はてなキーワード: 感情移入とは
だって、そのおっさんも普通に、自己の選択・決断で、対価を貰ってその仕事に就いてるわけでしょ?
ありがとう~って言う人ってさ、要はキツくて底辺で安い給料の仕事をだれかに押しつけているんだ、という自覚があるわけだよね?
奴隷さんが底辺の仕事をしてくれているおかげで、優雅に暮らせてるわ~と認識してないと、ありがとうとか言わないよね。
配達員が大変だ~って言ったら、感情移入しまくりで再配達させないようにします!とか言い出したりするんでしょ笑
配達員と企業の契約の問題なのに、罪悪感が湧き出ちゃったんだろうね笑
え、お客様は神様ってアホなの?笑単純に対価として契約してる+一人の個人の選択として尊重してるだけなんだが?
ありがとう~って言う方こそ、
生活を人質に取られて底辺の仕事をイヤイヤせざるを得ない可哀想な奴隷さん俺の優雅な生活のためにありがとう~とみなしてる時点で、
炎上狙いとか言ってるやつは自分の偏見や差別にきちんと向き合えないクズなんだろうなぁ。
育ちの問題とか言ってるバカいるけどさ、むしろ底辺の方こそ底辺に同情することを強いるよね。
ちゃんと育ったら底辺は自己選択の結果であり自己責任だとわかるから、ありがとう~とか言ったりしないわ。
ありがとうという感情を対価として頑張れ頑張れと追い込むクズよりは、チップ制度をあげるのは妥当だわ。
○億ってあのくっそつまらないオリジナリティの欠片もないザコのくせにクリエイター気取ってるイタい青二才的な人でしょ?一緒にされてもね~。
底辺に同情するのは底辺というのはわかるw底辺に同情する偏差値65以上の大学出身者ってめったにいないでしょw
対等・上下関係に至っては個別の事案を抽象度高めて一般化して当てはまらない~とかわめいてるだけのアホだな~w
配達員は自己判断で対価をもらってやってる仕事なのに、無報酬の善意と比較しちゃうとか、
それこそ配達員は生活を人質に取られてこんな仕事を我慢してやってるんだ~とみなしてる証拠だよね。
とりあえずありがとうで頑張れる!頑張れた!という人たちは、やりがい労働・感情労働をおしつける社会に見事に飲み込まれてる。ブラック労働を強化する屑だという自覚を持とう。
ちょっと注目集めてて自分が気に食わないかつ反論できない文章は炎上狙いだと思考停止するのが流行りなんですかね~?笑
bfms350 釣られるのも馬鹿馬鹿しい。こんなゴミみたいな記事にブコメするのやめようよ。http://b.hatena.ne.jp/entry/327571442/comment/bfms350
演説してる側に感情移入して上から目線な気分が気持ちいいとか、指導力ある存在に酔ってるとか、そういうのなのかな。
それとも偉大な人の演説に聴き入って「うおおお!」とか一体感を感じるの?
アニメにはやたら演説が出てくるし、演説気分で長文書いたり、普段の会話でも突然演説の一部分の台詞みたいなの喋り出して「うおおお!」ってなってるし。
日本人って演説上手い人ほとんどいないよね?なのに何でアニメだとやたら演説多いの?
演説上手い人多い海外の、たとえば洋画でも演説シーンってあんまり無いよね。演説下手な国が演説シーン多くて。演説上手い国が演説シーン多くない。この比率おかしくない?
どうして日本のアニメは演説好きなのよ。アニメだけじゃないか。実写もか。
なんか、そういう演説シーン見てるとちょっとゾワゾワするんだけど。だ、だせぇって。
演説するのって、かっこいい人ばっかりだし。かっこいいというか、かっこいいキャラ付けされているキャラ。
で、演説の内容はやっぱり上手くない。そりゃそうだよね、演説が下手な国なんだし。自分の理想を高らかに宣言してるのばっかりで。あとなんか、すげぇどうでもいい自分の事情を語り始めたりとか。おまえは質問コーナーで延々と自分語りするジジイかよって思うんだよね。演じてる声優さんは大変だよ。演説っぽくない台本を演説っぽく演じなきゃいけないんだから。
たぶん一番有名な、ガンダムの演説もさ、あれも酷い演説だよ。あれを演説のひな形にしちゃダメだよね。
まぁ、「創作物における演説は演説として優れているか否か」っていうのは本題じゃないんだけど。
なんでみんな演説好きなの?
「なぜいきなりそうなる?」という風に見ている側を置いてけぼりにするような行動をとったり感情を見せたりするものだと思うんだよなぁ。
心情を言語化できるレベルのわかりやすい行動を取るキャラしか許容できない、は正しいのかね。
「心情を言語化不可能のわかりにくい人間」には興味を持たないのがあたりまえ、
つまらない、見なくていい、存在しなくていい、という態度や、それを追認するのは悪でしょう。
説明不可能な行動を取りうるのが人間であり、そのような現実が存在する、というスタンスは、純文学にはある。カフカとかもそうだね。
うまくキャラを作ったり伏線を入れて説得力があればOKだという思想も、
結局はご都合主義をキャラのバックグラウンドにまで拡張しただけにすぎないのでは、という批判もできるね。
話は逸れたけど、結局元増田の言う「感情移入できなかった」というのは、「キャラに魅力を感じられなかった」くらいの意味だろうと思うんだが、見ている側を引き込むようなキャラ作りや人物描写というのは、ブコメでバカにされるほど陳腐ではないと思うんだよな。評価軸に持ってくるのはアレだけど。
キャラ作りや人物描写の重要性を、評価軸のひとつとして使っていい場合もあるとは私は思うよ。
バカにされるほどではない。
ただ、それだけで作品として正しいか裁こうとするのは間違いだろう。
PV稼ぎライター、または大塚英志やシナリオライティングを学んだ人が
○○をしてないからこの作品はダメ、と安易に決めるのをよく見る。
たとえば、「序盤でキャラの紹介が詳しくなされないと感情移入できない、だからダメ」とか。
それから、パプリカの原作を読んだことがあるんだけど、フロイトの無意識が基盤の作品だ。
映画も、無意識のカオス性や系譜であるシュールレアリスムのような表現が多いと予想している。
「没入すること」は「感情移入」だが「「劇中で一貫性だったり背景を上手く描写させていて、見ている側に「このキャラクターはどうなるのだろう」と興味を持たせる」」はやはり別の概念なのでは。
興味を持たせるようなキャラ作りができたとしても、すべての人にフックをかけられるわけじゃないでしょ。
感情移入という結果に至る原因のひとつにすぎないのでは、という。
共感という言葉に対してはhttps://kotobank.jp/word/%E5%85%B1%E6%84%9F-477908#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29
共感はまず他人の感情体験が前提であるのに対して、感情移入はまず自分の現在における感情体験が前提になっているなど、両者を区別して定義づけようとしているものの、実際には混同して用いられることも多い。
という点では正しいけど
ある人とともに悲しむためには、自分もその人と同じような悲しい体験をしていることが必要ともいえる。親を失った人の悲しみは、自分も親を失って悲しい体験をしたという人によって初めて共感できるというように、ある感情への共感は、その感情についての先行体験が必要条件ということができる。
という点で間違ってるよね。
混同して使われる可能性が高いのであれば、やはり「キャラに読者が引っ張られる」的な概念が必要だろうね。
この表現も引っ張られるについての知識がないと誤解を招きそうなので。
例として挙げられてるキャラでも感情移入しにくいだけであって、感情移入する人はいるんじゃないの。
「人物描写がめちゃくちゃでキャラもブレブレで行動原理が理解できないし矛盾があるみたいなキャラクター」
だけど人間としてはまぁいるよね、という形で理解・没入できる可能性は十分にある。
むしろこういうキャラクターの存在に否定的ということが元増田の主張なのだとしたら、
おまえの言ってるのは「感情移入」ではなく、そのまんま「読者にキャラへの興味をもたせる」っていうだけじゃないの。
「魅力がある」とかその程度のことではだめなら、「展開で読者を引っ張る」(=展開のおもしろさで次のページを、この先を読ませたいと思わせる)という言葉があるので「キャラで読者を引っ張る」とでも言えばいいだろうか。
貧乏なXくんに感情移入できる金持ちのAさんもいれば同じく金持ちでも感情移入できないBさんがいる、というように個々人の感想としてみなされてるだけじゃないの。
ついでに言うとそれ以外の批評が雑すぎて信用はしていない。
たとえば増田の言うご都合主義的みたいな表現をする批判があまり好きではない。
観てきました。
「君の名はの次は、この世界の片隅にがキテる」という噂を聞いてから、はや数ヶ月。
まだやっててよかったユーロスペース。
結構重い話だということは聞いていたのですが、広島舞台の戦時モノだとはつい知らず…
だんだん展開の悪い方向が見えてきてヒヤヒヤして観てました。
この映画の素敵なところは、
『戦争ってこんなに悲惨なんだよ。そんな"犠牲"の上に成り立ってる現代を大切にしようよ!!』
という押しつけがましさが全くないところ。
悲惨な部分は一部分で、大部分は主人公すずの日常を幼少期から丁寧に描いてある。
だからこそ積み上がっていたものが崩れる悲惨さがあるし、日常に感情移入している分、こちらまで痛々しく感じる。
かといって絶望して終わりでもなく、楽しいことも温かみもある日々が続いていく。
そしてボクらの現代は、そんな"日常"の先にあるのだと、決して"犠牲"一色の上にあるわけではないのだと気付かせてくれる。
登場人物たちに体温を感じるし、同じ人間として共感出来るから、戦争の記録映像の何倍もリアリティのある恐怖を、アニメーションの爆撃の中に感じました。
戦争で帰ってこなくて悲しむ対象の人もいれば、喜ぶ対象の人もいた。
終戦宣言の時にキョトンとする人もいれば、怒る人もいた。
自宅の白米の無味に落胆することもあった。
きっと本当にそうだったはずだ。
少なくとも、僕があの時代を生きていたらそうだったはずなのだ。
戦争が本当はどんなものだったのか。人間はその時どう生きていたのか。
その一端を見れた気がしました。
nekoich
ここぞという重要な局面で、感情に任せて理性的な判断が出来ず更なる事態の悪化を招いてしまう登場人物について。
たとえば敵にトドメをさせないで躊躇してしまう主人公とか(逆に生かしておくべき敵を個人的な怨恨で殺してしまったりも)、隠れてろと言われたのに仲間が心配とかで外に出てきてしまって攫われるヒロインとか。
昔はすごく嫌いだった。お前がそこで個人的な感情を優先させたせいでどんだけの人間に迷惑がかかる(かかった)と思ってるんだよとイライラした。
なのに最近、逆にそういった登場人物こそ好きになれるかもしれないと思うようになった。
自分自身が常に理性的な行動を取る登場人物に共感しにくくなってしまったというのはある。
人間舞い上がってしまうと周囲が見えなくなるし、心配になれば居てもたってもいられなくなるし、惚れ込んでしまった相手には盲目になるだろう。少なくとも自分はそうだ。そこに論理的な理由はあんまり存在しない。辛い時は辛い。
感情とは厄介なもので、時に理不尽だ。理性でねじ伏せた上で最善の行動を取ったらそれは物凄い盛り上がるが、逆に感情に振り回されて誤った選択をしても、それはそれでどうにもならないものへの無力さを感じさせられて面白い。文字通り人間そんなもんだよなとどこかで安堵し、そしてその誤った選択を取ってしまったキャラクターに共感してしまう。
逆にどんな事態でも冷静に状況を把握し、最善手を取ろうとするキャラクターには、むしろ近寄りがたさのようなものを感じるようになってしまった。登場人物全てが理性的な行動を取ることでスムーズに進んでいく物語となると、むしろ自分なんかが読んではならないのではないかというレベルで畏怖を感じる。こうありたい、ありたかったという憧れを越えて、劣等感を抱かされてしまう。
ただ単に自分が、現実のあらゆる(という訳でもないけれど)局面で感情に任せて失敗してきたから、そういったキャラクターに感情移入というか自己投影するようになったというだけの話なのだが。
だが、だからこそ個人の感情的な失敗がある程度許容される物語が好きだし、たとえその結果理不尽なバッドエンドを迎えたとしても、自分はその物語を通して癒されているという自覚がある。これからも感情的でどこか不安定な物語に出会いたいなあと、そんなことを考えている。他者が本当に他者として存在している現実ではあまり許されることではないから。
コンテンツを作るには”教養”が確実に必要になるということが、実際に”教養”のないコンテンツに触れて最近理解できた。
ここで言う教養とは、学問や文化の面だけでなく「人とはどういう生き物か」を理解することも含む。
「教養のないゲームって何?」で実際に具体例を出すと確実に何やかんや言われるのでぼかすが、とりあえず一つの例のゲームについて書く。
そのゲームはまず、他国との戦争や反乱を長年描いてきたシリーズの一つであった。しかしそのゲームは、他国と戦争をしている状況としては、あまりにもキャラクターの言動が軽すぎた。
「軽いって何?」と言うと、キャラクターが戦争を背景としたセリフを言えないのである。”戦争にもかかわらず甘っちょろいことを言ってしまうキャラ”というわけでもなく、
そのキャラの個性を押し付けんがための言動を、TPOを弁えず言わせてしまうのである。”影が薄い”という個性を伝えたいがために、そのことだけを伝えるだけのキャラクターになってしまったりね。
その個性もわかりやすくラベリングされたものが多く、”個性”と銘打つにはあまりに薄い(厨二病・ヤンデレ・地味など)。個性どころか属性の擬人化と言っても差し支えはないレベル。
あとそのゲームはセリフ運びが非常に下手だった。言い方は非常に悪くなるが、対人経験の薄い気持ち悪いオタクが考えたようなセリフをキャラクターが喋るのは苦痛でしかなかった。
公式側が二次創作のノリをそのままするような感じで、目も当てられなかった。
二つに、「作者以上に頭のいいキャラは生まれない」という金言が示すように、”頭のいいキャラ”が実際ゲームをプレイしてる側からするとあんまり頭が良くなく、説得力に欠けていた。
そのキャラはまぁいわゆる軍師という設定ではあったが、やっていることは力押しの強硬のみである。ゲームという都合上、どうしても戦いの舞台は整えなければならないが、
それにしたってもっとやりようはあっただろうと思う。そしてその強硬策に関して味方のキャラクターは「流石です!!」みたいな脳みそがないような称賛の嵐である。
頭のいいキャラが頭が良くないので、当然頭の悪いキャラはもっと頭が悪くなるので、キャラクターに対する理解・共感・感情移入・掘り下げそのすべてが困難になってしまっている。
アニメだと「アクションの作画が作り込まれてて凄かった」ゲームだと「レベルデザインが作り込まれてて、かつアクションも爽快感があって面白かった」など、教養がそのコンテンツの面白さを
決定づけるとは(ほぼほぼ言えるにしても)必ずしもそうだとは断言できない。しかし、それはシナリオを全く無視した場合である。シナリオ面での面白さは、登場キャラクターへの共感から
初めて生まれるといっても過言ではないと思っている。そしてその共感とは、キャラクターの背景・性格・葛藤・行動によって湧き出るものである。”教養”とは、キャラの共感を得るために必要なのである。
馬鹿に背景は考えられない。馬鹿は表面的にしか人物の性格を測れない。馬鹿は葛藤しない。馬鹿は考えと行動があべこべであり、そのことを葛藤することも当然ない。
そして一番面白くないのが、それが売れてしまったばっかりに、公式側がそのシリーズの教養が感じられないタイトル以降を前面に押し出すようになってしまったことである。
作る側も馬鹿ならと言った所だろうか。そりゃ教養のある人間だけがゲームを作ってるわけじゃないし、それしか認めないというわけではないよ。ただ、自分の好きなシリーズがそんな姿になってるのが
俺はとにかく悲しいしむかつくんだよ。かつての姿とはかけ離れすぎている、自分の愛するシリーズが、死にながらさも生きているような様を見せてくるのはしんどい。そうだね、俺が年を取ったんだ。
ついていけない人の方が少数派なんだろうな。シリーズとしての形が変わるのは最早仕方のないことだとう。しかしエフラムはそんなこと言わない。せめて、せめて過去作へのリスペクトは忘れないでくれ。
マサオが死んだ。死んだのだ。
死ぬまで彼のことをさほど意識したことはなかった。ディズニーランドに来たがってる楽しげなおっさん、ぐらいの認識で。
でも、彼が死んだ今、何か悲しくてしょうがない。なぜなんだろう。
本当に接点のない、気のいいおっさんが死んだだけなのに。彼の死に、彼の死と共に死んだものを僕は数えているのだろうか。
彼が増田に投稿するとしたらなんて書くだろう。「ただディズニーランドに行きたいだけの人生だった。」だろうか。
なんだろう。そのタイトルがどうなるかだけ考えるだけでも、涙が出てくる。いや、生き方に同情したいわけじゃない。幸せは個々人の人生にあるだろう。
けれども、何か、悔しさなのだろうか。ハンターハンターに出て来そうな独裁国家の元首の長男として生まれ、寵愛され、それゆえ外の世界をみる特権を与えられ、それゆえ最後には弟に殺されてしまう。
おじさんの笑顔に隠されたそういうストーリーがなんとも心にくる。これは漫画じゃないのに、とても漫画みたいで、それゆえ僕は知り合いでもなんでもない漫画のキャラクターに感情移入するかのように画面の向こうを眺めて悲しんでいるのだろうか。
行く気になれば僕はいつでもディズニーランドにいつでもいける。正男にはそれができなかった。
海外に行く気になれば、僕は命を狙われることなくいつでもいける。正男にはそれができなかった。
僕はたかが平凡な一日本国民であって、彼は国家権力の長子であったにもかかわらず。
せめて死後に天国というものがあれば、彼にはディズニーランドで目一杯遊んでもらいたい。
そして叶うことなら、どうだったんだ、とひとつ会話を交わしてみたい。
実は死んでなかったらいいのにな。正男。
感想は増田に投稿済みだし、最終考察も投稿をバリバリ編集中なのだけど、
先ほど、ずっと一緒に推理に付き合ってくれていた友人が、《原作の真相》に1つの答えを出してくれた。
私はこの解釈を読んで、江戸川乱歩まじすげぇ人なんだな、と思ったし、
「舞台の感想を聞いて原作を読み返した」という超間接的な位置に居る友人にまで影響を与えたこの舞台まじやべぇな、と思った。
この話は、やれBLだホモだと騒がれているが、こんなにも『人と人との愛の深い部分について書かれている』ことに萌えている感想は、まだ一度も見たことがない。
腐女子の皆さま、乱歩パイセンの名作は、想像を絶する至高のBL小説だったよ……(震え声)
観劇してから120時間。神経衰弱するほど友人と推理を重ねてきて、友人が辿り着いたこの結末に私は本当に感動したので、記念に最後にもう一度観劇しようと決めたのだけど、観劇前に今までのことを日記として残したいと思う。
(友人との推理に使用した部分以外は原作未読をまだ貫いているし、私の主観での希望的観測は友人とは少し違うのだけど、それは最終考察とあわせて観劇後にまとめたい。)
どうせ同じ高いお金を支払って観劇するのなら、楽しめた方が絶対にいい。
私はもう「視点を変えれば、世界が変わる」=「つまんなかったものが最高に面白くなる」という瞬間を短くない観劇人生で知っていたので、本作初見では何か視点を歪められてるような印象にすごくもやもやした。
今思い返すと、色々なテクニック…いや、ヒントが散りばめられていた。
作中の探偵二人が言う「常識ではトリックを見落としてしまう、視点を変えるんだ」というようなセリフが印象に残っていたり(大事なことだから2回言いましたの法則。一度だけならスルーしていた)。
ストーリーテラーがやけに観客の目をガン見してくる→目を見るというのは語りかけてくるということで。しかしその眼差しに乗るメッセージは無く、視点誘導にも思えるのに最終的にストーリーテラーを非難するような印象で終わる。この矛盾。
原作では『簑浦』という名前の主人公が『箕浦』であったり。同一人物に別の名前が与えられ『一人二役』であったり。
いかにも裏がある風で、どうしてもひっかけられてるような感覚があった。
「結局胸糞悪いだけだった」作品も結構観てきたけど、それらは完全に私との解釈違い…美意識というよりもっと恣意的な『美学』の違いで、どうにも受け入れがたいという点からくる胸糞悪さだった。
でも本作では諸戸に感情移入できてしまったし、そもそも異形とは何かみたいな問題提起の要素もあり、そんな乱歩の原作が『美学の押し付け』には絶対にならないという妙な確信があって。私は謎解きに踏み出していた。
推理小説は読まないけど、リアル脱出ゲームとかは好きなんです。
(一晩明けて昨日、一緒に脱出できた経験のある頼れる別の友人が、私の沼りっぷりを気にかけて舞台を観に行ってくれた。そして私が完全に見落としていた最重要ヒントを見つけてきてくれた。優しすぎるし天才すぎる。)
(そう言えば原作解釈の友人も、私にとっては自明の理すぎて結構雑に扱っていたヒントが友人にとっては盲点で、そのヒントがあったからこの解釈に至ったと言ってくれた。嬉しかった。)
(そして、盲点とは必ず存在するし、それは本当に自分には見えないだけで、他人から見たらこうも軽々と見えるものなのだなと、また一つ得難い経験をすることができた。人生って楽しい。)
終演後からすぐ調べ出して、最初のヒントには帰りの電車内でもう出会えていた。検索上位だった。有り難い。
だからそのまま寝ずに感想を書き上げて翌昼増田に投稿したのが初見感想。
なんで増田に上げたかと言うと、これが《私》の感想であると、他の友人知人に知られるのが恥ずかしかったから。お陰で普段以上に壁打ち感ぱなくて孤独だった。それを全部友人との推理にぶつけていた。この五日間付き合ってくれて原作真相にまで辿り着いてくれた友人マジで有り難う。
自分の感想の反応はサッパリだけど、各所に皆さまがどんどん感想を投下されるのでひたすら読み漁っていたのですが、どうにも自分の知りたい解がそこにはないように思えてきて。(感想を拝読させていただいた皆さま、失礼な物言いになってしまいすみません。今回が異例だったのです。通常の演劇作品の感想としてはとても楽しく面白く拝読させていただきました。公開してくださったことを心から感謝しています。これからも是非よろしくお願いいたします。鍵、イクナイ。)
先述の私の盲点にあったヒントを見つけてきてくれた友人との会話でも判明したのですが、私が求めていたのはどうやら『感想』ではなく『印象』だったのです。
感想とは『事象に対峙した発言者の想い』である。対して印象とは『事象に対峙して発言者が捕捉できた部分』である。
私は自分では見えなかった作品のありのままの姿を知りたかったみたいです。
その点では、原作を読んだけど舞台は見ていない友人と、舞台は観たけど原作を読んでいない私の探偵コンビはなかなか良いバランスだったのかも。
お互い違う表現を見ているから感想だけでは語れないけど、小説も舞台も作品の本質が同じなら、印象と事実も一緒に突き合わせることで対話が成立する。
書いていた続きが寝落ちたら消えていたので、ちょいちょい追記していく。
ですが、この初見感想も非常に重要でしたので、是非お目通しいただいて推理の参考になさってください。
※表に出した最新考察と印象はこちら。初見感想の次にでもどうぞ
http://anond.hatelabo.jp/20170209222825
http://anond.hatelabo.jp/20170212024356
一夜明けて昨日の話。
推しの握手会が思いの外さっくり終わり、通りすがりのご夫婦に推し布教も楽しくできて、気力と時間が余ったので当日券でレッドシアター行ってきた。
とても面白かったのだけど、なんかこうすごくもやっとする原因を掴みたくて、江戸川乱歩の原作の方の感想を漁り、こちらのブログに辿り着いた。
http://edogawamy.hatenablog.com/entry/2015/12/05/160636
こちらを拝読してめっちゃスッキリしたので、スッキリしたこと前提に感想を書く。
ネタバレしまくるし、恐らく原作既読でも舞台未観劇の方は先に舞台観た方が絶対面白いだろうから、観劇予定のある方は読まないでくださいね。
まず私がもやっとしたのが、「『私』が鬼のように見えすぎやしないか?」ということ。
こーゆー考察し甲斐のあるタイトルや、善悪、美醜、世間と自分の解離みたいなモチーフが出てくる作品だと、どうしても「果たして鬼とはなんだったのか?」と邪推してしまう。
『私』役・佐藤永典さんのお人形のような美貌と、書いて字のごとく鬼気迫るお芝居、そして聞き慣れない失われた昔の日本言葉は、あまりにも『我々観客と同じ存在』であると共感し難い。
そもそも、主人公目線で語られる物語は、主人公に感情移入させて物語に没入させることが狙いのひとつだろうに、全然『私』=箕浦に感情移入できない。
(ネタバレにならないことを祈って例を挙げると、演劇で観たことがあるミステリーだと『罠』『スリル・ミー』などが思い出される。)
これは『私』が作品の『語り部』であるため、強制的に観客が『聞き手』の役割を担ってしまうからでもあるかもしれないけど……
それにしたって、締めの内容からしても物語の本題が「『私』と諸戸道雄」の関係に集中してしまってならず、
そうすると、田中涼星さん演じる諸戸の執着心のおぞましさに沿ぐわない清廉でどこか儚げな美しさが、彼の一途な愛を健気で尊いものに感じさせてきて、その愛情を受け入れない『私』が何か恐ろしいもののように思わざるをえなかった。
でも、それっておかしくね?って思って。
ホモフォビアを受けることへの同情というか、同性愛差別への嫌悪感も逆手に取られているような気がする。「理由はどうあれ女の子は泣かせちゃいけない」みたいな、ずるい構図が仕組まれているように感じる。
自分が恋をしてフラれた時のこと・恋されてフッた時のことを参照すると、
いくら思わせ振りだったとしても応えてくれない相手の方が悪者だなんて絶対に思えないし、
どんなに周りから薦められてもどうにも受け入れられない相手はマジほんと無理。
腐目線でだって、絶対許せない地雷カップリングというものは実在する。
だから「諸戸の愛を受け入れない『私』は鬼」であるとは、理性的には到底思えない。
でもじゃあどうして「『私』が鬼」だと感じるような作品に仕上げてしまったのか?
これが冒頭に書いた「『私』が鬼のように見えすぎやしないか?」というもやもやの詳細。
この感情は原作に対して正当なのか? 舞台版という二次創作であるが故の解釈の押し付けなのか?
という部分が気になって、ググって辿り着いたのが先ほどのブログ。
http://edogawamy.hatenablog.com/entry/2015/12/05/160636
Wikipediaに書いてあった、「陰獣」みたいな新作をとリクエストされて執筆されたのが「孤島の鬼」らしいというエピソードからも勝手に妄想して、
江戸川乱歩=諸戸目線で「創作された箕浦」が『私』なのではと解釈し、舞台版にめちゃくちゃスッキリできた。
諸戸道雄の死で物語が終わるのもさもありなん。
観客は真の主人公である江戸川乱歩(諸戸)に感情移入させられて、「諸戸の愛を受け入れない『私』は鬼」だと錯覚してしまうのではと。
田中涼星さんの白木蓮みたいな美しく一切の嫌悪感を感じさせない諸戸は、きっと江戸川乱歩のブロマンスの結晶として大正解。
対する『私』がエゴイスティックに語れば語るほど、それは作者(江戸川乱歩であり諸戸)の恋の哀しみの深さ、恋情の深さを伝えてくる。
女性に執心する姿がなんか気持ち悪く見える・描かれるのも作者による悋気からだろうし、諸戸に対して残酷過ぎる描写は傷付いた作者本人が語らせてるからだろう。
『私』が歪であればあるほど、「箕浦にもどこか諸戸(作者)を愛する部分があってくれ」といった願いの叫びに聞こえる。
(観ていると「箕浦も実は諸戸を愛していたのではないか」という容疑が浮かんでならないのだけど、『白髪になってしまうほどの生理的な恐怖・嫌悪』という動かぬ証拠は、容疑を否定してならず、この辻褄の合わないミステリーももやもやの一つだった。)
メタ推理として「陰獣」を出したのも、江戸川乱歩自身による己の殺害が物語のカタルシスにあるように感じられたから。自身を不幸の中で殺すことで、遺された人間へ爪痕を残すという側面も含めてね。
(愛を願いフィクションを書き綴るのに成就させず永遠の片想いとして殺す……って、個人的にめっちゃ萌える。)
作者による「ぼくが考えた最高に美しく残酷な箕浦(永遠に愛してる)」ってやつ。考えたというか、「恋愛の疑心暗鬼の中で見えていた箕浦」。
舞台「孤島の鬼」(2017)では、語り部の『私』と『箕浦』を別の役者さんが演じている。
私は原作未読であるため、同一人物であるはずの二人を別々の人間が演じるということが奇策なのか妥当なのかわからない。
でも、配役を知ったときに
美少年役もまだまだできそうな童顔の佐藤永典さんが30代で老人のような白髪姿になった『私』で、
佐藤さんより身長も高く年上にだって見えかねない美青年の石田隼さんが20代の箕浦「過去の『私』」を
演じることが疑問だった。
いくら『私』は外見が変わってしまったといえど、あまりにも二人の外見が似ていないこともあってね。
「もう一人の自分」みたいな表現が出てくる演劇はいくつか観たことがあるはずだけど、原作未読とはいえ観劇前に違和感を持ったことはなかったように思う。(まあ大体そういった存在は物語の核心中の核心に触れるので、配役表から対の存在と公表されてることは少なそうだけども。)
しかし『私』を『諸戸が想い描く箕浦』とすると配役がまあしっくりくるし、『本物の箕浦』と役者を分けたことが大発明のように感じられる。
舞台上には二人の箕浦が同時に立ち、シーンによって他者とのコミュニケーション表現の担当者が変わるのだけど(どっちが台詞を言うか、みたいな)、
諸戸と出会い親交を深めた学生時代の箕浦はずっと『私』(佐藤さん)が表現し、
諸戸と別離し大人になり恋人の初代との出会いから箕浦(石田さん)は登場する。
石田隼さん演じる箕浦は、佐藤さんの『私』と同一人物のはずなのに、鬼なんて印象もなく何故か善良な青年に感じられていたのだけど、『私』の方が諸戸(江戸川乱歩)の色眼鏡で認識された箕浦なんだと思えばこの対比はすごくいい。
「『私』は諸戸目線で見えていた認知の歪んだ箕浦」であるため、『私』の歪さから「箕浦も実は諸戸を愛していたのではないか」という容疑を持ってしまうが、
事実として『箕浦』は諸戸に迫られることに身体が変調するほどの生理的な恐怖・拒絶を示している。
(皆さんは自分の体が深層心理の拒絶反応で意のままに動かせなくなったことがあるだろうか。私はある。手から全身が痙攣してゆき、これしきのことで動じるな止まれと意識しても震えがまったく止まらない。だから私は生理的な拒絶は動かぬ心の証拠だと考えている。)
しかし性的に愛されないことが、『愛されていない』ということなのだろうか?
必死に求めるあまり諸戸からは見えなくなっただけで、性愛ではないけれども某かの情が、性愛にも決して劣らない尊い愛が『箕浦』にもあったのではないか?
そういった諸戸の盲点が、諸戸が『私』と会話し夢中になっている時の『本物の箕浦』(石田さん)にあったのではないかと、舞台演劇となり二人の箕浦が居ることで私は考え至った。
物語としての「孤島の鬼」の作者は諸戸(江戸川乱歩)だという解釈は私が勝手にしてるだけなので、舞台版が諸々の采配をこの解釈で行ったかはわからないけど、改めて『私』と『箕浦』の登場場面の違いを確認しながら観劇したら面白そうだなぁ!
より妥当なところの分裂理由として「箕浦の二面性」はあるだろうし、じゃあそれぞれの境界線を舞台版ではどこだと考えられているか読み解くのも面白い。
作中に登場する双生児は境目が見えたけど、二人の役者に分けられた一人の人物のメスは何処に入ったのか。
うろ覚えだけど、諸戸の告白以降は『私』が箕浦として生きているから、舞台では箕浦と諸戸は一緒に天国に行けたのだ、な~んて解釈もハッピーだよね。
(どちらかというと、諸戸が悋気を持たなければ、欲を出さなければ、あるいは悪い男になれていたら、箕浦と一緒に天国に行けたかもしれないのに諸戸が鬼の箕浦を生み出してしまった…って自己破滅エンドの方が私は好きかな。まさに疑心暗鬼を生んだ、的なね。)
(報われず自分に追い込まれ破滅した美しい男性がテーマの舞台、大好物なんです。)
延々と箕浦組について語って夜が明けてしまったけれども、他の役者さんや演出等表現もとても良かった。
諸戸の父親の最期に対して、主人公である『箕浦』の感情が語られず『諸戸道雄』の感想がセリフとして発せられたのも、諸戸の父親を演じていたのがまだ30前半と『私』に近い年齢の美しい河合龍之介さんで妖しい男の色気を放っていたのも、「諸戸の主観こそが語り部の『私』」であったとするならよりしっくりくる。
父親の変貌は、絶対に他人の箕浦よりも諸戸の方がショックな出来事だ。
父親越えなんてテーマもよくあるほど、子供から見た方が親はより巨大さ恐ろしさを増すし、親が壊れる様というのは「自分にも起こり得る恐怖」と「自分があれほど巨大に感じていたものとは一体何だったのかという虚無」感がぱない。私も父親で経験したからわかる。
舞台というものは面白いもので、同じ現実を同じ密室で複数の人々と同時に別々の目線位置角度(物理的な意味で)から観測するものだから、
書籍や映像で物語を鑑賞する以上に「他者が見ていない『自分の視点』」が感想を述べる際にものすごく意識される。
たとえ自分が複数人居たとしたって、観劇した感想は同じにならない。
演出による印象操作は完璧に同一にはできない。(それをぶち超えるクソチート暗殺者が『音楽』だと私は考え重要視しているけど、それはまた別の話)
だから舞台は観るだけでも楽しいし、感想を言うのも聞くのも他メディアの何倍も楽しい。
そんな訳でこれらの感想はすべて《私》の主観でしかなく、原作者・スタッフ・キャストが込めた意図の真相はわかんないんですけどね。
ある対象から直接に知覚される、美しい、崇高な、等の意識以前にある感情を説明する美学。19世紀後半にロバート・フィッシャーらによって問題化され、ヨハネス・フォルケルト、テオドア・リップスらによって20世紀初頭に学問的に体系化された。1903/06年の『美学』において、感情移入のありようを分類、規定しようとしたリップスは自然の対象に潜む生と人間の心的力動性との融合に感情移入を認めた。ヴィルヘルム・ヴォーリンガーは『抽象と感情移入』のなかで主観から出発する感情移入説と近代美学を結びつけ、その限界を指摘することによって「感情移入」できない東洋美術をより公平に論じようと試みている。
こんな難しい言葉、俺には使いこなせない。
これについては、長年寝取られモノを読んできて、自分なりに得た結論があるので聞いて欲しい。
(1)大前提として、自分の好きな女性が発情全開でアンアン言ってるのが見たい
しかし
(2)自分が超セックス上手い男というものに感情移入が出来ない
(3)なのでセックス上手い男に寝取ってもらって、発情全開アンアンしてるシーンが見たい
(4)「すごいもの」というものは比較対象があってこそ。粗チンだったりテクが無いのが「自分」という事で、届かないモノだという絶対的な価値を読者に与え、結果、寝取り側の技術やチンポが「すごいもの」という説得力を持つ
(5)女性が口説かれて落ちるプロセスが、上手い人はホントに上手くて、セックスシーンよりエロい
という感じ。
上記が判らずに、単にブームだからネトラレ描くような漫画家のエロは抜けないし、単純に後味悪いだけだし、テンプレ感丸出しになる。
「おおかみこどもの雨と雪はミソジニー」みたいのとかさ
社会学にかぶれた意識高い系が畑違いの映画で的外れな評論してるのたまに見る
溢れ者やマイノリティの疎外感を描いた映画には 育ち良い意識高い系の人達は感情移入や共感できないんですね
そこで「せや!誰もが男か女なんだから男女論に持ち込んだらワイらマジョリティでも感情移入や共感できるやろ!」って脳内で物語を作り変えちゃうわけ
マジョリティの強者にかかれば マイノリティや障碍者や貧困や戦争や疎外感を描いたどんな映画も万人に共通なヌル〜い男女論の話題に変えられてしまう
ほんとウンザリ
機能不全家族だったり発達障害だったり貧困だったり共同体の疎外感などの生きづらさに悩んだことのない楽に育った人間達が楽に受け売り理論で語れる…それが男女論なんです
構成がやや難儀だな。
主要人物の語られるバックボーンや、ロマンスもろもろが中途半端、或いは余計に感じるというか。
なぜこーなったかってことは理解できるのに、それに感情移入できない。
「どーいうテーマ、物語か」っていう観点で評価しにくいし、仮に評価できるとしてもそのテーマによって紡がれるものが希薄なのだ。
良くも悪くも、非常に圧迫感を覚えた。
隠し事をしている男と、復讐心に駆られて危うさを漂わせる少女との奇妙な交流は、どういう展開になるか最後まで読めない緊張感があり、実際ラストまでそれは変わらない。
けど絵が拙いのは一目瞭然で、ドアップな構図やフキダシ、文字もでかくて圧迫感を覚えた。
ある意味プロットと噛み合っているとも言えるが、それでもクドさを覚える。
ワンアイデアの設定と、それに合わせた主役のキャラクターによって可笑しさはあるものの、ほぼ静的なプロットは盛り上がりに欠けるのは否めない。
結局のところテーマの主体が先生の性的嗜好で、それで何か大きなドラマが紡がれているわけでもないからね。
絵は似たり寄ったりな構図が気になるが、粘液の質感はこの作品のテーマと関係していることもあって気合入れてるね。
とある女の子の問題と、とある教師の問題が平行しつつ、二人の交流によって展開していく構成かな。
気になるのは、女の子側の問題が教師の励ましによって大きく解決に向かうのに対し、教師側の問題は女の子が大したカンフル剤になっていないところだ。
あと、所々「ん? どういうこと?」というセリフと場面がいくつかあって、描き方の問題もあるのかもしれないが、自分がコンテクストを理解できていないことに不安になった。
プロットは理解できているのに、恐らく私はこの作品を肝心なところで掴みきれていない。
奇抜なワンアイデアを基盤に物語を展開させるってのは、モアイで読める受賞作品では定番なんだよね。
ただ、それをちゃんと活かしてテーマもしっかりしつつ、物語をドラマティックに紡いでいるのって案外少ないから、その枠組みではかなりレベル高いんじゃなかろうか。
物言わぬ人間となった妻と、それに相対する主人公の心労が丁寧に書かれている。
ラスト近くで描写される首がない赤ん坊や看護師は、主人公の順応を表現しているのか(赤ん坊も泣き声が描かれているし、看護師も普通に喋っているので、実際には首があるはず)。
38ページ目に丸い線があって、これが主人公に重なっていくつか描かれている。