はてなキーワード: 肥大化とは
子供の頃の自分は自尊心なんてものがなかった。運動も勉強もできずゲームも下手でコミュニケーション能力もなかったからだ。高校くらいまではそんな感じだった。
でも大学に入って自分の嗜好と大学の専門が一致したことで、生まれて初めて勉強が楽しく感じる体験をし、中の上くらいの成績になった。そこから就職し、その専門分野に関しては人より得意でいられた。
そういう時期を何年も過ごしたことで、自分の自尊心は肥大化してしまった。人と比べて落ち込む時間が増えた。それが良い面に働くこともあったが、正直とにかく苦しい。
夜中になると、なぜ自分がこんな目にあわなければならなかったのかと思い、涙が止まらなくなる。現在21歳、大学3年生。半年前に目が8年ぶりにちゃんと見えるようになった。中学1年生の頃からである。8年間本当に長かった。
8年前の秋頃、中学1年生だった私は小学校以来のゲームのやりすぎで視力が低下していた私は黒板の字が見えづらくなっていることに気づいた。眼科に行き、視界が悪くなっていることを告げられ、まだ外見などあまり気にしていない半分小学生脳だった自分はメガネをかけることに決めた。いわゆるガチャ目で、左目が0.2とかなのに対し右目がほとんど見えない0.01みたいな状態だった。ゲームをやるときの姿勢が悪かったのが原因かもしれない
ここまではよくある話だし、目が悪くなるというのが怖かったとはいえ周りにもメガネをかけている子供はたくさんいたので、絶望感のようなものはなかった。メガネをかければ普通に周りが見えるようになったし、日常生活に支障はなさそうだったからだ。
しかしいざメガネ生活が始まると、以前とはどうしても変わってくることがあった。一つはメガネキャラが定着してしまったこと。もともとそんなに明るくない性格だったのがメガネをかけたせいでさらに暗くなってしまった。別に友達づきあいは変わらないんだけど、中3にかけて子供が見た目を気にしだすようになるなか自分の見た目の悪さも気になるようになってしまった。
そしてもう一つは激しい運動がフルでできなくなること。メガネをしているのでサッカーとか野球とかできるだけ端っこで見るだけになってしまった。中学の時はサッカーに無理やり参加してメガネが割れたことがある。中学3年生の頃には自分のことがのび太のように見えたし、周りからもそう言われるようになった。
ここで何故コンタクトを使わないのかと思うかもしれないが、これがこの悩みの大きな問題点だったのだ。自分はどうやらコンタクトが合わない体質らしく、眼科に行ってもガチャ目だからコンタクトが合わない、メガネじゃなければダメだと言われていた。実際コンタクトをつけてみると、とにかく気持ちが悪い。つけていると船酔いのような気分がして額から汗がだらだら出てくる。一回コンタクトをつけて学校に行ったことがあるが耐えきれずにコンタクトを外してしまった。いわゆる眼精疲労というやつなのだが、本当に眼精疲労?と思いたくなるような症状が出てくるので、いやいやメガネに戻さざるを得ない。
そして高校生活が始まると、この外見コンプレックスに散々悩まされることになる。もともとメガネが似合う顔でもなく、絶対ないほうが良いのだけど、メガネを外すことができない。この消せないコンプレックスが悩みの種で奥手な性格がさらに奥手になり、高校ではあまり周囲に心をひらけなかった。別にいじめられていたわけではないのだけど、とにかく自己評価が低くて周りと上手く接することができなった。なんというか顔に傷がある感じなのである。だから人前に出るのがいやだった。
それだけ自己評価が低いので、常になんか暗いオーラが出ていた。自分の姿が嫌で写真に写りたいとも思わない。だから高校時代の写真はほとんどない。だけど頑張れるところは頑張ろうと思って勉強は頑張った。順位が貼り出されて学年一位という経験もしたのだがクラスで友達がいないためご飯を食べる時は一人という惨めな思いを味わっていた。今思えばそんなの気にしなければいい話なのだけど、それがいやでいつも教室の隅っこの方にいた。運動も十分にできないのでだんだん運動神経は落ちていき、本当に勉強のできるのび太くんみたいになっていた。自分の長所が勉強しかないのが嫌だった。
だから高校1年生くらいの時から視力回復トレーニングを色々やって見たのだが、如何せん効果がない。あの手のトレーニングはたまにネット上で効果があったとか書いてあるが、ほとんど無理である。一度目は悪くなったら自力で視力は回復しないと思う。だから高校12年生の頃は本当にどうしようもなくて、とにかく外見コンプレックスに苦しんだ。
そうこうしてるうちに高校3年生になった。17歳という、人間として容色がもっとも美しくなる頃、受験勉強とともに私のこの外見・視力コンプレックスはさらに肥大化した。大学受験の不安よりも私は一生このままなのか、見た目にコンプレックスを抱え続けなければいけないのかという不安の方が大きかった。本当にメガネが外せないのかと悩み苦しみ、勉強そっちのけで眼科に何件も通い、なぜかメガネを10本近く買った。大学病院での検査も検討したが、大学受験との兼ね合いで断念した。そんなものだからそれまで維持していた成績は下がり始め、大学受験は第一志望に受かることはできず、コンプレックスも解消されないまま大学に進学した。浪人という選択も考えたが、当時のコンプレックスははっきり言って異常で、浪人したら今受かっているところにも受かるような気がしなかったため浪人を断念した。
大学に入ってからもこの外見コンプレックスに悩まされた。最初の頃は無理やりコンタクトをつけて登校していたが、だんだんきつくなってメガネに戻してしまった。そしてメガネにすると人前に出られない(?)ので、サークルも次第にフェードアウト。大学1年の秋には学内で自然と孤立の道を選んでしまっていた。そんな人間が生きる道はインターネッツで、授業から帰宅してはネットサーフィンをする毎日を一年冬〜二年秋まで送っていた。ネットサーフィンをしているうちにコンプレックスを忘れようとしていたのかもしれない。だが、20歳になったタイミングでまた忘れていたコンプレックスが再発がした。成人というのは大きなイニシエーションで、私の忘れようとしていたコンプレックスがまた復活していたのである。
今度はさらに孤独コンプもこじらせていて、高校の同期が大学で楽しくやっている中自分は部屋で一人ネットをしているのがコンプレックスになった。正直もう外見なんか気にしないで普通に人と付き合えばいいというのはわかっていた。でももう二年が終り、就活が始まるという段階で今更人付き合いを増やせるとも思えなかった。だから二年の冬休みはとにかく暗くて、どうすればいいんだろうという気持ちになった。不安と苛立ちが爆発し、家族にわけもなく当たり散らすようになった。散財もするようになった。一種のパニック症状である。原因不明の病というのはどんなに軽傷でも人の精神を不安にするもので、私の心は不安に押しつぶされていた。人間の思い込みというのも一つの病だと思う。
そして2019年の5月に、最後の望みをかけてそれまで行った事のない眼科を受診した。もう大方視力回復に間することはやり尽くしていたので、唯一やっていなかった。オルソケラトロジーという治療法にかけてみた。治療内容はググって欲しい。結果、オルソケラトロジーでも視力は回復せず、私のコンプレックスは解消されないみたいだった。
オルソケラトロジーを行う際に渡されたレンズを目にはめても一切気持ち悪くなかったのである。
オルソケラトロジーは夜間に角膜を矯正するためのレンズをはめて就寝し、翌朝になったら角膜が矯正されているので視界がよくなるという治療法である。この夜間にはめるレンズを昼間につけていても、全く気持ち悪くならなかったのである。
中学1年生以来、およそ8年の時を経て裸眼で見る世界はとにかく新鮮だった。少し度が弱かったが裸眼で道路を歩ける。水泳もできるしサッカーもできる。近くのビルの社名が裸眼で読める。夜は月がブレずに見える。鏡をみてもあの忌々しいメガネはない。あの時は嬉しかった。私が8年間、青春の間ずっと苦しんできた悩みはいとも簡単に解決したのである。
8年間の悩みが解決した理由もよくわからないのだが、私はどうやら「ソフトコンタクトだと体質的に無理なのだが、ハードコンタクトなら大丈夫」という事だったらしい。理解不能である。確かに私はコンタクトなんてどれも同じと思って、安いソフトの方を買っていたが、そんな意味のわからない解決法はネットでどれだけ探しても見つかったことがなかったし、中学一年生の時から百回は受診したどの眼医者もしてくれなかった。
目が治ってから、私は号泣した。普通病気が治ったら嬉しいと思うかもしれないし、私もそうだろうと思っていたが、こんな意味のわからない理由が原因だったこと、外見コンプレックスのせいで今まで失ってきたものが多すぎることに嗚咽し、自暴自棄になり、さらに家族に当たり散らすようになった。8年間もコンプレックスに苦しんだこと、そのコンプレックスが実はすぐに治ったことを受け入れることは難しかった。ストレスの度合いでは大学受験に落ちたことなんか大したことではない。私は12-20までの8年の間でもっと色々なことに挑戦できただろうし、もっと色々な人と仲良くなれたはずなのである。
8年間の理不尽は私から自尊心を奪い、一気に自暴自棄に陥らせた。3年春学期の単位は全て落とし、gpaは目も当てられない数値になった。部屋は片付けなくなった。暴食を繰り返し、体重は半年で10キロ増えた。家中の皿を割った時は家族から家を出て行けと言われた。
学生時代のほとんどを思うように過ごせず、就職というラウンドまで来てしまった。現実を受け入れられなかった。3年の秋はなんとか学校に行っていたが、授業を受けている間も病的にずっと後悔していた。後悔先に立たずだけど、あの時ああしていればというのをずっと考えてたら1日が終わるとかザラであった。留年したので就職なんてどうでもいい。21歳の誕生日は家族以外誰も祝ってくれなかった。家族からも暗くて一言も喋らないから怖かったと言われた。
カウンセリングに年明けから行ったが、正直今できることをやれ、気にするなとしか言われず、自分でもそれしかないとわかっていたので行く意味はないと思ってやめた。しかしテストを受けるまでずっと落ち込んでて、単位も半分くらい落としたと思う。せっかくコンプレックスが解消した顔は激太りした上にやつれきっていた。
ただテストを終えたくらいから、ずっとこのままでもどうしようもないというのは体がわかってきた。ようやく、現実に脳みそが追いついて気がする。もう一度三年生が始まり、就職活動も始まる。何一つ悪いことはしていないのだが、人生を再スタートさせなきゃ行けない。今まで失ってきた分、これからはいい人生を歩みたい。
○ご飯
○調子
むきゅーはややー。今日も家でむっきゅりしてた、親がおせちをくれたので堪能してた。
infinityシリーズや、極限脱出シリーズのメインライター打越鋼太郎さんがディレクターとシナリオを書いてるゲーム。
一気にグランドフィナーレまでプレイ。このゲームめっちゃ好きです、Ever17越えって言葉はあまり言いたくないし、極限脱出シリーズで既にそれは成し遂げてるとも思うけど、わかりやすく言っちゃえばEver17を超える打越鋼太郎最高傑作だったと思う。
猟奇殺人を追う刑事バディものという真面目な導入から、開始五分で面白選択肢がめっちゃめっちゃあって往年のP&Cタイプのアドベンチャーを彷彿とさせるコメディ色がかなり強い内容、(EVEのシリーズを書いたこともあるライターだから、そりゃまあそうなんだけど)
良い意味でくだらないし、数クリックで読めるあっさりした内容なので、往年のこめっちょのくどくどしたしつこさがないのが好印象。(僕もう、こめっちょが嫌いすぎてことあるごとに「こめっちょはくどくて長い」と書いてるせいで、本当にこめちょが長かったのかどうか具体的にどれぐらいなのか、自分の中でどんどん肥大化している気がしなくもなもない)
量もかなり豊富で、最後まで楽しませてもらえた。しょうもないダジャレやド下ネタとパロネタが大半なのだけど、それだけに頭空っぽにして読めて楽しめた。
次に、真面目な部分は、とあるSF的超常現象を巡る入り組んだ複雑な事件で、流石の打越鋼太郎だけあってグイグイ引き込まれた。
ただまあ、作中ある人物が映った段階で「あーあのネタかな? でも、そのネタだとしたらXXX、XXXXXXX、XXXXXXで通算3回ぐらいやってない? 好きすぎない?」と思ったのは正直な気持ちではあるけども。
けれど、別にそれが悪いと言ってるわけじゃなくて、何回も何回も挑戦しているネタだけあって洗礼されてて、今回はずいぶんシンプルでわかりやすくまとまっていた。
横筋がこのSF的超常現象を巡る殺人事件だとすると、縦筋にあたる物語的なテーマである、家族愛とのマッチ具合がとても良かったかのも大きい。
僕が、家族愛もの(特に血の繋がってない疑似家族)大好き差っ引いても、物語として泣かせる良い話だった。
特に、みずきを巡る一連のストーリーは涙なしにも読めないし、最後の選択肢を自分で選ばせる構造はゲームらしさもあって大好きだ。素直になれない子供の気持ちが文章だけじゃなく声の演技からも伝わって来る、みずき役の黒沢ともよの熱演も見所。
この、ストーリー部分とSF部分がちゃんと密接な関係にあって、SF部分があるからこそストーリー部分が輝くし、ストリー部分があるからこそSF部分に深みが出るって構成は、さすがこのジャンルの第一人者だけあって本当に綺麗で面白くて、最高だった。
いわゆる「悪いやつ」が少なく、ほとんどの登場人物が好感のもてる良いやつだったこともあって、グランドフィナーレで流れるムービーは笑いながら見ていたのに、妙な多幸感とお別れを惜しむ気持ちで笑いながら泣いてしまった。
正直、パンチラインでかなり打越さんのことをマイナスに評価してしまっていたのだけど、これでぐーんと評価し直した。今年また新作が出るそうなので、これはちゃんと新作のうちに買おうと思う。
(
あと、ちょっと気になるところとして、打越作品恒例といえば恒例のもいっこの方のあのSFネタ。
これだけ、作中で明確な説明がされていなくて、ボヤかした表現だけで終わっていたと思うけども、もしかしてグランドフィナーレの最後の一文であるあの作品を彷彿とさせる意味深な英文だけで説明したつもりなのだろうか。
だとすると不親切だけども、続編への布石みたいなものかなあ。(続編出なさそうだけど)
R11で、もうあのネタとの決別を図ったと思ってたけど、わりとそうでもないみたいだなあ
)
ガチャピン。40連。じゃんけんグーで勝利。虹は、ゴムーン1個。新規加入は、SRセン、SRユーリ、SRティナ。
なんかSR加入がめっちゃ続いた。何気に恒常SRもずいぶん揃ってきた。未加入の恒常SRは、アンジェ、ヴェリトール、アステール、サビルバラの4人。
家庭内で何とかできちゃう経済力があると問題が顕在化しないんだよな。
平均年収程度の家庭だと、こんなことしてたら破産したり借金取りに追われたり、親を叩いても金が手に入らないからと犯罪に走ったりして問題が顕在化して本当に本当に手遅れになる前に外部から警察とかが介入してくるんだけど、
増田の家みたいに家庭内で解決(解決というか問題の先送り?)できちゃうと、問題が顕在化することなく家庭内で手遅れになるまで問題が肥大化していっちゃうんだよな。
今更お金ありませんなんて言っても姉が納得するとは思えないし、突然縁を切ったらとんでもなくヤバい事件を起こしそうだし、正直どうすれば良いのかはわからない。
この辺、よくわからない...
FLOCSSは知らなかったけど、その質問、かなりどうでも良い枝葉末節なような・・・そもそもコンポーネントは文脈によって用例が1000ぐらいある用語だし、巻き上げはES6/TSではそもそも文法でチェック対象。CSSをどう構造化するかもチームの意思決定とか次第だし、CSS in JSの方が良い。 https://t.co/Y14qF4NzpQ— 渋川よしき (@shibu_jp) May 3, 2019
vueはあくまでjsだからね。
jsはjsで管理した方がいいし、cssはcssで管理した方がいい。
でないと確実に肥大化する。
css設計さえしとけばコンポーネントファイルになんて書く必要ないしね。
CSS設計使えない現場ならコンポーネント内でやった方がいいけど。 https://t.co/8jGzRGXlD8— かずきち@プログラミングスクール経営者 (@kazukichi3110) November 28, 2019
渋川様は、どちらかというとウェブアプリケーションよりで、ウェブカツ!! 様は、どちらかというとウェブ制作よりだから意見の相違が見られるのかな。以下が、自分にとっての答えっぽいな...
CSS設計わかんないよーって方は、まず「borderより外側のスタイルをコンポーネントに含めない」を意識するといいかも!
// Bad
.list .box {
margin-bottom: 10px;
border: ...;
padding: ...;
}
// Better
.box {
border: ...;
padding: ...;
}
.list .box {
margin-bottom: 10px;
}— ダーシノ / NES.css (@bc_rikko) December 6, 2019
色々ツールとかあるし色んな所でやり方が紹介されているから余裕でできるだろーって思う人多いと思うし、自分もそう思ってたけど冷静に考えて無理。
開発側が望むこととしてはサイト全体での利用が対象だけど大抵のツールは各ページごとにしか評価しないので、ガバガバ。例えばChromeにもCSSカバレッジ図る機能あるけどさ、ページ単位でしか動かない。
仮にサイト全体をクロールするとしても、JSの機能とか、ユーザーのログイン状況とか、ユーザーのステータスとかで表示が切り替わったときに有効になる特殊なCSSとかもあるわけで、それを全部カバーするにはどれくらいの労力が必要なのかって考えただけで萎える罠
ツールによってはソースコードに出てくる文字すべてをCSSのセレクタ名になりえる値として評価するとかいう超保守的なアルゴリズムで動くのもあるみたいだけど、それはそれでやっぱり不要なCSS残りまくるんじゃねーのと思います。
そういうの嫌ってJSの中にCSSを書きましょうみたいな変な宗教じみなムーブメントもおきてるけど、それってもうCSSとしてどうなん?って感じする。気持ち悪いけどこれに対する反論を適切に言語化できないので、必要だよ!って押し切られたらきつい。てかもうそういうことするくらいなら全部style属性直書きで良いんじゃない?って感じもする。
CSSってそもあってもなくても別にいいわけで、だってそうでしょW3Mとかでページ見たら装飾全部ぶっ殺されるわけですし、最新のブラウザだってスタイルを切る機能あるわけで、本来CSSみたいなおまけ機能がこうも重要に使われるものじゃなかったんだよ。でも実際は重要です。これが現実。
使っていないCSSが気になる〜。って人はそもCSSをアホみたいに使いすぎてるだけだし、最初からカスケーディングの設計しっかりしとけよ!っていうこと以外言うこと無い気がする。
くらいで良いんじゃね?って思うけど、どうしてもカテゴリを横断して出現する統一されたパーツみたいなのが出てきて、そういうパーツのスタイルがサービス全体のベーススタイルに追加されていって、肥大化する。ってのをよく見かける感じです。
まぁ不要なCSSを消すには、CSS自体のボリュームを下げて、適切にカスケーディングして、CSSを管理する人がこまめにメンテナンスする。以外に無いよな〜って言うのが結論だけど、こういうことって割と常識というか暗黙的にみんな知ってるっぽい気がするけど、ググってもあんまり情報出てこないんだけど、お前ら本当はクソみたいなCSSに埋もれて動けなくなってたりしないの?
自分は別にCSSそんなに管理してないけど、たまに手を付けるとまじでゴミまみれで、CSS書くやつはちゃんと捨てるときのことも考えてCSS書けよゴミ屋敷の住人じゃないんだから、集めっぱなしで捨てないとかアホのやることだろまじで。っていう感じです。
ドラゴンクエスト | 1986年 | -- |
ドラゴンクエストII 悪霊の神々 | 1987年 | 1年 |
ドラゴンクエストIII そして伝説へ… | 1988年 | 1年 |
ドラゴンクエストIV 導かれし者たち | 1990年 | 2年 |
ドラゴンクエストV 天空の花嫁 | 1992年 | 2年 |
ドラゴンクエストVI 幻の大地 | 1995年 | 3年 |
ドラゴンクエストVII エデンの戦士たち | 2000年 | 5年 |
ドラゴンクエストVIII 空と海と大地と呪われし姫君 | 2004年 | 4年 |
ドラゴンクエストIX 星空の守り人 | 2009年 | 5年 |
ドラゴンクエストX 目覚めし五つの種族 | 2012年 | 3年 |
ドラゴンクエストXI 過ぎ去りし時を求めて | 2017年 | 5年 |
ファイナルファンタジー | 1987年 | -- |
ファイナルファンタジーII | 1988年 | 1年 |
ファイナルファンタジーIII | 1990年 | 2年 |
ファイナルファンタジーIV | 1991年 | 1年 |
ファイナルファンタジーV | 1992年 | 1年 |
ファイナルファンタジーVI | 1994年 | 2年 |
ファイナルファンタジーVII | 1997年 | 3年 |
ファイナルファンタジーVIII | 1999年 | 2年 |
ファイナルファンタジーIX | 2000年 | 1年 |
ファイナルファンタジーX | 2001年 | 1年 |
ファイナルファンタジーXI | 2002年 | 1年 |
ファイナルファンタジーX-2 | 2003年 | 1年 |
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ファイナルファンタジーXIII | 2009年 | 3年 |
ファイナルファンタジーXIV | 2010年 | 1年 |
ファイナルファンタジーXIII-2 | 2011年 | 1年 |
ファイナルファンタジーXV | 2016年 | 5年 |
ポケットモンスター 赤・緑 | 1996年 | -- |
ポケットモンスター 金・銀 | 1999年 | 3年 |
ポケットモンスター ルビー・サファイア | 2002年 | 3年 |
ポケットモンスター ダイヤモンド・パール | 2006年 | 4年 |
ポケットモンスターブラック・ホワイト | 2010年 | 4年 |
ポケットモンスター X・Y | 2013年 | 3年 |
ポケットモンスター サン・ムーン | 2016年 | 3年 |
ポケットモンスター ソード・シールド | 2019年 | 3年 |
テイルズ オブ ファンタジア | 1995年 | -- |
テイルズ オブ デスティニー | 1997年 | 2年 |
テイルズ オブ エターニア | 2000年 | 3年 |
テイルズ オブ デスティニー2 | 2002年 | 2年 |
テイルズ オブ シンフォニア | 2003年 | 1年 |
テイルズ オブ リバース | 2004年 | 1年 |
テイルズ オブ レジェンディア | 2005年 | 1年 |
テイルズ オブ ジ アビス | 2005年 | 0年 |
テイルズ オブ イノセンス | 2007年 | 2年 |
テイルズ オブ ヴェスペリア | 2008年 | 1年 |
テイルズ オブ ハーツ | 2008年 | 0年 |
テイルズ オブ グレイセス | 2009年 | 1年 |
テイルズ オブ エクシリア | 2011年 | 2年 |
テイルズ オブ エクシリア2 | 2012年 | 1年 |
テイルズ オブ ゼスティリア | 2015年 | 3年 |
テイルズ オブ ベルセリア | 2016年 | 1年 |
テイルズ オブ アライズ | 2020年 | 4年 |
第2次スーパーロボット大戦 | 1991年 | -- |
第3次スーパーロボット大戦 | 1993年 | 2年 |
スーパーロボット大戦EX | 1994年 | 1年 |
第4次スーパーロボット大戦 | 1995年 | 1年 |
スーパーロボット大戦F | 1997年 | 2年 |
スーパーロボット大戦F完結編 | 1998年 | 1年 |
スーパーロボット大戦α | 2000年 | 2年 |
スーパーロボット大戦α外伝 | 2001年 | 1年 |
スーパーロボット大戦IMPACT | 2002年 | 1年 |
第2次スーパーロボット大戦α | 2003年 | 1年 |
第3次スーパーロボット大戦α 終焉の銀河へ | 2005年 | 2年 |
スーパーロボット大戦Z | 2008年 | 3年 |
第2次スーパーロボット大戦Z 破界篇 | 2011年 | 3年 |
第2次スーパーロボット大戦Z 再世篇 | 2012年 | 1年 |
第3次スーパーロボット大戦Z 時獄篇 | 2014年 | 2年 |
第3次スーパーロボット大戦Z 天獄篇 | 2015年 | 1年 |
スーパーロボット大戦V | 2017年 | 2年 |
スーパーロボット大戦X | 2018年 | 1年 |
スーパーロボット大戦T | 2019年 | 1年 |
コール オブ デューティ | 2003年 | -- |
コール オブ デューティ ファイネストアワー | 2004年 | 1年 |
コール オブ デューティ2 | 2005年 | 1年 |
コール オブ デューティ2 ビッグ レッド ワン | 2005年 | 0年 |
コール オブ デューティ3 | 2006年 | 1年 |
コール オブ デューティ4 モダン・ウォーフェア | 2007年 | 1年 |
Call of Duty: World at War | 2008年 | 1年 |
コール オブ デューティ モダン・ウォーフェア2 | 2009年 | 1年 |
コール オブ デューティ ブラックオプス | 2010年 | 1年 |
コール オブ デューティ モダン・ウォーフェア3 | 2011年 | 1年 |
コール オブ デューティ ブラックオプス2 | 2012年 | 1年 |
コール オブ デューティ ゴースト | 2013年 | 1年 |
コール オブ デューティ アドバンスド・ウォーフェア | 2014年 | 1年 |
コール オブ デューティ ブラックオプス3 | 2015年 | 1年 |
コール オブ デューティ インフィニット・ウォーフェア | 2016年 | 1年 |
コール オブ デューティ ワールドウォーII | 2017年 | 1年 |
コール オブ デューティ ブラックオプス 4 | 2018年 | 1年 |
コール オブ デューティ モダン・ウォーフェア | 2019年 | 1年 |
RPGばかりになってしまったのでそれ以外の長期シリーズとしてスパロボを。
意外にも発売ペースを守ることができている。
(ただしどのシリーズもスピンオフやバージョン違いが盛んにリリースされていることには留意したい)
AAAタイトルにもかかわらずCoDが毎年新作をリリースできているのは、
オープンワールド系ほどにはボリュームが肥大化しないゲームジャンルであることと、
複数の開発会社を抱えて新作を出し分けていることが大きいのだろう。
もちろん他の作品もたとえばナンバリングとスピンオフとで開発ラインを分けたりはしているはずだ。
(テイルズはナンバリングでも二つの開発ラインがあったことで知られている)
暴走する企業アカウントへの違和感。「中の人」の自意識はなぜ肥大化するのか
https://oreno-yuigon.hatenablog.com/entry/2019/11/19/131149
この記事に対して「そうだ、そうだ」って賛同が集まっていて閉口。
企業だからこうすべきという「べき論」を語ってるけど、なんで企業だとお前の命令を受けなきゃいけないの?
しかもシャープの製品を買って何か文句言うならわかるけど、お前はツイッター見てるだけでしょ?
なんでツイッター見てるだけのお前がお客様面で文句言い出すの?客でも何でもないんだけど?
医学的でもなんでもない単なる持論だけど統失患者なんかでも重篤化する前は常識的に考えて有り得ない事柄なんかはわかってて、人に体験談を話したりする間に否定されて思い込みにブレーキかけることが出来るんだけど、インターネットのおかげで共通の(ように見える)体験をしたことがある人が簡単に見つかって思い込みが事実へとすり替わっていってしまうんじゃないかなって。
Twitterなんかだと統失クラスタがたやすく形成されてしまって彼らのクラスタでは集団ストーカー、監視社会なんかは当たり前のように警戒されてるし、信頼の置ける友人が言うことだから自身の経験したことのないどんな突拍子もないことも、いともたやすく当然あり得る事象へと格下げされして共有知識として認識され、人類の敵は加速度的に肥大化していく。
大人っぽい子ども、言葉だけ見ればアダルトチルドレンだけども。
プライドだけが肥大化して行って軽々しく他人に助けを求める事が出来なくなるって言うんだろうか。
結構受動的な人間になって行って、能動的に動く機会が少ない様に思う。
おフェミさんとは。
なんにでも「お」をつけないと丁寧語じゃないな、
女性の権利と社会改善を要求する運動に見せかけたマヌーバーであり、
オタクという他者を抑圧するヒステリックな欲求そのものを取り込み、
勢力の肥大化のみを目論み、目的のない奸計を行うゆるい衛星的ムーブメントである。
方向性がどこに行くかわからないことも多く、いわば船頭の多い船のようだ。
ハーメルンのごとき詭弁家の笛吹きに踊る老若男女が群れなしカラースターを連打する。
簡単に現出させることが可能なオタクとそのカルチャーに対する敵対行動を好む。
結果、社会を変えていくのに全くといいほど役立っていないという特徴を持つ。
発言の量を拡大する為ならば悪書追放的な右派道徳布教を目途とする勢力をも取り込み、
てな具合に妄想をしてみましたが、いかがでしたか。まあ、今更ですね。
ほんと話にならんよ。
身の丈にあった生き方をする、これは格言的であり、立派なように思えるが、文科大臣の発言への反応を見るに、教育ということになれば話は違うようである。
私はどのような生き方にも価値があるように思えるし、人生のどのような瞬間にもある種の価値を認めたい。しかし、この考えが危険なのは、アフリカで今まさに死んでいく子供の生命をも肯定してしまう点である。そして、それは自明に間違っており、ここに私の思考は矛盾する。
この矛盾は社会が個人を丸々包摂できないことを原因とする。どのような人生でもその一瞬一瞬意味があるが、主観を離れた社会的な観点から見れば、社会を成立させるために無意味であると捨象しなければいけない要素になってしまう瞬間もあるのだ。
最近まどかマギカを見たのでそれに照らし合わせてみる。キュゥべえは視聴者から毛嫌いされているらしく、それは地球の少女をこの宇宙というプラットフォームを維持するための捨て駒としてしか見ていないからである。
私たちがアフリカの子供の存在を社会問題だと考えることは同様の構造に当てはめられる気がする。アフリカの子供が死んでいくのを肯定でいないのは、社会の根底を人権という概念が支えているからだ。アフリカの子供はそんな概念が存在しないことをあからさまにし、私たちは社会に対する疑念を抱く。いや、抱くべきなのだが、社会という存在なしに生きられない私たちは社会ではなく、アフリカの子供達の存在に疑問を抱く。果たしてそんな命あっていいのか、いいはずがない、と。
アフリカとまどマギがどう一致するのか。まず、結果において、まどマギでは少女は消費させるが、アフリカの場合には救われつつある。一見相反するようにも見えるがそれはyes/no、on/offのどちらかということであって構造は一致している。魔法少女が消費されてしまうのは、宇宙という社会のためであり、キュゥべえが少女を消費することを躊躇わないのは少女の主観に重きを置かないからである。そして、アフリカの子供が救われるのは、ひょっとすれば当人のためというよりは我々の社会のためであり、子供を救うことが完全に肯定されるということは、子供の主観的人生を否定することである。
果たして、上記の文章で構造が一致していると説明できているかも、果たして本当に一致しているのかも不明であるが、ここで一つ加えておきたいのは、アフリカの子供の命を救うことはその子本来の主観的生を否定している、故に子供を救うのはやめろと言いたいのではないし、私の主観ではそのような活動は勇ましいものであると思う。最近netflixで公開されたビルゲイツの映像は面白かった。今年のノーベル経済学賞もそんな感じだったしね。
話をアフリカから比較的平和な日本に移すと、私たちの生活には当たり前に人権が備わっている。まあ虐待されている子供や、台風でも避難所に入れてくれないホームレスの存在はあるが、アフリカとの比較対象ではないだろう。そしてその人権は、政府に私たちを生存させ教育を施すことを要求するわけだが、果たしてそれはどの程度が妥当なのだろうか。
アフリカに関しては上記のように、子供を救うことはその子供の主観的人生を損なわせるものだと私は主張した。社会というものが守られるべきものであるとすれば、個人の主観を損なうことは、少なくとも生命を維持するというレベルでは非難されるべきことではない。しかし、それを推し進めていった人権は私たちにとって幸せなのだろうか。
人権が担保する領域が増えるに従って、我々は主観的な存在の領域を社会的な存在に明け渡す。人権の肥大化が極値に達せば人は単なる社会の歯車であり、キュゥべえが非難されたように、おそらくこれも望ましくはない。
人権を肥大化させる仮説もアフリカの例も極端である。前者は極端に社会的であり、後者は極端に主観的である。
落合陽一が何かで、プラットフォームは個人より優先されるということを言っていた気がする。これはキュゥべえ的発言である。この発言を肯定できるか否かは、各人が、その存在を社会的な領域と主観的な領域にどのような割合で分割しているかによるのではないだろうか。
柱には『宗教』『思想』『暴力(警察力)』『繁栄』『伝統』など様々なものがある。
『宗教』が柱の国家の例としては、バチカン市国や、アラビア圏の国々など。
『思想』が柱の国は、旧ソ連や中国などの共産主義国家、スイスやアメリカなどもそうかも知れない。
もちろん現実の社会はこんなに単純じゃない。柱が1つだけじゃないパターンも多い。
アラビア圏の産油国は宗教だけでなく『繁栄』で国民をまとめ上げてる面もある。旧ソ連も最初のうちは国民が共産主義を本気で信じてたかも知れないけど、最後の方は『暴力』でまとめ上げていた。北朝鮮は言わずもがな。
1つの柱が細くなると、別の柱が太くなる。
またツイッタランドで大企業でのエンジニアのツラミが流れてきて、全文読んであまりにもあまりになんで吐き出したい
元の文はこれ
https://web.archive.org/web/20191003101120/https://qiita.com/asdfg0280/items/a1de6e7c4d4b9a6ebff3
すでに原文は消されてるようで、消したということは自殺を思いとどまったと思いたい
私自身おっさんなので、こんなことで若い優秀であるかもしれない人間が意味もなく命を絶つのは非常に忍びない
ただ、なんというか、全文を読んで、全面的には同意できない感じがあって、この人をまるっと養護できずなんともいい難い気持ちが収まらないので吐き出す
ぶっちゃけ、学校ではちょっと周りよりできたので自意識が肥大化しまくって天狗になったまま企業に入ったら旧態依然とかそういうこと以前の話として鼻っ柱をぶった切られただけなんじゃなのか・・・・