はてなキーワード: 兄弟とは
まあn=1だが聞いてくれよ
ある女が弟のことをずっと恨んでいる。女は非正規、うつ病、恋人なしで弟は大企業、社交的、既婚者だ。貧困家庭出身の自分がこのパターンだったら、ああ兄弟だけでも成功して貧困を抜け出せて、神様ありがとう。だが、この女は違うっぽい。
実家が太いせいだと俺は思うが、弟の成功をいつもやっかんで足を引っ張ろうとし、弟の言うことは拒絶する。俺だったら絶対にできない。せっかく貧乏抜け出したのになぜ足を引っ張る必要があるのか。弟が仮に転落しても太い実家で面倒見れるからなんだろう。
近頃、「フェミニスト」と「女性」は全く別個の存在であるという考えが一部の界隈で目につくようになった。
曰く「フェミニストと女性は全く別の存在」「まともな『女性』はフェミニストみたいな事は言わない」との事らしい。
けれどそれをまるで事実であるかのように吹聴され「女の敵は女」などと女性同士の分断を謀られるのにはこれ以上耐えられない。
「女の敵は男」だよ、少なくともインターネット上で女性という性別であるだけでそれを攻撃の対象にして良い理由としてきたのはいつも「男」だったよ。
今現在「フェミニスト」と呼ばれている何かにつけては問題視した相手を吊し上げるような人達に思う所がある女性は多少は居ると思う。
しかし、その事と「まともな女性はフェミニズム的な思考を持たない」という妄言がイコールであることなどあり得ない。
それは、「全ての女性はうっすらとフェミニズム的志向を持つフェミニストである」という物だ。
まず、今「フェミニスト」とネット上で呼ばれている存在はフェミニストではない。
彼女、或いは彼達は「ツイフェミ」とも呼ばれ男性嫌悪(ミサンドリー)の感情があまりにも強く、男性を攻撃するための「手段」にフェミニズムを使っている。
多くのフェミニズム的志向を持つ女性達からも彼女達「ツイフェミ」は浮いてしまっているのだ。
自分もフェミニンだからこそ過激すぎて理念を忘れてしまった過激なフェミニストや男性嫌悪者が受け付けない人は多いと思う。
フェミニズムは、元々自分も含めた他人を思いやるための慈悲の思想である筈だった。
過去に辛い事があった事には同情する、同情するけれど…憎しみが強すぎる人は他人を思いやれなくなるんだな…と悲しくて仕方がなくなる。
男女平等という理念を忘れ、ただ嫌いな相手を攻撃するために「フェミニズム」の看板を用いる存在はフェミニストではない。
女性解放思想、およびこの思想に基づく社会運動の総称であり、政治制度、文化慣習、社会動向などのもとに生じる性別による格差を明るみにし、性差別に影響されず万人が平等な権利を行使できる社会の実現を目的とする思想または運動である。
要するに、「男女の格差を明白にし性別に関係なくありとあらゆる人が平等に生きられる社会を作ろうという思想」とその思想のために運動する人の事である。
また、
という言葉もある。
日記のタイトルにこそ「全ての女性はうっすらとフェミニストである」と書いたが、本来は「性差別的な思想を持つ人以外の全ての人はフェミニスト」と言っても過言ではない。
では何故「全ての女性はうっすらとフェミニストである」のか。答えは当然、全ての女性は性差別に苦しんだ事のある被害者であり、性差別の根絶を願う者であるからだ。
全ての女性は皆がうっすらと性差別なんて無くなれば良い、女性が怯えずに暮らせる社会になってほしい、全ての人が平等に生きられる社会になってほしいと思っている。
もしフェミニズムがアンチフェミの言うように「まともな女性」から受け入れられない物であれば、とうの昔に女性自身の手によって解体されているだろう。
フェミニズムは女性を救う。そして、この世に救われない女性が居る限りフェミニズムがこの世から消える事も無いだろう。
【追記】
自らをフェミニストだと自認していない女性もうっすらとフェミニストである、と思う理由は色々ある。
幼い頃、或いは若い頃に親や兄弟、教師や上司、そしてパートナーに強烈な女性差別を受けた人は、「女性は男性に劣った存在ではない、女性差別を許さない」という考えを自然と持つようになると思う。
例えば
が居たとする。彼女にフェミニズムやフェミニストに対する知識は皆無である。
しかし、その「フェミニズムもフェミニストも一切理解していない女性」が、とてもフェミニズム的な志向を持ちそれを我が身や言動で体現しているというケースは決して稀な事ではない。
等々、一昔前なら「女が偉そうな事を抜かすな」「女のくせに」などと言われそうな言説である。しかし、こういう考え方はとてもフェミニズムに通じる物がある…と思う。
何故ならフェミニズムは「性差別を無くそうとする思想であり努力」だからだ。「女だって男に負けないくらい強い」「女だからと言って舐めるな」という負けん気とガッツは、正に「フェミニズム」の根底にある活力ではないだろうか。
自分達は決して劣っている性ではない、性別を理由に馬鹿にされても決して負けない、性差別を絶対に許さない。そう思っている女性は、例えフェミニズムを知らなくても立派な「フェミニスト」なのだ。
【追記2】
追記の意味がよくわからない。「女の方が強い・肝が据わってる・大変」といった主張が"フェミニズムに通じる物"で、“何故ならフェミニズムは「性差別を無くそうとする思想であり努力」だから”...?
これらの言説はまず前提条件として
という反論や負けん気は性差別に負けないという強い意志でありフェミニズム=性差別の根絶を目指す思想に通じる物があると解釈している。
例えると
学生のころアフガニスタン専門の日本人研究者やジャーナリスト、現地人の人権活動家や留学生の講演会に何度か行った。
「タリバンというのはイスラム原理主義で、支配地域で異教徒や言論の自由を認めずに公開処刑するわ女性の教育を禁止してブルカを強制するわのろくでなし連中であります」
という説明を、昔の美しい街並みや綺麗な花畑やタリバン支配後の同じ場所の廃墟のスライドと一緒に聞かされて(実は街が破壊されたのはソ連侵攻で、花畑が荒れ地になったのは大旱魃のせいと後で知ったが)、
「へぇ、酷い連中がアフガニスタンを支配してたんだな。アメリカの援助で民主的で平和な国になるといいな」と初心な自分は素直に思ったのだった。
だけど、ちょっと深くあの国の歴史を勉強するとそんな単純な善悪の図式じゃないことにはすぐ気づいた。
タリバンが出てくる前から、王党派やソ連の援助を受けた共産勢力や軍閥が内戦を繰り返していて、それぞれのグループの内輪でもさらに小さな部族単位での小競り合いが絶えないカオスがアフガニスタンだった。
そんな中でイスラム主義による世直しを掲げた学生や知識層の運動としてタリバンは生まれた。
自己利益しか考えない腐敗した各軍閥に比べて、イスラム法に基づくある程度は公平でクリーンな統治を行うタリバンは草の根の支持も集めてアフガニスタンの支配勢力になった。
アメリカはタリバン政権を打倒して形式としては民主的な選挙で選ばれた政府を建てたが、中身は昔の腐敗した軍閥のままで、地域ごと、官庁のセクションごとに部族が利益誘導をする、全くバラバラの政府だった。
侵攻から20年かけても日本の明治維新のような国民国家の建設ができなかった。
「タリバンのような暴力的な組織に対して同じように暴力的に反撃するなどできません」
この他人事感!
そこは現実には無力だとしても「私は女性ですが武器を取って最後まで祖国を守ります!」と言うべきだろうと。
こんなことになる前に彼女は、「女子供の人権が守られる世俗国家を防衛するために戦って! 私たちを守って!」と夫や兄弟や息子たちの尻を全力で叩くべきだった。
世俗国家の恩恵を一番受けるであろう都市部の知識階級の女性という立場ですら国民意識が無い。政府軍の兵士がすぐに逃げ出し、司令官があっさり降伏して無血開城したのも当然というもの。
動画の女性のこの後の運命が、西側への協力者としての処刑か、戦利品としてタリバン兵士の第二婦人として分配されるのか、かなり幸運なケースとしてブルカを被り家族の男たちに庇護されて静かに暮らすのかは分からない。
なんにせよ、もうすぐタリバンが正統な政府となるのだから、アフガン人は民主主義と世俗主義よりも、イスラム法と部族の慣習への回帰を願って戦って勝利し、彼らの国を取り戻したということだ。
笑うしかない。
ソース:https://www.animefeminist.com/history-not-with-a-bang-but-a-letter-violet-evergarden-rewrites-traditional-world-war-i-narratives/
暁佳奈のライトノベルを原作とする京都アニメーションの名作、ヴァイオレット・エヴァーガーデンがネットフリックスで公開されたとき、初見の私が想像していたのは、Foreignerのヒット曲さながら、愛というものを知ってみたい少女の無邪気な物語だった。まさか号泣することになるとは。
ものの数分でその予想は裏切られた。
この作品は涙なしには観られない戦争ドラマであり、スチームパンクな歴史改変モノだったのだ。しかし、何よりもトラウマにまつわる物語だとわかった。
PTSDの歴史、1900年代初頭の文学作品における定形表現、そして人気ジャンルである「戦争物語」を、本作は、少女兵士を主人公とした上で見つめ直している。第一次世界大戦の歴史、とりわけ女性の歴史を振り返り、再解釈することで、かつての物語に対してフェミニスト的なテーマを根底に据えた新たな息吹をもたらしているといえる。
戦争物語という切り口からヴァイオレット・エヴァーガーデンを解説している人は珍しくない。例えば「Mother’s Basement」というYoutubeチャンネルでは、人情味を持って共感を表現し、ヴァイオレットの成長を描ききったシナリオの妙について見事な考察動画がアップされている。だが、トラウマや障害を抱えた少女が自信を持って活躍できるようになっていく様子や、いかにPTSDがリアルに描かれているかという点については、あまり取り上げられてこなかったように思う。
この点を踏まえた上で、テルシス大陸における戦争のモデルとなった、第一次世界大戦の基本事項を整理するところから始めようと思う。ざっくりと言えば、この大戦は1914年から1918年の間に起こったもので、何がきっかけとなったかは諸説ある。開戦とともに急速に戦火が拡大したけれど、1914年の冬までには終結するだろうというのが大方の見方だった。
その目算が外れたのは言うまでもない。戦争は4年も長引き、フランス、ドイツ、イギリスを中心とした各軍のインフラは、塹壕戦と呼ばれる、この時期に流行した新しい兵器や戦法に対応するための装備が圧倒的に不足していた。
兵士の多くが若く経験不足だったこともあり、戦いは想像以上に過酷なものになっていった。戦争から帰還した兵士たちの間には、「新しい」病気が蔓延した。俗に「シェルショック」と呼ばれ、後に「PTSD」や「PTSS」 (心的外傷後ストレス障害、外傷後ストレス状態)として診断されることになる、「男性ヒステリー」という病だ。
「ヒステリー」とは、当時、性別役割分担に厳格だったヴィクトリア朝時代に用いられた医学用語で、今で言うところの鬱病、不安神経症、心的外傷後ストレスといった精神疾患全般を表すものだったが、適用対象はシス女性がほとんどだった。そのため、「ヒステリー」扱いされた兵士たちは周囲から男失格のレッテルを貼られ、つまはじきにされる結果となった。
兵士だけではない。第一次世界大戦に参加した国々とその植民地は、集団的なトラウマに苦しんでいた。とりわけ顕著なのはドイツで、戦争への参戦とその後の経済低迷の影響から、ナチスの台頭を許すほどだった。フランス、イギリス、ドイツのメディアでは、この大戦は未だ主要なテーマであるし、世界各国の兵士とその家族が残した手紙は今なお読むことができる。
この大戦が世界に与えた影響は計り知れず、文学や歴史、そして現代の戦争にも様々な影響を及ぼしている。だが、ここで重要になってくるのは、戦争にまつわる有名な物語や歴史で描かれるのは男性ばかりなのに対し、本作の主人公であるヴァイオレット・エヴァーガーデンは女性兵士ということだ。
男性ばかりなのは当然、当時の軍隊で中心的な役割を担うことができたのは男性だけだったからだ。例外としては、第一次世界大戦において戦闘に参加した唯一の女性イギリス兵、フローラ・サンデス(セルビア軍所属)や、マリア・ボチカリョーワという若い女性が隊長を務めた、「ロシア婦人決死隊」と呼ばれるロシア軍の小隊などが挙げられる。
だが、第一次世界大戦で軍隊に従事した女性の多くは、戦場で看護師として働くか、工場で働くなどが一般的だった。例えば、アメリカの「ヨーマネッツ」や「ハローガール」と呼ばれる女性たちは、銃こそ持たなかったが、電信技師やカモフラージュデザイナー、魚雷組立工など、幅広い仕事によって戦争を支えた。
軍に従事した女性たちにも多くの物語があったにもかかわらず、戦争物語のフィクション作品はほとんどが男性中心となっている。女性はもっぱら脇役として登場し、戦死した兵士を嘆き悲しんだり、恋人役だったり、あるいは…良からぬことをされる。言ってしまえば、男性キャラクターを成長させるための舞台装置であり、そのためだけに殺されてしまうことも少なくない。
ヴァイオレット・エヴァーガーデンの世界においても、戦闘や戦争は男の仕事であり、女性はもっぱら「受動的」な役割に追いやられている。だが、ヴァイオレットは他とは異なり、女性であるだけでなく、兄ディートフリートから弟ギルバートへ「プレゼント」として押し付けられた「道具」という扱いであることから、注目すべき例外と言える。ヴァイオレットはモノ化されているのだ。殺人こそがヴァイオレットの生かされる理由であり、ギルバートの命令に従うことが唯一の生きる意味なのだ。
こうした虐待と、戦争でギルバートを失ったトラウマ、そして戦場で目にした暴力が相まって、ヴァイオレットは明確なPTSDを抱えることになる。作品を通して、ヴァイオレットは次のようなPTSD特有の症状をいくつも示している。
これらの症状は、娘を亡くして嘆き悲しんでいる作家、オスカーのために手紙を書いた後、はっきりと立ち現れてくる。戦いの中で自分がしてきたことを理解し始めたヴァイオレットは、戦場のフラッシュバックに苛まれ始める。
最終的に、ヴァイオレットはギルバートを探すために戦地を訪れる。ギルバートを見つけられなかったことで深い絶望に陥ったヴァイオレットは、自殺を試みる。退役軍人の自殺リスクは現在も高く、自殺者数は戦死者数を上回っている。
第一次世界大戦の歴史を描いた物語の多くがそうであるように、ヴァイオレットが抱えるテーマも、いかにして心的外傷後ストレスに立ち向かうかという点に重点が置かれている。このことは、作品の構成にも反映されている。
ストーリー序盤におけるヴァイオレットは、戦地での負傷から立ち直ろうとする、感情を失った少女だった。しかし、第7話でホッジンズが警告したように、ヴァイオレットの記憶は「(自身を)燃え上がらせる火」であり、いつか「たくさん火傷している事に気付く」ことになるものだった。そして、ヴァイオレットはそれに気づいてしまう。戦場で過ごした日々を思い出すたび、ヴァイオレットだけでなく、視聴者までもがフラッシュバックを体験することになる。
しかし、「女々しさ」とか「弱さ」といったPTSDに対する従来の見方とは異なり、ヴァイオレット・エヴァーガーデンはヴァイオレットのシェルショックを丁寧に扱っている。ヴァイオレットが自動手記人形の仕事を通して他人に共感してきたのと同じように、この作品は視聴者にもヴァイオレットへの共感を求めているのだ。
ギルバートの死を否定するのをやめ、自身のトラウマを受け止めたヴァイオレットには、PTSDから立ち直るための長く険しいプロセスが待ち構えていた。トラウマ研究では、これを「心的外傷後成長」と呼び、ネガティブなもの(停滞、衝動的な行動、否定)と、ポジティブなもの(前進、対処法の獲得など)の2種類に分けられる。
ヴァイオレット自身にとっても視聴者にとっても幸運なことに、ヴァイオレットの心的外傷後成長はおおむねポジティブなものだった。自動手記人形として人と一緒に働くうちに、自分の感情を受け入れ、なぜそのような気持ちになるのかを考えて納得できるようになったことで、ヴァイオレットは回復の道を歩み始める。
さて、本作のいわゆる「今週のお客様」エピソードの中には、「戦争で失った恋人を恋しがる女性たち」というお約束的展開をそっくりそのまま踏襲しているものがあるが(OVAがその好例)、一応付け加えると、この展開自体が本質的に悪であると言いたいわけではない。OVAでは、第一次世界大戦中に多くの女性が体験した出来事がリアルに描かれており、膨大な量の手紙が世界各地に送られたという点も史実に忠実となっている(手紙の多くは歴史的資料として残存している)。
しかし、ヴァイオレット自身は、作品を通して、そのような歴史的・文学的な流れに逆らっている。
ヴァイオレットは家に帰ってきたが、想い人は帰ってこなかった。
兵士は、新たな傷を負って帰ってきたのだ。
そして、ヴァイオレットはその生い立ち故に、想い人を亡くしたクライアントと、亡くなった想い人の両者に共感することができる、いわば、境界的な立ち位置の人物といえる。「民間人」と「軍人」、「女性の世界」と「男性の世界」、「家庭」と「軍隊」、そういった境界の中でこそ、ヴァイオレットは真に花開くことができるのだ。
ヴァイオレットの境界的な立場は、自動手記人形の仕事においてユニークな強みとなっている。作中の時代設定と同時期に当たるヴィクトリア朝時代や第一次世界大戦期は、タイピストやゴーストライターになる女性が急増した時期であり、ヴァイオレットも当時の女性たちと同じく、この波に乗っていると言える。
こうした女性たちは、「媒体としての女性」というお約束的表現として文学に登場するようになった。彼女らは、タイプライターや電信機、さらには速記法を用いて、人々の思いを目に見える形にし、様々なメッセージを伝えるという役割を担っていた。哲学者で文学理論研究者のマーサ・ヌスバウムの言葉を借りれば、「目的のために使われる道具」としてモノ化されることも多かったが、家父長制の世界を生きる多くの女性にとって、この種の仕事は、生まれてはじめて主体性を獲得できる場でもあった。
ヴァイオレットの当初の動機は、初めて手にした主体性を社会で活かそうとしたヴィクトリアン朝の女性たちとは若干異なっている。自動手記人形を志したのは、他者を理解したい、そして何よりも、少佐の最期の言葉を理解したいという目標を叶えるためだった。そして、人々の思考や感情の「媒体」としての立場を通じて、自分の感情をよく理解し、虐待やトラウマを乗り越え、主体性を獲得することができるようになっていく。
第一次世界大戦や、そこに至るまでの過程を題材とした文学作品によく見られる、「媒体としての女性」という定形表現とは異なり、ヴァイオレットが主体性を持つことができたのは、その境界的な立場ゆえである。戦争に巻き込まれる家庭の立場、戦争を戦う軍隊の立場、その両者に対して共感、理解できるという強力な武器を生かすことで、戦争をテーマにしたアリアの歌詞を書くために戦死した兵士の手紙を研究したり、嘆き悲しむ父親のために文字通りの意味で媒体となったり、兄弟の絆を取り戻す手助けをしたりと、ヴァイオレットは単に人の気持ちを左から右に渡す中継役ではなく、自らの手で変化をもたらす主体となっている。
ヴァイオレット・エヴァーガーデンと史実の違いは、これまでメディア等で描かれてきたタイピストや媒体役の職業人たちが受け身の存在と見なされてきた一方で、ヴァイオレットは周囲の人々の物語に積極的に関わっているという点にある。こうした活動を通じて人々の成長を助けていく中で、ヴァイオレット自身にも成長が見られるようになっていく。
第11話では、その成長がはっきりと見て取れる。過激派の部隊を立ち退け、銃弾に倒れ死に瀕している兵士、エイダンの最期の言葉を記録し、訃報の知らせと最期の言葉を家族の元へ届けに行くという、物悲しいエピソードだ。戦争の両側面への共感を要するこの仕事を全うしたことで、ヴァイオレットはようやく自分や他人に対して素直に悲しむことができるようになる。ギルベルト少佐の死をきちんと悼むことができるようになったのも、ここからである。
単なる道具でしかなかったヴァイオレットが、今や積極的に自らの心的外傷後成長を促進しようとしている。これは、従来の戦争物語や、シェルショックや女性タイピストにまつわる歴史に対する新鮮かつ現代的なアプローチといえるのではないだろうか。
ヴァイオレット・エヴァーガーデンは第一次世界大戦に大きく影響を受けており、史実によるものから、文学から引用されたものまで多岐にわたる。PTSDに対する思いやりあふれる描写然り、「媒体としての女性」という定形表現に対する批判然り、この作品は、歴史上の極めて重要な時代—最後の退役軍人が亡くなり、徐々に記憶から忘れ去られつつある時代—との対話の上に成り立っている。
だが、家庭内の物語と戦争の物語をブレンドし、両ジャンルに共通する定番の展開を巧みにひっくり返したという点で、ヴァイオレット・エヴァーガーデンのファンタジー世界は、オマージュ元の戦争物語と趣を異にしている。スチームパンクなファンタジー世界という舞台の上で、使い古された展開を別な角度から見つめ直すことで、進歩的な物語を紡ぎ出しているのだ。
退役軍人の描かれ方、精神疾患、女性の物語、こうした事柄を尊敬の念を込めて丁寧に扱うことで、戦争やトラウマにまつわる従来の物語をいかに語り直すか、その基準点をこの作品は確立したと言える。戦争やトラウマにまつわる物語も、より包括的で、健全で、私たちに活力を与えてくれる存在たりえるのだ。それが、従軍した兵士や亡くなられた方々に対する、せめてもの追悼でもある。
「戦争は決して変わらない」とよく言われる。だが、ヴァイオレット・エヴァーガーデンが示してくれたように、その語り方を変えることができるのは確かだ。
今週の大森靖子炎上でちょいちょい名前が出てくる「生ハムと焼うどん」について前から書きたいと思っていたので書いてみる。
生うどん動画のコメントには、もっと早く知りたかったとよく書かれている。それくらい当時のパフォーマンスは魅力的なのでアイドル好きじゃなくてもちょっとだけ見てみてほしい。
誰もが才能を認めながらさまざまな不運に翻弄されていったアイドルの経緯をYouTubeを中心に見ていけたらと思う。
動画は公式のもあれば非公式のもあるので、時間が経ったら消されているかもしれない。お盆休みはステイホームで動画を見て過ごそう。
本件についてもっと詳しいアイドル好きの人はたくさんいるはずだが、Wikipediaを見ても全貌が伝わりづらく、まとまった情報が見つからなかったので書いたのだが、指摘や補足があればトラバで教えてほしい。
西井万理那(西)と東理紗(東)の高校同級生二人組セルフプロデュースアイドル。作詞作曲演出脚本衣装など全部自分たちでやっている。今セルフプロデュースアイドルが増えてきたのも生うどんの影響が大きいとのこと。
2016年の火曜The NIGHT出演時は高校卒業して間もない頃。元ミニモニの矢口も引くほどのテンションでふざけまくる一方、曲は魅力的かつ普通じゃない歌詞。ふわちゃん的というか、おっさん目線では辻&加護自身がつんくみたいなクリエイターの才能も持ち合わせた感じ。
2016/09/01
矢口真里の火曜The NIGHT#21 ゲスト 生ハムと焼うどん
https://www.youtube.com/watch?v=Y6vFuo0J9sU
このあたりのライブ動画のステージングを見ると、寸劇や客いじりなどアマチュアっぽさがなくすでに完成されている。客席に降りたり大勢の客をステージに上げたり無茶苦茶しても事故を起こさないのはベテランライブバンドのような貫禄さえある。
20160703 アイドル横丁夏祭り 生ハムと焼うどんライブ部分
https://www.youtube.com/watch?v=SKKqHnxcsM4
https://www.youtube.com/watch?v=ThU7TTEZP4o
地上波のテレビ番組にも出始めた2017年に突然の活動休止宣言。原因はギャラの分配と言われている。実は作詞作曲演出などはすべて東のほうがやっていた。東のクリエイターの才能と、西の天性のアイドル性とでもいうべきまわりから愛される才能でバランスが取れていたとも言える。ブッキングやお金の管理も東が母親とやっていたのだが、不幸なことに東は発達障害でそういう細かい仕事を厳密にやることは壊滅的に苦手だった。(おそらく母親も)
別の大人が間に入って亀裂の修復をしようとしたが余計ひどいことになった。間に入った一人が彼女らの才能を認めていた大森靖子なのだが、そもそも大森自身がそれほど成熟した大人ではない。西の愛されキャラに大森は同情し肩入れしたため、昔からずっとアーティストとして大森に憧れていた東は余計追い詰められていった。
2017/01/14
西井万理那 @namahamu0822
https://twitter.com/namahamu0822/status/820269710226751488
2017/01/15
https://ameblo.jp/higashi281/entry-12238466647.html
活動休止前の最後のステージ。初期の代表曲で、もっとも思い入れのある曲『たまごかけごはん』
2017/04/21
https://www.youtube.com/watch?v=XcSvJbnTBkM
吉田豪も初期から生うどんを見ていた一人で、活動休止から1年半ほど経った頃に西井と東それぞれをトーク番組に呼んでいる。
二人とも大人になり屈託のない西井とアーティスト寄りの東というキャラクターもより明確になった。
おたがいに友達としてはまだ好きだけれど一緒には活動できないという気持ちが伝わってくる。
高校のとき友達のいなかった東に、当時から人気者だった西井が声をかけてきてその頃から西井の才能にずっと憧れていたという思い出話はなかなか切ないものがある。
20181023 猫舌SHOWROOM 生ハムと焼うどん 西井万理那
https://www.youtube.com/watch?v=HCfdxtN5xfo
https://www.youtube.com/watch?v=OSxsQYvirrM
ここでも話しているが、東は活動休止後、劇団ピヨピヨレボリューションの看板女優として演劇活動に軸足を置くようになる。
また実の兄弟姉妹で組んだバンド東東東東東(イーストファイブ)の活動も始める。人気TikTokerでもある実妹東ノエルをはじめ全員タレント性もあるのだが、東の振り切ったアイデアに対応するのが大変でバンドメンバーからは不評だったようだ。それはつまり西井の対応力が異常に高いということでもある。
おつかれさま〜東東東東東お披露目"前"ライブ『さよなら家族』より
極端にいえば、私にとって、私自身の命とどこかの顔も見た事のない人の命が平等なわけが無く、人の価値は平等ではない。同時に、平等である事に対してそこまで意味はありません。
なんたって日本ではかろうじて権利は平等だからです。表面上、個人の価値観で権利が侵害される国じゃないからです。
好きな人の価値と嫌いな人の価値はその人にとっては同等にはなり得ないでしょう。けれど、権利は平等であるべきだ。
かくいうDaiGoさんもがご自身が思ってるより大多数の人間にとってDaiGoさんの価値は高くありません。そりゃ、自分は自分が可愛くて仕方ないだろうけれど。好きでも嫌いでもない外野からすれば、納税たくさんするYoutubeやってるメンタリストって人というただそれだけの認識。DaiGoさんのいうそこら辺に我が物顔で寝てるホームレスの価値と大きく変わることはありません。そりゃ納税してくれてるかもしれませんが、外野はどうでもいいと思っています。
DaiGoさんはご立派です。沢山勉強して、苦労を乗り越える強さがあり、人を魅了する力もある、収入面から言っても成功者と言って差し支えない、とても立派です。でも虐待を受けて育っていたらどうだったでしょう。精神的な部分や認知的な部分は歪んで形成されます。障害があったらどうでしょう。思うように動けなかったり、痛みに苦しむ人、死に常に向き合い生きてる人がこの瞬間もいます。乗り越えられない不運が降り掛かったらどうでしょう。生きていくには重すぎる耐え難い出来事も世の中にはあります。
たまたまいいお家に産まれ、たまたま大学にも行ける経済状況で、たまたまいい親兄弟に囲まれ、恵まれたIQに生まれた貴方が自分で掴み取ったものの背景にはいくつもの幸運が潜んでいる事に気づいていらっしゃるでしょうか。
人は境遇は平等じゃありません。だから権利が平等であることに意味があるのです。
高額納税者という高い水準に合わせ、一般的に低いとされる水準にいるホームレスや生活保護を排除しようとする思想は、DaiGoさんは平等を説ける側にいるから出てくるものです。そして想像力がないから出てくるものです。DaiGoさんがいう殺してもいい命側にたまたまいないだけ。そしてそれはいつ覆されてもおかしくは無い。
生活保護やホームレスの中には、DaiGoさんには想像もつかないような人生を歩んできた人も沢山います。それでも世界に目を向ければ日本に生まれただけ幸運だという人がいくらでもいます。目には見えにくくても、そこに本当にいるんです。
財を持つ事が自分や人の価値であるといったような基準があるのだと思いますが、価値に応じて権利を侵害する思想は、自称頭のいい人が堂々と主張する程の事だと思えません。
DaiGoさんの推定IQを調べましたが140台と出てきました。私とのIQの差は50以上あります。
IQが20離れると会話が成立しないという俗説がある程ですから、私の拙い文章は伝えたいことを伝える力がないかもしれません。それ以前に本人には届かないでしょう。だから、ただの暇人の殴り書き。
知識も知恵もお金もない、大して納税もしてない(むしろ低所得で色々免除されてる)家族も友達もいない私が、DaiGoさんからすると排除すべき存在に近い私がそれでも幸せに生きているのは、権利があるからです。
私みたいな低IQでも、勉強ができない落ちこぼれでも、足し算と引き算すら出来なくても(学習障害)、権利の平等さとその大切さ、それが当たり前でないこと、それを叶えてきた人が日本には居たことは分かるつもりです。
極端にいえば、私にとって、私自身の命とどこかの顔も見た事のない人の命が平等なわけが無く、人の価値は平等ではない。同時に、平等である事に対してそこまで意味はありません。
なんたって日本ではかろうじて権利は平等だからです。表面上、個人の価値観で権利が侵害される国じゃないからです。
好きな人の価値と嫌いな人の価値はその人にとっては同等にはなり得ないでしょう。けれど、権利は平等であるべきだ。
かくいうDaiGoさんもがご自身が思ってるより大多数の人間にとってDaiGoさんの価値は高くありません。そりゃ、自分は自分が可愛くて仕方ないだろうけれど。好きでも嫌いでもない外野からすれば、納税たくさんするYoutubeやってるメンタリストって人というただそれだけの認識。DaiGoさんのいうそこら辺に我が物顔で寝てるホームレスの価値と大きく変わることはありません。そりゃ納税してくれてるかもしれませんが、外野はどうでもいいと思っています。
DaiGoさんはご立派です。沢山勉強して、苦労を乗り越える強さがあり、人を魅了する力もある、収入面から言っても成功者と言って差し支えない、とても立派です。でも虐待を受けて育っていたらどうだったでしょう。精神的な部分や認知的な部分は歪んで形成されます。障害があったらどうでしょう。思うように動けなかったり、痛みに苦しむ人、死に常に向き合い生きてる人がこの瞬間もいます。乗り越えられない不運が降り掛かったらどうでしょう。生きていくには重すぎる耐え難い出来事も世の中にはあります。
たまたまいいお家に産まれ、たまたま大学にも行ける経済状況で、たまたまいい親兄弟に囲まれ、恵まれたIQに生まれた貴方が自分で掴み取ったものの背景にはいくつもの幸運が潜んでいる事に気づいていらっしゃるでしょうか。
人は境遇は平等じゃありません。だから権利が平等であることに意味があるのです。
高額納税者という高い水準に合わせ、一般的に低いとされる水準にいるホームレスや生活保護を排除しようとする思想は、DaiGoさんは平等を説ける側にいるから出てくるものです。そして想像力がないから出てくるものです。DaiGoさんがいう殺してもいい命側にたまたまいないだけ。そしてそれはいつ覆されてもおかしくは無い。
生活保護やホームレスの中には、DaiGoさんには想像もつかないような人生を歩んできた人も沢山います。それでも世界に目を向ければ日本に生まれただけ幸運だという人がいくらでもいます。目には見えにくくても、そこに本当にいるんです。
財を持つ事が自分や人の価値であるといったような基準があるのだと思いますが、価値に応じて権利を侵害する思想は、自称頭のいい人が堂々と主張する程の事だと思えません。
DaiGoさんの推定IQを調べましたが140台と出てきました。私とのIQの差は50以上あります。
IQが20離れると会話が成立しないという俗説がある程ですから、私の拙い文章は伝えたいことを伝える力がないかもしれません。それ以前に本人には届かないでしょう。だから、ただの暇人の殴り書き。
知識も知恵もお金もない、大して納税もしてない(むしろ低所得で色々免除されてる)家族も友達もいない私が、DaiGoさんからすると排除すべき存在に近い私がそれでも幸せに生きているのは、権利があるからです。
私みたいな低IQでも、勉強ができない落ちこぼれでも、足し算と引き算すら出来なくても(学習障害)、権利の平等さとその大切さ、それが当たり前でないこと、それを叶えてきた人が日本には居たことは分かるつもりです。
「日本で唯一のメンタリストとして活躍する長男の『メンタリスト DaiGo』をはじめ、東大の謎解きクリエイターとして有名になった松丸 亮吾など、四者四様、自分の道を各自で切り開きながら着実に前進している松丸4兄弟。
そんな世間から天才と呼ばれる松丸4兄弟と、その父である松丸 悟とがタッグを組み、これまであまり公表してこなかった4兄弟のルーツや人間形成の秘密、松丸家の教育方針や教育環境などを包み隠さず語った待望の一冊。」
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タイムリーだな。どんな育て方したんだろう。
・手抜きだけど、いつぶり???わからないくらいひさしぶりにご飯を作った。本当に嬉しい。まだ完全に戻ったわけじゃないだろうけど、このサイクルをそのまま維持したい。
・洗濯物を回して乾かして畳んでしまった。同日中にできたことが本当にこの数ヶ月なかったから、すごく嬉しい。
・仕事とかじゃない人と話せた。
・朝起きて、身支度できた。
どれもすごく小さいことだけど、2ヶ月くらいずっとぐじぐじしてて、ゴロゴロしてて(一応仕事はしていたけど)、ご飯抜いて、セルフネグレクトしていたわたしからするとすごい進歩。単純に嬉しいので増田に書かせてもらった。もう今日はこれだけでいい日だ。
ーー追加ーー
コメントの優しさに本当に驚いて、冗談抜きで泣いた。というか泣いてる。なんか、生きてていいんだなって、褒めていいんだなって。親兄弟友達も同じ言葉をかけてくれるんだけど、もちろん言葉を信じていないわけじゃないんだけど、普段のわたしを知らない匿名の場でこうやって優しい言葉をかけてもらえるのがこんなに救われるとは思っていなかった。また明日も書かせてもらうかもしれない。お目汚し申し訳ない。
はてブで、なんで仕事はできていたのかっていうコメントがあったので。全てのエネルギーをなんとか仕事をするために費やしていた感じでした。幸いにもリモートワークメインだったのでどうにかなっていた感じ。たまの出社も本当になんとか出社、という感じだった。