はてなキーワード: ソ連とは
ブクマページ https://b.hatena.ne.jp/entry/s/jfas-sky.jp/2024%E5%B9%B41%E6%9C%882%E6%97%A5%E3%81%AB%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E7%A9%BA%E6%B8%AF%E3%81%A7%E7%99%BA%E7%94%9F%E3%81%97%E3%81%9F%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F%E4%BA%8B%E6%95%85/
ちょっと頓珍漢なブクマが多い。それは刑事裁判の基礎を忘れているからだ。
「ネットやマスコミの皆さんは憶測で語るのを自重してね」の部分は刺身のツマだ。勿論ネット民である我々の主体的行為としてその訴えを聞き入れるのは重要だが、その重要性は次点なのだ。
被告人が己の身を守る事が出来るのは近代刑事司法の根幹である。
被疑者、被告人は黙秘する事も出来るし、黙秘した事で「こいつは懺悔の念がなくて悪質だ」と加重処罰されたりもしない。
問われていない事実のうち、自分が不利になる事を明らかにするという動機もない。それは検事の仕事である。
己を有利にするために嘘の答弁をしても良い。勿論それが嘘とバレた際には心証は悪くなって情状の斟酌はされにくくはなる。これもその陳述が嘘であると見抜いて証拠を積み上げるのは検事の責任である。
勘違いされやすいがこれは刑事被告人のみに認められた権利で、検事や証人には認められない。証人は呼ばれて出廷しないとなれば拘引状が発せられる。拘引状を執行するのは通常は警察官で手錠腰縄が掛けられる。裁判までは警察署の留置場に入れられる。つまりは逮捕と同じ扱いだ。数日間犯罪者と同室で過ごして裁判の日は法廷に腰縄手錠警察官同伴で連行される。そこで証言を拒めばそれも犯罪となるのだ。
検事は嘘の立証の為に証拠を捏造すれば逮捕され刑務所に入れられる。
刑事被告人は身柄の拘束もある上に相手が国家権力であるから特別な権利が認められているのである。
だがこれでは事故原因の調査やフィードバックという観点では困った事になる。労災や原子力、航空、宇宙開発、その他技術では、事故原因を調査するだけでなく、それをフィードバックするという使命で動いている。フィードバックで改善し、更に事故に至らないインシデントの類型に分類する。インシデントを収集すればその結果の事故に至る道筋が見える。
またその調査結果は秘匿せずに公開する。それは知識の共有の為であり、職業人の集まりであるからニュースレターで広めたり、資格の更新研修で講習したり会社に定期的に講習を義務付けたりする。
でも刑事裁判ではこういう、緻密な調査結果がフィードバックされて安全性、特にフェイルセーフ設計に帰すというような思想と折り合いが大変悪い。特に事故の責任者は逮捕され、国家権力から身を守る為の法的な戦いに置かれている。己に不利な事、普段からの慣習や過去に似た事をしていたとか、過去には同様のケースで難なく乗り切ったとか、そういう事を言うというのはあり得ない。
また検事も判事もその分野のスペシャリストという訳でもない。だからと言って被告人に自分の権利を守る事を止めろということも出来ない。
そこでアメリカでは根本的な手段に至った。「事故責任者を訴追しない」という事にしたのだ。
勿論、飛行機事故ともなれば数百人が死ぬ事も珍しくない。それを無罪放免を約束する形にしたのだ。
身の安全と心理的安全を確保する。その代わりに親身になって己が不利になる事も話してくれ、それで技術の進歩に協力してくれ。それが未来の数百、数千人の命を救う、と説得するようにした。
このやり方を採用している国はまだアメリカなど限られている。何しろ他国では業務上過失で数百人を死なせた人間は極悪人の犯罪者であって、それの無罪放免を約束するというのはとんでもない事であってコペルニクス的転換だ。司法当局が許さないであろう。
チェルノブイリ原発事故の原因というのは未だ説がいつくか並立してある状態で、確定していない。今だその時の運転員に話を聞いても明白な答えは得られないそうである。身と心理的安全が補償されていないからである。
この点においてはソ連/ロシアとアメリカでは後者の方が格段に技術文明的に優れていると言える。
例えば池袋の飯塚幸三の起こした所謂「上等国民事故」ではこういう動画を恬としてアップする者もいる。
飯塚幸三被告が 無罪を主張しはじめた件について【池袋母子死亡事故】
https://youtu.be/etBfbKb3Jbs?si=10vKskA-QUzpNZzW
この動画では飯塚被告人が「車に異常があり事故になった」と主張した事をもって、「これはトヨタの名誉棄損であり損害賠償される」と糾弾している。
これは被告人の権利を解さない出鱈目なデマである。自分の利益(無罪や責任転嫁)の為にそういう主張をしてその責任を問われる事はない。情状が悪化するだけだ。この主張を覆す為に検察はトヨタから証人招致したりデータシートを提出する必要があるがあるが、それは圧倒的権力の国家を代理する検事の職務だ。
刑事裁判での主張の責任を問われたらそれは近代国家ではないし、近代国家では通常の弁護行為である。
因みにこの投稿者は運送会社で運管と法務をしていると言っているので、こんな事は全部判っていて言っているはずだ。ドライブレコーダー動画の視聴者はヤフコメレベルに程度が低いので鵜呑みにして視聴数が伸びる。
この動画をわざわざ選んだのは、この投稿者は俗流法的解釈で釣るような事を何度もしていて悪質であり、サムネイルもクリックベイト多用と悪質なのに、ドラレコ動画見るような層には「真面目な業界人」と捉えられている為だ。
同様の事故では逮捕されるのに飯塚は社会的身分がある為に在宅事件となり、それが上級国民と批判されたのに、「被告人の権利を使った」事で批判するという扇動である。
こういう動画が上がってそれが好意的に消費されるように刑事被告人の権利や刑事裁判の仕組みの理解が前近代的な場合、JFASが言っている事も判る筈がないのである。
「身体的、身分的、心的安全性」が確保されないと事故調査の根幹である責任者の聴取が十全、それ以前に全く出来ない、刑事裁判が最大の障害になっている、という事が判らないのである。
日本では運輸安全委員会の事故調査結果が刑事捜査や裁判証拠に利用されています。これらの行為は、明らかな犯罪の証拠がある場合を除き、調査結果を利用することを禁止する国際民間航空条約(ICAO)の規定から逸脱した行為であり容認できるものではありません。
今般の航空機事故において最も優先されるべきは事故調査であり、決して刑事捜査が優先されるものではないこと、またその調査結果が、再発防止以外に利用されるべきではないことをここに強く表明するものです
アメリカ以外の国では重過失犯は訴追され裁かれ罰せられる。だから調査に当たって身の安全を十全には保証できない。
だが事故調の究極形態はアメリカ型の訴追無しであり、それ以外の国ではそこに近づける必要がある。
それには事故調の結果を持って責任者が不利になる事は絶対にダメなのだ。だから事故調結果を刑事司法に転用するな、と言っているのだ。
「ネットやマスコミで犯人捜しするのは止めよう」と言う人も見受けられる。その態度は結構だ。
だがこの根本の目的は「犯人がはっきりしている時でも責任を問うな」である。とんでもないミスで多数を殺した野郎でも責任を問わないことを約束し、未来の事故を回避する制度設計、技術更新に資させる方を優先させろ、というのが主旨である。
日本ではアメリカのように訴追しないという制度設計はまだ無理だ。
だが調査結果を刑事裁判で証拠に使うというのではその目的の基礎の基礎の部分から間違えている。刑事裁判で使われるであれば責任者は不利になる事は言えなくなる。弁護士がそれを止める。その事故責任者の不利になる部分に事故再発防止の一番大きなヒントがあるのにだ。
だから多くのブクマカ、特にメーデー民(増田は残念ながら同番組見た事が無い)なども基礎から間違えているコメントをしているので指摘させてもらった。
テントに偽装加入した憂助に明かされたベキの最終目標、それは日本でのテロ実行と、その混乱を利用し治安維持と国家防衛を名目としたクーデター実行による独裁政権の樹立、それにより日本を軍事国家に改造し、バルガと軍事同盟を結びアジアに覇を唱える軍事大国日本を作ることであった。
計画の動機を問う憂助にベキは自分たちがかつて見捨てらた原因を日本の軟弱外交と軍事力の欠如のためだと決めつけ、強い国家を作ることが国民を守ることであると自らの計画を正当化する。国民を守るためと言いながら多くの国民を犠牲とする計画に憂助はなおも食い下がる。
しかしベキは、憂助が丸菱の同僚でテントのモニターであった山本を日本を守るという美名の元に殺したことを引き合いに出す。ベキは多数を守るため少数の犠牲を是とする点で自分と憂助のどこが違うのだと問うたのだった。自らの人生の根底の部分を突かれ動揺する憂助。しかしテロを肯定することもできず、計画阻止のために密かにテント内部での情報収集を開始する。
憂助にも明らかにされなかったテロの具体的計画は意外なところに手がかりがあった。
テントが計画実行後に駐屯地とするためとの触れ込みで買い占めを行っていた土地が、内戦中に活動していたが後に壊滅し現在は残党が細々と活動を続けている、とある武装組織のかつての支配地域と一致していたのだ。この武装組織に何らかの手がかりがあると睨んだ憂助は、ある重大な事実を発見する。ソ連崩壊直後、その武装組織によってロシアから小型核兵器が密輸入され、その後隠匿されたまま行方不明になっていたのだった。
テントの狙いはその小型核兵器を奪取し、日本国内での核テロに使用することであった。核テロによって火がついた国民の恐怖心は、クーデターとその後の独裁と軍国主義を容易に肯定する。武装組織の残党をテロの実行犯とでっち上げ、対テロ戦争の名のもとに日本とバルカが共に戦闘を行い日本人に実戦経験を積ませ、国民に戦争への興奮と肯定的感情を植え付ける。そして共に血を流したバルカとの軍事同盟は堅固なものとなる。軍事同盟の下で両国はバルカが有する資源と実験地として活用可能な広大な領土と、日本の技術力を利用し核ミサイルを開発する。アジアの要所であるバルカにそれを配備し他の大国を威圧し、日本の覇権をアジアに広げる、それがベキの目論見であった。憂助は、日本を再び核の犠牲とする父の計画を自らを犠牲としても止めることを決意する。
一方憂助から密かにテントの計画を伝達された公安野崎も阻止のために行動するが、テントの実力を軽視しつつ、自らの権力拡大のためテントを泳がせ、その脅威を利用しようとする警察上層部や政治家たちの妨害に遭う。国家のためには自分たちエリートがより強い権力を持ち国民を導く必要がある、テロによる多少の犠牲も国民の平和ボケを治すためならやむを得ないとうそぶく、国家のためと言いながら自らの利益しか考えない権力者たちに野崎は憤る。
テントは手中に収めた土地における情報収集により、小型核兵器の隠匿地を発見、確保のための実行部隊を出撃させ、これに憂助も同行する。部隊は武装組織の旧根拠地で小型核兵器を発見、トラックに積み込みを終え自分たちの保管場所へと出発しようとするも、その瞬間に憂助は突如としてトラックを奪取し逃走する。憂助が目指す先はテントの資料で密かに存在を確認していた、冷戦中バルカ政府により建設され現在は打ち捨てられた核シェルターであった。憂助の目的は小型核兵器を使用不能にすること、すなわち地上での放射能飛散を多少なりとも避けられる核シェルター内で起爆する事であった。到着までに捕えられる危険性を冒しての地下シェルター内での爆破は、心を通わせたジャミーンたちの故郷であり、かつて父が愛し、緑に変えようとした土地であるバルカの大地を放射能で汚さぬための憂助最後の一念であった。しかし長年放置された時限装置が起動するか分からない以上、誰かが直接起爆しなければならない。憂助はそれが自分の最期の使命であると覚悟していた。核とともに自爆することで、日本を守るためとの大義名分の下に人を殺めてきた自らの人生の矛盾を精算する。それが父と自分の違いを示す唯一の道と彼は信じていた。
一方、妨害を何とか乗り越えた野崎は憂助から得た情報を元に小型核兵器の隠匿地にチンギス率いる警官隊と共に突入。テントとの銃撃戦を制し憂助の逃亡の事実を知る。野崎は彼の真意を察し、国民を守るのが警官の使命、相手が別班でも変わりないと自爆阻止のため憂助を追う。ベキも憂助逃亡の報を耳にし自ら部隊を指揮し小型核兵器奪還のため追跡を開始する。憂助、野崎、ベキ、彼らはそれぞれの信念とともにバルカの砂漠を駆け抜けるーー
長い話を一気に2日で読み終えるほどには面白い話だった。戦争ものは大体気分が悪くなるので読まないことが多いが、アガサクリスティ賞をとったと聞いたり感想に伏線の回収という文字を見たので購入してみた。結果、ミステリー要素は皆無だったが淡々とした文章が戦争の悲惨さを的確に伝えつつ必要以上にグロテスク描写をしないという塩梅で、犬が死ぬシーン以外は特に感情を乱されることなく一気に読めた。
本書はとても面白く戦争小説を悲惨だからと思って避けてる人たちにもぜひ読んでほしいと思った。作者の意図はわからないがエンタメ小説としてもしっかりと成立しているところがとてもよくできていると感じた。
本書がとても良くできた小説で、読者として十分楽しませていただいたことを前提として、以下は疑問点について書いていきたい。批判ととれるかもしれないが、批判の意図はあまりない。他の人の感想を読むにおそらく作者の意図したように作品を受け取っている方は沢山いるし、ただ、私に理解できなかったというだけだと思う。
違和感の一つに主人公が掲げている女性のために戦うという本作品の主題に関してだ。これは最初出てきた時から一貫してその後もこの話のテーマのような顔をしてでてくるが、最初の村で村民を殺され、狙撃手に母親を殺されて学校に入りスナイパーのエリートとなる過程で主人公が何故そのような考えを行動原理として掲げているのが終ぞ理解できなかった。村民は全員死んでいるのだ。男も女も平等に死んでいる。何故彼女の頭に女性のために、という言葉が出てきたのか本当にわからなかった。そのまま物語は進むので私はてっきり途中で行動原理も変わる者なのだと思ったけれどそんなことはなく、そのままだった。
女性を守ることを行動原理にするには見ている光景に説得力がないように思った。
私は途中で友人のシャルロッタあたりが暴行されるのだろうと思っていたのだけれど、そんなことはなく、暴行は悲惨だ悪魔的所業だと言う割には主人公は最後までその光景を目の当たりにはしていない。ラストのミハエルですら未遂で終わりドイツ人の女性は逃げ出せている。徹底的にその描写を避けているように見える。ただ避けてあるからこその読みやすさがあるのもまた事実だと思う。ただ、私の感覚で言わせていただけるならどうしても、冒頭の流れからどうしても主人公が『女性』を守るために戦うとなるには理由が足りないように思えてしまうのだ。
また、肝心なところでの爪の甘さを感じるところも散見した。特に冒頭の80キロを超える主人公の母親の死体を村を一望できる場所から雪道を引きずって降りるドイツ人の描写などが特にそう感じた。あまりにも違和感があったので、何かしら後々に効く伏線なのだろうと覚えていたがそんなことはなかった。もし、ドイツ兵があの死体をそのまま置いて主人公だけを連れて村に降りたのなら、イリーナは主人公の母親の死体を目の前で焼くことはできなかったし、主人公はイリーナを恨むこともできなくて、話が進まないのかもしれないと読了後の今では思う。
また主人公は宿敵であるドイツの狙撃兵に対して「自分は自分の哲学において行動する。お前とは違う」と言うシーンがある。そしてドイツ狙撃兵は、殺される。主人公の同期にヤーナという登場人物がおり、彼女は世界中の子供の命を守るために戦争に参加する。彼女はソ連赤軍兵士だが、ドイツ人であれ子供は助けると言う哲学を持っている。主人公は終盤、ヤーナの目の前でドイツ人少年兵を撃つ。死にはしなかったが彼を助けようとしたヤーナは銃弾を受け重傷を負う。無論、少年兵を撃とうとした主人公の行動は正しく、誰も彼女を責めない。ヤーナも責めない。でもはっきりと主人公はヤーナの哲学を目の前で踏み躙っている。かなりのダブスタに感じた。そう言う描写が多々あった。誰か知らないドイツ人の兵士の、背景にいる家族のことを考えることもあるが、それは仕方ないのだと言い聞かせて、スコアを稼ぐのに、自分の母親を撃ったドイツ人狙撃兵には憎悪と侮蔑の目を向ける。憎悪までなら理解できる。侮蔑に関しては同じ穴の狢のではないかと思うのだ。何故なら主人公の母親はドイツ軍に銃を向けていたのだから。
最後に、イリーナと主人公のほぼ恋人同士のような終わり方について、私はその雰囲気を汲み取れずにいたので、最後は呆気に取られた。シャルロッタがヤーナと二人で家族になると言った時に、主人公が仲間外れでびっくりしたあたりで、あれ?とやっと作者の意図を汲み取れた。
納得できなかった部分を羅列したが全体的に本当に面白い話だった。大好きな一冊です。
→都市圏人口を比べればわかるがそんなことはない。歴史的にもベルリンは明らかにショボい。
→統計的な差は埋まらないが言うほどでもない。せいぜい北海道・沖縄みたいなもの。
→議会が同性婚を認めたのは2017年で、賛否は393対226。ドイツは欧州でも寧ろ保守的とされる。
→メンツのために渋々受け入れているという雰囲気で歓迎とは言い難い。南欧州のほうがよほどウェルカムなムードがある。
→結構ドライな国民性。基本東京人並みに冷たいしその自覚はある。
→ドイツはゴミ分別を始めた国、我が国は環境意識の高い国というナショナリズムがある。移民受け入れに関しても右派の賛成があって成り立っている。
→移民系で初の女性首相であるが、キリスト教民主同盟の右派・保守政治家。
→当時の兵器や地図等を展示する博物館は日本よりずっと多い。ネオナチを排除しているだけで、侵略国家としての歴史についてはそういう歴史もあったねと受け止めている。ギリシャやトルコから昔奪ったものも返す気はない模様。
→ポーランドのクラクフ郊外にある。ここで類を見ないほどのユダヤ人の凄惨な大虐殺が行われたことは事実だが、それを喧伝したのはソ連の正当性を示すプロパガンダとしての側面ももちろんある。現在ではポーランドがユダヤ人虐殺への協力(実際はあった)を否認していてユダヤ人から不興を買っているなんて火種もあったりする。
ある作家のポストを引用するがこの作家に対して何かしらの感情があるわけではなく、絵師と言われる人間に見られる言動への疑問に対する例とさせていただく。
コレは全然違う話だけど、イベントで良く言われるのが「とっても可愛いですね!大好きだから私も真似して描いてみます!」
こう言われて嬉しい人いるのかな?といつも謎に思う
キャラクターイラストを描く作家に多く見られるが、他者の作品が自身の作品に似る、他者が自身の作品に影響を受ける、自身の作品が誰かの作品に似ているという反応をされることに対する強い拒否反応を示す人が多い。
そもそも例外なく作家は幼少期に絵を描き始めてから絵の上達を経て作家活動を行うようになるまで他者の影響の元にスタイルを生み出しているはずだ。
言ってしまえば作家のスタイル、オリジナルというものは他者のコピーの積み重ねに手癖による変化が起こった程度のものであり、絵柄は他者からの借り物と言ってもいいものである。
借り物は言い方としてキツいかと思うが、その作家のスタイルは美術史という連綿と続く歴史の大河の一滴に過ぎない。
他者に影響を受ける事に対してこのように拒否反応を示すのは次世代の文化の発展を邪魔する行為であり、自身が影響を受けた作家に対する冒涜ではないだろうか。
例えばこの作家の絵柄を見ると目を上瞼と下瞼のみ描写し目の左右、つまり目尻目頭を描写していない。
この描き方は日本においては東映動画が「太陽の王子 ホルスの大冒険」で導入してからアニメや漫画に広まったものだ。
東映動画もこの描き方は旧ソ連の「雪の女王」で行っているものを真似たものである。(これは「雪の女王」のDVDに収録されている特典映像で宮崎駿氏が語っている)
ソ連の「雪の女王」を制作したソユーズムリトフィルムの他の作品にもこの描き方を見られるが、一節にはこの描き方は銅版画でインクの付着する面積を減らして印刷時の事故を防ぐ目的で自然発生的に生まれたと言われている。
また、この作家は影や髪の毛質感表現に輪郭線に沿ったハッチングを行う手法を用いている。
この描写方法はヨーロッパの本の挿絵において広く用いられている。
パッと見ただけで描写方法に他者からの借り物の表現を行っている。
自身がそれをしながらこのように他者が自身の作品から学ぼうとする事を拒否するのはいささか傲慢に思える。
このような発言はどういうわけかデザインフェスタのようなイベントに出展していたり小規模なギャラリーでの個展やグループ展でキャラクターイラストを発表する作家によく見られる。
一方、アニメーターや漫画家にはこのような言動はあまり見られない。
漫画家は自身や他の作家の歴史的系譜について研究している人も多いし、評論家がそのような研究を行うことへの拒否感はあまり見られない。
評論家に関しては「私の作風の源流はそこにない」という異論が作家の側から出ることはあるが。
増田は現職に就く前は動画マンをやっていたが、アニメーターにおいても漫画家同様に絵柄やアニメートのスタイルがどこからの影響かを語っている人も多い。
金田伊功氏の影響を受けたアニメーターたちが金田系と呼ばれたりするのがそれだ。
実際、増田がいたスタジオの諸先輩方は自身に影響を与えた先人について語る場面を随分見てきた。
Wikipediaなどはテンプレートに「影響を受けたもの」「影響を与えたもの」という項目があるくらいだ。
絵柄パクなどという言葉があったり、自分に絵柄の似ている作品を他人に取り下げるように求めたりイラスト界隈は不穏な事が随分見られる。
このような態度は後進が成長するのを阻害するし、文化として研究する上で障害になる。
何より作家間にいらない諍いを生み出す原因になるため、考え直すべきだと増田を考えている。
今回Xからポストを引用した作家は美大を出ているが、美術史を学んだであろう人ですらこのように系譜を途絶えさせるような言動を行う。
専門学校卒や完全に独学のイラストレーターや同人作家ではよりこのような言い方は悪いが勘違いが酷い。
ソ連好きだったりする
国家に代わる個人保護のための枠組みを作り上げるために国家を解体する必要がありますが、暴力によってそれを行おうという考えには絶対に賛同できませんな。
国家による暴力の独占から、人類単位での暴力の放棄に進まねばなりません。ここでの暴力というのは大規模なコミュニティや単位における対外的な暴力であります。内政や治安維持のための暴力装置、太陽系外や天の川外の人類にとって脅威となり得る知的文明に向けられた暴力装置の維持は否定しません。
ソ連の解体は武装した革命家たちによって行われたわけではありませんし、連邦の既存エスタブリッシュメントを皆殺しにして行われたわけでもありません。
核心には触れないようにするけど、一応ネタバレ注意で。
何回「やったか?!」言えば気が済むんや。
まあそれはともかく、ゴジラ怖かったー。
太平洋戦争にうなされた悪夢みたいな存在感が、主人公のトラウマとリンクしてて物語の舞台装置としても完成度が高かった。
過去のゴジラは「ダメージを受けない」であったのにたいして、今度のゴジラは「ダメージを受けてもすぐに回復する」タイプの不死身ぶりで、輪郭変わるほどの損傷を受けても秒で再生する。非現実的な再生速度や、最後のシーンも含めて存在感は怪獣ではなくホラー映画の怪物である。過去のゴジラが理不尽に怒り狂った存在であるのに対して、今回のゴジラは怒ってるというより人類に対して悪意や底意を持っている雰囲気がある。ヒグマによる獣害においてヒグマの行動にある種の異常性を感じることがあるように、今度のゴジラには何か異常性のようなものがある。破壊欲だけでなく、獲物への執着心があるのだ。
冒頭は完全にジュラシックパークだったが、後になってからもとにかく口に咥えられるものは戦闘機でも船でも電車でもブンブン投げる。そいやそいやとザンギエフ並みに投げる。投げゴジラという戦法が確立してしまいそうなほど投げる。
CGを節約するためなのか、投げるシーンを割愛しがちで投げられた物がいきなり飛んでくるシーンからなので、取り敢えず何かが飛んで来るのがゴジラの挨拶みたいになっている。
放射熱線はぶっ放すまでのシーケンスがいまいち模型っぽい部分はあったものの、破壊力の描写は過去一で怖い。
シン・ゴジラのブレスは放射時間が長くて撃ってる間ずーっと被害が出ているが放射が終わったら静まるのに対して、
今回のブレスは原爆のメタファーなのか攻撃は一瞬で、その後爆風が津波のように周囲を破壊していく形。
描写はされなかったけど、銀座であれ撃ったのなら皇居や霞が関や永田町も粉砕されたのだろうと思う。(GHQ本部も銀座のすぐ近くなので吹っ飛んだはずなのだが……)
なので、熱線が当たらなくても怖い。とはいえ、最終決戦での熱線はどこ向けて撃っとんのやという感はあり、少々ご都合主義的な印象はあった。
主人公は、罪悪感はわからんでもないけど視聴者としては整備兵への腹立ちが先に立つ。止まってる飛行機で機銃撃つくらい整備兵でも出来るやろが。命令系統に属してる相手でもないだろうに、なに人にやらせといてキレとんのや。お前もなんもできなかったくせに。
あと気になった点としては、オッサン集会のオッサン臭いダメさ加減が、美談っぽく描かれた事。「いっちょやるか」じゃない。
あと、民間のくせに駆逐艦や戦闘機みたいな兵器ばんばん貸し出されて好き勝手できたこと。GHQはソ連気にして占領軍動かせない割に、独立も回復してない日本の民間人に軍艦や戦闘機引き渡して好き勝手やらせられるのはスジが通らんやろ。日本政府は空気以下で高官の一人すら出てこないし。
そんなこんなで、ちょっとご都合主義な部分が無いではなかったものの、主人公の煩悶と、今なお続く戦争の悪夢としてゴジラという位置づけが秀逸であり、大変満足感の高い物語だった。
シン・ゴジラもRRRもダンジョンズアンドドラゴンズもトップ・ガンも仮面ライダーも一回しか観に行かなかった自分だが、これは気が向いたらもう一回くらい観に行くかもしれない。(行かないかもしれない)