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2014-05-19

いい風が吹きますように

不幸が続いている。ただ吐き出したいだけ。

4月某日、母親から電話。遠い親戚が亡くなったから代わりに葬式に出て欲しいと。

母の分、叔父、叔母の分の香典を用意してお通夜に参加。

グラスを片手にタバコをもった親戚のお父さんの写真。末期がんで死んだそうだが

なかなかい笑顔写真だった。

元々葬式は嫌いだ。人はいつか死ぬといことを強く認識させるから。別れはいだってだって悲しい。

私はシンクロやすい体質だから泣いてる人の悲しみを多く受け取ってしまう。

話したこともない人の葬式で私は泣いた。

4月某日、朝から運動をしに河原まで向かってた。

途中、6車線の大きいバイパス道路の真ん中に柴犬がいた。

犬は走り来るトラックを避け、車も犬を避け、バイパスの真ん中で右往左往としていた。

犬にとっても危険、車にとっても危険。私はわりと暇。犬を捕まえて安心たかった。

道路の真ん中の分離帯のところで犬はゴミ袋をあさってた犬に近づいた。

犬は首輪をしていて、でもお腹はペッタンコ。どれぐらい彷徨ってたんだろう。

私は昔飼ってた柴犬を思い出していた。

犬に近づくと犬は恐怖の姿勢、近づく人間を避ける構え。

仲良くなることが大事だ。自分匂いを犬に教えてあげる必要がある。

私は地面に座り、犬と同じ目線になった。犬は近づき私の匂いを嗅ぐ。

知った匂いじゃなかったのか犬はそっぽ向いた。

その瞬間犬は駆け出し、反対車線で大きいバンに轢かれて死んだ。

鳴き声、骨が折れる音、臭い、全てが強烈だった。

手を差し伸べようとしてその瞬間に全てが壊れた。私が殺した。

轢いた車のドライバーはドカチンのおっさんだった。

タバコを咥えヘラヘラしながら様子を見に来た。

反省の様子もないおっさんと話す気もなかった。何かを話したかもしれないけど

よく覚えていない。何よりおっさんが悪くないことを私は知っていた。

その後、市役所に連絡し専門の掃除部隊の方が来てくれることになった。

私は数日ふさぎ込んだ。今でも犬を見るのもきつい。

5月某日、Facebookが嫌いでFacebookの文句をTwitterで吐いてるところだった。

FacebookでToに沢山人が含まれているメール、「悲しいお知らせ」。

友人がガンで死んだ。SNSでこんな連絡をもらうなんて。

何年も友達なのにガンだなんて1ミリも知らなかった。

普通に接して欲しかたからと、ずっとひた隠しにしてたらしい。

初めて出会った時、飲み会の席で調子に乗った私がアダ名をつけたんだ。

ちょうど森ガールメディアで持てはやされてる頃、ニットのふわっとした帽子グリーン系のトップス

ちょっと天パで、笑顔がかわいくて「森の妖精さん」と呼んで、みんなで一緒に笑った。

そのアダ名はもうずっと何年もみんなが呼んでて、ちょっと責任を感じてた。

イヤじゃなかったかな。そんな話を今年の年賀状に書いて送ったんだけど

その返事を聞きたかった。その子Facebookを見てみると

「5月3日 xxさんはxxさんと友達になりました。」こないだまで生きてた証。

通夜には沢山の友達が来てた。最後に手を握った時の冷たさは忘れられない。

人生の中でこんなに連続で命が失われたことは初めてだ。

だんだん悲しい事件自分に近づいてくる。次はもっと身内が死ぬんじゃないか。

自分は呪われてるんじゃないか。厄年なんて全く信じない自分

祓いをしたほうがいいんじゃないかとか、救われたい気持ちでいっぱいだった。

どうかこれ以上、自分の回りで悲しいことが起きないで欲しい。

どうか家族、知人が幸せであって欲しいと願ってた。

んで5月某日、天気良かった先週末なんだけど多摩川そばの

公園で遊んでた。友達チャリを借りて薬局までビールを買いにいってたところ

激しく転んだ。右膝、右腿、右肩、右腕から流血。転んだせいで

首も鞭打ちになりました。でも生きててよかった。

怪我するだけなら、それが自分なら構わない。

これで終わりにして欲しいよ、神様。たのむ。

2014-04-27

企画草案

http://anond.hatelabo.jp/20140426094314

たぶん、ブクマーむっつりなので、普通オフ会じゃムリ。

通夜になる可能性大。

なので、下記を提案する。

上記がうまく出来るようなシステムはてなーの誰かが匿名イベント支援サービスとして組む

(いや、調整さんとGoogle Spreadsheet でもいけそうだが)

2014-04-01

先日祖母が亡くなった

オレはもう30になるのだがどこかで自分は年をとるけれども周りの環境はずっと同じような

状態が続くんじゃないだろうかとどこか期待していた.まあ当然そんなことはなく祖母は亡くなってしまった.

うちの家は典型的嫁姑中の悪い家庭だった.

どちらが悪いというわけではなくお互い自分の居場所を守ろうとしてのことだったのだろう.

3人兄弟長男だった自分は幼いころから母と祖母の板ばさみだった.

互いから互いの愚痴を聞かされながらも幼いながらにどちらかにつくべきではないと感じていたようで

お互いの愚痴に相槌を打つだけだった.どちらの敵にもどちらの見方にもならなかった.この環境結構きつかった.

中学にもなると多少みんなも経験あると思うけれど,

思春期で祖母のやや過剰な面倒が面倒くさくなり,距離を置いてしまった.

過剰な面倒というのは特にほしくもないお菓子をくれたり,

ゲームをしているときにやたら話しかけてくるとかだったり.

母親もやや過保護気味ではあったが,仕事をしながらの子育で,

かつ末っ子は手を焼く存在だったのでその過保護っぷりなりを潜めていた.

祖母からみると母親側についたように見えたかもしれない.

嫁姑の不仲は年月を重ねるにつれて悪化し,

兄弟3人は不仲であることを認識しつつも見て見ぬふりをした.

そしてオレと同じ用に弟たちも次第に距離を置き始めた.

もう遅すぎるけれども今ではこのことをとても後悔している.

祖母にとって不幸だったのは祖父がずいぶんも前になくなっていたことだ.

オレが生まれたときにはすでになくなっていた.

オレたち孫が距離を置いてしまったせいで家庭内での祖母はやや孤立してしまった.

親父はこのことにはわれ関せずだし大学進学時点でオレが家を出て,

次に次男が,次に三男がという風に物理的な距離もだんだんと離れていった.

話が脇にそれるが祖父と祖母ははもともと自宅を事務所として小さな会社運営していた.

祖父がなくなったと同時にこの会社はたたんだらしいが,オレの生まれる前の話なので詳細はよくわからない.

わかっているのはオレの親父とその兄弟はその会社を継がなかったということ.

おそらくだけれど,親父兄弟はまだその当時学生学校を辞めてまでやりたい仕事ではなかったんじゃないかと思う.

父兄弟は全員大学に行っていたらしいし.

祖父の死と一緒に切り盛りしていた会社をたたまなければならかったことで祖母の人生は大きく道を変えざるを得なくなってしまった.

祖母はお世辞にも常識人とは言えず,かなり変わった人格の人だったがこのあたりがなにか関係があるのかもしれない.

また先日の葬儀で初めて知ったのだけれどもこのとき祖母はすでに癌を患っていたらしい.

手術はしたけれども完全に取り除けたわけではなかったらしい.このことはまったくしらなかった.

実は祖母はかなり厳しい生活をしていたんだろうと思った.今となっては周りにあたりたくなるのもわからんでもない.

息子である親父は何をしていたかというとこちらは極度の面倒くさがりやで,

決して嫁姑問題をなんとかしようとはしていなかった.

子供のころのオレは親父のこういうところが大嫌いだった.

オレが大学院を出て就職するころには祖母はボケが進んでいたらしく,

おかしな言動が目立つようになったという話を母親づてに聞いた.

祖母は昔から懸賞はがきを出すのが好きだったようなのだが,明らかに詐欺めいた手紙が届くようになっていた.

あといくら払えば宝くじ当選確立があがります!みたいな.

母親は不仲ではあったがなんだかんだでずっと祖母の面倒を見ていた.

詐欺めいたはがきのことで注意したりもしたらしいが,祖母は頑固で母親に言われることが癪だったようで

やめる気配はなかった.注意してもけんかになるだけだし

家計に重大な問題になるレベルのものでもなかったのこの件は放置したらしい.

また祖母は自分の周りをごみ屋敷のようにすることが多かった.本当にごみ屋敷

お盆とかで実家に帰ると異臭がするレベルだった.

さすがにこれには母親も耐えかね,数ヶ月に一度たまったごみ(祖母にとってはごみではないのだけれども)を半ば強制的に捨てていた.

祖母はこのことにも大いに腹を立てそのたびにけんかをしていたらしい.久しぶりに実家に帰ると毎回こういったことの愚痴を聞かされた.

こういうこともあってたまに実家に帰ってもオレは祖母と積極的コミュニケーションをとることはしなかった.

会社に入って数年すると,ボケも進行してきて両親だけでは面倒が見れなくなって,介護施設に入ってもらうことに決めた.

その当時は祖母本人も嫌がり,祖母の実家家族も文句をたれた.

施設に入れるとは何事か.人でなし.人道にはずれたことをするなと.

さすがにこれについては親父も間に入って説明し,理解を得る努力をした.

最終的に理解は得られなかったが,実家でこのまま面倒を見ることもできないので結局施設には入ってもらった.

はじめこそやや問題があったものの祖母は以外にも施設になじんだらしい.

おしゃべりが好きだったにもかかわらず実家では話し相手がおらず,寂しい思いをしていが,

話し相手ができたのがうれしかったんだろう.これを聞いたとき結構胸がいたんだ.

施設に入ってもらってから実家に帰ったとき母親に連れられて何度か施設に顔を見に行った.

以外にも施設に入ってから母親との関係は同居していたときに比べてましになっているように見えた.

祖母はぼけが進み,孫のオレたちも自分の息子である父親も判別がつかなくなっていた.

ただ,近しい誰かということだけはわかっていたらしいく,たわいもない世間話をする分には問題がなかった.

皮肉にも祖母が最後まで唯一覚えていたのは母親のことだった.

母親は誰よりも祖母の面倒を見てくれた.

昔あれだけいがみあっていたのに本当によく面倒を見てくれた.

母親介護系の仕事をしていたのでなれていたというのはあれど本当に大変だったと思う.

祖母もいつしか母親を信頼するようになり昔のようなけんかはなくなった.

しろ祖母のよい話し相手になってあげていたようだ.施設に入ってから数年間は

お互いにまあまあ穏やかな時間をすごしていたようだった.

数週間前に祖母の容態は一気に悪化した.施設の人も驚くほど急なことだった.

救急車で運ばれたときには医者から余命1週間を告げられた.

それからはヘッドの上でほとんど動くこともできず点滴をされていた.

ただ,意識はあったのなくなる1週間前に帰ってちょっと会話した.

オレのことはたぶん誰だかわかっていなかったが,もうちょっとで元気になるから帰ったらパーティをしようとずっといっていた.

小説漫画で言えばべた過ぎるフラグなわけだけれども,リアルに聞くととてもつらかった.

でも会話をしている限りは全体としてはつじつまはあってないけれども,会話のキャッチボール自体はできていた.

からしかしたら本当に元気になるんじゃないかと思いもした.

だけども先日その祖母が亡くなった.余命1週間宣告から2週間後のことだった.

オレは特別おばあちゃん子ではなく,むしろ高校進学以降はやや苦手だった.

でも葬儀最後は涙がとまらなかった.なんの涙なのかよくわからなかった.

ただいなくなってしまうことのへの悲しみだったのか,やさしくできなかったことへの後悔なのか.とにかくとまらなかった.

こんなに泣いたのはほんとにひさしぶりだった.

オレたちは火葬された祖母の骨を拾わせてもらった.

比較対象がないのでわからないけれども年の割にはしっかりとした骨,ということらしい.

骨を拾いはじめてからはもう作業というかなんと言うか涙は出てこなかった.小さくなったなぁとただ思った.

葬儀の次の日は親父が死亡届やら銀行口座の凍結やらの手続きをして回るのについていった.

長男だし親のときはこういったことをしなけりゃならん可能性は高いしな.

さらに一日たって仕事はいった.仕事が手につかないとうことはなかったが何かとてももやもやしていた.

というか何か書いて残さないといけないなという気持ちがうちからわいてきた.これもよくわからん

祖母から特別何かを学んだということはなかったが,祖母の死は本当にいろんなことを教えてくれた.

通夜から葬儀終了までは大変だったいうこと,喪主は悲しむ暇すらないということ,人の骨は案外小さいということ,人は死んでしまうということ.

もう届かないかもしれないけれど,ばあちゃん,今までおつかれさま.ありがとう

2014-03-18

http://anond.hatelabo.jp/20140318191255

銀行員です。

死亡記事は北海道に限りません。しか勝手に載せてるわけではありません。

広告枠買って訃報記事を載せるのが一般的ということです。(私は東北地方です)

都道府県紙じゃなく、特定の県の特定地方だけを対象にしたローカル紙あたりだと、半面くらい訃報広告ってことはあるよ。

東北在住なので震災から1年後位には行方不明だけど死亡認定された人とかで、新聞訃報広告だらけだったことある

ちなみに他の方法としては、路上にある葬式看板を見かけたら、葬祭ホールとかに電話かけて確認するとかもありますよ。

参列者とかの問い合わせもあるので、秘密って言われることはあんまりない。

葬祭ホール葬儀でも、通夜とかは自宅な訳で、住所とかも聞けば教えてくれるわけです。

創作です

何年か前にTwitterを始めた

フォローしているのは個人的な知人のみである

特に連絡やコミュニケーションをとるわけでもなく、互いに好き放題に呟くだけだった

そんなある日の早朝、ここ最近呟いてなかった知人が珍しく長い文章をツイートしていた

俺は仰天した

それは、知人の急死を伝える、知人の奥方の代理ツイートだった(遺品となった知人のスマートフォンを使って投稿したようだ)

急性白血病だったらしい

俺は動揺し、泣き、その日まともに一日仕事が手に付かず、会社を出るやいなや速攻で知人の実家電話を入れた

電話には知人の母が出た

「あら、××ちゃんじゃないの。久しぶりねえ!」

お久しぶりです。おばさん、このたびは何と言えばよいのか・・・

「え、どうしたの?」

まさか急性白血病だったとは・・・。その、通夜は今夜でしょうか。今から特急に乗れば間に合いそうなのですが・・・

「え、何の話?誰か亡くなったの?」

・・・え?」

知人はピンピンしていた

電話で俺は本気で怒った

冗談が悪いにも程がある!今日一日俺がどんな思いをしたか・・・!」

「おいおいちょっと待ってくれよ。俺はTwitterにそんな事書いてないぞ?」

「嘘を言うな!今日の朝六時過ぎに、お前の奥さんが代わりに書き込んだ体で投稿してるだろう!」

「確かに今朝俺は呟いてるけど、時間は七時過ぎで『起床なう』だけだぞ?」

ここで初めて俺は違和感に気付いた

「お前のTwitterアカウント、○○○○12345678だよな?」

「え、○○○○1234abcdだけど?つかお前、随分前に一緒に呑んだ時に俺のアカウントフォローするって言ってたのに結局フォローしてないじゃん?」

俺は全く別人のアカウントを、知人のものだと勘違いしたままだったのか

いや待て

おかし

俺は知人(だと誤認していた人物)のツイート記憶の限り思い出した

誕生日が同じ

子供性別も生まれた日も同じ

奥さんの名前も同じ(前述の代理ツイートで名乗っていた)

住んでいる地域も職種も、祖父の命日も同じ(学生時代通夜に参列したので覚えている)

釣りロードバイク趣味なのも同じ

持っているスマホも(色も)同じ

そしてアカウント最初アルファベット文字列も同じ(違うのは末尾の数文字のみ)

そんな人間が居るのだろうか

俺は思い出した

前述の代理ツイートには続きがあったのを

妻と名乗る人物が「夫を思い出すのでアカウントは削除します」と予告していたのを

慌ててスマートフォンを手に取るが、時既に遅し

アカウントは消滅していた

俺は一体誰をフォローしていたのだろうか

そして知人にあまりにもそっくりなこの人物は、一体誰だったのだろうか

http://anond.hatelabo.jp/20140318005244

4.通夜とき

アサヒスーパードライめっちゃ届く。エビスとかプレモル何となくダメで、こういう場だとスーパードライなのかね。ウエットな場なのにね。

確かにエビスプレモルはラベルが金だから微妙な印象あるな。

黒ラベルはなんかあからますぎるし、スーパードライ無難にあってるのかもしれない。

ちなみにうちはラガーだった。それはキリン好きの親戚がいたからというだけ。

初めて家族と死別したので時系列で覚え書き

1.救急搬送とき

・ただごとじゃなさそうだったので救急車を呼んだ。

救急車到着、即行病院搬送かと思いきや、「普段服用している薬は?」「持病は?」「保険証は?」とか色々訊かれた。それが死の原因ではないけど、かなり焦ったしイライラした。

・服用薬のリストを作って、保険証と一緒にわかるところに置いておくといいかもと思った。特にある程度の年齢になったら。

2.死んだとき

・今まで特別病気とかしたことのない人だったので、ただただ急過ぎて意味が分からなかった。

・死因は大動脈瘤破裂。これと心筋梗塞脳梗塞くも膜下出血あたりが突然死四天王みたい。

・死んでからすぐに「どこの葬儀屋に頼むか決めてくれ、ここで」と言われた。マジか。

・結局農協へ依頼。

シンプル火葬とかのサービスもあるけど、その辺を利用する決断をこの場で下すのは難しい気がした。故人が生前からシンプル火葬希望の旨を周知徹底しておくとかでもない限りは。葬儀業界市場原理とかあんま無いみたいで、地場根付いているかがほぼ全て。

3.無言の帰宅とき

・逝ったのは月曜だけど、最寄りの斎場が混んでるらしく通夜告別式は次の土日に行うことに。冬の方が他の季節より死ぬ人が多いみたい。

・「今くらいの寒い時期なら、ドライアイス敷いとけば一週間近くは平気でしょ」とのこと。そんなわけで我が家に仏が5泊。

・その日の内に葬式見積もりとか色々もらう。誰が花をいくつ贈るかとかそんなのに気を遣う。本当はそんなことより泣きたい。

・実際、すぐ焼かないで何日か一緒にいられたのはラッキーだったのかもしれない。

納棺した仏に顔を近づけ過ぎると、ドライアイスから放たれた二酸化炭素めっちゃ吸い込むので注意。

戒名たけーよ。1文字3万円くらいよ。いっそ戒名ジェネレータとかあればいいのに。

4.通夜とき

・どこの誰なのか正直よくわからない人達が何人も来る。でも、ありがたい。

・離れて住んでる親戚とかって、盆と正月と身内が死んだときくらいしか会わないね

アサヒスーパードライめっちゃ届く。エビスとかプレモル何となくダメで、こういう場だとスーパードライなのかね。ウエットな場なのにね。

・坊さんが地味めの袈裟で登場。何を言ってるのかよくわからない。

・式の司会担当のおばちゃんがやけに抑揚をつけた声で「天国から見守っていることでしょうーー」とか話す。三文芝居みたいで興ざめ、でも、泣く。このおばちゃんに3万円。

寿司やらを皆で食べる。会場には瓶を下げてくれたりするおばちゃんが3人。このおばちゃん達に一人当たり1万円。

5.告別式火葬とき

・嫌味なくらいに気持ちのよい朝。

・昨日よりもかなり高級そうな袈裟を纏い、坊さん満を持して登場。相変わらず何を言っているのかは不明。

・式が終わり、皆で棺に色々詰める。もう焼かれてしまう。仏をよく触る。泣く。

・「1時間程度で火葬が終了しまから」と、待っている間にまたプチ宴会。酒を飲むも、酔えない。

・「ご遺族の代表の方は、遺骨の確認をお願いします」のアナウンスを受け、席を立つ。

頭蓋骨とか大腿骨とか、丈夫な骨はちゃんと形を保っているものだと思っていたが、かなり強い火力で焼くらしく、全部ばらばら。自分の時は、ミディアムレアくらいがいいな。

・確認とか言われても、こうなっちゃ誰のを出されてもわからんわ。

・その後みんなで骨を拾い、壷に入れて帰宅

6.帰宅後のこと

・帰って早々に諸々の清算。いっそ前払いでクレジット決済とかにして欲しいわ。

香典返しとかめんどくさ…

※今ここ

2014-01-12

同窓会

セミフォーマルドレスなんて初めて着たから、成人式後の同窓会の席でビールをかけられた時、わたしが最初に考えたのは「クリーニング、どうしよう」だった。

「この人殺し! 阿婆擦れ! お前のせいで、洋子ちゃんは死んだんだ!」

振り返ると、グラスを手にした女の人が泣きながら叫んでいた。はじめは頭の中が真っ白で、それが木下先生だと気づくまで少し時間がかかった。そしてようやく、わたしは二次会カラオケで歌う曲だとか、久しぶりに会う男子と何を話そうかとか、そんな心配必要なくなったことを知った。そうか、これが修羅場か。

三田ちゃん、大丈夫?」

事態をどこか他人事のように認識しながらも、友人に気遣われるうちに少しずつ感情が高まり、やがて表面張力限界に到達して、結局すこし泣いた。

木下先生には中学時代、2年と3年の時に家庭科を教えて貰ったから、まったく知らない間柄というわけではなかった。だけど特別それ以上の関わりがあったわけじゃないから中学卒業から間もないあの夜まで、先生と洋子姉が同級生親友だったとは知らなかった。そう言えば4年前のあの夜も、先生は大きな声を出して泣いていた。感情表現が豊かな人なのだろう。

洋子姉はわたしの従姉で、15歳も年が離れているけど、親戚同士の集まりでたまに会う時は優しくしてくれたから、そこそこ親しみを覚えていた。一度だけ、スキー旅行か何かのお土産を貰ったこともある。隣町のナントカ病院に勤めてる、みたいな話を聞いたことがあったけど、お医者さんだとは聞いてないから、いわゆる医療従事者というやつなんだろう。具体的に何なのか、詳しく聞いたわけじゃないからよくわからないのだけれども。

あの日、通夜振る舞いの席で親戚のおじさん、おばさんたちが話していた洋子姉の死因は「もとから心臓が悪く、薬を飲んでいたけれど、突然発作があり、薬を過剰に摂取してしまったことが原因」というものだった。医療機関に勤めている人でもそういうことがあるんだな、と不思議に思ったけれども、余計なことをあれこれ詮索して良い雰囲気でもなかったから、特に尋ねることはしなかった。

さて、修羅場となった同窓会は結局、途中流会となった。騒ぎが収まり、わたしと木下先生がそれぞれ別室に移動したあと、一旦は再開しかけたのだけど、なんとなく白けてしまい、用意していたビンゴビデオ上映は実施されずに終わったらしい。

翌日幹事佐藤から聞いて、わたしは皆に悪いことをしたと思って謝った。だけど佐藤君が言うには、わたしは被害者なのだし、結局二次会カラオケビンゴビデオもしっかりやったし、皆はわたしに同情してくれていたから、謝る必要なんか全然ないとのこと。

それを聞いて「なんだ、じゃあ一切気にしないことにする」と冗談めかして言ってみたら、小突かれながら「今度リベンジとしてミニ同窓会を企画するから三田も絶対来い」と強引に約束させられた。うん、佐藤君は良い人だ。全然好みじゃないけど。

同窓会翌日の席には、わたし、わたしの両親、佐藤君の他に、中学3年当時の担任だった小林先生と、木下先生のご両親がいた。木下先生のご両親がわたしに謝りたいということで設けられ、実際「娘が申し訳ないことをした」と頭を下げられたけど、理由を聞くと口ごもる。知らないという感じじゃなくて、話しにくいという雰囲気で、空気を察した小林先生佐藤君を連れて席を外してくれた。

「娘は、親友だった洋子さんが亡くなった原因が、三田さんにあると思い込んでいるようです」

この言葉けがわたしに突き刺さった。いえ、私どもは娘の勝手な思い込みだと思ってるんですけども、などとフォローなのか言い訳なのかわからないセリフがごちゃごちゃくっついていたけれど、そんなのは心底どうでも良かった。

洋子姉の三回忌の後、木下先生形見分けとして手帳を貰った。そこには洋子姉の恋人がわたしに興味を示し、心変わりしただとか、自分と別れろと言われただとか、希美ちゃんを仲介しろと言ってきただとか書いてあり、最後に「希美のせいで死ぬ」「希美が憎い」といったことが書いてあったらしい。

木下先生はそれを読んで以来ずっと、わたしさえいなければ洋子姉は死ななかったのだという思いと、わたしには罪は無いという思いの板挟みになっていた。そして同窓会の席でわたしを見た瞬間、感情が爆発してしまった。ご両親にはそう説明したそうだ。

自殺かもしれない、とは思ったこともある。

だけどこんな理由だったとは思いもよらなかった。

両親からは、すぐに洋子姉の両親夫婦に連絡をとって貰い、確認してもらった。叔父夫婦手帳存在を認め、遺書の内容も手帳と似たようなものだと語ったそうだ。事情事情だけに説明するわけにもいかず、だけど本当の理由を誰かに知って欲しくて手帳を渡したのだという。

本当の理由。

本当の。

まり、叔父夫婦木下先生の中では、わたしは本当は「洋子姉の恋人たぶらかし、洋子姉を死に至らしめた張本人」ということだ。

知らない。そんなの知らない。

からない。何のことかわからない。

わたしじゃない。わたしのせいじゃない。

だいたい、洋子姉の恋人なんて会ったこともない。顔も名前もどんな人かも知らないし、年の頃が同じならば、今30歳前後。洋子姉が亡くなった当時も、25歳を過ぎたかそのくらいのはずだ。

わたしはその時、中学生

そいつこそ、おかしい。どう考えてもそいつが悪い。

なのにみんな、どうかしている。

怖い。

気持ち悪い。気持ちが悪い。

この町には、もういられない。

佐藤君に「ミニ同窓会に出られなくなった。ごめんね」とメールした後、結局すこし泣いた。

2014-01-05

http://anond.hatelabo.jp/20140105022650

おれ煽ったか

別に自慢してるわけではないし子育てブログなんぞやってない。

なんか敏感になりすぎでは?

うちはマジ特定される情報から本当に無理なんだわ。しいていうなら

体の話になるのでマジ深く話せない。まじお通夜になるぜ?

2013-12-09

http://anond.hatelabo.jp/20131209161548

結構な遠出になるから通夜でも早退はせんならんのだ

まあ、気軽に有休とれるから大丈夫

http://anond.hatelabo.jp/20131209160929

通夜に行けば有休使わなくてもすむじゃん、と思ってしまったおれは冷血漢。

2013-12-08

近所の酒屋のおっさんの話

実家の近所に個人経営のちいさな酒屋があった。

初めてその店に行った記憶は、柿の渋抜き用にと焼酎を買いに行かされた「はじめてのおつかい」だ。

それからしばらくの間は子供酒類を買いに来ても咎められることはなかったな、そういえば。

その酒屋には豊富駄菓子も売られていたので子供の頃からよく利用していた。

たまに賞味期限切れだったり小虫が紛れている菓子があったのもご愛嬌

春と秋の遠足に、夏休み冬休みの子供会行事、そして普段から

顔見知りとなっていたので当時生意気だった私は酒屋のおっさんに軽口を叩いては遊んでもらっていた。

地域の祭にもよく参加していたおっさんが、竹笛をとても上手に吹いていたのを私は知っている。

おっさんのくせに上手いなあと思っていた。

海がとても近い町だったので、放課後に買ったアイスをかじりながら、よく堤防の上で友達ジャンプを回し読みしたっけ。

その後自分中学高校へと進むにつれ行動範囲も広がり、その店に行くことも減ったが、

おっさん母親であるお婆さんが痴呆となり、外を徘徊しているという話を両親が夕飯の席で話していた。

へー、そういえばおっさん元気かなと一瞬頭を過ぎるものの、そんなことより

生意気だった小学生思春期を迎えて、その頃にはたいへん卑屈で地味で中二病交じりに内向的高校生になっていて

あの頃の失礼極まりないながらも天真爛漫だった私はどこに行ったんだろうなどと考えながら白飯を口に詰め込んだ。

おっさんは私が高校生の時に亡くなった。

確か部活終わりに部室でまったりカップラーメン食ってる時に、同中の友人からメールが来たんだっけ。

中学校の近くの裏山で首をくくっていたという。例の痴呆母親介護を苦に…とかそれらしい話もで出回っていたが

背が高く飄々とした、竹笛のうまい顔見知りのオッサンに死のにおいは全く結びつかなくて戸惑った。

おっさんを知る友人も私も、泣くほどではない。ただ、あれこれ思い出話をしては、たださみしいなと思った。

母は通夜炊き出しに出かけていただろうか。

海の近い町に生まれた。山も近かったが、なにより海に近かった。

それなりにいい町だと思う。とはいえ、人口に対して自殺の話題をやたらとよく耳にして、

それは同級生や後輩の父親だったり地元の名士的に知られた男性といった、面識があったりなかったりの人達だったから。

おっさんの死後、しばらくは彼の妻が会社勤めをやめ店に出ていたようだが、その頃実家を出ていた私はよく知らない。

おっさんが(屋号からしてきっと先代の頃から)営んでいた酒屋はもうない。当然、ジャンプを回し読みした堤防も。

2年前のあの日が来るまではきっと、市外には知れない程度にローカルに、死因ナンバーワンだったんじゃないだろか、なんて。

病死の方が普通にいか

2013-11-03

人の死を上手く悲しめない

遠くない人が亡くなっても、悲しめない自分がいる。「悲しい」とは思うのだけれど、思うだけであって、何かこう表面的に、悲しんでいる自分を演じている風になってしまう。

例えば親類が無くなって、生前はお世話になっていて、まだ若くして亡くなった人のお通夜葬式に参加した時、本気で悲しんでいない自分を冷静に客観視できてしまう。嫌悪してしまう。悲しまなければならないのか? などという無駄な問答をする。そういう問題じゃないと思う、本当は。悲しい時は悲しいし悲しくない時は悲しくない。

だけど、人が死んでいて、且つそれが遠くない人なのに、なぜ涙が出ないのだろうか、本気で悲しいと思わないのだろうか。

それはその人が悲しむに値しない人だからなのか? 違うと思う。だって、人が死んでんねんで、冗談ではなく。例えば、もう年をめして、静かに逝った、というのであれば「あぁ、良かったね」と笑顔で送り出せるのかもしれない。いや、これは若い人でも同じか。「いい笑顔してるでしょ」と仏さんの顔を見ながら仰る近親の人の言葉の中には、間違いなく哀しみが含まれている。ただ、立ち直りに時間がかかるかからないだったり、切り替えられるだったりの部分の話であって、悲しんでいることは本当なのだ

身近な人の死に対して本気の涙を流したのがいつなのか思い出せない。マンガや、アニメでは、結構泣くのに、身近な人の死で泣けない。泣かなければならないという義務感に苛まれているのではない。なぜ、人の死を客観的に捉え、さらには「悲しんでいる自分」を無意識に演じている自分がいて、さらにそれを深く考えようともせず放ったらかしにしているのか。

そう、これまでこういうことすら考えることすらしてこなかった。そして多分それは興味がなかったからなのかもしれない。余りに自分を周りから突き放しすぎていて、人の死に対して鈍感なのかもしれない。

よく、フィクションの作品で、人の死を悲しめないキャラクターというのが登場する。一番直近で出会ったのは、西尾維新さんの最新「伝説シリーズ」に登場する空々空というキャラクターだった。彼は人の死をとても客観視する。怒らないし悲しまない。そして「悲しんでいる演技をする」のだ。それはト書きでも書かれている。空々空という人間は「そういう人間なのである」と冷静に、ト書きツッコミが入る。

こういうフィクションの、想像上のキャラクターに対して多くの人がどう思うのかは分からないが、私は、この空々空というキャラクターに完全に感情移入していた。だから冗談ではなく、「うんうん、そうだよね」と強く同意をしながら読み進めたのだ。だからこそ、分厚い三部作をいつの間にか読みきっていたのだと思う。

そして思う。私は、家族が死んでも悲しめるのだろうか、と。とても怖い。それが怖い。家族が死んでも涙が自然と流れなかったら、死んだほうがいいかもしれない。

そして思う。こういう文章を客観的に書いている自分が気持ち悪い。

2013-10-28

遠方の友人が、突然他界したら

大学時代比較的親しい友人がまだ20代ながら、亡くなった。

いわゆる遠方の友で、まだ日取りはわからないが、通夜葬儀に行くべきか迷う。

旅費は交通費だけで5万以上、時間は片道5時間以上。

会社は1日以上は休まなければならない。

親しければ行けよ、後悔したくないなら行けよ、と言われるかもしれないけれど、

ワーキングプア(とまではいかないだろうが、)5万も出費していたら、生活が苦しい。

どうすればいいんだろう。

2013-10-21

http://anond.hatelabo.jp/20131009150541

みごとにゴールをキメて、お逃げ切りあそばされました。合掌。

本人の希望により通夜葬儀は行わないとか言ってるけど、最後のご奉公として総額100億円くらいの豪勢な葬式やって、名目GDPの成長にほんの少しでも貢献すりゃいいのに。

そしたら許してやるよw

 

でも、すげーなオレw

遠回しに「しんでほしい」って日記に書いたら、1週間もせずに肺炎入院10日余りでお送り申し上げることができたとは!

呪術師の才能があるんじゃね?www

 

ちなみに、インドネシア呪術師に依頼して、選挙に勝つための最強の霊を呼び出して背後に付けてもらうと、謝礼の相場は30億ルピア(約2900万円)だそうです。(ソース朝日新聞w)

2013-10-16

http://anond.hatelabo.jp/20131016133156

コンテクスト空気が読めるは、その場の空気を作っている人間同調圧力から、人の心が分かるではありません。

権力に屈する。長いものには巻かれる。という言い方のほうが正しい。

もしくは通夜葬式などの空気を読む等の場合は TPOに従う。郷にいれば郷に従うです。

 

人の心が分かる。には、ちゃんとした、古来から受け継がれているただしい意味がありますから、古来からの正しい意味大事しましょう。

2013-09-08

今朝のサンデーモーニングが異様な空気ワロタ

アナ以外顔色が真っ暗で完全にお通夜



今朝の関口宏サンデーモーニング

もっと経済状態が良い国があるのに」

「他の国に譲れば良かった」

「小さなナショナリズムうずくまる日本

「ひとモメあるかも」

一部の人がいい思いするだけでしょ?」

「はぁーー(ため息)今日はいつもと違う状態…」

2013-08-27

http://anond.hatelabo.jp/20130827202038

いよいよ某企業ステマが明らかに!とはしゃいでた連中なんか既にお通夜モードだしな

普通に考えればそんなん会社の業務としてやるわきゃねえだろと

2013-08-21

社会人スキルが低くて泣きそう

取引先のお父さんが亡くなって、そのお通夜に行きました。

そのお礼の電話が先方からかかってきたのですが、

気の利いた受け答えが言えなかった。

もう、ほんとにトンチンカンな会話だったと思う。

こういうときなんて言ったいいのか、アドリブが利かなくて泣きそうです。

ネットで調べればいいや」という癖がつきすぎているのが原因の一つだと思う。

2013-08-09

自信がないんだ

オヤジと母さんは物心ついた時から仲が悪かった。

学校から家に帰るとオヤジに投げ飛ばされ失神し倒れていた時もあった。

でも母さんも強気オヤジと取っ組み合いするくらいの気性。

俺は二人とも好きだっただけに辛かった。

家族四人(姉がいる)揃った楽しい思い出は数少ない。

2度ほど旅行に行ったくらいか

多くの思い出は夫婦喧嘩ばかり。近所に住んでいたおばちゃん(母の姉)に「すぐきて~っ!」て呼びに行ったことは数えきれない。

原因は親戚関係にあった。

オヤジ長男。墓守として仏壇もウチで管理

オヤジ兄弟姉妹は好きかって言う。

誰かに病気や不幸があれば「仏壇管理が悪い」とイチャモンと付けに来る。

オヤジにではない。母さんにだ。

そんな親戚を私は今も恨んでいる。

そして母を守らなかったオヤジも恨んでいる。

母方の兄弟姉妹もぐちゃぐちゃだった。

母の母、ばあちゃんがボケてからというもの、良くある話が頻発。

「誰々の家ではご飯を食べさせてくれない」

「誰々が誰々の文句を言ってる」

ばあちゃんをたらいまわしにした挙句責任は母へ。

ウチはオヤジ仕事の都合で転勤があってばあちゃんを引き取ることができなかった。

その他兄弟姉妹も多くが教員事情は同じだ。

短い間ではあったが面倒を見ていた母の兄の転勤を機に病院へ入れることに。

ばあちゃんは「・・・・(母さん)と一緒に住みたい」と言ったらしい。

しかしそれはできなかった。

そのとき、母の乳がんが発覚していたからだ。

なぜかは分からないが母は兄弟姉妹入院するまでそれを言わなかった。

おばちゃんにだけ伝えていた。

母は袋叩き。母対一番下の妹との取っ組み合いの喧嘩も見せつけられた。

私が小学2年の頃。40過ぎた今もはっきり情景が焼き付いている。

そこから親戚関係はぱったりと疎遠になる。

母の手術後もだれも見舞いにすら来ない。

回復後も同じ。

オヤジ方もそう。

おばちゃんだけが拠り所。

親戚関係がないということはお年玉に影響する。

それを気遣ってか、親もおばちゃんも1万円くれる。

から毎年2万円。まあ友人たちよりは少なかったが不満はなかった。

私が小学6年の時、母の癌が再発する。

から聞いた話だが、オヤジには医者から余命2年と告げられていたらしい。

でも私もある程度悟っていた。

退院を繰り返す。

その度に痩せていく。

私がギターが欲しいと言ったら母の同級生からギターをもらってきてくれた。

普通なら反対するだろう。厳格な母だったから。

しかすると自分でも分かっていたのかもしれない。

中学2年の頃、思い切って、エレキギターが欲しい、と言うと「いいよ、上手くなったもんね」。

当時は高価だったエレキギターギターアンプを買ってもらった。

おばちゃんに「私は反対だな」と言われたとき冗談で「何かあるのかな?最近全然反対しないんだよ」といったらおばちゃんの血相が変わった。

明らかに動揺していた。多分おばちゃんも悟っていたのだろう。

「ま、まああんたは勉強部活も頑張ってるからじゃないの・・」とだけ言われた。

退院を繰り返す。

入院きっかけは呼吸困難。私はたまたま直面しなかったが、姉が2度救急車を呼んだ。

そして2,3週間で退院

もう確定だ。母さんの体は小さくなり、顔や肩にこぶができ始めていた。

この頃すでに家事は残された家族で分業。

ご飯は自分で。洗濯自分で。家の掃除は気が付いた人がやる、という暗黙のルールができていた。

私が中学3年に上がる頃に再入院

たまたま友達が腎炎になり数か月入院していたので見舞いがてら学校帰りに病院に遊びに行っていたようなものだ。

それでも母は喜んだ。友人も母といろいろ話せるようになっていた。

しかしこの頃から急激に体が弱り始め、会話もやっとの状態になった。

4月に入り、急に疎遠だった親戚連中がやってくるようになる。

「ごめんね、ごめんね」と泣きながら話しかける奴ら。私にも「久しぶりね、元気だった?大きくなったね」

鳥肌が立つ。なんだこいつら。

同時に母の死期が近いことが分かった。母を見て明らかだ。そして個室へ移された。これは常識的に「最後であることを意味する。

姉と冷静に話す。

「もうそろそろなのかな・・・

「そうかもね・・・

その3日後、早朝に電話が鳴る。

すでにオヤジはいない。

姉を起こし、自転車で二人乗りして病院へ急ぐ。

「来たな」

「来たね」

その言葉しか交わさなかった。今思ってもあまりに冷静だった。

病院に着くと呼吸困難の発作が出ていた。

ほとんど口をきけなかった母が叫ぶ。聞いたことのない大声で叫んでいる。

先生!私まだ死ねない!子供らが!」

そう叫びながら処置してくれている先生白衣をぐいぐい引っ張っている。

先生も大声で「大丈夫大丈夫から!ちゃんとやってるからちょっと離して!注射打てないでしょ!」

ヤバかった。見ていられなかった。計器の音と叫び声だけが響き渡る病室。

小一時間ほどで状態が落ち着く。その日は日曜だったが私の部活の催しがあった。

オヤジに「落ち着いたようだから行って来るわ」と言い残し、家に行って道具を持って体育館へ。

着替えていると体育館の職員さんが大声で呼びに来る。

「親戚の人が来ているよ!急いで!」

事情を聴いたんだな。それよりも「あちゃ~来たか」という感じだった。

仲間に聞かれても「いや、そのうち分かるから」と言い残して病院へ急ぐ。

到着したとき、母さんは亡くなっていた。

タイミングよく集まった親戚中が泣いている。

この時初めてオヤジの涙も見た。

でも私は不思議と涙が出なかった。「やっと楽になれたね」という気持ちが強かった。久しぶりに見る母の安らかな顔。

人とは不思議もので、毎日痛みに襲われ続けると表情や顔のカタチすら変わってしまものなのだ

昔の結構美人な母さんの顔に戻っていた。

手を握るとまだ温かい

私は一言、「お疲れ!」。

周りは煽る。私を泣かせようと煽る。なぜ泣かないのか、悲しくないのか、とまで突っ込んでくる。

いい加減、ついに私がキレる。

「おめぇらに何が分かる?!うるせぇんだよ」

病室の外でも言い合いが。

オヤジと私を迎えにきた親戚だ。

「なぜ(私を)行かせた?!誰が許した!」

「俺だ!何か文句あるか!」

胸ぐら掴みあってる。

私が割って入る。

「アンタに何が分かる?俺は見ていられないから行ったんだよ!ドラマみたいな場面作られても満足するのはオマエらだけだろうが!母さんは分かってくれてんだよ!」

で、全員に

「つうか、てめえら急に兄弟ぶりやがって何様だおらぁ!」と壁パンチ一撃。看護婦さんに止められる。

中学3年のガキとはいえすでに身長は180cm、体格は大人、しかヤンキーときた。誰も止められない。

シーンとする。

遺体に寄り添っていたおばちゃんが冷静に一言

「アンタのムスコ、やっぱり立派になったよ。いい子だねぇ。育て方間違ってなかったよ。あれだけ辛い思いさせても大丈夫だったんだよ」

「お母さんね、いつも私に言ってたんだよ。教育上良くない場面を何度も見せてきた、母親らしいこと何もできなかった、一番母親必要な時までいてやれるかな?って」

兄弟姉妹たちはぐうの音も出ないで押し黙る。私はその一言で涙腺崩壊した。

その後、通夜告別式の間、私は一度も涙を見せなかった。

通夜には大勢の人が訪れた。クラス全員、姉のクラスも。そしてオヤジ金融機関勤めだったのでその関係者。豪勢な式になった。

遺族席でいるとひときわ号泣して要る奴がいる。あの母と同時期に入院していたアイツだ。

聞くと、私がいない時も母の病室に行き、母と話をしたことがあったらしい。

その時に「あの子をよろしくね。これ内緒でね」と毎回言われていたそうだ。そいつ退院が決まった時も車椅子で声を掛けに来てくれたという。

そいつもそんな人前で涙を流すような奴じゃない。この話を後から聞いた時の方が参った。アイツも参ったらしいが。

親戚は帰るときも「これからはちょくちょく連絡取ろうね」と言い残したが、

「いや、遠慮しときます」と答えた。呆れた様子だった。

おばちゃんから伝え聞いた話によるとその後も親戚関係はぐちゃぐちゃだったらしい。

母と取っ組み合いの喧嘩をした妹は旦那会社の金を横領、その穴埋めができずに旦那夜逃げ

家を取られまいと抵当権を外すために兄弟じゅうに借金子供の学費の工面で借金

もう何年も前に話なのに誰にも一銭も返していないことでいまだにモメているという。

誰でもどこの家庭でも何かしらの問題は持っている。

しかしウチの親戚連中は結構ひどいな。みんな仕事は立派なのだが。

今はおばちゃんも亡くなり、長兄も亡くなり、オヤジ方を含めみんな年老いた。

生きていても、離婚した人、精神病院に入ってしまった人、奥さんが自殺した人もいる。

子供らに関しては50歳にして就職経験なし、という人もいる。

携帯キャリアの開発部門で立派にやっている人もいるし、教員も多い。みんないろいろなんだ。

親族間のつながりの希薄化が言われているが、悪いことばかりじゃない。

遠くの肉親より近くの友人。

的を得ている。

でも親族が円満な人たちがうらやましくなる時もある。

母さん、おばちゃん、俺はこの生き方でいいのかな?

事あるごとにどちらに進むべきか聞いてきたけど、言う通りにしてきたぜ?

自分なりに全力も尽くしてきた。

母さんに言われた通り「どんなことがあっても女性に手を上げてはいけない」も厳格に守ってる。もちろんムスコにも同じように伝えてる。

最近いろいろ考えるんだ。

今、心を病む寸前かも知れない。声が出にくくなってきた。震える。人と会うのが怖い時が多くなった。

でも無理矢理「これでいいのだ」と言い聞かせている。

これでいいのかな?

そっちの世界に行く時に悔いなく死ねるかな?

やりたいことはたくさんあるんだけどな。

上手く行かないことばかりでさ。

オヤジももうすぐそっちの世界に行くかもしれない。

そうなったら俺一人になるな。

一人でやって行けるかな?

子供らを巣立たせることができるかな

なあ、どうして最近出てきてくれないんだ?

間違ってるなら間違ってるって言ってくれよ。

あの頃あったはずの自信がないんだ。

2013-06-27

気軽に死ねと言う悪癖について

罵倒、という表現方法がある。

自分イラついてるんだ、お前に思い知らせたいんだ、正義を執行したいんだ、罰したいんだ。

色んな理由があるが、要は罵倒だ。

バカだとか死ねだとか、殺人と同じだ猿と同じだ、足りない脳みそ必死に考えたんだねとか。

ここで射精、とか(棒、なんてのも婉曲的な表現だけど、要は罵倒だ。

本質が伝われば言葉が乱暴でも構わないという考え方もあるのは判るが、罵倒罵倒だ。

立ちションしながらプロポーズするヤツは居ないだろうし、鼻くそほじりながら商談はまとめない。

社会性というのは、相手との間に共通するプロトコルを知っていて、かつ、それが使えることを言うと思う。

乱暴な言葉遣いと罵倒とが一線を画しているのは、そこだと思う。

から、気軽に死ねというのは止めた方が良い。

特に、誰が見ているか判らない場所では。身近な相手には。

ネット上の罵倒芸(と言える人はごく少数だけど)を読んだ小中学生が、気軽に罵倒を真似した結果、

心に大きな傷を負うのは、個人的にはもう見たくない。

たいていの場合、口うるさいジジイってのは文字通り老い先短いわけであって、

死ね、クソジジイ

という勢いだけの言葉を放った翌日、本当に爺さんが死んで通夜家族が泣いてるのを見てショックを受ける

なんてのは、そんなに特殊な話じゃないだろう。

から罵倒したくなったときには、実害のない罵倒を考えることにしている。

うんこを踏みますように」「宝くじに外れますように」「一生富士山に登れませんように」「なぜか世界遺産に行けなくなりますように」

そう、知り合いにも話してみている。

勢いで書き込みたくなったときは是非。

その結果、罵倒しようと思ったコメントのものがばかばかしくなって、何も書かなくなるから

その方がずっと良い。

2013-05-21

http://anond.hatelabo.jp/20130521130446

子供の夢を壊す子供に育てるなよ。

いわゆるプレゼントをくれるサンタなら空想の人物だが、フィンランドにはきちんとサンタいるぞ。

サンタクロース協会とかあるし。

ここから完全私見

小学校とかでサンタ存在を否定する奴は悪だ。

絶対クラスにひとりぐらい「うわwwまだこいつサンタいるとか信じてんのwww」

とか言って子供純粋な気持ちを踏みにじる輩がいる。

これで馬鹿にされた奴が兄弟かい相談できる子ならいい。

しろ問題は一人っ子とか一番上の子だ。

クラス連鎖的に広まって、必死に隠してきた家族努力無駄になる。

今日、○○君がサンタさんホントはお父さんなんだっていってた…」とかお母さんに言って

それこそ家族会議ものになる。

もうお通夜もん。自分は本当の子じゃないって知った時ぐらいの落ち込みよう。

年齢が高いと尚更落ち込みます

マジで勘弁してください。

全国のその辺の年頃の子を持つ親御さんは徹底して指導してください。いやマジで

「知ってても他の人にはいっちゃだめだよ」と。教えてあげないと奴らは見境ないです。

自然に年齢を重ねるごとに知る分にはいいけど、言いふらす奴は戦犯

ウルトラマンとかネズミマウスには中の人などいないのです。

2013-05-04

私が思うポップ・ミュージック凄さ、楽しみ方について少し書いてみたい

いきものがかりイケメンじゃない方の男性が、以前テレビ番組

「正直、周りも自分も、学生時代にはロック洋楽に憧れていた。でも、みんなでカラオケに行った時、全員で盛り上がれるのはそういう曲じゃなかった。

結局、みんなポップな曲が好きなんだろ?じゃあ俺たちも、そういう曲を作っていこう」

みたいなことを言っていた。(しっかり内容を記憶していないので、間違いがあったら申し訳ない)

結局みんなポップな曲が好きなんだろ?というあたりには同意しかねるけれど、確かに、二次会なんかでカラオケで盛り上がる曲はAKBでありジャニーズであったり、いきものがかりであったりする。

私は学生時代(といってもほんの数年前)、バンドに明け暮れていて、時折作曲もした。

高校生の時は、いわゆるロキノン系、邦ロック、というものに周囲はドハマりしていた。

バンドメンバーの一人は、本格的に音楽を学びたいと上京していった。

彼は、ロキノン雑誌「ROCKIN'ON」)からまり、他にも毎月音雑誌を何冊も読み漁り、新しくお気に入りバンドを見つけては嬉々として語るような奴だった。一番のお気に入りバンプだったと記憶している。

彼と数年ぶりに会うと、驚くほど音楽の好みが変わっていた。

近場のツタヤに寄ってバンドをやっていたときの事などを話していながら、ロキノンを読んだ。

高校時代の彼ならば飛びつくような、良くも悪くも「ロキノンらしい」新人バンドが目に入ったが、彼は「ここの曲、ちょっと酷いよ。最近売れてきてるみたいだけど。世界観が独特とか、いろいろ言われてるけど、そうじゃない。音楽の作り方が分かってないから、曲になってないだけ」と言うのである

驚いた。高校時代に彼が好きだったマイナーバンドの名をいくつか挙げた。

しかし、「あの頃は、人が知らない物を知ってるっていうことが嬉しかったんだと思う。音楽について知らなさすぎた」とばっさり。

ちなみに、バンプは今でも一番好きらしい。「あの人たちは凄い」と目を輝かせて言っていた。

私は高校時代メジャーだろうがマイナーだろうがところ構わず勧められたものを聴いていたタイプで、けれど、一番好きなアーテイストは「絢香」と「Perfume」だった。

当然バンドメンバーに耳を傾けてくれる人はいなかった。絢香リアルボイスをコピーしたり、Perfume楽曲アレンジして一人楽しんだりしていた。

いざ、曲を作ろうという話になると、とにかくみんなが盛り上がれる曲を作ろうという話になったが、皆驚くほど作れない。

私は「ロックキャッチーでノレるカッチョイイ曲」が作りたかったのに、なんだか通夜みたいな曲ばかりができあがる。

過去絢香バンド曲をコピーして、実際に書き起こした譜面を見ながら疑問符を並べた。

「みんながノレるメロディ」というものを作るのは、異常に難しい。

一応、進行に法則のようなものがあることは皆知っていたので当てはめてみるも、どうにもメロディいまいち

「で、どこで盛り上がるの?」という曲ばかりが出来上がった。

…思うがままに書いたがなんだか脈絡の無い内容になってしまっている。一度まとめたい。

AKBアイドルやらGReeeNとか西野カナとかソナーポケットとか、ネットではこんなものランキング上位などと日本終わってる云々と言われる始末であるが、

ではそのランキングを席巻する曲たちは本当に終わっているのか?

売り方に問題はある。それは十分に分かっているつもりである

しかし、曲そのものはどうか?

あと、最近アニメソングとかも凄い。才能に驚く。全く興味の無い分野だったが、作曲家を少し調べてみると学生時代バンドやってました、なんて人が結構いて驚く。

上記が一番書きたかったこと。

眠いので、全部すっ飛ばして、もう一つ書きたかったことを書く。

メジャーデビューしたりとかして、ロキノン系のバンドタイアップを組み、がーっと知名度を広げていくと、ざーっと以前からのファンが去っていく。

メジャーデビューしちゃったか一般受けする曲ばかりになった」と言う人がいる。

そういう曲は、バラードでもない限りライブで大変盛り上がる場合が多いと思う。何せポップでキャッチーから

今日BBQに行ったので疲れてしまった。途中だが寝る。せっかくここまで書いたか投稿します。おやすみなさい。

2013-04-09

友達が死んだ。まだ3年目だったのに、パワハラ精神病んで三月に仕事辞めて、自宅療養中に自殺した。

世間様の評判もそこそこ良い会社だし、自分会社みたいに名指しでブラック呼ばわりされたりもしていない。

上司に「死ね」「役立たず」「今まで何してきたんだ」「お前辞めちまえよいらねえよ」なんて罵倒されることもないし、自分以外全員でミーティングして色々決めてそれを一人だけ伝えてもらえないなんてこともないし、毎月120時間超の残業させられてるのに30時間以上残業申請させてもらえないなんてことなくてちゃんと全部申請できるし、土日出勤はきちんと給料もらえて代休も取れて、年休も前もって言っておいたら使えて、終電には必ず乗れるし始業の一時間前に来て仕事しろなんて言われないし、仲の良い同期も相談できる先輩も愚痴友達学生時代から付き合ってる彼氏ペットもいて、どうしてそれで精神病むの?何がそんなに死ぬほどの苦痛だったの?

彼女が死んでも良いなら私だって死んで良いじゃん。私の方が死ぬべきでしょ。私がこんな環境仕事してるなんて知らなかったでしょ?私も言わなかったけどね。

通夜たかったけど、朝から定時で上がりたいって言ってるのに全く無視されて定時直前に仕事増やされて今ようやく帰れたよ。ごめんね、お葬式もいけない。今週も来週も、休みなくずっと仕事だよ。

お互い自殺なら同じような行き先だろうしもうすぐ会えるね。今度は私の愚痴を聞いてもらうからね。自分だけ早抜けしたんだからそれくらい良いでしょ。

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