はてなキーワード: PC-9801とは
平成になりもうすぐ30年を迎えようとしている。
特定の年齢層をターゲットにした製品の企画に携わる機会があり、
ゲーム史を振り返りつつ、当時のユーザーたちの現在の年齢を書く。
ハードには [ ] を付けた。
1978 スペースインベーダー
電波の規制が緩い時代に家庭向けとして登場したテレビテニス(ポンテニス)は、
スペースインベーダーの登場により、喫茶店がめまぐるしく様変わりをはじめた。
※当時20才=1958年(昭和33年)生まれ=現在59~60才
1979 ギャラクシアン
1981 ジャンピューター、ドンキーコング、[IBM PC 5150]
第2次オイルショック後、ギャラクシアンとパックマンが立て続けにヒット。
ゲームウォッチは床屋等の待合所にもよく見かけるようになった。
PC-9801シリーズの発売が開始され、1990年代前半まで栄華を極めることになる。
※当時20才=1962年(昭和37年)生まれ=現在54~55才
1983 ゼビウス、ドアドア、[ファミリーコンピュータ]
1985 グラディウス、ドルアーガの塔、スーパーマリオブラザーズ、ボンバーマン
ファミリーコンピュータ発売。
スーパーマリオブラザーズというソフトが登場により、一般家庭にテレビゲームが普及。
※当時20才=1965年(昭和40年)生まれ=現在51~52才
1987 ドラゴンクエストII、[PCエンジン]、ファイナルファンタジー
1988 ドラゴンクエストIII、スーパーマリオブラザーズ3、[メガドライブ]、テトリス
スーパーマリオブラザーズ2、ゼルダの伝説、メトロイドを引っ提げて。
PCエンジンやメガドライブ等、家庭向けハードが次々と発売される。
ドラゴンクエストIIIは社会現象になった。
デジタル放送に切り替わるあたりからテレビリモコンに大量のボタンが増え、
新しいモノにはついていけない……とボヤきつつも、
地上波のデータ放送やミニゲームを操作できる世代が60才を迎えようとしている。
余談ではあるが、つい先日C層向けケータイを選ぶことになったのだが、
厚ぼったいくせに、衝撃に弱い。子供だましにしても、雑だ。
まだまだテレビが生活の中心にあった時代は、茶の間のテレビを使うファミコンは時間が限られていた。
1989年にはゲームボーイが登場し、家庭の生活様式にも影響を与え始めた。
ニコニコ動画でロックマンXの動画に「レトロゲーム」のタグが付いてて、ショックを受け、
レトロゲームとは、ゲームの動画の中でも古いゲーム・昔のゲームの動画に付けられるタグである。
レトロゲームは現行の最新機・最新作と比べて古い時代のゲームが該当する。
その範囲は世代によって多少のばらつきがあるが、2011年現在では大体下記の通りである。
・家庭用ゲーム機(据え置き型)・32ビット機(PS・SS等)以前のハードの作品
・パソコンゲーム・Windows95普及以前の国内独自規格パソコン(PC-8801/PC-9801・X68000・MSX等)の作品
http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%83%AC%E3%83%88%E3%83%AD%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0
まあ、そうですね、スーファミも入りますね・・・と、さらなるショックを受けた。
自分の子供時代のメインコンテンツがレトロ扱いされることに、自分の加齢をまた実感してしまう。
それが時代の流れ。
製造業で実際にPC-9801が稼働している現場の立場からすれば、単に設備投資の余力が無いという問題ではない。熱、粉塵などの過酷な現場でも制御コンピュータは確実に動かなくてはいけない。ラインは24時間稼働し続け滅多に停止もしない。急な停電後の自動復帰も考える必要がある。制御している機器のインターフェース側を改造する必要もある。
このような用途にPLCなどの汎用組み込み制御ユニットも存在するが、少しづつ改良を加え複雑化してきた現行の生産ラインは個々の機器のタイミング取りがシビアで、機器の入れ替えは一か所でもかなりの大仕事になりがちで、影響はライン全体に波及する。今安定して動いているラインでリスクは可能な限り避けたいのだ。
そして、自分の経験的にMS-DOSで動作しているPC-9801は非常に堅牢なマシンだ。機器制御には高度な計算能力は必要ないがとにかく動き続けることが大事で、これはWindowsなどは絶対にかなわない。ちょっとプログラムを趣味でかじった化学屋の自分でもある程度メンテできるというメリットもある。さらに言えばPC-9821もダメ。個人的には1990年ぐらいまでのまだ高価な時代のマシンが安定性が高いと感じる。
あの当時のNECは、本当に信頼性の高いマシンを製造していた。その後の安価路線に走った途端に不具合が見られるのだが、完全自社生産の時代は部品の一点ごとに良いものを選択していたんだろうな。
ただ、次第にMS-DOSをメンテができる技術者が減少してきた。さすがに時代の流れだろう。マシンが死んだらそれこそ中古マシンに差し替えて動かすのが一番安いし確実なのだが、生産技術部から拒否されて新しいシステムを導入させられたことがある。費用も桁が2桁ほど多くなるしお互いに仕事は増えるし正直いって良いことが無いのだが、メンテできない場合は更新せざるを得ない。
なお、それほど重要でない設備の制御箇所については、自分で中古機を手配して故障したマシンを入れ替えたこともある。生産技術畑でない自分でも多少の知識があれば簡単に行えるのに、なんで無駄な金を使う必要があるのだろう。そんな金はもっと別の設備に投資したい。
1989年に東芝が発売したDynabook J-3100SSが世界で最初のノートパソコンである。すぐにNECが続き、1990年代になると、IBMとアップルが参入、東芝、アップル、IBMが次々に新機能を加え、1995年頃には、現在のノートパソコンの標準的な機能の原型が完成した。
1990年代中頃から、国産各社が参入、先行各社は新機種シリーズを展開した。また、インターネットが普及し、モバイルコンピューティングが盛んになった。それにより、ノートパソコンが急速に使われるようになり、2000年にはノートパソコンの出荷台数はデスクトップパソコンを追い越した。
2000年代を通して、小型化、軽量化、高機能化、省電力化が進んだ。2000年代末には、iPadで代表される新しい形態の携帯機器が出現し、ノートパソコンと競合するようになってきた。
とかくパソコンの分野では日本企業の低迷が指摘されるが、ノートパソコンの分野では、東芝に代表される日本企業が業界を先導したきたのである。少なくとも1990年代まではそうであった。ところが、2000年代になると、ノートパソコンがパソコンの主流になったのに、日本企業の優位性は低下してきた。それを挽回する手段を講じるべきなのか、あるいは陳腐化したこの分野は中国等に任せて、日本は新分野を開拓すべきなのだろうか。
ラップトップとは「膝の上」の意味であるが、デスクトップパソコンより小さく、ノートパソコンよりも大きいサイズのパソコンを指す。携帯可能であるから、これを含めてノートパソコンということもあり、その境界は厳密なものではない。
・1984年 NEC PC-8401A
(PC-8401Aのほうが早いのだが、電池やフロッピーなどが外付けなため、一般にはT-1100が世界初で、PC-98LTがNEC初だとされている)。
T-1100の仕様を示す
・CPU:80C86(16Bits)、5MHz
・メモリ:最大512KB
・外部記憶:3.5インチFDD内蔵(720KB) 。ラップトップでは世界初のHDD内蔵
・サイズ:310(W)×300(D)×67(H),4kg
最初のノートパソコンは1989年に、世界に先駆けて日本で出現した。
発表はPC-286NOTEのほうが先だったが、出荷はJ-3100のほうが早く、しかもヒットしたので、一般的にJ-3100を最初のノートパソコンだとしている。なお、PC-9801Nはやや遅れて出荷されたが、これにより「ノートパソコン」という用語が広まったといわれている。
J-3100SSの仕様を示す
・CPU:80C86(16Bits)、5MHz
・メモリ:最大3.5MB(標準1.5MB)
・外部記憶:3.5インチFDD内蔵(720KB/1.2MB)
・電源リジューム機能の提供 ・ジャストシステムATOK7のROM搭載 ・AT互換機
・サイズ:310(W)×254(D)×44(H),2.7kg)
1990年代に入ると、IBMとアップルがノートパソコンに参入した。1990年代前半の特徴のある機種を列挙する。1995年頃には、現在のノートパソコンの標準的な機能の原型が完成したといえよう。
・1990年 東芝 DynaBook J-3100 SS02E 世界初のHDD搭載
・1991年 NEC PC-9801NC 世界初のTFT液晶16色、TVチューナー付
・1991年 アップル PowerBook 170 世界初のパームレストとトラックボール
・1991年 IBM PS/55note 5523-S IBM初のノート。VGA解像度640x480(他社は640x400だった)
・1992年 東芝 DynaBook 486-XS 世界初のTFT液晶フルカラーVGA
・1992年 東芝 DynaBook EZ ワープロ、表計算などアプリケーションをROM内蔵
・1992年 IBM ThinkPad 700C 当時最大級の10.4インチTFTカラー液晶。世界初のトラックポイント装備
・1992年 IBM ThinkPad 220 世界初のサブノート。重さ 1kg、単三乾電池で駆動
・1994年 東芝 DynaBook SS433 世界初のFDD内蔵B5版サブノート
・1994年 IBM ThinkPad 755 内蔵型CD-ROMドライブ搭載
・1994年 アップル PowerBook 520 世界初のトラックパッド採用
1990年後半には、国産各社がノートパソコン分野に参入、先行各社も新シリーズを展開して、現在でもポピュラーな機種名が出揃った。ノート型は、デスクトップ型に比べて割高であったが、モバイル環境での利用が盛んになったこと、オフィスや家庭での占有面積が小さいことから人気が高まり、2000年にはノートパソコンがデスクトップパソコンの出荷台数を上回る状況になった。
・1995年 富士通 FMV-BIBLO リチウム電池採用。プレインストールソフト多数
・1996年 IBM ThinkPad 560 2kg以下の軽量
・1996年 東芝 Libretto 20 世界最小・最軽量(840g)のミニノート
・1997年 ソニー VAIO NOTE 505 B5サイズモバイルノート
・1997年 パナソニック LetsNote AL-N2 光学式トラックボール搭載
・1997年 三菱電気 Pedion A4で当時画期的最軽量(1.45kg)最薄(18mm)
2000年代になると、パソコンの主流はノートパソコンになり、パソコンでの関心はノートパソコンが主になる。ノートパソコンは、本質的にモバイル環境での利用である。そのための軽量化や小型化競争は1990年代後半から活発であったが、2000年代になると、長時間充電せずに利用できること、立ち上がりの時間が短いこと、堅牢性や耐久性に優れていること、さらにはデザインへの要求など、多様な品質での競争になってきた。
筺体の軽量化
軽量な素材を用いながら堅牢性を高めるため、ハニカム構造など設計上の工夫が進んだ。
パソコンを使用しない状態での省電力技術であるスリープ/スタンバイ機能は従来からあったが、インテルによるディープ・パワー・ダウン・テクノロジやASUSTeK ComputerによるExpress Gateなど、新方式が開発された。
SSD(Flash Solid State Drive)
SSDは、フラッシュメモリを発展させた記憶媒体で、HDD(磁気ディスク)と比較して、機械部分がないため、小型化、省電力化、高性能化が重要なノートパソコンに適している。しかし高価格である。2004年頃から注目されるようになり、2000年代後半には高級機に採用されるようになった。
ノートパソコンの製造には、小型化や低電力化などの高度なな技術が求められので、日本企業に適した分野であった。ところが、低価格化競争が進むのに伴い、台湾や中国などで生産するようになった。それが、2000年前後から、現地企業の技術向上により、現地企業に生産だけでなく設計も委託するようになり、独自のパソコン事業から撤退するようにもなってきた。そのため、日本国内で生産している製品は、特に高度技術が要求される小型の高機能のパソコンに絞られるようになってきた。
2000年後半には、ノートパソコンが多様化した。ディスプレイサイズで区分すると、次のようになる。
7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17
───┬─── ─┬─── ──┬──
│ ──┬──│──┬── │
│ │ │ │ ハイエンド 1920x1200 モバイルを意図せず高機能機
│ │ │ A4ノート 1680x1050 最も広く利用
│ │ B5ノート(コンパクト) 1280x 800 モバイル用の標準
├ウルトラモバイル(タブレットパソコン) 1024x 600 操作性を重視
シンクライアント(Thin client)とは、処理機能をサーバに集中させ、パソコンには必要最小限の機能しかもたせないパソコンのことである。1996年当時は、モバイルパソコンの軽量化、低廉化を狙ったのであるが、あまり普及しなかった。
1996年 オラクル、シンクライアントの概念を提唱。そのコンセプトモデルNC (Network Computer)を紹介。「500ドルパソコン」とも呼ばれた。
1997年 サン・マイクロシステムズ、コンセプトモデルJava Stationを発表
1997年 マイクロソフト、Windows CEをベースとした「Windows Based Terminal(WBT)」を発表
それが2005年頃から、外部記憶装置の接続ができないこと、パソコンに情報が残らないことが、セキュリティの観点から重視され、パソコンメーカーはシンクライアントを発表、多くの企業が採用を検討するようになった。
2005年 日本経済新聞「日立製作所がパソコン利用を全廃する」の記事。これが広く一般の関心を呼ぶ。
2005年 富士通 FMVシンクライアントTC8200等出荷
2005年 NEC Mateシンクライアント、VersaProシンクライアント 出荷
ネットブックとは、インターネット利用に特化した小型軽量なノートパソコンである。2005年頃、発展途上国の教育分野にインターネットの活用が重視され、「100ドルパソコン」として生産、支援団体等を通して提供する計画が進んだ。
ところが、安価で使いやすいことが注目され、先進国でもセカンドマシンとしての重要が高まり、2008年頃から、その用途を目的とした機種も出るようになった。
2008年 ASUS(台湾) Eee PC:本来の目的用の例
・CPU,本体:Ultra-Mobile PC(タブレットPC)携帯端末用のPC、パソコン用と比較して安価
・記憶装置:HDDなどはなく、システム基板上にフラッシュメモリを直接搭載
・ハードウェア構成:通常のPC/AT互換アーキテクチャを採用して、パソコンとの互換性あり
iPadの出現
タブレットパソコンとは、タッチパネルディスプレイを搭載し、指や専用ペンで画面操作できる携帯用パソコンのこと。2002にマイクロソフトはタブレットPCを発表したが、あまり普及しなかった。2009年に発売されたWindows 7が「Windows タッチ」というタッチ操作系統を標準搭載したため、タッチパネルディスプレイを備えたパソコンが各社から発売されるようになった。
2010年、アップルはiPadを発売した。電子書籍閲覧で代表される多様なアプリケーションが評判になり、爆発的な売れ行きを示した。ここでのマルチタッチ操作方法は、一般のパソコンにも大きな影響を与えている。
その昔は児童ポルノ禁止法というものが存在しておらず、代わりに「陰毛禁止」という妙なルールが出版界にあった。
タレント・宮沢りえが、かつて写真集“サンタフェ”でフライング気味にヘアヌードを公表・発売したのは、今からすればヘア(実質的に)が解禁・入れ替わるように少女ヌード写真集が発禁になっていく転換点だったように思う。
ちなみにこの“サンタフェ”だが、撮影した時点(not出版)では彼女は17歳だったとも言われており、ヘアヌード&児童ポルノという、いろいろな意味で今の世の中には「存在してはいけない存在」になってしまった感がある。
序盤から脱線したが、自分も見せてもらったこの“サンタフェ”では、さすがにヌけなかった。アートと表現したほうがいいような、さわやかな印象の出来の写真集だった。
さて自分の場合は、エロといえばまずは二次元から入っていったタイプだ。
たとえば「地獄先生ぬ~べ~」は、少年誌連載にしてはけっこうきわどい(エロ的に)描写の多い漫画として知られるが、それよりも前に毎号どうどうとヌードシーンが載っていた漫画といえば、「おじゃまユーレイくん」を思い出す。
ただしこれらは、どちらかといえば「ボインちゃん」がメインな作品である。というか、ぬ~べ~の舞台ってたしか「小学校」。。。
自分にとっての決定打は、内山亜紀氏の作品を立ち読みしたことに尽きる。
思えばその時期を前後する形でオリジナルアニメブームが湧き、一方ではごく一部を中心として当時にカルト的人気を集めた「魔法のプリンセスミンキーモモ」あたりを題材にしたエロパロ同人誌が、徐々に一般にも販路を延ばしてきていた時点の話である。
ややマニアックな漫画雑誌・あるいはパソコンゲーム雑誌では、さすがに直接的な性的描写こそ無いものの、少女のヌードをモチーフにしたイラストなどが読者欄などで散見された気はする(この点、事実と相違があったらお詫びしたい)。
というかそもそも、当時のエニックスから出ていたパソコンゲーム作品に、そのものズバリの「ロリータシンドローム」というタイトルがあってだな。。。
時代はさらに下り、会員制のBBS・いわゆるパソコン通信というものが普及してきたあたりで、PC-9801の仕様に合わせた4096中16色で表現されたイラストが多数作成・アップロードされていた。その中でダウンロード数が多いのは、「エロ」を感じさせる作品に集中していた。(注・当時はすでに、エロゲ=9801の図式ができてきていた)
中には、(当時は)一部の機種でしか見られない多色JPEGデータをアップロードするような猛者がいたが、電話回線を使った28800bpsの速度でやり取りするにはデータ量がちょっと多過ぎたせいか、ダウンロード数はそれほどでも無かったような記憶がある。
そんな中で衝撃的に出会ったのが、写真家・力武靖氏の撮影による少女ヌード写真集である。今から思えばそれは「FRIENDS」の一部だったのだが、まともな検索手段が無かった当時としては、まったく未知の存在に触れた気がした。それのスキャン取り込みデータが、BBSに無断でアップロードされていたのだから、提供した側もずいぶんと大胆といえば大胆である。当時は自分はすでに成人していたが、家族と一緒に住んでいる手前、実写のエロ・しかも少女ヌード写真を本屋で買うほどの行動力はさすがになかった。通販事情としても、今のようにアマゾンほかオンラインショップで気軽に本を注文、という販路はまだ整備されていなかったので、しばらくはそのデータについて出どころが知れないままモヤモヤとしていた。
(もちろん、性的な意味でも)
やがて、個人でも準定額・のちに完全定額のインターネットが利用できるようになってきた時点で、検索サイトというものの存在を知る。
パソコン雑誌のコーナーでは、いわゆる「電脳アングラ」的な本がじわじわ売られてきていたが、そんな中で海外のサイトでのお宝画像(=エロ画像)のダウンロード方法が説明されていた中、自分はなぜかあの少女ヌード写真集の事が忘れられなかった。OSもWindows98以降が標準となり、安価なパソコンでもフルカラー画像を見るのがようやく当り前となってきた頃のことだったが、いくつかの紆余曲折の末にようやく、とある方法(具体的には省略)であの写真集と思われるデータを手に入れる事ができた。その時の感慨を表現できる言葉を、いまの自分が持ちあわせていないのは残念なくらいだ。
その後、写真集の被写体だった少女達は、日本人ではなく顔の造作の似た外国人である事を知ったりしたが、それでも彼女の人気は一部では根強く、後日にヌード部分を除いてまとめられた写真集(※アマゾンでも売ってた)が発売された際には高評価を得ていたように記憶している。
その写真集データを得たのと前後して、「ロリエロな漫画・イラスト」のデータの蒐集も続いた。二次元と三次元のエロは、近いのか遠いのか、と問われれば「遠くはないというか、ある意味別腹に近い」と自分は答える。喩えて言うなら、店で食べるラーメンとカップ麺の関係のような感じだろうか。
さらに言えば、実際にもし実行すれば確実にアウトな「幼女・未成年女子とのセックス場面」が、二次元での表現としてはまだセーフな事も(わいせつ物頒布うんぬんの論点はさておき)、見ていて自分のささやかな妄想を想起させた。
ただし、自分はどうもレイプを思わせる描写が(創作物であっても)ダメなタイプなので、その系じゃなきゃ燃えない方とは一緒に見られたくない、とワガママな主張をしておきたい。
だがそういった日本での内輪の価値観も、TPPその他での動きによって、そろそろ終わりに近づきつつありそうなのが正直悲しいし、怖い。
前のはこれ http://anond.hatelabo.jp/20121219191602
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/unix/1036951410/601
601 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/10(火) 15:04:00.62 今月はじめ、職場に古いパソコン(i486DX2の結構ローエンド構成)が入りました。 多分私が運用保守をまかされそうな雰囲気です。業務的にとある構造分析や シミュレーションなど行う必要がありハードにパソコン系を採用するのは聞いていたの ですが、搬入されたパソコンのダンホール箱に印刷されていたのはPC-9801という 文字でした。 「うへぇ~、よりによって98かよ」 NetBSD/OpenBSDインストール不可、Solarisも不可、SATA-HDDからブートできるのか、 今時のLCDディスプレイにつながるのか、FreeBSD9.xは対応してるのか、 今時のネットに繋いでもセキュリティは大丈夫なのか不安はつきませんし、 非メジャーなのでネット上の情報も少なく調べるのも大変です。 おそらく導入に際して、大学など教育機関で最初にそれに触れて刷りこまれた人間が 強気の知ったかぶりをして発言権を得て「俺流」をつらぬき紛れ込ませたのでしょう。 昔、当時、唯一コンソールでの漢字ROMによる日本語表示ができたPC-98は大学など 教育機関に浸透していて、日本のパソコン界に多くのバカを輩出しました。 これから私は、おそらくそういうバカが、makeしてもemacsが入らない、 TeXが入らない、firefoxは使えないのか、Rubyが使えないのかなどと、 サバ管気取りの偏ったどうでもいい我侭を言い出し、(だから鯖にするんじゃねーよ、 鯖の常識で話すなつーのに)それと戦わなければならないのでしょう。 そして時代によって決着している、過去20年のパソコン界隈のくだらないそれらの 議論が再現され、それに巻き込まれるのでしょう。もう今からうんざりです。 だからお願いです。教育現場ではPC/ATでもSPARCでもPA-RISCでも PowerPCでもなんでもいいですがメジャーかつ現行のマシンにしてください。 教育機関で懐古趣味のバカを量産されると現場が非常に苦労するのです。
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/unix/992942337/737
737 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/09/16(日) 16:27:31.40 今月はじめ、職場に新しい組み込みマシン(ファンレスの結構省電力構成)が入りました。 多分私が開発全般をまかされそうな雰囲気です。業務的にとある構造分析や シミュレーションなど行う必要があり、プログラムにアセンブラを使用するのは 聞いていたのですが、添付のサンプルソースコードからチラッと見えたのは LD A,(HL)という命令でした。 「うへぇ~、よりによってZ80かよ」 アドレッシングモード皆無、リロケート不可、使いにくいインデックスレジスタ、 今時の関数引数のスタック渡しに対応できるのか不安はつきませんし、 今の若者はこんなCPU使わないので人材も少なくソフト開発も大変です。 おそらく導入に際して、大学など教育機関で最初にZ80に触れて刷りこまれた人間が 強気の知ったかぶりをして発言権を得て「俺流」をつらぬき紛れ込ませたのでしょう。 昔、当時、8bitCPUでi8080上位互換でi8085よりも多くのツギハギ命令を追加拡張した Z80は大学など教育機関に浸透していて、日本のCPU界に多くのバカが輩出しました。 これから私は、おそらくそういうバカが、ADD A,(HL)はできるのにADD B,(HL)は できないのかとか、相対アドレスのCALL命令はないのとか、 スタックフレームポインタとして使いたいのにLD HL,SPっていう命令ないじゃんとか、 アセンブラ通気取りの偏ったどうでもいい我侭を言い出し(だからZ80使うんじゃねーよ) それと戦わなければならないのでしょう。そして時代によって決着している、 過去30余年のCPU界隈のくだらないそれらの議論が再現され、それに巻き込まれるの でしょう。もう今からうんざりです。 だからお願いです。教育現場ではi386でもi568でもi686でも x86_64でもなんでもいいですが現行のCPUにしてください。 教育機関で懐古趣味のバカを量産されると現場が非常に苦労するのです。
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/unix/1011306728/134
134 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/15(日) 14:17:53.53 今月はじめ、職場に新しいPC(Core i7の結構ハイエンド構成)が入りました。 多分私が運用保守をまかされそうな雰囲気です。業務的にとある構造分析や シミュレーションなど行う必要があり、X Window System上のアプリケーションを 使用するのは聞いていたのですが、OSを起動して黒いバックに白い文字だけの 英語の画面に表示されていたのはlogin:というプロンプトでした。 「うへぇ~、よりによってxinit方式かよ」 CUIログインなんて古い、コマンド入力なんて古い、今の奴は日本語入力設定大丈夫 なのか(XMODIFIERS)、今時のマルチシート環境に対応できるのか不安はつきませんし、 xinitユーザーが少ないのでネット上の情報も少なく調べるのも大変です。 おそらく導入に際して、大学など教育機関で最初にxinitに触れて刷りこまれた人間が 強気の知ったかぶりをして発言権を得て「俺流」をつらぬき紛れ込ませたのでしょう。 昔、当時、X11で唯一$HOME/.xinitrcを手書きするというCUI的方法で環境設定できた xinit方式は大学など教育機関に浸透していて、日本のX11界に多くのバカが輩出しました。 これから私は、おそらくそういうバカが、GNOME/KDEはどうやって起動するのか、 ウィンドウマネージャを終了したらXごと落ちたとか、ck-xinit-sessionはないのか などと、X11通気取りの偏ったどうでもいい我侭を言い出し(だからxinit方式にするん じゃねーよ)それと戦わなければならないのでしょう。そして時代によって 決着している、過去25年のX11界隈のくだらないそれらの議論が再現され、 それに巻き込まれるのでしょう。もう今からうんざりです。 だからお願いです。教育現場ではgdmでもkdmでもwdmでも xdmでもなんでもいいですがグラフィカルなディスプレイマネージャにしてください。 教育機関で懐古趣味のバカを量産されると現場が非常に苦労するのです。
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/unix/1094041299/383
383 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/12(木) 19:20:13.06 今月はじめ、職場に新しいPC(Core i7の結構ハイエンド構成)が入りました。 多分私が運用保守をまかされそうな雰囲気です。業務的にとある構造分析や シミュレーションなど行う必要があり、制御コマンドとしてシェルスクリプトを 使用するのは聞いていたのですが、そのファイルを開いて1行目に書かれていたのは #!/bin/tcshという文字列でした。 「うへぇ~、よりによってtcshかよ」 ファイル記述子のリダイレクト不可、クオートのネスティング等に無理あり、 今の奴でさえシェル関数は使えないし、パイプラインの終了ステータスもおかしいし、 今時の担当者が扱ってセキュリティは大丈夫なのか不安はつきませんし、 スクリプトとしてのcshは嫌われるのでネット上の情報も少なく調べるのも大変です。 おそらく導入に際して、大学など教育機関で最初にcshに触れて刷りこまれた人間が 強気の知ったかぶりをして発言権を得て「俺流」をつらぬき紛れ込ませたのでしょう。 昔、当時、シェルで唯一aliasやhistoryやジョブコントロールの機能が使えた cshは大学など教育機関に浸透していて、日本のシェル界に多くのバカを輩出しました。 これから私は、おそらくそういうバカが、$*でスペース入りファイル名が扱えないとか $<でファイルから読めないのかとか、if文の条件式のコマンドでリダイレクト できないのかなどと、シェル通気取りの偏ったどうでもいい我侭を言い出し (だからcshスクリプト書くんじゃねーよ)それと戦わなければならないのでしょう。 そして時代によって決着している、過去25年のシェル界隈のくだらないそれらの議論が 再現され、それに巻き込まれるのでしょう。もう今からうんざりです。 だからお願いです。教育現場ではbashでもzshでもkshでもashでも Bourne shでもなんでもいいですがBシェル系のシェルにしてください。 教育機関で懐古趣味のバカを量産されると現場が非常に苦労するのです。
続く。
http://anond.hatelabo.jp/20121024004748
以前、"he doesn't use struct or union?"と書いて、ここの住民に糞味噌に言われた人です。
#が、この一言で何が言いたいか分からなければ、プログラマーとしては最低ランクだと思うよ。
俺の場合は、
1. C勉強開始
2. PC-9801でスプライト動かした段階で息が絶える...orz
3. 放置
6. アセンブラとかZ80、8086、386、486の勉強開始
8. OOの何がいいのか理解できたヽ( ゚∀゚)/
9. Javaで書いたソフトが雑誌で紹介されたり、賞を取ったりした
12. 振り返ってみると、全ての知識が有機的に結合されている!!!頭の中でCを簡単なアセンブラに(Javaの場合はバイトコードに)変換できるのが大事だったんだね!!!
13. 就職
14. 転職
15. 就職
16. 転職
18. 転職
19. 離職
現場はゴミみたいなコードを書く人とかゴミみたいな設計をする人で精神を痛められます。
ITは辞めた方がいいよ。
#これも後で消す。
俺は、物心ついた頃から家にコンピュータがあり、MS-DOSも、Windows 3.1も、PC-9801も触ってた。小学校時代には市内にプロバイダーが一個しかない頃からダイヤルアップ28.8kbpsでインターネットしてたし(時代はテレホーダイ)、中学時代にはWeb制作やプログラミングを覚えてた。高校時代には自作プログラムを配布したりしてたし、大学時代には代行制作でお金もらったりもしていて、今はIT企業に勤めて2年目になる。つまり何が言いたいかと言うと、俺は昔からインドアの陰キャラの陰毛野郎で、コンピュータが友達みたいな奴だった。余暇のほとんどをコンピュータと共に過ごしたし、それはそれで楽しかった。
でもそのせいで、他のみんなが興味を持つことに対して興味を失ってしまった。テレビみないし、基礎体力づくりができてないからダイビングとかスノボとか誘われても行きたくないし、みんなでスマブラやろってなっても俺だけ弱い。俺がコンピュータに向き合っていた時間と同じだけ、他のみんなはテレビを見て話題づくりをしていたし、サッカーとかして基礎体力づくりをしていたし、スマブラの練習をしていた。対して俺は、人間ではなくコンピュータを友達に選んでいたのだ。この結論に達したとき、なんともいえぬ空虚感にさいなまれた。俺は、人と違うことを選んでしまったがために、人が楽しめることを楽しめない人間なんだ、と思いながら生きてきた。
先日、大学時代の友人の結婚披露宴に招待されて行ってきた。余興を頼まれていたので、得意のコンピュータを活かしてビデオレターを作って流してプレゼントした。披露宴と二次会の様子を趣味のデジイチで撮った写真を製本してプレゼントした。参加者に向けて写真とビデオをまとめて思い出サイトも作った。そしたら、ものすごく喜んでもらえた。あ、こんなにも喜んでもらえるんやったら、今まで俺がしてきた時間の使い方、一概に間違いと決めつけるのも良くないのかもな、と思った。生きてたら何かしら経験してるはずで、経験値を得てるんよな。できないことがあっても、できることがあったらええやんな。さ、今週もがんばって働こー!
事前説明もほとんど受けられず、企業も新卒者も制度を把握しないまま続いてるカオス制度。
聞けば教えてくれるけど、聞かなければほとんど何も教えてくれない。
ほんとお笑い。
二ヶ月間くらい肉体労働系の会社に行ってたけど、まるで駄目だったので、このまま続けても仕方がないかと思って辞めようと派遣会社に連絡したら、担当の人から「企業を変更することも可能なんですよ!」なんて素晴らしい台詞を頂いた。
今度は卒業した学校の関係でIT企業(Web系)を受けてみたのだけど、企業担当者と話すときに社員数や熱意とかを聞かなかったせいで中々酷い目にあった。
後でわかったのだが、社長と副社長しかいないらしい、そりゃこねーわwww
事務所は貸してあげるからウチの業務を好きに勉強してね☆ミって方針。
出来る子ならいいんだろうけど、生憎俺にそこまでの気力はなかった。
(なんで、その企業を受けたの?って話ですけど、甘い考えですけど、僕はてっきりある程度までは教えてくれるんだと思ってたんですよ。)
つーか、前からいたインターン生の一人が何やら仕切っているのだが、大してわかってないくせに妙に仕切ってるからなんだかムカつくし…。
言動とかも妙に癪に障るし。
しかも、あと少ししたら気味にも実務を担当してもらうから必死に勉強してね!とかそのインターン生が言うもんなんで挫折した。
もうここではやっていけないっていう確信を持った。
プレッシャーが凄い。やるかやらないか、やれないなら出て行けって感じ。
確かにその通りなんだけど、その通り過ぎて出ていくしかないっていう。
正直、前の企業にいた方が随分とましだった(役には立てなくても籍だけは置けたから)
このIT企業で唯一学べたことはベンチャーは糞だってことだった。
丁度最近のGIGAZINEとかみてもそうだし、全部が全部ではないとはいえ、第一印象は糞だった。
取り敢えずはWeb系=ベンチャーってことにしておこう。少なくとも地雷。
取り敢えず、今日でこのIT企業は辞めようと思うのだが、記憶が確かならもう企業は選べないらしい。
親元を離れて単身の僕はこれからどうするべきだろうか?
精神的に親元には帰りたくないし、実質帰れない。
(実家に帰ると精神障害者がいるので自分まで池沼になりそうだし、
今住んでるところを出ると契約の関係で高額の違約金を払わないといけないので)
選択肢としてはアルバイトくらいだろうが、生まれてこの方やったことがないというね。
このあいだネカフェのバイトにネットから応募して面接受けに入ったら、店の人から「いやいや、そんなのしらないし、聞いてませんよ」とか白い目で見られたし。意味不明だし。
俺が間違ってたのかと思って、家に帰って求人情報見たら面接日時も場所も合ってたし、マジ意味不明。
勿論、次のバイト先も探して応募するけど、果たして雇ってもらえるのか?という疑念はある。
早くしないとお金もないから辛いし。
まぁ、雇ってもらえるかどうか気にしてたら埒が明かないから、応募しまくるしかないんだけど。
落とされなかったら可能性があるってことだろう多分!って信じてる。
若いうちは何でもやった方がいい気がするんだ。挑戦だ!
一番は、新卒者応援プロジェクトで別の企業の斡旋を受けられることなんだけど、多分無理だからね。
新卒者応援プロジェクトを続けられれば就活もスムーズにできるんだけど(今まではやってなかった)
それが無理ならバイトしながら就活するしかない…となると結構厳しそうではある
バイト先に就職とかもしてみたいけど、バイト募集してるのって将来性がなさそうな場所ばっかなんだよね
果たして僕はどこへ進んでいけばいいのだろうか…。
因みに学生時代の就活は40社程度受けました。全部落ちました。
警備・食品・廃棄物・清掃・小売・営業・流通・IT・飲食他にも色々受けました。
選り好みしなさすぎですね。介護だけは受けませんでしたが。
まぁこれが就活に失敗した要因の一つであることは間違いがないんですが。
漠然と持っているのは、事務職なら勤まりそうっていうのと、ネットワークとかサーバーの運用管理に興味があるってことくらい。
(具体的に企業名は挙げませんが、興味のある鯖屋が一社だけあります。もとい、その企業のせいで興味が芽生えたに近い。)
趣味はこういう感じで長文をグダグダ書いたり、ラノベを読んだり、ひたすらネット上の情報を読んだり、漫画を読んだり、RPGやったり、ネトゲしたり、オタショップを渡り歩いたり、買い物することです。
長く続けていることは自己サイトの運営、もう9年目です。老舗とかそういう部類に入ってる頃ですね。
ここ数年では時代の波(笑)にのってブログ形態に移行してます。
PC歴は年齢-3年。そこらの餓鬼が絵本読んでた頃にはブロック崩しとかインベーダーやってました。PC-9801で。MS-DOS3.2だったかなぁ?
専門学生になるまでインベーダーゲームはパソゲーだと思ってました。まさかゲーセンのゲームだったとはw
でも別にコアゲーマーでもないし、アニメもそこまで見てません(1クール1,2作)
変態ベクトルは大分逝ってると思います。そんじょそこらの変態に負けない自信はあります(キリッ
ピザではなくガリの部類です
特技は特にありませんし、得意科目と言えるものもないです
「高校の情報」なら学年トップだった気はします
大したもんでもないですが、情報活用二級程度は何もせず取れました。
基本情報技術者は問題の1割くらいしか解けません。
だけど何故か有識者から結構解ってる人と誤解される事があります。
なんかどうでもいい御託をつらつら並べましたけど、誰か僕みたいな人間ほしいトコありませんか?
とても腑に落ちた。ホントにパソコン通信時代は、オタクorオタク同然しかいなかったね。一般人は3%以下しかいなかったように思う。
自分はどっちかというと、かなり一般人よりの人間だった。とはいえどちらかといえば非モテだったけど。
でもオフ会で合った女の人は片っ端から口説きまくってたなあ。まわりの男があまりにもさえない男ばかりだったせいか、性的な意味で仲良くなれた女性は20人くらい。これはパソコン通信無しでは得られない成果だったな。当時はネットで女の子に声をかけて仲良くなってしまうという手法はほとんど知られていなかった。その頃は、テレクラが下火になっていった時代、テレクラが牧歌的な時代から、金のやり取りが発生してくるようなつまらない場所になりつつあった時代だ。
自分は、伝言ダイヤルで知り合った女の子にパソコン通信を教えてもらった。会社からリース切れのPC-9801RAを貰ってきて通信ポコって変な名前のモデムを買ってnifty始めたっけ。
もうホント入れ食いだった。自由な時間に恵まれた仕事だったせいもあって、あちこち出向いてはいろんな事したなあ・・・北は宮城県、南は福岡県まで出向いた。増田が書いていた事をそのまんま話をしていた女の子もいたよ。非モテのはしりだったのかな。そのワリには結構、遊んでたみたいだけど。
オタクも多かったけど、女の子目当てで遊んでいる男も結構いたよ。でもだんだんと遊び目当てで参加してくる人が増えてきて、自分みたいにいまいちぱっとしない男が遊べる場所じゃなくなってniftyからは立ち去ったな。
次はyahooのチャットとか、ネットミーティングで遊んだな。それもだんだんソレ目当てが増えて面白くなくなる。
そこらへんで2ちゃんねるが出来て、また遊んで、オフ板が出来て、なんだかすごい事になったな。だけどオフ板も出来て少ししてからはやっぱり人が増えてダメになった。
もうその辺りでカラカラになってしまったので、もう遊んでいないが・・・
今となっては当時の知り合いなど誰もいない。遊び好きな連中は今、どこで遊んでいるんだろうね。
初めは小学生の頃か。
実物のスペースインベーダーの記憶はない。
しかし、それを皮切りにアーケードゲームのみならず、ゲームウォッチ、ケームセンター嵐などを経て、ファミコンが登場する「ゲーム」の時代だった。
「ゲーム」がコンピューターゲームの意味になった時代だった。小学生も「コンピューター」にワクワクした。
21世紀はコンピューターにより人工知能ができる。そんな時代だった。
でも、アルファベットを知らない小学生にBASICは難しかった。ぴゅう太がせいぜいだった。
「PRINT」で文字を表示する。「GOTO」で行き先を変える。それは分かった。でも何をすればよいか分からなかった。
だから「ベーマガ」で16進数を打った。でも動かなかった。何度も調べ、直し、試した。デバッグした。
でも動いた。自分の入れた文字で数字でコンピュータが動いた。自分で動かした。動かせた。
高専に進んだ。Turbo Pascalでコラムスもどきを作った。
小学生のころから6年が過ぎていた。
Turbo Cも使った。IDEで使うそれは、インタプリタのノリだった。
FM-Rでレイトレースもした。一晩かけて、エラーが起きていた。
でも、構造化プログラミングを学んだ。ポインタも学んだ。マシン語の知識が役立った。
Solarisも使った。EmacsやXも使った。オブジェクト指向も知らずC++にも触れた。
awkやsedで正規表現を学んだ。そしてperlに出会った。
コラムスもどきを作ってから6年が過ぎていた。
perlで掲示版の書き込みをチェックし、madokaで遊んだ。CGIを書いたりした。
perlと出会ってから6年が過ぎていた。
はてなに出会った。JavaScriptに出会った。
Bookmarklet、greasemonkey、Ajax。オブジェクトだらけだった。
初めはゲームだった。でも最初だけだった。
気が付いたら24年が経っている。
今、pythonで書いている。
ようやく、言語の違いには慣れてきた。でも、まだLISPを使った事はない。
道はまだまだある。未知の世界につながっている。
作りたい物が本当は何かは分からない。作れる物が本当は何かは分からない。
どんなふうに動くのかは分かってない気がするけれど、分かっている事もある。
それが今の私のstatusだ。
OSXってつまりBSDに皮かぶせただけでしょ(時候の挨拶)。
昔、MacClassicちゅうのがあって、というこの表現も少し恥ずかしいけれど、まあとにかく、ディスプレイと本体が一体になった当時としては画期的な機体があって(てきとう)、高校の電算室の片隅に、8inchフロッピーが接続されているPC-9801とかと並べておかれていて、当時、開発環境もなく、知識もない高校生にとって(プログラミングの授業はX端末でやっていた)、それはなんだかよく分からない、マウスボタンが一つしかない四角い箱として認識されていた。
このなんだかよく分からない四角い箱に興味を示した奇特な高校生は何人かいて、まあ僕もそのうちの一人だったのだけれど、すぐに爆弾マークと独特のビープ音を鳴らして止まるこの機械でできることといえば、せいぜいが電卓をぽちぽちやるか、プリインストールされていたゲームをやるくらいのものだった。
そのプリインストールのゲームの中でも僕のお気に入りはShanghai(上海)で、来る日も来る日も麻雀牌をクリックし続けたものだ。時は過ぎ、僕は無事卒業し、そのClassicがどうなったのかは知らない。けれど、たまにアーケードで稼働している上海を見つけては100円玉(ときに50円玉だったりする)を投入したものだ。
そして去年、2007年になって僕はPCを新調し、それには悪名高きWindowsVistaがプリインストールされていた。まあでも、スペックを奮った結果か、WindowsVistaは至極快適で、見た目を少しいじった程度で普通に使っている。
Windowsといえばやはりフリーセルで、見た目がだいぶ変わっていることに戸惑いつつ、いくらでもUndoできることを微妙に思いつつも、日々クリックをしていた。無傷の100連勝(Undoできるから)をしたあたりでさすがに飽きて、スタートフォルダのフリーセルの同じ並びを眺めていたときに、僕はそれを見つけた。上海だ。迷わずクリックする。下品な効果音のあとに麻雀牌が綺麗に並べられる。
見た目はだいぶ変わっているけれど、これは紛う事なき上海そのものだ。配置は上海II形式だ(たぶん)。そういうわけで僕はWindowsVistaを使っている。
ふとはてブを見たら、前に仕事をしていた小さな会社の社長が、別の大きな会社の取締役になっていて、小さな会社と業務提携をする発表会の記事が載っていた。微妙に5Users。
ああ、あんな頃もあったな、と。
中学に入ったときにPC-9801VXを入手。高校時代にMS-DOSを操作するいわゆるパソコンおたくとなり、大学時代にLinux, FreeBSDの薫陶を受けた。
そして、大学出るところで怪しげな個人事業主に騙されてベンチャー企業で偽装請負、最初は18万の給料だったか。
そこそこ頑張っていると、やがてそのベンチャーの社長に声をかけていただき、その個人事業主と訣別してベンチャーに入社。気が付くと、ある大手のお客様に納品するサブシステムのリーダーを22の時にやっていた。
だが、開発のいろはを何もしらないペーペーだ。基本設計も詳細設計もぼろぼろというかやっていないような酷い出来で、正常系の1本も通るか怪しいプログラムをお客様に持っていって、ただ一言「動かねーじゃねーか。」と言われて6徹、そこからなんとか作り上げた体力と精神力やら何やらよくわからないものを買われたのか、日本で屈指と言われる大会社の事業部長から、蒼くぼーっと幻想的な雰囲気のバーで「うちに来て働かないか」と1:1で引きぬきをかけられたのを、あっさりと断ったところまでは良かったな。
まるでバブルのような、というか真正のネットバブルだったわけだが、きらめく怪しげな話の間を飛びまわった。異常系がまともにできていない大手小売業者向けのプロモーションシステム、お客様の要件をないがしろにして作り上げた画像配信サイト。
しかし、序盤の奇跡的な飛躍で力を見誤った自分も会社も、徐々に、不可逆的に傾いていった。
そして、度重なる失敗に組織から見放された自分は会社を抜け、25の時にいわゆる中堅ソフト屋に転職した。
ソフト屋にいたおかげで、基本設計書も詳細設計書も書けるようになった。もうぐちゃぐちゃなシステムは書かない自信はある。
だが、新技術は何でも吸収してきた自分が、その後に出てきたRubyやAjaxには、もう付いていくことができない。
今では、ごくごくありがちなオープン系システムのしがない保守要員だ。
ブラウザの上には、きらめいていたあの頃の面影を残す彼がいた。
そこには、確かにきらめいていた自分の残滓もまた投影されていて、そんな彼をブックマークする気にはなれなかった。
それでも、彼の名前を時々思い出しては、Googleに掛けてしまう自分に嫌悪する。
今はてなダイアラーをしているということは、まだ残滓にしがみついてしまおうとしている自分がいるんだろうな。そんなもうすぐ30歳。