はてなキーワード: 彩度とは
だから各所のパーツを濃くすることによってメリハリがでるし、カラーでも色が単一すぎるから強調したいポイントに色をつけて特徴づける。彩度も低いから鮮やかにすると目を引くね。
俺はデザインのことなんて全然わからない。だから上の文章も適当なんだけどね。
そういう解説を見たの。でもあそこまで全キャラ暗く色調が統一されているキャラ群を見ると、やっぱりそこにはコンセプトを感じるよね。同じことを何度も言うのはうんざりだ、という程度に共通しているということは共通「させている」ってことのはずだよな。本当に何も考えてないデザイナーならもっとバラバラになってもいいはずなのに。
だから、どう変えれば良くなるか。という解説が見たいのではなくてなぜこのコンセプトを採用したのかの解説。およびそれは失敗だったのか(デザインテーマ自体は)成功だったのかの解説のほうが嬉しいよね。
改善者の改善案も同じ考えで同じような変更ばっかだったから、それって悪い点を良くしたのじゃなくてパワポとかで土台のテンプレートの種類を挿げ替えただけじゃない?思想の違いだけなんじゃない?って感じた。
確かにキャラクターの造形は日本人の俺好みじゃないけど、初めてキャラをいろいろ見て方向性の統一感はあったので、なんかこう、マップや世界観の色合いとあわせたアートデザインだったのかもなと少し感じた。シューティングだからマップに溶け込むよう、わざと目を引きすぎない色合いにしたのかもなって。
…んでもまぁクソださいんだけどね。自分で動かしたくはないけど、相手として出てきたらまぁ倒すべき敵としては分かりやすいんじゃない?相手を雑魚・NPCに見立てるつもりだったのかもしれない。ゲーム中は他人のキャラの方が見る機会多いしなぁ。
そういう全体の「なぜ」に切り込むほうが面白いと思うし、個々のキャラのダメな部分を指摘してもさほど面白くないんだなと気付いた。
ぬお~早朝品出しタイミーからの喫茶店からの適当ウィンドウショッピング&買い出し疲れたぜ
ェ!
木材をふんだんに使ったテーブル・彩度高めのソファーでハワイアンな内装、英語バリバリ店内BGM
入った直後の非日常感
素晴らしい、これだよこれ
パンケーキ+コーヒーゼリーのセットを頼む、お供はトロピカルティー
持参のゴルゴ13を読みながら待つ
まずコーヒーゼリー、さすがコーヒー屋とあってしっかり苦味ばしっている
上にソフトクリームが載っててこれも舌の上でスッと溶ける
溶けてきたソフトクリームと一緒にゼリーを食べると苦味を全く感じなくなる、文句無しで美味い
で、パンケーキにはコーヒー風味のクリームがたんまりと付いている
でもね
パンケーキ2枚目まではウマウマ食えるんだけど3枚目でピタッとフォークが止まって素直に吐きそうになってくるの
そこにトロピカルティー、口に含むとオレンジ、パイン、ライチ、実に爽やかな南国が鼻腔に広がる
これがコーヒーだとコーヒーゼリーと被り微妙なことになっていただろう
我ながら素晴らしいチョイスである
…160円で紙パックで売ってるミックスジュースの風味じゃね?これ…
…いやそんなことはない!断じて!!これは南国!ハワイの香り!!!
と思いつつゴルゴを1冊読み終え「店内BGMうるさくね?帰るか」つって店を出ましたわ
ちなクリームは半分残した
上手に居心地悪くして回転率を上げてますな、さすがですわ
お食事メニューも美味いだろうがなんとなく味に想像がつくしまあいいや
今後もコーヒーゼリーだけ食べに行きたいがメニューになかったんだよなァ
来週は焼き肉屋に行くぞ!!
スプラ3のインク色については、色覚サポートがもともと1パターン固定しかなく、様々な色の見え方の病態がある中で一部の色弱者にしか対応できていないとかなり批判されていた。
それがリリース後8か月を経て2023年5月ようやく2パターンに修正されたがこれまた不十分だと不評。
さらに2023年12月スペシャル技「スミナガシート」を導入し大批判を受ける。これはプレイヤーの画面を真っ白メインのモノクログレースケール調に変更しインク色区別をできなくすることで視覚妨害する技。その真っ白さや回復時の急激な彩度変化で体調不良を訴えるプレイヤーが続出した。対戦相手の発動技なのでバトルを行うプレイヤーが自発的に避けることは不可能。日本では「色弱殺し」のあだ名をつけられたり、海外の複数の非公式大会ではこの技の使用(この技を持つ武器の使用)が禁止検討され、実際に禁止されるほどに忌避された。これら騒動を受けて約1か月後のアップデートで視覚妨害の具合を黒メインで多少マイルドにはなった。
ニュアンス違くね?
https://www.famitsu.com/news/202011/12209256.html
この旅を経験したことで、ゲームのアート・ディレクションやゲームの外観は変わったか?
Raphael 英国とノルウェーに行って、既成概念にとらわれない方法を学んだ。資料の中では彩度の低い風景の中でヴァイキングがユニフォームや皮を身に着けているのをよく目にするが、実際に現地を訪れてみると彼らはじつにカラフルな世界にいて、美しいものを作っていたことがわかった。ここからビジュアル・ディレクションが大きく変わったと思う。
まあ「分からんところも多くて想像で補った」的なことも言ってるが。
ゲームでは再構築された居住地が見られるが、このようなワールドを作るためにどんな資料を使ったのか?
Thierry 年代記、サーガ、考古学資料、そして専門家の意見を参考にした。
Darby 資料がない30年間のギャップもあったが、こういう部分は自分たちで埋めることができるのでやりやすい。
Raphael 歴史の枠組みの中でこうであったかもしれないという可能性を検討することができる。名前と日付しかわからなかったりするが、内容を埋めていくのは楽しい。
冬になれば、森の中で、うまくて冷たい空気が流れている中自由に歩き回れて、最高だった。川の表面は完全に凍ってるから、これまた自由に歩き回れる。ある程度高いところから滑っても夏より痛くないし、汚くならない。やぶも漕がず、ダニがおらず、羆が恐ろしくない。かんじきやクロスカントリースキーがあれば、苦労せず行き来できる。寝転がって、頭上の木に小さい鳥がとまる。
春になると山菜が出るから、それを取りにまた山の中に入る。崖を上って、街から出てくる半端者では取れない場所にあるうまいやつを探す。すべてが泥まみれで、土のにおいが一番強い。地面がふかふかになる。白樺が水を吸い上げ始めるから、幹に穴をあけて樹液をとる。子山羊が生まれる。
夏は山が青く見える。春の間は、すべて薄い膜がかかったように見える、もちろん空が柔らかい色合いだが、夏は深い青に戻る。すべて青みがある。川の色も美しくなる。太陽が高くなり、透明度が際立つ。泳ぎに行けば、濡れたところにだけアブがたかり不快だ。川は流れが速くて、あまり遊べない。まっすぐな道に逃げ水と陽炎が目立つ。朝の気温が過ごしやすくて、散歩が一番いい。セミや鳥がとにかくたくさんいて、たくさん鳴いている。
秋はドングリがたくさん落ちる。歩道が全部どんぐりになって、歩きにくい。日に日に冷たくなって、異常に乾燥を感じる。日暮れ時の空気が、冷たすぎて鼻の奥が痛くなる。自転車に乗ったときの手がつらくなっていく。雪が降り始めるまでが一番きつい。歩道の枯れ草が邪魔だ。イタドリが枯れ木のように立っている。なんとなく、彩度が落ちる。雪が完全に降ってしまえば、白くなり、静かになる。
最初に言っておくが下手の横好きで参考にならなかったらすまぬ。
私がコーデを組み立てる時は、色の明度/彩度/トーン・シルエット・素材、それぞれバランスを見て要素を組み合わせて考えている。
この間Xでメイクはカードゲームのデッキと一緒だって話題になっていたけど、コーデもそう。
今回は普段スポーティ系を着ないという話なので、ガーリー+ちょいスポーティーな方向だと手持ちで考えやすいかなと。
なのでカジュアルなアイテムというよりは甘い印象のアイテムを選びました。
https://usagi-online.com/brand/furfur/item/FUR0124S0114
真っ白のアイテムってアイボリーと合わないんだよね、わかる!何度も失敗した。
ワントーンコーデは上級者の技なので、私はできるだけ遠目に違う色と認識できるものを隣同士に配置するようにしている。
あとは、ECのコーディネート欄に載っているみたいにジーンズ合わせるとか。
いろんな色の服
着まわしのことを考えたら
白、グレー、黒、ベージュあたりが便利で
このへんの色で服を揃えたらとにかく使いまわしがきくので便利すぎる
しかし、水色、ピンク、ミントグリーン、黄色あたりの鮮やかな色の服もやっぱり欲しい
派手な色の服は幼児、乳児受けする。色は彩度が高ければ高いほど人の目を引く。
私が鮮やかな色のトップスを着ていたら、私の赤ちゃんは興味深そうに私の服を触るし
私が蛍光オレンジの服を着て、遊び場で座っていたらよその赤ちゃんがわざわざハイハイして近づいてきて私の服をさわり始めた
赤ちゃんは明るい黄色が一番好きで、続いて白、ピンク、赤、オレンジという順位で好きらしい
子供の幼稚園の送りのときに濃い青の服を着ていったら自分の子供のとなりのクラスのよく知らない男の子に肩を触られ、「今日は青い服なんだね」と声をかけられたこともある
しかし、大人目線だと、グレー、黒、白、ベージュあたりがやっぱりおしゃれに思えてくる色だ
お金持ちではないのでとにかく着まわしができる無難な服はありがたい。見た目がおしゃれだし
自分の周りにいる大人におしゃれに思われたくて、そしておしゃれな自分になりたくて無難な服を着るのか
悩む
大学在学中はSFに飢えていて、「AKIRA」とか「エヴァンゲリオン」とかを観ていたのだけれど、「ラーゼフォン」にはハマることができなかった。問題は長さなのではないかと思い、26話も見る必要のない映画を手に取った。
この作品が好きだったのは、クラークやイーガンが好きだった自分が求めている、別の惑星の風景描写があったことだ。僕が映像作品を評価するのは、どれくらい思いがけない風景を見せてくれるかだ。火星の大地や、木星とイオのあいだにかかる雷の橋が美しかった。ヒロインからの携帯メールにも確かクラークへの言及があった。
また、日常の美しさを切り取った言葉を、詩のようにつなげていくアニメを見たのは初めてで、そこも新鮮だった。
敵方の宇宙人が、鏡像となって話しかけてくるところなど、露骨にエヴァの影響を受けているし、詩的な文章も村上春樹のフォロワーに過ぎないと感じはしたものの、この監督の作品をもっと見てみたいと感じた。
「僕と彼女の猫」は忘れてしまった。珍しく自分が好意を寄せている女性視点の失恋の話だった気がする。
僕が好きな要素がとにかく詰まっていた。架空の歴史、知的に早熟だけれども情緒的には年相応の少年少女、そして天にそびえる真っ直ぐな塔。東京からも見える北海道のメガストラクチャーという、自分の想像力をはるかに超えた世界を見ることができた。
もちろん、欠点もあった。ヒロイン・佐由理を救うか世界を救うか決断を迫られる主人公・浩紀は、セカイ系の典型例に感じられて冷めてしまったし、あと、これは前にも書いたのだけれど、主人公のやっていることはテロリズムの肯定だ。
テロ組織の名前も、北海道を手に入れるためなのにアイヌ解放戦線じゃなくて、サハリン・樺太の先住民族ウィルタ解放戦線だ。ヒロインの祖父の名前ツキノエはアイヌ系の名前だが、そこには一切触れられないし、朝鮮半島のように南北に別れた家族の悲劇は、ごくわずかしか触れられず、プロットには絡んでこない。つまるところ、政治は装飾でしかない。いいのか。
にもかかわらず、この作品を好きになってしまった。アニメで精密に描かれた東京の景色は、当時の僕の生活圏とかぶっていた。自分の暮らす世界の彩度を高めた景色は、ぐずぐずとした感傷に僕を引き込んだ。何にもでもなれると、まだかろうじて思い込めていた頃だった。
そして、テーマ曲があまりにも切なく、これがずっと頭の中で流れ続けていた。過剰なまでに作中で繰り返され、露骨でさえある。しかし、悔しいけれども切ない気持ちになるのをやめられなかった。ラストで虚無に飲まれる北海道の美しさで息をのんだ。
自分の青春に満足できていなかった僕は、この甘ったるいテーマ曲の映画に呪縛されていた。批判しつつも、フィルムブックとノベライズを買ってしまうほどだった。これが感傷マゾなのか。
退屈さを感じる場面や、冗長な個所もあった。でも、日常の風景を美しい色合いで描くアニメを他に知らなかった。第2話冒頭の、貴樹が空想する巨大ガス惑星が空にかかった惑星の風景は、僕が創作していたSF小説の舞台として何度も用いた。
そして、第3話で流れた「One more time, One more chance」ですべてを持っていかれた。ヒロイン・明里と結ばれないラストを見て「そうなんだよ! これこそが人生なんだよ! はっはっは!」と快哉を叫んだ。「鬱エンドだ」「悲しい」と言っている連中を笑っていた。なんてこじらせた大学生だったんだ。これもノベライズを買った。
振り返ってみれば、主人公はいつまでも明里の幻影に惑わされており、サーフィン少女・花苗の気持ちにちゃんと向き合っていない。独り身の期間が長かった自分は「応えてやれよ!」とあとになって思ったものだった。そりゃあ、思春期だから初めての感情ばかりで、あまりにも未熟で、だから人間関係で目も当てられないような失敗を繰り返すんだけれど、「結局お前モテてんじゃん!」と怒りが湧いた。
後に、貴樹をはじめとした新海アニメの主人公たちはどうやって童貞を卒業したのかな、夜のお店かな、などと根拠のまったくない最低な空想をするようになってしまった。自分がそうだったからって投影するなよ。
統一感のない固有名詞(※僕はファンタジーで名前を付ける際には一貫性が必要だと信じている。だからアルカンジェリ、ケツァルトル、シャクナ・ヴィマーナと複数の言語圏から安易に引っ張ってくるのを良しとしないし、文法的に怪しいヴィータクアやフィニステラという語も納得できない)、ジブリの表層だけをなぞったような描写、主人公・明日菜が地上世界と地下世界の両方の血を引いているという重大な設定が劇中ではほとんど描写されないなど、自分が気に食わなかった点は多数あるが、最大の問題点は悪役の森崎(ムスカと揶揄される)のサブプロットのほうが面白く、新海誠が思い入れを持っているように感じてしまったところだ。
愛するものの喪失を受容せず(子の喪失ってキーワードも村上春樹フォロワーっぽい)、代理品や依り代を求め、神々なり悪魔なりと契約する姿は碇ゲンドウともかぶり、なんにせよ強烈なキャラで、明日菜を食ってしまっている。いっそ明日菜いらなくないか?
冥界をめぐり、禁断の知識の代償として盲目になるのは神話的でちょっと良かったけどね。
しかし、作者の意図や性癖が透けて見えるというのは一方的に親しみを感じる契機でもある。不完全にゆえに見透かせるものがあり、理解者になれたと錯覚できてしまい、結果的に作品を愛してしまうことがある(※これは新人賞を取った作品を読むときもそうなんだけど、「作者はこういうことをやりたいんだろうな。なら、ここをこうすればもっとよくなるだろうな」と考えつつ読むことが多い。創作をしていた人にありがちなことなのかな?)。
言いたいことはたくさんある。
けれども、最大の欠点は「何でもかんでも台詞で説明してしまうこと」だ。
最後のタカオとユキノが見つめあう場面で、高まった気持ちをぶちまけるのだけれど、音楽と映像がうるさいなので、台詞なんていらない。
新海監督は文章を書く能力はあるのは認めるけれども、「説明は小説でやれ」と感じる。「なんでも説明するのをやめてくれ、映画の受け手を見くびるな」とも感じた。
そして、鮮やかな色彩がわざとらしく感じられ、反発を覚え始めた。
ただ、この頃から日本の古典を扱いだしたのは嬉しい。ささやかな愛国心が満たされる。
僕は海外文学が好きなので、逆に外国の人に日本の詩を知ってほしい。
観ていない。
「言の葉の庭」の一件もあったが、ハッピーエンドになったということを聞いて、寝取られ性癖(というかBSS、「僕が先に好きだったのに」?)を抑える優秀なプロデューサーがついたんだな、とシニカルに考えていた。売れるようになった、大ヒットを飛ばすようになったとも耳にして、新海誠が自分からどんどん離れて行ったように感じた。そして、もう二度と新海アニメを見ることはないだろうと思った。友人や尊敬するSF作家が見ていると聞いても、耳を塞いでいた。
「君の名は」の予告の「スカート注意、男子の目線!」といったセリフにも、新海誠の性癖が透けてみるのだけれど、徐々に作者のあけすけな欲望に対して嫌悪を感じるようになっていた。
これは男子高出身の僕がそうだからかもしれないけれども、僕には、男性監督が女子高生をじろじろ見て偏愛していると気づくと、鬼の首を取ったかのように指摘してやりたくなる悪癖がある。岩井俊二の映画を観たときもそうだし、「ラストレター」を観たときは「俺を振った女は不幸になればいい」という怨念を感じた。庵野秀明が俳優やってたのはめっちゃ面白かったけどね。
ある女性が新海アニメが好きで、じゃあ一緒に見に行こうということになった。ただし、彼女が好きだったのは「君の名は」以降だった。
「お手並み拝見」と思いながら(なんだかんだで楽しみにしていた一方、不安でもあった)観てみると、極めてまっとうな少女の成長映画になっていて驚いた。
被災者のすずめが「死ぬのなんて怖くない」と言っていたのが、逆に震災の記憶と向き合い、心底死を恐怖し、逆に生きる実感を取り戻す構成が素晴らしかった。自分を助けに来た謎の女性が自分自身だったってのも良かった。周囲の支援が必要なのはもちろんだけれども、傷付いた自分を癒すためには、どこかで自分の力を信じて自分の足で立ち上がらないといけないのだ。
ロードムービーとしても優秀だし、周囲の人々が善意にあふれてすずめに手を差し伸べてくれたのも、叔母の環が思わず激高して負の感情をぶちまけるシーンのための溜めだと感じ、よく計算された素晴らしい脚本だと感じた。
今まで肯定的だった(あるいはマスコットでしかなかった)猫が、ダイジンという善悪の不明な存在になったのも面白い。
今まで別の災害という形で間接的に東日本大震災を扱ったと聞いていたが、正面から向き合ったのはとても立派だ。このタイミングでなければできなかっただろう。
恋愛要素を薄めたのも大正解。「シン・エヴァ」を観たときみたいに、「監督は大人になったんだな」と感じた。
それでも無念な個所はある。人口が希薄になった土地を神々に返すというモチーフと、地震を封じる要石というモチーフが、完全に噛み合っているわけではない(人口が減少している時代だから出てきた発想では? なぜそこから厄災が漏れ出る?)。少しぶれている。また、震災は人力で防げる、つまり東日本大震災は防げた、という誤った読解を誘発しかねない面もある。
あとは、震災の描写がリアルだし、緊急地震速報が頻繁に鳴るので、観ていてずきずきと頭が痛み、かなり気分が悪くなった(御茶ノ水近辺も学生時代生活圏内だったし)。昔は「アルマゲドン」みたいなパニック映画で大都市がぶっ飛ばされるのを見たり、「地球大進化」の大隕石で地殻津波が起きて日本列島が引き裂かれるのを見て気分爽快になっていたのだが、ある時点で感受性が「まっとう」になってしまったらしい。
ところで、この作品は村上春樹「かえるくん、東京を救う」のオマージュだとよく言われるけれども、「海辺のカフカ」のパロディも仕組まれている。東北まで中古車でドライブする芹澤青年が車内で流すのが「夢の中へ」だが、「海辺のカフカ」でも星野青年が何を探しているのかもわからない中田老人を連れて車で高松をドライブしながら、「探し物は何ですか~」と口ずさむのだ。誰か気づいてないかな。
そのくせ、村上春樹はオマージュにとどめ、影響下からは完全に脱しているように感じた。
疑問点。すずめの三本足の椅子、過去の自分に手渡されたことで、時間の輪っかをめぐっていないか?
どの作品かは伏せるが、主人公が僕の名前と同じで、ヒロインから名前を呼ばれるたびに恥ずかしいくらいに動揺してしまった。
当時流行っていたラブプラスをやっていたら、おそらく引き返せないことになっていただろう。
あと、「すずめの戸締まり」に関するウェブ記事で、新海監督が#MeTooのこともあるしパンチラを封じたと聞いて、機を見るに敏だなと感じ、何となく気に食わなかった。正しい判断だと思ったけど、商業性に屈したようにも感じたのだ。正確には、「雲のむこう~」みたいに政治的を雰囲気に使うのをやめたのが、なんとなくタイミングが上手すぎて、逃げ足の早さを感じるのだ。
でも、とっくに青春コンプレックスこじらせオタク向けのクリエイターから、国民的監督に変わってしまったのだ。寂しい。あんなこじらせた作品を書くのに既婚者なのも納得できない時期があった。
こういったことを、友人に対してつらつら語っていたら、「それはお前、もう立派なアンチだよ」と指摘された。「アンチじゃない、愛情と憎しみの両方を持っているだけだ。複雑な感情をも抱えているんだよ」と反論すると、「お前が複雑な感情を抱えていない対象なんてあるのか」と笑われた。ひどくない?
これだけ複雑な感情を抱えているので、「君の名は」「天気の子」を見るのがずっと延期になっている。諸般の事情でラブコメ苦手だし。
自尊心はまだない。
何でも小学校の頃からイジメられていて死にたい死にたい言っていたことだけは記憶している。
他人の言った言葉をなんとなく真似て組み換えてきただけで、未だに他人が何をどういう意味で喋っていてどう考えているのかが分からない。
ウィトゲンシュタインはコミュニケーションとは子供の玉蹴り遊びの延長であり、その場その場で生まれてきたルールが連綿と連なってきたものにすぎないと語っていたとツイッターで誰かが言っていたように思う。
まさに私が苦手としているのはそのような、持って生まれついた世間一般的な共感能力と空気を読む力によって、その場に発生するルールの力場を正しく掴んでいく言語ゲームなる遊びそのものなのだ。
一流の声優は「あ」という言葉で100通りの表現ができると言うが、私はそういう人間のコミュニケーションの曖昧さが本当にもう耐えられない。
明確で論理的で常に同じ意味で言葉が扱われることは、法律の世界においてさえ存在せず、裁判所で弁護士や裁判官がアレコレ言い合った挙げ句に出てくる判決などの中でさえ、アレヤコレやの曖昧なものがその場限りの意味と解釈を持って無数に絡み合っていると知った時は、もうこの世界には私の居場所なんて本当にないのだと絶望したものだ。
私からすればマインスイーパーの最後の数クリックのように50:50の運任せになってしまったようにしか見えない状況を、別の人間から見れば明白に99:1でほぼ正解と言えるほうが当てられるらしいというのだから恐ろしい。
恐ろしいのは、その99:1が出来る人間の割合が95:5の95の方であって、私のような人間こそが異常として扱われていることだ。
いつからそのことに気づいていたのか分からないが、なんとなく分かっていて、でもそれが未だに確信を持ちきれない所がある。
彩度いっぱいに5色で塗り分けられているはずの戦隊ヒーローの何人かが誤差でしかない状態を幼少期から強いられてきて、それを当たり前だと感じた人間は、その僅かな誤差を見出して必死に見分けている状態が実は異常であるを薄々勘づきながらも確証を持てず、その病名と共に他者との違いを伝えられてもそれを認知することが出来ないのだ。
犬笛の音を聞き分けられないことを「そんなはんずがないだろう」と誰かに言われたら、何回までその言葉に耐えられるだろうか?
ふざけているわけではない。
色盲にとっての戦隊―ヒーローであり、人間にとっての犬笛であるものが、私にとって人の語る言葉の機微なのである。
これはもう大変に厳しいことだ。
きっとこの文章を読んでいる人は「そうは言うが君はちゃんと文字をかけているではないか。それなのに言葉がわからないんなんていうことがあるのかね?」と思うだろう。
私だってそう思う。
だが分かっているつもりで分かっていないようなのだ。
これはもう自覚のないアンドロイドがある日チューリングテストにかけられて「貴方は実は人間ではないのです」と告げられても、全く自分にはその自覚が持てないかのように全く分からないのだ。
今これを書いている私は共感能力をフルに稼働して自分と似た状況にある人間の姿を思い浮かべているように見えるだろうが、実際にはある種の論理的なパズルを解くような気持ちで相似している事象を探してきているに過ぎないのである。
普通の人が心によってやってみせるようなものを、私はただひたすらに論理的にやってみせているのを、そんなことをする必要があると思わない人間が、私も同じように共感能力によってこれらの考えに辿り着いていると勘違いしてくれているわけだ。
こうやって勘違いしてもらうのは私にとってはある意味で都合がいい。
何故なら、実際にはそうではないことが分かると途端に私は人間扱いされなくなり、ヒトマネの上手なロボットであるかのように扱われるだけだから。
これもそれも親から譲られた遺伝子が生まれつき現代社会と上手く折り合えていないのが悪いのであり、私が悪いわけでも親が悪いわけでも周囲が悪いわけでもないと分かってからは、割り切ることで楽になった部分と一生終わらない牢獄の中にいる自覚とで心はより有耶無耶になってきている。
私に出来ることといえば、とりあえず今までのようにヒトマネを繰り返して何とか自分を生き延びさせつつ、同じような気苦労を持つ人間を増やさないようにヴァージンを守ったままでこの人生を終わらせて見せることぐらいだ。
行き詰まった人生に方針を求めて性格診断や適職診断なんかをやると、いつも「小説家や芸術家になりましょう」「発明家や研究者に向いてますよ」と無責任な言葉が返ってくる。
実に下手くそに「貴方は社会不適合者なので、象牙の塔なり自分のアトリエなりに引きこもって居てくださるのがお似合いですよ」をオブラートに包んでくるものだと、自覚のない悪意なのか、純粋な善意によっての社会からの排斥なのかも分からないものをぶつけられたことを感じ入る。
その度に、「ああ、やはり自分はまともに生きるのは諦めるべきなのだ。だが、特別な生き方を出来るほどの力はない。だからまともなフリをして今日も迷惑をかけながらこの社会に張り付くのだ」と自己憐憫に浸るのだ。
これはもう精神的なリストカットとしか言いようがないわけだが、同時にソレはある種の瀉血でもあるように感じる。
私がこの社会に望むのはもうベーシック・インカムの導入ぐらいだ。
もうこれ以上社会の中で「私は貴方達と同じように働ける人ですよ」と偽って暮らすのはしんどすぎる。
いい加減疲れた。
人生の先行きのなさが、生来生まれ持った脳の作りから始まっていると突きつけられ、まだなんとか自暴自棄にならずにいるのがすでに奇跡のようなものだ。
これ以上我々を責めないで欲しい。
責めるべきは、我々のような人間が人間のフリをして社会に紛れ込まなければ生きていくことさえ出来ないこの社会の仕組みの方ではないか?
本当に、ベーシックインカムが導入されれば、我々はそれを頼りに暮らし、もう二度と社会の表側で「私は給料分の仕事ができますよ。何故なら普通の人間なのですから」と心にもないことを言ったりしないで済むのだから。
色覚検査異常なし・人より色の見分け能力が高い藝大卒で高いColor Edge使ってるんで「任せろ」って見てきたけど言うほど緑じゃなかった
他の絵も全く緑ではない
彩度が低いことを緑と表現しているにしても、肌の彩度を抑えるのはここんとこの流行りだし、その観点からいえば彩度はやや高い方
自分が塗るならこの色は選ばない(もっと色相を赤に寄せて彩度落として明度あげる)けど、商業のクライアントでもない限り文句言われるほどとは思わない
顔周りの髪や服が彩度・濃度高めの色相が赤寄りだから、肌がそこより彩度が低く色相が黄寄りであるために
だとしても他の、色相が赤寄りの肌の絵まで緑に見えているのが謎だが…
企業Vtuberの仕事って色含めガチガチに指定されてるんで、もし色覚異常があるのが明らかな人なら頼まれない(面倒だしコスト食うから)
ネームバリューある人なら別だが
強いて言うなら件の絵は2020年とちょっと古くて、本人も2009年からツイッターやってる人なんで
昔は流行色だった黄み寄り肌にする癖が残ってるって線もある
色の手癖みたいなもん(色の流行をキャッチアップできていないとそういうことが起きる)