はてなキーワード: ザ・フューチャーとは
岡田麿里監督の作品は見たことがなかったが、「あの花」が名作であることは知っていたし
チェンソーマンを見てMAPPAに興味を持っていたので、渾身の劇場作品であるこの作品を見に行こうと思った。
とは言えあまりヒットしている雰囲気はなく、ネットをふわっと見る限り絶賛している人はあまりおらず、
見どころはあるが問題も多い、というような感想が多数なのであまり期待はしてなかった。
鑑賞した結果、見どころはあるが問題が多すぎるのであまり乗れないな、という感想を抱いた。
絵作りは全体的に申し分なく、やりたかったこともわかるし作者の持ち味もわかるが、そこに至るまでに問題が多すぎる。
順に思い出しながら問題点を突っ込んでいく。
◾️冒頭いきなりギャグが滑っている
冒頭、中学生男子が狭いこたつに4人入ってワチャワチャと勉強しているというほのぼのシーンから幕を開ける。
4人組の中のお調子者が、こたつの中で屁をこき、大騒ぎしながら窓を開ける、というのが
中学生日記レベルのテンプレギャグであり、中年男性である自分が見てこの4人に親しみを持つことはできないな、と感じたが、
まあギャグが大事な作品ではないのでこんなものだろう。全然許容範囲である。
窓を開けると工場が爆発し世界に異変が起こる。時間が止まり、同じ1日を繰り返す田舎街に閉じ込められることになる。
異変が起こった時に、視聴者と同じ現実世界に生きていたはずの主人公たちがどのようにその異変を認識し受け入れていくか、
という過程を描くことで視聴者も状況を受け入れやすくなるものだが、この作品はいきなり違和感を突きつけてくる。
登場人物たちが異変をすでに受け入れており、諦念に塗れた奇妙な終わらない日常生活を続けているのだ。
徐々に明らかになることだが、時間が止まってから十年以上が経過していたのだ。
かなり挑戦的なストーリーテーリングだが、あまり成功しているとは言えない。
十年以上も外界と隔絶され肉体が変化せず、同じ1日を繰り返しているというのは相当な極限状況である。
田舎町とはいえ数千〜数万人はいるであろう街の人達が、そのような極限状況に置かれているようには見えない。
最初の数年は外界に出ようとしたり、ループから抜け出そうとチャレンジした人達がいて、
彼らが失敗したのを見て人々が諦めて日常を続けることにした、という経緯なのだと思う。
そのような経緯が描かれることはなく、この無茶な状況を説明するのは「自分確認票」とかいうものを人々が
毎日書かされているという設定である。演出的にもこれを毎日書いていることがかなり重要になってくる。
「いつの日か時間が再び動き出した時に、自分が変化し過ぎていると不具合が起こるかもしれないので、自分が昨日と変わっていないことを毎日確認しましょう」
ということらしいのだが、その根拠はなんとなく事情がわかっている風の言動をしている変わり者の神主がそう言ってるから、
この映画の問題点の半分ぐらいはこいつの責任であると言えるだろう。予告編を見るだけで違和感を覚えると思うが、
映画のリアリティラインにそぐわない、いかにもアニメ的なエキセントリックなキャラである。
この突飛なキャラを映画に馴染ませるために、妙にリアルな小物感を感じさせる演技が端々に入るところは面白い。
「こんな奴が現実にいたら絶対に近寄りたくないな」と思わせてくれる。
芝居がかった大仰な喋り方をした後にボソボソと独り言を言ったりするところがやばい奴感のリアリティを高めている。
最大の問題は、街の中でも変わり者として爪弾きにされていたこの男が、世界設定の根幹を握っていることである。
背後にある神道的な神秘設定の描写が非常に薄く、単なる変人の妄言が街を支配しているように見えてしまう。
小物感がリアルに強調されればされるほど、世界観が薄っぺらく見えるという問題。
こいつが単なる変人ではなく、世界の鍵を握るだけの力を持っている描写がもう少し必要だったのではないか。
十年以上自分が変わらないように毎日確認票を書かされている20代中盤の主人公たちの気持ちに感情移入するのは難しい。
街から出られないとはいえ人生経験は十数年分重ねていて、車の運転などもできるようになっているのだ。
肉体が変わらないからなのかメンタルは中学生のままで、意味もなく高い所から飛び降りたり首締めごっこをしたり、
上履きを隠したり、パンチラやブルマー姿を見て喜んだり、わざとパンツを見せてからかったり、みずみずしく痛々しい恋をしたり、
いかにも中学生な行為を続けている。どういう精神状態なのか想像がつかず、共感できない。
物語上の都合のいいところだけ成長して、中学生として見せたい部分は成長しない。随分とご都合主義の設定である。
作者の見せたい都合に引き込む演出の力量が足りていない。
女の子みたいに見える主人公。女みたいと言われるのは嫌いじゃないが男が好きなわけじゃない。
なかなか魅力的な設定だが、そこがそれ以上掘り下げられることはない。そのほかにもフェティッシュの要素がいくつも
散りばめられているがただ作者がやりたかっただけでキャラの魅力につながっていかないことは残念である。
肝試しに地味な女の子と一緒にトンネルに入ったらいきなり告白される、というシーンはこの映画で唯一笑えたシーンだったのだが、
からかわれて傷ついた女の子は心にヒビが入り、そのまま消滅してしまうという全く笑えない結末になってしまう。
実は時間が止まっているというのは神主らが仕組んだ嘘で、主人公たちは聖なる山と工場が生み出した幻だったのだ!
様々な設定の綻びも、不可解な登場人物の心理も、幻だったのなら仕方がない。すべて作者の胸先三寸である。
世界観のペラペラ感がティッシュぐらいの厚みになってしまう。絵的にも、あちこちがひび割れて今にも砕け散りそうになっている。
そこで唯一興味を繋ぎ止めてくれるのが、幻の世界で唯一実在の存在である、未来から迷い込んできた主人公たちの娘である。
濃厚なファーストキスを実の娘に偶然見られるという気まずいだけのシーンを経て、
この娘を現実界に送り返すというミッションが確定してから物語は俄かに力を取り戻し、
監督の確かな力量によって大きな盛り上がりが描かれる。
しかし、そこに至るまでのキャラと世界観の積み上げが非常に脆弱であるために、自分は置いていかれている感がしてまるで乗れなかった。
バックトゥザ・フューチャー的なカーアクションで無茶なアクションを繰り広げるものの、
まあ危なそうに見えるけど所詮は幻だし、どーにでもなるだろ・・・と思うとあんまりハラハラしない。
「幻だって生きているんだ!今を楽しんでもいいんだ!」と言われても、「・・はあ。」としか思わないのである。
最後まで出てこないので調べてみたところ、この話の原型になった、監督が以前作ろうとしていた物語に出てくる嘘つき少女と狼少女の名前らしい。
つまり睦実と五実のことを指している。監督の内部の問題でしかないので心底どうでもいい。
五実が10年間言語すら教えられずに育ったのも、「狼に育てられた少女」をやりたかった名残というだけで、設定的に特に意味はないということだけはわかった。
いや無理あるでしょその設定・・・
◾️どうすればよかったか
いやどうしようもなくね?「実は全部幻でした!」というオチに物語として説得力持たせるのは無理だよ!と最初は思ったが、
閉じ込めれた幻としての主人公たちをメタファーとして捉えるなら、共感を誘うような中学生あるある描写は抑え、
閉じ込められた違和感、脱出しようと足掻く姿を押し出した方が良かったのではないか。
「狼に育てられた少女」をやりたいのなら、五実と神機狼の関わりをもっと描くべきだった。
神機狼と佐上の関わりも、もっと神秘的に描いていれば世界観に厚みが出たと思う。
神道っぽい儀式をやるシーンが新海誠作品によくあるけど、ああいうの大事だよね。
突然失踪して終盤急に日記が発見される父親もその辺りの設定に絡められたのでは。
佐上の周囲に腰巾着みたいな面白キャラを配置して浮きすぎた佐上のクッションにするのもいいかもしれない。
映画観に行って寝て帰ってきた
・良いとか悪い以前によくわからないから「お、おう」ってやり過ごす所が多すぎて気づいたら意識が飛んでた
・見たかったもの→白人のシュッとした男性を無機物・有機物で孕ませるの大好き監督による観てて「ハ、ハワワ〜」ってさせられるようなスポンサーの財力を作って作成された濃厚なフェチ動画
・見たもの→主人公おじいさんage会話 ようわからんけど意味深そうな言葉のやりとり
・エイジズムではないけど嚥下機能が難しいくらいご高齢のお爺さまがそこらの美女にモテるわけないだろ…普通に同じ年頃の同じ位の顔面偏差値の男かひとふたまわり年上のお金持ち男性あたりとくっつくだろ…
・いちいち禍々しい家具
・地方の映画館で封切りからどんだけ経っての公開だよこれだから地方の「文化」はよぉ〜とかスネねてたけどこれを公開しようと判断してくれた、それだけで感謝
そもそもジャニーズが出てる作品ってバンバン宣伝するせいでたくさんあるように錯覚するだけで、実際ドラマの方がバンバン出てるうえ、主演映画はめちゃくちゃ少ない。(出演を数えるなら話が違うと思うけど)
ジャニーズで主演映画やれるのはひとグループに2人いればいい方では?
やたら湿っぽく不幸で救いようもない題材ばかり、女優を不必要に脱がせて「体当たり!」「演技派!」と絶賛したりそういうクソ邦画が多すぎる。
物語上これまた不必要で女性にとっては不快なだけ、一部の男には「ご褒美」の性暴力描写に女優がチャレンジしたらこれまた「体当たり!」という謎の賞賛を浴びる。
そういう上の方のおじさんのニタニタしてる顔が見えるのが気持ち悪い。
同性愛を題材にした映画では「同性愛としてではなくどこにでもある愛の話…」と殊更に同性愛を強調しないことをやたらと主張したがったり、「当事者以外に演じさせるな!」と普段憤慨している当事者が別の作品で非当事者が同性愛者を演じている作品を絶賛していたりなんかクサイのも湧いて出てくる。
そもそも映画館にわざわざ足を運んで1900円も払って観に来てくれる価値があるのか?と製作者側は全く考えていないとしか思えないつまらないジメジメ邦画には本当に腹が立つ。
1900円あったらミスドの食べ放題にも行けるし、回転寿司ではデブ1人が満足できて少食なら2人食べられる。確実に美味しいことがわかってる自分のお気に入りの飲食店にも行ける。
確実に好きな芸能人の顔やら好きなキャラが映画館の大画面で見れて、声もでかい音で聴けるなら1900円は安いと感じる人は多いけど、クソっぽい邦画にミスドの食べ放題以上のお金を普通に払いたくないよね。
三谷幸喜の「ギャラクシー街道」は今でも返金してほしいと思ってる。こんなクソみたいな怒りやモヤモヤを一生抱えたまま生きろと?
「ギャラクシー街道」とマーベルやディズニーが同じ料金なのがそもそもおかしい。
邦画がお金かけられないせいでつまらない、お金がないせいって言い訳するなら、映画なんか作るな。
庵野秀明が趣味みたいなシン仮面ライダーに金をじゃぶじゃぶ使えるんだからあるところにはあるんじゃないの?
漫画原作でアイドルが出る映画以上の価値を提供してないってだけの話なのにジャニーズを勝手に叩くなよ
オタクをバカにしてないで、いかにアスペ傾向のあるオタクをリピート鑑賞で取り込めるか知恵を練ったらいいんじゃないの?と思うんですけどね
そもそも普通に結婚して普通に子供がいる健常者は子供を連れてポップコーンもジュースも買って親が子供を連れてくんだよ
まあこんなクソ値上げしたら家でネトフリ見ながらイチャイチャする方が圧倒的にコスパ良すぎますわ
https://twitter.com/tomatoandgarlic/status/1433727956392681475?s=21
https://twitter.com/savemylife15/status/1432581023523426304?s=21
こいつらお前か?
大丈夫?そもそも「ゆめかわいい」という言葉は件の古着屋にも常連で通っていたファンシー文化好きの人気女性モデルが作った言葉だぞ。そしてこの古着屋はゆめかわいいという言葉が出来るずっと前から存在している。
元のアニメの支持層や制作が男だったとかもちゃんちゃらおかしい話でクリィミーマミは夕方放送してた健全な少女向け作品だろうが。
この古着屋が参考にしているカルチャーは何もアニメだけじゃなく女性作家の少女漫画やアメリカの80年代のアーティストやバンドや映像作品等他にも大いにあるのに。マドンナやシンディ・ローパーやバックトゥザ・フューチャーがロリコン文化?マジ?
フェアリー系をオタク向けイメクラでよく見るやつと言ってる奴もいたけどお前がシコれるから男向けロリコン文化から派生したとか傲慢すぎる。勝手にシコってるだけなのに女が作った言葉や文化まで簒奪すんなよ。
ある夏の晴れた日、入道雲がよく映える庭先でじいちゃんが疾走し始めた。
彼はよく見るバックトゥザ・フューチャーのDVDを興奮気味にしまうと、庭へと倒れ込むように、上半身に引きずられるように足を走らせて踊りでた。それから何周も庭を周り始めたのだ。じいちゃんは健脚ではあったが、さすがのじいちゃんも夏の陽気には勝てず、また庭の陽炎もじいちゃんに味方することなく、しばらくするとじいちゃんは息を切らして倒れ込んだ。家族は呆れ果て、時折熱中症を気にかけた。そうした繰り返しの日々が何日も続き、じいちゃんは飽きることなく家の周囲をランニングし続けた。その間、じいちゃんは次第に奇妙なことを口走るようになった。ドクになりたいと。そうしてじいちゃんの速度は増してゆき、その足跡は円環を描くようになった。じいちゃんの加速は人間の限界を超え始めていた。具体的にオリンピック選手のスピードを遥かに超えたと言っても過言でなかった。じいちゃんは円環を超えてバターになるかと思われたが、バターになるはずもないじいちゃんはCERNの加速器の様に速度を出し切って自分の残像にタッチすするようになった。そしてそれが可能になった瞬間、じいちゃんは庭から消えた。
数年後、実家の庭から謎の書物が見つかった。じいちゃんはアメリカ西部の開拓地におり、見目麗しい淑女と結婚して街の暴漢に打ち勝ち、発明者として名を轟かせたというのである。彼は数百年語この書物が発見されることを見込んでいたようだった。僕はじいちゃんが経歴を盛っていることを確信しながらその書物を静かに閉じた。ところで、じいちゃんの書物には奇妙な記述があった。じいちゃんは平行世界のじいちゃんで、もうひとりのじいちゃんは桜の樹の下でタイムカプセルに入っているという。
僕は西部、というよりも現SEIBU地下にあるらしいじいちゃんの墓に向かって手を合わせた。ないはずの桜の花びらがまぶたの裏側に踊った。
んかこう当たり前のようにみんな好きな映画や音楽がある前提で語るじゃん?
あるか?
つうか普通なくね?
「好きな映画は?」
「ん~~~~とりまバック・トゥー・ザ・フューチャーとラピュタっすかね~~」
「いやいやそれは子供にオススメ映画聞かれたらとりあえず答えとくやつであって、好きな映画とは違うっしょ?」
みたいなのとかマジでムカつくんすよ。
ないから。
「好きなゲームは?」
「ポケモンっすかね~~」
「対人どれぐらいやんの?」
「ストーリーだけっす」
「え?他には?」
「スプラトゥーン?」
「ウデマエは?」
「いやよく覚えてないっすわ」
「マジ?」
みたいなの本当もうやめない?
「好きな食べ物は」
「焼き肉」
「マジ?」
とかさ。
ちなみに私が好きな映画は
バック・トゥー・ザ・フューチャー1.5
自分にはオタク気質がない。オタク気質がないということに絶望する。
何か1つでもいいからものすごく詳しかったり、他のことを放り出してまでも打ち込める何かを持っていたりしたい。オタク気質がある人は話をしていて面白い。どうしてそんなことまで覚えているの。なぜそんな着眼点を持ってそのコンテンツに向き合ってるの。
趣味は何?好きなものは何?と聞かれて、胸を張って答えられるものが何もないということに最近気付く。
音楽がそこそこ好きだ。でもUKロックオタクであるはずもなくビートルズを齧ってるくらいだし、オルタナオタクであるはずもなく友人から教わったWeezerやBlurを聞いて気持ちよくなっているだけだ。くるりやフジファブリックというバンドが好きだけど、何らオタク的視点で語ることのできるものは何もない。歌詞が良いメロディが良い。そんなこと誰でも言えるし知っている。
映画もまあまあ好きだ。じゃあ1番好きな映画は何?と聞かれても答えられる自信がない。LEON?ライフイズビューティフル?バックトゥザ・フューチャー?全部観たことはあるけど、じゃあ監督は誰?その監督の作風は?どういう背景で作られた?あのシーンは何のオマージュ?何のメタファー?知らない知らない知らない。駄目だ語れる映画がない。面白かった、好きだった、とかいう感想しかないのだもの。
結局のところ中流サブカルとして色々なコンテンツに首を突っ込んでいくしかないし、それが自分的には良いものを純粋に良いと思えるスタイルなのかなと思ってはいるんだけれども。別にオタクになりたいとまでは言わないけれど、でもやっぱり憧れはあるよね。