2021-06-17

大豆田とわ子に救われた

ドラマを見た人向け。


大豆田とわ子の最終回を、何とな〜く家族に付き合って見ていた。

全編見た訳ではなく、家族が見ているときに脇で見る程度の関心の低さで。

最終回は丁度食後のコーヒーが欲しくなって、偶然いつもより長めに食卓に残っていたから、スマホ片手に半身でテキト〜に見ていた。

「見えなかった母の横顔が突然振り返った」はい文章だなぁ。

母がモラハラに怒って娘が「私が教育すればいい」って言うのは一昔前と立場が逆転していてこれはこれで令和だなぁ。

謝罪で堂々とされると面白いなぁ。

このとき大豆田とわ子は他人だった。


とわ子が「マー」宛てのラブレターを見つけたときも、ドラマならあるだろうな、と思っていた。

亡き母に父以外に愛してる人がいた、なーんてTSUTAYAで一棚にひとつはありそうだなとか考えてた。

けれど、唄がとわ子のことを「可哀想な人」と言ったのに対して、

画面のこちら側にいた家族が「なんで?」と一人言を言ったとき

大豆田とわ子は私の共感先となった。

「あぁこの人は分からないんだ」

「分からない人がいるんだ」

と考えた瞬間に、私はとわ子に一歩近づいたのだ。

有り体に言えば、親近感を感じた。

自分は両親が愛し合った結果生まれてきたんだ」

「私は望まれて生まれてきた」

という確信が揺らいだとき、大抵は自己肯定感が揺らぐものだと思う。

少なくとも私はそうだった。

自分は親の枷だったんだと感じて、生きるためのハシゴバラバラと崩れたように思えた。

「親は私が生まれたことで仕方なくそ役割強制されてるんだ」はすぐに「自分はいない方がいいのでは?」という考えに変わった。

とは言ってもそれを理由自殺しようとは思わない。自殺しない理由が1つ減ったくらいのもんである。だからこうして生きてスマホ見ながらドラマ見るとかしてる。長い人生の中どうせ出てくる絶望の1つだ。

マーに会いに行く二人の気持ちも分かった。

ハシゴを外されたのなら、代わりが欲しくなる。

けれどハシゴを外した母はもういないから他に聞くしか無い。

「そりゃそうしたいよね」と他人事に思った。




「マー」さんが女性だと分かったとき、ぶん殴られたようだった。

共感しなければ良かった」と思った。

なにしろ

私の父は体は男性だが心は女性なのだ

加えて言えば、母は父の恋愛対象ではなかった。

(私の父は女性であろうと何だろうと「父」であり、私にとって「父」は固有名詞なので父と呼ぶ)




とわ子の「あなたのことが好きだったんですよね」という問いに、

「マー」に「もちろん」と即答されたとき

目の前が真っ暗になった気がした。

「マー」が簒奪者のように感じた。

「どうして産んだのか」という問いに、時代のせいだとマーが答えかけたとき、足元から自分が崩れていくように感じた。

あなたは仕方なく生まれたよ」と言いかけられたように感じた。

「ごめん」とマーに謝られたとき、ホッとした。

言いきられなくてホッとした。

私はあのとき大豆田とわ子だった。

あなたのお母さんは娘を……家族を愛してる人だった」

という言葉に救われたのは私だった。

「それで正解だった」と言われて救われたのは私だった。

選ばれた選択肢が、選ばれた現在が正解だよと言われて、

現実の私が救われたのだ。

「私」を選ばなかった方の「父」に

誕生を祝福された気がした。



投げ捨てたくなったのも本当なんだろう。

でもそれを選ばなかったのも本当なんだろう。

ストンと納得した。

足の裏に地面の感触がした。

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