はてなキーワード: 大袈裟とは
個人経営のイタメシ屋。その「個人経営」という甘美な響きから、何となく「可愛がってもらえる」「良くしてもらえる」「融通が利く」と思ってしまっていたが、その希望は見事に崩れ去ることとなる。
初シフト。料理を作る店主と、年下先輩アルバイトと僕の3名が店員だ。狭いながらも居心地の良い店内が特徴だ。
僕の相方となる4歳下の先輩バイト君。テキパキしているながらも、おっとり、静かに話す好青年だ。物腰も柔らかで感じも良い。ただ、飲み物の分量、作業容量など「そんな感じで…」とファジーな指示もあった。でも、個人の飲食店だし、そういうものかと割り切っていたのだ。
しかし、開始2〜3時間でお店が混み始めたところで、異なる様子を見せ始めた。
どうも、連携がうまくいかない。相方君も1から10を語ってくれるわけでなければ、店主も忙しく、対応がつっけんどんになってきた。なるべく店主へ質問しようとしていたのだが、「あいつに聞いて」と回される。それほど、店主はその相方君へ信頼を寄せているらしい。
そして、やはりというか、危惧していた状況へと陥ってしまう。相方君が教えてくれていない、つまり誰からも教わっていないことで店主に叱責されるようになった。
人間というのは(というか、僕が)思った以上に単純なもので、予め聞いていないことで叱責されると、途端に理不尽に感じてしまう。店主曰く「ちょっと常識で考えたら分かること」(コップの飲み口を持たない、料理の提供が何よりも最優先、ドリンク提供のタイミングなど)らしいが、あいにくその常識は持ち合わせていなかった僕である。
もしかしたらここまでは、飲食店にはありがちなことかもしれない。しかし、僕が看過できなかったのは、この店主が想像以上に短気だったことである。
面接時や、アイドルタイムは口調も丁寧だ。一見、良識のある大人に見える。しかし、混雑時にしくじったときにはたまったものではなくて、「おい」だの「馬鹿」だのといった言葉が飛び交う。お客様の目には触れないよう近くに寄ってきて耳元で言われるのはせめてもの救いか否か。
「何のために耳と頭がついてんの」「日本語分かる?」正直、僕がこの世で一番嫌いといっても過言ではない罵倒文句。それを大量に向けられるようになってからは、もう店主への尊敬は無くなっていて、憎悪の感情さえ抱くようになっていた。
個人的決定打は靴蹴りと舌打ちと物に当たること(時計を机に叩きつける)。自分の感情をコントロール出来ない大人は格好悪いとつくづく思った。
では、ほかの従業員はどのように働いているのだろうか。
先述の年下先輩バイト君(入って半年程度)。教えるのはあまり上手ではなかったが卒なく仕事をこなし、信頼を得ているようだ。入った直後はよく怒鳴られていたそうだが、今はそういった面影はなく、店主との信頼関係を構築しているように見られた。
もう一人の女性の年下先輩バイトは最古参(といっても一年程度)で、店が繁盛する前からのアルバイト。こちらも、店主からの信頼は絶大だ。怒鳴られている様子はない。
では、怒鳴られている人間はいないのか。…いた。僕の友人であり、このバイトを紹介してくれた人間でもある。僕より1週間程度しか先輩でない彼であり、僕と同様に店主の叱責を受けているが、なかなか骨太な彼である。バイトをすぐ辞める気はないらしい。
後の人間は…どうやら店に居着かないらしく、多くの人間が短期間で辞めていった、という話を耳にした。僕からしてみれば原因は明らかであるが。
そして、人生で一番憂鬱な1ヶ月間の始まり…というと大袈裟ではあるが、違いは人間の三大欲求に顕著に現れた。食欲は落ちて一日一食になり、睡眠欲に関しては寝付きが悪くなり、目覚めてすぐアルバイトのことを考えるようになった。性欲もまた然りである。頭の中の80%ほどにはいつもこのアルバイトが居座り、ほかの作業が手につかなくなる。普段はしないようなツイートも増えた。仲間にこのバイトの愚痴をこぼす瞬間が良い気晴らしとなっていた。
もちろん、「割と飲食店にはあることだよ」「慣れたら大丈夫になるよ」という声もあった。もちろん、僕から吐き出される言葉はヘイトに塗れていて、もはや客観性を失っていた。「そんなバイト、辞めたら良いよ」その言葉が天使の囁きだった。
呆れられた。「こんなこともできないようじゃ、どこに出てもやっていけない」「決断するのは早すぎじゃないか」「どうしてもっと早く相談しなかった」
「新しい仕事にもかかわらずメモも取れていない、基本的なこともできていない、そんなんで出きっこないのに『できません』は甘え」…などと言われたように思う。正直、あまり覚えていない。もはや、食傷であった。
1ヶ月後、退職する運びとなった。
果たして、完全に店が悪かったのか。僕は全く悪くなかったのか。
もちろん、経営者側と同じく、僕を「根性なし」「甘えている」と見る向きもあるだろう。
確かに、ここ最近はヘイトに任せて行動していたし、正直、勤務中の僕の動きは悪すぎた。「基本的なことができていない」とはまさにその通りで、それについては料理の提供順序が前後してしまったり、ドリンクを提供できなかったりと実際に営業に支障が出ていた。ほかのお店であっても叱られて当たり前のレベルである。
しかし、叱責され方(僕が経験なくびっくりしてしまったということもあるが)に嫌悪感を抱いてしまったこと、「失敗するとあそこまで叱られるんだ」という心持ちでバイトをするということが苦痛であったこと、が辞める決め手になった。
まだ心持ちの整理が付いていない段階であるが、この経験から学んだこと。アルバイトでも正社員でも、「価値観のすり合わせ」が大事なのではないか。
今回のケースのように、「成長のために叱責は必要不可欠」と考えている経営者のもとに「たくさん叱られたくない」と考える労働者が勤めてしまうと、それはそれは悲惨な結果となってしまう。残念ながらこの部分については、タウンワークやanやリクナビの紙面には浮かび上がってこない、「働いた人にしか分からない」部分である。そして、その「価値観」は、叱責の有無に限らず、ほかにもいろんなファクターがあるだろう。
アルバイトの場合は顕著であるが、面接でミスマッチに気づいても遅い場合がある。そのまま採用されて、ズルズル取り込まれてしまうパターンがあるからだ。
じゃあ、どうするのが良いのだろう。僕は今まで馬鹿にしていたが、就職活動であればOB訪問、アルバイトであれば事前にそのお店に偵察にいくことをおすすめしたい。少しでもミスマッチを防げる手助けになるだろう。
「アルバイト 辞め方」などで検索すれば(経験のある方はお分かりだろう)予想をはるかに上回る件数ヒットする。理由は何にせよ、それだけこの国で僕みたいに悲鳴を挙げている人間が居るのだろう。その人たちの幸せを願いたいものである。
増田に限らず、ネットではいろんなところで釣りという言葉を耳にしますが、
自分なりに目的を考えてみましたが、他にありましたらトラバかブクマでもして頂けると助かります。
名称は適当に決めただけなので、心理学とか詳しい方いたらマズローでいう○○だろ禿げとか指摘して頂いて構いません。
1,認証欲求型。
最近多い気がする、
自分と逆の思想をわざと大袈裟に書いた後、その思想が叩かれるのを見ることで共感者がいることを再認識したいタイプ。
実はこのA君が僕ですとか、後になって宣言するものなんかが当てはまりますね。
当事者が叩かれることがデフォのネットでは、こうした手段で批判を避けようとすることは、賛成はできませんが理解はできる行為です。
2,愉快犯型
自殺予告とか何時までに何レス行ったらエロ画像うpとかが当てはまりますね。
叩くにせよ、のばすにせよ自分の立てたスレなりで必死になってる人が滑稽で面白く感じる、その考えは理解出来ます。
お笑い芸人が無駄に身体を張ったりするのはこの手の滑稽さを売りとした笑いなんでしょう。品はないと思いますが。
95割やすくつなど、知らない人なら叩くジャーゴン的な表現も釣りとしてここに含まれるかもしれません。
3,構ってちゃん型
ちょっと頭に問題がありそうな人を頑張って演じて、レスやブコメなんかを稼ぐ場合とかが当てはまりますね。
評価とかはともかく、反応されるので暇潰しとしてするのは理解できます。
他になんかある?
希望だけは絶対に捨てるな。希望を捨てた時、人間は将来を悲観し、絶望視し、嫉妬に囚われた
希望を見つけろ。見つける努力をしろ。努力なんて大袈裟のことは言わない、工夫をしろ。
「何でも」できないと思うな。少なくともできないとは思うな。できない事だらけで何をやっても駄目かもしれないけれど、
でもそれでも自分にできる事はきっとあるはずだ。だから「何でも」できないと思うな。まず否定するな。やってみようとしろ。
一歩を踏み出す勇気を持て。大丈夫だ、おまえが失敗したくらいで、誰も笑っちゃいないのだから。
この世の中は、不条理にまみれている。ろくでもなければひどくつまらない。
だけどおまえはこんな世の中を生き抜かなければいかない。生き抜くためには希望が必要だ。
本当に死にたいわけじゃないのなら、希望だけは絶対に捨てるな。
息を吐くように嘘を吐く人がどうしてもダメなんです。
たとえば、こちらのエントリーに出てくる夫さんのような人です。(夫さんは直接関係ないですごめんなさい)
夫が全てを台無しにする
http://kaishaku01.hatenablog.com/entry/2014/08/21/095809
息子が「パパの会社はどこにあるの?何の仕事をしているの?」と聞くので、夫の仕事が素晴らしいものであると持ち上げつつ説明しようとした所、どこからともなく現れたさっきまで寝ていたはずの夫が
「パパはね、公園でハトに餌をあげているんだよ。今日は雨だから辛い一日になるかな…」
などと説明しだした。
そんな嘘をついて、誰にとって何の意味があるのか、私にはさっぱり理解できないからかもしれません。
息子さんにわかりやすいように、息子さんでもわかる別の何かに例えるとか、大変さを強調しないよう、簡単な仕事であるように説明するとかならわかるんです。
そうではない、何の脈絡も根も葉もない白々しい嘘をさも当然のように話す人の気持ちや考えが、どうにもわからないのです。
利益を得るとか、自分を飾る or 貶めることで同情してもらうために、自分や周りを過大/過小に言うような嘘とかなら、発言理由はわかります
(それはそれで聞く身としては気持ちよくはありませんが)。
でも、こういう誰の得にもならない、何も面白くない嘘。
自分の中で意味付けできない分、余計にイライラしてしまうんです。
こういうタイプの人がいる場合、私は可能ならば極力避けるようにしています。
近くにいてもお互いデメリットになってしまうと思っているので。
ただ、周りの人に聞くと、「嘘つきでたまにイラッとするけど、たまに一緒になって同じような冗談言ったりして仲良くしてるよー」という人がいます。
大人だなー、偉いなーと思うのですが、私にはなかなか見習うのが難しいのです。
どなたか、こういう冗談をスルーするコツがあるなら、教えてもらえませんか。
【追記】
沢山のコメント、トラバありがとうございました。おそらく全部読ませていただきました。その中でなるほど!と思ったことなど。(ついでにタイトルなおしました)
それ嘘じゃなくてホラ、両者の違いはわかるか、というコメントがあり、あ、それだ!感がありました。
嘘をつくとホラを吹くってほぼ同義だと思っていたし、ホラを吹くという表現を日常で使わないのですっかり忘れておりました。
それくらいのマイルド感だよね~、と思いながら、両者の違いをググったところ、
嘘をつく→事実と異なることを言う
ホラを吹く→大袈裟なことを言う
…あれ?やっぱり引用元はホラじゃないんじゃ…(本当にハトの餌やり士さん的お仕事だったらごめんなさい)
もしかしたら、嘘とホラの微妙なラインがダメなのかもしれないです。
冗談やお笑いについて。冗談も言いますし、面白ければ笑います。お笑いはレッドカーペットの頃はよく見てました。
ただ、高田純次さんと二人きりになったら?というのには、もしその状況でもテレビで見る感じそのままなら、会話にならなくてちょっと疲れてしまいそうだと思いました…笑
あと怒り新党っぽいというコメント。確かに!自分で書いた文章が夏目三久さんの声で違和感なく再生されて面白かったです。
生真面目、なんでも意味を見出したがる、考えすぎ、病気…etc
仰るとおりです…自覚しています。普段の生活(主に職場)では、考えるよりも手を動かすのを優先に、生真面目さを前面に押し出さないようにしているつもりです。滲み出る分はごめんなさい。
(ここで久しぶりに全力で本音言って、真面目押し(?)してちょっとスッキリしました!)
これが病気なら、思考力を落とさずに、気持ちが楽になるのであればぜひ治療したいです。
面白く無いと言う。「面白くない」確かに的確! 目からうろこでした。なんで思いつかなかったのか不思議なくらい。
空気読みつつ、面白くないと伝えてみます。ありがとうございます!(それでもダメならスルー、避けるに戻ります…。)
コメントでも、親や親戚の冗談の話がいくつかありました。橋の下、自分もよく言われました。
今となっては、親も普通の人間、ちょっとした冗談とわかりますが、自分の子供には言わないだろうと思います。
いろんなコメントに感心させられたり、言い得て妙だと思ったりしたのに、まとめるのは難しいですね。
こんな思いひとつにも、多様なコメントが寄せられるのだと知りました。みなさま、本当にありがとうございました。
小学生の頃、友達の作ったカードゲームがクラス内だけで大流行した。
給食の牛乳瓶のフタを通貨にして、各々自由に作ったカードを交換しあった。
僕は、転校してきたばかりで、うまくその輪に入っていけなかったが、
夕方の優しい日差しが満ちる教室で、演劇の大道具を急ピッチでみんなで作った。
誰かがコンビニでアイスを買ってきて、男女混じって手をベタベタにして食べた。
僕は、部活を掛け持ちしていたせいもあり、クラスの演劇にはあまり参加できていなかった。
それでも、僕は、その光景を、今も鮮明に覚えている。
ゼミ旅行の話だ。ゼミ旅行なんて、近県の旅館に行く程度で、徹夜で飲んで、麻雀するだけのつまらないものと思っていた。
ゼミの同期の女の子は、安い缶チューハイを両手で持って僕に言った。
大袈裟な。こんな旅行は、来週には他の旅行に上書きされてしまう。
「あなたにとっては、ただのつまらない旅行かもしれないけど、私には大切な思い出なんだよ。
その後、僕はビールを何回か一気飲みして潰れた。彼女の楽しそうな顔は、今でも当然覚えている。
たくさん昔話をした。
あの頃に戻りたいとは違うのだが、この懐かしい思い出にずっと浸っていたくて仕方がない。
そして、昔の家族のことを思い出して、涙が止まらなくなるのだ。
馬鹿だね、僕は。
個人的な感覚で即答したら、え? 後者じゃん? となっちゃうなあ。
不治の病っつうか、自分でもどうしようもない所与の欠落やハンデくらい幾つか持ってるけど、
そこに新規で入ってきた奴がこの世の終わりみたいな顔してたとして、
大袈裟やなあと内心苦笑ぐらいするかも知らんし、
あわよくばなにか先輩面で意味のある事くらい言ってやれるかも知れないと
手ぐすね引いてツヤツヤテカテカくらいするかも知らんけど
別に気分を損ねたりはしないかな。
つーか元増田の人って、何処までもこの人個人の悲しみを悲しんでるだけで、
誰よりも不幸のなんのと言っても居ないし、
いやいや、謝んなくていいよ、実際それが現実だし
帰ってくる詐欺でドロンパした奴がいて後任が来るまでフォローで大変だったり、
いろんな迷惑かけられたから女ってのはどんなに頑張っても平等になることはないと痛感はしてる
ただ、自分みたいに子供は絶対に産まないよと決めてる人からしたら女であることが凄く悲しくなる
ここで9割の女は「じゃあ諦めて子供生むか」って思うのかもしれんけど、私はそう思わないし(そう思ったほうが楽だろうし)
それなら「健康であるけど子宮を摘出もしくは卵管結紮して、その証明書を提出すれば差別はしない」というルールは欲しいなと思う
それだと大袈裟だから自分はピル飲んでるから、ピル処方の証明書?みたいなもんでもいい。
ピルの服用を勝手にやめて勝手に妊娠した場合は賠償金支払います、とか書いておいてもいい。
無いってことは男女平等なんかこの世に作る気はないってことだろう。
そ女なんかに生まれなきゃよかったと毎日思ってるよ。
俺もお前と似たような感じだった
その経験からアドバイスできるとすれば、お前が思うお前の人生をより良いものに変えるであろう努力をすることだな
最低限の努力でいい
なんせお前は今まで怠け者だったんだ
それはそれでいい
いくら怠け者の俺でもこれぐらいなら絶対できる!というレベルまでハードルを下げろ
2時間が辛いなら、1時間、それでも辛けりゃ30分、それでも無理そうなら5分努力する
そしてそうした努力を一日一日繰り返す
土日は休みでもいい
ちょっとづつ、小さい努力でも積み重ねていくと、自尊心ってやつが育ってくるよ
そして、自分でもこれぐらいはやれるんだな。って思えたら、次も絶対クリアできるという範囲でハードルを上げろ
俺が言えるのはこれだけ
生徒が情報端末でいたずらなどする?→NO
学習教材だけが入っているので、現状その心配はない。授業への関心度は上がる。
管理コストは確実に加算される。最低でも一年程度の試験運用が必要。
いくら説明しても理解してもらえない子が、動画教材により一発で理解できることもある。従来の教材との共存も可能。
情報端末というと大袈裟だが、音声や動画といったこれまでも存在した教材の詰め合わせ。
「運用はそれなりに大変だが効果あり」なもので、準備さえしっかりしていれば、充分有用と思われる。
あくまで情報端末ならでは、の利点を考えるなら、「出席でポイントが溜まってアイテムと交換」みたいな遊戯性の追加くらいであろうか。
うち、1人が結婚をするという話で、そのお祝いを兼ねて。
別の1人は既に結婚をしているし、また別の1人は去年入籍していたことを知った。そいつに対しては、もっと早く言えよ!って凄く思った(皆知らなかった)。
今年の4月に29歳になったけど、このところの周りの結婚ラッシュに、そんな歳になったのかーと最近つくづく思う。
お互いが制服を着ていて、一緒にお酒を飲むなんてもっとずっと先の、想像も出来ない未来の話だと思ってた頃を思い出して感慨深くなるけどまぁ、それはどうでもいい。
結婚をしてることがじゃない。
誰かとずっと一緒にいたいという気持ちになれること、そして、結婚してもいいと思える相手に出会えたことが凄く、羨ましかった。
そして、そういう他人に対してそういう気持ちを抱けない自分が、何か欠陥がある「駄目な人間」のように思え仕方なくて。
自分は独り身でいることが寂しいと思ったことはないし、人とリズムを合わせて生活するのが凄く煩わしいと思ってしまう人間だ。
そりゃーもちろん、人恋しくなることはなる。
でもそれは、人と無性に話をしたい、人の話を聞きたい、こちらの話を聞いて欲しい、っていう思いであって、
3時間や4時間程度、お互いにダラダラと楽しく会話を続けられたら満足出来る衝動だ。
会うのはたまにでもいいから「友達」がいれば満足できるものだ。
29年生きてきて、これだ。
さらには、我ながら色々飛躍しすぎだとは思ったけど、
少子化が叫ばれる中、このままじゃ何も貢献出来そうにない自分が申し訳ないなぁとか、
親はやっぱり孫の顔とかみたいものなんだろうなぁ、未だ見せられなくその上予定もなくてごめんねとか、
なんというか、自分の腑甲斐なさに凹んだ。冷静になった今考えると、凹み過ぎだ。
そんな中、今日は母の日なので、とりあえずと思って親に電話した。実家を離れて一人暮らしをしてるので。
ありがとう、とはやっぱり照れくさくて言えないので「母の日なので…、ほら」みたいな感じで濁した。
母親は「わざわざありがとう」と言ってくれたので電話しといて良かったなと思った。
その会話の中で、同級生が結婚する、おめでたい、という話をした。
凹んでる昨日の今日で、自分からわざわざこの話題ふるとかちょっと自傷行為かなぁと思いつつも、「あんたも早く相手見つけて結婚しろ」とか言われるかなぁと思っていたら。
「まぁ周りは周り、アンタはアンタだから。焦って変な人間捕まえるよりもちゃんと考えて、見極めて。これだけ人間がいるんだからアンタにあう人も絶対いるから。親の私らが焦ってもどうしようもない問題だしね。アンタのペースでいけばいい」って。
言ってくれてさぁ。
慰めを期待してこの話題をふったわけじゃない。本当に、小言を言われると思ってた。
そうだね、焦ってないよ、って普段通りを装って話してたけど、涙目になってた。電話で良かったって心底思ったね。
それからもう少しどうでもいい話をして、電話をきった。きってから、ちょっと泣いた。マジで。涙腺弱くなったわ。
救われるってこういう気持ちなのかなぁと思った。
こういうと大袈裟すぎる表現な気がしてこっぱずかしいんだけど、他のちょうどいい感じの言葉が思い浮かばないのでこれで。
焦る必要がないって、お世辞や適当に合わせるだけの言葉じゃなくて本当にそう思って言ってくれてるっていうのが分かったからこそ、本当に、救われた気持ちになった。
上の方で羨ましかったって過去形で書いたけど、ホントの所、この羨望がなくなったわけではない。
別に、慌てたり、無理をしたりする必要がないのだと自分に対して誤摩化しじゃなく思えるようになった。
他にもぐちゃぐちゃと色々思ったんだけど、上手くまとまらないのでこの辺で。
面と向かってだと、やっぱり恥ずかしくていないんだけど、本当にありがとう、母さん。
既婚、子無しだがあまりに仕事がキツかったので移動願を出した。
毎日夜十二時近くまで働かされ、ホワイトカラーなんとやらで残業代は六万円程度しか出ない。
一応休みは週休2日で連休もあったけど、いくらなんでも深夜残業が続くのはキツイ。
体調も崩し気味になってきたし、心療内科の人にもぎりぎり危険水域と言われたので人事部に駆け込んで、ホワイトカラーなんとやらがない部署に転勤させてもらった。
表向きは体調不良ということで。
新しく着任したところは残業代も働いた分きちんとつくし、遅くとも夜九時には家につく。
しかし転勤した旨親に報告したら雷が落ちた。
「お前は無能だ」
「左遷されたくせに、喜んでるとはなんてやつだ」
「そんな出世街道から落ちるような社会人になるために大学まで行かせたんじゃない」
体調を崩していて辛かったこともつたえていたのにこんなことを言われた。
自分の中で「ああ、この親は自分を苦しめていた団塊の世代である上司と同じような思考回路なんだな」と理解し、
もう親のことを親と思うことはやめようと思った。
その喧嘩以来実家には帰らなくなったし、誕生日とかにプレゼントのやりとりをするのをやめた。
離れて住むと家族も家族じゃなくなるもんだなぁと思ったこの最近の出来事だ。
一緒に住んでいたら体調とかも見てて理解してくれたんだろうに、離れて住んだらもう別の家族なんだな。
[海外の何処かの海辺で、綺麗な虹が出ているのを見てガッツポーズしている白人男性の背中(の写真素材)]
↑こういう何の意味もない、自分で撮ったわけでもない、どこかのサイトから拝借しただけのような写真を毎回エントリの頭に付けないといけない習慣、何なの?
↑こういう、エントリの書き始めの前にかならずアフィリエイトリンクをつける習慣、何なの?
↑あと、段落の途中にも毎回入れてくる「スポンサードリンク」、何なの?
そこまでしてお金がほしいの?必死なの?って言うと、決まって「金になんかならない」「こんなので儲かってると思ってる人は世間知らず」「時間で考えたら働いたほうが早い」「手間かけて更新してるんだから多少の対価が発生していいのは当然だ」って言うじゃない?
じゃあなんで毎回毎回、やたらと手間かけて訳の分からない写真を調達して(そもそも許可とか取ってんのか?適当に海外サイトから取ってきただけで、許可とか取ってないのあるんじゃないの?)、別に自分で調べたわけでもないし書きたいわけでもない、ただただ今人気があるニュースに私も一言とか、どこか別のサイトで既に人気になっている記事を「○○で○○という記事がネットで話題に」って形で私がお前らに紹介してあげます!みたいなクソみたいなぶら下がり記事とか、あとはどこか海外あたりのサイトから適当な翻訳をかけただけの、それも要約すれば結局は「健やかに生きろ」くらいの意味が無いのに無理やりタイトルだけ大袈裟にした「あなたの睡眠は間違えていた!たったこれだけの変化で劇的に変わる10箇条」みたいな記事を、毎日毎日誰にも頼まれないでシコシコ更新してんのさ?
儲けたいなら儲ければいいし頑張ればいいさ。その代わり、対価が発生するに相応しい記事を書いてくれ。
誰かが既に書き上げた素晴らしい記事を自分のブログに引っ張りこんだだけで、それに何時間も自分が時間をかけたからって「対価が発生してもいいだろ」って勝手に思わないでくれ。
儲けたい、ちょっとでも小遣いがほしいという気持ちがあるからわざわざアフィリエイトを申し込んでコツコツ時間かけてそれを貼り付けて、少しでもアクセスが上がるように工夫して頑張ってるんでしょ?それを隠すなよ。恥ずかしいことじゃないだろ。
そういう根性がミエミエなくせに「書きたい記事を書いてるだけなんです、儲かってないんかないのに儲けたいって思われるのは心外です」とか言うなよ。それがムカつくんだよ。
言いたくもなるが、言っても無駄だから言わない。言ったところで、貧乏増田の生活は変わらないだろうし。
恐らく、貧乏増田だって生活を変えたいと思っているだろうが、想像するに生活を変えるための原資がないんだろう。転職するための費用であったりとか、さらに収入を得るための資格を取得するための時間や資金なんかがな。大原言って簿記くらい勉強してこい、と言いたいところだが、学校に通うことなんかまず無理だろう。
この増田は、「働いて食って寝るだけ」の繰り返しで、次の段階へ進むための「タメ」がない状態。そして、実はこういう人って実社会にはたくさんいる。平均年収750万円(笑)の増田たちには、ピンとこない人が多いと思うけど。だから、俺は特段「個人レベル」という感じには捉えていなかったりする。大袈裟かもしれんけどな。
みんな、女とデートした話題から食いついているから、「貧乏のくせに遊興費に金つかってる場合か」ってツッコミ入れてるけど、どんな人間にも遊びとゆとりは必要だよ。そのための社会にしていくにはどうしたらいいか、を一人でも多くの人が考えると、生活保護やら過労死やらといった問題も減ってくるんじゃないかな。
ツィメルマンは、現役ピアニストの中では一番うまい、と私は思っている。彼の音が一番好きだ。
だから毎年彼のコンサートだけはなけなしの金をはたいてS席で聴くことにしている。
今回も、非常によかった。
彼は、フォルテは単に力で弾くものではない、単にデカイ音を出せばよいというものではない、というのを体現していて、
相変わらず全然大袈裟ではない自然な動きで物凄く深く豊かなフォルテを出していた。
ピアニッシモも珠玉のうつくしさだった。透明できらきらした全く濁りのない音だった。
彼はいつもそうだけれど、ただ漫然と弾かれる音などただの一音もなく、かつ重過ぎない。
うまくいえないのだけれど、ツィメルマンは抜群のリズム感というか拍子感というか、
クラシックに似つかわしくない言葉でいうのならグルーヴ感のようなものを持っていると思う。
ショパンのバラ3、4とか、とても心地よく体を揺すってしまうような。
私は曲に入り込みすぎてあまりにアゴーギグをきかせたルバートな演奏は苦手で、
彼はそのへんの匙加減がちょうどよくて、流すでもなく入り込むでもなく、
その曲にうまくのっていけるような拍子感を出してくれる。
主題を繰り返す解釈は初めてだったのでちょっとそこだけ戸惑ったけれど、
その意味で31番がとてもよかった。第一楽章もよかったし、フーガもとても気持ちよかった。
ちょっと急ぎ過ぎている気がしたし、珍しいことに濁っていた音があった。
この解釈はもう一度聴いて考えたいと思った。が、実際は貧乏なので一回きりしかいけない。
一番感動したのは32番第二楽章だった。
それにしても、このまま時が止まってほしいと思う瞬間が何度もあった。
32番のトリルとか、あまりにもうつくしくて、ぞくぞくして、しあわせで、
このままこの空間にいたい、元の日常に帰りたくない、と思った。
この音をずっと心にとっておきたい、そう思うのに、
演奏会が終わって、荷物をとって、会場を出て、駅へ向かって、電車に乗って。
そのうちにどんどん消えていってしまう。
家に着くころには、大切に包むように心に刻みつけてきたはずなのに、
テクノロジーが発達してたいていのものは再現できる時代になったけれど、
あの音は一回きりでもう戻ってはこない。
時を止めておきたいなんて思うことはそうそうないのだけれど、
そう思わせてくれるのだから、
ツィメルマンは腰痛のため今回のコンサートスケジュールを大幅に変更した。
ミスタッチもあった。
どの程度のミスタッチが演奏そのものの価値を損ねるかは人によって許容量が違うだろうけど、
今回ぐらいのミスタッチだったら私は気にならなかった。
ただ、昔よりは確実に増えていた。
当たり前なのだけれど、これほどの人でも加齢には勝てない。
ポリーニを見てよくそう思っていたのだけれど、ツィメルマンだって例外ではないと今回思った。
その先も、聴きにいけるだけ、聴きにいくだろう。
時間を、止めたい。
ていうか。
あなたが完璧主義なのは知っている。要求レベルが高いのはわかっている。
だけどもう完璧じゃなくてもいいから、少なくともこの感動を思い出すよすがとしたいから、
CD出してくれ。
金があれば全会場聴きに行くさ。でもないんだもの。
ショパンのソナタと今回のベートーヴェン出して下さい。お願い。
そんな大袈裟な話じゃない。好きの定義が曖昧って意見があったけど好きに定義なんてない。自分が好きだと思ったら好き。日常ちょっといいなと思ったことでいい。ちょっといい服だな、いい車だな、これ美味しいな、いい気分だなとか。何も難しくないし特別なことじゃない。世の中好きのハードルが高すぎるんだよ。あと範囲もせまい。昨日面白いデザインのゴミ箱見かけたんだけど。そういうのもスルーしちゃう。とかいうとまた難しく聞こえるかな?まずは簡単なことから始めたらいい。コレクションといってもピンとこない人は写真を趣味にするのもおすすめだ。日常いいなと思ったことをどんどん撮る。もちろん迷惑かけないようにだけど、とにかく沢山撮る。「好き」を集めるのはその写真を撮る感覚にすごく近いよ。
好きなことをして生きたいと心の底で思ってる人は多い。でも現実は厳しいから難しいと思っている。だけど彼らに言いたいのは、それは考え方次第でなんとかなるということだ。そりゃ巨万の富を築いてウハウハ生活なんてのはまず実現するわけがないけど。それだけが全てじゃない。まず毎日何を好きだと思ってるか確認してみる。それを選ぶ。そういう簡単な話なのだ。
それを小さな幸せで妥協することだと思うか?それは違う。実際に億万長者になって富に比例して幸せが大きくなるのかって話。ならんわな。金持ちになるまでの間ずっと苦労しないといけないし、なってからも苦労しないといけない。そんなの面倒臭い。好きなことはもっと身近にある。しかも「沢山」ある。沢山あるからそれらをかき集めれば大きくもなる。そういう簡単な話なのだ。で、どうやってかき集めるのか?そこを詳しくみていこう。
ところで、人間は好き嫌いで行動しているじゃろう?どんなに論理で説明しようが結局は好き嫌い。ただ、好きと嫌いのどちらに重点をおくかは人それぞれ。嫌いに重点をおくと逃げや恐れでばかり行動する人生になる。彼らは「べき思考」が特徴的だ。「やるべき」「やらなきゃ」が口癖な人は黄色信号。「やらなきゃ」と言いつつまるでやれてない人はもうこりゃ完全に赤信号。彼らは「べき思考」について「実際やるべきだから仕方ないだろ」と言う。でも世の中には黙って結果を出す人もいる。わざわざ「やらなきゃ」とか言わない。そんな無駄な掛け声をかけないとやれないのはやっぱりおかしいのだ。根本にうまくやれない問題抱えてるから「やらなきゃ」と毎回言う必要があるわけで、それじゃやらなきゃと言いつつまるでやれてないのも当然のことだ。
どこに問題があるかというと、嫌いに重点をおいてること、これが問題。まず根底に「やらないと大変なことになる」という恐怖がある。これは誰でもあるが、「べき思考」の強い人はそこに興味を持ちすぎている。恐怖しか頭にない。だから「やるべき」という思考に陥る。そして「やるべき」なんて考えるからますますマイナス部分にしか興味がなくなる。そのことに気付いても、「やらなきゃをやめなきゃ」とまたべき思考に陥る。
もっとプラスの部分に興味を持てばいい。今の社会は、自分のやりたいことが分からない人が多いと言われる。「将来自分が何になりたいか分からない」など。それは当たり前の話で、「将来何になりたい」なんて考えてないんだもの。興味がないものに好き嫌いはなくて当たり前。そうじゃなくもっと身近で興味のあるものを考えたらいい。興味という言い方もまだ大袈裟かもしれない。何事にも興味のとぼしい自称「無関心」人間ですら好き嫌いはある。彼らは「関心に無関心」なだけ。意識してないだけで好き嫌いはあるんだからその「好き」の部分を少しずつ意識できるようにしていき興味を持てばいいだけの簡単なことだ。
単純な話なんだけど注意点が1つある。「そうは言っても好きだけじゃ生きられない」。そういう型にはまった思考に陥るとすぐ振り出しに戻る。これには「好きなことに興味持たなきゃ」というべき思考ではなくて、次のような自己反論で対処しよう。「どんなに苦しい時でも人間である限り好き嫌いはあるのだ。そのうち「好き」のほうに興味をもつという単純な話なんだ」。そう思えば難しいことではない。実際の話、「好き」は偏在(かたよって存在する)ではなく遍在(いたるところに存在)する。「好き」が偏って存在する前提に立つから「好きだけじゃ生きられない」という考えがまともに見えてるだけ。どんな所にでも「好き」と「嫌い」の対立構造が厳然と存在するという理解が深まっていくにつれて、惑わされることも減っていく。そのためには、「好きはどこにでもある」を思考の習慣にしよう。
それとは別に、知っておくと良いテクニックも紹介しよう。「好き」を見つける方法だ。簡単なことで好きなことをコレクションすればいい。ポケモンではモンスターをコレクションする。それに近いノリで「好き」をコレクションする。ポケモンが分からなければ艦これでも何かのキャラのグッズでもWebページのブックマークでもエロ動画の収集でもなんでもいい。集めるのが好きな人は集めるだけじゃなくて整理するよな?そう、「好き」をコレクションにして整理しよう。具体的なやり方は人それぞれのスタイルがあるだろうが、おすすめはタグをつけて整理するやり方だ。はてブのヘビーユーザーなら分かるだろうが、はてブを使ってるとブクマしたいWebページを見つけると瞬時にタグが次々と浮かぶようになってくるものだ。それと同じで「好き」のヘビーコレクターになって、頭の中でタグをつけていく。そのうち無意識に素早くタグをつけている自分に気付くだろう。そうすれば、好きが自然に整理されていくし、好きに対する感度も高くなるから。
以上のやり方で好きに生きるコツはすぐつかめるはずだが1つ言っておきたい。好きに生きることは何も特別なことじゃないということだ。好きに生きてるからって色んなことに夢中で目がキラキラしてて立派なわけじゃない。好き嫌いとはそういう世間のイメージとは関係がないものだ。本人が楽しければ何でもアリなのである。だから、いくら好きに生きててもそれだけじゃやっぱり嫌ということも出てくる。好きに生きられるとは言っても、「嫌い」と完全に無縁ではいられない。ただな、「嫌い」と向き合う原動力はつくんだよ。「好き」がしっかり根底にあれば、自分の嫌なところを積極的に改善したり、どうしても受け入れないといけないことを受け入れたりはしやすくなると思う。
言葉の意味は正しく理解しなければならない。ネットで「トン」と言えば、「ありがとう」のことだ。それも「トン」の2文字には、惜しみない賛辞と最上級の感謝が凝縮されている。しかし人によってはこれを無愛想だと顔をしかめる人や無礼極まりないと烈火のごとく怒り狂う人もいる。2文字のどこが「惜しみない賛辞」だと腹を立てる気持ちは分からないでもないが、半角カナとか舐めてんのかと突っ掛かってきた御仁には苦笑を禁じ得なかった。言葉というのは恣意的なものだからそういうものだと受け入れる他ないのだよ。そして由来を知っておくことは言葉を受け入れる上で重要なファクターだ。どこ生まれどこ育ちかも分からぬ男を我が家に迎えることはできない。どこの馬の骨か分からない、どこの素性の草鞋かも分からないのでは、「てめえどこ中だよ」と履き捨てたくもなる。馬好きなら血統を知りたがるように、言葉を愛する気持ちが少しはあるなら由来を知らなければならない。
よくある誤解はサンクスが崩れて「トンクス」になりさらに略されて「トン」になったというものだ。確かに崩れて略された言い方を御礼に用いるのは少し失礼なこともあるかもしれない。だが事実は違う。正解を言う前にいま1つの誤解を鑑賞してみよう。ありがとうのくだけた言い方「ありがとん」が由来だという説だ。なるほど、サンクスの「サン」をありがとんの「とん」に入れ替えた言い方か。面白い。まるでクイズ日本人の質問に出てきそうなもっともらしい説明だがこれも違うのだ。決定的な証拠を挙げようか。海外でも「トン」は使われてるのだ。「トンクス」は使われてないけど「トン」なら昔からよく見かける。てっきり2ch用語か何かのジャパニーズネットスラングだと思ってた人は驚いただろう。トンは日本だけのものではない。「ありがとん」が由来などもっともらしい説が横行しているがお笑い草である。
正解はthanks a ton.という慣用表現これが由来なのである。日本国ではありがとうの気持ちを強めて言うにはサンキューベリーマッチがよく知られるが実際ネイティブがよく使うのはthanks so much.やthanks a lot.だ。これをさらに強めたのがthanks a million.で大袈裟な言い回しが大好きなアメリカ人はこれをさらに強めてthanks a billion.も好む。そして、これをさらにさらに強めたのがthanks a ton.なのだ。お分かりだろうか?これがよく目にする「トン」の正体だ。少なくとも20年も前のニフティーサーブの時代から英語圏で見かける表現である。それ以前からあったのかどうかは定かではないが、多分あったのだろう。2ch用語だなんて信じてる奴はプギャーである。昔から海外ネトゲを嗜んできた香具師は外国人がton!と言ってるのを聞いたことがあるだろう。
総括するとトンクスならびにトン!はやはり一般的に思われてるのと違いなく立派な感謝の言葉であった。決して下等なネットスラングなどではないしそうであってはならないのだ。昨今「言葉は生き物」という言語学的観点をあさっての方向に濫用して自分勝手な言葉使いを正当化する輩が絶えないが、彼らには語源論(エチモロジー)という観点がごっそり抜け落ちている。自分に都合のいい理論だけ拝借することでしか自己弁護できないのはアホンダラの極みであるが、この世の中不条理なものでそうしたアホンダラが肩に風靡かせて闊歩しておるのが現状。私たちは何としても語源論を盾に彼らによる蹂躙を食い止めねばならない。
この話はいじめとかでは全くないし、そういうことに直面している人から見ると甘っちょろくて、鼻で笑われるタイプの話だと思う。でもやっぱりしんどいので吐き出してみる。
この大学四年間、友人関係を築こうとした私は見事に失敗したんだと思う。声をかければ反応してくれる友人は他学部にもいて、顔をあわせれば雑談出来る友人。そこまではうまくいった。でも、もう一つ踏み込んだ関係からは徹底的に排除されてしまった。
いじめられている訳ではないし、あからさまな嫌悪感を向けられる訳でもない。でも、必要とされていない、邪魔者だと、私が分かるか分からないかギリギリのところをついて、彼女たちは急速に離れていった。
私の場合は女子同士いくつかのグループがある中の一つで、いつも一緒ではないけれど、遊びに行ったりサークル活動を楽しんだりしていた。休み時間や空きコマの時になれば皆と談笑し、誰かと二人になれば個人的な悩みなんかも共有しあった。まるで仲良しの友達みたいだった。
ただ、そう思っていたのは私だけだったようで、それに気づいたのは、私は全く知らなかったけれど、皆が楽しく遊びに行っていたのを、うっかり知ってしまったためだった。正直「遊びに誘われなかったくらいで大袈裟な」と思われるだろうし、自分でもそう思う。けれど、ショックだった。それをお互いがフォローしあってるSNSで呟かれたことも結構ショックだった。
次の日は何事もなかったかのように話しかけられた。いつも通り、仲良しみたいに。
気のせい?うっかり忘れられた?もやっとしながらも、普段通りに接していた。ら、またやられた。
グループの一人から、「来週どうする?私行けなくなっちゃったー」と。なんのこと?と聞いたら、「え、聞いてない?」って。知らない、聞いていない。
学校に行けばいつも通りにこにこ笑顔の皆。でも私は確実にハブられてる。コミュニティの全部じゃなく、極一部分で。 混乱した。
その後も何度か続いて、それでも空気の読めない私はまだしぶとく皆と一緒にいた。
ある時、珍しく今度のサークル後の夕飯に行かないかと誘われた。浮かれた。心臓がドキドキして、でも少し血の気が引いた。当日、何も言わないその子に、私も行っていいかと言ったら「ああ、でもどうなるか分かんないから」と冷たく言われ、あ、だめだ、とようやく分かった。グループの皆とは、今、目の前で、今から行こう行こうと楽しく話していたのだ。
そこから少しずつ距離を置いて、会えばやっぱりにこにこ話すし冗談も言う。ちょっとした不安も分け合う。けれど一緒に遊んだりしない。長期的に一緒にいない。そういう関係になった。
私以外の皆は仲睦まじく一緒に遊びに行っては写真をupしたり近況を呟いたりと楽しそうだ。
ここまで書いて、私が完全に空気読めずにつきまとってただけなのかな、と思った。ただ、話すときの笑顔とか笑い声とか、彼女たちのそういう好意みたいなものが、全部刃物みたいに降ってくる。
きっと彼女たちにとって、どっちも本当の気持ちなんだろう。その場で笑う時も、私を疎ましく思う時も。
本当は私が悪かったですごめんなさいと頭を垂れて静かに引き下がらなければいけないのかもしれないけれど、そんなことはする気がおきない。気のせいでしょ、と一蹴されてしまう程分かりにくいやり口で、周到に疎外されたと、恨む。
彼女たちが卒業旅行の話を進めているのを知って、性懲りもなく傷付いたので吐き出してみた。あんまりすっきりしない。誰かに見られると思うと文章が全部嘘みたいになっていく。
こういうどってことないもので凄く悩んで傷付くんだ。馬鹿みたいだと分かっていても。
彼女たちへの誕生日プレゼントは欠かしたことがない。小さな復讐みたいなもの。おめでとうの一言も、ましてやプレゼントなんてかえってこない。だから、毎年毎年彼女たちにプレゼントを贈る。おめでとうって贈る。
好きだからとか嫌いだからとか、そんなところはとうに過ぎて拗れてしまった。
私は、あなたたちに贈り物をする。
文字にすれば、このつかみ所のないもやもやとした暗い気持ちにも整理がつくかもしれないとの期待を込めて、心の暗部を覗いてみる。
照れていたのではない。悲しいような、つらいような、屈辱的なような、とにかく、これは嫌な感情だ。
小学校で、たびたび音読の宿題が出た。教科書の指定された箇所を、親の前で声に出して読み、その感想と日付を、専用の表に親に書いてもらって、先生に提出する。当時、そういう機会では空気を読まずにはしゃぐタイプの子供だった私は、必要以上に大袈裟に演劇的に抑揚をつけて、大きな声でハキハキと音読していたと思う。
父は、私が音読をすると、とてもよく褒めてくれた。
「天才だ。」
「すごいね~。」
「上手だなあ。」
それが本当に不快で。
なんだかひどく屈辱的な気持ちになった。だから私は音読の相手は母に頼んでいた。でも、父は仕事が終わるのが早く(夕飯はいつも家族皆で食べていた)、母が家事で手があかないと「お父さんに頼んで」ということもあったし、そういう時は本当に嫌だった。自分のプライドが許す限り、つまらなそうに、つまらない気持ちで読んだ気がする。
あまり覚えていない。
でも父親が笑顔でベタ褒めするのも、読めない達筆というよりは汚い字で何か一言コメントを残すのも、嫌な気持ちが湧き上がるものだった。
父は、自他共に認める親バカで、私のことをことあれば「天才だ、頭がいい」「かわいい、美人だ」と褒めていた。
「美人だね~と言って育てると、美人に育つらしい」と言っていたから、意図的に積極的に言っていたのもあると思う。
5歳の時に、親や祖父母が、この子東大に行けるんじゃないのウフフみたいな話をしていて、私は「東大ってすごいところ? じゃあ行く~!」と発言をした。この発言は高校生になるくらいまで繰り返しひっぱられ、その度に父は頬を緩ませた。あいにく東大はさすがににムリだったけど。顔面の方も、まあ仲いい人には褒められることはある。くらいに人並みで、劇的なモテエピソードなんかは特に無い。
父はとても頭のいい大学の頭のいい学科を卒業し、頭のいい人しか取れないような資格をとって、それでたくさん稼いでいる。ブランド志向というか、学校の名前をすごく気にしていて、私の受験のときも、あそこは旧帝国大学だ、筑波大は横国に比べて昔なんとかかんとかだったから格上だ、とか、そういうところをニコニコと語っていた。
父は私のことを間違いなく愛していたと思うが、小学校低学年くらいまでのころは、子供の子供な所に我慢ができず、時々キレて怒鳴ることがあった。
私はすぐにものを散らかしっぱなし、部屋を汚いままにしてしまう子供で(今もだけど)、「片付けなさい」といって片付けを始めても、他のことに気を取られてしまい、気がついたら片付けがちっとも進んでいない。ということが、たびたびあった。片付け以外にも、何か、やりなさいと言われて、「あとでやる~」と返事をしたきり、いつまでたってもやらない、ということはよくあった。そういう子供だった。今なら気持ちもわかるけど、子供の将来を思ってしつけが~とか、それ以前のところで、父はイライラしてキレた。(その気持も今はわかるんだけど)。
「なんでお前は言われたことができないんだ。」
「俺は命令しているんだ。俺がやれといったらただそれだけをやればいいんだ。」
「ただ1こやってほしいってお願いしているだけなのに、何でお前はソレ以外のことだけをやるんだ。」
「何回言わせるんだ。」
「お前は俺がやれといったことだけをやればいいのに、なんでそれだけのことができないんだ。」
「何度も何度も何度も。これだけ言っているのになんでわからないんだ」
なんていうか、たまに裏声混じりにでもなりかけた、抑揚のある言い方で、時には囁き時には大声になる、メリハリのある語り口で、父は私をよく、叱りつけた。
思えば反抗期は無かった。というより、させてもらえなかった、いや、できなかった。
父に少しでも叱られる…言及される可能性があることを避けていたから、いわゆる反抗期の時期は、自室でばれないようにばれないように泣くことが増えた。それだけだった。
家族で服を買いに行くことができなかったし、今でも親におねだりということができない。ちらりとでも、例えば「違うのにしたら?」みたいなことを言われると、なぜだかわからないけれど辛くて、泣いてしまう。
12月になって就活が解禁になって、自己分析とかそういうこと、その度に私は自分の卑屈さに苦しめられる。
頭ではおかしいとわかっているし、友人に溢す度に否定してもらっていることなのだけれど、自分の存在が企業にとって足手まといになるとしか思えなくて、つらい。失敗をして迷惑をかける未来しか思い浮かばないし、なにか自分の決断が、ささやかながらこの社会に影響をおよぼすのかと思うと怖くて不安で、何よりも申し訳なく後ろめたくて仕方がない。
この気持ちはもちろん、就活がストレスになっていたり、ゆとりつくした学生から社会人へとなる上での甘ったれた逃げや、通過儀礼的なものも多分に含んでいるのだろうけれど。
あなたが重視する価値観は? という分析では、「他者への影響」がゼロで「組織への忠誠」がマックス、「先人や上司への尊敬」が次いで高かった。ちょっと気持ちの悪い結果だ。笑ってしまった。
この卑屈さをたどったら、父に怒鳴られ萎縮してただただ泣いた15年前を思い出した。そうか、小さいころあんなふうに怒鳴られたら、そりゃあ卑屈にもなるなって。
少し違えば反骨精神あふれる人間になったかもしれないけれど。なるほど、あの過去が今にこうつながるのね。納得。
なにがあんなに嫌なんだろう。
私は父の笑顔のなにがショックだったんだろう。
育児論でよくNGとされる、「努力ではなく才能を褒める」ことをしたから?
じゃあ父は、どういう態度を取れば私は喜んだんだろうか?
普段まったく興味を示してくれない相手の興味を引くためには、恐怖を煽るのが一番簡単な方法だというのは判る。
だけれど正直言ってこの手の話には、恐怖を煽りたいあまりに「嘘・大袈裟・紛らわしい」が跋扈しているというのが個人的な観測。
昔はそういうことをやる人間は「ホラ吹き」として早晩相手にされなくなるため話が出てきづらかったんだろうが、
ネットが普及してそういう査読をすっ飛ばせるようになったせいか表に出てくるようになってる印象があるなあ。
そしてホラ吹きだと片付けてもらえればまだいいが、なまじっか地位のある人間がやるもんだから「信者」が生まれて派閥化するという病的な展開をするんだよなあ…
顔がすぐ真っ赤かになる私は体質的に(複雑なことは忘れてしまったが)
アルコールかそれの分解物かがうまく処理できないからだなのだろう
普通は1杯で赤くなり、2杯で眠くなり、3杯で吐く
調子がいいと吐かないけど
全く飲まないわけではなくちょこちょこ付き合わされ飲んでいる
お酒が飲めるようになったほうがいい」と言う。
アレルギー体質で飲んでるくすりとか
毎月飲まざるを得ない痛み止めとかの注意欄に
自分の肝臓を犠牲にしなきゃいけないとか思うと、今度は胃が痛い
いろいろ面倒なので私も酒を美味しく楽しく飲める人は羨ましいと思う
だから、一度たりとも「飲めないことを自慢げに」言った覚えはない
お酒飲める?と聞かれて、
まぁ、飲まされるけど
なのに、昨日のお昼の時に言われたんだ
「お酒が飲めないことは自慢ではない」
「自慢げに言うな」
あ、そうですか。
だったら、
お酒が飲めることはそんなに偉いの?
自慢できることなの?誇らしいの?
お酒はそんなに飲めなくても、一応全部参加してそれなりやってるし
ベロンベロンになって半分死んだようにしてタクシーに運ばれるって
それってそんなに偉いのって思った
人には向き不向きがあるし
体が受け付けないから仕方ないじゃん
ああ、そういえば今晩も飲み会です