はてなキーワード: 技量とは
昨日、https://anond.hatelabo.jp/20201003195734 という記事を書いた増田です。「卍」という言葉以外を使わないことを除けば、似たような人物だと思います。お疲れさまでした。
けっこう for 文が書けない人物(卍)のことに対して批判的な方がいらっしゃりますが、私はよくわかります。自称「天才」というやつは、こっちからすると「これだけ自信あるのだから根拠あるだろ」と思うのですよ。それで、ぼちぼち結果出してたりすると、疑うということすらしようとする機会がないのです。マジで洗脳状態にあるので、上にいるやつが for を書けないなんて思いつかないんすよ。「変じゃね?」みたいな感触はあっても、何故か気が付かない。これはスキルの有無は関係ないのです。
こういうのを見破るのは困難です。見破った人員はそこにいないからです。辞めるか、辞めさせられるからです。上もなまじ問題になっていないので、見分けが付きません。だって経営陣にも彼の能力を判断する技量がないから、クビにする理由をつけられません。というわけで、転職できる人は逃げましょう。
じゃあ、どうやって見破るかといえば「コード」をみないといけない。じゃあ、そいつのコードが見れる機会ってなかなかないのよ。だって見せると無能なのバレるから、見えるとこに自分のコードを置かないのよ。みれないから、無能だと判定できないのよね。有能でないことは、無能だとはいえないからさ。見えないことは、存在しないことではないのだから。仕方がないのです。
俺も気がついたら、手遅れだったよ。おかしいと確信したら、振り返れば変なことばっかだったもん。でもさ、染まっているときはわかんないものなんです。これはそういうものなんです。諦めましょう。そして、次に行きましょう。
元増田へ。仕返ししたいなら、転職サイトに「そいつが自覚できない」内容で「まわりはおかしいと確実に気がつける」文章を書いてみたらどうでしょうか?うまくハマれば、怒涛のごとく転職者が出ておもしろいと思うよ。やったことないので、しらんけどさ。
消えるというか、アーケードの超難度を前提にした電子音楽みたいな一部のトラックは音楽ジャンル的な流行り廃りがあるかもしれん。だが音楽は人類がずっと親しんできた普遍的な娯楽であり、感情を揺さぶるものであり、それをアクションと結びつけて体感的な遊戯へと昇華させるという設計は不朽と言っていいだろう。つまり音楽という長い文化とビデオゲームという文化が結びついたが最後、ビデオゲーム文化自体が消滅しない限りはもっともしぶとく残るゲームジャンルの一つが音ゲーであると推測できる。将来ゲームシステムの変遷はあるだろうが、音楽つまり音やリズムに主眼を置いた遊戯である時点で非常に強力な普遍性を帯びているように思えてならない。
そして機械的に完全なプレイができることは、人間がプレイしたときの楽しさとは関係がない。音ゲーの楽しさは、完璧にプレイする機械の存在により毀損される類のものではない。逆に言えば、マクロによる自動操作プログラムを作る技量がある者でも、(ソシャゲ風の周回プレイを強いられる音ゲーでない限り)自動操作しようとは思わないし、他者も自動操作を羨んだりはしないわけだ。自分で操作すること自体に楽しみの本質があるから。
音ゲーの楽しさはいくつかの要因によって成る。無意識的に行われるパターン認識、周辺視やリズム感によってあたりをつけてて「こう弾けばいいだろう」と推測したパターンがぴったり合った時の快感(初見時に多い)。脳の処理に運指が追いつくようになり、難所を抜けられるようになった時の、いわゆる「逆上がりできた」のようなスポーツ的達成感。繰り返しプレイすることで「身体が覚える」感覚と、それに伴って精度が向上しスコアに反映されていく喜び、それがフルコンボやオールパーフェクト等のトロフィーとして残る快感。そして最終的には、最初から最後まで失敗にめげず、あるいはノーミスで来ていることに怯まずにプレイしきる精神鍛錬の要素が入ってくる。
そういった上達の過程を楽しむことが音ゲーの遊びとしての本質なのだ。その性質上、下手な人の方が得られる快感の総量が大きく、ある程度音ゲー全般で通用するスキルを得てしまった人に対しては高難度にしていくしか快感領域の伸び代を確保する術がない。そうなると、ノーツを詰め込めるタイプの楽曲は似た傾向になりがちだというのは確かにあり、問題視するのも分からなくないが、あくまでゲームなので、楽しいと思える範囲まで遊べばいいだけだと個人的には思う。それ以外に一点憂慮するとすれば、音ゲーというのは前述のように非常にパラレルで複合的なリアルタイム認知を数分間に渡り集中的に必要とするため、脳にそれを苦手とする性質がある人にとっては非常に取り組みにくくて楽しさを感じる領域に至りづらい問題があるかもしれない。音ゲーは数あるゲームジャンルの中でもスポーツ寄りだ。競争要素が乏しいのでe-スポーツ分野には入らないだろうが、運動神経を含めた感覚的な操作が求められる点で、人を選ぶ部分があり、特定タイトルの人気や流行にあてられて致命的に向いてない人がプレイをし続けることになると怨嗟を生みかねない部分もあるかもしれない。とはいえ、どのゲームジャンルにおいても向き不向きはあるもので、ゲーム自体の問題というよりは個人の取捨選択スキルの問題だろう。
もう一つ、音ゲーと同じような特徴をもつゲームジャンルがある。それはレースゲームだ。他プレイヤーやNPCの車による物理干渉という不確定要素を排するならば、レースゲームというのは非常に音ゲーに似た「機械的に最善がトレース可能な遊戯」だ。最適なライン取り、アクセルワークというのは厳に存在する。リアルなゲームだと路面状況の変化やタイヤの摩耗などの要因もあるとはいえ、最速のAIは容易に作れてしまう。音ゲーと違う部分は、常に一定でプレイ結果と無干渉に進行していく譜面に対して、レースはコース自体は不変ながらも進入時のブレーキング地点・進入角・速度の僅かなズレが後々のライン補正すなわちリカバリー操作に大きな差異を生む点だ。ただし、それらを寸分違わず毎回再現できるならばプレイ結果は同じになる。
そうした差異はあるとは言え、大雑把に言えば音ゲー同様にパターン認識によってあたりをつけてプレイし、反復してプレイすることで腕を上達させていく、試行錯誤の過程の快感に主眼を置いたゲームジャンルであることに違いはない。とはいえこれはタイムアタックのような早く走ることを目的としたゲームモードの話であって、カジュアルなレースにはカーチェイスなどの多様なゲームモードがある。その点は音ゲーより多様性に富んでいる。しかしそれは選択肢が増えてるというだけで、純粋に進化と捉えていいだろう。音ゲーが将来多様なゲームモードを開拓していった場合も、それはゲームジャンルにとって良いことだと思われる。
ところで、薄々感じてはいたが、元増田は本当は音ゲーに対して悲観的なのではなく、単純に、音ゲープレイヤーに嫌悪感を持っているだけではないのか。自分以外の音ゲープレイヤーに軽薄さを感じており、あるいは恨みを持つに至る出来事があったのかもしれないが、ともかく自分が人を嫌悪していることを自覚したくなくてゲーム自体に諸悪の根源を求めようとしているのではないか。イキったプレイヤーを見て「それが何になるんだ?」とマウントを取れる要素を列挙して拗ねているように見えるのは自分だけだろうか。
自分は、モノ自体に善悪はないという信念に近い価値観を持っている。誤るのは常に人間のほうであり、モノが過ちを誘導しているように見えたとしても、人間はモノに惑わされない知性を備えているべきで、備えていると考えてモノは作られ、使われるべきだと考える。さもないと、人間はどんどん白痴になっていき、モノに操られるモノ以下の存在に貶められるだろう。モノが特定の性質の人間を集めていると感じ、それを良しとしないのなら、自分が好む性質に改変したモノを作る側になるしかない。この増田に対して適用するなら、増田の思う軽薄でない音ゲーを作れるのは増田だけだと思うのだ。安易にジャンルそのものを悲観して多様であるはずのプレイヤーをまるごと切り捨てんとする夢想に耽るよりは、よっぽど現実的で建設的な考え方だと思うのだが。
この日記を読んでいる人へ。
そうだな、とりあえず最初に聞くなら『発光体』(https://www.youtube.com/watch?v=IOa-nZiIeiw)『ズックにロック』(https://www.youtube.com/watch?v=GXqZ5EXE9ho)『ゆらゆら帝国で考え中』(https://www.youtube.com/watch?v=M9CM44MohAs)らへんがおすすめ。
どの曲もそんなに長くない。ストリーミングでも聞ける。
さ、早く。
聞いた?
ほんとに聞いた?
「なんだ、増田民の提案になんて乗らねえぞ」って人にも一度は聞いてほしい。
というわけで、以降の記事は「ゆら帝を一度でも聞いてくれた人」に向けて書く。
というか、日本人の大部分が上ふたつに当てはまると思う。
私の周りの友達もみんなそうだった。
ただ、心をぐっと掴まれて、早送りボタンを押せなかった人もいるはずだ。
誰かの心にズドンと響く音楽っていうのは、諸刃の剣みたいなものだと思う。
ある人にとっての神曲が、他の人に全く響かないなんてこと、日常茶飯事だし。
もしこれを読んでいる人の中にゆら帝のファンがいたら、こんなに嬉しいことはない。割合的に厳しいと思うけど。
新参がイキってすみません。でもね、このバンドがもっともっと広まってほしい。
正確にいうと、ゆら帝を聞く星のもとに生まれた人たちが、ゆら帝を知らずに死んでいくという事態を防ぎたい。
もうね、頭の中では今たいへんなことがおこっています。
手と足と胴体がそれぞれバラバラに動き出しそうで、それを押さえつけてジッとしているだけでやっとの状態です!
再結成とか、メジャーシーンでの再評価とか、どうでもいいんだ。
届くべき人に彼らの曲が届いてほしいだけ。これは完全に自分のエゴ。生温かい目で見守ってください。
私がゆら帝の存在を知ったのは2020年夏。彼らが解散して10年が経っていた。
私だけでなく、同世代でゆら帝を知った人の大部分がそうだと思う。
外出できない夏休み、オンデマンドサイトを見漁っているうちに、奇天烈なOPが耳から離れなくなっていた。
コロナ自粛がなければ、ゆら帝には出会えなかったかもしれないということだ。人生というのは分からないものである。
私は結構ロックが好きで、メジャーからインディーズまで広く浅く聞いてきただけに、ゆら帝の曲を聞いたときは、衝撃を隠せなかった。
分類的にはサイケデリック・ロックだのオルタナティヴ・ロックだの言われているけれど、このバンドは「ゆら帝」というくくりでいいと思うくらい特殊である。
ゆら帝の魅力。
まずメロディがいい。前期の渇ききった感じも、後期のしっとりと美しい感じも、最高だ。
個々の技量も素晴らしい。特にベースが好きだ。亀川千代氏のベースラインには中毒性がある。
そして歌詞がいい。非の打ち所がない。
「もう一度頭絞ってにじみ出てきた緑の液体がぼくの全てさ バカだろ?」
「雨が降る日は何もしない 髪がベタベタするから 風が吹く日も何もしない どこか消えたくなるから」
どういう人生を送っていたら、こんなにクールな歌詞を書けるんだろうか。
昨今の音楽はメロディ重視というかなんというか、文字数合わせが目的の物足りない歌詞が目立つ(もちろん例外も存在する。サカナクションの山口一郎氏は歌詞に真摯に向き合っていると思う。私は高校生のときからサカナクションの大ファンだ。魚民諸氏はゆら帝にも興味を示すのではないかと思う)。
ライブもいい。クッサイMCも余計な演出もなく、淡々と音楽だけを届けてくれる。
生で見たことのある人は本当に羨ましい。
とまあ凡庸な言葉で色々述べてきたが、はっきりいってゆら帝の魅力はこんなもんじゃない。
言葉では言い表せない。
サカナクションのライブの理想形はゆら帝らしい。なるほど、と腑に落ちた。
サカナクションのライブは、それ自体芸術作品と言っても差し支えないほど完成度が高い。演奏レベルもCD音源レベルだ。彼らは安っぽい感動でも変な共感でもなく、「音楽」という体験を私たちに提供してくれる。
ゲスの極み乙女。の川谷絵音氏も、『タコ物語』(https://www.youtube.com/watch?v=qbkxCVNsFsY)に影響を受けたとか。この曲はMV含めてとても狂気的だ。ぜひ聞いてほしい。
ゆら帝という存在は、ロック界の『AKIRA』のようなものなのかもしれない。
凡庸な感性しか持ち合わせていない私でも、心を揺さぶられるのだから、大したものだ。
きっと、人間の奥底にある普遍的な何かに響く音楽なのだと思う。
私が心配するのとしないのとにかかわらず、ゆら帝は100年後もその色を保っているはずだ。
色を保てるバンドなんて、昨今それほど多くない。
あまりにも多くの音楽が、産生されては飽きられ、時代とともに消えていく。
彼らが再結成しようものなら、私は大きな失望を抱くだろう。最終回の再放送は無い。ゆら帝はすでに完成してしまった。完成とはまた、終わりを意味するのだ。
もちろん、生で見てみたかったという気持ちはある。こればかりは生まれた時代を恨むしか無い。
ゆら帝が完璧なロックを生み出したことと、私たちが生きている間に彼らの音楽へたどり着けるかということは、全くの別問題だ。
私自身、番組のことを思い出さなければ、絶対にゆら帝を聞こうとは思わなかっただろう。運良く名前を目にしたとしても、有象無象のバンドと判断し、スルーしてしまうと思う。
だらだら書きすぎたせいで主旨がぶれたような気がするので、もう一度。
『昆虫ロック』(https://www.youtube.com/watch?v=MX2W1kNiOcc)も『夜行性の生き物3匹』(https://www.youtube.com/watch?v=n_dk8ChdCA8)も『空洞です』(https://www.youtube.com/watch?v=mKUhq7SYouA)も『グレープフルーツちょうだい』(https://www.youtube.com/watch?v=SaP6Ui93iUM)も最高だぞ!!!
私は彼らに救われた。才能も取り柄もない私が、ちょっとでも頑張ってみようと思えたのは、ゆら帝のおかげだ。
親から暴力を振るわれたり、好きな人が死んだり、正直散々な人生だ。
もしこの記事が奇跡的にバズって、世の中にゆら帝ファンが増えてくれたら、頭ひねって書いた時間も無駄じゃなかったんだなって思える。
その同じ展開を、自分のハマってるジャンルの推しカプにもさせたいと思いました。(これは三次創作にあたるのかと思われます)
って聞かれました。
ネタ被りはいいだろうけど自分なりに掘り下げて描きなよ、パクリはいかんよ。
『描き手に、ハマってもないジャンル〇〇のA×Bで同じ展開の漫画を描いてって依頼する訳じゃないから、いいじゃん』
『この展開で見たいんだよ。うちの沼のこの2人ので見たい』
って返ってきて……。
(´・_・`) だめだろ…!となった……
というか、…わからなくなった……仮に同じ展開の漫画描いたとして、自分で見てニヤニヤするだけなら、いいんだろうけど、絶対SNS載せると思うし………(´・_・`)
吐き出し失礼しました
最近おけけパワー中島とかって話題が流行ってて、承認欲求が満たされないオタクの悲しい叫びが良く見られた。
逆に神が必要以上にヨイショされすぎて悩んでいる増田も見かけた。
でも少ない技量で存在を神に近づける事はできるので、その方法を今から教える。
そのためには、まずSNSで以下のようにふるまう。
「他の作品、カップリング界隈なら他のカップリング についてなるべく触れない。」
「極力日常ツイートも減らす。生身の人間ではなく、偶像であるというように見せかける。」
「フォロワーに分け隔てなく接する。」
「すかさず落ち込んでいる人間が居たら慰め、作品を発表した人間がいたら褒める。」
「綺麗な事しかいわない。」
そうだね、それこそ神の持つ苦悩そのものだ。
ただ逆に言えばそれさえ守れば、ある程度神になれるんだよ。
何かを作るのが下手でも、ひたすら感想を言い続けたり、オフ会の主催をしたりすればいい。
すると勝手に持ち上げられて界隈を掌握できるよ。
神になれないとか、神に近づけなくて困ってる人、こういう風にちゃんとセルフプロデュースしてる?してないでしょ。
あ、神として持ち上げられて困ってる人は逆にいきなり「安倍死ね」みたいなこと言ったらいいよ。
是非お試しあれ。
どうしても我慢できなかったので書いていいか!?どうやったら記事への反応にできるかもわからんから調べたけど失敗してる可能性高いけど書いていいか!?!?勝手に書きます
増田(というのが多分書いた人を指すので合ってるはず…違ったらごめん)ね、追記でね、「対岸の火事ですか?(笑)」って言ったじゃん。
なんで笑ってるん…他の界隈が火事になってるかは不明だけど増田は火事真っ最中な訳じゃん…笑ってる場合ではないじゃん…?
増田がウワ!私んとこ燃えとる!と思ってるのが傍から見たらただ増田が村の焚き火の上に立って「やばい!燃えとる!」って叫んでるのかもしれんし、本当に村全焼みたいなのかもしれんけど、増田がアッッツ!って苦しんでるのは事実じゃん?笑ってる場合ではないじゃん?火傷の重症度今も上がってる訳じゃん…?
で、増田の火傷がこれ以上進まないためにはどうしたらいいのかなってあれからずっと考えてて。実際これが最適解!とは言い切れないから話半分で流し読みしてくれたら嬉しいな~ぐらいの感覚で書いてます。
①増田が感想を書いて書き手達が「そういやイチャラブもかくか!」の気持ちにさせる
③増田が暫くジャンルに身を置くのを休止する(一旦、永久は問わず)
この三つを考えました。
①は個人的に一番いいんじゃないかなと思ってる。その次が僅差で②かな。③は最終手段…。
増田の話的に、界隈の作家さんは感想に良くも悪くも影響されやすいのだろうと思う。カプの主体が変わるってすごいことだ。その人の作品テーマの方向性が変わるってことだから。感想屋は本当にすごい。そこまでの文章を書く感想屋も是非創作をしてほしいしなんなら感想そのものが作品に近しいものになりつつあるんだろうなとも思う。
その感想に媚びずにいい解釈だな、で書いてる人は増田が感想を書いても動かないかもしれない。でも、感想に媚びてる人は引っ張られやすいんじゃないかな…。元からイチャラブが嫌い!という人たちじゃなかったなら、種はあるはずなんだよね。今はスズランがブームだな~でもバラも綺麗だったよな~の記憶を呼び起こすきっかけを作れたら一番いいんじゃないかな…。
私は読みと書きどっちもするんだけど、感想貰えると本当嬉しいよ。勿論感想屋みたいなものを貰えたら転げ回るくらい嬉しいかもしれないけど、好き、の二文字だけでもにこにこしちゃうよ。文中にあるように、実際喜んでくれる人もいたみたいだし。あと、あんまり言葉が上手じゃなくても一生懸命書いた文章は伝わるよ。それに解釈の余地がある文章なら書き手の意図しなかった解釈は斬新な切り口のひとつで、必ずしもNGじゃないんじゃないかなって思うよ…!
②は①とどっちがいいかな…と天秤に乗せてめちゃくちゃ迷った。だって増田感想送れないよこわいよ!って言ってるのにウルセ~~~感想を書くんだよ!って殴りつけるのって多分めちゃくちゃ増田しんどいじゃん。だから出来ねえっつってんだろ話ちゃんと読んだかテメー???になるじゃん。ごめんな。多分読んだつもり。多分。
でも書いた作品って、「イチャラブ書きました!良さを思い出せ!オラッ!」って人に送り付けることは基本しない(と私は思う。やられたら嫌な人多いと思うし。私は単純なので推しカプの新作だ!ってテンション上がって読むけど)じゃん。そしたら大前提の書き手さんにイチャラブのよさを思い出してもらうための火種を目に留めてもらう、が確実ではないんだよね。だからこの順序付けにしました。
ただマイナーカプで作品の母数が少ないみたいだから、新作が目に止まる可能性は高い。ので、増田が書き手になるのもありかな、と思う。で、増田多分はこれもイラッとするかもしれない。そんなん自分でやれてりゃもうやってんだよとか、私は私のじゃなく神が書くA×Bが見てぇんだよとか。ごめん。でも、個人的に増田全然文章下手くそだとは思わないんだよね…。
少なくともここまで複雑な感情をちゃんと文字にして最後まで読ませるだけの表現力があるんだよ。特に追記の杏仁と麻婆の例えは分かりやすかった。それを見るまで二割好きならゼロよりええやんけって思っちゃったのにすとんと腑に落ちた。理解されづらいものを人に理解させるって本当難しいことで。極論だけど幸福な壺の話って、大体の人は壺=幸福って理解できないじゃん。でも身近な食事をすぐ比喩に持って来ることでパッと理解できるワードチョイスができてるわけじゃん。多分、そういう言葉の使い方は得意なんじゃないかな~と思う。
綺麗に飾り立てて耳触りのいい文章が必ず上手いわけじゃないんだよ。人にわかりやすい文章を、適切な言葉で表せる。これってすごい技量がいることで大変なことなんだよ…。そんなわけで、私は増田の書いた作品も読んでみたいです。今いるジャンルかは分からないから読めるかは分からないけど…。
③はね…増田が感想も作品も書きたくない、でもこの苦しみから逃れたい場合の最終手段かと思ってます。おそらく、イチャラブ作品が戻ってくるのは新しい火種が生まれる、もしくはブームが過ぎ去るまで難しいと思う。だから待つ姿勢を取りたいならその界隈からちょっと離れておやすみするのがいいかなって思います。他の人が新しくきっかけを作ってくれるのを待つ手もあるけれど、更新頻度が上がったのならそのきっかけが来るのと友人前提の新作が上がるのは後者の方が早いかもしれないしね…。
めちゃくちゃ上から目線の文章だし長くなっちゃってごめん。本当そこは申し訳ないと思ってる。今後増田が創作を楽しめたらいいなと思ってます。
絵。絵というやつは0.1秒もあれば「上手い・下手という技量」「かわいい・かっこいいなどの快楽情報」がスッと入ってくる。
勿論頭を使って絵を見ようとすれば「光の表現に白じゃなくて水色を使うのかセンスあるな」「三角構図を上手く活用している」「パースが正確だ」などと見ることが出来ると思うが、
漫画。漫画というやつは絵の要素にプラスして、「面白いなどの快楽情報」がスッと入ってくる。
勿論頭を使って漫画を読もうとすれば、「コマ割りの構成が単調じゃなくて読みやすい」「このセリフと構図がマッチしている」「タチキリの使い方が上手い」などと見ることが出来ると思うが、
ほかに、同人の世界では最近よく音楽や動画という技法も用いられるようになった。
音楽。ボカロをはじめとした自作楽曲、BGMなど関連曲のアレンジ、最近はよく「人力」と呼ばれる技術が同人表現として用いられるようになった。
動画。これは音MADや手書き動画という古典から、MMDなど綺麗な3Dモデルが踊るようなものまでいろいろとある。
著作権的なことはここでは触れないが、このようなオーディオビジュアルな同人表現も昨今珍しくはない。
でも、ここでもやはり大抵の情報の受け手は難しい事を考えていない。
「変わったコード進行を活用できてるな」とか「このモデリングのポリゴン数凄い!」とかじゃなくて、大抵は「エモい」とか「うまい」とか「ここすき」ぐらいしか言えない。
このように数ある同人表現の中でも、最高峰に知能を活用した表現。それが小説である。
まず書き手受け手の両方にある程度の語彙力・読解力・想像力が最低限必要とされる時点で、小説は難しい。
静止画やオーディオビジュアルな表現の場合は、ただ出てきたものを食べれば良いだけなので、それほど咀嚼する必要はない。
知識はあったらあっただけ深く理解できるようになるが、ないからと言って拒絶されるようなことはない。
漫画こそ多少文法は理解できるべきだが、「読解したものを頭で想像する」というスキルは要求されない。
にも拘わらず、同人文字書きの大半は下記のような要求を読者に対して行いがちだ。
・気軽に読んでもらうこと
・早く読んでもらうこと
・大勢に読んでもらうこと
・誤読せずに読んでもらうこと
・読んでもらったうえで、正当に評価してもらうこと
こんなんムリに決まっとるやろ。小説ってそういうものじゃない。実は高い教養と知能のある人間の、高い教養と知能のある人間による、高貴な遊びなのだ。
それを理解せず、小説の特性にそぐわないものを要求するのはちゃんちゃらおかしいのだ。
絵師に対するコンプレックスを抱える者も多いが、絵と同じ性質の評価が得られるわけがない。ほしいのなら、絵を描くべきだ。
というと大体口を揃えてこう言うのだ。
「絵の才能がない」
アホか。絵の練習してないだろ。神絵師と言われている人だって幼稚園の頃はオレンジのクレヨンで描いたグチャグチャをママだって言い張ってたんだぞ。
そもそも経験上、”絵の才能がないから字を書いてる人”の小説が上手かった試しなどない。
「この人すっげえ同人小説書くな……感動した……」という人はみな相応に、”小説を書くのが上手い人”とか”小説が好きな人”なのだ。日々表現を磨き、文学に精通している。
日本語で文章を書くだけなら、識字率ほぼ100%のこの国では容易である。
だから「絵やオーディオビジュアルの才能がなかった人間」が「文字書き」という肩書きでそこに所属しようとしている。そんな奴が多すぎる。
だが、そういう人間は文字書きの冷遇を嘆く前に絵の練習をするべきではないだろうか。
そうじゃないよ
割と直に言ってしまうんで、誹謗中傷にならないようには配慮してますが、理屈を優先させる傾向が自分にはあります。
答えのない問題に、答えようとすると、派閥が発生するというのは社会問題一般で普通にあるわけです。
私はそこまで八方美人にはなれないし、元々も性格がこうですから、限界はやっぱりあるんです。
結論が大事な問題であればあるほど、嫌われる傾向は強くなるわけです。
そういう具合なんですよ。
僕の元増田は世間を批判しているのではなくって、そんなもんなんだよと言っているだけなんですよ。
失敗ですか? そんなの散々してきてますよ。
でも無理なものは無理なんです。
何とかつじつま合わせをしているだけです。
なんかさ
日々ぐあいわるくなっていって
そりゃそうだろうとしかいいようがない。
外食の話もあったがたとえば、ITオフィスの街があって、そのオフィス需要以上には外食産業ができたってともだおれ。という、このまちならどのぐらいの外食産業が生きていけるっていうのは
都市計画の話で、路面店で飲食がどのぐらい可能な店があるかでだいたいわじかる。
同じようにオフィスの数がわかれば、スーツの数から何からわかる
すくなくとも機械学習とかに使う最低限の技術をまなぶだけでもその程度は出てくるような
基礎知識だけから行って、数字がおかしいんだから、そりゃ潰れるだろうとしかいいようがない
だけど
れーなうーん
れーなうーん れーなうーん などのCMをうってきたレナウンという産業のブランド価値がなくなってるわけじゃない。
そういうところまできちんと踏み込んでいるどこまでかくかというのが各社の技量だが