元々物心がついた時から3次元にハマっていたが後に2次元の沼に落ちた。
2次元オタクになってから絵を描くようになり、今思えばとんでもなく下手くそな絵でも上手く描けたと喜んだ。謎の自信を持ち、人に褒められたいという気持ちが沸いてきていた。
暫くして、pixivというサイトの存在を知った。自分よりも上手い人が数えきれない程の素晴らしいイラストや小説などをあげていた。上手い方はTwitterをやっているらしい、ということで最初は見る専でTwitterも始めた。Twitterを見ているうちに自分も絵をあげたいと思うようになった。
Twitterで絵をあげるようになり、ただあげていても仕方がないと思って#をつけて同じジャンルの友人を探すことにした。3ヶ月後くらいには相互フォロワーも増え絵をあげるといくつか「いいね」を貰えるようになった。
これは典型的だろうが沢山の「いいね」が欲しくなってしまったのだ。本当は思っていないかも知れないが、「上手いですね!」などのリプを貰えたときには「肯定してくれた、認めてくれた」と思ってしまった。自分が思っているほど絵が上手くないのに、その「肯定」が欲しくなってしまった。人に褒められて嫌な気分になることはあまりないし、Twitterは相手の顔が見えない。相手の評価が相手の本音かどうかは、こちらの受け取り次第で変えられるのだ。
「いいね」を求めて絵を描いた結果、以前よりも「いいね」が貰えなくなった。
「肯定」が欲しくてやっていたTwitterだったがあまり貰えなくなってしまったので、1度絵を描くことを止めて文を書くことにした。そこそこ文は考えられる方だと思い込んでいたが文才も無かった。
知らないうちに、自分のフォロワーが楽しそうにジャンルの話をして絵をあげているのを見るのが辛くなっていた。久々にペンを持つと何も描けなくなっていた。最終的にはジャンルから、2次元から離れていた。
こんな不純な気持ちでTwitterやっていてはいけないと思い、絵をあげていたTwitterの垢を消した。それからは気が軽くなって3次元を以前よりも追うようにした。
(余談だが2次元のイラスト垢と平行して3次元のイラスト垢も使っていたことがあったがノリが合わず3次元垢を消した過去がある。)
Twitterをやって分かったことがある。失礼かも知れないがフォロワーが多かったり、人気のジャンルならシビアに画力が問われないということだ。客観的に見て自分の方が絵が上手くてもフォロワーがかなり多ければ反応が多い。対して、自分より絵が上手くても人目につくことが少なければ当然反応が少ない。知るのが遅すぎたが絵は反応が全てではない。
ここで話はかなり遡る。運動も勉強も同級生に敵いそうになかったので褒められようと思って絵を描いた。上手くは無くても周りよりもマシだったのでちょっとだけ両親に褒められた。幼い頃は両親に褒められることが何よりも嬉しかった。自分の中では「褒められる=生きていることを認められているような気がする」なのだろう。
1人でもいいから誰かに褒めて貰いたい、その思いを捨てきれず今も絵を描いている。この気持ちは「不純だ」と言われるのだろうか。
🔥🐉💩
認められたいという気持ちの何が悪いのかな。その結果、良好な人間関係が築けたり絵や文章の技量が上がったらいいんじゃない
「褒めてもらえるから」勉強を頑張ってそれで付いていけない学校に入ってしまってメンタルが壊れた人っていうのは結構居るらしい 何にも意識しないで作った物が予想外に評価されて...