はてなキーワード: 日本的とは
竈門炭治郎は嗅覚が、我妻善逸は聴覚が、嘴平伊之助は触覚が優れているが、この3つの感覚の組み合わせについて書かれた文章を、何処かで読んだ記憶が有った。それが判明したのでメモしておく。
男と女の愛の語らいは、昔から夜中に行なうのが一般的であった。言い換えれば、愛とは、第一次的に視覚に依存するものではなく、香り(嗅覚)や声・物音(聴覚)あるいは肌触り(触覚)のなかから豊かに創り出されるイメージの、想像力による夢幻の世界における営みであった。そして、日本的女性美の一つは、この視覚的な隔離から発生しているともいえよう。『堤中納言物語』の「虫愛づる姫君」のなかに「鬼と女とは人に見えぬぞよき」とあるが、この言葉が苦しまぎれに吐かれた言葉にせよ、実に見事に女の美のあり方を、愛のあり方を示唆している。
=引用ここまで=
小松和彦『神々の精神史』「屍愛譚をめぐってーーー伊弉諾・伊弉冉の冥界譚を中心に」より
念の為に言うと、作者のネタ元がこの本・論文であると断定しようというのではない。
私が門外漢だから詳しく知らなかっただけで、国文学の世界では、それに明るい人たちにとって「夜の世界と嗅覚・聴覚・触覚の結び付き」という認識が共有されているらしく、そのことを私が上の本で知ったというだけの話である。
『鬼滅の刃』の作者は、和の文学や文化をかなり学んだと推測される(コメントの数々を読むと、非常に活字に親しんでいるように推測される)ので「夜と3つの感覚の関係」も何らかの文献などで学んでいたのだろう。
https://anond.hatelabo.jp/20210912143002
https://anond.hatelabo.jp/20210911215734
割と無理がある話なので、注釈を入れようと思うよ。
まず基本的なことを確認すると、「ベース電源」、もしくは「ベースロード電源」っていうのは、コストが安くて24時間定常に発電する電源のこと。消費の変動に追従するのは難しいけど安い火力や原子力発電を動かしっぱなしにすると良いよね。という話。
そういう話なので、再エネの値段が原発などより下がって、再エネで24時間まかなえるようになったら、わざわざ「ベース電源」という言葉を使う必要はなくなる(原発も火発も廃止される)。というのは正しい。で、「メリットオーダー」という言葉は、各電源のコストを並べているので、「メリットオーダーで再エネが勝ってるから原発も火発もいらねぇ」、というのは一見正しそうに見える。でもそこには2つ落とし穴がある。
これは、元増田も言ってるけど、限界費用(発電に必要なランニングコスト)で決めてるというのがトリック。限界費用はざっくり言い換えると燃料費。もっというと発電設備の建築費などの初期費用は含まないもの。でも冷静に考えたら、初期費用だって消費者が負担してるはずなんだよね。メリットオーダーはあくまで電力卸取引市場での指標であって、消費者が支払うコストには初期費用が減価償却的に含まれる。にもかかわらず、メリットオーダー主義で再エネを増やすとどうなるか?国民が負担する電気代がドコドコ上がるのである。逆に言うとそのつもりがないなら原発や火発はまだまだ現役になる。この手の話に興味のある人なら、「太陽光は高い」、「原発は安い」という話を聞いたことがあると思う。これとメリットオーダー云々は実は矛盾なく両立するのだけど、これはメリットオーダーには初期費用などを含まない、というカラクリがあるから成り立つ話。
ドイツなんかはこの辺無視してメリットオーダー論などでゴリ押しして脱原発と再エネ増強を推し進めてるので、電気料金は2000年代の倍にまで膨れ上がっている。これについては、ドイツのような「再エネを増やすためなら国民が苦しんでも構わぬ」スタイルは菅直人が日本でもやっている(一般消費者の電気料金に、高いのに無理やり増やした再エネ分の価格が再エネ賦課金として上乗せされている)ので他人事ではない。一般消費者や産業界から批判されて減速しているが、今でも再エネ増強至上主義と国民負担軽減派で綱引きをしている状態である。
なんであれ、メリットオーダーなどではない、本当の意味で「再エネの方が原発や火発より安い」日が来ない限り「ベース電源」という言葉は生き続ける。
要は、再エネを増やしすぎると電力網が変動に耐えられず破綻するよ。って話。再エネは出力が安定しないが、電力というのは24時間365日「消費電力=発電電力」でないとならない。雨の日で太陽光パネルが発電しなくても工場は動くし、風の強い日にガンガン風車が回っても消費者は寝てるかもしれない。これを逸脱すると、普通に停電が起きるようになる。ヨーロッパやアメリカ一部地域で停電が多いのはそれも要因になっている。
現状再エネの変動にどう対処しているかというと、まずは広めの地域で電力網を接続することで、変動をマシなものにしている(平滑化)。つまり「こっちの地域は曇って太陽光の発電が減ってるけど、あっちは晴れてるから変動がマシになってる」的なやつである。とはいえ、それは限界があるので、日本の場合だと揚水発電を含む水力発電のような変動に追従できる電源が吸収して最終的には帳尻を合わせている。そして、そこの吸収力を超える分は電力会社が拒否している。無理に吸収すると電力価格が上がるからである。
ヨーロッパはドイツの先導で「吸収できるかどうかなんて関係ねぇ、再エネ増やすぞ」をやってるので、電力会社(というか電力網)は再エネを拒否しない。ヨーロッパは日本より広いので平滑化は上なのだけど、それでは足りないので変動を全然吸収しきれてない。どうしているかというと、値段が上がる代わりに変動に追従できる火力発電を炊いたりしてなんとかしている。前述の電力価格上昇の一因にもなっているし、ドイツは気候変動対策も掲げて再エネ増やしたはずなのに、二酸化炭素排出がなかなか減らないという状態に陥っている。
現状「再エネ先進国」として元増田が想定しているであろうヨーロッパ各国は、原子力や火発をベース電源的に動かしている(のでそもそもその時点で「ベースロード電源という概念は、再エネ先進国ではもう意味がなくなった」はおかしいのだけど)ので、再エネで本当にベース電源という概念を捨てるためにはもうひと頑張り再エネを増やす必要があるのだけど、実際にはもう相当無理が来ていて、元増田が推している電力卸売市場でも「負の電力価格」がちょくちょく出てきている。つまり「金を払って再エネで発電した電力を吸収してもらう」という状態である。今の所負の価格発動はあくまで短時間ではあるが、更に再エネを増やせば当然こういう時間は増えることになる。この辺さらに無理をすると、発電屋さんから電力網への電力の売値が平均値でも下がりすぎるということなので、再エネ発電屋さんは初期費用を回収できなくなるので発電事業が成り立たなくなる。この辺は1つ目の落とし穴とも絡む話である。
ベース電源が消えるためには上記を解決しないといけないが、現状は解決していないので、ベース電源という概念はまだまだ現役である。というのが結論。まぁ、ドイツの電力価格がガンガン下がったり、火力発電の発電割合が下がって来ないうちは、そのへんは解決されてないと思って良い。
基本的にヨーロッパの政治は、日本的な「実現可能そうな目標を掲げる」ではなく、「最初に無理な目標を掲げて、何年もかけて実現可能レベルに修正する」という流れがあって、有権者もそれを許容しているところがある。ドイツの脱原発とかもそう。それは別に必ずしも悪いことじゃないのだけど、最初のぶち上げのときにもそれなりの論理が求められるので、政治家がハチャメチャ目標を掲げる時にはシンクタンクによるハチャメチャ試算がくっついてるのがヨーロッパである。日本でも少子化対策について政府が出してる試算に無理がありすぎるとかって時々話題になる(いつの試算でも2~3年後には出生率がV字回復を始める試算になっている)が、ヨーロッパでもそれはあるというか、よりひどい傾向がある。なのでヨーロッパ発信の先進的なアイデアについて、それらしい試算が出ていても眉につばを付けたほうが良いよ。って話。
そういう背景があるので「baseload outdated」とかってググるとそういう記述は出てくるかもしれないけど、今の所はそういう記述は活動家が「そういうことにしたい」から書いてるだけだと思って良い。まぁ、そもそも日本語でも「ベーシックインカムをやるしかない!」とか「英語学習には「ながら聞き」が最適解!」とか突飛な記事なんかいくらでも出てくるので、そもそもある記述がグーグル検索で引っかかるからってそれがその言語圏での常識ではないよね。というリテラシーも欲しいところである。
いつも、同じ大学に縁のある人間たちが、隣駅の駅前ロータリーを汚していて、
恥ずかしい思いでいっぱいです。
さらなる学びや、芸術の世界への羽ばたきをたのみにしている人達です。
自分にとって彼らは、勉強はできるが社会に合わせない人、という印象です。
彼らを見ると、
そうした時、自分は、『何も見なかった』ことにしがちです。
という自分の考えが、
「多様性」の物差しで見たら古さや因習のくくりに入る考えなのだろう、
と分かりつつも、
でもそれが正しいよな?と
学びの豊かさが至上という人達の、
学びへの愛情や熱意や、
否定したくはありません。
彼らのそういうところを、
まあそういう奴だよな、と、
隣人として愛しています。
だからこそ、その人たちの前では、
「働くことは結局は悪なんですよ楽しいですけどね」というポーズを取るしかなくなります。
働くことはつらいけど楽しいと思っている自分を密かに殺しているような、
俺をこんな目に遭わせているのはこいつらだ、と相手を憎みたくなるような、
話は変わりますが、以前、その中の一人と、
彼は、不忍池の周りを意味もなく歩いたり、黙り込んだり、話したり、
弛緩ばかりの時間を共有してくれる、数少ない友人です。
自分の入館料を出そうとすると、彼は
と言いました。
それはあなたに奢られた訳では無いだろ
俺は入館料も払えず美しいものを無償で享受するような人間ではない
先輩らしさとは奢りのことなのか?
それをこの人に投げかけるのは俺の情が許さない
今日は楽しかった、この人が障害を持つことでこの先遭遇するだろういくつもの苦しみのひとつに、今日を加えたくない
「あ、じゃあ、それで…」。
美術館は印象的でした。
洗練された気持ちになりつつも、
胸の奥に何かが引っかかり続けていました。
その人と美術館に行くことはもうないでしょう。
働かなくても(公的な補助と親の支援で)生きていけるという人たちが、
でも変わりたいと思えません。
長くなりましたが、
そういう汚さを飲み込んで生きていくのが、
勝ちも負けもせず思います。
みなさんはどう思われますか?
Cadence、Synopsisという謎の半導体設計ソフト企業がある。
ほぼこの2社で独占しているといってよく、ライセンス料もバカ高い。
Web業界的には、そうはいってもオープンソースがあるだろうと言われそうだが、残念ながらない。
設計ソフトが対応している範囲内で出来ることしかチップが作れない。
もしくはこの2社に多額のお金を払って対応してもらう。当たり前だが対応してもらったら他社も使えるようになる。
自社ソフトを作ってアップデートし続けるには売上が足りない、他社から買ってくればいいを繰り返してると、新しいことができなくなった。
あとは日本的な他社へのノウハウ流出を極度に嫌うあまり、エコシステムが作れないといったところか。
私は彼のインスタのアカウントを全部追うほどYouTuber Mickの大ファンだった者であり、今もAsuka Louisとしての彼の活動を追っていて、これからの彼の大ファンにそのままなるであろう者である。彼のことは大好きなのだが、最近の彼について勝手に心配に思っていることや意見したいことがあるので、この場で並べさせていただきたい。
彼は顔を出して堂々と活動しているのに私は顔はおろかネットのアカウント名さえ出せないようなつまらない者なので、ただの1ファンのつまらない意見として受け取ってほしい。こういう長文でダラダラ書くのは彼の潔いスタイルとはかけ離れているし物事を伝える上で効率的ではないのだが、私はこういう形でしか残せないので、もし目に止めてくれたらこんなに嬉しいことはない。
Mickは活動をやめてしまった。彼はたくさんの動画を消してしまったので発言を引用することはできないが、ジャスティンビーバーと同じ事務所に入ったばかりでYouTuberとしても音楽家としても活動をどんどん大きくするであろうという一番楽しみなとき、アメリカでのアジア人種差別についての学びのある社会実験動画をあげてしばらく経ったタイミングで日本のメディアに取り上げられ、その記事の題名に「日本育ちの韓国人」と書かれたことがショックだったというような発言があったと記憶している。
私は彼のような出自ではないし大して有名になったこともないので彼の辛い気持ちを推し量ることはできないが、なぜそこにそんなにショックを受けてしまったのか少し疑問に思った。
彼は人種差別についての動画をあげて、演技とはいえその中でアジア人であることを揶揄される。演技でもそれがすごく辛いことは簡単に想像できるし、あの動画を撮るのはすごく勇気がいっただろうなと思う。それには耐えられたのに、記事の題名がそんなに辛かったのか。
彼はもともと、自分が血筋上は韓国人であることは公表していたし、日韓英3ヶ国語が話せるという動画もあげていた(カッコいいなと思った)。それに、あの題名はMickがそう公表していたから付けられた題名であるわけで、そこに差別の意図は全くないはずだ。むしろあそこに日本人YouTuberと書くほうが大いに失礼だし、逆になにも書かないのでは記事の意図がよくわからないから、担当者がつけたにすぎない。
もともとあの動画は、アメリカでも差別に反対している人はたくさんいる、むしろそっちの方が多数派だということを伝える内容だったはずだ。なのに、Mick本人がアメリカではなく日本での差別にとらわれ過ぎてしまっているような印象を受ける。過去に辛いことがあったのかもしれないが、私含めほとんどのMickのリスナーは彼が韓国のルーツを持っていることを好意的にカッコいいことだと捉えていたはずなのだ。それを彼にはもっと知って欲しかった。
しばらくあらゆるSNSの更新を止めた後、彼は全く違う姿で戻ってきた。緑のパーマ、顔と首に大きなタトゥー。彼がひっさげたアルバムも、音楽性は大きく変わった。明るくアコースティック感の感じられる曲調から、どこか影を感じるビビッドな電子調に。それからインスタライブで彼は日本語を喋らなくなった。
Mickとしての彼が本物の彼自身でない演じられたものだったのなら、カメラに写る姿を本物の自分に戻しただけだ。でもMickerの私からしたらそれは全く違う人がカメラに写っているように感じられた。
私は彼の新しい門出を応援したいが、あまりに唐突すぎるように感じた。Mickを応援するファンはたくさんいたのに、一気に動画を消すのは少し自己中心的ではないか。もちろんMickerはものすごく凝ったクオリティの高い動画をタダで見せてもらって楽しませてもらっている立場なのだから彼は自分の動画をどうしようと勝手なのかもしれないが、Mickerがいたから元の彼は活動ができていたのだ。英語がわからないMickerもいるだろうに、Asukaとなった彼は日本語を話してくれないのだから、なにが起きたのか説明はないのと同じだ。
私はMickのオシャレな編集が大好きだった。音楽もシーンによくあっているし、映像の色合いも美しく、何より彼自身が楽しそうで、アメリカはこんないいところなんだと思わせてくれた。
せめて、彼がこんなにゼロから全てを変えて始めようとしているなら、Mickのチャンネルは手つかずのまま新しいアカウントを作って再スタートを切って欲しかった。もしくはMick時代の動画は消さないでおいて欲しかった。(最近MVなどをちょこちょこ戻してくれているようで嬉しいな。)
顔のタトゥー(シールかもしれないがいつもついているので私はタトゥーではないかと思っている)も心配の要因だ。タトゥーについてつべこべいうのはいかにも日本的価値観だと私自身思うし、誰にも迷惑をかけないのだから自由にすればいい。アメリカではタトゥーがカジュアルなことだと知っているし、私自身海外に住んだらいつか入れてみたいなと思い始めているレベルだ。でも顔に入っている人は少ないしやはり異質な感じを受ける。以前某YouTuberが顔にタトゥーを入れて炎上(というより心配されていた)していたが、その人のはAsukaのよりは小さめだった。もともとMick時代から腕や足にタトゥーがあったのならまだわかるが、こんなに唐突に、しかも顔に入れるなんてよほどの心の変化があったのだろう。
それから言葉。彼は曲は日本語で歌って(ラップして)いるが、SNSではほぼ英語のみを使うようになった。正直曲を日本で売ろうと思っているのなら日本語も少しは使うべきだと思うし、日本語だと自分の感情をうまく表せないと言っていたが、いくら英語が使えるとはいえ母語である日本語の方が圧倒的に得意なはずだ。私は彼が英語のみを使うことで、前の自分との違いを際立たせているようにしか見えない。以前よりもswear wordsを使うことも圧倒的に増えているし、曲にもたくさん使われている。私はAsukaが無理に変わろうとしているように感じられて少し心配だ。
躁鬱病という、躁(めちゃめちゃ気分がハイになり、取り返しのつかないことまでなんでもしてしまう)と鬱(反動で何もできない、気分がすごく落ち込む)を繰り返す病気があるのだが、こういう行動は躁っぽく感じるので尚更とても心配だ。絶対に自分は違うと思えても精神のことは自分ではわからないものだから、ぜひ周りに相談してほしいと思う。
8月末のインスタライブでは笑顔も久々に見ることができ少しだけ安心したのだが、気になる発言があった。「本物のファンというのは俺がどんな馬鹿げたことをしてもついてくる人だ」というような内容のことを彼は言っていたと思うが、それは違うのだと言いたい。Asukaが言っているのはただの信者であってそれはファンではない。本当のファンは、いつも応援している人に心配なことがあったらそれを伝えることができる人のことだと思う。(頭ごなしに否定するのはただのアンチ。)
Asukaは私のことをファンではないと思うかもしれないけど、これからも応援しています。別に辛いことがあってもリスナーの前で無理してカッコつける必要はない、等身大でいて、これからも私たちを楽しませてくれればそれでいい!本当の自分を一番大切にしてください。
実務の人間はシステムを理解しようとしない(システムがわかるとみなされると、システム担当のレッテルを貼られて日本的な出世街道からはずれてしまうことが多い)
システムの人間は実務を勉強しようとしない(技術的な課題は面白いけど、実務はロジック通りにいかないことが多すぎて面白くない)
システム側は工数が減れば楽になるから、意味わからんものは何でこんなことやるんだって思ってしまう
複雑な実務にもできた経緯があって、法律なり会計なり不正防止なり何らかの理由があるんだけど、それを変えていいかやめていいか判断するインセンティブが誰にもない
オリンピックで外人の目があるから人道主義者のふりをしないといけなくなってるから
今綺麗なジャイアンしてるだけだろ
そして私は原爆が落ちた県の出身だが、原爆の話題はうんざりを通り越して嫌悪している。
小学生の頃から毎年原爆の日は夏休みの中登校し、暑い体育館で写真を見て被爆者の話を聞くという平和教育を受け、黙祷をする。一年で一番憂鬱な日だった。
この日が嫌で県外に進学し就職した。
県外に出て初めて、日本的には原爆の日はそんなに重要視されているわけではないのかと知った。
見るのも嫌だった原爆という字をタイピングしてるし変換できるようになった。と今感じた。
私にとって戦争=原爆で、原爆=関わりたくないものとして戦争反対なので平和教育としては成功してるのかもしれないが、子どもに自分が受けたような平和教育は受けさせたくない。
なぜこの話題がこんなに盛り上がるのか考えてみることにする。
世の中には「正しい価格」というものが存在するのでは?という気がする。
「正しい価格」というのはつまり、みんながハッピーになれる価格ということである。
普段ぼくたちはメーカーが商品につけた「希望小売価格」で商品を買っていて、それで満足しているわけなので、「正しい価格」=「希望小売価格」のような気がする。
そうすると、転売というのはここに転売をする人のマージンが乗ってしまい、それだけ値段があがってしまう。
ハッピーな値段で買えないのでぼくたちはイライラするわけである。
転売する人から商品を買った人というのは、とても高い値段で買ったわけではあるが、買った以上その値段で満足しているのである。
そして売った人も、仕入れ値より高く売れたわけだから、満足しているわけである。
つまり、転売がおこなわれているまさにその場所では、売った人も買った人も満足している。
当事者がそれでよいと言っているのに、売買に携わっていないぼくが外野から、「その価格は正しくないですよ!」というのはあまりにもヘンな話である。
買いたくないなら買わなければいいんであって、ひとの買い物にいちゃもんつける権利はぼくにはないのである。
転売問題でよくいわれるのは、「本当に欲しい人に商品が渡らなくなってしまう」という問題である。
1000円で売られているおもちゃが、転売によって5000円に値上がりしたとしよう。それをぼくはのどから手がでるほど欲しいとする。
そうすると、しかたなく値段が下がって転売するひとたちの妙味がなくなるのを待つしかない。非常に腹立たしいのである。
商品を必要としていない転売屋さんに商品が買われてしまい、本当に必要としているぼくに買うチャンスがめぐってこない。
しかしこの問題も冷静に考えてみると、転売屋の向こうには、ぼくと同じようにそのおもちゃを欲しているどこかの誰かがいるのである。
かたやそのおもちゃに1000円を払う気でいるぼくと、5000円を払ってでもいいから手に入れたいとおもっているどこかの誰かさん。
こうしてみると、その人のほうがぼくよりはるかにそのおもちゃを手にいれたいとおもっているはずである。
つまり、「本当に必要としている人」にはきちんとおもちゃが渡っているのである。
むしろ、その「本当に必要としている人」は近所におもちゃ屋さんがない田舎に住んでいるかもしれない。
ずっとずっとほしいと思っていたものの、お店でいけない事情のある人に商品が届く仕組みが、転売という利益を追求する誰かの行為によって実現したともいえるのである。
転売問題でぼくらが腹立たしくおもう根本には、「日本では希望小売価格で販売する」という習慣の存在があるとおもう。
メーカーがこの価格で売りたいですよ、というと、おおむねその価格で小売店は販売するわけである。
そのため、特定の商品が買い占められ、値段が吊り上げられると、その習慣を破壊する行為に感じるわけである。
ぼくたちが丁寧に守っている習慣を壊すひとに対して、ぼくたちには人間の本能として敵愾心がうまれているのである。
しかし、希望小売価格というものは希望であって、値段を決める権利は消費者に販売するひとにゆだねられているはずである。
ゆだねられているはずなんだけれど、習慣としてどの小売店も、おおむね希望小売価格で販売するがゆえに、
希望小売価格が本来あるべき価格よりも低い価格がついてしまっている商品については、日本的商習慣を守るつもりのない個人の転売屋が
転売がおきている商品というのは、それが "正しい価格" ではないことが、マーケットによって暴き出されたともいえるのである。
要は、小売店が希望小売価格を無視して、自由きままに値段をつけて販売していたら、転売問題も、そしてそれでぼくらがイライラすることも、そもそも起きなかったんじゃないの?と思うのである。
日本らしいアイコンを使わなかったのは前グループが使いたくないと明言していたからじゃないでしょうか。
あの会場でプロじゃない人が太鼓を響かせるのも難しいですし、明らかな日本的アイコンを使うとなると、それこそ人集めが難し過ぎます。残り2ヶ月弱ですでに批判されている日本のオリンピックなんて、伝統を重んじている人が出たいわけないじゃないですか。
伝統的なものをされている方を応援している人々は基本的に保守的です。
あなたが言いたいのはサブカルのような文化がオリンピックなんていう世界を舞台にする場面に出てくるな、ということで間違いないでしょうか?
それなら私も全くの同意見です!
そもそもなんで椎名林檎とMIKIKOだったんでしょう?掘れば小林賢太郎よりやばい発言死ぬほどしてますよ。サブカルチャーとは鬱屈した人間が狭い世界の中で出来たものなのに、それを表舞台に引っ張ってきて「私あなた達のこと好きなのよ」って擦り寄ってきたでかい組織が気持ち悪くて仕方がありません。
残念ながら私はその薄暗いサブカルチャーの世界で生きてきた人間なので表に出た彼らを応援するしかなかったですが、結局上の人間に使いはたらせてアイツらはゴミクズだった!!っと叩かれるのは悲しくて仕方がありません。
お金を理由に太鼓とかお祭りだけではなくて、忍者・侍・相撲みたいな日本的ベタなものが出なくて、あやとりダンスが出てきたのは何故なんでしょうか?
そして、それでもイマジンがどういう歴史の中で流行った楽曲かと考えたら、現状はイマジン入れる理由がない。MIKIKO先生の金あまりの代から、日本の楽曲を何故、使ったり作ることを検討しなかったのでしょうか?過去には『東京五輪音頭』や『世界の国からこんにちは』とか作っていたのに、洋楽を好んだ日本の短いサブカルの歴史総決算ってまとめになったのは何故でしょうか?
結局、各演者が自分の中のサブカルの歴史を表現することに躍起になって、五輪憲章を遵守し、各国をもてなし、日本の未来に向けて長い目で見て全体の繋ぎを構成する監督がいなったんですよ。
表舞台に出て説明責任も負ったりする舞台・映画監督や、せめて作家性のある構成作家が仕切るべきオリンピックの開会式を、裏方でかつ、通常業務のステークホルダーがアーティストや芸人サイドである演出家が仕切ったから。
舞台や映画監督はスポンサーの意向を聞きながらもオーディションを経由してバックグラウンドチェックを行うことでお友達以外からも参加者を募り、かつ観客動員数などの責任を負い、客の期待していることを読みながら、シーンの転換に一貫したシナリオのある舞台を作るのが仕事。向いている方向は、客、または、スポンサー。演者は監督の思い描いたシナリオや絵コンテの流れを実現する素材。
一方で演出家は、シナリオの部分を担保するのがアーティストやお笑いネタを作る側、脚本家であり、演出家自体は出来上がっているシナリオやそのシナリオに沿って動く側を良く見せるのが仕事。向いている方向は、演者。演者の活躍や表現をサポートする立場。
このゴタゴタは、AKIRA案という、復興五輪や日本外交どころかオリンピック憲章と全然関係ない案を出した演出家のMIKIKO先生のキャスティングから間違いは始まっている。
AKIRA案って、そこと何の関係あるんですか?表現者サイドの自己表現よりも、日本の民意を汲みつつ、各国の選手の歓迎の方が優先される場なんですよ。思い切り自己表現をするアーティストを支える人ではなく、オリンピック憲章の意図を理解し自分の表現力をオリンピックという場を成立させることに注ぎ込んだ森山未來的な役者・ダンサーを開会式に起用できるような教養のある監督が必要な場所なんですよ。
あと、開会式に冷戦時代だと有効だったジョンレノンのイマジンが墓から出てきたのでびっくりしたのですが、こういうチョイスをしたサブカル層が見てる世界って、難民が出ている世界や国境・領土問題でゴタゴタあるインドやパキスタン、台湾等ではなく、欧米音楽業界のさらにマイノリティの痛みに無頓着な育ちの良いボーイやガールの界隈なんですかね?さらに強者と言われる白人サイドから手を取り合ってって言われるの、どうなんですかね?マイノリティの主張を聞くことから始めないんですかね?
サブカル層はすぎやまこういちや海老蔵に対してカウンター打てるほどの人材や作品をプール出来てないぐらいに日本外交に対して考えもなく、多様性もなく、身内で固まっていただけ。そういう現状を反省しつつ、スポーツの採点でスポーツ業界の人材の方がはるかに多様だったら、大坂なおみさん以外の多様なスポーツ選手にも沢山映像等でフォーカスすれば良かったのに、そういうこともしなかった。
消防団や歌舞伎だせというのは、最低限、ベタな日本的なものを開会式に出せという、あらかじめ想定できた国というスポンサーからの要求。ベタなボランティア経歴のあるMISIAもそう。
音楽は歌謡曲・民謡・太鼓・三味線とか『のど自慢 世界大会』的なベタなもので全然良かったし、前回のオリンピックから違う系統で且つ昨今の流れを組みつつ世界でもわかりそうなものと言ったら、ヒップホップやジャズとかの黒人音楽でも良かった。他は、よさこいやねぶた祭り、漫画・アニメみたいなベタで良かったし、最初の赤い糸を使ったハイコンテキストな割にその意図が『はたらく細胞!!』っぽくて可愛いことにあっていないコンテンポラリーダンスはなくても良かった。
借りてきたマイノリティではなく、自国の中のマイノリティを見つめるなら、日本的なもので統一しても良かった。その流れで、身体障害者として途中からマイノリティになった長嶋さんの登場や、音楽業界ではマイノリティであるゲーム音楽(すぎやまこういちはともかく)は良かった。
老若男女世界各国ウケるベタでローコンテキストなものを嫌って、身内しかわからないハイコンテキストなものや、借りてきたマイノリティ性を好む人たちが、たまたまアーティストサイドを贔屓する演出家を中心となって固まり、音楽・映像サイドもそのことを気にかけなかったことが露呈した、そんな開会式だった。
才能ある人を守れと言われても、コンセプトやシナリオにあった動きをするから守れるのであって、そこを蔑ろにしてたら守れる才能のある人も守れないんですよ。シナリオや絵コンテがあるリニアなコンテンツではなく、電博の雑誌・テレビ的なノンリニアなコンテンツの作りをしていたら、枠を入れ替えるように人もコンテンツも交代されちゃうんですよ。だから外部からの口出しに柔軟に対応できちゃうんですよ。周りに何言われても「これはコンセプトやシナリオ、絵コンテの流れに合ってませんから」で断れずに。