はてなキーワード: マーケットインとは
https://twitter.com/paper_house_/status/1602834928475205633
Colaboは啓蒙思想。自分たちの正しい情報発信が理解されないのは相手が悪いと考える。だから延々と「相手に改善を求める」
一方、暇空側はマーケットイン。理解されないのは自分たちの発信方法が悪いと考えて次回以降は「自分たちが改善する」
colaboの方々は「私たちが作った正しい資料を読めば理解されるのが当然」と考えてる。
だから疑問意見に対して「資料読んでないですよね?」と反論してしまう。
このツイートしてる人、ツイフェミがよくありがちな「俺が、俺たちがマーケット(大衆)だ」をこれっぽっちも疑ってなくて笑うわ
専業トレーダーは知らないけど一般の人が投資をやる際の鉄則は「個別銘柄の売買はせずインデックス投信を買うこと」これに尽きると思う。
加えて「マーケットインのタイミングは考えず余剰資金ができたらすぐに買うこと(投資に回してる期間の最大化を図ること)」
個別株の勝ち負けは時の運だしギャンブルの側面がどうしても強くなる。そこでスケベ心だしたり、なぞの「自分だけは違う」バイアスに
陥って勝負しようとすると負ける。たまに勝つ人もいるが単に運が良かっただけ。
投資で資産形成することが目的ならある程度思考停止してインデックス投信に入れ続けるべき。つまらないし地味だし、爆勝ちはできないけど
10年、20年続けると貯金だけしてた人や、勝ちに行こうと個別売買していた人とは大きな違いがうまれるし、そこで増えた資産は
目の前の大切な人をいざというときに守る盾になり得る。
グローバル化した社会において、それは、いつの間にか意味を失って空洞化した。
都市という箱があるのに、価値を生み出せないジレンマをバブル崩壊後に経験し、その後やがて
箱がなくても価値を生み出せることに気が付かないまま、箱のある日常が価値を生むと信じる時代がつづいた。
箱のなかにいることで感染が広がるコロナになって、狭苦しい箱のなかで3密回避を強いられ、ようやく都市という過密な箱の価値を見直し始めた。
満員電車に乗って、都心の高層ビルに通う価値がわからなくなってきた。
おそらく古今東西、都市というのは、本来、そういう閉塞的なものではなくて
外に開かれ、多様な価値が交錯する場所だっただろう。路地裏があり、道を外れれば新たな発見があった。
巨大だけども、同じ箱のなかで似たような人が似たようなことを考えている。
どこにいっても似たようなものを売っていて、郊外にイオンがある景色が同じだ。
何を売るか。その命題もまたモノからサービスへとテーマが移っていった時代に、あいまいになり
明確にとらえることを怠ってきた。ブランドとして売るべき価値をしっかりとらえるようになってきたのは
ここ10年の話。しかし、それでも「日本すげー」的なナルシシズムへの囚われから脱却できないどころか、ますますはまり込んでいる傾向がある。
かつての日本はプロダクトアウトの発想でモノを売れた。市場価値とグローバルスタンダードは自社が確立し、人々を自社製品をとりこにさせる意気込みがあった。
このマインドが亡霊のように世代に成功体験として引き継がれ、さまよい続けた結果、マーケットイン(あるいはゼロベース)から
スタートする設計思想がはぐくまれない世代が全世代に蔓延した。
明治期には世界とりわけ西洋文明に対する学びの動機付けは強烈なものであったが、それによる成功体験が財産となるにつれ
徐々に失われ、渋沢栄一の時代の渇望はもはや存在しない。世界で何が起ころうと関心がない。先進国でコロナワクチンを占有され、途上国は必要なインフラもリソースもなくあえいでいるというのに、オリンピック開催にまい進しようとしている姿は森元というより、日本社会自体の老害化を象徴している。
かりにもSDGsオリンピックを謳うのであれば、途上国へせめて超低温冷蔵庫の無償プレゼントくらいしてアピールしてやるべきだが、外務省の国際協力の実態としては
インフラ輸出などさまざまな分野においてここにきて、世界各地で中国にオセロの白黒をひっくり返されているのが実情だ。
端的にいって、日本の国際協力はニーズのつかみ方が根本的に間違っている。日本式ありき、であり、自分が思い描いた「日本すげー」「日本式」が売れることがとにかくプライド。
それがいかにも押しつけがましい。しかもそんな態度が煙たいのに本人気が付かない鈍感さがセットで。
それは無自覚なプロダクトアウトであり、状況の変化に鈍感でニーズを何も学ばない老害だ。
都市というのは、そういう老害のウイルスにあふれていて、都市にいればいるほど、人間がダメになる気がするほどだ。
コロナ危機というのは、幸いなことに、過密への忌避、都市への忌避を通じて、都市がこれまで生んできた価値への反省を呼び起こす、とてもいい機会になった。
郊外や地方、あるいは場所を選ばないグローバル社会のバックグラウンドとしての価値、ということだけではなくて、
何を価値創造するか、売るか、ということにも立ち止まって考える機会を与えたと思う。
また、東京という超過密な箱のなかで行われるオリンピックというイベントをめぐって、さまざまな欺瞞と矛盾が浮き彫りになった。
なにより浮き彫りになったのは、都市の箱の価値を無自覚に信じつづける自分たち自身、日本社会全体の老害化だったと個人的には思う。
これは経済学的に考えればわかる。
女子大生の「恋人がほしい」という需要に対して、「私はどうですか」という供給はいくらでもある。
女子大生はたくさんの供給のなかから、いくつかを選ばなければならない。
ここで選択の基準となるのが「差異」、つまりほかとの違いである。
人々は機能やデザイン、そしてストーリー(こんな思いで作りましたとか)を見て買うのを決める。
恋愛における機能は優しさ、デザインは見た目、ストーリーは出会い方である。
そこでデザインとなるのだが、これは持っていまれたものなのでブサイクだと勝負にならない。
そうなるとストーリーなのだが、暴漢に襲われているところを助けたぐらいしないと、出会い方に差異は生まれない。
供給過剰における恋愛市場は、必然的にイケメンの一人勝ち状態となるのだ。
だが、これが社会人になると話が変わってくる。
給料が手に入ると、それを元手に、設備投資ができるようになる。
つまり、社会人になって初めて、設備投資による競争が可能になるのだ。
学生の恋愛市場は、特に男性にとっては、非常に限定的なものだ。
これは政府によって市場が統制されていて、自由な取り引きができないようなものだ。
±50歳の女性と取り引きできるようになり、顧客候補が無限に増えるのだ。
設備投資と完全な自由市場、これが社会人になってモテるようになる理由である。
そこで私が「どうですか、セックス」と供給をすると、「そういえば、セックスが欲しかった」と私のことを買うのである。
このようにして供給がない場所に、自分一人が供給することで、下半身を独占することができる。
重要なのは市場の独占である。供給過剰な場所で似たようなプロダクトをリリースしても何もいいことはない。
そして、市場の独占をするためには、プロダクトインでやらなくてはいけない。
例えば、マッチングアプリのようなものがマーケットインである。
マッチングアプリにいる女性は「私は性を求めています」という需要が顕在化している。
そこに対して供給をするのは一見、効率的に見えるが、顕在化している分、他者も供給ができる。
そうすると結局、競争が起こり、市場の独占は難しくなるのである。
プロダクトインで需要を掘り起こし、下半身市場を独占するのが得策だ。
私は社員数1万5000人の会社に勤めており、そこにはアラフォーの既婚女性はいくらでもある。
セックスレスであり、まったく供給がないので、私は彼女らの下半身を独占できる。
再び書くが、私は3人のアラフォー女性の下半身を独占している。
機能、デザインを磨いた男が、「若い男との未知なるセックスどうですか」というストーリーをたずさえて現れる。
これによって彼女らの需要を満たし、下半身を独占したのである。
私は現在24歳だが、30歳まではこの戦略で恋愛市場をサバイブできるだろうと踏んでいる。