はてなキーワード: 動物愛護とは
この2週間ほどの間、生物界隈ではとある話題で持ち切りとなっていた。
「犬鳴山納涼カーニバル(金魚の放流)」と題したイベントの話題である。
自然の川の中で金魚を放流するという行為に対し、生態系を破壊するのではという懸念から問題提訴が起こったのだ。
これは各所に飛び火し、インターネットメディアやテレビニュース等で報道されるに至った。
この際に、問題提訴に対してのカウンターで「環境保護は人間のエゴだ」という言葉が多く見られたので、
エゴ=エゴイズム、つまり「環境保護は利己主義者によるものだ」との弁であるが、
まず前提として、
自然環境の保護と動物愛護は別ものであるということをご理解頂きたい。
環境保護とは、生物が生育できる環境の維持が目的であり、その後の利用を含めるが、
環境がどうなろうがとにかく動物を傷つけないように苦しめないようにしよう、というものではない。
https://www.ted.com/talks/munir_virani_why_i_love_vultures?language=ja#t-283827
https://www.city.kasaoka.okayama.jp/site/kabutogani/ketueki.html
「ライ (ハンセン病)( Leprosy)」
http://www.design.kyushu-u.ac.jp/~hoken/Shiori/91Lepra.htm
現段階では利用されていない生物も年月が経てば利用される可能性も十分にある。
失ってから、役に立った可能性があると言い出してももう遅いのである。
http://www.tokyo-hotaru.com/jiten/report12.html
ホタルはそれぞれの地域で光りかたが異なることが記されている。
これらのものは実際に変化があって初めて浮彫になったものである。
それまで運良く変化しなかっただけで、この先どうなるかは誰にもわからない。
環境保護はエゴであると豪語する者は、どれほど生態系に対する理解と知識があるのだろうか。
エゴだと叫ぶ人のほうが、自分に利益がなければ関わらず、利益があるなら動き出すような
自分の目先の利益の為だけに、人類全体が損をする可能性のある選択をする人こそが、
利己主義者ではないだろうか?
解明できていないからこそ、今あるものを残しておくことが人類全体の利益になるのである。
「絶滅は自然の営みなので問題ないはずだ」とする人はそもそも論点がズレている。
それによる不利益を「自然とはそういうもの」と正当化する人間は、
そのような人間の言い分を聞いていては全体が不幸になるだけだ。
はてなに入り浸るようになってから皆が色んな話をするから基礎の基礎って部分だけでも復習したら色々皆の言ってることが解るようになってきたよ。
意外とみんな党派性にまみれてんだなとか
安倍の経済政策が左派っぽいとか、共産主義者っぽい人がどんな人なのかとか。
あと、ネオリベとか新自由主義者がどんな人なのかとか、逆にリベラリストがどんな意味で使ってんのかとか。
右派の人が言う
「自由を尊ぶのがリベラルで左翼はエセリベラルだろ」とかの意味もわかってなかったけど、単なるリベラル同士の派閥争いだったんだね。
フェミニストが1波2波3波とかあって、3波は割りと過激で嫌われてるとか、1~2の間は現代の社会人だとほとんど浸透してて既に思考に染み付いてるのがわかってない人が多かったり(広義で言えばほぼすべてフェミニストなんだ。でも皆が女性の権利は尊重すべきというのが当たり前になったから過激派のみがフェミニストと呼ばれるようになった)。
むかしむかし、あるところ(関係者の特定を避けるため時代や場所の詳細は伏せさせて頂きます)に、おじいさんとおばあさんがいました。
ある日、おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯へゆきました。
ちなみにこの夫婦は男女平等の観点から、日替わり交代で仕事を分担しているそうです。
そこへ、川の上流から大きな桃がどんぶらこ〜どんぶらこ〜と流れてきました。
おばあさんは大変驚いて、その大きな桃を家に持って帰りました。
※おばあさんは一般的に年をとった女性という意味の単語ですが、あくまでこれは架空の物語なので老婆ひとりでも重量のある果物を家まで運ぶことは可能ということで先のストーリーを進めさせて頂きます。
持って帰った桃をおじいさんと一緒に割ってみると、なんと桃から可愛らしい赤ん坊が出てきたではありませんか!
※フィクションです
ふたりは「桃 名付け」と検索したところ、yahoo知恵袋でこのようなベストアンサーを見つけましたので一部抜粋/編集して引用させて頂きます。
ただ実をつけるだけでなく人を悦ばせるという意味も
人生を通して、葉が出て、花が咲き、実がなり
DQNネームにはならないかをしばらく思案した後、ふたりは赤ん坊に「桃太郎」という名前をつけました。
ちなみに太郎は当時、男児につけるのには一般的な名前だったようです。
そして桃太郎は、おじいさんとおばあさんの願いどおり、すくすくと立派に育ちました。
そんなある日、桃太郎は鬼ヶ島へ鬼退治に行くと言い始めました。
おばあさんは彼の若気の至りを応援すべく手作りで無添加のきびだんごを持たせてやりました。
(手作りでなくても鬼退治へ持参することは可能ですので、お忙しい方は市販品で問題ありません)
おじいさんは「何があっても自己責任」という言葉をぐっと飲み込みました。
さて、危険な旅にいたいけな動物を巻き込むことは大変憚られますが、桃太郎は猿と雉と犬を仲間にしました。
また、餌を褒美にして動物に攻撃性を持たせることは動物愛護の観点から筆者自身、あまり賛成できませんが、あくまでこれはフィクションです。
そんなわけで、桃太郎は鬼ヶ島にやってきました。そこには鬼がいました。
(ちなみに、鬼は特定の団体や個人を示す暗喩ではなく、空想上のモンスターであることをご了承ください)
※童話・伝説・民間の伝承などは「著作者の死亡から著作権の消滅までの期間を50年としなければならない」という著作権の規定の範囲外のため、今回このように個人の趣味の範囲で二次創作し増田に投稿致しました。
T〇タックルで今、動物園が虐待とかイルカが虐待とかで動物愛護団体の人が出てて
動物園も水族館も動物虐待ですとかいいつつ自分は猫飼ってますとか言ってて凄いなと思ったんだけど
これって、いわゆる西洋諸国のイルカ漁反対と精神構造的には似ているんだろうな。
と思った話。
いつも西洋のイルカ漁反対や捕鯨反対の記事やニュースを見るたびに日本人としては
「なんで牛を食べるのはOKでイルカはだめなのか」って思うんだけど
(ここで、中国や韓国の、犬を食べる文化を馬鹿にするような人はこれから話す西洋人と同じ思考回路だと思ってください
別に言い悪いを自分は言うつもりはなく、そういう思考回路だと思うだけでいいです)
西洋に根深いはキリスト教って基本、「赦し」の宗教なんだと思う。
基本的に罪は、理論的な事じゃなく神の教えに反することかどうかが大事なわけで
だから彼らはイルカ漁に反対する。赦されてないから。自分達の神に。
日本人は根っこが違う。八百万神があり、一寸の虫にも五分の魂があり全ては平等である。
西洋はここが違う。赦されているものと赦されていないものがあり、これらは区別されるべきものだから。
牛を食べる事は赦されていることだから
僕らの思う矛盾は彼らの中にはないし、基本上から目線だから議論の余地はないのである。
っていう意味もこめてT〇タックルに出てた動物保護団体の女の人には日本人としてはなんか違和感が残ったなあという話
まあ、よくいるよねそういう奴。
実家の犬はよく飛び跳ねる犬で、年に一度か二度帰るとそのたびに前足で腹を押したものだった。くるりとしっぽのまいた日本犬の雑種。動物愛護センターからその犬がもらわれてきたのは私が高校に上がった年である。うんこを踏んだ足で飛び跳ねていた時はてっきりバカだと思っていたが、びっこをひいているふりをして人の同情をひく仕草を見せた時にバカのふりをしているだけらしいことが発覚した。生後半年もたたないうちから、どうやったら人に愛されるかを知っている犬だった。
毎日マウントをとっていたせいか、実家を離れても犬はずっと私のほうが立場が上だと思っていたようだ。犬が来た時には実家を出ていた姉のことはよそさんだと思っているフシがあり、末っ子に関してはいつか立場が逆転するかもしれないと虎視眈々と機会を伺っていた。だから、実家を離れた二人が戻ってくるたび、犬はよく吠えた。私は吠えられなかった。ひと月前に実家に顔を出した時も、犬はやはり吠えなかった。十六になった犬は緑内障で目が見えておらず、耳も悪くなっている。なんにでもすぐに怯えて、よく吠え、そして怖くないものだと分かった後も不機嫌に唸っているおじいさんだ。私が実家に帰った時、犬は玄関の前で丸くなって寝ており、気配に気づいて顔をあげただけだった。わからないかもなと手をさしだし、匂いをかがせると犬は重そうに立ち上がってしっぽを振った。飛びかかっては来なかった。よろこんではねたりもしなかった。後足はもうだいぶよわって、散歩の途中に顔をあげて女子高生のスカートの中身を覗くこともできなくなっているのだからしかたのないことだ。かわりに犬は小さな頭を私の膝のあたりに何度も何度もこすりつけていた。なでてくれと言っているような気がした。昔はそんな甘え方はしなかったのに、自分の体の自由が効かないことを犬はよく知っている。撫でるたびに毛が抜けて、服につく。毛は硬くて白くて、そして臭かった。犬はあっという間に老いてしまう。いつまでも甘えっ子な弟のくせに、あっというまに年老いて死んでしまう。さびしい。
昭和の頃・・・小学校の夏休みに私だけ父の実家に滞在したことがある。
ほんの数日だ。
しかし、とても恐ろしい思い出をもった。
祖父母は和歌山の山奥に住んでいる。
熱く炊きすぎた風呂釜に滑ってやけどで死んだ子がいるような時代だった。
この地で、祖父母は農業をしているんだが、子供心に残酷な祖母の姿を見たことがあるのだ。
小屋に住みついたメス猫が生んだ子猫を、祖母は首根っこ掴んで叩き殺していた。
怖がる私をものともせず、祖母は子猫を殴打しまくってぼやきながら首をひねっていった。今だったら完全、動物愛護違反なんたら・・・。
自分は、とても恐ろしい秘密を祖母の実家で見せられた気がした。
数年後、父もこんな祖母を見て育ったのだろうかと思うとぞっとした。
それで・・・・・・・・・・・・・・あれから数年たって振り返ると、未だに不思議だった。
生まれた子に罪はないとかいう台詞をドラマで見た思春期の頃、殺された子猫のことを思い出してはトラウマになっていた。
だが、祖父母の子である父もそういう環境で育ったことの影響力を後々、両親の離婚の危機で思い知る。
生物や命を粗末に扱う祖父母たちの子である父は、パチンカスになっていた。
やがて、父は借金まみれ賭博まみれで蒸発し、家を売り払い母に借金を肩代わりさせていた。
母子家庭となった私は、嘆く母を支えながら父を恨んで貧困家庭で育った。
本当に、あの祖父母にして父有り。
そう感じてた。
父親はクズだったが、その祖父母もにたようなクズなんだって今になって思う。
猫は獣害とか言われているが、命そのものをむやみに奪うことはダメだと思うってなんとなく小学校の頃、感じてたんだ。
祖母が子猫を殺して命を痛めつけているとき、私は祖父母が残酷な支配者のようで泣くことしかできなかった。
なんで祖父母はあんな残酷に子猫を殺せたのかっていうと、家の畑を荒らすし、人間の生活を荒らす害になるものだってだけなんだろう。
でも、それでも自分は自分の孫娘の前で子猫を殺す場面を見せることなどできはしない。
倫理観が違うんだろうなって思った。
ただただやりきれない。
駅に届け出て警察と相談して飼い主さんの登場を待った。1ヶ月経ち2ヶ月経ち3ヶ月経ち、でも駅にも警察にも保健所に動物愛護センターにも
どこにも問い合わせはなかった。
石の育ち方から少なくとも1年以上は放置されていたものだろうとの事だった。
これ以上石が育って尿道を塞いでしまったら腎不全になる恐れがある。
血液検査の結果、体の炎症を示す値も高かった。
ただ獣医師によると推定年齢が8~10歳であるし、やせ細ってしまっているので今すぐ全身麻酔を行う手術を行うのは躊躇われるとの事だった。
あと10日間で所有権が私にうつる事もあって、手術の日にちは11日後とし、それまで体重増加と体力作り(といっても朝晩散歩に行くぐらいだけど…)
に努めることになった。
手術の日が来た。朝ごはんは抜き。
病院までちょっと遠回りして行った。散歩が好きな子だった。短い脚をちょこちょこ一生懸命動かして歩く子だった。
術後、5日間は入院になると事前に説明されていた。しばらくお散歩に行けないからね、と、でも体に負担をかけないように抱っこをして公園を一周した。
手術は3時間に及んだそうだ。子宮の酷い腫れも発見され、予定していなかったが急きょ子宮を取る手術も行ったとのこと。
手術が終わり、麻酔からも覚めることが出来た。夜、面会に行った。元気だった。
入院1日目。面会に行くと尻尾をブンブン振って出迎えてくれた。元気だった。
入院2日目。面会に行くと後ろ足で立ち上がって出迎えてくれた。抱っこをせがみ、点滴の管が外れるほど動き回っていた。
エリザベスカラーをしていた。獣医師に訊いたら、くるくる回ってカテーテルを体に巻きつけてしまうので防止にエリザベスカラーを付けたとのこと。
入院3日目。少し元気がなかった。抱っこをするとずっしりと重く感じ、お腹はパンパンに腫れていた。
入院4日目。元気がなかった。あんなにフッサフッサと揺れていた尻尾がたらん、と垂れ下がっている。
それでも名前を呼んでアイコンタクトを取ると少しだけ尻尾を持ち上げてくれた。お腹はパンパンだった。
元気のなさが気になったが、翌日退院できるということもあって10分ほどの面会の後帰宅をした。
その日の夜、病院から電話があった。突然悲鳴をあげて倒れ呼吸が止まっている、蘇生処置をしているからすぐに来てほしいとのこと。
病院について診察室に駆け込んだ。そこには四肢を投げ出して横たわり、心臓マッサージを受ける姿があった。
名前を呼んだ。とにかく呼んだ。本当の名前はなんだろう、この子は置き去りにされるまで何と呼ばれていたんだろう。
本当の名前で呼びかけていたらひょっとしたら戻って来たのかもしれない。わかんないけど。そんなことを1夜明けた今思っている。
先生が心臓マッサージの手を少し止めるととたんに心電図の数値が乱れる。
心臓を動かす薬は全て入れたそうだ。
お尻に手を当ててみた。少しずつ体が冷たくなっていくのがわかった。
これはもうダメなんだなと思った。
先生は「これ以上はもう…」と口にした。20分間の蘇生処置。戻ってこれなかった。死んでしまった。
元気になったら家でお迎えをするか里親さんを探すかは決めかねていた。
だから私は彼女のママにはならなかった。だけどママになってあげればよかった。
亡骸に「ママだよ、私がママだよ」と声をかけてあげても、もう遅い。
一緒に暮らした間、自分の犬同然にケアをし可愛がったけれど、もっと早くに自分が里親になるという決断をしていればよかった。
そうしたらちょっとは頼もしかったのかもしれない。医学的には根拠のない発想なのかもしれないけれど。
前の飼い主がもっと早くに結石に気づいていれば、服薬で治療出来ただろう。
前の飼い主が避妊手術をしていれば、子宮の病気にならなかっただろう。
そうすれば今回の手術は必要なかった。身体に負担をかけることもなかった。
歯もボロボロだった。涙やけもよだれやけも酷かった。日常的にケアをされていなかったのは一目瞭然だった。
帰ってくるはずの日に旅立ってしまった。
どうしてこんな小さな体の、ただひたすらに一生懸命に生きている子がこんな運命を辿らないといけないのか。
手術を決断しなければよかったのか?もうちょっと経ってからの方がよかったのか?でも膀胱の中にあんな大きな石を抱えたまま
過ごさせるのか?
どうすればよかったのか、わからない。ただ、もう何もしてあげられなかった後悔だけがつきまとう。
全てはこれからだった。退院したら。元気になったら。そしたら。
痛い思いも怖い思いもせずに、おいしいものをたらふく食べて遊び回れますように。
切に願う。
全国にこんな思いをしている子は何百匹いるんだろう。
動物愛護だのなんだのと叫ばれているが、田舎ではそんなものは通用しない。
猫はネズミのようなもの、とっ捕まえて殺す。保健所に引き渡すとかではなく、その場で殺すのだ。
猫を飼っている人もいるが、飼っているというより勝手に家にいるという方が感覚的に近い。
子供なんか産んだら、ジャガイモでも詰めるかのように袋に詰めてどこかに持っていく。
その現場を小学生の頃、友達の家で見たが、その後どうなったかは知らない。
猫に子供を産ますと野良猫が増えるということで、極悪人扱い。村中から白い目で見られる。
鹿なんかも動物園や奈良公園でみたらかわいいものだが、田舎ではただの害獣だ。
たまに車に引かれて死んでることがある。
たまに逃げ出し村中大騒ぎになる。
窓なんか開けていられない。が、慣れる。家に遊びに来た奴らが耐えられないだけ。
犬は若い人も増えているので最近では酷い扱われ方をされることはあまりない。
子供の頃は、まさに犬の扱いをされていてずっと鎖でつながれていた。室内犬でも関係ない。
餌は基本的に残飯だ。しかし、犬も残飯の方が好きなようで、ドッグフードはあまり食べない。
うちでは祖母が米ぬかまで食べさせていた。ほとんど虐待だが、祖母は普通のことだと思っていた。
吠えても苦情がこないが、村で少し浮いた存在だったら、だまって村八分にされる。
あとは平気で放し飼いにしていて、追いかけられたり、むしろ番犬として追いかけるようにしつけられた犬なんかもいた。
鶏や孔雀を飼っている家もある。意外だが孔雀の鳴き声はサイレンのようにうるさい。
こいつらは明け方に鳴きはじめてうるさい。酷い奴になると午前2時くらいから鳴きはじめる。
たまに逃げ出し、みんなで捕まえる。
全身の羽をむしられ絞められることもある。その後、食卓にのぼる。
農薬をヘリかなんかで村全体に撒く。その時間は家からでてはいけない。
学校にも少し早く登校させられる。そして農薬が入ってるかもしれないプールで泳ぐ。
元増田です。トラバありがとうございます。何についても選び方の基準や価値観は人それぞれ・十人十色だと思うので、別に「顔で犬を選ぶ」ことは否定はしていません。お金を出して"買う"のだから少しでもいい子を選びたいという欲求もわかります。
寧ろ、今回のように「自分は顔で選ぶ」と言っていただいたほうがとても良いと思います。正直というか。
私が疑問に思うのは、可哀そうな子を救いたい・行き場のない子を引き取りたい・放っておけないと動物愛護を口にする方の多くが、結局は「顔がかわいいか否か」で判断をしていて、それを隠して応募してくる点です。
よく犬を拾う。
拾った時は飼い主さんが探していないかその場所で1~2時間一緒に待ち、結局飼い主らしき人が見つからなかったら、
動物愛護センターに保護している旨の電話連絡をして、保健所にも同様の連絡をして、最寄の交番に届け出る。
交番で会計課の人に犬の写真を撮ってもらったら、保護する旨を了承してもらいそのまま動物病院へ。
動物病院ではマイクロチップが入っているかいないかの確認と、体重や推定年齢・健康状態を診てもらう。
マイクロチップが入っていればAIPOに照会するんだけど、今まで拾った犬でマイクロチップが入っていた子は一匹しかいない。
健康状態に問題がなければ取り敢えずノミダニ予防を行って、自宅に連れ帰る。
そして体重や推定年齢など獣医師から聞いたヒントになりそうな情報を伝えるために、動物愛護センターと保健所に再度電話連絡。
以前それらを伝えたところ「あ、そういう情報はいらないんで」と言われ、「でも飼い主さん照会のときのヒントになりませんか?」
と提案したんだけど、「書く項目がないんで、いいです」と言われてしまったため。
で、あとは飼い主さんが見つかるまで保護し続ける。
脱走などの「迷い犬」は大体1週間以内に飼い主さんから行政に照会があってお家が見つかり解決するんだけど、中には「捨て犬」もいて
そういう子は当然1週間経っても2週間経っても何の連絡もない。
1週間経って行政に照会が入っていない場合は、もしかして捨てられた?という嫌な予感を抱えつつ、探し方を知らない飼い主さんも
いるから…という動物愛護センターの方の言葉を励みにこちから飼い主さんを探す。
保護場所近隣の動物病院やグルーミングサロンへの照会と「犬保護してます」的な貼り紙の掲載依頼や犬の散歩をしている方への聞き込みを行う。
併せてSNSで犬を誤って逃がしてしまった人がいないか、探している人がいないかチェックする。
1ヶ月経って飼い主さんが見つからないときは、もう捨て犬色が濃厚になる。
だけど、迷い犬・捨て犬は落し物扱いであるから、3ヶ月経たないと所有権が私にうつらない。だからどう考えても捨て犬だろ、と思っても
1ヶ月の時点では里親を探すことは出来ない。(これは以前警察から指導されたこと)
だから3ヶ月間自宅で保護を続ける。私自身も犬を飼っているけれど、うちの犬はいっときのメンバー増加・卒業に慣れっこのようだ。
遊び好きの子には積極的にかまいに行き、緊張している子やちょっと人間不信の気が見られる子にはそっと寄り添う。犬同士のコミュニケーション能力すごい。
3ヶ月経ちついに飼い主が現れなかった時は捨て犬認定をして、動物病院で健康診断を受診後、里親を探す。
これまでに知人への打診はし尽してしまったので近隣動物病院への貼り紙とインターネット上での募集を行う。
ボロボロの状態で何日もさ迷っていた子、段ボールに入れられて公衆トイレに捨てられた子、足が3本しかない子、耳が聞こえない子、人間不信の子、基本は懐っこいけど人の手を異常に怖がる子、
クレートに入れられた状態で置き去りにされていた子(ちなみにこの子は火傷をしていて、クレートの中と回りにはロケット花火のカスがあった)など、特徴や詳細をちゃんと書いて募集する。
もちろん保護している3ヶ月の間に出来るだけのケアはしているけれど、肉体的ハンデはどうにもならないし、根深い心の傷は多少改善しましたぐらいに持っていけるのがやっとで、里親になった
方には相当の苦労があるだろうから。最初から情報開示して、それでもお迎え頂ける方を探す。
でも顔の可愛い子には多数の応募がある。むしろ健康で人懐っこいけど不器量な子にはほとんど応募がなかったり時間がかかったりする。
この間、小型犬でとても器量のいい子の里親を募集するに至った。小さくて美人さんだけれど心に傷を持つ子で結構な人間不信。私には大分懐いてくれたけど、散歩中など他人に目を
その子は色んな人のご協力で元の飼い主さんを探し当てることが出来たのだけれど、ずいぶんと犬の尊厳を無視した飼育環境だったようだ。度の行き過ぎた躾と称した暴力もあったみたい。
元の飼い主さんは飼育放棄を表明したのでそのまま私が保護をした。
不憫な目に遭ってきた可哀そうな小さな犬。里親に応募して下さった方はみなさんは言う。
「不憫でどうしても放っておけない」「愛情を知らずに育った子を包んであげたい」「行き場のない犬を引き取りたい」「可哀そうな犬を一匹でも救いたい」
複雑な子でもご理解を頂けて、とてもありがたい事だと思う。皆さん懐が深くて優しいなあと思う。
でも本当に行き場のない子は10歳以上のハイシニアだったり、たくさんの治療費がかかる病気を患っている子だったり、不器量な子なんだよね。特に最後。
かわいければそれだけで引く手数多。
トイレの成功率も高く、健康で人犬問わず誰にでもフレンドリーでも不器量な子は選んでもらえない。
動物愛護に関心があるんです可哀そうな子を幸せにしてあげたいんです、としきりにおっしゃる方に、保護して里親が決まらないまま1年が経った子もいますよ、と写真を見せると
一瞬引くんだよね。それでやんわりと拒否の姿勢を示してくる。そして私はそれにちょっと傷つく。可哀そうな子を幸せにしてあげたい…ってなんなんだろうなあと思う。
どんな犬でも里親さんが見つからなかった場合は家でお迎えすることも覚悟して保護をしているので、仮に里親さんが見つからなくても動物愛護センターに連れていったりはしないんだけど、
家にも面倒を見れる限界というものがあるので、出来れば多額の治療費が必要な重い病気を患っている子や、12、3歳以上の高齢犬をお迎えしたいと思う。
病気を持っている子や高齢の子は「普通の子」に比べて時間も手間もお金もかかるので、里親さんが決まりにくいし、環境の変化に耐えうるだけの体力がなかったりする子もいるので。
だから健康で十分家庭犬としてやっていける素質のある子は積極的に里親さんを探すのだけれど、顔のかわいい子は難しい心を持っていても、多少高齢でもたくさん応募がある。
だけど、不器量な子にはほとんどお話しはこない。とてもいい子なのに。
「誰かの大切な犬」なれない子。ただ不器量に生まれたばっかりに。
じゃあお前の感覚だとその辺の猫とか殺しても何とも思わない、ってことか?
そういうの事件になるくらいなんだが、それも世間がおかしいと?
そもそもここでは別に動物愛護の精神が無い!ということを言ってるわけじゃない。
それこそカエルに爆竹打ち込んでも何とも思わないってんならそれでいい。
でもそうじゃないんじゃないか、って話だったんだけど。そこは勝手な予想だけど、雰囲気的に
「蛙に爆竹詰め込んで爆発させた(笑)」なんてのがどこぞの馬鹿ガキがツイートすれば軽く炎上するだろ?違う?それともそれ見て普通の人たちも面白いね!って言うと思う?
しかしそれが何のためにシェアされているかということを深堀すると、
それはすなわち悪意と同等の意思表示にもなりかねない。
こんなことを知っている自分凄い、
動物愛護の私偉い、
それが結果論、何かを啓発することとなったとしてもだ。
起こっている社会問題を解決したいがための行動なのであれば、
もう少し頭を使って適切なアプローチがあるはずだろう、と言いたいのだ。
何かを変える力はないし、
そもそも共有者(あくまで発信者ではなく共有者)にそのような意思があるとも思わない。
逆説的なことを言うと、
何かを変えようとしている人は、
facebookのシェア画像を見たがゆえに行動するタイプにはいないように感じる。
だからもうやめてくれ。
かっこ悪いって言うてる。
例えば
牛肉を食べながら、日本の捕鯨を批判して、「日本人を殺したい」とまで言う人たち。
森にドングリを撒いて、クマを人里に近づかせる人たち。
動物愛護は歪んだ自己中心的な偽善。自己満足は結構だが、それを他人に押し付けるな!と思う。
彼らの動機はきっと、
「かわいそう」とか、そんな、単純なもので、
「もっと、可哀想なのがいるけど?」と言えば簡単に論破できる。そんなものでしか無い。
なのに、なにかが、引っかかった。
「かわいそう」とか「かわいい」とか「助けたい」とか。それ自体は悪いものでは無い。
だけど、その感情を共有できない人に、それを(多くは社会制度・社会負担という形で)押し付けるのが悪いのだ。
それって恋愛してる時と似てるなとなんだか思った。恋をしてる時は、その人のことだけを考えて。その人が別の人と話してたりすると、ヤキモキしたりして。
「そんなことしほしくない」と勝手に思う。思うだけなら罪のないヤキモチだが、それを相手に押し付けたらきっと迷惑に思われる。
動物愛護にも恋愛にも「好き」という気持ちが、前提にあるんだなと、当たり前の事を知る。
動物愛護は政治的になると、ただの「好き」だけじゃ居られなくなる。だってそれだけじゃ支持されないものね。
だから、「絶滅危惧」とか「道徳心」とか「動物の知性」とか、説得力のありそうなロジックを持ち出して、支持を得ようとする。
それに対して、反対する側も、「絶滅しない」、「道徳の問題ならまずは人間から」とか、「動物の知性は対したこと無い」とかそんな事から反論する。
でも、そんな反論をされても動物愛護側からすれば、へっちゃらなんだろうね。
だって彼らの原動力は「好き」の感情なんだから。善なんてする気は無いんよ。ロジックだってなんでもいい。
また、恋愛の話に戻る。例えば昔の話。親に結婚を反対された時。そりゃ、息子or娘は手を尽くしてロジックを組み立てるだろうね。
年収が〜、将来性が〜、親戚が〜とかさ。親は子供の為に、家の為に「善い」事をしようと結婚に反対する。子供はそんな善なんかどうでもよくて、とにかく「好き」を大切にしたいと思う。
嘘の善。だけど、「好き」って悪なのかな?
その嘘の善こそ(当人にとっては)究極の善である「愛」なんじゃ無いだろうか?
動物愛護は確かに鬱陶しいし、どうみても愚か。歪んでる。
東武動物公園とか、動物園と遊園地が合体した東武鉄道系施設なんだが、
下の子が動物を触れ合えるコーナーで、ウサギ・モルモット・そしてヒヨコを触っていた。
ウサギ・モルモットの手触り体験をやっている動物園は割と多い(例:あらかわ遊園、板橋子供動物園)が、
そういえばヒヨコを手触りできる動物園は少ないなあ・・・と思っていたが、
下の子が「初めて本物のヒヨコを見た」と言うので、びっくりした。
図鑑とかビデオではヒヨコを見たことがあるが、本物を見たことは、6年間の生涯でゼロ回だったようだ。
・・・という話を、遊園地エリアでジェットコースター1時間待ちしていた上の子(小5)にしたら、
こちらも「生ヒヨコは、今まで見たことがない」とのたまう。
しかし、冷静に考えてみたら、数十年前は神社の夜祭なんかで「ヒヨコの屋台」
(まともなヒヨコもいれば、カラーヒヨコもいる)が結構出店していたが、
「ヒヨコという動物を、リアルで子供に見せることができていた、貴重な体験の場だった」ということじゃないか?
最近のお祭り屋台では、動物系の出し物は、せいぜいい金魚すくい程度しかない。
それもこれも、「ヒヨコを商売に使うなんて、ケシカラン!!」という動物愛護の風潮の行きつく先だったんだろうか?
それとも、ヒヨコの雌雄判別技術が進歩して、ヒヨコの雄を早期に峻別できるようになり、
早期に殺処分されるようになって、雄ヒヨコの「出品」が減ってしまったのか?
ということで、サンプル数=2で「今時の子供は、実物ヒヨコを見たことがない」という仮説が成立したが、
これサンプル数=1,000で調査してみても、「実物ヒヨコを見たことない」という子供が
過半数を占めちゃいそうな気がする。
熊のゆるキャラ、マスコット化のせいでヒグマの認知度が予想の斜め上を行くようになった。
よもや大正時代最大の獣害事件を知らないとはと思うと時代を感じてならない。
三毛別村の惨劇をここ何年かに一度くらいに特集するようになって漸く誰かしらにヒグマの恐怖が伝わってきたと思う。
それでもゆるキャラ・マスコット化のせいで動物愛護に動く個人や団体も目に見えて多くなった。
人を襲うような熊はこれ以上被害が拡大しないためにも殺処分するのがわが国における慣わしなのだ。
これらは人間が思っている以上に獰猛で年間の魚類補食量も馬鹿にならない。
ましてや捕鯨反対を謳っている連中や国は過去に商用捕鯨を生業としたり鯨油を取るためだけに乱獲してきたのだ。
バスで行く観光スポット巡りやそれに関連した番組の放映は如何なものかと思う事がある。
例えば、動物園で子羊とふれあう企画があったとして子供たちはかわいい子羊を触って愛着を持っていく。
しかしその後お昼ご飯で肉食べ放題、その中で今さっき見てきたであろう子羊がソテーされた状態で運ばれてくるのである。
これは如何なものか?
あれだけ可愛がったのに結局子供たちは子羊とふれあう事よりもラム肉の美味さに感動するのである。
これでは本末転倒ではないか。
子供が参加する動物とのふれあい企画であれば、肉の食べ放題はともかくそこで出会うであろう動物の肉は提供されるべきではないのである。
そんな事をすると子供は今後二度と動物に対して、この場合子羊に対して愛玩目的と見なくなるだろう。
それでは肉になるだけの家畜と何ら変わりない。
きっかけはアースリングという、動物虐待の映像をオーストリア人の友だちに見せられたことだった。
その映画では、イルカ猟についても触れていて、それをきっかけにイルカ猟について考えるようになった。
さらにそのあと、ウィーンを訪れたとき、"SHAME ON JAPAN"(日本を恥じろ)というポスターと共に反イルカ猟の団体に出くわした。
そんんなこんなで一度、オーストリア人と熱く議論したのと、その後ほかのEUの友だちとも話したので、彼らの意見をまとめてみる。
共通する基本スタンスはこんな感じ。
それに対する私の意見としては
その後こんなやり取りをした。
友人「じゃあサル(※人間に近い知能を持つという意味でだと思う)を食べてるのはいいのか?」
私「私個人では食べないけど、もしそういう文化を持つ地域があるとすれば、それはそれで構わない。中国が犬を食べるのを知ってるけど、私はその文化に入りはしないけど、反対もしない」
友人「じゃあカニバリズムに対しては?人間が人間を食べることもいいのか?」
この問いかけをされた時、私はまだそれに対する答えを自分のなかで見つけてなくて、黙ってしまったけど今はこう言うかもしれない。
「人間を殺すことは世界的に法律で禁止されているから、食べるために殺すべきではないと思う。でも、前にどこかのバーで人の指をいれたお酒があったように、誰かが好んで自分の体を提供する分には構わないと思う」
友だちと議論をしていくなかで本当に疑問に思うのは、どうして知能が高いという理由だけで「殺さない」という判断ができ、人間より明らかに知能が低い動物は「食料」という認識が持てるのかということだ。
どの動物だって苦痛を感じるに決まっているのに、イルカ猟に反対する人は、イルカがいかに優れているか・苦痛を感じるかを訴えてくる。
それにこの知能の優劣で判別する方法、私は教育を学んでいるものだから、つい「たとえば災害時に、教室内で優れた子が優先的に生き残れる」みたいに置き換えて考えてしまう。
もし人間よりもはるかに知能の高い動物がいて、もしその動物が人間を食べるとしたら、「この子は人より劣っているのでどうぞ。でもこっちの子はとても優れているから殺さないで」という風になるのだろうかと思ってしまう。
オーストリア人の友だちはこの意見に対して、「人間は人間に生まれたというだけで、他の動物よりはるかに高い一定の知能を持っている。だからそんな風にはならない」と反論してきたけど、私はあまり納得がいってない。
友だちとの議論はいつも中途半端な感じに終わってしまうけど、でも話し合えるだけ有益だと思う。日本でもこんな風に活発的に話し合えるといいんだけどな。
まわりにベジタリアンやビーガン、豚を禁ずるユダヤ教の友だちがいるおかげで食肉産業の実態について知ることができた。
実態を知ってからは、自然と「肉」から離れていった。まぁ友だち・家族と生きていく上で、一緒にごはんを食べるわけだから限度もある。
限度を踏まえつつ、私のなかでの肉に対する意識はこのようなものになった。
もともと肉大好き!っていうタイプじゃないし、むしろ油っぽいものは好きじゃないっていうことも、肉を絶つことに抵抗がない大きな理由の一つだと思うけど。
多くの人にとっては難しいことかもしれない。
それはきっと多くの日本人が、食肉が生産される過程を意識しないで生きているからだと思う。
動物はみんな友だちですなんて言いたくない。一部の動物に対し差別的に思えるから。
食べるなとも思わない。個人の自由だし、文化の形であるから。弱肉強食の世界が成り立たなくなるし。
大事なのは生産過程を知ること。そんな教育をどこかで導入し、一般的に広く知れ渡らせることが必要なのかもしれない。
食料になるために生まれる動物たちがどのように生きて死んでいくのか、それを知るだけでも「肉を選ぶときの参考」になると思う。
(ただ黒毛和牛という上質な肉すら、虐待まがいな経緯を経て生まれるようだから、高くて上質=上質な生育環境というわけではないみたい)