え同士の中核派革マル派内ゲバ抗争の殺し合いとか

数学者無名具合に疑問

第一線の数学者は他のどの科学者よりも難しい問題を達成していると思うのだが、特に現代数学において誰でも知っているというような人が全然いない事実にひっかかるものがある。

マルクスみたいな経済学者とか、ファーブルみたいな生物学者など、他の学問には数学者よりは高度なことはしてないというのに一般の人でも知っているという人がいるのに、これはどういうことなのか。

数学者で有名といったら、せいぜいピラゴラスといったような古代人、現代数学でいえばリーマンとかラプラスとかだ。

これらの人物共通するのは小学校から大学までのカリキュラムで扱う理論公式発見者かどうかということに過ぎない。

特に古代人が考えたことは現代から見れば易しいものなので義務教育の内容に採用されやすい。だからあのへんの時代人物数学者でも知名度が高い人がいることになる。

ようするに言いたいのは数学者の有名無名はただ単に教育制度次第になっているということだ。

高度な現代数学でも岡潔望月新一と有名な人はいるじゃないかと言う人もいるかもしれないが、あれらが有名なのも、実績の価値が正しく一般の人にも伝わって認知度が高まってきたというものではない。

岡潔なら統合失調症だったなかで戦時下を生き抜いたこと、望月新一なら自分コネを使って論文掲載させたこと。

そういう生き様センセーショナルなところがもっぱら庶民の関心を呼び起こしているに過ぎないのだ。

ポアンカレみたいな「未解決問題を解いた人」というわかりやすラベリングを持った人間が有名なのも本質的には上述したのと同じところにあるのだろう。認知している人の多くが業績の概要価値だけでも正しく理解してるか疑わしい。実績の内容に関する関心ではなく、未解決問題を解いたという一点で共通認識化されているように思われる。

ちょっと単純化が過ぎるかもしれないが、数学以外の科学者土俵はもっぱら実験実証なかにあると思う。

実験により、何かをしたらこういう結果が出た、という目に見える因果関係を把握する力さえあれば誰でもその分野の大学者になれる素質はあるとさえ言える。

もちろん実際に誰もが知ってる大学者になれるかどうかはもちろん有用な結果をはじき出す実験にこぎつけられたらという話になるが、どちらにせよ彼らは比較的易しい具象の中で研究対象と戦っているということには違いない。

一方で数学ときたら現時点で新規性のある高度な数学論文をしたためるには何万ページという論文が語る知見に対する確かな理解の積み上げが無いと無理だろう。

理解する過程においても数千ページ目にあたるある論文理解できないとなったときどこに理解の欠落があるか今まで読んだ論文から探しなおさなければならないわけである

理論構造自体も目に見えるようなわかりやす因果関係から成っているのではなく、抽象的なわけだから知識の欠落がなかったとしてもその理解純粋に難しい。

しかし高度な論文作成はその先にあるのだからこの数学研究というものは果てのない作業なのである

望月もそのような作業を経てついにはIUTの創出という高みに至ったはずである

そして望月以外にも当然少なくとも月ごとには相当数、同程度の高みから発した高度な内容の論文が公開されているはずだが彼らの中から一般人にも有名という人は現れて来ない。

ようするに現代数学者天才である。あの手の分野の数学者受験勉強を全くせず東大に悠々と合格するような人間がざらであるらしい。もっと現代数学者絶対数が少ないのだから「ざら」というのは数ではなく割合問題なのであろうけど。

そんな数学よりは高度な理解力を要しない学問では誰からも知っている人が出てきているのに、現代数学ではせいぜい専門家の間で有名という程度にしかなれないというのは理不尽なことだと思う。

私にはそれほどの数学の才能はないので数学ができる人間に対して劣等感がある。

から劣等感元凶である彼らにはせめてとことん栄誉ある立場にあってほしいのだ。

彼らすら大して評価されないのでは彼らと違って能力のない私には何も救いがないではないか

あるいはこういうことなのかもしれない。既存知識理解するという力と新しい見識を発見する力というのは異なるものなのではないかと。

まり数学の功績は高度な理解力の上に成り立っているものだけども、高度な理解力をもった彼らがもし別分野を志していたとしたら果たして一般の人の記憶にも残る大学者になれていたのかどうか。

現代数学者チョムスキー生成文法もその理論を考え出した背景にある理論も含めてその気にさせれば簡単理解してしまうだろうが、かといってもし彼らがチョムスキーと同時代に生まれ言語学を志していたらチョムスキーを出し抜いてあのような文法理論創造できたのだろうか。漢字世界白川静みたいな業績を打ち立てることができただろうか。丸山真男のような戦後思想史巨人になれただろうか。

理解力は結局脳の処理能力という量的な要素に還元されるものに思われるが、理論創造というものはどのような分野にしても大胆なひらめきがものを言い、これなるもの量化などもちろんできない、一種特殊能力なのではなかろうか。

数学はむしろ知見が論理的に緻密な状態でに充実に蓄積されているのに比べ、他学問の知見は相対的には雑駁というかなんというか、とにかくそういったところから新しい理論を考え出すのには数学以上に何かアクロバティックな部分が必要にも思える。

コペルニクスだったか海上水平線帆船が見えなくなる事実から地球が丸いということを歴史最初に悟った人物らしいが、彼のような発見は彼より多くの知識を持った、つまり理解している天文学者には出来ないはずだと朝日新聞の轡田だかい論説委員の本に書いてあったと思う。

本当だろうか。現代数学者がその時代に生まれても無理だったのだろうか。でももしそういう発見という意味での知性が特殊な力なのなら、ここは素直に認めておくべきことなのかもしれない。数学者こそ昔の偉人発見した事実ベース論文をしたためることができているだけで、彼らがいなかったらならば今のような仕事はまるでおぼつかないものになっていたかもしれない。

ただしコペルニクスデカルトみたいなあの手の啓蒙思想の潮流で偉人扱いされている人がもしも今生まれたら、史実でその発見をしたときインパクトと同じぐらいのインパクトを持った発見ができるのだろうかという疑問はある。

しかしできないのだとしてもそれは役割問題なのだということになるんだろう。コペルニクスにはその特殊能力をもって彼にしかできない発見をしたのだし、現代数学者も彼らの理解力をもって高度な論文を発表している。それでよしとするべきことなのだろうか。19世紀から20世紀イギリスでは優秀な人間天文物理学に行くものだという常識・慣習があったのも引っかかる。

学者としての優秀さというのは最終的には理解力のような計り知れるものではない、ひらめく力・直感センスで決まると認識があった証左なのだろうか。

そうであるなら私についてもまだまだ人生これからで、数学以外の学問でひらめきを発揮する道はあるのかもしれない。

そうだとすれば劣等感を抱く前提条件も崩れ、数学者一般に知られていようといまいが気にする問題ではなくなってしまうはずであるけれど、ここまで掘り下げて考えてしまったので、まあそれはそれとしてこの疑問は解消されるまでことあるごとに私を悶々と悩ませるには違いない。

まあそれでも既存知識理解することにおいては絶大な才能があること、つまり学者がどんな難解な理論提唱しようがたちまち理解してしまうという意味で、あらゆる人に対してタイムラグはあるにしてもそれを無視した見かけ上はどちらの方が物事をよく理解してるかということについては遅れを取ることがないという点にはやっぱり羨やむものあるかなノー勉東大に受かる素質というのも素直に?率直に?畏敬の念に駆られてしまう。

dorawiiより

2023-01-20

マルクスAIを使ったか資本主義の行く先が共産主義だと言ったのか?

答えがあるならそれを言うAIを作ればそれが正解になるな

2023-01-18

anond:20230117163125

昭和平成前期の学校でのイベントは、社会主義教育に源流を持つものが少なくない

活動や学級会における反省告白連帯責任生徒会なんかもそう(「滝山コミューン1974」に詳しい)

フォークダンスもその一つ

フォークダンス日本で広めたのは、昭和30年代の「うたごえ運動」(歌ってマルクス、踊ってレーニン)だといわれている。

フォークダンス学校に取り入れられる必要なんかなかった

増田屈辱は全く必要のないものだったのです

2023-01-09

anond:20230109084238

赤旗4コマといえば、「まんまる団地」だよ!

1975年から続いてるから赤旗取ってる人はみんな知ってるよ!

政治問題はあまり出てこない、なんていうか、無難というか、あー新聞4コマだなぁという感想になる4コママンガだよ!

20年前の記事しかなかったけど、今も書いてるはず

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik2/2003-09-28/03_01.html


あと、レーニンちゃんはないけど、京大職員組合の案内誌の4コママンガ「がんばれ!マルクスくん」があるよ!

http://kikanshi.kyodai-union.gr.jp/UnionWelfare/24_2212Winter.pdf

一番最後のページだよ!

文字数多いよ!

でもマルクスエンゲルスのイチャコラ漫画だと思えば面白いよ!

2023-01-01

世界史教科書でびびったところ

大学受験日本史選択だったために、世界史ほとんど勉強してこなかったのだが、年末年始休みを利用して教科書山川出版社 『詳説 世界史研究』)を読んだ。

1/2(月)追記 ブコメにて、「 『詳説 世界史研究』 は 「教科書」 ではない」という指摘をいただきました。ここでは 「教科書」 を 「高校で使う教材」 ぐらいの意味で捉えてもらえれば幸いです。また、他にも指摘をいただいた点について修正を加えました。問題意識としては変わっていません。



それでびびったのが以下の点。

旧約聖書記載特に出エジプト下り)を史実として書いている。

ヴェーバープロ倫』の主張を史実として書いている。

ウォーラーステインの 「近代世界システム論」 を前提に近代記述が進む。

アジアでの 「勤勉革命論」 が何の疑いもなく紹介される。

資本主義説明が、ほぼマルクス資本論』の主張を丸呑みしている。

同じ山川でも日本史教科書だと、 「〇〇論」・「△△説」 の紹介は避けるところがあって、事実の羅列にしか見えないような記述ばかりなのに対し、世界史教科書だとガンガン踏み込んでいくからちょっとびっくりした。

とはいえ、説は説なので、「~~という説明が有力である」 ぐらいにしとかないとダメな気がするんだけど・・。

2022-12-31

今回の流れを大河ドラマ化したいけど

温泉むすめどころか、そもそもの発端に遡るならだいぶ遡らなきゃいけないのが難しいよなあ。

史実を取捨選択するなら

鎌倉幕府が成立(1185~1192年頃)

吾妻鏡が成立

鎌倉幕府滅亡、室町幕府成立)

徳川家康吾妻鏡を熟読

室町幕府滅亡)

・貧しい農民の出からのし上がってきた太閤豊臣秀吉天下統一

豊臣秀頼徳川家康が破り、江戸幕府成立

渋沢栄一徳川慶喜の家臣となる

徳川慶喜大政奉還し、江戸幕府滅亡、大日本帝国が成立

満州事変勃発、渋沢栄一死去

大日本帝国滅亡、文民時代に移行

文民の中で貧しい農民の出からのし上がってきた田中角栄が今太閤と呼ばれる

田中角栄ロッキード事件逮捕されるも田中真紀子越後国の権勢を継承(ここが豊臣秀頼にはできなかった部分)

田中角栄死去

米山隆一尊敬する政治家田中角栄)、越後における衆議院議員選挙田中真紀子に連敗する

越後における田中氏の影響力の低下と、米山氏の台頭

新潟県知事選挙における泉田氏の不出馬により米山新潟県知事の成立(2016年

ドラマが50回あるとして、最初10回ぐらいまでで上の1185~2016年日本史上の出来事を、越後国メインでどうにかまとめる。

必要なら越後上杉氏にも触れる。

次に、フェミニズム今日の流れを社会福祉とも絡めながら、1120回を平塚らいてう市川房江、矯風会、RBG、マルクス主義フェミニズム上野千鶴子思想ポストモダン人工知能学会表紙、秋葉原奪還計画トランプ政権、woke運動今日のラディカル・フェミニズム確立までに費やして、2016年頃までの出来事としてまとめる。

21~30回を2016~2020年頃までの出来事に費やす

ここに安倍氏の全盛期と衰退、米山-室井夫妻の確立インターネット上における社会学-フェミニズム運動の全盛期(フェミニズム社会学における上野学派の系譜、農林、海女みかん第一VTuber-フェミニズム論争、宇崎、シュナムル氏、マルクス作品、シュナムル-マルクス論争)などを入れる。

31~40回を2021年の出来事に費やす

特に室井氏の周りの論戦と、温泉むすめと草津温泉松戸論争(第二次VTuber-フェミニズム論争)でこれまでの流れの伏線回収を終わらせる。暇空氏とシュナムル氏の確執もこの期間のサブテーマで取り上げられる。

41~50回を2022年以降の出来事に費やす

脚本家の腕の見せ所。この10回分の期間に安倍氏暗殺を含め、約一年間の出来事anond:20221230152020)を取捨選択して描き切る。第1章での米山隆一第2章での上野千鶴子といった以前の中心人物歴史的な流れが全てここに集まり視聴者了解される。

2022-11-23

最近よくバナナが品切れになってる。

マルクスバリュにはあるのでこれが資本力かーってなる。

2022-11-20

なんだっけ。忘れないうちにメモ


最近ゴッホ絵画など芸術作品トマトスープをかけたり、ウォーホルアートカーに小麦粉をかけたりする気候変動対策を訴えながら過激抗議活動が耳目を集めている。

ブクマもよくされているが、ほとんどが環境テロ、という認識で眉をひそめたコメントにあふれている。

もちろん許されない犯罪として国内外報道されているわけだが、しかし、海外メディアでは、テロという表現ラベリング)は少なく、抗議団体自称するCivil resistance市民抵抗)という表現を紹介していることが多い。正直、この種の活動で昔から有名なグリーンピースもそうだが、テロ呼ばわりされてもおかしくない運動ではあることは確かだが、報道ニュートラルに構えているのだろう。

そんなおり、斎藤幸平が、「ゴッホ名画にスープ投げ」を理解しないのは、日本人想像力の欠如だ、と述べてブコメから総すかんを食らっていたのをみかけた。

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/toyokeizai.net/articles/-/631285

しかそもそもテロという認識日本では強いのはわかるけれど、実は欧米での反応というのはそれほど強くなく、むしろ彼らが自称するCivil resistanceへの一定の理解の上に立った報道も多く見受けられるように思える。

https://time.com/6234840/art-climate-protests-margaret-klein-salamon/

そして、よく考えると、そもそもテロまがいのデモというのは、現代人権歴史を振り返ると、一定程度、社会変革の不可避な副産物として、憲法などのシステムビルトインしてきた経緯がある。典型的かつ最初の事例は、20世紀初頭の資本主義社会における労働環境を前提とした社会権。

この問題は二つの視点から興味深く、注視している。

ひとつは、抗議のコンセプトの抽象性。

もうひとつは、抗議運動市民社会的な価値

抗議運動抽象性について。

https://artnewsjapan.com/news_criticism/article/508によると、世界的な環境活動グループ「Extinction Rebellion」の共同創設者であり、ジャストストップ・オイル活動に加わっているサイモン・ブラムウェルは、アートニュースインタビューで、若い活動家がこの抗議行動のスタイル選択した理由を次のように説明する。

「これはアートの美しさを否定するのではなく、今の私たち優先順位絶対的おかしいということを言いたいのです。アートに美を見出しギャラリーを訪れる人たちがいる。にもかかわらず、消えつつある太古の森の美しさや、日々絶滅していく何百もの生物たちには目を向けないのです」

アートの美しさを否定しないといいつつ、美の概念の相対化というか、再構築といった意味では、形而上学的な禅問答である

この説明を聞いて、素直に納得できる人の割合が多いか少ないか、という視点でみると、ヨーロッパに比べると恐らく日本人は少ないだろう。

アリストテレス時代から愛だの美だの徳だのといったことをテーマに発展した形而上学から学問が枝分かれしてきた欧米と、近代以降のすでにたこつぼ化した個々のジャンルとして完成形をみた成果を受け取ってそれを解読して発展してきた日本では、こういう抽象的なテーマの抗議の趣旨理解できるのは圧倒的に少ないだろうと想像できる。

これは、作品の美の価値が分かればわかるほど、スープをかける行動の意図もわかる、という構図でもあり、実際、被害を受けた美術館環境問題の意義に言及するなどしている。作品に接したこともなく、それこそ「ウォーホル」だ、「ゴッホ」だと資産的な記号程度にしか理解していない人ほど抗議行動の意図自体を測りかね、なんじゃこの奇行は?という反応になっているようにみえる。

そういう意味では、当然、環境急進派の行動は、そもそも抗議の意図が分からない地域では成功しない(日本ではテロ以外の認識は生まれないだろうし、絶望的に無理だろう)。

しかし、欧米では、意外と功を奏しているのかもしれないと思える。感心はしないが、ああ、なるほどね、くらいの素養のある人は日本よりは多いだろう。

おおざっぱにいうと、日本人経験から教訓を得て社会設計をしていくのが得意。いわば帰納法的な解決が染みついている。一方、欧米、ひろくラテン系言語圏含めて、日本人とは比べ物にならないほど、なにかにつけ演繹的な入り方をする。言葉定義からまり指導原理を引き、タスクを明示する、という物事の進め方へのこだわりが強い(日本人自分からみると)。

組織でも、経験常識が共有できていないと不安なのが日本人

一方、構造化された概念ルール化された行動原理(法)にのっとって行動する、という相互の信頼がないと不安なのが欧米社会。そこに、デモ過激運動の機会に、自分たちが共有していない別の概念オルタナティブとして提示されたときにみせる反応というのは、おのずと異なる。


そのもうひとつ理由が、市民不服従という考え方や人々の認識の違い。

日本人社会迷惑をかけるのがとにかく大嫌いなのだ

欧米では、恐らく日本人想像している以上に、Civil resistanceというアプローチ自体価値社会変革のダイナミズムとして認めている。

それが今回の場合、限度を超えたものであり、法的に違法である、というときに、運動趣旨理解はするが違法である、という具合に飲み込みながら。

この違法性というのは、実は重要視点。それを理解するには、市民社会根本から支える憲法など、法について考えないとわからない。

近代から現代20世紀に法の考え方が近代法が大きくバージョンアップした際に、社会権が組み込まれたのは、中学生で習う話。

日本学校では昔から社会権を生活保護など、上から目線な形で教えてきた傾向があった。

しかし、社会権のうち、争議権を思い出してみればわかるように、実際はボトムアップな契機をはらんでいる。

他者危害禁止近代法の原則をはみ出した形で、ストやピケなど市民的な抵抗暴力性を認める市民権が存在する。

考えてみれば、他者に損害を与え暴力的な行動をとっていい、というのが「労働」に関してのみ例外的憲法に組み込まれている、というのは、よくよくなぜなのか歴史を知っておく必要がある。一歩間違えれば、革命トリガーになりかねないボトムアップ暴力。これをあえて憲法に明記するのは、明記することでコントロールしたいという、上と下のせめぎ合いのようなものも感じる。しかし、なんだったらいつでも政府おかしければ転覆して革命をおこせるんだぜ、と市民に思わせておく、オーナーシップ感覚絶妙バランスで持たせる機能果たしているともいえる。

マルクス時代、そしてワイマール憲法時代社会権を育んできた思想運動社会歴史のなかで、当時「労働」が最重要課題で、社会権の大きな柱として考えられたのは自然な流れだっただろう。抵抗暴力は、労働問題を争うツールであるというのが20世紀だった。しかし、抵抗暴力資本主義社会のなかで、たまたま労働キーワードになっただけであって市民社会としては、労働である必然性はない。20世紀には「環境」といったテーマシステムビルトインされなかったわけだけど、80年代後半にブルントラント委員会が「我ら共有の未来」といって今日SDGの原型となるコンセプトを立ち上げたときに、労使間に代わる、世代間の闘争といったことがテーマになりうることはうすうす予測がついていたように思う。

なので、抵抗暴力労働問題ではなく、環境をめぐる世代問題だとしても、その新たなムーブメント市民社会における意義が注目されるのも自然な流れだ。

ここで、はい違法です、はいテロです、といってしまうのは簡単だが、思考は停止する。


一方日本では。

労働」というキーワード戦後日本ははじめて市民不服従権利を手にした。市民社会における抵抗という考え方に「労働」というコンセプトが、時代要請でむすびついていた、というのは押さえておくべき文脈

GHQの五大改革から。勤労者から労働者への主体認識の転換。

しかし、その権利過激行使は、1950年代から60年代大衆の心を猛烈にイラつかせた。

日本高度経済成長を支えた大手企業は、大規模な争議に悩まされた。

民間では、1960年三井三池炭鉱紛争など半年を超える争議も珍しくなかった。しかし、ほぼ100%ユニオンショップで、従業員全員が労働組合員という会社組織風土のなかでは、会社家族みたいなものであり、労使一体みたいなのが当たり前であり、60年をピークに民間の争議はピークアウトする。そのなかにあって、国鉄だけは年中行事のように、順法闘争ストライキを繰り返して市民生活に甚大な影響を及ぼし、会社のみならず社会的に損害を与えた。さらベトナム戦争反対や成田闘争など、新左翼政治闘争が加わっていくなかで、日本人のいら立ちは頂点に達していく。

国鉄やら共産党やら新左翼にひどい目にあわされた、という日本社会のこの経験というのは、争議だなんだといっても社会迷惑をかけてはいけない、という教訓を強く残し、憲法に組み込まれ暴力的な契機をできるだけ抑制的にするべきだ、という認識支配的になるきっかけだったんだろう。1973年最高裁は、それまでリベラル保守裁判官の間で揺れ動いていた官公労組の争議権の是非について、完全に保守化の方向に舵をきり、封殺する結論に至る。公労協のスト権奪還スト(1975年)を時代の潮目に、公社民営化路線が進められていく。争議権だかなんだが知らないが、憲法に書いてあったとしても、市民としては正直、うんざりしてしまったというところだろう。戦後、長い間、政治闘争旗手として大きな存在だった総評、そしてその大半を国労が占めていた時代は終わる。

ということで「労働」をキーワードにせっかく手に入れた不服従暴力は、迷惑をかけんじゃねーという市民社会常識を繰り返し強化する経験を重ねることにより、空洞化した。

その後の日本社会では、エスタブリッシュメントと化して長い間、社会運動の先頭に走っていた労組が今度は勢いを失うと、どういうことになるか。

例えば、正規雇用非正規雇用ギャップみたいに新たな問題が浮上してきたとしても、ユニオンショップ非正規も入れてあげたほうがいいんじゃない?、という手続き的な、上から目線的な議論の仕方に収れんしてしまう。日本社会があまりにも保守化してしまって、そもそも争議という暴力的な手法は何のために憲法というシステムに組み込まれたのか、根本的な思想がわからなくなってしまっているようにも思える。言い換えると、憲法さらメタ視点からとらえる思想的な背景がさらに弱くなっている。

歴史を振り返ると、20世紀初頭、メタ視点があったからこそ、資本主義社会の現状と課題に即して、社会権という新しい権利が組み込まれたのだが、現行憲法を頂点とし、人権普遍性憲法の最高規範性を強調してしまうと、憲法思想根拠はと問われたときフリーズしてしまう。日本では制憲者の意思議論は起こらず、代わりに基本書読め、といってなぜか憲法学者に振られるのが定番。(制憲者があいまいなのも諸悪の根源かもしれないし、ステートに対するネイションオーナーシップの違いとも思える。)

欧米環境運動というのは、あるいはLGBTも同様だけど、恐らくそうじゃないんだと思う。

既存規範に書いてないものであっても、新たなムーブメント意味真剣に見極めようとする思想文化があるんじゃないと思える。

そのムーブメント暴力性を違法認識しつつも、時代ダイナミズムとしてとらえようとする、というか。

繰り返すと、

・美の概念など、概念の構想力、概念について深く考えたがる文化の違い。

憲法など国の根本的なシステムアップデートするのに必要社会ダイナミズムへの関心の低さ。

この二つをひとまとめにして、斎藤平氏のように想像力の欠如といってしまえるのかもしれないが、因数分解すると、社会設計をするのに基本的重要な2つの能力、この二つには欧米社会と大きく差があるように思える。

2022-11-17

anond:20160822143524

マルクス自体共産主義の欠陥を認めていて、

「その欠陥を是正することができる意見を広く求める」って言いながら他界してしまったんだよね。

エンゲルスがまとめたことで独裁主義暴力主義正当化するイデオロギーとして完成してしまった。

anond:20221117022234

北欧流の社民主義欧米資本主義の上部構造なんだよ

ツイッター広報担当たちと同じ

本業搾取して儲かってるのを不当な儲けじゃないとアピールする係

マルクス批判した資本主義正当化するプロテスタントと同じ役割

からそこだけ取り出しても意味がないんだよ

anond:20160822181702

キリスト教国のアメリカ拝金主義蔓延しているのは皮肉だが。

 ← そのへんはマックス・ヴェーバーあたりが論じている通りかと。人によっては「資本主義プロテスタンティズム放蕩息子」と言ったりする。けだし名言かと。

ちなみに、新約聖書には、カネを預かったのに増やさずに大事タンス預金していて主人に叱られる召使い寓話キリスト弟子たちに語る場面がある。

キリスト教者でありながらマルクスの影響を多大に受けた

 ← こちらもまた、社会主義共産主義の萌芽にはキリスト教があることを考えればさほど不思議ではないかも知れない。「キリスト教社会主義」とか「キリスト教共産主義」などという言葉もあるし、初期のキリスト教信者たちは正に共産主義コミューンを作っていたようだ。

ちなみに第46代内閣総理大臣となった社会党片山哲は熱心なクリスチャンだったし、マッカーサーも彼が総理就任したことを歓迎していた。今でも日本キリスト教界は左派的な空気が強いように思う。

なお、ガチガチ唯物論無神論共産主義については、これを「プロテスタンティズムの鬼子」などと評する向きもある。

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