はてなキーワード: ナルシシズムとは
こんな本があった。日本でも同じような本がいずれ出るのだろうか。
【内容紹介】
書名:ミレニアル世代よ、わかったよ!
帯:ピューリタニズム、被害者化、アイデンティティ政治、検閲……「ベビーブーマー」世代による、Woke世代の神話についての調査
説明:
文化大革命が進行中だ。今度は中国発ではなく、アメリカ発なのだが、中国の文化大革命と同様に大きな被害をもたらすものである。新たな紅衛兵は「社会正義の戦士」だ。ロレアル社は「白(blanc)」「美白(blanchissement)」という言葉をカタログから削除し、エヴィアン社はラマダン期間にプロモーションを行ったことについて謝罪した。レゴ社はBlack Lives Matterとの連帯を示すために、警察が登場する広告を削除した。Wokeが北米の大学に残存する民間伝承にすぎないと言っていられるだろうか?
文化大革命が進行中だ。アメリカの名誉ある大学の女性研究や黒人研究、クィア研究からこの革命は始まった。この革命が、民主党を有害な左傾化へとおいやる「アイデンティティ・ポリティクス」を生み出し、衰退しつつあるプロテスタント的土壌を置き換えた。民族間の分裂に沿って社会を分極化させ、アメリカを内戦の危機にさらしている。黒人と白人、女性と男性、同性愛者と異性愛者を対立させるこのやり口を、われわれの世俗的な共和国、フランスに輸入したいだろうか?
普遍主義的理想と1960年代の解放思想を擁護するベビーブーマーである著者ブリス・クチュリエが、ミレニアル世代に呼びかける。あなた方の過剰な繊細さ、被害意識を伴うナルシシズムは、あなたたち自身に対して検閲や禁止を課すことになるのではないですか、と。私たちベビーブーマー世代は、可能性の領域を広げたい。あなた方は逆に可能性の領域を狭めている。それはわれわれ全員の不利益になる……
【感想】
ちなみに、著者の属するベビーブーマーとは1946年から1964年ごろに生まれた世代と言われている。
Wikipediaによれば、著者は若い頃に毛沢東主義や社会主義に傾倒していたらしい。
60年代の観点からミレニアル世代を批判するというのが、日本とは文脈の違いがあるのかもしれない。
https://livre.fnac.com/a15552213/Brice-Couturier-Ok-Millennials
もちろん、個人単位で探していったらいるんだろうけど、あえて聞きたい。
みんなが俺のことを大好きで、俺もみんなが好きなつもりだけど上手く表現できないし、自分の愛情が本物なのかも自信がないぜ。それにしても、お前らはほんとに俺のこと好きだな、って感じ。
基本的に孤高なんだけど、俗世を一瞬だけ横目で盗み見している。
読んでるときに「かっこつけてんな~」「でも、自分の身に置き換えたらくっそ気持ちいいわ~」って思うんだけど、こういう作風に響いてる自分の中の部分って、普遍的な人間性っていうよりは俺の男としての部分だって感じるんだよな。
当然、こんなのヘミングウェイの一面的な解釈に過ぎないだろうけど、それはそれとして。
上で書いたような印象が理解できつつ、女性だけど普通に共感する、って人はいるのかね。
あと、書いてて思ったけどこういう読み方が実際は男性読者に限定されないとしたら、たぶん、主人公を女性にしたヘミングウェイ的な作品もこの世にあるはずなんだよな。それも気になるな~。
文化人類学者たちの報告によれば、現代においても、アマゾンとまではいかなくても、女性上位の社会はいくつか存在するようである。しかし、地球上の大部分の社会では、我々の社会のように、男性上位になっている。これに不満をいだく一部の女性たちが、最近、ウーマン・リブとやらいう運動をはじめて話題を呼んでいる。ウーマン・リブとはウーマン・リベレイション、つまり女性解放のことである。
だいたい女は男にくらべて脳細胞の数が少ないせいか(日本人の場合、脳の重さの平均値・男1372.9グラム、女1242.8グラム)浅はかさと愚かしさをもってその身上とし、それがまた魅力ともなっているのだが、浅はかさもここまでくれば、いささか許しがたい。
女性解放運動というのは、昔から禁酒運動と同じくらいポピュラーで、同じくらい成功率が低いものである。理由は簡単。禁酒を望む酒飲みと同じくらいの比率でしか、解放されたいと願う女性がいないからだ。
ウーマン・リブの指導者にはくやしいことだろうが、大多数の男が男らしくありたいと望むように、大多数の女は女らしくありたいと望んでいる。
ある日、男らしくない男たちが大同団結して、男らしさが、侵略と反革命を支える。男らしさの返上。男らしさの基準で男の優劣をきめる社会に怒りをたたきっける」とわめいてデモりだしたとしたらどうだろうか。あるいは、突然豚に知恵がついて、豚らしさの返上。豚らしさの基準で豚の優劣を決める社会に怒りをたたきつける」と、ブーブーいいだしたらどうだろうか。
女性に特有の思考様式は、現実を無視して議論を展開することである。
現実の第一。原始、古代社会においては、母権社会、アマゾン社会がかなり存在したにもかかわらず、いまは見る影もないということ。これが意味するものは、女性上位社会は、人間社会史において自然淘汰された不適応社会であるということ。社会の不適応性は、その社会体制維持のために、どれだけのエネルギーを必要とするかにかかっている。
歴史上、女性は抱く女から抱かれる女へなることによって自己解放をなしとげ、現に解放された存在なのである。ウーマン・リブが志向しているものは、一種の先祖帰りでしかない。それはフランスの王統派と同じくらいアナクロである。
ウーマン・リブの幻想をかたちづくっている現実無視の第二は、女性が生理的にも心理的にも、抱くよりは抱かれることに適しているのだということに目をつぶっていることにある。人間の生殖器官の構造と機能を一べつしただけで、生理的に、男性は能動的、女性は受動的にできていることがわかろう。
心理的には、女性心理学の第一人者、ヘレーネ・ドイチェが指摘するように、女性の特性はナルシシズムと受動性の二語につきている。しかし、不幸なことには、ごく一部の女性は、正常な女性心理の発達を阻害されて、抱かれることより、抱くことを望むようになる。
マリー・ボナパルトは、正常な女性は膣型であるのに対し、この種の精神的不具の女性は陰核型であるという。陰核は発生学的にいって未発達のペニスである。彼女たちは、膣という素晴しい道具を持っていることを知らずに、陰核がペニスなみでないという点に欲求不満を持ちつづける。その結果は、真のオルガスムスをついに味わえないという結果になる。
ウーマン・リブは、一夫一婦制を、女の性欲求の封じ込めと非難するが、これは彼女たちが精神的不具者であることを公表しているようなものだ。正常な女性の性心理からは、女性が自ら一夫一婦を望むものであることは、あらゆる心理学上のデータが証明している。
多淫な女、複数の男性を望む女は例外なく冷感症、不感症なのである。オルガスムス不全がニンフォマニアとウーマン・リブを生むといっても過言ではない。女性が真に解放されたいと望むなら、早くオルガスムスを味わわせてくれる男を見つけることだ。そしてそのとき、オルガスムスを味わうためには、女は抱くことより、抱かれることが必要なのだということを忘れないことだ。
●知の巨人・立花隆先生による井田真木子著「プロレス少女伝説」評
「プロレス少女」はどうでもいいことを巧みに書いた典型のような作品である。
私はプロレスというのは、品性と知性と感性が同時に低レベルにある人だけが熱中できる低劣なゲームだと思っている。そういう世界で何が起きようと、私には全く関心がない。もちろんプロレスの世界にもそれなりの人生模様がさまざまあるだろう。しかし、だからといってどうだというのか。世の大多数の人にとって、そんなことはどうでもいいことである。
うつ病者だから差別する、とうつ病者だから差別しない、はどちらもロジックとしては全くイコールではないんだけど。要するに無関係。そして人種差別と階級差別多分当人の中で別レイヤーになってるし、同じ階級に韓国人がいてしかも上司だったらうつの方を高く評価するだろうね。例えば韓国人の上司が有能だから俺は無能だ、というふうに。それで韓国人のくせにとか言い出したら意味不明。有能無能も判断できずに劣等感を抱いてることになるから。
本人の中では差別されていることと差別されるような自分、という客観と主観のうち明らかに主観のナルシシズムがまさっていると思うので(推測)実際に差別されてるかどうかは大事じゃない気がする。どれだけ憐れみあふれる自分に酔っ払って現実を直視しないか、というあたりに重点がある。
出典は『ファビュラス・バーカー・ボーイズの映画欠席裁判2』(2004年、洋泉社)、発言者を「町山」及び「柳下」と表記。記述形式は
[ページ数]
(初出)
です。
[p141]
柳下:いやあ、何がムカつくったって、十八歳過ぎて「大人は嫌だ」とか言ってるヤツですね。
町山:え?田野辺くんのこと?
柳下:いや、『バトル・ロワイアルII』ッスよ(以下、『BR-II』)。藤原竜也が「すべての大人に宣戦布告」とか言うんだけど、お前だってもう大人じゃん!
柳下:もう三十歳ですよ。
町山:オヤジじゃん!
柳下:大人としての自覚がないね。思春期なんてハシカみたいなもんで、とっとと済ませればいいだけなのに、いつまでもハシカでいたい連中が多すぎる。
町山:いい年こいて『ライ麦畑』読んで泣いたりしてる連中ね。男ってのはガキだと思われるのが嫌で、早く一人前の男になりたいもんだと思ってた。オイラなんて早くオヤジになりたいクチだったなあ。
柳下:オヤジになっちゃえば自意識とか照れとか、無駄なコンプレックスとナルシシズムから解放されますからね。
町山:女の子に「ところでおっぱい大きいね」ってシレッと言えるようになる。
(初出『映画秘宝』03年vol.46)
【感想】
こういうジョークは「本当はセクハラをしない人間」や「本当は大人の男」が言うからサマになるのであって「実際にはナルシシズム全開」で「ホモソーシャル集団内部に閉じ籠もって、セクハラやパワハラに打ち興じているような人間たち」がこんなことを言っても、薄ら寒いだけだと分かります。
この人たちの言う「大人としての自覚」とか「一人前の男」という言葉の、何と薄っぺらくて空虚なことか。
この投稿は以上です。
被害者の精神は「傷付けられた」「苦しめられた」などの否定的な言葉で埋め尽くされます。
(中略)
新たに発表された調査によると、被害者の精神をより顕著に周りに示す人々は、物的利益を求めてうそをつき、周りをだます手段として他人を中傷する可能性が高いことが示されています。そういった人々はナルシシズムやマキャベリズム、正直さと謙虚さの低下など、道徳的に好ましくない性格特性と関連付けられています。
https://gigazine.net/news/20210302-victim-generate-power/
実際ネットの書き込みとかも弱者の立場で書かれてるものほど攻撃的で憎しみに満ちてるもんな。
やっぱ弱者は同情せずに踏みつけるのが正しいわ。
グローバル化した社会において、それは、いつの間にか意味を失って空洞化した。
都市という箱があるのに、価値を生み出せないジレンマをバブル崩壊後に経験し、その後やがて
箱がなくても価値を生み出せることに気が付かないまま、箱のある日常が価値を生むと信じる時代がつづいた。
箱のなかにいることで感染が広がるコロナになって、狭苦しい箱のなかで3密回避を強いられ、ようやく都市という過密な箱の価値を見直し始めた。
満員電車に乗って、都心の高層ビルに通う価値がわからなくなってきた。
おそらく古今東西、都市というのは、本来、そういう閉塞的なものではなくて
外に開かれ、多様な価値が交錯する場所だっただろう。路地裏があり、道を外れれば新たな発見があった。
巨大だけども、同じ箱のなかで似たような人が似たようなことを考えている。
どこにいっても似たようなものを売っていて、郊外にイオンがある景色が同じだ。
何を売るか。その命題もまたモノからサービスへとテーマが移っていった時代に、あいまいになり
明確にとらえることを怠ってきた。ブランドとして売るべき価値をしっかりとらえるようになってきたのは
ここ10年の話。しかし、それでも「日本すげー」的なナルシシズムへの囚われから脱却できないどころか、ますますはまり込んでいる傾向がある。
かつての日本はプロダクトアウトの発想でモノを売れた。市場価値とグローバルスタンダードは自社が確立し、人々を自社製品をとりこにさせる意気込みがあった。
このマインドが亡霊のように世代に成功体験として引き継がれ、さまよい続けた結果、マーケットイン(あるいはゼロベース)から
スタートする設計思想がはぐくまれない世代が全世代に蔓延した。
明治期には世界とりわけ西洋文明に対する学びの動機付けは強烈なものであったが、それによる成功体験が財産となるにつれ
徐々に失われ、渋沢栄一の時代の渇望はもはや存在しない。世界で何が起ころうと関心がない。先進国でコロナワクチンを占有され、途上国は必要なインフラもリソースもなくあえいでいるというのに、オリンピック開催にまい進しようとしている姿は森元というより、日本社会自体の老害化を象徴している。
かりにもSDGsオリンピックを謳うのであれば、途上国へせめて超低温冷蔵庫の無償プレゼントくらいしてアピールしてやるべきだが、外務省の国際協力の実態としては
インフラ輸出などさまざまな分野においてここにきて、世界各地で中国にオセロの白黒をひっくり返されているのが実情だ。
端的にいって、日本の国際協力はニーズのつかみ方が根本的に間違っている。日本式ありき、であり、自分が思い描いた「日本すげー」「日本式」が売れることがとにかくプライド。
それがいかにも押しつけがましい。しかもそんな態度が煙たいのに本人気が付かない鈍感さがセットで。
それは無自覚なプロダクトアウトであり、状況の変化に鈍感でニーズを何も学ばない老害だ。
都市というのは、そういう老害のウイルスにあふれていて、都市にいればいるほど、人間がダメになる気がするほどだ。
コロナ危機というのは、幸いなことに、過密への忌避、都市への忌避を通じて、都市がこれまで生んできた価値への反省を呼び起こす、とてもいい機会になった。
郊外や地方、あるいは場所を選ばないグローバル社会のバックグラウンドとしての価値、ということだけではなくて、
何を価値創造するか、売るか、ということにも立ち止まって考える機会を与えたと思う。
また、東京という超過密な箱のなかで行われるオリンピックというイベントをめぐって、さまざまな欺瞞と矛盾が浮き彫りになった。
なにより浮き彫りになったのは、都市の箱の価値を無自覚に信じつづける自分たち自身、日本社会全体の老害化だったと個人的には思う。
尾崎だの山田かまちだ、長渕の言ってるナルシシズムな青春より、ギークな方面しか興味がない奴らがその頃にもいた。
潜在的なギークたちは80年代のネアカ、ネクラという今で言う陰キャ陽キャに相当する用語のターゲットになるまいとして自らを隠し通さなければならなかった。
いまやギークな人々は口を揃えて洋画劇場のバルスを唱え、Twitterのサーバを落とす程になった。
どっちがいいかといえば表面的に倒錯的で内面は冷え切っているオタク、表面上クールぶっていて内面が倒錯だらけの尾崎ファンが入れ替わった程度だと勝手に思っている。どちらがいいとかそういうものでもない。
俺たちは夜の校舎の窓ガラスに興味がない。なぜなら家に帰ってアニメを見るからだ。
神名とか怪物とかの固有名詞で。さすがにロゴスで、なんたらロジーとかポリスで、なんたらポリスとか一般名詞の複合語はなしで。英語読みとかはアリアリで。
ゼウスとか神の名前はそれなりにあるだろうけど、やっぱりミノタウロス、ケルベロス、メデューサ、グリフォンあたりは特にギリシア風でなくてもRPGの敵とかで結構でてくるよね?ペガソスはちょっと微妙かな?
神の名前より英雄たちの方がでてくるかも。オデッセウスのユリシーズはラテン語経由でスペルもかなり変わってるのでセーフかアウトか難しい。ヘラクレスのハーキュリーズやヘルキュールあたりはありかな?
「俺の目に止まっただろ?」と言ってる連中がウジャウジャいてキツすぎるわ。
お前ら、何様のつもりだよ。
本文も読まねえカス共の目に止まって何の得がある?
マジでやべえよ。
日本SUGEEEEEEEEEを日頃馬鹿にしまくってるくせに自分たちは俺たちSUGEEEEEEEEEEEEEEEしてるわけだ。
つまり、お前らは自分の生まれた国に対して帰属意識を感じられないようなはぐれ者であり、そして自分たちを追放した奴らを蔑んでいながら、自分たちはソイツらと同じことしてることにも気づかない馬鹿ってことだよね?
いっそ言葉が通じないほうが良かったとすら言えるな。
だが、逆にここで言えることがある。
それが日本というキモイナルシストの集まり国家の中だけに留まったことだ。
つまり逆なんだよな。
「こんな馬鹿どもがこの島国にはウジャウジャいるってことが、世界に気づかれるリスクが減る」が俺たちが日本語を扱うメリットなんだよ。
これって割とオタク文化やギャル文化じゃ実際に起きてることなんだぜ?
なんでアイツらが独自の表現を使うかって言うと、そういった言葉を使うことで一般人から近づかれるのを防いでるんだよ。
でも、外からは理解できないような言葉を使って意味不明なことを言って、それを意味不明って笑われる分には「あいつら、俺達の言葉が分からないんでござるなあwwww」「マジヤバwwwww言葉通じない奴らに何言われても興味ネーしwwwww」で終わらせられる。
つまり意図的に言葉を通じなくすることで、言葉が通じてないからバカにされただけって言い訳を用意してるんだよね。
そうすることが生存戦略として界隈や個々人の経験に深く刻まれてるから、すぐに意味不明な造語を乱発したがるわけよ。
日本人の持つ恥の概念の歪さが産んだ恥の上塗りシステムがヒエラルキー下層にありがちな造語症もどきなわけね。
日本人っていう情けないナルシー下等民族にとって、日本語というのはまさにこの効果を最大限に発揮する最高の道具な訳。
つまり、日本語を使うメリットは「恥をかいてないと思い込むためのバリアとして有効」になるんだよね。
良かったじゃん。
超絶情けねえゴミみたいな代物だがな。
都構想が否決された、ある意味ではたしかに良かったかもしれないが、僕は非常に悲しくて、苦しくて、そして失望しかなくて、仕方がない。
最初の都構想の住民投票は2015年に行われた。この頃僕は、年齢的な理由でまだ選挙権がなく、ある意味部外者的立場からこの住民投票を見ていた。梅田に行った時に投票場前には人々が投票を呼びかけていた。僕はどこか投票できないことが悔しいと思っていたし、投票できる人を羨ましく思っていた。
僕は正直に行って最初の都構想のときは反対派であったし、結果的に都構想は住民の意思によって否決されたので良かったと思っていた。(ただ、当時市長が責任を取って辞めると発言したときは悲しかったが)
その頃から、僕は誰に呼ばれるでもなく、自分の意思で東京に向かうことが増えた。最初に東京に触れて驚いたのは、何から何までの規模の違いである。東京には人々の活気があった。テレビでしか見たことのない光景がそこにはあった。そして段々と東京に生まれ育った人たちを羨ましく思うようになった。一時は東京に移り住もうかとも思った。が、現実問題として、その頃僕は大阪の大学に通っていたので、とりあえずは大阪で頑張ろうと思った。
しかし、東京に触れる機会が増えるにつれ、大阪と東京の差に苦しくなることもあった。とりわけそれを感じたのは人々の熱量の違いでる。例えば、大阪と東京とで同じようなイベントが開催されたとき、同じ内容にも関わらず、参加人数が全く違うという事実に驚いた。東京だとすぐに満席になるようなイベントが、大阪では全然埋まらない。
東京や関西ではない人々からすると、「関西人は常にうるさいし、テレビにも関西出身の芸能人が多く出演してるんだし、活気あるじゃん」と思われるかもしれない。まあ確かにそういう意味では活気はあるのかもしれないが、やはり根本として大阪で頑張りたいと思っている人が増えないという問題があるのだ。
大阪市で生まれ育った人ですら、出世などを考えるならば、大阪に留まるんじゃなくて東京に出ていく、関西芸人が東京に進出するなんてまさにその現象だ。
また、関西周辺の地方出身者ですら、おそらく就職や長い人生を考えるならば、距離的に近い大阪よりも東京で頑張ろうと思う人が大多数だろう。
これは僕が思うに、無駄を楽しめる環境があるかどうかが関係していると思う。
東京は確かに物価が高いかもしれない、大阪や地方と比べると生活するには大変かもしれない。ただ、それだけ価値のある無駄がたくさん存在しているのだ。ライブやイベントは常にどこかで開催されてるしニッチな専門店もたくさんある。無駄がたくさんあるからその無駄を求める人々が多く集まる。
それに対し、大阪は価値のない無駄しかない。価値のない無駄しかないから人々はそれを消費しないし、たまに現れる価値のある無駄に人が集まらないという負のサイクルに入っていると思う。
今の大阪は無駄を楽しめない、楽しむ余裕もないという状況なのだ。
話を戻すが、都構想否決後の5年の間、大阪維新の会の人々が大阪をより良くしようと頑張っていることは凄く伝わった。それが現れてるのが、大阪メトロのトイレ大改修と中之島公園や大阪城公園、天王寺公園といった公園の再開発だ。
なんだ、たかがトイレかよ、と思われるかもしれない。しかし、大阪市営地下鉄を利用していた人なら絶対に理解できるはずだが、以前の地下鉄のトイレは本当に汚かった。本当に引くほど汚かったのだ。それをあれだけ明るくきれいな環境に、しかも一斉に改修したのは本当に凄いことだと思う。
それに加えて公園の再開発だ。特に天王寺公園の再開発は凄まじい。昔の姿を知っている人がいるならわかるだろうが、確かに昔の天王寺公園も大阪らしくはあったのかもしれない。しかし、普通に考えて公園としてはあんなところで子どもなんて遊ばせられないというような雰囲気がそこにはあった。しかし、今の天王寺公園を見れば、コンビニもあるし広い芝生もあるし、あれだけ変わったのは本当に凄いことだと思うのだ。どれだけ維新が嫌いであったとしても、その点に関しては評価せざるを得ないと思う。
景気に関してもなんとかしようとしていたのは確かだ。大阪を観光都市にしようという動きがあった。これに関しては否定的な人も多いだろうが、僕はとても嬉しかった。梅田や心斎橋を歩けば、様々な国の人達が大阪という土地を楽しんでいて、凄く良いなと思えた。
確かに、大阪維新の会がやった政策すべてを評価できるわけではない。僕はどちらかといえば維新に関しては支持はしていないし、今の市長や府知事の考え方も合わない部分が多い。が、たしかに大阪の発展のために頑張ろうという気持ちは伝わった。
そして今回の都構想の選挙だ。僕は正直最後まで悩んだ。現状維持で良いのか、それとも結果的に失敗してしまうかもしれないが、未来に賭けるか。大阪という地方を今後どうするべきか本当に悩みに悩んだ。賛成派の意見も調べたし反対派の意見も調べた。
投票日直前にとんでもないスクープ(真実がどうなのか結局はっきりとはわからないまま投票日を迎えてしまったが)が報道され、こんな住民投票なかったらどれだけ楽やったやろとさえ思った。
結果的に僕は賛成に票を投じた。そもそもだが、僕は今回の都構想の住民投票はコロナ禍ということもあり、なんだかんだ賛成になるんだろうなと思っていた。それに加え、自分の親や親族はほとんど反対派だったし、別に自分の一票なんてそんなに影響力なんてないんだろうとも思っていた。だから正直家族の考えに合わせて反対に投じることも出来た。
ただ、やはりそれではあまりにも賛成派にとっても反対派にとっても無責任すぎる行動だし、今後の大阪が、東京のように無駄を楽しめるような都市になってほしいと思い、きちんと賛成に入れた。
だが結果的には否決された。たった1万票ほどの差だが、否決された。
本当に驚いた。なんだかんだ言って2回目の住民投票なんだし、市民もみんな初回の状況とは違って、維新が良くしてきた部分も見てきてるんだから、賛成多数になるだろうなと思っていた。しかし現実は、大阪市民は現状維持でいいと判断したのだ。
僕は最初、現状維持で良いという市民が多いのなら、まあしょうがないかと納得できた。市長や府知事は気の毒だけど、まあ仕方がないなと、大阪市民は現状のままでいいという判断を下した人が多かったんだと。ただ、Twitterでいろいろな人の反応を見ているうちに、「我々は権力に勝ったんだ!民意が権力に勝ったんだ!」と誇らしげに語っている自称リベラル勢力が多くいたことに、怒りを覚えた。
僕は以前からこういう自称リベラル勢力はそこまで好きではなかった。彼らは独善的な主張をする事が多いが、確かに政治的に正しいことは言っているし、ある種倫理的にも当たり前のことを主張していると思う。何よりも、僕は保守的な面もあるものの、どちらかといえばリベラル側の人間だと思っていたからだ。
しかし、今回の都構想否決で、まるで鬼の首を取ったかのように喜ぶ彼らの姿を見て、僕はもうそちら側には歩み寄れないなと心の底から思うようになった。
確かに、僕は大阪維新の会の人たちのやってきた政策全てに賛同はできないしするつもりもないが、大阪をよりよく発展させたいという気持ちは伝わったし、僕もそれに賭けたいと思った。大阪をより発展させ、東京と並ばないまでも、価値のある無駄が増えて楽しめるような、大阪に住んで本当によかったと、大阪に長く住みたいと思える人々を増やすには、やはり現状維持じゃダメだと思ったし感じていた。
それが今回また崩れ去った。崩れ去っただけならまだしも、嫌味な言い方にはなるが、それを自分たちが無知な市民に啓蒙したおかげだと自称リベラル勢力は主張したのだ。
彼らは大阪の発展なんて心底どうでもいいのだ。彼らにあるのは『反権力』、ただそれだけなのだ。『反権力』と主張できれば、地方の問題なんてまったくもってどうでもいいのだ。
なによりも悲しいのは、こういう主張をする人々が、自分と同世代に、大量に、そこそこ著名で、しかも、一方的にだが、仲間だと思っていた人たちが、正しいことを主張しておきながら、賛成派に対してはある種敵だみたいな態度だったという事実に苦しくなった。
彼らはTwitter上では反トランプだの、反差別だの、女性の権利だの、反権力だの、あたかも自分は政治的に正しい考えを持っていますかのような振る舞いをしておきながら、自分たちに本当に一番関わってくるはずの日本の今後の問題に関してはまったくもって関心がなく、関心がないならまだしも、むしろ発展や変化を一番拒んでいる人々であったというのが衝撃だったし、悲しかった。
彼らは日本の今後や地方の発展なんてどうでもいいのだ。あるのは正義の名のもとにおける肥大しきったナルシシズムと反○○、ただそれだけなのだ。
以前から彼らとは深いところで考え方が合わないなと思っていたが、今回でそれは決定的だなと感じてしまった。
長々と読みづらい文章を書いてしまったが、僕は別に反対に投票した人たちに怒っている訳ではない。大阪のことを思って反対に入れた人々のことは理解できるし、大阪市を解体するというのはやっぱりめちゃくちゃ不安だと思う。僕だって最後まで反対に入れるか迷ったし、たとえ今回賛成多数で可決されたとしても不安だったに違いない。
ただ、今回の住民投票で僕が一番悔しいのは、都構想が否決されたことよりも自称リベラル勢力が喜ぶような経験をさせてしまったこと、そして彼らは地方の発展なんて心の底ではどうでもいいと思っているということだ。
彼らは今後、この成功体験を糧に彼らが考える正義を人々に押し付けてくるだろう。それが個人的には怖い。
トランプ当選時に隠れトランプ支持者が大勢いたという報道があったが、今回の都構想周りを見ていると、そういう隠れ支持層は今後も増えていくだろうなと思う。
そして自称リベラル勢力は過剰に分断を嘆くのだ。「権力者が権力を振りかざすから人々が分断してしまうんだ!責任を取れ!」と。
本当に分断を起こしているのはどちらなのかきちんと理解したほうがいい。今回の都構想の住民投票で分断なんて本当は起きていないのだ。賛成派も反対派も、本来の目標は大阪の今後についてであり、その道中をどうするか、現状維持でいくのか改革をするのかというのが、今回の都構想で問われた内容だったと思う。
そこには本当は分断なんて起きていなかったのだ。だが彼らは主張するのだ、「都構想の住民投票を行うこと、それそのものが分断だったんだ!」と。
大阪ですら変われなかったのに日本を変えようなんて考えは、本当に傲慢だと、自称リベラル勢力は理解したほうが良いと思う。
大阪は今後も何も変わらないだろう、変わらないまま一地方と今後も存在し続け、僕もそこで生きていく。
本当は僕も東京に行きたいよ、でも僕にはその度胸がないんだ。
同世代の友人たちと酒を飲みながら話していると、仕事の悩みや家庭の愚痴に次いで「今までどんな漫画を読んできたか」という話題が出ることがままある。
コロコロコミックやボンボン、週刊少年ジャンプ・マガジン・サンデー、月刊誌の漫画や小学校から大学くらいまでに話題になった漫画やアニメなどの作品について長く語られることになるのだが、その時に出てくる「三国志」や「ジョジョの奇妙な冒険」「機動戦士ガンダム」という、いわゆる「漫画が好きなアラフォー男性なら通るべきであろう王道作品」を何一つ知らず語れず、曖昧な相槌と時折発する「あー」という賛同とも意見の表明とも取れない謎の発語をする程度で、とにかくその場に居づらくなる。
そんな時にトイレから帰ってきた友人は、個室の入り口付近で立ち尽くしポーズを取っている。
それに気づいた他の友人たちは「ジョジョの◯◯じゃん!」と大いに盛り上がる。そんな中、俺だけにはジョジョのなんとかではなく、ナルシシズムの度合いが病的になった吉川晃司や氷室京介にしか見えず、またしても「あー」という謎の音を絞り出す。
自衛官だった厳格すぎる父と、昭和という時代にいくらでもいた夫を立てる母のもと、道を外さず法を犯さず、真面目に暮らし育っていた。漫画もそれなりに読み、テレビだって見ていた。おそらくアラフォー男性が通るその手の道を辿ってきているはずではあるが、基礎的知識が圧倒的に希薄で、もしかすると記憶力が人並みはずれて低いのか、物語を理解する能力に著しい障害があるのかと不安になってしまう。
とはいえ、三十路あたりまでは少年期に触れた作品のあらましを諳んじて見せるほどだった。しかし、四十路が近づくほどその記憶は一つずつおぼろげになり、思い出す糸口さえ判然としない状態になっている。先日は娘と話している中で「逃げ水」という言葉を思い出すまでに5分程度の時間を要した上に、googleで答え合わせをしないと不安なほどだった。
もしも同じような経験をして肩身が狭い思いをしているなら、きっとそれはずっと続く。
年月を重ねいつか記憶の輪郭がぼやけて、時にほぼ消失しかけても、王道作品を語る周りの友人たちも「あー、あれだよ。なんだっけなー!あれ!」という老化現象真っ盛りな言葉をひねり出しながらも、その思い出す過程すら楽しむに違いないだろう。
さらにインターネットやモバイル端末が発達したおかげで、記憶を呼び覚ます力とは反比例して、検索結果でさらに盛り上がるのだと思う。
「覚えている力」と「思い出す力」は「小手先の調べる力」にひれ伏し、今夜もどこかでアラフォーたちは三国志やジョジョ、ガンダムの話題に盛り上がる。