はてなキーワード: スペクタクルとは
まずサッカーに関してはほとんど無知だった。ウイイレでやってたくらい。7とか8とか。
なので、久しぶりに2008とかを友人宅でやったとき、クリロナとか知らなかったくらい。ユナイテッドも知らなかった。ロナウジーニョとかロナウドは知ってた。
本田も知らなかった。7とか8でユニフォームカッコいいなとインテルとミランよく使ってた。マルティンスだっけ、速いやつが好きだった。
そんで、2010の南アフリカワールドカップを何故か興味がわいて、大半の試合を見てみたらサッカー面白いんじゃね?と思った。
それから海外サッカーを見るようになった。そのとき香川がドルトムントやら内田がシャルケやら行ってたし、見たり。
あと、バルサレアル、ミランとかインテルとか、シティとかアーセナルとかのビッグマッチだけは見る感じ。ケーブルテレビに加入してな。まあ、見れないのはネットとか色々して見てた。
で、2013年くらいまでそんな感じ。だから、インテルが弱くなっていく過程とかユーベが強くなっていく過程とか、バルサが四年目から綻びが出てくるとことか。
モウリーニョのバルサ対策をネットの記事で見たりね。スペインでサッカーの監督やってる人が個人ブログしてたりするから、雑誌より詳しかったりするし。
試合見て、ネット見て、雑誌みて、代表戦みて、、みたいな。FIFAサッカーゲーム買っていろんなチームでやって、選手の名前は覚えた。
で、柿谷フィーバーあったやん。その辺りから2013?4? そのときからJリーグもちょくちょく見るようになった。セレッソ、広島、柏、とか。ガンバが落ちた年かな。
東京に住んでいるんだが、FC東京つまらんし、東京にそこまで郷土愛ないし、見てない。味スタ行ってみようかなとは思ったことはある。行ったら変わるか?
で、最近Jリーグ見なくなった。なんというかセリエ、リーガ、プレミア、ブンデスの強いチームの試合しか見てないからか、Jリーグの弱点が気になるというか、飽きるというか。
そもそも海外の試合でもハイライトでいいかなーって時があるしな。まあ、こないだの広島対柏は良かった。マジで良かった。
弱いから見なくなったという訳ではない、Jリーグが、日本が、強くなるビジョンが見えなくなったからというか。。
播戸さんがブログで日本のサッカーにJリーグに足りないことを書いていたけど、レフリーとか芝とかサポーターとか、カメラアングルとか。なんというか弱点に向き合わないというか。直視しないというか。現実のサッカーを理解していないというか、トップのサッカーがどんどん変わっているのを眺めてもいないというか。
フィジカルじゃ勝てないからパス回しで勝とうとか、スピードで勝とうとか、ああいう話。バスケでもラグビーでもそういう流れだったらしいが、結局フィジカルもそうだけど、基本のパス回しから負けてるんだよね。バスケはアメリカ、スペインと比べてボールを止める、離すという基本技術が足りないって話だし、ラグビーは日本代表の監督が変わって、フィジカルでもある程度対抗できるようにしようってなってるらしいけどな。NUMBERで読んだだけやけど。バスケに関しては本を何冊か読んだ。
で、日本サッカーは現実を直視していない。身体をぶつけることを、Jリーグから、もっと言えばユースの頃から逃げているから、海外いくと歯が立たない。アジアでさえフィジカルコンタクトで負ける。この前の東アジア大会は別にどうでもいいけど、日本サッカーの方向性が間違っていることは認識しないと駄目だと思うわ。
審判が簡単に笛を吹く→フィジカルコンタクトをDFがしない→フィジカルコンタクトに対応できるFWなりMFが育たない→海外いくと話にならない
この流れな。
クロスが日本サッカーって下手じゃん?ユース世代から短いパス回しばっかりやってるから、狙ったところにパス出せないんだよ。
クロスをピンポイントで上げる技術がない→ピンポイントでボールがこないので、CBはFWに対して距離をつめる必要がない→FWはプレッシャーを受けない→FWは駆け引きを学ばない
この流れな。セットプレーに日本は弱いとか曖昧なことをサッカー記者が言っているが、まずクロスをきちんと上げられるやつを育てないと駄目だよ。記者もボンクラ。
川崎対ドルトムントで簡単に香川がクロスをヘッドで決めただろ?川崎が守備のこと考えていないクソみたいなチームだったとしても、CBがマークもしない、身体もあてないってのはあれ酷いわ。現実を見ろ。セットプレーで得点の三割を占めるんだぞ。アンチェロッティもハリルホジッチも言ってるだろうが。
言いたいことたくさんあるけど、箇条書きにするわ、何かあればブコメでもtwitterでも書いてくれ
1、フィジカルの話。ハリルがもっとボールホルダーに近づけって言ってるけど、FWが手を使ってプレスをいなすこととかもな。アグエロとかテベスとか手本がたくさんいるだろ。まあ、テベスがJリーグに来たらカードの嵐でしょうが。
2、守備(FC東京のイタリア監督がゾーンしっかりやるだけで上位にいるけど、日本サッカーってゾーンディフェンスの基礎も出来てないってFC東京の監督にもトルシエにも言われてるからな、サッカー雑誌でイタリア人のユースの監督とかがかなり駄目出ししてる)の話。アルゼンチンとかオランダとかスペインとかからコーチ取ってきて、ユースから教えないと駄目だと思うわ
3、パススピード遅い 速いパスをトラップできない→パスを遅くしろと要求→パスがちんたら遅くなる(日本代表でさえ)。あのなロッベンがパスを受けるとしてパス速いってだけで、早くトラップできるから前を向く時間ができるんだよ。パスが遅いとディフェンダーにつめられるんだよ。だから、ブラジルとかと試合するとパスサッカー通用しないの。Jリーグが当然のように距離をつめない、なんちゃってディフェンスやってるから問題にならないけどな。川崎がドルトムントにパス回し通用しなかっただろ?川崎はパスのスピードはまだしもトラップが下手。あと、トラップする前に周りをみてディフェンス来てるか、距離はどれくらいか見ろ。
4、判断が遅い あのーずっと話が繋がっているんだけど、ディフェンスが距離つめないから、前向けるって話をしたけど、それプラス考える時間があるんだよね。ディフェンスが距離つめると早く判断しないと間に合わないんだ。つまり、パスもらうまえから何をするか考えないといけない。Jリーグだとなんちゃって守備だから、トラップして、パスの出す先を考えて、パスをだしても間に合う。プレスに来ないから。だから、パスもらってから考える奴が多いんだよね。
あのねーペップバルサが凄いのは凄いんだけど、薄っぺらい表面だけ見過ぎ。パススピードも判断の速度も、守備もちゃんと直視しろよ。スペインドイツアルゼンチンオランダブラジル辺りのサッカーと比べて圧倒的に知識不足だってことを理解しろよ。勉強し続けろよ。人生学ぼうと思わなかったら成長なんて簡単に止まるんだぞ。
5、審判
なんというか審判に限らず日本全体だと思うんだけど、ルールを守るために審判やってるよね。なんというか何のためにルール守ってるの?プレミアだったら試合をスムーズにスペクタクルにするためにルールを守っている。日本はルールでこうなっているから駄目。西村さんのインタビュー読んで絶望したわ。選手が倒れるから笛を吹かざるをえないって。なんというか、日本サッカーを強くするために笛を吹けないんですか?プレミア基準と言わず、ブンデスセリエリーガの基準で吹いて、そうすれば日本でやっていても、海外でやっていても違いに悩まされないだろ?日本サッカーはフィジカル弱いから、ある程度フィジカルコンタクトを許容する。それが日本サッカーが強くなるためだと思うんですがね。
まあ、色々書いてきたけど、不満があって、その不満はネット上やらサッカー選手のブログやら、雑誌(にいくらでも書かれていて、サッカー批評かフットボール批評か忘れたがコンフェデとかワールドカップでの日本代表の守備のどうしようもない下手さ、を書いている。イタリアでは15までに全部習うとか)にあるのに、それが改善される気配すらない。なので、Jリーグに魅力を感じづらくなった。
ああ、あと!柴崎!まあ、すごい選手ではあるとは思うんだけど、例えば海外に行きました。運良くリーガセリエブンデスの下位チームに移籍できました。となったとする。間違いなくボランチでは使われないんだよね。まず身長が求められる、守備が求められる。恐らくトップ下になる。
小さいボランチだとPSGのベラッティ。ただ、PSGは3ボランチだし、守備に走るし、ボールを狩る力もある。メッシからボール取ったり。
守備のできないボランチと言えばピルロ。ただ、ピルロは遠藤ヤットや柴崎と比べて、中盤やCBがボールを持った際にFWへのパスが通らないようにパスコースをふさぐことができる。守備力は無くても守備に対する理解度があり、それを行う実行力がある。イタリアで守備戦術はガッチリ教わっているだろうし。
そういったボランチとしての守備力は足りなくても最低限はできて、尚且つボランチとして非常に優秀であるからベラッティやピルロは使われている。遠藤も海外からオファーがあったというから、移籍先で守備に関する理解度を深めていたかもしれない。
で、柴崎はパスも上手いし、たまに前線に顔をだして攻撃面では素晴らしいが。守備はバイタルエリアをあけるし、パスコースを切ることもできないし、身体を当てることもしない。何よりボランチに必要とされる守備を理解していない。そのような選手をサッカーライターが絶賛し、ネットでは柴崎を手放しで褒めている。どうしようもない。柴崎がいつかネイマールやエルシャーラウィなど凄い人と比べて凄くないだの、ブラジルは凄かっただの言っていたが、見るべきはモドリッチ、シャビアロンソ、ブスケツ、ピルロだったな。
現代サッカーに求められていることが分からない、チームに求められていることが分からない、監督に求められていることが分からない。それではどうしようもない。海外に移籍したら、言語の問題がでてくるのは、そこ。宇佐見は理解できていないし、理解しようとしなかった。最近守備もするようになったが、プレスにいくべきときに行っていないし、追わなくてもいい場面で無駄に体力を使っている。まあ、ガンバユースが現代サッカーに求められていることを理解できていなかったのだろう。
恐らく、宇佐見は2トップのチームでないと海外では活躍できない。守備に貢献できないからだ。宇佐見があれ程の能力があって、サッカー人生で失敗となれば、日本サッカーもさすがに気づくだろう。宇佐見はホッフェンハイムの前にリバプールにいっておけば良かったかもね。オファーあったんでしょ?スターリングだって、守備下手くそでやる気なくても使われていたしね。
なんというか、海外のサッカーは見ていませんってアホなこと言ってるサッカー選手が多いけど、プロのサッカー選手として生きていくのに、レアルバルサユーベシティチェルシーバイヤンドル辺りのサッカーを見ていないってのは、センター試験の過去問見ないで模試も受けないで、テストに臨むようなもん。
とりあえず、Jリーグはお金がないからしょうがないだろとか、弱いんだからしょうがないだろってのは分かるんだけど、強くなるよう努力はしてるんですか?強いサッカーの中身を直視しないんですか?ってこと。
まあ、私みたいのは珍しいだろう、テレビで放送して、ネットで色々twitterだのfacebookだの露出を増やして、アジアのスター選手を取ってくれば人もみるようになるし、お金も集まるようになるだろう。ただ、日本サッカーがよくなる希望を見たい。アメリカのサッカーが盛り上がっているのは露出が多いのもある、ネット戦略が上手いのもある。だけど、アメリカのサッカーが上昇していくって感じられるから魅力があるんじゃないかな。なので、お金ないならないで、セリエとかリーガの安い給料で中堅クラブのエースとかやっている選手を取ってきてほしいけどね。30超えていてもな。
ある小説を思い出した。
こんな感じだ。
--無人機
だった。人間が搭乗しているとしたら自殺願望を植え込まれた被洗脳者だろう。
紛争時、敵ゲリラがよくそういう兵士を使っていた。こちらの陣地の遥か手前で洗脳が解けかけた敵洗脳兵がきりきり舞いをしているのを二度ほど見たことがある。洗脳兵は楕円を描いてグルグルと同じ場所を走り回っていた。どこに行きたいのか自分でもわからなくなってしまったのだ。
洗脳兵は時間が来ると爆発して四散した。安全なスペクタクルだ。
それを私物のカメラで撮影している兵もいた。あの若かった男はまだあの写真を持っているだろうか?
--人間は何度も何度も何度も何度も同じことを繰り返す
--間違った方向に突進し、とんでもないものを信じ、親の世代と同じ失敗を繰り返すのが我々だ
--その多くが無用の死を迎え、悲惨さで地を覆い尽しながらも生き残る
このことを最近、理解できるようになってからノーマはフレイがクソ虫になった理由がわかったような気がした。
しかし、ノーマはクソ虫なんかにはならず、まだ先に進み人に語りえぬ一文の価値もないものを探求するつもりだった。
楕円軌道を描いてまわる洗脳兵や「無人機」のように見えていたのかもしれない。
ここで書いているおまえもオレも
http://www.gentosha-comics.net/story/cat1988.html
そういうわけで幾原邦彦原作のマンガ「ユリ熊嵐」(月刊コミックバーズ連載)のアニメ化が決定したので
各自関連情報をチェック願いたい。
http://www.gentosha-comics.net/story/cat2414.html
改変がそれなりにあるがまぁまぁいい出来だった
監督はタケコプターは十分にスペクタクルであるというようなことを言ったらしいが、
それを表現したかったのであればよりリアルな3DCGにしたことは成功だったろう
とてもよく表現できていた
異論のある成し遂げプログラム、もちろん原作には出てこないのでオリジナル設定だが、
短い時間の中でそこにいさせることと帰ることを同時にえがかなければならないので仕方ないとも言えよう
ただ、他に何も考えつかなかったから仕方なくつけた設定を、監督が自慢するのはいただけない
決していいシステムではない
藤子F不二雄ならやらないという意見も少なからずあるが、F先生はドラえもん自身を人扱いすることはないのでこの程度ならあり得ると思う
雲の王国やブリキの迷宮で機能停止になるシーンがあるが、シリアス回でこういった事をのび太たちにすることはない。ドラえもんになら許される
あと、地味に改変されて気になったシーンでは
ドラえもんが来て早々どら焼きを食べるが、あそこはおもちでなければと思う
でなければのび太とおもちを取り合ってけんかするシーンが描けないだろう
それから、しずちゃんが結婚前夜に父親に挨拶するシーンがあるが、なぜ寝る前なのにイヤリングをしているのか
これはおかしすぎる、なにを考えて付け足したのかまったくわからない
多くの目に触れるようになる前から価格が高騰し、入手困難なCDであるため、これを引用公開することで、多くの人の目に触れることは、昨今の事情に照らし、有用だろうと思い、ここに記しておきます。じゃあ増田で書くなよ、というツッコミは効きません。たぶん期間限定。
佐村河内のスコアを詳細に眺め評価することは、近頃の劇音楽に屡々見られる基本的な技術不足や、必要以上に技を凝らそうとする過剰なテクニックの持て余し。
これらとは明かに一線を画しているという事だ。
第一楽章、邦楽の静謐な、それでいて熱いエネルギーを内に秘めた佇まいから戦いを表現する大オーケストラへの見事な転換、目の眩むような、あたかも生物の細胞分裂の様な声部の増殖の緊張は、来たるべく英雄の出現(心に強く刻み込まれる主題[テーマ])を準備しているのだ。
第二楽章では、一楽章の主要な動機[モティーフ]や主題[テーマ]を巧みに変奏発展させてゆく、限られた時間の中で超絶的展開能力。
全く隙の無い構築力と完璧なオーケストレーションには唯々感嘆するばかりだ。
これらの事が自然に在る、ということ、技術はその為にこそ使われなくてはならない事をこの奇麗なスコアは私達に示してくれている。
私がコーダ部の総譜を受け取りに氏宅に伺った日のこと。
着いてすぐ筆談で、まだ出来てないので待てとのこと。
以降氏は黙したまま延々4時間が流れた。
と突然立ち上がり、未だ見た事も無い80段はあろう巨大な五線紙を取り出し席に着くや否や、嵐の如くペンを走らせ始めた。
それは神憑り的な速さといった感じだった。
何やらスケッチでも書き写しているようだった。
10分も経った頃、「写譜なら手伝おう」と立ち上がり氏に近づいた私は思わず目を疑った。
氏が書き写している筈の五線紙の向こうには何も無かったのだ・・・・。
その恐ろしい光影に立ち尽くすばかりだった。
写し取っていたのは頭の中のスケッチだった、以降ペンは一度と止む事無く僅か20分で全ては終わった。
氏は見直しもせず「ポイ」と私に手渡した。
後に私が見直したところ、何の落度も無かった事は言う迄も無い。
注:引用者により、ルビを該当する熟語のあとに[]で読みを挿入してある。また、句点ごとに改行し、アラビア数字は半角に変更した。
遠い古からの声―長い間日本の風土の中で培われてきた都節と呼ばれる伝統的な様式―からこの曲は始まる。
この尺八の「息」が、はじめは琵琶の力強い一打や笙の開放的な響きを導き、外に開かれていく空間を形づくるが、つづく締太鼓の合いの手を橋渡しとして、今度は逆に人間の持つ陰の部分、尺八の内に籠った響き、そこに影を落とす琴の不穏な調弦や笛の虚ろな息づかいなどが、前との微妙なコントラストとして対置される―ここで提示された様々な要素(おもにコントラストという概念)がこの作品の全体を紡いでいく上での重要なポイントとなっている―。
やがて一本の竹のひびきは12本もの竹(尺八)を呼び(ff)、静かに、しかし豊かにひびき渡る和太鼓の一打が大オーケストラを迎え入れ一転としてスペクタクルな場面に突入する。
前の部分と全く別な世界の様にみえるこの部分は実は冒頭の尺八の旋律と深い関わりを持っている。
譜面を見てみよう。
(譜例1)ここでフレーズの後半にあたるAという部分にオーケストラが対応する。
(A')。
そして英雄の出現を伝えるファンファーレ(これは西洋で培われてきた伝統だ)につづいて(やはりこれも西洋の伝統的な)ハーモニーのゼクエンツ(鎖)に乗って英雄のテーマが提示され(譜例2)クライマックスを迎えた後、譜例1のBの和音の固定(オスティナート)による経過句に入る。
ここで邦楽の冒頭部分が新しい状況の上で再び現われる。
尺八がサキソフォーンに、笙がヴァイオリン群に、また12本の尺八は今度は虚ろで怪しげなハーモニーを醸し出し、三味線は乱れ(冒頭の拡大)、琴はますます不穏なアルペジュを掻き鳴らす、一瞬の閃光、地底から沸き起こったかのような轟音から出現したものは英雄のテーマのヴァリエーション、そして輝かしいマーチ(ファンファーレの変奏)―ここで西洋にハーモニーのコントラスト(長三和音と短三和音)を挙げておく。(譜例3)
そして再びスペクタキュラーなシーンが登場し、コーダ(ゼクエンツ部分の変奏、このモティースがその後の楽章で大変重要な役割を果たす)(譜例4)。
二楽章は前半の静かな部分「夜の音楽」(佐村河内談)と後半の激しいアレグロからなるが、前章であらわれた様々なモティーフによる更なるヴァリエーションである。
(一楽章をソナタ形式に於ける提示部と捉えるならば二楽章は展開部、三楽章は再現部とみなすこともできる)
三楽章は前の余韻を受けて「能楽」の囃子、コラージュ的部分を経て尺八の冒頭が再現される、ここでは笙のか代わりに弦楽器が増四度上で現れる、実に美事である。
メインテーマがアダージュで(本来の姿で)再現され圧倒的なコーダで締めくくる……
以下は若干の譜例による指摘にとどめるが、この作品は様々な要素を複雑縦横に織り込んだ大変興味深い大曲であり、聴き手は注意深く聴き込む毎に新たな発見を見いださせる至宝の逸品と言える。
引用者注:譜例3には『マーラーの交響曲第8番(第6番かも、とにかく字が小さくて読みにくい)が想起される!』と書いてあるので、もともとマーラーが好きなんだろうと思う。また、誤字と思しきものも原文ママにしてある。
www.youtube.com/watch?v=ukFtX9iZPjU
余談だが、このサウンドトラックは贅沢にもxrcd2を採用している。ネットにある音源とは比べられないぐらい素晴らしい音楽が堪能できる。
http://anond.hatelabo.jp/20121204195754
創竜伝は優秀なSF(サヨク・フィクション)俺TUEEE小説なので……
創竜伝好きな人で、サヨク描写イラネな人とか、大人になってどうも創竜伝が読めなくなった人とか、そういう人に魔法科を一度読んでもらいたい。
右左が逆なだけで骨子は結構似てると思う。作者の政治思想をちょくちょく味方キャラが代弁するとか。
竜堂兄弟は反体制ヒーロー。シバさんは体制側だけど規格外ヒーローかな。
ヒロインは創竜伝より充実している。というか創竜伝、まつりちゃんはヒロインなのか?
代理カーチャンな気がしないでもない。まつりちゃん好きな人は会長かなあ。
ただ劣等生は活動範囲が狭いので創竜伝ほどの大スペクタクル展開はいまのところ無い。
ほんとは俺TUEEEEじゃなくて敵YOEEEなのかもしれない。
鈴木:いやあ、きょうはね、教えてもらいたかったんです。というのはね、『バッタ君(町に行く)』の……魅力。
鈴木:僕は正直言います、告白します。お話のほうがね、なんでこういうものが作られたのかなって、見てるうちに終わっちゃったから(笑)、そこに気を取られて。アニメーション的にどうのこうのの前に、なんでこんなもの作ったんだろうって。だからきょう教えて欲しかったんです。
庵野:そうですね……やっぱりアニメーションの技術としてすごいと思いますね。やっぱ当時のアメリカは、ディズニーも、MGMも、ワーナーも、やっぱりすごいなって。
鈴木:どういう技術が優れてたの。だって『バッタ君』好きだと思ったんでしょ?
鈴木:だって『EVA』を作った人が『バッタ君』を好きなんでしょ。これみんな聞いてみたいよね
庵野:画で描いて、動かす……なんていうんですかね、エネルギーみたいなものですかね。日本とはもう桁が違うぐらい当時は差があったと思いますね。1940年代ですもんね。
鈴木:41年。
庵野:戦前、戦中、戦後はもう、やっぱり桁が違うと思いますね。
庵野:ええ。
庵野:日本も東映動画ができてからはどんどん追いついていったと思いますけど。技術的な部分とかそういうのも含めて。でもあの時代はやっぱりアメリカが世界一ですよね、アニメーション技術は。その技術の集大成のひとつだと思いますね。まったく。まあ話は子供向けなんだか、大人向けなんだか、ちょっと、どっちなんだろうってとこはありますけども。
鈴木:あのー、ロトスコープっていうの、アレ? 人間の部分は。
鈴木:あれは正直言うとびっくりしたね、改めて見て。なんかすんげえなと思って。今のみんなが、いわゆるコンピューターでやることを、ああ昔の技術ではこうやってやったんだなって。で、それがあまりにもリアリティがあって。その対照としての虫たちがああやって描かれるでしょ。だから少しそこに世界が違いすぎるから違和感があって。
庵野:ああ、それはよかったです。
鈴木:人間のほうがすごく見えちゃったんですよ、僕は。だから、いきなり虫になると漫画になるじゃない。それが、もっと人間を見たかったなって(笑)。で、それを人間がやってるんだと思うとドキドキしちゃって。脚だけしか出てこないのに。でもそれが凄かったから。やっぱり機械じゃなくて人間がやったと思うとすごく見える。それと『(崖の上の)ポニョ』じゃないけれど、やっぱりすんごい描きまくってるね。動きまくってるというか。あのー、『カールじいさん(の空飛ぶ家)』。
鈴木:見た?
庵野:まだです。
鈴木:見てない? ちょっと――ちょっとびっくりしたんですよ。これもね、お話じゃないんですよ。隅々までエネルギーが満ちてて。だから絵筆じゃないけれど、コンピューターでやってるんだけど、ひとりひとりのスタッフの持ってる、描きたい、動かしたいというエネルギー。すごいですね。驚きました。そして、やっぱり比較しました。いろんなところと。いま勝てないと思った。で、そういうスタッフがどんどん育ってる。ちょっとすごいです、あれは。
庵野:ピクサー、最近食わず嫌いやめて見るようにしたんですね。
鈴木:(笑)。どうかなあって思ってたんだけれど。ピート・ドクターっていうの、監督のね、よく知ってたんで。ちょっと見ようかなって思ったら。ちょっと全然別のそういう感想持っちゃった。お話とかそれは、まあ、ねえ、置いといて。とにかくスタッフがのびのびと、しかもやりたいだけやってる、やりまくってる。それってやっぱり作品を色々膨らませてるよね。
鈴木:うん、だから、もしかしたら『バッタ君』も、それに満ち溢れてたのかなあって思って。
庵野:アニメーターが多分好きにやってるとは思いますよ。枚数制限なく。
鈴木:一切ないよね、あれ。
庵野:ええ。
鈴木:うーん、やっぱり凄いのか。
内藤:映像に音声をつけるとか、カラー化でディズニーに先を越されてしまって――。
鈴木:彼女が担当なんだよ。あのー『バッタ君』の担当の、あのー……なんていう名前だっけ。
鈴木:ああ、内藤っていうの。フライシャー兄弟が超えようとしたんでしょ?
内藤:はい。けど最終的には越されてしまったんだけど、さっき鈴木さんが仰ってたロトスコープだったり、あとは背景に奥行きを与える、模型を使ってやることで――っていう、そういうセットバックっていう方法を考えて、ひたすら、こう、追い越せーみたいな。
鈴木:チャレンジ精神が厚い人だよね。俺はね、『ポパイ』はね、見てたんですよ。フライシャー兄弟でしょ、あれ。子供のときにね、幻灯機っていうのを買ってもらって(笑)。そしたら付いてきたフィルムがね、『ポパイ』だったんですよ。それでね、初めて35ミリフィルムっていうのを見て。これで回すとさ、動くわけじゃない。それで気になるわけよ、一枚一枚の画はどうなってるのかって(笑)。それが子供のときの体験。それで初めてね、幻灯機をね、色々いじるわけ。どうして動くっていうのを思って(笑)。
内藤:たしかに不思議ですよね。画が繋がってるだけで。それを映しても、なんでそれが動いてるように見えるのかって、すごく不思議で。
鈴木:そうなんだよ。それで子供ながらにね、色々分解したりしてるとね、わかってきたんです(笑)。
内藤:えっ、幻灯機をですか。
鈴木:そうそうそうそうそうそう(笑)。って言ってもたいしたあれじゃないけどね。『ポパイ』って、僕は昭和23年で、戦争が終わって3年後に生まれた身としてはですね、漫画って言うと日本の漫画もあったけど、一方で『ポパイ』だったんですよ。そのぐらい強烈な印象で。だから、まさかその人の、あれが最後の作品? 『バッタ君町へ行く』。だから、興行的に上手くいかなかったわけでしょ。だから、ディズニーってのは商業的に上手くいったからね。
内藤:庵野さんは、あの作品の中でどのシーンが一番お好きなんですか?
庵野:牛の住んでる楽園が、人間の手でこう次々に壊されていくスペクタクルですね。あれがすごい一番。ええ、工事のシーンですね。工事の車とかシャベルとか無機質さと、この右往左往する虫の動きの、このコントラストっていうんですか。そういうのも含めて、大スペクタクルですね。手で描くのを知ってると「よくまあこんなのを……(苦笑)」とは思いますね。それだけでも、もうすごいと思いますね。
鈴木:俺? 俺はねえ、あの屋上へ行ってね、こうやってアメリカは滅びて行くんだなあっていう(笑)。
庵野:結局、楽園ですらも人の手で人工的に作られないと虫は生きていけないっていうことですね。
内藤:当時はもう、ああいう高いビルはいっぱいあったんですか。
鈴木:アメリカはそうなのよ。エンパイアステートビルをはじめ、いわゆる高層ビルがアメリカの象徴だったから。相当昔から造られてんだよね。いわゆる地震の少ない国だったから。
庵野:なぜ「町」だったんですかね、あれね。
庵野:まあタイトルもそうだし、なぜ町を舞台に虫の話をしたんだろう。
鈴木:うーん……。だからまあ多分アメリカっていう国が大きな変化を遂げていった、1950年代、大繁栄を迎えるわけだから。その大繁栄のなかでアメリカ人が見失っていくもの? そこらへんのを予感したんじゃないかな。
内藤:すごい不思議だったんです。そんなに歴史詳しくないんですけど、真珠湾攻撃の直後に公開してるのに、なんでこんな平和というか、一見呑気な話が作れるのかなって。
鈴木:世界大恐慌ってあったじゃない、1929年。結局アメリカの、ねえ、そういうのから始まるわけでしょ。それで結局色々やったけれど、ニューディール政策その他。アメリカは復興できなかったんですよ。ところがヨーロッパが戦場になることによって、その恩恵に預かって、それでアメリカは復興していく。結局その戦争を待つことによって景気回復したんだよね。だから、やっぱりこの映画が作られたころ、アメリカは非常に豊かだったんですね。方や日本は、っていう。貧しい国でしょ。小さな国で。やっぱり宮さん(宮崎駿)なんかもね、およそアニメーションを目指す者はこれを見なきゃ始まらないみたいなそういうコメントを寄せて。
庵野:まあ僕はそう思いますね。少なくともアニメーターは見て損はないと思いますね。
鈴木:なんか、ここのシーンだっていうところはあるの? ここがすごいって。
庵野:全編すごいですけど、やっぱり最後のクライマックスの壊れていくところ。あの虫のモブを一枚一枚描いている。
庵野:あれは凄いですね。
鈴木:俺、どっちが先か判らないけれど、僕は……誤解も与えますが、宮さんの一番すごい仕事って、やっぱり『ホルス(太陽の王子 ホルスの大冒険)』だと思うんですよ。最後のモブシーン。あれ宮さんだよね。いろんな人が縦横無尽に動く。それで空間がどんどん広がっていく。あれはちょっと舌を巻くんですよ。
鈴木:いやー、あれはすごいよね。
庵野:すごいです。
鈴木:こんな風に人がね、動いて、しかも人間の手で描いて、こんなシーンが作れるのかって。最初に見たときにラストシーンどういう人がこの画を描いたんだろう、設計をしたんだろうって。それで後で聞いてね、やっぱり宮さんだってことがわかって。うーん、「すごかったんだなあ」なんていうと怒られちゃうけれど(笑)。
庵野:いやあ、アニメ-ターとしては超一流ですよ。『(空飛ぶ)ゆうれい船』とかも好きですけどね、宮さんの仕事だと。
庵野:東映で、ここはすごいっていうところは大体宮崎駿原画のだったりしますからね。
庵野:大学……いや、高校のときですね。意識したのは『(未来少年)コナン』ですね。その前も好きでは見てたんですけど、なんだろう、ちゃんと見るようになったのはやっぱり『コナン』からですね。
庵野:リアルタイムですね。妹とチャンネル権の争いで、なんとか。
鈴木:えっ、裏になんかあったの?
庵野:裏は『(女王陛下の)プティアンジェ』っていうアニメが。
庵野:1話を見たら、親が続きを見たくなってくれてですね。そのあとは毎週ちゃんと見れるようになった。それまでは『プティアンジェ』でしたからね。
庵野:『プティアンジェ』、オープニングだけ見ればいいんだって。
鈴木:そうなんだ。……それ以来ずっと注目してるの?
庵野:そうですね、あとは『カリ城(ルパン三世 カリオストロの城)』ですね。
庵野:2回見ましたね。僕のほうは田舎だったので同時上映があって、そのあいだはロビーに出て。
鈴木:『カリオストロ』はねえ、たしかにねえ。僕が初めて(宮崎駿に)出会ったころです。
庵野:いいですよね。
鈴木:よく働いてた……。
庵野:あれが(制作期間)半年ってのはやっぱりすごいと思います。
鈴木:作画4ヵ月だもんね。
鈴木:会社から言われたのは3ヵ月で、それで1ヵ月余分にもらって。
庵野:あとでなんかあって「もう1ヵ月あれば」って言ってました。
庵野:あそこは僕にもなんか悔しいって言ってましたね。
庵野:まあ現実的でいいですよね。できる範囲のものに落とし込むっていう。
鈴木:だから……見てて、よく宮さんがね、「理想を失わない現実主義者」って。これ宮さんも言うし、実は元は高畑(勲)さんかなっていう気もするんだけど。ふたりともそうなんだけど、その理想と現実の――なんて言ったらいいかな。微妙にふたり違うんだよね(笑)。微妙に違うんだよ。
鈴木:でもよく覚えてるんだけど――『ホルス』だとね、村があるんだけど、一人狡猾なおじさんがいるじゃない。その人がいることによって村が成立している。(『風の谷のナウシカ』の)風の谷の方はね、300人くらいいて、ああいう悪い人がひとりもいない。
庵野:ええ、みんないい人なんですよね。
鈴木:一種、理想主義に貫かれてるでしょ? それで映画見るとね、高畑さんは一方で現実を映画のなかに入れようとするし、宮さんはその現実は置いといて。ところが映画作り始めると、宮さんは間に合わないと思ったらコンテを変えてでもその映画を完成させようとするっていう現実主義があるのよ。高畑さんは違うんだよね。
庵野:変えないですよね。
鈴木:変えない。それで遅れたときもね、「それは僕には責任ない」と。「それはプロデュースサイドがコンテができたときに把握してるべきだ」って貫くんだよね。映画のなかは非常に現実主義なのに、映画のなかは。やり方は理想主義というか(笑)。
庵野:まったくです。
庵野:なんですかねえ。
鈴木:で、宮さんなんかは非常に面白いって思ったのは、結局、『ホルス』作ったあと、それこそ『コナン』もそうだけど、『ナウシカ』もそうだけど、『ホルス』をひきずるでしょ?
鈴木:高畑さんは違うんだよね。全然違うものを作り始めるんです。
庵野:まあ宮さんのほうが根っこがいい人なんじゃないですか。
鈴木:高畑さんに聞いてみたことがあるんですよ。なんでファンタジーやらないのか、って。そうしたらやっぱり『ホルス』で創造できるものは創造し尽くした、と。でも、唯一その世界に持ち込めなかったのが『思想』である、と言ったんだよね。そうするとファンタジーっていうのはそれが出来る人がやらなきゃ意味がない、それが自分の総括だ、って。僕が聞いて、高畑さんいまになると違うって言うかもしれないけど、すごい印象に残って。だから宮さんが『ホルス』をひきずって。なんかっていうと『ホルス』みたいなのに戻るでしょ、宮さん。
庵野:ええ、基本はそこですよね。ずっと『ホルス』のリメイクをしてるようなね、感じがしますよね。
鈴木:宮崎……オタクとしてはどう思いますか? なんつって。オタクじゃないか(笑)。
鈴木:(笑)。でも面白いよね、そういう宮さんも『バッタ君』のアニメーションの部分って非常に着目してるし。
庵野:やっぱり宮さんは基本アニメーターだからだと思いますね。僕もアニメーター上がりなので。
鈴木:やっぱそこなんだね。
鈴木:宮さんがいま、原画やってるんですよ、自分で。やり始めたんです。本編やってるでしょ、それでその横で美術館用の短編やってるんだけど、「スタッフがいない」って。最初1分でやるって言ってたのが10分になるからいけないんだけど。老骨に鞭打って。でも結構楽しそうに。でももう69なんだよ。アニメーターっていつまで描けるんですか?
鈴木:手が動けば大丈夫? 本人もう動かないって言ってんだけど(笑)。
庵野:やっぱり、目と手ですよね。
庵野:まだです。いよいよ。50代なんて来るとは思いませんでした。
鈴木:宮さん喜んでるよ。「庵野っていくつになったの」って言うから「もう50だと思いますよ」っつったらすごい嬉しそうに。
鈴木:「そうか!」つって。「歳取れっ」って。「俺の苦しみがわかる」とかなんか言っちゃって(笑)。
庵野:僕が50になったら宮さん70じゃないですか。
鈴木:でもみんな……歳を取ってきたんですね……。
内藤:その宮崎さんが「アニメーターをやる奴は見ておくべき」っていうインタビューをしたときに仰ってた言葉を(『バッタ君』の)宣伝の柱にしてたんですけど、やっぱりアニメーターを目指す方って一部じゃないですか。
内藤:もちろん、その人達にはできれば来て欲しいとは思ってるんですけど、やっぱりそれ以外の人に、どう魅力というか、アニメーターは目指していないけどちょっと気になるとか、そういう人に来てもらえるのかなっていうのを考えていて。どうしたら人の心に響くようにできるんですかね。
鈴木:あの作品を?
庵野:僕が『バッタ君』を宣伝するんだったら、ビデオで宮さん撮って、それをテレビで流しますね。ワイドショー枠的なものとかで。それぐらいだと思います。だから『バッタ君』を流すよりは宮さん流しますね。それでこっちにちっちゃく枠でそれを流して、なんか宮崎駿がお墨付き、これ、っていう。そういう風に。
内藤:そこだけ切り取って。
庵野:調子のいいとこだけ切り取って、もう編集して。もう、ほぼ捏造でもいいから、そういう風にして流しますね。それで、あとで宮さんには謝ります。ごめんなさいって。
(以下に続く)
この抗議活動一般について僕は積極的立場ですね。
ただ、思うに、そういう政治的重要事案じゃないからこそ、これだけ多くの人が集まったのかな、とも思う。
「韓流ゴリ押し反対」というのは、政治的なようでそれ自体は政治問題ではなく、「公共的な性格をもつ国内民間企業への批判」にすぎない。だからこそ、特定の政党に関与したり変に利用されることなく、これだけの人を動員できたということはあるだろう。日本人の多くが「政治」より「テレビ」に関心を持っているという事実も、今回の動員に味方した。
「もっと重要なことがある」と言っても、「もっと重要なこと」にはどうしてもキナ臭い政治が絡んできて、ネット上でさえこんな大きな潮流を作れないだろう。その意味では、対韓国の政治問題のとっかかりとして大きなデモを行うには、むしろ今回のテーマがベストだったとすら言えるのかもしれない。
ノンポリ、シラケ世代というものが出てきて、私たちは政治にリアリティを持つことができなくなったのではと思います。
振り返れば60年代、70年代の闘争にあって、おそらく政治はよりリアリティある身体感覚を実現できていたであろうと想像します。
そうであればこそ文化の領域において『特権的身体』なるものを標榜するアングラなんかがでてくる。現状に対する違和感を自分たちの手で具現化しようとしたと。
ところが闘争の祭りが終わって、この違和感は消費活動と直接的なスペクタクルを提供するテレビによって解消されるようになっていったと。
で、政治を知る私たちの大きな手段もテレビで、つまりは私たちは、どんどんどんどん、自分の身体で政治に触れることがなくなった。
劇場的な政治みたいな言葉も一時ありましたね、小泉政権ぐらいから。
もう私たちにとって、政治の現在を私たちの身体でもって変えようという(身体)感覚は極めて遠いものになってしまったんでしょう。
(ネット・コミュニティにおける暴力性も、こうした極端な受け身の立ち方の裏返しと考えられるかも。)
で、今回の抗議活動は、主題がどうあれ、積極的かつアクチュアルな身体でもって、そこに行き、歩き、語った。
先日、南欧ポルトガルの革命後数年の国内状況に関するドキュメンタリーを見ました。
そこで衝撃的だったのは、貧困にあえぐ農家の老婦がかたる、「政治は関係ない。私たちの生活を何も変えない。革命も何も変えなかった。」という言葉です。
ようやく、原発事故も収束の兆しが見えてきたのだろうか。ぼくの知り合いでも東京から脱出した人も多くいて、感受性が強いというのはたいへんだなぁ、と冷静を装っている。このへんはもはや「誰をどれくらい信じるのか」というイデオロギーにも似た問題であり、ぼく自身としては「さすがに東京で死人が出るほどの事態になれば政府も『逃げろ』って言うでしょ、常識的に考えて」と思っているので、自宅で淡々と週明けの仕事を待っているという状態だ。ガソリンがないので週末の日課になっていた映画のレイトショーにも行けない。そもそも上映しているのかどうかも知らないけれど。
それまで意識していなかったけれど、震災当日にほうほうのていで帰宅してからというもの、ぼくはテレビに釘付けだった。通勤中はラジオとTwitterで常に情報を入れていたし、寝室でもUstreamでNHKとTBSを2窓で開いていつの間にか眠りにつくという有様だったのだが、今日、それが途切れたとき、猛烈に不安になった。終わってしまう、と思った。
ぼくは完全に、震災報道中毒になっていた。不安と恐怖を摂取することに慣れてしまい、あまつさえ快楽さえ覚えていたのかもしれない。以前は震度3などという地震がくれば文字通り震え上がっていたぼくだが、毎晩余震に揺すられるうちに「今回は警報が間に合ったな、今回は外れだな」などと緊急速報を値踏みしたりしている。
ネット上にはさまざまな情報が流れている。政府の中途半端な情報開示に憤る人、独自の論で不安をあおる人、美談に触れて涙する人。そうした人々を追いかけ、共感したり、ひとり嘲笑したりしている。
思えば911のときも3日間くらいテレビに貼り付いたが、あのときはすぐに日常に戻ることができた。言うまでもなく、それは対岸の火事だったからだ。
今回、東京は絶妙な距離感にある。最悪の事態が発生すれば、ぼくの日常が吹き飛ぶかもしれない。幸い今のところ身近な人に具体的な被害が出ていないこともあって、この事態がたまらなくスリリングなのである。
仙台空港が飲み込まれていく、あの壮絶な津波の映像が、スペクタクルのプロローグでしかなかったなんて、あのとき誰が思っただろう。
「町は壊滅しています」「死者・行方不明者が1万人を越えることが確実と見られます」なんと魅惑的なセリフなのだろう。
新幹線で数時間の土地で原発が爆発するなんて、誰が想像しただろう。
そのスリルに拍車をかけるのが、計画停電だ。信号機が消え、交差点を徐行するバスやタクシーの緊張感たるや、まるっきりスクリーンの中だ。エレベーターが止まって自室の7階まで階段で上がる経験なんて、もう二度とできないかもしれない。うきうきしてしまう。
今の刺激に慣れてしまえば、あとは倦怠の日々が続くだけだ。聞くところによれば、計画停電は夏すぎまで続くのだという。面倒でたまらない。経済だって下降するだろう。そんななかで、いったいいつまで被害者の冥福を祈ったり、知らない土地の復興を祈ったりすればいいというのだ。原発の処理には数年かかるというじゃないか。2万人も死んだっていうじゃないか。それを忘れることなんて、できるわけないじゃないか。
冗談じゃない。もう何も楽しめない。もう何も楽しめない。
増田も寄付は大好きだよ! 施すほうじゃなくて、受け取る方としてならね!
なんだか一億総ポトラッチ化が進んできました昨今、増田が由緒正しきネトウヨであったら「ゲヒヒ、次は国を隣国に寄付ですか?」と揶揄の一つも売ってやるところだけどはてサは恐いし、増田はそもそも右翼じゃない。ただの逆張りが好きな女子中学生だ。そう考えて読むと気分いいよ?
流行ものをとりあえずdisとくのはウェブに生きる天邪鬼としてのたしなみだよ! みんなも若いうちは、無闇やたらに反発するといいんじゃないかな?
でも実際twitterとかでこの手の逆張りやってんのは三十代のピザデブハゲ女子中学生たちなので、きみたちの健康と精神に大ダメージを与えるよ! 貧弱な想像力は時にみずからの命を助けるね!
ところでなんでぼくらはタイガーマスクきどりどもが嫌いなのかな?
不思議? ふしぎだよね!? だって、寄付ってすごいいいことなんだよ? ただの偽善じゃない。誰も傷ついてない。与えるほうも貰うほうも、みんな得してる。死んだビジネス用語でいうところのwin-winってやつだね。そうそう、未だに会議でwin-winなんていう単語出してくる上司をみかけたら、さっさとその会社の四階から飛び降りたほうがいい。
なぜか。
まあそんなことは上でさんざん申し述べてきたように、ぼくらが「どうしようもない天邪鬼だから」で済むんだけど、世間はそれじゃあ納得しない。反対するなら説明すべし。感情論は排してな。
と、ぶっちゃけバカに理論的な説明求めるなんてバカなんじゃねえのと思うむねがあるかもしれない。けれど、ココは天下の往来はてな匿名ダイアリー。またの名を皆殺しの増田。
説明責任逃れは問屋がおろさない。せめて嫌悪感の根源くらいはつきとめないといけない。
とはいうものの、「なぜ私は寄付ブームが嫌いなのか」を論理的に説明するのは、おそらくアジを三枚におろすより難しい。
この手の喧嘩でよく使われる殺法は「だって被寄付者が迷惑がってるじゃないかやめてあげなよ白豚野郎」と「親切の押し売り、大きなお世話」を強調するやりかただ。
ここでぼくら天邪鬼は施す物-施される物、という図式を瞬時にして加害者-被害者という関係に塗り替えることでスペクタクルとカタルシスをおぼえるんだけど、それで非難される無辜の大学生ボランティアとかはいい迷惑だよね! いい気味ですね!
そう、善意の悪人は悪意を自覚している悪人よりも罪が重い。なんだかよくわからないけど、ぼくらはそう信じちゃってる。漫画か何かの影響ですよね。あるいはお母さんについて、何かトラウマがあるのか。
まあ、ともかくしかし、タイガーマスクについてはなかなか「迷惑してる」という話は聞かない。少なくともビル・ゲイツより広くておーつねさんより狭い増田の観測範囲では、見当たらない。被害者は存在しない。まあ「あの手の寄附行為ばっかり報道されて恒常的に寄付を行なっている人たちが無視されてる」って声もあるけど、そんなもん、もともと無視されてたわ。
「みんなが得した」ここが、今回の件でやっかいなところだ。火のない所に煙は立たないし、煙が高いところにのぼらなければバカもまた踊れない。
さて、実はここに今回のぼくらが抱えるフラストレーションの一端が隠されている。
つまり、「いつもとおなじように偽善者を叩けると思ったら、おあずけくらってしまった」ってわけ。これってとってもストレスフルな状況じゃない? 犬みたい? 哺乳類と比べられるだけマシさ。
偽善ってなんだろうね? 寄附行為に限定して考えてみよう。広辞苑の定義を持ってくるのは、頭の悪い学生にやらせておけばいい。ぼくらには集合知の究極体、wikipediaさんがいるのだから。
「寄付(きふ、本来の用字は寄附。寄付は代用字)とは、金銭や財産などを公共事業、公益・福祉・宗教施設などへ無償で提供すること」
「無償」とはつまり、見返りをもとめないということだ。税金控除される時点で見返りもクソもないだって? まあ、それはここでは関係ないから頭から弾いてくれ。
この議論は彼らが「見返りを得ているか」の一点に集約される。
もちろん、違うよね? 物質的な恩恵はもちろん、名誉すら得られない。だって、匿名だもの。キャラクターだもの。「タイガーマスクはえらいですね」っていくら古舘さんがつばはいてコメントしても、それは神奈川県在住の庭師・津田大介さん(48)を褒めたことにはならない。まあ、2chでアンカもらえたときみたいに「存在すること」の承認を貰える快感はあるかもしれないけど、自己承認欲求そのものが満たされることはない。ランドセルは一個9000円。六つで54000円。あなたは2chでアンカもらうためだけにこれだけの金額を払おうと思う?
でも、実際金髪……津田さん(仮名)は「いいこと」やったじゃん。子どもたちの反応はともかく、施設は受け入れてるじゃん。全然ひとりよがりな自己満足ちゃうやん。
自己満足っていうのは充足してるってことです。いわゆるリア充。
はいみんな思い出してー。
っていうか、今回に限らず「ボランティアフォビア」だの「NGO死ね」だの「人権団体とか環境団体とかバカヤロウ」だのを表層だけで叩いてるとか、
っていうか、ぼくらが何者かを叩くときの原動力は、たぶんだいたい、コレ。
だって妬ましいじゃないですか。嫉ましいじゃないですか? 死ねばいいじゃないですか?
自分が善人だって自覚するのはなにより強烈なうぬぼれですよ? ましてや、ヒーローに自分をかさねて? 「悪ふざけだもん」ってみんなにバレバレな形で照れ隠ししてたりして?
ハンッ!
そんな綺麗事、罪じゃないわけないじゃないですか。
彼らはまごう事無き「善人」であるからこそ、叩かれるに値するのです。
それがイヤならアラを探すんだ。マスクどものアラを。徹底的にひとりひとりの素性を洗いだして、瑕疵を探しだせ。これだけいるんだ、ひとりふたり後ろめたいのやら奇抜なのやらは混じってるだろう?
特殊な例を普遍化しろ。延焼させろ。大火がみたい。燃やし尽くせ。
でも今回はそれが通じるかしら? しょせんは匿名が個人を葬るための技術。
匿名が匿名を殺す、新しい時代の戦争に対して、ぼくらはあまりに無知でありすぎる。
試験対策も何もなく、ただ歴史を教養として知りたい・学びたいってんなら、文学として捉えるのが一番取っ掛かり安いと思う。
これ以上ないくらい大スペクタクルな人間ドラマが展開してるんだからさ。
大河ドラマ見るでもよし。
歴史小説読むでもよし。
その中から気になる人物や事象や土地があればそこから歴史を掘り下げていくといい。
好きなこと・興味あることってのは一番あたまのなかにスラスラ入ってくる。
最初っから全体像を通して通史を理解して・・・っていうより、連続短編小説だと思って好きな土地の好きな時代からwikipediaでも何でも読んでみると覚えがいいんじゃないかなあ。
正誤は二の次で。
ただし常にその描写が誰によってどんな媒体に書かれているかを頭の隅で考えながら。
(これをしないと、まったく違う意見に出くわしたときに脳内がついていかない)
必要なのはモチベーションの維持。
そのためには好きで居続けること。
面白ければ興味は尽きない。
試験なんてもう無いんだから、好きなように学べばいいんだよ。
かつては「家」というシステムがきちんと運営・循環されていた。
しかし「家」から出て行く自由を許し、
「家」というシステムを成り立たせる構成員=家族がいなくなった為,
っていう過去の上に今が乗っているよね?
「かつて」をスペクタクルで見せてくれる。
それでいてその描き方が「ペシミストになれ!」って方向ではないから、
カタルシスでやってくる。
お婆ちゃんが亡くなって、「仇討ちだっ!」って男たちが活気づいて、
最後、「家」はそう快に半壊すんの。
アラワシの直撃は回避するんだけど、衝撃波はあって、ちゃんと半壊する。
でも、みんなぴんぴんしてんのね。
そういうプロットは良いと思う。
でも何が惜しいかっていうと、主人公の健二でね。
「なんで健二を主人公にしてるのかなぁ?」とついつい言いたくなってしまう。
時かけの時にも思ったけれど、「我が身を削って物語を顕現させる」っていう
姿勢ではなく,大多数の当たり障りのないところに落とし込むのな。
それだったら、佳主馬を主人公として、夏の娯楽映画として、
少年の成長物語として構成した方がよっぽど素直に観れたよ,と思うのです。
健二が旧家に飛び込む現代っ子代表だったら、「自分の家では一人だったので、
この家に来れて嬉しい」っていうのを演出で見せて、受け手に委ねてくれればいいのに、
台詞で言っちゃうしさ。(台詞で言えたら、彼は素直だね。って広がりのみさ!)
健二は数学の天才って設定だけど、それ以上に、あの年頃の男の子で、
ああ素直なのは、きっぱり特異だよ。
健二は裏方に徹っし、格闘ゲーム・チャンプで子供の佳主馬と、健二が
憧れる先輩で女の子の夏希がバトルは受け持つので、それでそのふたりが、
素直に頑張る健二の横顔に、ぽーっとなるから、平衡はとれてるけど。
「今の男の子にとっての家」っていうのを、描き出すには、
健二はあまりにぶれてない(健二は侘助とも対比になんない‥!)
家族の愛情なんて、同じ釜の飯でも喰ってりゃ、後からついてくるもの。
そういうスタンスで作られたこの映画において、健二が旧家の大家族に
受け入れられることはさほど問題じゃない。
(だから健二が素直でさっさと問題解決なのはイイ!)
旧家は壊れて、じゃあ新しい「家」は?
それらは尻すぼみっていうか、別段提起されてなくってさ‥‥
健二みたいな子が、ウチの婿だったら可愛い!って理想の男の子話に
摩り替わっちゃったYO!っての。
ヱヴァを昨日観た。まだ気分がもやもやする。増田で申し訳ないが、世間の絶賛の波に乗れなかった一人として感想を書き留めさせてほしい。(以下ネタバレを気にする人はスルー推奨)
旧作エヴァはとことん愚直に立ち止まって考えるアニメだった。「ぼくが何をやっても人を傷つけるだけだ、だったら何もしないほうがいい」。ロボットアニメの主人公がこんなことを言ってしまったら、物語はどこへも進まないのは誰が見てもわかる。あまりにミもフタもなさすぎる。だけどそこまで言ってしまうミもフタもなさに俺は惹かれた。ロボットに乗って戦う少年少女という「いかにもアニメ」な世界観を提示しながら、そこから視聴者を突き放すのがエヴァだった。
ああ、なのに。それなのに。10年経って帰ってきたのはいかにもヒーロー然とした碇シンジとそれを取り巻く生暖かい級友たち、そして予定調和がいっぱいの「いかにもアニメ」な世界だった。あのメガネ娘が空からシンジに衝突して「メガネ、メガネ…」と地面を撫で回し始めたところで俺はげんなりした。さんざんあれこれ遠回りして、結局戻ってきた場所がここかと。製作者は「アニメ的なお約束もネタとして楽しめるようになったんですよ」というつもりなのかもしれないが、単に居心地のいい世界に帰っただけにしか見えない。メガネ萌えというカルチャーや、美少女が主人公にぶつかるお約束を知らなければ、そもそもあのシーンの意味すらわからない。昔、あんなに「現実に帰れ」といっていたのは何だったのか。安野モヨコの漫画に対して「現実と向き合っている」とか「EVAでやりたくてできなかったことが実現されていた」と絶賛していたのに、そこから何も学ばなかったのか。
アニメの世界には、主人公にとって都合のいい女の子しか出してはいけないという憲法がある。旧作エヴァはその点を一応押さえつつも、あくまでも他者であるというエクスキューズを忘れていなかったと思う。アスカはシンジを最後の一線で拒絶していたし、レイもシンジに完全には心を開かなかった。それに比べて今作は、「シンジが望めば普通にやらせてくれそうな女子」が多すぎる。反吐がでそうだ。
そして何より、正真正銘のヒーローになってしまった碇シンジ。俺が思うヒーローの条件はいくつかあって、理由なく周囲から好かれていること、敵を倒すことに疑問を持たないこと、そしてストーリー上重要でない人の存在を簡単に無視できることだ。ハリー・ポッターは悪人にもそれ相応の事情があるかもしれないなんて考えもしない。「この卑怯者め!」と言って打ちのめすだけだ。エヴァはそんなアニメじゃなかった。敵である使徒も本来は人類と平等の可能性をもった兄弟であり、一方でシンジの一番の敵は父である碇ゲンドウだという背反する設定こそが、エヴァをのドラマ性を高めていたはずだ。それが今作の使徒の描き方はどうだろう。あれじゃただのモンスターだ。特にあの空に浮かぶ球体のあいつ、シンジに心理攻撃を仕掛けた16話の使徒のエピソードがカットされてしまったのが痛い。使徒は憎むべきモンスターだという、ただそれだけで、シンジの心を映す鏡ではなくなってしまった。そんなの悲しすぎる。
今作のシンジは紛れもなくヒーローだった。カッコよすぎるくらいカッコよかった。本当は俺もシンジ君のカッコよさに素直に感動したい。褒め称えたい。でも、最後に一番大事な人の名前を呼ぶのに忙しくてもう一人の重傷者のことを完全に忘れていたところで、俺は動揺してどうしたらいいかわからなくなったんだよ。一番嫌だったのはあの「せめて●●だけは助けたい」ってやつだ。なんだ、その都合よく話をまとめるためだけの安い台詞は。要するに「もう一人の話は次回の映画で伏線回収するので、いまはこっちの人に集中してくださいね」ってことか。物語的にはそれでよくても、俺はよくない。そんな製作者のご都合主義が匂ってくる台詞をシンジから聞きたくなかった。そうやって感情を整理できるようになったんだね君は。立ち止まって考えるのをやめて、物語のために必要な台詞だけを吐けるようになったんだね。それが「大人になる」ことだって言うのなら、エヴァにハマったあの頃の俺を返してほしい。
幸福の科学のアニメじゃあるまいし、あの程度の葛藤を乗り越えたくらいで頭から天使の輪が生えてくるのも気色悪い。こんな鈍感なヒーローが「人間を越えた天使」になるなんて、馬鹿も休み休み言え。正直に言えば、旧映画版でもシンジだけが特別な人間として生き残ることには違和感を感じていたんだが、あの時はシンジがあそこまで自己否定して追い詰められた後だったからまだ理解できた。それがどうだ。こんなに易々とカッコよく天使になってしまう今作のシンジ。現実世界にどれだけの絶望が転がってると思ってるんだ、もう一度「鳥についばまれて左目の飛び出た弐号機」からやり直して来い!
確かに旧作エヴァは病んでいた。エヴァを真面目に自分に当てはめようとすればするほど、自意識でがんじがらめになっていく感じはあった。だけどそこを出発点にして、みんな別のところに辿りついたはずじゃないのか、と思う。自分の場合、旧作エヴァを観ていた頃は熱に浮かされて「エヴァ的なもの」以外への興味をなくしていた。だけどそのあと、エヴァと全然違う面白さを持つ漫画や小説、映画とたくさん出会った。現実の生活にも10年分の変化があった。その中でエヴァという作品と距離を取れるようになり、エヴァを咀嚼して自分の血肉にできるようになっていったと思える。あの時エヴァにはまったほかの人も、それぞれ辿りついたんだろうと思っていた。その出発点が、今作で否定されている気がする。昔の友達にもらった手紙を大事にとっておいたのに、久しぶりに会ったら「あれ、なかったことにして」と言われた気分だ。
『序』『破』を見ていて飽きないのはわかる。映像に惹きこまれるのもわかる。だけど皆、こんな切実さのかけらもない馴れ合い世界で本当に満足なのか。スペクタクルと萌え要素があればそれでいいのか。こんなものが50年後に残る傑作だなんて、何かの悪い冗談じゃないかと俺は思う。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1023673
前回の組曲は曲順書き起こしてくれた増田がいたんだが、今回は誰もアップしてないっぽいので置いとく。あったらごめん。
主にコメント見ながら聞いて書き起こしです。諸々ツッコミよろしくー。
イントロ
本編