はてなキーワード: アニメ映画とは
企画屋のVtuberもいるし、動画勢のVtuberもいるからそこは別にYoutuberとは変わらんよ。
爆食いする奴もいるし、新商品レビューする奴もいるし、ギャンブルする奴もいるし、料理する奴もいるし。
ただ、見てて思うのは俺らもヴァーチャルに対して期待しすぎていた部分もあるし、
冷静に考えてみたらヴァーチャルであることって何かをやるってことに関してはハードルが上がるんじゃないかってこと。
例えば、ヒカキンがエッフェル塔の上からひもなしバンジーしたら「うおおお、やべえええええ」ってなるけど、
Vtuberがエッフェル塔の上からひもなしバンジーしても「まぁ、ヴァーチャルだったらなんでもできますわな」ってなるじゃん。
どれだけすごいことをやったとしても「でもヴァーチャルじゃん」ってなる。
動画系のVtuberも実写系のYoutuberと同じようにペヤングの新作が出たら食って動画出してるけど、
仮に3Dトラッキングしたとしても実写の人間が食う激辛ペヤングの動画の情報量と、Vtuberが食う激辛ペヤングの動画の情報量の差は歴然なんだよね。流れ出る汗も、苦悶の表情も、手の微細な震えも、ほとんどまったく再現できない。
色々見てきて思うのは結局、ヴァーチャルは実写に比べると解像度が低すぎる。
料理系とか現実に対してアクションを起こす系は本気でやればやるほど「実写のパート」に「ガワをくっつけた」ものになる。
そして、ヴァーチャルじゃないとできないことをやればやるほど「でもヴァーチャルじゃん」ってなっちゃうし、
そっちに踏み入れれば踏み入れるほど「CGアニメーションでいいじゃん」ってことになっちゃう。
Vtuberがどんだけ凝っててすごいライブをしたとしてもpixerが本気でライブするアニメ映画作ったら余裕で吹き飛ばされる。
現状、Vtuberの立ち位置って「現実世界にもCGアニメーションにも情報量で遠く及ばない」という中途半端な位置にとどまってる。
実家でボクシングを見ながら両親とアレコレ言いつつチラ見するTwitterはアニメ映画に声優以外が出てくると暴れるいつもの人達で溢れかえっていた。
おジャ魔女の映画だと思って見に行って、流石に途中からおジャ魔女の映画になると思ったら最後までそうはならなかった。
インターネットでの扱いも、ユアストーリーやレディプレイヤーワンにからめてケチをつけるチー牛でいっぱいで見れたものではない。
そもそも、多くの人は実家でこうして家族でテレビを見るわけだが、そこでアニメ映画のスピンオフなんていうオタクしか喜ばないようなものを見せられても困るだろう。
当時見ていた子供はいても、親も当時一緒に見ていたという家庭は少ないはずだ。
自分の子供と一緒に見たところで、子供はおジャ魔女をみたことがないか、見たとしても最近見たばかりだろうから、幼少期の思い出として語る主人公に感情移入はできないだろう。
こんな映画を大晦日に見るのは、オタク同士で集まって映画を見るだけの変わり者か、実家にも帰らない、それか実家に帰っても部屋にこもってテレビを見ているような冷めた家庭で暮らすやつぐらいだ。
ある意味辻褄はあうな。
他のCHが家族で過ごす時間を演出するなら、一人で過ごす連中の方を向いたほうが視聴率は出るだろう。
だけどNHKがそれをやるのは違うんじゃないのか?
お前らはニッチを拾うにしても結局其処にメジャーへの媚を売った形に加工して見せるべきだろう。
ニッチ向けのニッチな作品をそのままで世の中に出すのはNHKに求められる役割じゃない。
受信料を返すべきだろう。
ちょっと古いけど、ベルヴィル・ランデブーとかもフランスのアニメ映画だったな。実写の映画で独自の存在感があるし、ゲーム開発でもアートディレクションが強い印象があるから、CGとの組み合わせも得意だろうし、これからも期待がもてるな。
フラ・フラダンスが爆死しようとしている
事前の予約状況が芳しく無いのである
やはりオタク向けに作られていない、がしかし一般向けにしては絵柄が微妙という結論が出てしまった
集客をディーンフジオカに頼むあたり製作陣の感性がズレ過ぎてる
おばさんにあの絵柄の映画を見ろというのか
罰ゲームに等しい
・誰に向けているのか
・誰にどう思って欲しいのか
ここらへんきちっと考えていないと難しい
細田守は性癖をしまって大衆受けしそうな要素だけぶっこんでとりあえず映画にしたものでキャリアハイなのである
どれだけ良いものであろうが市場がでかくないと映画というのはヒットしないのだ
宮崎駿みたいにオナニーで稼ぎたいというのは無理な話であれは鈴木敏夫という一流の詐欺師がそばにいたからで大衆を騙して売る技術を持ってる必要がある
とはいえ最近はネットのおかげで大衆を騙すテクニックがバレやすくなってきているからジブリが凋落したわけだが・・・
なりたい職業で声優が上位に来たりテレビでナレーションとなればテロップだけじゃなくわざわざ顔出しで自己紹介したり声優がドラマに出るのも当たり前になってきた
こうして知名度や影響力を持てば宮崎駿のせいで芸能人に奪われたアニメ映画のメインキャストもいつか取り戻せるだろう
それもこれも堀江由衣とか田村ゆかりとか平野綾とかこの世代が90年代以上に積極的に顔出ししたりライブしだしたおかげだろ
上の声優やら古いファンから「最近の声優は顔出しすぎ」「個性がない」「芝居の勉強してない」などヒドイ言われようだったのは忘れてねえぞ
この世代が熱狂的なファンを生んで、そのファンが金を落とすから活動の幅はどんどん広がり、その影響で声優志望者を増えていき今の声優の扱われ方がある
それまでの一過性の声優ブームで終わらずにこうして実を結んだのはこの世代が頑張ったからだというのは若い人達に覚えていて欲しい
ディズニー映画に埋もれた名作などというものは存在せず、有名なやつは出来がよく、無名なやつは出来が悪い。
以下、備忘録をかねてウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ制作の長編アニメ映画史を概観したい。
『メイク・マイン・ミュージック』以外はディズニープラスで全部見れる。
おすすめの作品:『白雪姫』『ファンタジア』(ミッキーのやつだけ)『ダンボ』
ディズニー長編アニメの歴史はアニメ史に残る傑作『白雪姫』とともに幕を開ける。この作品はとにかく作画が凄まじく、戦後の日本人が衝撃を受けたという逸話も納得の出来である。著作権が切れているのでYoutube等でも見れるが、できるだけきれいな画質で見たほうがいい。7人の小人たちの非モテ自助コミュニティ描写もピカイチで、増田を見ているような人々は目を通しておいて損はないと思う。
ディズニー映画はこの頃から一貫して「教育的で」「社会的にただしいとされる」物語を描こうというはっきりとした意思を見て取ることができる。そのため、作品の背景には常に制作された時代の価値観が垣間見える。
例えば『白雪姫』の3年後に公開された『ピノキオ』では、主人公ピノキオを導く良心の象徴としてジミニー・クリケットという名前のコオロギが登場する。この「ジミニー・クリケット」という名前はジーザス・クライストの言い換え語らしく、つまりここでは創造主の似姿として作られた人形が様々な誘惑と戦いながらも最終的にはイエス・キリストに導かれ、ただしい人間性を獲得するという物語が展開されるわけだ。
『ピノキオ』自体は退屈な作品ではあるものの、歴史や時代背景を含めて見ていくと別の発見があり、それはそれで豊かな体験である。ちなみに当時のディズニー自身はむしろできるだけ宗教色を薄めたいと思っていたらしく、この辺は社会に要請されてやむなくという側面が強いのかもしれない。
ほか『ファンタジア』中の「魔法使いの弟子」と『ダンボ』は見ていて単純にたのしい良作。『ダンボ』のお母さんの健気さは泣ける。
『バンビ』のあと『シンデレラ』まで長編の物語映画はなく、とくにおもしろい作品はない。とはいえ日本人としては、バリバリに総力戦をやりながらアニメを量産していたアメリカの国力にむしろ驚くべきかもしれない。
この頃の作品群には「丁寧な植民地主義」とでも呼ぶべき傾向があり、具体的にはアメリカ開拓時代の美化とラテンアメリカへの観光的関心、キリスト教的な価値観が三位一体となった教育映画が制作されている。この辺はおそらく当時のアメリカの外交・安全保障戦略と密接に結びついており、いわばアメリカ流の国策映画だったのではないだろうか。
丁寧な植民地主義的な傾向はこの後も非常に根強く、形を変え品を変え、ディズニーらしさの1つの要素として受け継がれていくことになる。
『シンデレラ』は物語の大半を出来の悪いトムとジェリー風ドタバタ展開が占め、あまりおもしろくはないものの興行的には大成功を収め、低迷期の脱出に成功する。
『眠れる森の美女』は『白雪姫』以来の超絶作画であり、これ以降の作品と見比べてもダントツでクオリティが高い。一方で興行的には制作費の回収すらできず、総じて失敗作と見なされたようだ。ディズニー作品の作画技法は『眠れる森の美女』でひとつの頂点に達し、以降はべつの方法論を模索していくことになる。
ほか『ふしぎの国のアリス』のチェシャ猫や芋虫の悪夢的な描写は見たものに強いインパクトを与える。一方で登場人物にだれ1人としてまともに会話の通じるキャラがおらず、集中力の維持が非常にむずかしい作品でもある。
『ピーター・パン』では全能感と成熟の拒絶というYoutuberの原型のようなヒーロー像が描かれる。ピーター・パン症候群とはよく言ったもので、本家ピーター・パンも未成年淫行で炎上する未来を強く予感させるキャラクターだった。
『わんわん物語』では都市的自由を謳歌していた野良犬がペットとして不自由な幸福を手に入れて物語が終わる。ここで描かれるペットたちのむき出しの奴隷根性は、前述の植民地主義と無関係ではない。『ピーター・パン』『わんわん物語』ともにおもしろくはないが、それぞれ見どころのある作品となっている。
おすすめの作品:『101匹わんちゃん』『くまのプーさん 完全保存版』
『眠れる森の美女』のアーティスティックで洗練された描線から一転、『101匹わんちゃん』以降はえんぴつで描かれたかのようなラフな描線で作品が構成されていく。『眠れる森の美女』以上のものを作り出すことが現実的に不可能であり、見劣りを避けるという意図があるのか、あるいは端的に制作資金が枯渇しただけかもしれない。
技法的にはやはり『くまのプーさん 完全保存版』でひとつの完結を迎え、以降ディズニー映画は再び模索と低迷の季節を迎えることになる。
『おしゃれキャット』は金持ちのペットが使用人をブチのめす話で、一方『ロビン・フッド』は貧乏人が金持ちをブチ殺す話だ。この時期のディズニーは節操のなさがすごい。
この時期の作品群の特徴を一言で言い表すならば、「リアリティへの接近」ということばになるだろう。それは一方では作画技法への3DCGの導入というかたちで現れ、他方で物語上では善と悪の単純な二項対立の脱却が図られることになる。
前者は『コルドロン』の奥行きのある大胆なカメラワークや作画法、『オリビアちゃんの大冒険』『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』での部分的な3DCGの導入に見られる。後者は『きつねと猟犬』での人種対立のメタファーとして描かれた動物間の争いや、多人種が共生する複雑な現実を猫の姿を借りて描いた『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』に象徴的である。
『きつねと猟犬』はこれまでのディズニー作品に見られた家畜たちの奴隷根性を初めて批判的に描いた作品であり、『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』と合わせて「社会的にただしいとされる」物語像の変容を見て取ることができるだろう。ただしこの時期の作品群は総じて地味で魅力がない。どうやら創業者ウォルト・ディズニーの死や主要スタッフの大量離脱の影響があったようだ。『コルドロン』は興行的にも大コケし、ディズニーの低迷を象徴する作品となった。
シャーロック・ホームズの翻案である『オリビアちゃんの大冒険』がかろうじて見ていられるという程度で、単品の映画作品としておもしろいものは少ない。『オリビアちゃんの大冒険』では、冒頭からネズミ女児のパンチラという一体どこに需要があるのかわからない謎サービスカットがあり、視聴者の集中力が乱される。
おすすめの作品:『リトル・マーメイド』『美女と野獣』『アラジン』
この時期ディズニーは批評的評価・興行収入の両面で復活を遂げ、一般に「ディズニー・ルネサンス」と呼ばれているらしい。本稿でもその表現に従う。
たしかに作品のクオリティは過去10年とは比べものにならないほど高く、ルネサンスと呼ばれるのも納得の時期である。一方で技術革新や価値観の変容は停滞気味で、歴史の流れとしてはさほどおもしろくないというのが正直なところ。ルネサンスの言葉通り、ある種の保守回帰の時代に当たる。
おそらくこの時期、真に革新的だったのは、作品の表層に現れる技術やテーマ設定ではなく、安定して高品質な作品を量産する社内の体制や組織づくりの技術にあったのではないか。
個別の作品として語れる部分は非常に多く、『リトル・マーメイド』は作画がよく、『アラジン』は見ていてたのしい。
『美女と野獣』でははっきりと他者理解をテーマに打ち出し、また女性主人公が男性からの求婚を拒絶する主体性を獲得するなどプリンセスものとして出色の出来栄え。他者を尊重することを覚えた野獣が救われ、他者の存在を最後まで容認できなかった村のヤンキーは破滅する。主人公が読書好きでヤンキーと話が合わないインテリとして描かれる点も珍しい。ただしこの他者理解はプリンセス側に一方的な負担を強いるかたちとなっている側面が強くあり、なかなかむずかしい部分もある。
『ポカホンタス』は白人によるアメリカ侵略・植民地化を矮小化し美化するかなり最悪のお話で、案の定ネイティブアメリカンの民族系団体にかなり怒られたようだ。引き続き怒られてほしい。
『ターザン』もインディアンをゴリラに変えただけで『ポカホンタス』とほぼ同類型のお話ではあるが、最後に白人研究者たちがゴリラの部落に居残ることでギリギリのバランスを取っている。ここにはターザンとポカホンタスの男女差が絡んでおり、単純にターザンのほうがいいとも言いがたい。
『ノートルダムの鐘』は強引にハッピーエンド化されているという不満はあるものの、子供向けの大作映画で障害者の活躍を描いた点は積極的に評価されてよいだろう。そもそもディズニー作品には『ノートルダムの鐘』以外にも障害者がやたらとよく出てくる。アメリカ社会には障害者を積極的に受け入れる土壌があるからできるのだとは思うのだが、日本のコンテンツおよび社会全体でも頑張ってほしいポイントである。東京ディズニーランドでもべつに障害者見かけないし。
そのほか『ムーラン』『ターザン』ではそれぞれ3D技術の進歩を見て取ることができる。
みたび低迷期である。『ダイナソー』に代表されるように3D映画への本格的な移行が始まり、2D映画最後の全盛期に当たる。
作品としては『リロ・アンド・スティッチ』がずば抜けてすばらしい仕上がりで、商業的にも大成功を収めた。『リロ・アンド・スティッチ』は王子様に救われるというプリンセスものの物語類型とは異なる、弱者同士が助け合う疑似家族モデルを明確に示した重要な作品である。
自分の欲求をうまくコントロールできない少女リロと、破壊衝動を植え付けられ誕生した人工生命体スティッチが、貧困家庭のネグレクト問題とSFアクションを背景に成長していく姿が描かれる。キャラクターデザインはかわいらしく、作画から細かい小ネタに至るまで非常に丁寧に作られており、娯楽作品としてもすばらしい。リロの姉・ナニの恋人もいいヤツで好感が持てる。
残念ながらディズニー映画ではこのあと疑似家族的な想像力は発展せず、プリンセスものという旧来の枠組みのなかで無理やり「価値観のアップデート」を図ることになっていく。
『アトランティス 失われた帝国』はディズニー映画には珍しく人がバンバン死ぬ作品で、ふしぎの海のナディアや宮崎作品みたいなものをアメリカ人が真似して作るとこうなるのかといった印象。ガバガバ設定とご都合主義が目につき、リアル路線なのかファンタジー路線なのかどっちつかずの失敗作だった。ただし主人公にオタク青年が採用されている点は注目が必要で、これ以降ディズニー主人公はイケメン・マッチョではなく非モテ・オタクが主体となっていく。
『白雪姫』で人間扱いされていなかった非モテの小人たちが「社会的にただしいとされる」物語の主人公となる時代を迎え、しかもそれが日本のアニメの強い影響化で発生しているわけで、価値観の大きな変化を感じ取ることができる。ただし、『白雪姫』の王子様はあれはあれで人間味のかけらもない平板なキャラクターではあるので、モテ非モテという面ではそこまで単純明快な話ではない。
『ブラザー・ベア』は殺した相手の子を育てるというなかなか攻めたお話ではあるのだが、最終的にファンタジーに着地するせいでどうも軸がブレる。
続く
25年くらい前に某地方の信用金庫主催(?)のアニメ映画鑑賞イベントがあって、親に連れられて観に行きました。
当時自分は5歳くらいでした。
映画館ではなく、講演とか演奏会とかが行われるようなホールで上映されました。
(なので、実際にその時期に映画館で上映されていた映画かどうかは分かりません。)
(そもそも映画だったのか、というのも曖昧です。長編アニメという意味でここでは映画と書きます。)
覚えている内容は以下の通りです。かなり曖昧かつざっくりで、記憶違いもあるかもしれません。
・人間の子ども(もしくは、人型の動物の子ども)が5~10人くらいで遊んでいた。
・ある子どもが虹の裏側(?)に行くと何か起こると聞き、みんなで向かう。
・実際にみんなで行ってみたところ、謎の力によって、子どもたちが数グループに分断され、
・各グループ、仲間と合流し、帰るために行動する。
・あるグループは北極のような凍り付くような場所に飛ばされる。
・あるグループ通しで、合流できそうになったところ、また謎の力で飛ばされる。(結構な絶望感)
・最後はなんやかんやで合流できて、何かの欠片を持ちながらみんなで円になって、「くっつけ、くっつけ、命の地球」みたいなセリフを何度もみんなで復唱して、その甲斐あって無事に帰れて(覚えてないけどたぶん帰れたんだと思う)おしまい。
「君の名は。」フォロワー映画として視聴前の期待は低かったけど見てみたら悪くなかった。むしろ面白かった。
・反抗する大人が入国管理局でイマ的(メンバーは外国人労働者の子供と知り合って守るために『戦争』になる)
・実習生問題、ネットでの誹謗中傷等、現代の社会情勢がシナリオに盛り込まれてるがシナリオのアクセントとして取り入れられてるのであって決してそれらの問題を解決しようとキャラが動くのではなく、邪魔になってない
・前作となる宮沢りえの実写版「ぼくらの七日間戦争」の戦車に対比するクライマックスの脱出法は夢があって良かった
・偽RADWIMPS(アーティストさんには失礼だけどこの挿入歌が「君の名は。」フォロワーと呼んでしまう所以)の挿入歌は笑ってしまった
もうちょっとな点
・作画が凄いというシーンはない。「君の名は。」は無理だとしてもクライマックスシーンだけでも超絶作画で見たかった
・エンドロールで流れるキャラの後日談がヒロインしかないのが不満。メンバー7人全員の後日談を描こうよ!立てこもった炭鉱がその後どうなったかも気になる
・このシナリオならキャラ設定は高校生ではなく中学生で良かったと思う。高校生が「子供舐めんな」とか「大人は勝手」とか言うのは違和感
批判意見として「現実で一生懸命仕事してる入国管理局の人たちを悪く描くな」みたいなものがあったと思うが、それは気にならない。
遅ればせながら「竜とそばかすの姫」を見てきた。ネタバレが嫌だったので、事前に紹介記事も読まなかったし、どんなストーリーかもろくろく知らなかった。
鑑賞後にいくつかの感想ブログを読んだのだが、「映像や演出はすばらしいが脚本がダメ」という評価が多かった。自分も同感である。
おそらく最大の要因は、ネットの世界とリアルの世界との分断が激しすぎて、どちらの世界のキャラクターにも全く感情移入ができないことだろう。ネットでは暴れん坊の竜とネット自警団との戦いが続く一方、リアルでは陰キャ女子高生を中心としたラブコメもどきが進行する。
両方の世界の繋がりが緩いせいか、それぞれの世界に登場するキャラクターの行動原理が読めない。「コイツはなぜこんなことを?」という疑問が解けないまま、ストーリーは進行しつづける。
そして、多くの評者が指摘するように、物語の終盤にかけて脚本の破綻は顕著になる。児童虐待を受けている兄弟を父親から救うために、大人たちに見守られながらなぜか一人で関東へ向かう主人公。なぜか主人公に気圧されて、呻きだす兄弟の父親。兄弟たちが一体どうなったのかも観客には知らされないまま、さっぱりとした顔つきで故郷に戻ってくる主人公。竜とくっつくのかと思いきや、イケメンの幼馴染といい感じになる主人公…なんでやねん!!!
というわけで、本作に不満は多々あるのだが、同情すべき部分もないわけではない。一部で指摘される細田守の「制度」に対する理解の欠如という点だ。要するに、細田の作品世界のなかでは、福祉制度が無能かつ無責任に描かれてしまうということである。しかし、これは現代日本の映画事情を考えると、おそらくやむを得ないところだ。
そもそも、物語と制度とはあまり相性が良くない。物語は多くの場合、主人公の決断や行動でストーリーが展開していくし、視聴者や読者もそれを期待する。名探偵コナンの犯人が警視庁のローラー作戦で逮捕されてしまうと、興ざめもいいところである。見ている側としては、コナン君の活躍で事件が解決するのを見たいのだ。
そういう物語と制度との相性の悪さを補うための一つの方法が、制度の中の人を主人公にする、もしくは制度の中の協力者を登場させるというものだ。
だが、現代日本のアニメ映画において、児童福祉施設の職員を主人公するという選択肢は果たしてありうるだろうか。「おおかみこどもの雨と雪」はやや例外としても、ヒット作を目指すのであれば、主人公はどうしても高校生以下でなくてはならない。その縛りが脚本に大きな制約を生んでいる。
仮に児童福祉施設の協力者を登場させたとすれば、ストーリーの説得力自体は増すものの、ラストあたりの展開は協力者に解決をぶん投げる形になり、主人公の出る幕はほぼなくなってしまう。それでは、エンターテイメントとしてのカタルシスに欠ける。
つまり、児童虐待のような現実社会と地続きの問題を登場させるから、脚本のいびつさが目立つのだ。子どもの貧困を描いた新海誠の「天気の子」にも同様の問題が指摘できる。
現実社会には現実社会の解決策がある。それを一足飛びに高校生に解決させようとするから、脚本に無理が生じる。主人公たちを活躍させるためには、制度を無能に描き、リアリティを欠いた解決策をひねり出すよりほかない。
だから、細田守にせよ、新海誠にせよ、作品の主人公には大人しく世界を救済させておけと言いたい(それが嫌なら、主人公は高校生以下でなくてはならないという縛りと戦え)。
隕石が降ってくるとか、人工衛星が降ってくるとか、そういう超緊急事態を前にすれば制度は実に無力だ。だからこそ、主人公やその仲間たちの超人的な活躍が光るのだ。そして、世界を救うだけなら、より長期的には必要になる制度的(かつ地道な)解決策についても考えなくていい。
というわけで、高校生以下を主人公に据える限りにおいて、セカイ系の物語にはそれなりに有用性があるのが理解できたことが「竜とそばかすの姫」を見た最大の収穫だったと思う。