はてなキーワード: 薄っぺらとは
わかるわ。
劇場版ゆるキャン△の恐ろしい所は、都市部の人や、地方衰退の現実を知らない人が見ると再生の物語に見えるけど、実際には最後のあがきである、この先には滅びが待っているという所を示唆している部分。
例えば、キャンプ場はできてよかったと思わせているが、実際にはもう破綻が見えていて
そして、何より滅びに向かっているのが分かるのは、あれだけ活動したのに、5人の主人公たちのうち、誰ひとりとして、新たに帰郷しないのである。あーイベント楽しかった、じゃ私帰るね、と、東京に、横浜に、名古屋に帰ってしまうのである。
これは実際かなりリアルな現象で、地域のお手伝いをやってほしいと言う人を募集すると、かなり興味を持ってくれるし「手伝って」はくれるのだが、実際に本腰を入れてやってくれる人というのは本当にわずかである。それでも、わずかでも移住してくれる人がいるから、頑張って続けるのだが、正直続けている側としてはむなしさを覚えることもある。
この物語が終わった後に、大垣が抱いた絶望、友人に呼びかけたが、結局道が違っている、意識の差がついてしまったということ、予算が付かなかったということ、今後の未来を憂い思うことを考えると、切ない。
そのほかに、誰ひとり結婚はおろか恋人もいないと言う現実や、搭乗している地元民のおっさんは典型的なおしえたがりのジジイとして描かれていること、大垣の上司や同僚が現地に一回も足を運んでない、などがあるが、こちらはきららアニメの制約が優先されている可能性が高いので、置いておく。
とまあ、色々書いたけど、原作のあfろ先生、静岡出身で甲府市在住でしょ。こんな風に映画を読み解けてしまって、都会人が書いた「よい地域振興ストーリー」の薄っぺらさを読み取って、映画の制作途中に、次のテレビアニメを作るなら、制作会社変えろって言った可能性は高いんだろうなって思ったよ。
原作とアニメ、結構改編が大きいし。同じきららのまちカドまぞくは原作に忠実にヒット、こちらは魔改造してヒットなので、元々複雑な心境はあったと思う。まぁ邪推だけど。
劇団内部の人間ではないものの、その近くで数年携わり、生活も精神も壊した身として、心当たりが多すぎる。
便乗ファンによる創作だと思ったら、どうか読んだら忘れてほしい。
固有名詞や用語の意味が分からない人は、そのまま一生分からずにいてほしい。
でも、どこかに、仲間がいると思うから。自分以外にも壊れた人がいるはずだから。
まとまりもないほどの書きなぐりになるだろうけど、腹を決めた今、匿名で言わせてほしい。
もう無視できないところまで来ていると、心当たりのある各位に気付いてほしい。
該当劇団には、公式ファンクラブ以外にもジェンヌ個人の私設ファンクラブ(以下「会」と呼ぶ)があることは有名だと思う。
いわゆる代表やお付きと呼ばれるマネージャー的責任者と、スタッフやお手伝いといわれる他数名の小間使いが組織を運営している。
自分は新人公演にも出演し、何度か主演も演じた人気ジェンヌの会運営スタッフを数年担当した。
明確な時期や個人名の明言は避けるが、当ジェンヌは現役在団中とだけ書き記しておく。
毎朝晩の入出待ち立ち会いからお茶会などイベント企画・運営、チケットの取次配席およびグッズ作成など...
会所属経験のあるファンなら思いつくであろう業務、全部に携わった。会員数百人に対し、片手以下のスタッフで。
無給は当たり前、経費も持ち出し、24時間365日ジェンヌや関係者の呼び出しに応えながら平日フルタイム会社員。
睡眠時間も金も体力も心の余裕も何もかもなくなった。倒れて運ばれ、スタッフを辞めた。
・入出立ち会い
よく日比谷の劇場前で見るようなスクワットでジェンヌのお迎え・お見送り。あれをやる時に暴走するファンが出ないか見張ったり、一般人のクレームに頭を下げたりする。
毎朝7時前後、早いときは6時前に毎朝集合場所で立ち合いをして会社へ出勤。ジェンヌから翌朝の入り時刻連絡が来るのは平均深夜1-2時。
それを待ってファンクラブ会員へ見送り場所への集合時刻を配信、他ファンクラブ運営へ報告したりするので自分が寝られるのは3時を回るのもザラ。
毎日5時前には起床、始発の電車に飛び乗り現着から動き回ってフルタイム勤務で夜にはまた出待ちに立ち会う日々。
大体毎日何かしらの細かすぎる指導が上級生会から入り、寝不足により回らない頭で必死の謝罪文をしたためお送りしていた。しんどい。
お茶会や新人公演出待ち後のミニお礼グリーティング、季節や誕生日の入出イベントなどなどあらゆる企画・運営。
ただ企画すればいいだけでなく、上級生会に逐一お伺いを立て、実施許可を得、内容も重箱の隅を最早ぶっ壊れるまでつつかれまくる。
あらゆる方面の顔色を窺い、企画や台本が出来上がるまで気が遠くなるほどの時間と神経を要する。
それでようやく実施まで漕ぎつけたと思ったらジェンヌ本人の機嫌ひとつで全部イチからやり直しになる。
三徹で必死に準備を間に合わせたお茶会を、本人会場到着までのタクシー内で「やっぱ嫌」の一言でひっくり返されたときは殺意が芽生えた。しんどい。
・チケット取次・配席
ファンクラブ会員はジェンヌ個人の販売成績に結び付くよう、会からチケットを取り次ぐ。
が、限られた座席数、入団年数が長い上級生に多くのチケットが劇団より宛がわれる、入団から5年くらいは1公演で2席しかチケットがないこともザラ。
それでも会員はもちろん贔屓の舞台姿をたくさん見たい、当たり前だ、たくさん申し込んでくださる、だがしかし席がご用意できない。
そんな限られたチケットと大量の申込データ(自会は全部エクセルに手打ち管理)を照らし合わせ、ファンクラブへの貢献度諸々を加味し、どのお席にどなたへお座りいただくか決める。
こちらも最大限のチケット確保に奔走するものの、ご用意できなければ面と向かっての罵倒はまだ良し、掲示板に名指しで役立たずと晒される始末。
データ捌いて配席悩んで胃を痛めているところにジェンヌ本人や関係者からも配席や取次内容に文句を言われ身内用にチケットを攫われていく。しんどい。
・グッズ作成
お茶会のお土産、総見のおまけ、お茶会で販売する小物や舞台写真、お礼状、グリーティングカード、挙げればキリがないほど準備物が多い。
ジェンヌ本人にイラストや手書き文字の提供協力を頼みこむも多忙の一言で切り捨てられ、こちらでロゴなど用意すれば会員やジェンヌ本人からすらもダサいと文句を言われる。
しかも当たり前だがこれらすべて事前の商品発注で毎度結構な金額が必要とされる、が、ジェンヌの家族が会運営の経費用口座を管理していて前借も楽ではない。
結局毎回数万~場合によっては数十万円(お茶会会場費用など)も立て替える。そうじゃないと間に合わないほどすべてのスケジュールがカツカツなため。
しかも公演終わりの経費精算まで数か月待ったりする、携わっていた最後の公演では大卒初任給くらいの経費が返ってこなかった。
グッズの売り上げは全て会運営費としてジェンヌ家族が持っていくため、スタッフに一切の還元や儲けはない。公演期間中は飯が食えなかった。しんどい。
ファンクラブ会員、つまりジェンヌを愛し会活動に貢献してくださっている方々は熱量も並のものではない。そこは覚悟してスタッフ就任を引き受けた。
そのため会員から妬まれたり文句を言われたり、会の中での派閥争いや揉め事などは(楽ではなかったものの)捌くのもまあ堪えられた。
しかし何故か同じ運営という立場で苦楽を共にしている他会運営陣やジェンヌ家族・関係者対応など、これが本当に一番きつかった。
ジェンヌたちが厳しい上下級生文化に生きているというのは既報の通りだが、ほぼその文化がそのまま会運営にも持ち込まれる。
朝は上級生会スタッフより早く出動・席および場所取り・雑用使いっ走り・全ての解散前には「ご指導」というクソ細かい姑のような小言...
大劇場のチケット出し前には劇場内レストラン施設の一部(クリスタルルームでわかる人は仲間)を陣取り、謎の待機時間が発生する、もうこれが本当に耐えられなかった。
上級生会代表の飲み物をお持ちし、その時通るルートや差し出し方全てに厳格なルールがあり、数時間も使いっ走りに待機するのに作業および会話禁止という苦行。
2回公演の日ほど朝も早く夜が遅い、業務も溜まっていて限界なところにこの謎待機と小言で5-6時間は奪われる。
それもこれもすべて「上級生会の様子を見て学び、自分たちが将来は組の会全体を取り仕切れるように指導する」という、どこかで聞いたことのある理論。
劇団への、ジェンヌへの、下級生会への愛があれば全ては指導という建前のもと許される。代表は毎日きついいびりに泣いていた。本当に、本当に、しんどい。
ジェンヌでもなく、会運営の委託契約を結んだわけでもない、ただの一般人がこのザマである。
会に所属したことがある人は、多少なりこの空気感をわかっていただけると思う。あの、「私たちも御贔屓の一部」と見做されるような感じが。
全ての言動の根底には愛があり、清く正しく美しいジェンヌ像やファンダムイメージを求められていた、それにそぐわないものはすべて闇に葬られていたあの感じが。
無給でいつ何時でも労力を捧げてくれる。常に最善最良の案を考え前向きに運用してくれる。寝る暇がなくてもそれだけ携われることが幸せ。
妬み僻みも有難いご意見として真正面から受け止める。上級生会からの理不尽な指導も意味あるものとして理解・昇華する。
仕事よりも私生活よりも会運営を何よりも最優先してくれる。どんな無茶ぶりや激務も手を取り乗り越え逞しくなってくれる。
そんなことがあるわけないだろ。
平日フルタイムで8時間の仕事に会運営10時間以上を兼業し、公演期間中は1日1時間眠れたら御の字。仕事のパフォーマンスはそれはそれは最悪だった。
盆や正月の連休はもちろん全て会運営に求められ、ロクに身体を休めることも実家に帰省することも友人と会うこともかなわなかった。
急いで来いと急な呼び出しがかかり、内容も知らされないが仕事を無理言って早退し駆けつけると「明日からの公演で必要なものを近所のドラッグストアで買ってきて」という内容だった。
社会人数年目で貯蓄もさほどなかった頃に無給の会運営で全国を飛び回り、立て替えの嵐、慢性的な寝不足で眠気も止まらず、安価で血糖値の上がらないもやしやカット野菜しか食べられなかった。
周りのすべての人から「早く辞めろ」と言われ続けたが、もはや洗脳のように愛や貢献という言葉に縛られ何も自分で判断できなくなっていた。
死にたいという気持ちが募り、毎朝駅で線路に飛び込もうか悩み始めた頃、千秋楽の出待ち後に倒れ運ばれた。栄養失調だった、この現代社会で。
入院で強制的に劇団や会と離れられなければ、いずれ自ら命を絶っていたと思う。亡くなった彼女の生活円グラフは、まさに会運営に携わっていた時の私のようだった。
鬱も発症し精神的にも不安定になっていたことをやっと自覚し、ジェンヌ本人にスタッフを辞める旨申し出た。代表も鬱で会から去ったと聞き、LINEを送ったが既読がつくことはなかった。
もう一度繰り返す。ジェンヌじゃない一般人にすらこれほどまでに異常な文化がまかり通っている。劇団内部はいかほどばかりか、想像するだけで息苦しくなる。
携わっていたジェンヌ本人も、本当に寝る時間もないほど過酷な環境に身を置き、公演前夜の3時に稽古から帰るところも目撃したことがある。
会運営に携わるようになってからは度々言葉を失うような「指導」の様子を伺うようになり、いつの間にか自分は一切観劇する気力が湧かなくなっていた。
何が愛だ。何が清く正しく美しくだ。何も清くも正しくも美しくもない。ただのパワハラ過重労働異常上下関係いびりしごきいじめ。
社会的な常識が一切通用しない、異常な文化が形成され受け継がれ、異を唱えるものは全て排除され隠ぺいされてきた、ただそれだけである。
亡くなった彼女のおかれていた環境や報道の事実関係は知り得ないため、それに関しては軽率な発言はできないものの、でも、遂にこうなったかと思った。
その手前でぎりぎり退団していった人を、何人も知っていたから。
巨大企業やファンダムに抗う力を持ち合わせていないがため、ただ黙って去っていった人たちを見てきたから。
彼女の死は、自分も無関係じゃないと、毎日罪悪感に涙が止まらないから。
溢れ出る記憶も思いも止まらず、何が書きたいのか、どこまで書けそうか、もう分からなくなってしまった。
このあたりで切り上げることにする。いつか追記や修正をするかもしれないし、しないかもしれない。もうこの編集画面に戻ってこないことが最良と分かりつつ。
自分は今後二度と件の劇団に関わらないと決めているが、報道の行く末はしっかりと追おうと思う。
もう誰もこんな目に遭わない未来を願って。同じ罪悪感を抱えることがないように。誰かに手を延ばし声を上げられるように。
かけがえのないいのちを、薄っぺらい言葉で葬ることがないように。
助けてあげられなくて、ごめんなさい。
県立図書館に入っている喫茶室が子供の頃大好きだった。一通り好きな本を読んで、借りる本を選んだ後に立ち寄る喫茶室。街中の喫茶店より狭くて、整理整頓されているけれどどこか色気の欠けた内装をしていて、メニュー数も少ない喫茶室。やる気があるのかないのかよくわからない静かな店主。飲食店として見ると決して充実しているとは言えなかったけれど、自分にとってはすごく特別な場所のように感じていた。
無味乾燥とした図書館の廊下から喫茶店に一歩足を踏み入れた時に感じる食べ物の香り。ピラフもミートソーススパゲティもホットケーキも、決してすごく美味しいというわけではない。むしろ妙にこざっぱりとした深みのない味わいのメニューばかりなんだけれど、飲食してはいけない図書室エリアのすぐ隣で食べ物を頬張る背徳感みたいなのもあって、他の飲食店では味わえない特別な気持ちを味わえる場所だった。
最近は公営の図書館に併設されている喫茶室も小洒落たものが多くなってしまって、あの薄っぺらい味の料理や妙に事務的な雰囲気を味わえる場所も少なくなってしまったけれど。あの特別な空気感は自分の中の大切な人生のピースになっている。
この「月」って映画は相模原殺傷事件を元ネタにしているらしく、はっきり言って不謹慎だなと思うがそれにしても。
「障害者は子どもを産むな」「障害者は社会にいらない存在」映画『月』があぶりだす、誰の心の中にも存在する優生思想
障害者を「産まない」のと、今生きている障害者を「殺す」事は根本的に異なるのにそこを同列に並べてキャッチコピーにされてもなーと思う。
どちらかっつーと、寧ろ口先では障害者でも産んでいいんだよと無責任な綺麗事を言う輩が、
実際に同じ職場で障害者と働くのは御免被るという方がリアルじゃない?(増田でちょっと前に流行ったBさんのように)
だから現実に沿ったリアルなキャッチコピーを付けるなら、「障害者でも産んでいいんだよ」「障害者が働くのは迷惑」にした方がいいと思うんだよね。
国がマスクをするのは自己判断に委ねるって言ってから、半年とちょっとが経ちましたわな。通勤で電車を利用してるんだけど、地域差はあるかもしれないけど体感として過半数は行かないまでも、乗客の3〜4割くらいはノーマスクかなぁって感じじゃん。で、マスクをしてない奴らのブス・ブサイク率が異常に高いような気がするんだ。これって俺の思い過ごしではないと思うから、これを読んでくれた人達の意見を聞いてみたいと思うんだ。
なんつーか、電車でノーマスクの連中ってただのブス・ブサイクではなくて、薄らぼんやりと生きてきました感というか、自分の主義主張は特になく周りに流されて生きてきました感というか、人間的な薄っぺらさが顔に出てる気がすんのよ。もしくは、接客とか営業をやってる人達は共感してくれると思うんだけど、どことなく客として来たら面倒を起こしそうだなってオーラが出てるというか。
20代前半なら、しゃあないかなとは思うのよ。免疫力は高いだろうからノーマスクでも影響はほぼないだろうし。ただ、アラサーだと痛い奴・ヤバイ奴認定されても、文句は言えんよなとは思うんだ。アラフォー以上だと、職場で嫌われまくってて会社に居場所がないんだろうなって邪推してしまったり。
都会disは許されるし、
都心に住もうとすることを薄っぺらいとかキラキラとか言ってdisることも全然許されるのに、
「家庭を持ったことを機に郊外に住むことにした」をdisるのは絶対に許されない。
disるのはよくないから許さないというのはわかるとしても、「個人的にはそういう生き方はしたくない」と表明することすら許されない。
「正しい生き方」を否定する人間は正しくない人間であるという論理によって、人間生活の本質を理解せず表層上のキラキラを追い求めるだけの軽薄な人間という「正しくない人間のステロタイプ」を投影されそこを非難されることになる。そういう理由ではないという弁解は無視される。「必死wwwwww」というやつでだ。
もちろんそうなる背景は理解できる。現実に(自分を含む)大多数の人間はそういう生き方しか選べないからそこを否定されるわけにはいかないということだと思う。
そういう普通の人達の気持ちに最優先で配慮するべきだということもわかる。
わかるんだけど、あまりにもその要求が強すぎねえかって思うんですよねえ。
本当につらいんだろうなって想像するけどさ。
岡田麿里監督の作品は見たことがなかったが、「あの花」が名作であることは知っていたし
チェンソーマンを見てMAPPAに興味を持っていたので、渾身の劇場作品であるこの作品を見に行こうと思った。
とは言えあまりヒットしている雰囲気はなく、ネットをふわっと見る限り絶賛している人はあまりおらず、
見どころはあるが問題も多い、というような感想が多数なのであまり期待はしてなかった。
鑑賞した結果、見どころはあるが問題が多すぎるのであまり乗れないな、という感想を抱いた。
絵作りは全体的に申し分なく、やりたかったこともわかるし作者の持ち味もわかるが、そこに至るまでに問題が多すぎる。
順に思い出しながら問題点を突っ込んでいく。
◾️冒頭いきなりギャグが滑っている
冒頭、中学生男子が狭いこたつに4人入ってワチャワチャと勉強しているというほのぼのシーンから幕を開ける。
4人組の中のお調子者が、こたつの中で屁をこき、大騒ぎしながら窓を開ける、というのが
中学生日記レベルのテンプレギャグであり、中年男性である自分が見てこの4人に親しみを持つことはできないな、と感じたが、
まあギャグが大事な作品ではないのでこんなものだろう。全然許容範囲である。
窓を開けると工場が爆発し世界に異変が起こる。時間が止まり、同じ1日を繰り返す田舎街に閉じ込められることになる。
異変が起こった時に、視聴者と同じ現実世界に生きていたはずの主人公たちがどのようにその異変を認識し受け入れていくか、
という過程を描くことで視聴者も状況を受け入れやすくなるものだが、この作品はいきなり違和感を突きつけてくる。
登場人物たちが異変をすでに受け入れており、諦念に塗れた奇妙な終わらない日常生活を続けているのだ。
徐々に明らかになることだが、時間が止まってから十年以上が経過していたのだ。
かなり挑戦的なストーリーテーリングだが、あまり成功しているとは言えない。
十年以上も外界と隔絶され肉体が変化せず、同じ1日を繰り返しているというのは相当な極限状況である。
田舎町とはいえ数千〜数万人はいるであろう街の人達が、そのような極限状況に置かれているようには見えない。
最初の数年は外界に出ようとしたり、ループから抜け出そうとチャレンジした人達がいて、
彼らが失敗したのを見て人々が諦めて日常を続けることにした、という経緯なのだと思う。
そのような経緯が描かれることはなく、この無茶な状況を説明するのは「自分確認票」とかいうものを人々が
毎日書かされているという設定である。演出的にもこれを毎日書いていることがかなり重要になってくる。
「いつの日か時間が再び動き出した時に、自分が変化し過ぎていると不具合が起こるかもしれないので、自分が昨日と変わっていないことを毎日確認しましょう」
ということらしいのだが、その根拠はなんとなく事情がわかっている風の言動をしている変わり者の神主がそう言ってるから、
この映画の問題点の半分ぐらいはこいつの責任であると言えるだろう。予告編を見るだけで違和感を覚えると思うが、
映画のリアリティラインにそぐわない、いかにもアニメ的なエキセントリックなキャラである。
この突飛なキャラを映画に馴染ませるために、妙にリアルな小物感を感じさせる演技が端々に入るところは面白い。
「こんな奴が現実にいたら絶対に近寄りたくないな」と思わせてくれる。
芝居がかった大仰な喋り方をした後にボソボソと独り言を言ったりするところがやばい奴感のリアリティを高めている。
最大の問題は、街の中でも変わり者として爪弾きにされていたこの男が、世界設定の根幹を握っていることである。
背後にある神道的な神秘設定の描写が非常に薄く、単なる変人の妄言が街を支配しているように見えてしまう。
小物感がリアルに強調されればされるほど、世界観が薄っぺらく見えるという問題。
こいつが単なる変人ではなく、世界の鍵を握るだけの力を持っている描写がもう少し必要だったのではないか。
十年以上自分が変わらないように毎日確認票を書かされている20代中盤の主人公たちの気持ちに感情移入するのは難しい。
街から出られないとはいえ人生経験は十数年分重ねていて、車の運転などもできるようになっているのだ。
肉体が変わらないからなのかメンタルは中学生のままで、意味もなく高い所から飛び降りたり首締めごっこをしたり、
上履きを隠したり、パンチラやブルマー姿を見て喜んだり、わざとパンツを見せてからかったり、みずみずしく痛々しい恋をしたり、
いかにも中学生な行為を続けている。どういう精神状態なのか想像がつかず、共感できない。
物語上の都合のいいところだけ成長して、中学生として見せたい部分は成長しない。随分とご都合主義の設定である。
作者の見せたい都合に引き込む演出の力量が足りていない。
女の子みたいに見える主人公。女みたいと言われるのは嫌いじゃないが男が好きなわけじゃない。
なかなか魅力的な設定だが、そこがそれ以上掘り下げられることはない。そのほかにもフェティッシュの要素がいくつも
散りばめられているがただ作者がやりたかっただけでキャラの魅力につながっていかないことは残念である。
肝試しに地味な女の子と一緒にトンネルに入ったらいきなり告白される、というシーンはこの映画で唯一笑えたシーンだったのだが、
からかわれて傷ついた女の子は心にヒビが入り、そのまま消滅してしまうという全く笑えない結末になってしまう。
実は時間が止まっているというのは神主らが仕組んだ嘘で、主人公たちは聖なる山と工場が生み出した幻だったのだ!
様々な設定の綻びも、不可解な登場人物の心理も、幻だったのなら仕方がない。すべて作者の胸先三寸である。
世界観のペラペラ感がティッシュぐらいの厚みになってしまう。絵的にも、あちこちがひび割れて今にも砕け散りそうになっている。
そこで唯一興味を繋ぎ止めてくれるのが、幻の世界で唯一実在の存在である、未来から迷い込んできた主人公たちの娘である。
濃厚なファーストキスを実の娘に偶然見られるという気まずいだけのシーンを経て、
この娘を現実界に送り返すというミッションが確定してから物語は俄かに力を取り戻し、
監督の確かな力量によって大きな盛り上がりが描かれる。
しかし、そこに至るまでのキャラと世界観の積み上げが非常に脆弱であるために、自分は置いていかれている感がしてまるで乗れなかった。
バックトゥザ・フューチャー的なカーアクションで無茶なアクションを繰り広げるものの、
まあ危なそうに見えるけど所詮は幻だし、どーにでもなるだろ・・・と思うとあんまりハラハラしない。
「幻だって生きているんだ!今を楽しんでもいいんだ!」と言われても、「・・はあ。」としか思わないのである。
最後まで出てこないので調べてみたところ、この話の原型になった、監督が以前作ろうとしていた物語に出てくる嘘つき少女と狼少女の名前らしい。
つまり睦実と五実のことを指している。監督の内部の問題でしかないので心底どうでもいい。
五実が10年間言語すら教えられずに育ったのも、「狼に育てられた少女」をやりたかった名残というだけで、設定的に特に意味はないということだけはわかった。
いや無理あるでしょその設定・・・
◾️どうすればよかったか
いやどうしようもなくね?「実は全部幻でした!」というオチに物語として説得力持たせるのは無理だよ!と最初は思ったが、
閉じ込めれた幻としての主人公たちをメタファーとして捉えるなら、共感を誘うような中学生あるある描写は抑え、
閉じ込められた違和感、脱出しようと足掻く姿を押し出した方が良かったのではないか。
「狼に育てられた少女」をやりたいのなら、五実と神機狼の関わりをもっと描くべきだった。
神機狼と佐上の関わりも、もっと神秘的に描いていれば世界観に厚みが出たと思う。
神道っぽい儀式をやるシーンが新海誠作品によくあるけど、ああいうの大事だよね。
突然失踪して終盤急に日記が発見される父親もその辺りの設定に絡められたのでは。
佐上の周囲に腰巾着みたいな面白キャラを配置して浮きすぎた佐上のクッションにするのもいいかもしれない。
鬱野はイキリやれやれ系とっちゃん坊やだから薄っぺらいコスパ意識でいつも頭がいっぱいなんだよ。
だから美味くもないラーメンを食うために外で700円とか払うはずがないんだよね。
そういう所でメシ食ってる連中を見下しながら200円のカップヌードルや400円の完全食カレーメシを食うわけ。
「通常のカレーメシの倍の値段で、『完全食』という謳い文句を食っている」
「栄養成分を見ても良くわからない……カロリーメイトと実際には大差ないのではないか?」
「じゃあ俺はカレーメシ一個分損をしている?食塩摂取量を考えればこっちの方が健康に良いのだろうか?」
「結局他の食事でカロリーを補填すれば同じだけの食塩を取ってしまう気がする(カップヌードルにお湯をジョボジョボしつつ)」
「やってしまった……つい腹が減って本当に追加の食事を取ってしまった」
「完全な塩分過多……1食の値段も外食ラーメンと同じぐらいだ……」
「だが……栄養価はきっとこっちの方が高い……完全食という謳い文句に救われた」
「俺は情報を食ってる「完全」という情報を……外でラーメンを食うときは「外食」という情報を食っているんだろう……」
「ゲフー 正直、食べすぎたな……完全に余計だった……」
みたいな感じが鬱野だろ!
鬱野は「美味くもないラーメン屋」にわざわざ行かない!美味いラーメン屋には行っても、美味くもないラーメン屋に行くぐらいならカップ麺を食べる!
作者は鬱野の解像度が低すぎる!
深夜の翳りに身を晒し、今やっと眼を覚ました。これは魂の夜ふかし、そう呼ぶべきでしょう。
さて、私は時折、American Mathematical Society(以下、AMS)の書籍を求める運命にある。特にStudent Mathematical Libraryというシリーズは、その薄っぺらい体裁ながら、研究の奥深さを体感できるとても理想的なものであり、よく手に取ることとなる。しかし、その紙一重の薄さの背後に隠された内容は、従って、大学院の学生にのみ耐えうるものとなっている。昔、あまりの熱意から何冊か買い求め、積読の山を築いたこともあるが。
その山に埋もれる中、一つの書を読み尽くしたことがある。それは、数理モデリングの書であった。数理モデリング、これは往々にして、ラグランジュの未定乗数法などのよく知られた方法論に頼る傾向がある。しかしながら、AMSの書籍はそのくだらない枠組みにとらわれず、多彩な事例を探求していた。とはいえ、フレンケル教授が言うように、数理モデリングと言っても、ついには「ペンキ塗りの数学」である。
私は数学の最前線を垣間見るようになり、調和解析と数論の奇跡的な交差、フェルマーの最終定理、ガロア群、保型関数など、その深遠さに驚嘆する日々である。最近は、経済学に数学を結びつけることに強い興味を抱いており、mean fieldのような奥深い謎が私を惹きつける。
学びたいことが山ほどあり、私の能力と時間には限りがある。何を学ぶべきか、と悩むのはやむを得ない。しかし、コスパを重視し過ぎると、ついにはペンキ塗りの典型に陥ってしまうだろう。複数の数学の領域を結びつけることは、即座に実用性が見えるものと、その応用が果たしてどこに行くのか見当もつかないものがある。伊藤清が指摘するように、「実用を考慮しなければ、数学で遊ぶことは限りない」。この観点から見れば、私が探求すべき分野は、確率論の領域にあるのは明らかだろう。確率微分方程式とゲーム理論の交わる地点は、実用性との調和によって成り立つ、その方向へと進む決意を固める。
hash: c94da2af8ee4dd6e6ead4da0676b2b97