はてなキーワード: 簒奪とは
ドラマを見た人向け。
大豆田とわ子の最終回を、何とな〜く家族に付き合って見ていた。
全編見た訳ではなく、家族が見ているときに脇で見る程度の関心の低さで。
最終回は丁度食後のコーヒーが欲しくなって、偶然いつもより長めに食卓に残っていたから、スマホ片手に半身でテキト〜に見ていた。
母がモラハラに怒って娘が「私が教育すればいい」って言うのは一昔前と立場が逆転していてこれはこれで令和だなぁ。
とわ子が「マー」宛てのラブレターを見つけたときも、ドラマならあるだろうな、と思っていた。
亡き母に父以外に愛してる人がいた、なーんてTSUTAYAで一棚にひとつはありそうだなとか考えてた。
けれど、唄がとわ子のことを「可哀想な人」と言ったのに対して、
画面のこちら側にいた家族が「なんで?」と一人言を言ったとき、
「あぁこの人は分からないんだ」
「分からない人がいるんだ」
と考えた瞬間に、私はとわ子に一歩近づいたのだ。
有り体に言えば、親近感を感じた。
という確信が揺らいだとき、大抵は自己肯定感が揺らぐものだと思う。
少なくとも私はそうだった。
自分は親の枷だったんだと感じて、生きるためのハシゴがバラバラと崩れたように思えた。
「親は私が生まれたことで仕方なくその役割を強制されてるんだ」はすぐに「自分はいない方がいいのでは?」という考えに変わった。
とは言ってもそれを理由に自殺しようとは思わない。自殺しない理由が1つ減ったくらいのもんである。だからこうして生きてスマホ見ながらドラマ見るとかしてる。長い人生の中どうせ出てくる絶望の1つだ。
マーに会いに行く二人の気持ちも分かった。
ハシゴを外されたのなら、代わりが欲しくなる。
「そりゃそうしたいよね」と他人事に思った。
「マー」さんが女性だと分かったとき、ぶん殴られたようだった。
「共感しなければ良かった」と思った。
なにしろ、
加えて言えば、母は父の恋愛対象ではなかった。
(私の父は女性であろうと何だろうと「父」であり、私にとって「父」は固有名詞なので父と呼ぶ)
とわ子の「あなたのことが好きだったんですよね」という問いに、
「マー」に「もちろん」と即答されたとき、
目の前が真っ暗になった気がした。
「マー」が簒奪者のように感じた。
「どうして産んだのか」という問いに、時代のせいだとマーが答えかけたとき、足元から自分が崩れていくように感じた。
「あなたは仕方なく生まれたよ」と言いかけられたように感じた。
「ごめん」とマーに謝られたとき、ホッとした。
言いきられなくてホッとした。
という言葉に救われたのは私だった。
「それで正解だった」と言われて救われたのは私だった。
現実の私が救われたのだ。
「私」を選ばなかった方の「父」に
誕生を祝福された気がした。
投げ捨てたくなったのも本当なんだろう。
でもそれを選ばなかったのも本当なんだろう。
ストンと納得した。
足の裏に地面の感触がした。
補償金や給付金は払わないし、五輪はやるし、五輪開催の為には他の何を模擬性にするって何回も明言してるじゃん?
ツイッターデモとか言ってSNSで騒いでいるだけで、自民党議員やその支持者の一人も○さないで何が変えられると思ってるんだ。
人生とかもそうかもしれんけどさ
対戦とかって勝ち負けがあるわけじゃん
話はさっそくちょっとずれるけど
よくないことは補償すべき
ゲームでいうと勝ったところで奪える何かがあるわけでなく
負けたからと言って失う物もあるわけじゃない
配布してくれてるわけじゃん
罪としたりしてるわけだよね
そんなのが一番いいとは思うけどさ
そうもいかないから対人戦をゲームってルールでさせちゃうんだよね
でも劣等感を煽って参加期間やアイテムやサービスに課金してほしいとき
下手な人はずっとグレードが低いままなのは当然なんだよ
お金かけて全員破壊とかいう方法やランクをお金でかえたらいいのにね
そうなると課金量は関係なく上位ランクのゲームの先導ができるプレイヤーが
問題なのは課金をするきっかけのためにプレイをしてくれる状態を
お金もおしいけどアイドルプレイヤー自体はもっと失うわけにはいかない
話をもどすとね
勝ち負けってそれぞれの場面や個人にあって、全体にもあるわけでしょ
するとどこがどう勝ったら勝ちなのか負けなのかという組み合わせより
個人がどう満足を感じるかということが大切だよね本当は
勝たせてあげたかった
そんな事もあったりするはずだよね
とりあえずなんでもいいから優勝するチームのリーダーでありたい
自分がランキングとかプレイスタイルとか他プレイヤーとかいろんなものが
分布してるワールドの中でどの場所でどんな風に暮らすのかって位置取りが
大切なのじゃないかな
下手なら下手プレイヤー、ランクがあるならランク相応プレイヤーとして
自分がプレイするのに加えてトップや下位のプレイヤーが相互にほかの
階層や領域のプレイヤーを必要としたりするような関係性が必要なのじゃない?
ゲームもとりあえず数字やレベルが大きければ大きいだけで分けるようなのではなく
相克みたいなのと配置とそれぞれの個性が生かせる先をもとめたり探したりする
手立てや手伝いを充実させていくといいんじゃないかと思うけど難しいのかもしれないね
まだゲームがプログラムでできない事なら人間がするしかないんだけど
一人でやってても他がそうしていたとしても狩られる側としてはつながりがなく個だと
なにがどうなっているのかわからないまま負け組に押しやられるだけでストレスだよね
仲間つくってふやして自分たちでランク以外に楽しめる環境を別途建立することが
そのゲームとしての楽しく楽しむための方法かもしれないとおもうのだけど
やりたくともできないでつまんない人生歩まされるようにデザインされた日本社会で
「そのつまんない生活さえ満足に営めない」癖に、何でもありなら何とかなるとか妄想強化してありもしない確信に変わっちゃってるのよ、弱者男性って
そのつまんない生活がどれだけ安全で尊いもので、先人の血と屍の上になりたっているのかも理解しようとせずにな
勉強も努力も自分のしたいこと見つけることも今の今まで何もせずに、ぽっとでの思い付きと悲痛な叫びだけで自分の言う乾いた叫びな願いがとやらが世間に受け入れられてもらえると思ってるのがマジで笑うわ
やれるかどうかは置いといても、そんなつまんない社会と吐き捨てるなら、それ以外の道を選ぶルートも自由も一応あるんだから、そこまでウジウジ言うならそれやれよと
税金で賄われた福祉と社会で賄ったインフラを享受して自堕落な生活してるくせに、いもしない美少女を独り占めする悪党や
何でもありなら金や女や権力簒奪できると思うなら今すぐ森へ行って丸木弓でも木槍でも作って一人で戦う覚悟決めろよ。普通だったらそうするんだよ
努力もせず周りに対しての感謝や謙譲もせずにありもしない空想と現実の区別つかなくなって他害的精神障害者になってるなんて思い上がりもいいところだわ
なんで吐き出したら楽になると思ったん
そういうとこじゃないん?
それで抜け出すってどういうことなん?
ハマってるとか進むっていってもどっちにか抜けたら先になにかあるんかとか
ゆうて抜け出すとかハマってるとかそんなん他人の言葉借りてるだけやろ
自分の今の状態だけ明確に理由があってどういうことなのか情報発信するんはどうなん
鏡みるやろ普通
他人は自分からみたら見えるやろ でも他人かて自分の姿格好は見えてへんやろ
あんたがみたもんを反射して自分がどういうものなのか解るってもんちゃうん
お笑い芸人がおったとしてな おもんないギャグでなんでウケへんのやろって
そのギャグがおもろいかどうかはお客次第やろ そのお客にどうしたいかは自分次第やろ
自分が赤い色が見たいとおもったらどうするん 自分が赤い色を発したら辺り一面赤くなるやろ
お客を笑わせたかったらどうしたらええんや 笑われることしたらええんやろ
この笑いが腑に落ちて自分の記憶と思考と合致したときにでるもんと 自分が絶対正義で相手が間違ってたり弱者であることの自己肯定感から来る嘲笑との違いがわかってへん若手も素質のないやつもおるけどな
なんで自分のギャグがうけへんのやろ 自分は赤い風景がみたいのになんで青にしか観客席がひからんのやろ って原因考えたら自分が青にひかっとるからだけなんちゃうん
たとえばな
器用に生きてて思い切れてるんいいなってみとるやん
じゃあやってみろっていわれて 恐る恐る手をだしてみるけど とどかんから不器用やないわれるんやろ
それもともと手がとどくとおもてやってへんやん
必死に手を伸ばしてとどかんかったら恥ずかしいとか 傷つくとかそんなんでわざとはじめから失敗するの前提でやってんのやろ
それで偶然とどいたりまわりが届かせてくれるようになったらええのにな とかそれだけが希望なんやろ
ちょっとそれナメすぎちがう? 他人が良い人になってくれるように自分が足りない人間やってる自負でもあるんかいな
自分が弱者でなんにもできないから周りの人に助けてと喚く それを聞いて堪えかねて助けてくれる人にお礼をいってなんてありがたいことかと返す
たちのわるいギャグやん 障碍者ネタでウケねらってる芸人みたいなもんやん 赤子かなんかなんか?
スポーツ選手が技をきめて成功したときでる観客の笑みは嘲笑ちゃうやろ それまでの失敗と苦労を笑ってるのとちゃうやろ
今来るべきところが選手にも観客にもわかっててそこに来れたときに自然と出る笑みやろ
その相互理解のために必要なんは失敗はありきで練習もありきでいさせてくれる環境なんちゃうん
まずなにより失敗を受け入れる自分自身の在り方がないとまず失敗のひとつもできんやろけどな
失敗するのわかってましたw っていえる自分がそんなにカッコいいんやったらカッコつけ続けたらええがな
器用ってもんはそれで大体わかるんちゃうん?
失敗したときどうすんのか 成功したときどうすんのか 準備できてるってことなんちゃうん?
なんでそんな先のことがわかるんやって わからんやろ
わからんけど 何回も繰り返してきたことやったら失敗したときも成功したときもパターンあるやろ
なんで毎回はじめてのチャレンジで練習もなしにできたことを評価されなあかんのん
そんなんラッキーマンかなんかやろ 自分の運を常にためしてんのか?
じゃあそのときどうしたらいいかわからんって なんも準備がなかったときどうするかってそれも経験値でなんとかなるやろ
ならんとしても ならんかったときどうするかって自分のテンプレがあったらええんちゃうん
失敗したときほかの人間はどうしてるん なんか真似したりしたらええんとちゃうの
全ての手が失われて想定外のときにはもう呆けてへたりこんだらええがな
もしあったとしたら めっちゃ貴重やろ その時にできなかったことをするチャンスがくるなんかそんなない事やからな
自分がそうなるんはもちろん嫌やけど でもそれを見た誰かがその次の手を考えるきっかけになるんやったら 自分はそこで失敗してもええかなって思う
そういう大切なもんは一個くらいあってもええんとちがうのん
まず失敗してみて失敗の仕方とその次の手を覚えるべきなんちゃうのん
失敗は失敗で終わらせて次をそのもひとつ向こうまですすめたらええやん
その先でまた失敗したらそこまでは失敗やけどその次成功させてもうひとつ進めたらええやろ
なんで連続成功体験でゴールまで無傷でいかんのかな とかおもてんの?
他人はみんな失敗したとこなんかみたことないから普通一度も傷つかずに成功しつづけてゴールしてるとでもおもてんの?
ちょっとそれは失礼すぎやろ 他人がコストをかけて売価かけてる売り物みんなぼったくりやゆうことになるやん
苦労して失敗やロスがあって その分加味しておゆずりできまっせゆうのが付加価値やろ
自分でやったら原価ゼロやんゆうてるんのおんなじやな じゃああんたの仕事ゼロ円でこっちにしたってくれやって話なるやん
ともかく
①器用に見えるんは準備があるから 準備すんのにはなにを準備したらいいか知らんといかん 知ってできるようになるには失敗せんとわからん
②自分を変えるにはまず自分を知らんといかん 自分は自分で見えんのやから自分を見てくれる人を探さんといかん
そんなとこちゃうの?
とりあえず失敗してもええからってことは失敗が取るに足らんことやと思えんといかんわけやろ
ということはそんなもんが小さいってみえるように 小さいゆうんは相対やから大きい目標もっとったらええんちゃうの
その大きな目標が崩れたら傷つくからこわい とかゆうんやったらせんでええがな
せんかったらどうなるかもう充分にわかってんのやろ 傷つかんですむ生活しとんのやろ それがそれでええんやったら続けたらええがな
実際いま完成してる成功体験に満足しとるんやったら何の問題もないやろ
失敗なんて小さい 大きい目標に比べたら なんていらん体験のために不安になったりする必要ないやろ
大きい目標に努力とかせんかったらもちろん成功もないけど傷つきもせんからな
けど絶対に大きな目標の達成が棚ぼたで寝ててもやってくる可能性はゼロじゃないといったところでほぼゼロやからな
自分がどういう人間かまわりに友達もおるんやからわかるのかもしれけど周りから返ってくる返事で自分を自分で知るって話先にしたやん
いま友達がおるしその人がゆうてるしでええんやったらそのままでええがな
ただ自分がどうしてそんなやつなんやろって それ自分がそんなやつやでって返してくるまわりの人間がおるからやろ
そうじゃない君がおるって話をするやつがおらんからそのままでおんのやし どうしたらええのかもわらんのやろ
自分のギャグがウケへんのやったら お客がウケるのにしたらええねん
自分を曲げてまでお客がウケるのしたないゆうんやったら 自分でおれる場所をさがして移動したらええやろ
どこにもないかもしれんけど 一生みつからんかもしれんけど 探しとるやつはいっぱいおるはず
探しとるやつを応援する自分やとか そういう人間に反射する鏡の立場になってないからそんな人らの姿もみえんのやろ
自分が鏡として役に立っとるんは 自分が反応を返しとる相手だけやでな
自分が自分でわからんとか 自分が自分の期待通りの自分じゃないって姿を返してくる環境とか友達とかは そういう鏡やってことやでな
自分をみっともなく蔑んで姿を映してくれる鏡やからこそがんばれるゆうんやったらそれでもええやろし 褒められて伸びるんやったら自分が綺麗にうつる鏡を探すべきやろ
失敗したらどうなるばっかり肯定してできないからしないって断固たる決意だけはできるのに どうなるかわからん未来はどうなるかわからんから不安でできないって意味わからんくないか?
なんで失敗したらやばいからできないってことだけ絶対選択できるんや
まあええけどな
じゃあせんかったらええねん
自分で行動しないけど結果がほしいときって もうほかに選択肢ないやろ
じゃあどうやって手に入れるん
自分で手に入れられるように訓練して出てくるけど まあまた戻っていくわな
無理なんは無理なんかもな
自分でせん人間には選択肢はもうないでな 自分でせんのやから生産が自分でできないの100%確実なんやから
とりあえず失敗して 失敗したっていえる人間がおって 次がんばろうやって言ってもらえたらええんとちがうの
当然ながらスポンサーへの違約金が発生する。これがどれくらいになるか。
まず、日本国内企業は違約金を請求しないだろう。「お前らのせいで五輪中止を早期に決断できず、3度の緊急事態宣言を招いた」と日本国民から国賊認定され、日本で商売できなくなってしまうからだ。
一方で外資系は違約金に熨しをつけて請求してくるだろう。中国のアリババグループやフランスのアトス、米P&G、インテル、サムソン、などなど。
何処もコロナで業績が不安定になっているから資金は必要だし、好調なアリババも中国政府から巨額の罰金を課せられているのをこのタイミングで取り返し(というか簒奪)に来ると見る。
また、各競技団体や、アスリートのパトロンであるスポンサーからの損倍請求も出てくると思われる。
ざっと試算して、5兆~10兆円くらいが五輪中止によって日本が背負う賠償金になるのではないか。
消費税を1年間20%にすれば払える計算だがそれに日本国民は耐えられるか。
そろそろ政府は五輪を中止させたら何が起こるかを具体的に国民に語り、その内容を元に国民に開催是非を決断させる時期ではないだろうか。
https://tokyo2020.org/ja/organising-committee/marketing/sponsors/
個人的にはオペラよりも好きかもしれない。特に、愛した女性の墓を掘り起こして遺体に直面するシーンがあるところとか。不毛な愛情というか、すれ違いや失恋ばかり読んでいたことがあり、これを読んだのもそんな時期だ(「エフゲニー・オネーギン」とか「マノン・レスコー」とか)。というか、そもそもオペラって「乾杯の歌」とかすごい好きなんだけど、台詞が聞き取りにくいし、台詞を同時に歌う箇所もあるし、なんか難しい。
ちなみに主人公の独白に曰く、「ああ! 男というものは、その偏狭な感情の一つでも傷つけられると、実にちっぽけな、実に卑しい者になってしまうものです」。……バレましたか。
自分が日本SFを読むきっかけになった人で、ハヤカワのJA文庫の小川一水とか林譲治とかが特に好きだった。
この作品は、太陽の表面に異星からの物体によってメガストラクチャーが作られ、日光を奪われた人類が滅亡の危機に瀕するのだが、若干のネタバレを言うと、最初からエイリアンには悪意が全く存在していなかった。僕はそんなところが好きだ。基本的に自分の好きなシチュエーションは、他者との接触により悪意はないにもかかわらず傷つく、というのがあるのだ。
ちなみに日本のSF作家をより広く読むようになったのは大森望と日下三蔵の年刊日本SF傑作選のおかげ。感謝感謝。
三十歳で婚約者がいるのに、親戚の十八歳の女の子に手を出しちゃったダメな人が主人公。結婚の約束をした女性からは婚約を破棄されてしまい、彼は思い出の品を集めた博物館を作りだす。イヤリングはともかく、自分が家をのぞき見た瞬間を画家に描かせた作品や、下着までも集めているあたり、ただの変態である。帯には「愛に生きた」とあるけれど、愛情というか執着や妄念であったような気がする。けれども、不毛な愛のほうが読んでいて面白い。
ところでトルコという国は、女性がスカーフを被るかどうかだけで政治的な立場の表明になってしまう国であり(ハイヒールを履くかどうかも政治的立場の表明ではあるが、トルコはその傾向が顕著だ)、その点からも読んでいて面白い作家であった。
映画オタクのゲイと政治犯の獄中での対話劇。ゲイはどうやら看守から政治犯の様子を探るように頼まれているようなのだが、いつしか二人には友情が芽生えていく。緊張感のある対話劇であると同時に、ゲイがお気に入りの映画を語るときの調子は推しについて語る幸せなオタクそのものである。安易に神という表現は使いたくないが、語りが神懸っている。ゲイの口調が女言葉なので、少し古い訳なのかもしれないが。
大学時代、年齢不詳の友人がいて、今も何をして食べているのかよくわからないんだけれども、今でも時々強烈な下ネタのメールが来る。そんな彼が薦めてくれた小説。村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」の「世界の終わり」パートに影響を受けた作品を部誌に掲載したらものすごい勢いで薦めてくれた。
彼は物にこだわりがないというか、読み終えた本をよく譲ってくれた。同じブローティガンの絶版になった本やシュティフターの「晩夏」などもおかげで読めた。「晩夏」はくどいのでいただいてから十年後に読んだのだが、現代の小説では確実に切り捨てられる長さの風景描写を含む小説を、定期的に読みたくなる。
就職のために架空の宗教団体によるテロをでっちあげる侍の話。時代劇の形を借りているんだけど、時代考証は完全に無視している。そして、自意識過剰人間とクレーマーとおバカしか出てこない語りの芸だ。だが、大体町田康の作品は大体そんな感じだし、人間って元来そんなもんなのかもしれない。オチも基本的に完全に投げっぱなしだが、爆発落ちや死亡オチのギャグが結構好きだったりする自分がいる。文学っていうのは自由でいいんだよ。
ムーミンシリーズ以外のヤンソンの文学作品を選ぶべきかどうか迷ったのだがこっちにした。友人からなぜかヘムレンさんに似ていると言われていた時期があったことだし。
児童文学や短篇って長篇とは違った難しさがある。短い文章と簡潔な表現という制約の中で、キャラクターを端的に表現しないといけないから。そのお手本みたいな作品がここにあり、内向的な人間にやさしい世界がここにある。ちなみにとある哲学者の持っている本の名前が「すべてがむだであることについて」であり、すごく笑える。
全く関係ないが僕は萩尾望都の「11人いる!」のヴィドメニール・ヌームにも似ていると言われたことがある。緑の鱗に覆われた両性具有の僧侶で、とても善い人で行動力もあるのだが、説明するときにやや言葉が足りない。
嘘つきで利己的で、のし上がることにしか興味がない空っぽな存在に恋をしてしまった善良な青年。「悪い娘」の人生の航路は語り手の人生におおよそ十年ごとに交叉するが、一貫して彼女本位な関係に終始する。
これはどうしようもない女の子に恋してしまって、四十年間ものあいだそれを引きずった男の物語だ。地位も財産もなにもかもなげうって、何度裏切られてもひたすらに与え続けた。そんじょそこらの悪女ものとは格が違う。シェル・シルヴァスタインの「おおきな木」のように。
猥褻だということで昭和時代に裁判になったというので読んでみたが、どこが猥褻なのかちっともわからない。しかも、作者の思想がうるさいので文学的な美を損なっている。
性表現は露骨というよりも、おちんちんに花飾りを結ぶみたいなのどかなヒッピー文化的な感じで、エロティシズムについては性描写の無い仏文学のほうがずっとぐっと来るものがる。しかし、時代を先取りしていていたという意味では素直にすごいと思うし、この程度で猥褻だと騒いでいた時代はさぞ不自由で息苦しかったのだろうなあとも思う。
最強のファーストコンタクトもののひとつで、ネタバレするとオチは「意識やクオリアとはときとして生存に不利かつ無駄であり、この宇宙では淘汰される可能性がある」という絶望的な結論。人間の心も愛も宇宙の中では無だ! みたいなSFが大好き。
基本的な構造は「宇宙のランデブー」の変奏で、未知のエイリアンの遺物の中を探検するのだが、強烈な磁場の中で意識が攪乱され様々な精神疾患を一時的に患うという違いがある(実際に脳に強烈な磁場を近づけると活動する部位が変化する)。言及されるコタール症候群や半側空間無視といった症状もすべて実在するが、脳科学の知識がないと全部作者のほら話なんじゃないかって読者が誤解するんじゃないか若干心配。
それと、ハードSFとしてはすごい好きなんだけど、どういうわけか吸血鬼が味方に出てきて(人類を捕食していた類人猿の遺伝子を組み込んだ改造人間という設定)、味方のはずなのにこちらに危害を加えようとする不可解な設定があり、これは作者の吸血鬼やゾンビに対する偏愛のせいだろうが、プロットの上であまり関係がないし必然性もなく、そこが無駄に思われた。そもそもなんでそんな遺伝子組み込んだ危険なやつを作るんだ?
以上。
少なくとも日本語では「ガラスの〇〇」と脆い何かを比喩的に表現するのは一般的だし、上限のことを「天井」と比喩的に表現するのも一般的であり、まともな日本語話者があの文脈で
「ガラスの天井」の意味を誤解することは99.9999%あり得ないし、フェミニズム文脈を知らなければごくごく普通に理解したはず
一方でフェミニズム文脈で占有できるほど創造的な表現ではない(ごくごく一般的な比喩表現の組み合わせで、偶発的な発生を否定できない)ので、
もちろんこの組み合わせがフェミニズム文脈で特定の意味を持つことを政治家が知らないのは教養がなさすぎるという批判はあっても構わないけど、
言葉の簒奪とか言っている連中はいったい何の権限があって「ガラス」「の」「天井」というわずか3語の組み合わせを独占しているんだ?
ツイフェミが嫌いだ anond:20201207231556
のブコメを眺めていたら良いことを言ってる人がいた
izure 増田はツイフェミが嫌い。なぜならツイフェミとは増田の嫌いなタイプの意見を言う人の集合だから。虚しい。ちゃんと個々の意見を相手にしようよ。レッテル貼りみたいな横着してないでさ。
2020/12/08
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20201207231556
しかし、、、
↓ ↓ ↓
izure ネトウヨなんてなにやってもおかしいだろ。まともな感性を期待できる存在じゃない。
2020/02/11
izure ネトウヨがミリオタにすり寄って動員力を簒奪してるだけだよな。オタクパーソナリティを演じようとするとハッピーセットみたいに「ご一緒にネトウヨもいかがですか?」って来るんだけど、別にネトウヨはいらない。
2020/05/17
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/mahirokisaragi/status/1261263228580978694
izure ネトウヨ志向の人ら、振る舞いの醜悪さで人気出ちゃうから、ファンの期待に応えることと良識を取り戻すのことが両立できないままドツボに嵌ってくんだよな。心底軽蔑してるけど、同情もしてる。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/hasumi29430098/status/1208357216387887106
izure 自身の威光の確認作業としてのハラスメントと、ネトウヨっぽい振る舞いの親和性が高いんだよな。わざと差別的だったり無礼な態度をとって「王様は裸だ」って指摘できない周囲を見るのが癖になってるタイプ。
2019/11/06
https://b.hatena.ne.jp/entry/okinawansea.hatenablog.com/entry/2019/11/05/202932
izure フェミとかアンチフェミとかネトウヨとか、ノウハウまで流通してる誰かの思想に乗っかるの、楽だし仲間も増えて寂しさも紛れるんだろーけど、意志や動機までアウトソースし始めるとただの道具に成り下がる。祝離脱。
2019/11/04
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/kakuyomu.jp/works/1177354054888099671/episodes/1177354054888111312
差がある という単語だけならそれでいいはずだしこの単語自体に問題はなにもないはず
差がある から その差を 高いところから 低いところに 向かわせると 有益な副産物を得られる
差があると認識するだけでは記憶にさえ残らない風景の一つと同じなはずで 差に気付いたとしても 差という情報のみで思考も発言もおこらないはずだと先読みした結果に
「差がある から その差を 高いところ(高慢)から 低いところ(差別)に 向かわせる(問題・犯罪)と 有益な副産物を得られる(利害)」
差そのものがもう差別であり問題であり賠償問題だと繋がってる思考で「差が権利」だとか「差は権利」だとか指摘しているのでは
現状において指摘するだけなら指摘だけすればいいけれども その指摘も「差があると認識するだけ」と同じで「差がある」と発言した時点で一括で問題視するように 指摘をするという行為自体が「賠償を請求する」ような流れになっているかのように見える
脳をはじめほかの何にしても男性性や女性性があるような二つの同類が対照的に役割を分けている様子についてそれらが分担していることを平均する必要は本来ない
右手と左手が違っていて大きさや力が違う差について問題があるのなら 真ん中にちょうどいい一本の手足があればいいのかといえばそういうわけではないはず
右手が右側にあるのがうらやましく 自分自身は右側にあるべきはずだと心底感じているのだが 自分は左手なのだということが コンプレックスになったり解消すべき問題なのか得られるはずの権利が踏みにじられているのかといえば それは個人の感想であればそうなのであろうと肯定しかないと思うが あなたは手足がそんな主張をしたならば切断したりするだろうか
手足にとってもっともよい選択が あなた自身の人生についてもっとも良い結果をもたらすのだろうかと考えると 悩むところは多いだろうと予想される
性別の差も結局は個人の差であり その差をどう取り扱うべきかと役割でない行動をとるかどうかも個人の差で それぞれの個人の差がまとまり複合的に「ひとつの主張」となっているものが個人の枠をこえて発言したりされたり 見聞きしたりすることになるのではないかと思う
故にそれぞれに差はあるだろう それは個人において性別による差が どれだけ影響しているか差と 構造的な差と 方向性についての差 などを含んだ「個性の差」としての認識に間違いはないと考える
現状 差があると発言しただけで「奪うな補償しろ」と言われる構造がまん延していることも あるのだろうとは思う
集団に対して個人がほしいものを請求するとかわりに簒奪してきて自分に与えてくれるはずだそれが弱者をいたわる社会というものだというような考えがなくなり
弱者は弱者として貧者は貧者として持たざる者は持たざる者という役割ごとに置いて十分に社会的に貢献し それぞれに分類された充実感や幸福感を感じ満足すべきものだというような構造が社会にもたらされるまでは これは変わらないのではないか
情報として知ることができる距離が縮まり誰であっても隣人と感じることができるような社会に成長した今 幸福度とは隣人との比較で成り立つものではないという新機軸が発明されることが望ましい
けれども 個人的には 先般の「鬼滅の刃ブーム」のような平滑なアクセスを 出力をしぼり市場に他商品を流さず均一(独占)状態にすることで供給と消費の一本化から皆が平等な幸福感を得られるというような仕組みにシフトしていくことは あまり良いとは感じることができない