グローバル化した社会において、それは、いつの間にか意味を失って空洞化した。
都市という箱があるのに、価値を生み出せないジレンマをバブル崩壊後に経験し、その後やがて
箱がなくても価値を生み出せることに気が付かないまま、箱のある日常が価値を生むと信じる時代がつづいた。
箱のなかにいることで感染が広がるコロナになって、狭苦しい箱のなかで3密回避を強いられ、ようやく都市という過密な箱の価値を見直し始めた。
満員電車に乗って、都心の高層ビルに通う価値がわからなくなってきた。
おそらく古今東西、都市というのは、本来、そういう閉塞的なものではなくて
外に開かれ、多様な価値が交錯する場所だっただろう。路地裏があり、道を外れれば新たな発見があった。
巨大だけども、同じ箱のなかで似たような人が似たようなことを考えている。
どこにいっても似たようなものを売っていて、郊外にイオンがある景色が同じだ。
何を売るか。その命題もまたモノからサービスへとテーマが移っていった時代に、あいまいになり
明確にとらえることを怠ってきた。ブランドとして売るべき価値をしっかりとらえるようになってきたのは
ここ10年の話。しかし、それでも「日本すげー」的なナルシシズムへの囚われから脱却できないどころか、ますますはまり込んでいる傾向がある。
かつての日本はプロダクトアウトの発想でモノを売れた。市場価値とグローバルスタンダードは自社が確立し、人々を自社製品をとりこにさせる意気込みがあった。
このマインドが亡霊のように世代に成功体験として引き継がれ、さまよい続けた結果、マーケットイン(あるいはゼロベース)から
スタートする設計思想がはぐくまれない世代が全世代に蔓延した。
明治期には世界とりわけ西洋文明に対する学びの動機付けは強烈なものであったが、それによる成功体験が財産となるにつれ
徐々に失われ、渋沢栄一の時代の渇望はもはや存在しない。世界で何が起ころうと関心がない。先進国でコロナワクチンを占有され、途上国は必要なインフラもリソースもなくあえいでいるというのに、オリンピック開催にまい進しようとしている姿は森元というより、日本社会自体の老害化を象徴している。
かりにもSDGsオリンピックを謳うのであれば、途上国へせめて超低温冷蔵庫の無償プレゼントくらいしてアピールしてやるべきだが、外務省の国際協力の実態としては
インフラ輸出などさまざまな分野においてここにきて、世界各地で中国にオセロの白黒をひっくり返されているのが実情だ。
端的にいって、日本の国際協力はニーズのつかみ方が根本的に間違っている。日本式ありき、であり、自分が思い描いた「日本すげー」「日本式」が売れることがとにかくプライド。
それがいかにも押しつけがましい。しかもそんな態度が煙たいのに本人気が付かない鈍感さがセットで。
それは無自覚なプロダクトアウトであり、状況の変化に鈍感でニーズを何も学ばない老害だ。
都市というのは、そういう老害のウイルスにあふれていて、都市にいればいるほど、人間がダメになる気がするほどだ。
コロナ危機というのは、幸いなことに、過密への忌避、都市への忌避を通じて、都市がこれまで生んできた価値への反省を呼び起こす、とてもいい機会になった。
郊外や地方、あるいは場所を選ばないグローバル社会のバックグラウンドとしての価値、ということだけではなくて、
何を価値創造するか、売るか、ということにも立ち止まって考える機会を与えたと思う。
また、東京という超過密な箱のなかで行われるオリンピックというイベントをめぐって、さまざまな欺瞞と矛盾が浮き彫りになった。
なにより浮き彫りになったのは、都市の箱の価値を無自覚に信じつづける自分たち自身、日本社会全体の老害化だったと個人的には思う。