オレはもう30になるのだがどこかで自分は年をとるけれども周りの環境はずっと同じような
状態が続くんじゃないだろうかとどこか期待していた.まあ当然そんなことはなく祖母は亡くなってしまった.
どちらが悪いというわけではなくお互い自分の居場所を守ろうとしてのことだったのだろう.
3人兄弟の長男だった自分は幼いころから母と祖母の板ばさみだった.
互いから互いの愚痴を聞かされながらも幼いながらにどちらかにつくべきではないと感じていたようで
お互いの愚痴に相槌を打つだけだった.どちらの敵にもどちらの見方にもならなかった.この環境は結構きつかった.
思春期で祖母のやや過剰な面倒が面倒くさくなり,距離を置いてしまった.
かつ末っ子は手を焼く存在だったのでその過保護っぷりなりを潜めていた.
そしてオレと同じ用に弟たちも次第に距離を置き始めた.
もう遅すぎるけれども今ではこのことをとても後悔している.
祖母にとって不幸だったのは祖父がずいぶんも前になくなっていたことだ.
オレが生まれたときにはすでになくなっていた.
オレたち孫が距離を置いてしまったせいで家庭内での祖母はやや孤立してしまった.
親父はこのことにはわれ関せずだし大学進学時点でオレが家を出て,
次に次男が,次に三男がという風に物理的な距離もだんだんと離れていった.
話が脇にそれるが祖父と祖母ははもともと自宅を事務所として小さな会社を運営していた.
祖父がなくなったと同時にこの会社はたたんだらしいが,オレの生まれる前の話なので詳細はよくわからない.
わかっているのはオレの親父とその兄弟はその会社を継がなかったということ.
おそらくだけれど,親父兄弟はまだその当時学生で学校を辞めてまでやりたい仕事ではなかったんじゃないかと思う.
祖父の死と一緒に切り盛りしていた会社をたたまなければならかったことで祖母の人生は大きく道を変えざるを得なくなってしまった.
祖母はお世辞にも常識人とは言えず,かなり変わった人格の人だったがこのあたりがなにか関係があるのかもしれない.
また先日の葬儀で初めて知ったのだけれどもこのとき祖母はすでに癌を患っていたらしい.
手術はしたけれども完全に取り除けたわけではなかったらしい.このことはまったくしらなかった.
実は祖母はかなり厳しい生活をしていたんだろうと思った.今となっては周りにあたりたくなるのもわからんでもない.
息子である親父は何をしていたかというとこちらは極度の面倒くさがりやで,
決して嫁姑問題をなんとかしようとはしていなかった.
子供のころのオレは親父のこういうところが大嫌いだった.
オレが大学院を出て就職するころには祖母はボケが進んでいたらしく,
おかしな言動が目立つようになったという話を母親づてに聞いた.
祖母は昔から懸賞はがきを出すのが好きだったようなのだが,明らかに詐欺めいた手紙が届くようになっていた.
母親は不仲ではあったがなんだかんだでずっと祖母の面倒を見ていた.
詐欺めいたはがきのことで注意したりもしたらしいが,祖母は頑固で母親に言われることが癪だったようで
やめる気配はなかった.注意してもけんかになるだけだし
家計に重大な問題になるレベルのものでもなかったのこの件は放置したらしい.
また祖母は自分の周りをごみ屋敷のようにすることが多かった.本当にごみ屋敷.
さすがにこれには母親も耐えかね,数ヶ月に一度たまったごみ(祖母にとってはごみではないのだけれども)を半ば強制的に捨てていた.
祖母はこのことにも大いに腹を立てそのたびにけんかをしていたらしい.久しぶりに実家に帰ると毎回こういったことの愚痴を聞かされた.
こういうこともあってたまに実家に帰ってもオレは祖母と積極的にコミュニケーションをとることはしなかった.
会社に入って数年すると,ボケも進行してきて両親だけでは面倒が見れなくなって,介護施設に入ってもらうことに決めた.
その当時は祖母本人も嫌がり,祖母の実家の家族も文句をたれた.
施設に入れるとは何事か.人でなし.人道にはずれたことをするなと.
さすがにこれについては親父も間に入って説明し,理解を得る努力をした.
最終的に理解は得られなかったが,実家でこのまま面倒を見ることもできないので結局施設には入ってもらった.
はじめこそやや問題があったものの祖母は以外にも施設になじんだらしい.
おしゃべりが好きだったにもかかわらず実家では話し相手がおらず,寂しい思いをしていが,
話し相手ができたのがうれしかったんだろう.これを聞いたときは結構胸がいたんだ.
施設に入ってもらってからは実家に帰ったときは母親に連れられて何度か施設に顔を見に行った.
以外にも施設に入ってからは母親との関係は同居していたときに比べてましになっているように見えた.
祖母はぼけが進み,孫のオレたちも自分の息子である父親も判別がつかなくなっていた.
ただ,近しい誰かということだけはわかっていたらしいく,たわいもない世間話をする分には問題がなかった.
母親は誰よりも祖母の面倒を見てくれた.
昔あれだけいがみあっていたのに本当によく面倒を見てくれた.
母親は介護系の仕事をしていたのでなれていたというのはあれど本当に大変だったと思う.
祖母もいつしか母親を信頼するようになり昔のようなけんかはなくなった.
むしろ祖母のよい話し相手になってあげていたようだ.施設に入ってから数年間は
お互いにまあまあ穏やかな時間をすごしていたようだった.
数週間前に祖母の容態は一気に悪化した.施設の人も驚くほど急なことだった.
それからはヘッドの上でほとんど動くこともできず点滴をされていた.
ただ,意識はあったのなくなる1週間前に帰ってちょっと会話した.
オレのことはたぶん誰だかわかっていなかったが,もうちょっとで元気になるから帰ったらパーティをしようとずっといっていた.
小説や漫画で言えばべた過ぎるフラグなわけだけれども,リアルに聞くととてもつらかった.
でも会話をしている限りは全体としてはつじつまはあってないけれども,会話のキャッチボール自体はできていた.
だからもしかしたら本当に元気になるんじゃないかと思いもした.
だけども先日その祖母が亡くなった.余命1週間宣告から2週間後のことだった.
オレは特別おばあちゃん子ではなく,むしろ高校進学以降はやや苦手だった.
でも葬儀の最後は涙がとまらなかった.なんの涙なのかよくわからなかった.
ただいなくなってしまうことのへの悲しみだったのか,やさしくできなかったことへの後悔なのか.とにかくとまらなかった.
こんなに泣いたのはほんとにひさしぶりだった.
オレたちは火葬された祖母の骨を拾わせてもらった.
比較対象がないのでわからないけれども年の割にはしっかりとした骨,ということらしい.
骨を拾いはじめてからはもう作業というかなんと言うか涙は出てこなかった.小さくなったなぁとただ思った.
葬儀の次の日は親父が死亡届やら銀行口座の凍結やらの手続きをして回るのについていった.
長男だし親のときはこういったことをしなけりゃならん可能性は高いしな.
さらに一日たって仕事にはいった.仕事が手につかないとうことはなかったが何かとてももやもやしていた.
というか何か書いて残さないといけないなという気持ちがうちからわいてきた.これもよくわからん.
祖母から特別何かを学んだということはなかったが,祖母の死は本当にいろんなことを教えてくれた.
通夜から葬儀終了までは大変だったいうこと,喪主は悲しむ暇すらないということ,人の骨は案外小さいということ,人は死んでしまうということ.
もう届かないかもしれないけれど,ばあちゃん,今までおつかれさま.ありがとう.