はてなキーワード: 技量とは
落ち込んだので吐き出す。
幼少期、スポーツ系の習い事をしていた。指導役が肉親だったこともあり、脂の乗っていた時期には、練習が朝の五時まで続くことも稀ではなかった。
そんな日々が数週間も続けば嫌にもなる。
しかし、その「やらされていた」時間のお陰で(当時の精神状態や幸福度はさておきとして)当時はそこそこの成績を維持していた。
時が経ち、今、私は別の趣味を得た。
少しでも上手くなりたいと思った私は、技術書を読み、習慣的に練習を続けている。甲斐あって、以前の自分と比べれば巧くなってもいる。6年も続ければ当然の話だとも言える。
しかし不満がある。それは、自分が他者に嫉妬を抱けないという点だ。
ーーー
不満に至るまでの流れを思い出す。
練習法を探す私は、さまざまな媒体に触れた。本、Webサイト、動画、SNS、有償授業…ほんの少し探しただけでも、モチベーションの維持の重要さに触れている記事は多い。
未熟さを笑われたことへの反発、同世代のライバルへの負けん気、嫉妬…それらの感情は、素直に認められるのであれば、たしかに努力に対する強い原動力になるだろう。
私自身、覚えがある。
かつて習い事を「やらされていた」私は、隙さえあれば体を休めることや他の遊びをすることに執心していた。しかし、本当にその競技で人よりも巧くなりたいと思っていた友人は、常に積極的な努力を怠らなかった。鬼気迫るやる気を抱いていた。私が限界を感じた時間をゆうにこなし、同じ時間の練習でも密度に差が出来た。
当時は「こんなこと、よく好きでできるな…」止まりで、彼よりも巧くなりたい、彼に負けない結果を出したいとは一切思わなかった。当然だ。好きでやっていた事ではないのだから。
押し付けられた内容量が規定値に達したので、最低限たどり着いた。かつて私の技量はそんなものでしかなかった。
しかし今は違う。
今の自分は好きなことをやりたくてやっている。他の事が充分できる時間もあって、そのジャンルに固執しなければいけない理由もない。
だのに、だ。自分は、明らかに自分よりも優れた者相手に、全く嫉妬や反発心と言ったものを抱くことができない。
素晴らしいな、これは良いものだな、これは見たことのない表現だな、これはどのような意図で行われているのだろう…色々思うところはあるが、そのどれもがせいぜい感動や興味、憧れ止まりであるのだ。
ーーー
勿論、負の感情抜きでも練習は出来る。惰性にならないように心がけながら、自分なりに努力を続けている。
それでも、折に触れ彼のガッツを思い出す。
というか、逆に、どうして自分はあれを抱くことができないのだろうと思う。
思いつつもわかっている。負の感情や情熱と言うものは、抱きたくて抱くようなものではない。
あれは、抱いてしまったから抱くしかない類いの感情なのだろう。
つまり、今の趣味を、自分自身が好きでありたいと思っているほどには好きではない……それだけの話なのかもしれない…
まぁ、だとしても、この趣味が今一番楽しい趣味であることには変わりないので、マイペースに進めていくだけの話なのだが。
色々と吐き出してるうちに、気持ちも落ち着いてきた。
日が昇ってきた。朝食を作ろう。
中学の頃から腐女子でずっと二次創作をしており、pixivやらTwitterやらでアカウントを転々としつつ、オンライン上のみで活動をしてきた。
描く絵は一枚絵ばかりであり、漫画は簡単な4コマくらいしか描かなかった。
イベントでは買い専に徹し、自分が同人誌を作れるという発想も無く、「漫画や本を作る=とても大変なこと」だと考えていた。
しかし、3年ほど前に某ジャンルに強くハマり、初めて私は「推しカプの本を作りたい」と感じた。
そのジャンルは知名度は高いが、女性向けとしてはマイナー寄りであった。
だが、活動している人はそこそこいた。というより想像よりたくさんいて喜んだ覚えがある。
最初は今まで通りオン専で活動するつもりだったが、自分の作品が今までより良い反応をもらいやすいとだんだん感じるようになった。
今思えば、手前味噌だが私の画力が当時のジャンルの中でも中の上くらいだったことと、貴重なカプ者としてありがたく思ってくれる人達がいたことが理由だと思う。
その時の私は良い評価をたくさん頂けたことで自己評価が高まっていた。
今の自分なら漫画も描けるのではと思って制作した推しカプ漫画も、無事多くのブクマやいいねが頂けた。
丁度ジャンルに来て1年くらいだったと思う。
同人誌の作り方を調べ、とあるイベントを目標に計画を立てて制作を始めた。
しかし、本の執筆は自分が想像していたように大変なことだった。
ネットにあげていた漫画は所詮1〜2pほどであったが、こちらは一気に10倍のボリュームを描くことになる。
上手くまとめないとページが足らなくなったりグダグタになったりする。話の流れで苦手なアングルも描くことになる。などなど…
描いている最中で何度も「本当に面白いのか」「この絵おかしいけど直せない」と虚無に陥りながらなんとか描き続けていた。
自分の絵が嫌いになりそうにもなった。
一方、私が本を作ろうと思い立った半年ほど前に新規の人がジャンルに来ていた。
その人は私と同じオン専であった。しかもTwitterのみでしか活動していない様であった。(以下Aとする)
Aとは私のアカウントをフォローしてくれたことをきっかけに相互となり、絵をいいねしあってたまにリプを送るくらいの仲となった。
彼女の描いた絵は私と同じくらいの評価をされていた…と最初は思っていた。
彼女の絵は、私における「今回は特に反応が貰えたな!」と感じる量のいいねやRTをコンスタントに稼いでいた。
さらにフォロワーもじわじわ増えていき、いつの間にか私の何倍にもなっていた。
私が思う以上にAは絵が上手かった。
私が苦戦しながら原稿を描いている間もAは絵の投稿を続けていた。
最初は私もAの絵をありがたくいいねしていたが、そのうち彼女の存在が私の自信に影を落とすようになっていった。
話は戻るが、なんだかんだで原稿は完成し、サークルとしてイベント参加することを達成した。
私の本を買いに来てくれる人がいたこと、今までネット上でしか知らなかった人達と実際にお会いできたこと、差し入れをいただけたことなど、嬉しいことがいくつもあった。
本の感想をくださる方もおり、喜びのあまり何度も読み返した。本をきっかけにフォローしてくれる方もいた。
何もかもが初めての体験であり、イベント後も1人ずっと感動していた。
また、同人誌の執筆など自分にはできないと考えていたため、自分やれば出来るじゃん!と自信がもりもり湧き出ていた。
そんな時にふとAのTwitterアカウントが目についた。そのフォロワーやいいねRTの数の多さに、途端に自尊心が急降下した。
自分はpixivやTwitterをまめに更新し、本を作ってイベント参加もした。
なのに彼女はTwitterでしか活動せず絵を上げるくらいで呟きも少ないのに私よりずっとずっと多くの評価をされている。
そこが私には許せなかった。
私は必死で漫画を描いてたのに。特に締め切りのない絵を描き散らしてるだけで。調子に乗ってるんじゃねーぞ。とも感じた。
Aは絵を描いているだけで調子もクソも無いのにそう感じていた。
そのうち、この感情はAだけでなくオンライン上の狭い範囲でしか活動していない人全てに向かうようになった。
今まで仲良くしていた人達の活動履歴を探り、オフライン活動のある人としか仲良くしないようになった。
評価の量は自分の技量の問題であるし、本を作ろうと思ったのは自分で決めたことで、それで苦労をしたのも自分の技量のせいである。
Aを含めた「オンライン上でのみ活動する人々」には何も関係のないことである。
なのに私は彼らのことを「オフライン活動をする度胸のない奴ら」だと感じている。
https://twitter.com/nekonekota/status/1324318735243436032
内容を要約すると、新聞にこのような投書があったという。
質問者「Twitter上で絵を描いているが、評価されなくてむなしい。自分より下手な人が評価されてると腹立つ。」
回答者「他人と比較するのではなく、自分の目標に対してやっていくといい。」
そして回答者は続けてこう回答する。
「そのうち、他人が何を求めているのかが分かるようになる。相手が求めている事を提供することが評価されるということだ。」
増田もまた、インターネット上で創作物を公開する人間だ。当然SNSだってそのフィールドの一つとして使う。
自分もかつてこのようにサイトでのいいねの数などに執着していた時期があった。貰えなくて悲しい思いをして、貰ってる人を見ると腹が立った。まさにこの投書の質問者と同じだった。
しかし自分はある事に気が付く事で、この領域から抜け出すことが出来た。
それが、タイトルに書いた「SNSで不当な評価をされることがないという事実」である。
あなたは物凄く上手いのに全然評価されていない絵師を見た事がないだろうか。多分一度ぐらいはあると思う。
そういう人が伸びない理由は
である。
逆に、これを真っ逆さまにすると上手くないのに評価される事もある。
例えば「鬼滅の刃の絵を4歳児が頑張って描きました」というツイートがあったとする。上手くすればこれはバズツイになる。
まず身内のお仲間がRTする。鬼滅の刃自体のコンテンツ性が大きく著名で目に留まりやすい。そして子供が頑張って描いたというかわいらしい付加価値がある。
SNS力は人脈・付加価値・題材の話題性・情報有用性等の、一言で言えば風を読む力とでもいえるだろうか。そういうものである。
なので自分より下手な人が仮に評価されているとしても気にする必要はない。何故ならSNS力が高いから。SNS力が正当に評価されているから。
で、これを理解するとSNS力を高める方法が分かってくるので、SNSで一気に評価されるようになる。
例えば絵師が本職のイラストレーターなどを目指す場合など、自身を明確に宣伝する必要、数字が必要である場合は高めればよい。
でもそうでないただの趣味であるならば、自分のやりたいことを無視してSNS力を高める必要性があるのだろうか。
それなら評価など気にせずにいても良いのではないだろうか。
(2020/12/29 16:02追記 274曲聞いた 更新終了)
※歌配信やその切り抜きは除外
敬称略、各枠内での並びは順不同
https://www.youtube.com/playlist?list=PL7zJKCZCIu37pRAs1IQxUto2mld6-oyq9
書くまでもないことは省略します。オタクは自分の感性が全てです。
昨日、https://anond.hatelabo.jp/20201003195734 という記事を書いた増田です。「卍」という言葉以外を使わないことを除けば、似たような人物だと思います。お疲れさまでした。
けっこう for 文が書けない人物(卍)のことに対して批判的な方がいらっしゃりますが、私はよくわかります。自称「天才」というやつは、こっちからすると「これだけ自信あるのだから根拠あるだろ」と思うのですよ。それで、ぼちぼち結果出してたりすると、疑うということすらしようとする機会がないのです。マジで洗脳状態にあるので、上にいるやつが for を書けないなんて思いつかないんすよ。「変じゃね?」みたいな感触はあっても、何故か気が付かない。これはスキルの有無は関係ないのです。
こういうのを見破るのは困難です。見破った人員はそこにいないからです。辞めるか、辞めさせられるからです。上もなまじ問題になっていないので、見分けが付きません。だって経営陣にも彼の能力を判断する技量がないから、クビにする理由をつけられません。というわけで、転職できる人は逃げましょう。
じゃあ、どうやって見破るかといえば「コード」をみないといけない。じゃあ、そいつのコードが見れる機会ってなかなかないのよ。だって見せると無能なのバレるから、見えるとこに自分のコードを置かないのよ。みれないから、無能だと判定できないのよね。有能でないことは、無能だとはいえないからさ。見えないことは、存在しないことではないのだから。仕方がないのです。
俺も気がついたら、手遅れだったよ。おかしいと確信したら、振り返れば変なことばっかだったもん。でもさ、染まっているときはわかんないものなんです。これはそういうものなんです。諦めましょう。そして、次に行きましょう。
元増田へ。仕返ししたいなら、転職サイトに「そいつが自覚できない」内容で「まわりはおかしいと確実に気がつける」文章を書いてみたらどうでしょうか?うまくハマれば、怒涛のごとく転職者が出ておもしろいと思うよ。やったことないので、しらんけどさ。
消えるというか、アーケードの超難度を前提にした電子音楽みたいな一部のトラックは音楽ジャンル的な流行り廃りがあるかもしれん。だが音楽は人類がずっと親しんできた普遍的な娯楽であり、感情を揺さぶるものであり、それをアクションと結びつけて体感的な遊戯へと昇華させるという設計は不朽と言っていいだろう。つまり音楽という長い文化とビデオゲームという文化が結びついたが最後、ビデオゲーム文化自体が消滅しない限りはもっともしぶとく残るゲームジャンルの一つが音ゲーであると推測できる。将来ゲームシステムの変遷はあるだろうが、音楽つまり音やリズムに主眼を置いた遊戯である時点で非常に強力な普遍性を帯びているように思えてならない。
そして機械的に完全なプレイができることは、人間がプレイしたときの楽しさとは関係がない。音ゲーの楽しさは、完璧にプレイする機械の存在により毀損される類のものではない。逆に言えば、マクロによる自動操作プログラムを作る技量がある者でも、(ソシャゲ風の周回プレイを強いられる音ゲーでない限り)自動操作しようとは思わないし、他者も自動操作を羨んだりはしないわけだ。自分で操作すること自体に楽しみの本質があるから。
音ゲーの楽しさはいくつかの要因によって成る。無意識的に行われるパターン認識、周辺視やリズム感によってあたりをつけてて「こう弾けばいいだろう」と推測したパターンがぴったり合った時の快感(初見時に多い)。脳の処理に運指が追いつくようになり、難所を抜けられるようになった時の、いわゆる「逆上がりできた」のようなスポーツ的達成感。繰り返しプレイすることで「身体が覚える」感覚と、それに伴って精度が向上しスコアに反映されていく喜び、それがフルコンボやオールパーフェクト等のトロフィーとして残る快感。そして最終的には、最初から最後まで失敗にめげず、あるいはノーミスで来ていることに怯まずにプレイしきる精神鍛錬の要素が入ってくる。
そういった上達の過程を楽しむことが音ゲーの遊びとしての本質なのだ。その性質上、下手な人の方が得られる快感の総量が大きく、ある程度音ゲー全般で通用するスキルを得てしまった人に対しては高難度にしていくしか快感領域の伸び代を確保する術がない。そうなると、ノーツを詰め込めるタイプの楽曲は似た傾向になりがちだというのは確かにあり、問題視するのも分からなくないが、あくまでゲームなので、楽しいと思える範囲まで遊べばいいだけだと個人的には思う。それ以外に一点憂慮するとすれば、音ゲーというのは前述のように非常にパラレルで複合的なリアルタイム認知を数分間に渡り集中的に必要とするため、脳にそれを苦手とする性質がある人にとっては非常に取り組みにくくて楽しさを感じる領域に至りづらい問題があるかもしれない。音ゲーは数あるゲームジャンルの中でもスポーツ寄りだ。競争要素が乏しいのでe-スポーツ分野には入らないだろうが、運動神経を含めた感覚的な操作が求められる点で、人を選ぶ部分があり、特定タイトルの人気や流行にあてられて致命的に向いてない人がプレイをし続けることになると怨嗟を生みかねない部分もあるかもしれない。とはいえ、どのゲームジャンルにおいても向き不向きはあるもので、ゲーム自体の問題というよりは個人の取捨選択スキルの問題だろう。
もう一つ、音ゲーと同じような特徴をもつゲームジャンルがある。それはレースゲームだ。他プレイヤーやNPCの車による物理干渉という不確定要素を排するならば、レースゲームというのは非常に音ゲーに似た「機械的に最善がトレース可能な遊戯」だ。最適なライン取り、アクセルワークというのは厳に存在する。リアルなゲームだと路面状況の変化やタイヤの摩耗などの要因もあるとはいえ、最速のAIは容易に作れてしまう。音ゲーと違う部分は、常に一定でプレイ結果と無干渉に進行していく譜面に対して、レースはコース自体は不変ながらも進入時のブレーキング地点・進入角・速度の僅かなズレが後々のライン補正すなわちリカバリー操作に大きな差異を生む点だ。ただし、それらを寸分違わず毎回再現できるならばプレイ結果は同じになる。
そうした差異はあるとは言え、大雑把に言えば音ゲー同様にパターン認識によってあたりをつけてプレイし、反復してプレイすることで腕を上達させていく、試行錯誤の過程の快感に主眼を置いたゲームジャンルであることに違いはない。とはいえこれはタイムアタックのような早く走ることを目的としたゲームモードの話であって、カジュアルなレースにはカーチェイスなどの多様なゲームモードがある。その点は音ゲーより多様性に富んでいる。しかしそれは選択肢が増えてるというだけで、純粋に進化と捉えていいだろう。音ゲーが将来多様なゲームモードを開拓していった場合も、それはゲームジャンルにとって良いことだと思われる。
ところで、薄々感じてはいたが、元増田は本当は音ゲーに対して悲観的なのではなく、単純に、音ゲープレイヤーに嫌悪感を持っているだけではないのか。自分以外の音ゲープレイヤーに軽薄さを感じており、あるいは恨みを持つに至る出来事があったのかもしれないが、ともかく自分が人を嫌悪していることを自覚したくなくてゲーム自体に諸悪の根源を求めようとしているのではないか。イキったプレイヤーを見て「それが何になるんだ?」とマウントを取れる要素を列挙して拗ねているように見えるのは自分だけだろうか。
自分は、モノ自体に善悪はないという信念に近い価値観を持っている。誤るのは常に人間のほうであり、モノが過ちを誘導しているように見えたとしても、人間はモノに惑わされない知性を備えているべきで、備えていると考えてモノは作られ、使われるべきだと考える。さもないと、人間はどんどん白痴になっていき、モノに操られるモノ以下の存在に貶められるだろう。モノが特定の性質の人間を集めていると感じ、それを良しとしないのなら、自分が好む性質に改変したモノを作る側になるしかない。この増田に対して適用するなら、増田の思う軽薄でない音ゲーを作れるのは増田だけだと思うのだ。安易にジャンルそのものを悲観して多様であるはずのプレイヤーをまるごと切り捨てんとする夢想に耽るよりは、よっぽど現実的で建設的な考え方だと思うのだが。
この日記を読んでいる人へ。
そうだな、とりあえず最初に聞くなら『発光体』(https://www.youtube.com/watch?v=IOa-nZiIeiw)『ズックにロック』(https://www.youtube.com/watch?v=GXqZ5EXE9ho)『ゆらゆら帝国で考え中』(https://www.youtube.com/watch?v=M9CM44MohAs)らへんがおすすめ。
どの曲もそんなに長くない。ストリーミングでも聞ける。
さ、早く。
聞いた?
ほんとに聞いた?
「なんだ、増田民の提案になんて乗らねえぞ」って人にも一度は聞いてほしい。
というわけで、以降の記事は「ゆら帝を一度でも聞いてくれた人」に向けて書く。
というか、日本人の大部分が上ふたつに当てはまると思う。
私の周りの友達もみんなそうだった。
ただ、心をぐっと掴まれて、早送りボタンを押せなかった人もいるはずだ。
誰かの心にズドンと響く音楽っていうのは、諸刃の剣みたいなものだと思う。
ある人にとっての神曲が、他の人に全く響かないなんてこと、日常茶飯事だし。
もしこれを読んでいる人の中にゆら帝のファンがいたら、こんなに嬉しいことはない。割合的に厳しいと思うけど。
新参がイキってすみません。でもね、このバンドがもっともっと広まってほしい。
正確にいうと、ゆら帝を聞く星のもとに生まれた人たちが、ゆら帝を知らずに死んでいくという事態を防ぎたい。
もうね、頭の中では今たいへんなことがおこっています。
手と足と胴体がそれぞれバラバラに動き出しそうで、それを押さえつけてジッとしているだけでやっとの状態です!
再結成とか、メジャーシーンでの再評価とか、どうでもいいんだ。
届くべき人に彼らの曲が届いてほしいだけ。これは完全に自分のエゴ。生温かい目で見守ってください。
私がゆら帝の存在を知ったのは2020年夏。彼らが解散して10年が経っていた。
私だけでなく、同世代でゆら帝を知った人の大部分がそうだと思う。
外出できない夏休み、オンデマンドサイトを見漁っているうちに、奇天烈なOPが耳から離れなくなっていた。
コロナ自粛がなければ、ゆら帝には出会えなかったかもしれないということだ。人生というのは分からないものである。
私は結構ロックが好きで、メジャーからインディーズまで広く浅く聞いてきただけに、ゆら帝の曲を聞いたときは、衝撃を隠せなかった。
分類的にはサイケデリック・ロックだのオルタナティヴ・ロックだの言われているけれど、このバンドは「ゆら帝」というくくりでいいと思うくらい特殊である。
ゆら帝の魅力。
まずメロディがいい。前期の渇ききった感じも、後期のしっとりと美しい感じも、最高だ。
個々の技量も素晴らしい。特にベースが好きだ。亀川千代氏のベースラインには中毒性がある。
そして歌詞がいい。非の打ち所がない。
「もう一度頭絞ってにじみ出てきた緑の液体がぼくの全てさ バカだろ?」
「雨が降る日は何もしない 髪がベタベタするから 風が吹く日も何もしない どこか消えたくなるから」
どういう人生を送っていたら、こんなにクールな歌詞を書けるんだろうか。
昨今の音楽はメロディ重視というかなんというか、文字数合わせが目的の物足りない歌詞が目立つ(もちろん例外も存在する。サカナクションの山口一郎氏は歌詞に真摯に向き合っていると思う。私は高校生のときからサカナクションの大ファンだ。魚民諸氏はゆら帝にも興味を示すのではないかと思う)。
ライブもいい。クッサイMCも余計な演出もなく、淡々と音楽だけを届けてくれる。
生で見たことのある人は本当に羨ましい。
とまあ凡庸な言葉で色々述べてきたが、はっきりいってゆら帝の魅力はこんなもんじゃない。
言葉では言い表せない。
サカナクションのライブの理想形はゆら帝らしい。なるほど、と腑に落ちた。
サカナクションのライブは、それ自体芸術作品と言っても差し支えないほど完成度が高い。演奏レベルもCD音源レベルだ。彼らは安っぽい感動でも変な共感でもなく、「音楽」という体験を私たちに提供してくれる。
ゲスの極み乙女。の川谷絵音氏も、『タコ物語』(https://www.youtube.com/watch?v=qbkxCVNsFsY)に影響を受けたとか。この曲はMV含めてとても狂気的だ。ぜひ聞いてほしい。
ゆら帝という存在は、ロック界の『AKIRA』のようなものなのかもしれない。
凡庸な感性しか持ち合わせていない私でも、心を揺さぶられるのだから、大したものだ。
きっと、人間の奥底にある普遍的な何かに響く音楽なのだと思う。
私が心配するのとしないのとにかかわらず、ゆら帝は100年後もその色を保っているはずだ。
色を保てるバンドなんて、昨今それほど多くない。
あまりにも多くの音楽が、産生されては飽きられ、時代とともに消えていく。
彼らが再結成しようものなら、私は大きな失望を抱くだろう。最終回の再放送は無い。ゆら帝はすでに完成してしまった。完成とはまた、終わりを意味するのだ。
もちろん、生で見てみたかったという気持ちはある。こればかりは生まれた時代を恨むしか無い。
ゆら帝が完璧なロックを生み出したことと、私たちが生きている間に彼らの音楽へたどり着けるかということは、全くの別問題だ。
私自身、番組のことを思い出さなければ、絶対にゆら帝を聞こうとは思わなかっただろう。運良く名前を目にしたとしても、有象無象のバンドと判断し、スルーしてしまうと思う。
だらだら書きすぎたせいで主旨がぶれたような気がするので、もう一度。
『昆虫ロック』(https://www.youtube.com/watch?v=MX2W1kNiOcc)も『夜行性の生き物3匹』(https://www.youtube.com/watch?v=n_dk8ChdCA8)も『空洞です』(https://www.youtube.com/watch?v=mKUhq7SYouA)も『グレープフルーツちょうだい』(https://www.youtube.com/watch?v=SaP6Ui93iUM)も最高だぞ!!!
私は彼らに救われた。才能も取り柄もない私が、ちょっとでも頑張ってみようと思えたのは、ゆら帝のおかげだ。
親から暴力を振るわれたり、好きな人が死んだり、正直散々な人生だ。
もしこの記事が奇跡的にバズって、世の中にゆら帝ファンが増えてくれたら、頭ひねって書いた時間も無駄じゃなかったんだなって思える。
その同じ展開を、自分のハマってるジャンルの推しカプにもさせたいと思いました。(これは三次創作にあたるのかと思われます)
って聞かれました。
ネタ被りはいいだろうけど自分なりに掘り下げて描きなよ、パクリはいかんよ。
『描き手に、ハマってもないジャンル〇〇のA×Bで同じ展開の漫画を描いてって依頼する訳じゃないから、いいじゃん』
『この展開で見たいんだよ。うちの沼のこの2人ので見たい』
って返ってきて……。
(´・_・`) だめだろ…!となった……
というか、…わからなくなった……仮に同じ展開の漫画描いたとして、自分で見てニヤニヤするだけなら、いいんだろうけど、絶対SNS載せると思うし………(´・_・`)
吐き出し失礼しました