はてなキーワード: 音楽番組とは
7/31、都内某所にて、にじさんじARライブ Light up tunes Day1のライブビューイングで参加してきた。
にじさんじのライブ、バーチャル存在のライブはそこそこの数参加・視聴してきたけど、今回の感想はちょっと複雑だった。
社内の技術革新があったらしく、ライブ名ではなく # リアルタイムARライブ を全面に押し出し、有料配信にも関わらず全編スクショOKという、今までとは違う形でライブがスタートした。その時点でなんか変わったことしてんなと思ってはいた。
真ん中に正方形のステージがあり、全方面からカメラが演者を撮る形だったんだけど、今回の演出がすごくこう、映像作品的だったんだよな。
ライブではないっていうか、なんだろう、ライブしているMVを見てる感覚が強くて、なんでこれをライブビューイングで見てるんだろ?って途中から首を傾げていた。
リアルタイムで歌詞が出る部分の演出も含めて、MV要素が強すぎて、私がライブに求めている生感だとか、ステージとこちら側の対話っていうか、そういうのが感じられなかった。
こんな言い方はよくないかもしれないけど、今まで見たオンラインライブで1番微妙だった。
もちろん、生バンドの迫力の音楽、応援してる彼らの生き生きとした姿を見ることで、チケット代はお釣りが来るほど楽しませてもらった。音関係でもうチケット代は回収している。
今、コロナ渦で大きくエンタメ全体の形がかわっていっているのは感じているし、もしかしたら私が時代遅れなのかもしれない。
けど、なんだろう、彼らが彼らの中で完結させているものを見せられている、という感覚が強かった。彼ら、というのは演者、奏者だけではなく、もっと、関わっている内々の関係者の中。内輪ノリの飲み会を見ている気分。スタジオ練習をしているインディーズバンドを見ている気分。そんな感じ。
ライブビューイングという形が余計そうさせたのかもしれない。
完全に素人だけど人一倍ライブは好きだから大小様々見てきた。その中で、1番ライブっぽさがなかった。
多分だけど、見ている自分たちがその場のどこにいるのかが分からなくなってしまったのが原因だと思う。
例えばドームのコンサートでのセンターステージを想定していたとして、センターステージがどこであろうと、私たち客はある一定の位置からそれを見ている。
その感覚が薄かった。360度様々な角度から映すカメラの、一体どこが自分の視点なのかわからなくなった。
疎外感。私たちはその場にいないという、当たり前の事実をさらに突きつけるような演出。
私がオンライン・無観客ライブに求めていたのは、私がそこにいるような夢を見ることだったのだ。
せめて、どこか一部の壁面(例えばドラムさんの後ろとか)をVJにするなどしてくれたら、それだけでもじゃあ客席は反対側、と脳が勝手に処理できた気がする。
演者の1人が、(視聴者)に近づけた気がする、と言っていたけど、私は遠ざかったような気がしてしまって、さらにバーチャルと現実世界の境目を深くされたような気がしてならなかった。
これからもこの形でライブをしていくなら、自分も、この演出を手放しで歓迎できるようにならなければいけない。古いものに縋り付いているだけでは老いる一方である。変わらなければならない。
私は平原綾香さんの「 Jupiter 」という曲が、世界で一番嫌いな曲だ。
なんでかというと、平原綾香さんが歌詞をつけたせいで、ホルストの名曲が「 Jupiter 」になってしまうからだ。
この曲が発売された当時、私は小学生で、やたらと流行していたのを記憶している。音楽番組でもよく歌われており、持て囃されていた。
歌唱力が高く壮大でお行儀が良い歌詞だったからなのか、教師たちもこの曲を気に入っていたと思う。学校でも聴く機会が多く、歌詞をプリントした紙を配布された記憶もある。
「 Jupiter 」は好きでも嫌いでもなかったが、「 Jupiter 」という曲は私の身近にあった。
それが原因で、私はあの旋律が流れると、必ず平原綾香さんの声が脳内で再生されるようになってしまった。
よって、どんなときでも「エ~ブリデ~」と歌詞が流れだしてしまう。
私はそれが本当に嫌で嫌で嫌で仕方がない。
オーケストラを聴いていても、それはホルストの音楽でなく、平原綾香さんの「 Jupiter 」のオーケストラバージョンを聴いているような感覚になる。
なにかのタイミングで流れるたびに、平原綾香さんの「 Jupiter 」として聞こえてしまう。
地味にショックだったのはHUNTER×HUNTERのアニメだった。ボノレノフの「木星」のシーンも、平原綾香さんの「 Jupiter 」がBGMとして流れてきた。
やっぱり脳内再生されてしまう。どれだけ浸食されてるんだと切なくなった。
平原綾香さんはどうして既存の名曲に歌詞をつけて歌われたのだろう。
私と同じように、ホルストが作った名曲が、平原綾香さんの「 Jupiter 」として変換されてしまう症状を抱えている人は、相当な数がいると思う。
元々のメロディが壮大であるのと、平原綾香さん自身の高い歌唱力により「 Jupiter 」はすごく高尚な楽曲に聞こえきて、それがまた無性にムカついてくる。
苦手な音楽ジャンルがあれば聴いたりしないから害はないし、作品を貶めることなんてしないし、したくない。単純に私の肌に合わないだけで、他の人から聞けば良い曲であるからだ。
時は90年代。小室ブームまっただ中、オリコンランキングや音楽番組がクラスの話題として幅を効かせていた。
CDショップではゲームサントラは奥の隅の方にひっそりと置かれ、流通量も少なく、まさにマニア向けの商品だった。
「好きな音楽は何?」なんて問いに「ゲーム音楽」なんて言ったら鼻で笑われる。そんな時代だった。
たまにリリースされるアレンジバージョンだったり、メディアがCD-ROM媒体に変わることで、生演奏が取り入れられるようになっても、
まだミュージシャンからは音楽と思われていなかったり、馬鹿にされて悔しい思いをした、なんてクリエイターインタビューを目にしたこともあった。
インターネットが発達し、ニコニコ動画あたりでゲーム音楽を身近に楽しむようになってきたぐらいから、風向きが変わってきたように思う。
オーケストラのコンサートも多く開かれるようになってきた。聴きに来る人、そして音楽家が「ゲーム音楽が好き」という人が増えていった。
そして今回の開会式で、20曲近くの曲が入場BGMとして採用された。
安易だ、なんて批判的な意見もあると思うが、開会式を見た多くのゲームクリエイター、特に作曲者自身が、心から喜びの書き込みをしているのが全てだと思う。
飯を食いながら眺めていたら、途中で泣いている自分に気がついた。
彼らの年頃だった自分を思い出していた。
踊っているうちの一人に何故かその頃の自分が重なって見えたのだ。
もちろん彼らのようなアイドル性もないし、ダンスだってうまくない。
垢抜けた見た目どころか、ひと目を避けるように暮らしているくらいには陰気な生活だった。
もう25年以上前の話だ。
自分が周りと違うと強烈に理解したのは、小学校5年生のときだ。
それまで親友だと思っていた友達と喧嘩したときに、「韓国に帰れ」と言われた。
こいつは何を言っているんだろう。帰れとはどういう意味なのか。自分はここで生まれてここで育った。なぜここにいてはいけないのだろうか。
もちろん韓国にも帰るような場所はないし、在日が一部の韓国人からキョッポと言われてバカにされていることも知っていた。
考えても考えても意味が理解できず、しかし、今まで垣根なんてないと思っていた親友から、底の見えないような深さで線が引かれていたことだけは理解できた。
それから自分が韓国人であることを、知人に教えることはなくなった。
中学校に上がって、同じく在日の同級生が早々にいじめに合うようになった。
自分は隠し通していたのでいじめられることはなかったが、でもいじめを止めるようなこともできなかった。
ある日親戚のお通夜でいじめられている同級生とばたりと出くわしたことがある。
なくなった人を通じて、遠い親戚だったようだ。
相手は信じられないと言った顔をしてこちらを見ただけで、一言も会話はなかった。
それからは学校で彼の顔をまともに見られなくなってしまった。いじめは卒業まで続いた。
皆が進路の話をし始めた頃、自分は漠然と高卒で働きに出るのだと考えていた。
一度兄に進学の相談をしたら間髪入れずに返ってきた言葉は、「俺らが就職できる日本の企業なんてない」という言葉だった。
パチンコで財産を築き上げたいとこだけが、有名大学に通っていた。
法事で親族が集まるとやれ同胞が暴力事件に巻き込まれただの、やれあいつが際どい仕事でどれくらい稼いだだのそんな話ばかりだった。
彼らは居場所がないなりに居場所を作ろうと必死になっている。しかし、その必死さが返って居場所を奪われる原因にもなっているのだろうと思いながら眺めていた。
そして、これから自分が生きていく世界にも、居場所なんてないのだろうと漠然と考えていた。
高校に進学はできたが、放課後はすべての時間を家の仕事の手伝いで消費した。
手伝いが終わって帰るのは日付が変わる頃で、何度学校に遅刻しても両親は何も言わなかった。
当然大学に進学できる学力はなかった。勤怠不良に加えて沢山の赤点があっても卒業できたのは、教師のお情けであるのか、お荷物を手放したかっただけなのか知る由もない。
ただ、目立ちたくないという気持ちだけで生活していたので、問題と言えるようなことは一切起こさなかった。
仲の良い友だちがいなかったわけでもないが、いつもとても大事なことを隠している後ろめたさがあったので、問題を起こさなかった代わりに関係を深められるような相手もいなかった。
小中高含めて、卒業してから同窓会というものに参加したこともなかった。表面上の案内以外の誘いが来るようなことも、当然なかった。
ただ自分が在日韓国人の家庭に生まれたということだけで、常に後ろめたさと一緒に生きるしかなかった。
何かで人に知られれば、いつ平穏が失われるかびくびくしながら10代を過ごした。
目立つことなんてもってのほかで、何かに打ち込むようなこともなかった。
そもそも放課後はすべて家の仕事で費やして、一日500円程度もらえる小遣いを休日に一人でゲーセンで浪費する生活だった。
唯一ゲーセン仲間とだけは、あだ名で呼び合うことで身元を明かさないで済む気軽さがあった。
もちろん通り名で生活しているので、名前くらいで本籍がバレることもないが。
ゲーセンの、ゲームの腕前だけが評価されるその場限りの関係が、自分にはとても心地よかった。
テレビの中で踊るBTSの一人が、妙に当時の自分と重なって見えた。
もちろん、何もかもが違いすぎるほどに違う。そもそも彼らは在日ではない。
ただ、少し癖のある髪型や、目元やちょっとしたときの表情が少しだけ重なって見えたのだ。
いや、恐れずに言うなら、当時の自分が化粧して同じ衣装を着たなら、見た目だけで言えば割と似ているかもしれない。
そう思えると、まるでそのメンバーが、もしもの世界を生きている自分のように思えてしまった。
どこかで間違えれば、自分にもこんな光り輝くような人生があったのだろうか。
あのとき、いじめを恐れずに在日であることを公表して、通り名ではなくて本名で生活していたらもっと自由に生きることができたのだろうか。
今となっては何もかもが遅く、しかし、今の日本で、韓国の若者たちがこうして受け入れられている現実が、自分は何もしてこなかったにも関わらず、少しうれしく思えた。
悲しかった。嬉しかった。言いようのない気持ちが心から湧いて出た。
澄んだ涙とどす黒い涙が決して混ざることなく同時に流れ出したような気がした。
家の仕事は全てなくなり、住んでいるところを追い出された。
すでに家庭を築いていた兄弟から支援を受けつつ、両親と狭いアパートで過ごした。
それからフリーターから肉体労働から、高卒でもある程度稼げる仕事を転々として、今の会社に拾ってもらえた。
職種は伏せるが、当時は底辺と言われた業種ながら、健全化が進み今では一つの市場として認められている業種にいる。
色々あったが、ここまで帰化する必要のない人生を歩んでこれた。
韓国人であることに誇りなんてないが、日本人になる必要もなく生きてきた。ただそれだけのことだ。
自分が生きていた頃に比べれば随分と選択肢は増えているだろう。
当然今までも韓流ブームはあった。
しかし、今までと違うのは、メディアが作り出そうとしている中高年向けのブームではなく、若者が主体となって作り出された、メディア後追いのブームだという点だ。
これからの世界を作り出していく若者たちに韓国人が受け入れられているという現実に、今までにない、どこか安心感にも似た嬉しさがある。
小学生の頃、ASIAN KUNG-FU GENERATIONにハマってから音楽を大好きになった。
雑誌やネットの情報をもとにアジカンのメンバーが影響を受けた音楽を辿り、
昔の洋楽を聴き漁るようになった。
小遣いはほぼCDで使い切ってたし、
まだ画質が良くなかったYouTubeやニコニコ動画で好きなバンドのライブ映像を食い入るように見ていた。
中学生になり、親に必死で頼み込んでギターを買い与えてもらってからは夢中になって練習した。
ギターを抱えたまま寝落ちしたことも数えきれないくらいあった。
クラスメイトから見たら当時の自分はちょっと様子がおかしかったと思う。
同級生とバンドを組み、アジカンのコピーをして文化祭のステージに立ったときの興奮はよく覚えている。
高校生になってからもバンドは続けて、放課後はスタジオに入り浸り、
気付けば地元の高校生バンドマンの中では飛びぬけてギターが上手くなっていた。
ライブハウスのステージに立つ憧れのバンドマンだけが理想の姿で、
親や教師からは大学進学を進められたがそれを押し切って東京の音楽専門学校に入学した。
バイト代をライブハウスのノルマ、機材、スタジオ代、打ち上げに費やし、電気やガスが止まることは日常茶飯事。
バンド活動に集中するため、専門学校に行く時間が勿体なく感じて退学した。
親には怒鳴られた。さすがにちょっと心が痛んだし、苦しかったけどそれでも音楽にしがみついた。
そうこうしてがむしゃらにやっていたら、バンドにそこそこの人気は出始めた。
ガラガラだった下北沢のライブハウスのフロアは少しずつ自分たちのお客さんで埋まっていった。
遠征先の地方でも自分たちを目当てに来てくれるお客さんが居る。
物販の売り上げはガソリン代に消えるけど、それでもギリギリ赤字じゃない。
ライブ終わりに業界の大人から名刺を渡されることも増えていった。
きっと誰でも名前を聞いたことのある大手音楽企業のスタッフさんが親身に自分たちの面倒を見てくれて、
そこの傘下のインディーズレーベルからミニアルバムをリリースできた。
音楽雑誌や小さくだけど記事が載った。メディアサイトにインタビューしてもらえた。
昔から聴いていた憧れのバンドのツアーに前座で呼んでもらえた。
下北沢の中でもまあまあ大きいハコのワンマンをソールドさせた。
これ一本で生活できる金額じゃないけど、一応バンド活動で給料を貰える。
夢が一つずつ叶っていったけど、そう上手くは進まなかった。
その数か月後にまた別のメンバーが体調を崩し、脱退。
正式メンバーが2人になってしまったバンドにサポートメンバーを入れて活動を続けたが、
CDの売り上げもライブの動員も伸びないし、後輩バンドにも追い越された。
残ったメンバーとぶつかり合うことが増えて、結果的にバンドは解散した。
元々所属していたレーベルとのつながりでシンガーソングライターの後ろでギターを弾いてみたりしたが、
以前やっていたバンドを超えるような成果は出せなかった。
高卒で20代のほとんどを音楽に費やし、同い年より数年遅れで社会人になった割には、
まあ悪くない給料を貰えている。
相変わらず音楽は好きだが、どうにも新しい音楽を受け入れられない。
正確に言えば、自分より一回り年下のバンドを受け入れられない。
確かにみんな良い曲を作ってるし、演奏も上手い。メンバーの個性もある。売れるのは分かる。
俺が出るはずだったフェスの舞台に立ち、テレビの音楽番組に出て、タイアップを受けている奴がいる。
仕事中、ラジオから勢いに乗った若手バンドの曲が流れてくるとどうしようもない気持ちになってくる。
悔しすぎて新しい音楽を受け入れられない。
私の好きなアーティストがミュージックステーションに出演することになった。
ミュージックステーションへの出演は今回で2回目。
前回も今回もコロナの影響でリモート出演。
感想。最悪だった。出演しているアーティストよりその場にいないアーティストの紹介VTRを優先したこと、私が好きなアーティストのトークタイムにも関わらずスタジオにいる別のアーティストに話を振りそちらと長話をし始めたこと、タモリの嫌味じみた発言など、見ていられなかった。
また、スタジオにいるアーティストも、金のかかっていないステージ、そこまで画質の良くないカメラ、特に工夫のないカメラワークでパフォーマンスをしていて、これで良いのか……?と思ってしまった。様々な技術が進化する中で10年前と全く変わっていないステージには呆れしかない。
音楽番組というわりにアーティストにフルで歌わせない。過去の映像を流す。どこに需要があるか分からない一般人にフォーカスする。出演者を忖度して決める。
これまで誰も異を唱えてこなかったのだろうか?こんなことならもう好きなアーティストに「日本で有名なミュージックステーションに出ることができて嬉しいです!出演させてくれてありがとう!」という旨のこと言わなくていいよ、出演しなくていいよと思ってしまう。タモリが引退しない限り多分この番組続くよね。タモリいつ引退する?
何年か前に、或るお笑い芸人が「地道にネタを書いて稽古してネタを磨くよりも、合コンをセッティングして先輩芸人の好みの女性を用意する方が、テレビに出られる近道」と言っていた。
たとえば、テレビで大物お笑い芸人として扱われている松本人志などは、後輩芸人に合コンの場及び参加女性を用意させていたと公言していた人物なので、実際に上で書いたようなことをするのが、松本人志よりも下の立場の人間には世に出る近道であったのだろう。
それで思い出したのが、音楽番組「HEY!HEY!HEY!」でシャ乱Qのつんくが出演した或る回のことだ。この時つんくは(正確な言葉は覚えていないが)
「飲食店で松本人志と後輩芸人たちが合コンをしている場面に遭遇した」
「松本人志が合コンの後に持ち帰りたいと狙いを定めた女性に対しては、後輩芸人たちが『ホンマは松本さんに抱かれたいと思ってるんちゃうん?』『松本さんに抱かれたいて言え!』と囃し立てる」
のように話していた。
「すべらない話」でも千原ジュニアが「木村祐一が、ナンパした女性にセックスを断られて、冷凍鶏肉を投げつけた」という話を面白おかしく話していた。
こういう記憶を持つテレビ視聴者からすれば、島田紳助一派に対する告発も「いかにもありそうな話だ」と思ってしまう。
まともな方法で女性を口説けない人間たちが権力を手にして業界の上の方に居座っているのは、それよりも立場が弱い中堅や駆け出しの人間からすれば地獄だと思う。
ある日記記事を読みました。少しでしたがSNSでトレンドにもなっていましたし、去年結構騒がれた話題だったので、心当たりがある人も多かったと思います。
記事に倣ってわたしも仮名でHくんと呼ぶことにします。わたしもHくんのファンです。純粋に応援できていたころに戻りたくて仕方ありません。どうしてこんなアイドルを推してるのって何度も言われました。応援できるのが信じられないとまで言われたこともあります。でも彼が好きだから離れられませんでした。
Hくんを初めて見たのはテレビの音楽番組で、期待の新人としてほかのアイドルとまとめて特集をもらっていました。その時に新人とは思えないほどのパフォーマンスを披露して、同じ番組に出ていたほかの出演者も驚いていたほどでした。この番組は私にとっても鮮烈で、アイドルに触れたことすらほとんどなかったわたしは、それからHくんのライブに通うようになりました。
もともと1つのことに熱中するタイプだったので、Hくんにもドハマりしました。活動休止になったときには集めたグッズも作ったうちわも見るのが辛くて、でも帰ってくると信じていたので綺麗な箱にしまって保管しました。一年弱の休止を経て、彼は戻ってきましたが、ユニットに所属していて、雰囲気もまるっきり変わっていました。でも、彼が戻ってきたことに変わりはないので、今までと同じように推そうと決めていました。
なのに、それを覆さざるをえませんでした。Hくんの入ったユニットはほかのアイドルを貶して、炎上を繰り返しました。目を疑うほどの誹謗中傷もたくさん見ました。これらがHくんの目に入っていたらと思うと怖くて仕方がありません。昔のHくんは絶対にスキャンダルを起こしたりしなくて、もちろん炎上なんてしたこともありませんでした。本当に「アイドルらしいアイドル」で、推していてよかった、と思うことばかりでした。そのHくんが炎上の火種になっていて、たくさんの誹謗中傷を向けられているということを信じたくありませんでした。
一番つらかったのは、Hくんを推すこと自体を罪のように言われたことでした。わたしも、他人の言うことなんか気にせずに、Hくんを今まで通り、好きの気持ちだけで推し続けたかったです。しかし、Hくんのしたことは到底許されることではありません。たとえ誰かの命令で動いていたのだとしても、手を汚してしまったことは事実です。自分のような盲目なファンでさえもそうわかってしまって、どうやって彼に向き合えばいいのかわからなくなってしまいました。
最近は大きなフェスに招いてもらったり、映画に出たりなど、徐々に露出が増えてきました。ファンとしては喜ぶべきことなのだと思います。けれど、Hくんが夏にしたことがちらついて、その罪がこびりついて離れません。今もライブに行っていますが、ペンライトを振る手は以前より鈍くなりました。Hくんは前よりも客降りをしたりファンサをしたりしてくれていますが、Hくんの姿を見るごとに胸がちくちくと痛みます。どうして推しなのにこんな思いをしないといけないんでしょうか。応援し続けるのは苦しいのに、降りるのはもっと苦しいです。誰も悪くないからこそ、どうしたらいいのかわかりません。
音楽番組は売れた人が出るものだとは思うのだが、ここ最近は本当にひどくなっていると思う
売れてない人(と制作側が判断した人)が出ないので、すでに既視感のあるメンツで並んでいたり、局が違うだけで歌手も歌っている曲も同じ現象が一向に改善されないどころかひどくなっているのは少し怖くなる時がある。
確かに売れてる人を出すのは大事だが、なぜテレビに出ること自体に壮大なハードルを設けてしまうのかがわからない。
アリーナを完売させているような人がヒット曲がないというだけで"売れてない"扱いをされるのはもううんざりだ。どうにかしてほしい。
特にアイドルシーンに至ってはコロナ渦ですら国内アイドルを放置してK-POPアイドルに頼り切っているというのはどういうことなのだろうか
言葉がわからない彼らにワイプでずっとVTR見せるMステなんて論外だ
こんな時だからこそ国内のアーティストに目を向けるべきなのにKPOP頼りになっているのは本当に切羽詰まっている感じがする。
何がキッカケなのか全く分からないのだが、前から応援していたグループ及び推しに全く興味が沸かなくなってしまった
これを友人に相談すると「精神的な余裕が無いんじゃない?」と言われたが、特に仕事が忙しい訳でもないし、人間関係で何かあった訳ではない平凡な生活を送っているので精神的なものではないと思う
だからといって推しやグループに対して不満がある訳でもない。露出が無いわけでもない。むしろデビューして1年経ちファンも大量に増え人気急上昇中である。自分自身に恋人という推しの代わりが出来た訳でもないので本当に謎
最新シングルもダンボール箱のまま、大量の雑誌は積んでおり、音楽番組やバラエティドラマは録画がありすぎてもう観る気が起きず消した 推しが主演の映画は前売り券が4枚もあるが消費できる自信が無い
観ても前みたいにテンションが上がらないのが本当に悲しい デビュー前から応援していたので東京ドームで単独できるくらいまではファンでいたかった 推しは推せる時に推せって真理ですね、あれはタイミング的な話もあると思うけど自身の才能もある
「シンデレラガール」はアイドルグループのデビュー曲である。「君は〜シンデレラガール マイプレシャスワン〜」で始まるあの曲だ。イケメン達が王子様みたいな服を着て少女漫画の主人公しか体験できないような世界観の歌詞を歌いあげるのだが、私はこの曲が好きです。聴くと「あっっ…私って…シンデレラガールだったもんね?…?(催眠状態)」となる。少女マンガに憧れる気持ち全く知らずに生きてきたけど、この曲を聴いて完全に分かった。
なんでここまで私がこの曲を好きになったのか、整理してみる。
アイドルは永遠との戦いだろ。というか愛は永遠との戦いだろ。だから結婚って形で相手に契約させたりする。好きなものなんて永遠になくならないで欲しいし永遠に好きでいたいに決まってる。でも愛ってどこかで終わりがちだし、アイドルは卒業するし、永遠なんてものはどこにもない。だからドルオタって最終的に「瞬間」に重きを置くようになるよね。「いまが最高!」とか言っちゃってね。もう今この瞬間を楽しむしか残された選択肢ないから。
そんなアイドルの無常を知っている私に対して、シンデレラガールは永遠を約束してくる。「いつになってもいくつになっても僕は君を守り続ける」とか言う。デビュー曲で、この世に存在しえないものを、誓ってくる。あーおいおい何にも分かってないこの若者達やっちまいましたよ…ありがとう。そう、これが最高の「瞬間」なのである。永遠なんて存在しないのに、なのにもうこの歌詞を聴いている瞬間だけは、「永遠」の存在を確信する。この若者たちと共に過ごす幸せな未来しか見渡せない。ありがとう、ずっと永遠に好きだよ。デビュー曲で永遠を提供してくるのは福利厚生よすぎだよ。
つまり何が言いたいかというと、真に輝いてるアイドルは「瞬間」の中に「永遠」を作り出すことができるし、シンデレラガールはその力を最大限に引き出す曲なのだ。
だが永遠を歌う曲はアイドル業界に山ほどある。なぜシンデレラガールはそこまで私を感動させたのか。それは2番の歌詞にリアリティがあるからだ。
ある時友人が恋人と別れた時に言っていたのだが、「恋してるときの方がよっぽど異常な状態で、別れるのは正気に戻るってことだ」と。その友人が本当にそう思っていたのか、自分にそう言い聞かせていたのかは分からないが、なるほどそういうものかもな。恋してる時は、終わりを想定できるほど賢くなれない。盲目で異常で精神病だ。あれ待てよ、これって瞬間の中に永遠を見出すか意味わからないことを言って必死になってる私のことか?
となったところでキンプリは一度現実を思い出させてくれる。2番の歌詞で「時が経てば宝石もガラス玉さ」と言ってくるのだ。ここで私はほっとする。なぜなら現実には永遠などないと知っているから。1番の歌詞のノリが2番も来てたら、なんとなく他人事で聴いちゃってると思う。だからここで一般論として「愛は冷めるらしい」というのを出してくることで、架空と現実の距離が一気に近づく。
そしてその上でキンプリさんは言うんだ、愛が冷め、形が変わっても、君が君でいる限り、僕はまた君に恋をすることになると。もうこのガラス玉の比喩表現が絶妙すぎて上手く訳せないんだけど、とりあえず2番の歌詞は遠い先を見越しているのだ。冷めきった結婚生活だと思っていた日々が、ある時をきっかけにこれが幸せで穏やかな毎日だと気づく、そういう瞬間をリアルに描いている。愛は冷めないのではなく、愛が何度でもはじまると言っている。「瞬間」の連続により「永遠」を実現する。ああ、そういうことか。永遠なんてないと思ってたけど、瞬間の連続の中に永遠があるんだな…これが愛だし、アイドルなんだな…やっぱ現実に「永遠」あるじゃん…となる。
つまり何が言いたいかというと、シンデレラガールの2番の歌詞には、「永遠」に現実感を持たせる説得力があるので、非常に魅力的曲になっている、ということだ。
あと関連してもう一つ言いたいのは、おそらくこの曲の歌詞はキンプリというグループに重ね合わせられてしまう点です。
デビューってジャニーズアイドル的には一番盛り上がるタイミングじゃん。無敵じゃん。そんなタイミングで永遠を誓う。これからはもう楽しい予感しかしない。推し(自担)が大好きで推しが誰よりも人気者で…もう最高だよね。分かる。でもさそんな宝石みたいな日々は過去になることを、古いオタク達はしってるんだよ。痛いほど知っている。CDの売り上げが落ちたり、テレビに出ることが減ったり、箱にスカスカ感が否めなくなったり、誰かがグループ抜けたり、あからさまにオワコン扱いされたり。そんな中で担降りする日が来て、今キンプリを追ったり、はたまたキンプリから降りたりするわけじゃん。
でも、そんな日が来たとしても、好きだった日々を懐かしい思い出だと言って、今を楽しく生きてくれるなら、それでいいってキンプリさんは言ってるんだよ。宝石がただのガラス玉になった時、捨てるでもしまっておくでもなく、普段使いの耳飾りにする、その姿に恋をするっていうのは、そういうことじゃないのか。キンプリデビュー時の勢いでファンになったけど、数年してファンを辞めた子。たまたま音楽番組で、キンプリ10周年とかいうの見かける。この歌詞を聴く。絶対泣くじゃん。この宝石みたいなデビュー曲を聴きながら、それを大切におもうし、その時の自分の延長に今の自分がいると気づくじゃん。はやくこれになりたい。
つまり何が言いたいかというと、この曲は今後、デビュー時のみんながキンプリに恋した日々をメタ的に歌った曲としての意味も持つようになり、より歌詞に深みを増すだろうということ。
紅白に出場し、縄跳びダンスで世と間を賑わせ話題になったNiziU。全員が日本人のグループだ。
「メディアのゴリ押し」「TV作られた人気」「金積んだ」といろいろ言われてるが、
そこには流行の発信地と朝のテレビの特性など、いろんなものが重なって断絶が起こっている。
2020年の1月にオーディション番組「Nizi Project」は、朝の番組スッキリ内でHuluコンテンツのダイジェストとして始まった。使い回しの映像だ。
9時台というのは、ワイドショー番組の主要なニュースの解説が終わり、収納術だの料理の裏技だの無味無臭なコーナーが流れるか、小さな特集や密着取材が流れるような時間だ。
この時間にTVをつけてる主婦層は、基本的に朝のチャンネルは固定している。
多少興味のないコーナーがあっても、ゴールデンタイムとちがってわざわざザッピングすることもない。
50代以上はNHKか羽鳥ショーに合わせてる人が多いが、30代40代の比較的若い層はスッキリ率が高い。(視聴者年齢層調査で確かスッキリが一番若かったはず)
ここで、毎週なんとなく流れるオーディション番組をながら見していた主婦層が、少しづつ興味を持ち始めた。
選考基準が歌やダンスの能力を高く求められるところも、ながら見のなかでもわかりやすかった要素だ。
歌もダンスもラップも明らかに近年の日本のアイドルとは格段にレベルの違うような子がたくさん出ていたのだが、
この主婦世代だと、SPEEDのようなダンスや歌唱力を思い出して懐かしんでたりするのだろうか。響かせる高音とダンスに憧れた少女たちの世代だ。
この「Nizi Project」は、最終韓国審査で「プロと同じメイク、衣装、ステージで審査を行う」という仕組みがあった。
画面の見栄えのインパクトはもちろん、参加者の高いパフォーマンスも相まって
J.Y.Parkの肯定感あふれる審査コメントはあるが、出来栄えによってランキングが発表されるシビアさのバランスもなかなか考えられていた。
次の子はどんなコメントをもらうのか?何位になる?キューブはもらえるのか?どんどん気になっていく。
ここで一気に「スッキリを見ていた主婦層の子供」を取り込みつつ、SNSを中心として話題を作っていく。
デビューメンバー発表のときは、トレンドが虹プロのメンバー名で埋まった。朝10時から昼の時間だから、そりゃ見てない人は見てない時間だ。
自宅時間を過ごすティーンを中心とした若い世代にも火が付き、オーディションがYouTubeで無料配信されていることも効果を発揮して
プレデビュー曲「make you happy」から、10代の若い人やインスタ、Tik Tokでダンスを真似する流行が起きる。
虹プロの版権を持つ日テレはこの機会を逃すまいとバンバンNiziUの特集をしはじめる。しばらくはTV出演が日テレ独占状態だったからだ。
ここでスッキリから追ってる主婦層や、SNSで広がりを感じている若い層はなんとなく流行を受け入れるが、
日頃そんなものを見てない人々からは「突然やたらとTVで出てくる知らんアイドル、人気絶頂って言うけど初めて聞いたぞ」と言い出す。
もうTVや事務所がわざわざなんの実績もない新人に巨額の投資と機会提供をしてムーブメントを作る時代は終わった。
そこまでの影響力は既存メディアに残ってないし、リターンも少ない。
少しでもYou Tubeやインスタで起こった他所のムーブメントを引っ張り上げることがメインになっている。
芸能人がこぞって虹プロファンを名乗ったのは、あの時期TVはリモート出演ばかりで仕事が少なく単純に時間があって視聴した人と、
あのムーブメントに乗っかって少しでも話題になるために必死だったという側面もある。サッシーはそのへんうまく仕事にしてた。
JYPも当初はここまで日本で人気になるとは思ってなかったというコメントをしていた。いろいろ偶然が重なって起こったのだ。
「デビュー前に紅白が決まった」といって触れ込んでいたが、あの触れ込みはより断絶を深くさせていった。
プレデビュー曲は本来デビュー曲になる計算だったと思うのだが、おそらくコロナで簡単に帰国できずおもうように日本で活動ができなかったか、
もしくは、あまりにも最終審査が視聴されすぎて曲に新鮮味がなくなってしまったがために、急遽デビュー時期を変更したようにも思える。
ミイヒの激ヤセ問題+休養から明ける期待も含めて、遅くした結果かもしれない。
インディーズバンドが人気曲出して売れたようなものだ。youtuberが武道館埋めるような時代だ、デビューがいつだろうとなんだろうと関係ないとも思える。
それなのに「デビュー前に紅白!」とやってしまったせいで「デビューしてないのに決まってたなんておかしい!」と憤慨する人が続出した。
今、TVがリーチしにくい若い層に強い影響力を持ち、その親世代からも好感を持たれるNiziUは企業にとって貴重な存在だ。
109も化粧品メーカーもコカコーラも全部の曲にCMタイアップがついていく状態だ。
ここで現在まで日本で最大の人気を誇っていた坂道はたいへんだというネット記事が出ているが、秋元グループは実は競合ではない。
坂道系のコアファン層が30~50代男性だが、NiziUは男性のファン層を強く持っていない。
NiziUファン層は10~20代女性で、女性アイドル好きな女性、よりファッションやSNSなど流行に興味のあるOLや学生である。
実は、ここと競合するのが現在のモー娘。だ。パフォーマンス重視に舵を切り、女性専用のライブ席を設け、着実に女性ファン層を増やしていた。
モー娘。は今後苦戦を強いられていく可能性がある。虹プロはASAYANみたいなものだったから、余計に悔しいだろう。
NiziUはここから男性コアファン層を持たずに、どうやって今後も人気を維持できるかが正念場だ。
日本のアイドルは、80年代から今現在に至るまで、男性コアファン層+ライトファン層+あこがれ女性層+世間で構成され、
男性コアファン層が出資する金額や熱量はそのアイドル達をお茶の間に押し上げてきた。
その層なしにして、今後もNiziUがヒットを継続していけるか、今後に注目したい。
踊れなくても口パクでも運が良ければ大人数のグループの中でヒラヒラアイドルになれる時代から、
一定水準のクオリティを求められるグループが増えていけばもっと音楽番組を楽しめるなと思いながら、眺めている。
ここまで書いたが、実は、私はNiziUのファンではなく、自分の推しがNiziUファンというだけである。NHKで語ってる姿がかわいかった。