名前を隠して楽しく日記。
メーカー企業は地価の安い地方に開発製造の拠点を持っているから、そこに何十年も勤める感じ
工場のライン工だけじゃなくて、旧帝大卒の開発マネージャーとか研究職とかも同じ敷地で働いている
何いってんのこいつ
そもそも「親ガチャ」という言葉が世の中に知られたときに、多くの人がその表現に違和感を覚えず「言い得て妙」だと感じたからここまで広まったんじゃん
言葉にしてしまったら、何か一線を越えた感じがあるってのはあるからな。文にするなり、喋るなりすると、頭の中で整理が行われてしまうから、具体的に何か動かねばならない衝動も出て来てしまうし。
育休中旧帝理工修士卒女より
大手メーカーJTC勤務の技術職で育休中(産後1年or翌4月の復帰予定、保育園空いてるかな?)の女です。宮廷理工修士卒、30代前半、性格診断はINFJだよ。
大手メーカーでは女性社員が普通に産育休を取り復帰しています。また、コロナの影響もありますがフレックスや在宅勤務など年々制度も整ってきています。自分も学生の時は男の人より頑張らないと会社で生き残れない!!!って思ってたけど多分そんなことはないと思う。
わたしが観測している数年に渡りマジで何も成果を残していないおじさんがたまーにいて、わたしたちの1.5倍以上の給料をもらい続けています。恐らくわたしが観測していない期間もそうだっただろうし、産育休で戦線離脱する期間どころの騒ぎじゃない。日本企業すごい。そういう意味では外資より終身雇用の慣習が残る JTCがいいんじゃないでしょうか。意見求む。
確かに男性の後輩が先に昇進したりすることは今後の会社員人生であり得るとは思いますが、そもそもある程度の規模の企業だと実力主義で男性の間でも昇進順普通に入れ替わってるのでそこは気にしなくてもいいんじゃないでしょうか。
標準的な会社員として長く籍を置いて、産育休で正当な期間を戦線離脱して、復帰後も普通に真面目に働きたいという人なら何ら問題ないと思います。
周囲の男性に一切負けたくない、圧倒的なキャリアを求めるのであれば子供を諦めるなど何かを犠牲にしないといけないかもしれません。自分は定年まで正社員の仕事を持ちつつ2人以上の子を出産したかったので憧れだったD進挑戦を断念して修士で出ました。女性にはどうしても出産しやすい年齢があるので仕方ないと思いましたし後悔はないです。
入試女性枠は個人的にはセンスないな〜とは思うけど、増田が感じている悩みとはまた別かなと思いました。とはいえ昔から難関大の穴場学部とかあるしそんなものなのでは?
男より女が能力低いのに昇進する〜ってコメントも見たけど、女が無茶な下駄に乗せられているのはまともな企業では可能性低いから資格等のカタログスペック以外のコミュニケーション能力の問題では?と思いました。
自分は女の中ではコミュニケーション下手な方だと思っているけれど、男女比8:2の理系集団に混じるとなんと!コミュ力が上澄みになります。
頭良くて仕事も早くてクオリティ高いのに最低限の報連相すらできない人、はあるあるだと思う。有能なのにもったいない後輩や同僚のフォローをしたこと何度もあります。男女比8:2なのでサンプル数に偏りあるけどそういう人は十中八九男です。そして職場で評価されるのは個人で優秀な人と周囲との調整力がある人の両方だと思います。
35歳 女
婚活辛いし、結婚できる気がしないし、よしんばこの活動の末に結婚したとしても独身のが絶対幸福だろうという確信がある
でも世間から老後の孤独がどうのこうの脅されると、不安になって婚活してしまう
子供いなきゃ結婚しても意味ね〜だろとか想いつつ見合いを申し込んてはことは断られ安くはない月会費を払うつらさよ
本当は見合いしてる時間で、副業して老後資金里貯めるべきだとわかって入るんだ
みんなもそうでしょ?
もう本気の本気で苦しいことは書いたら洒落にならない。
「匿名だから身元がばれない」ことなんて話しやすくなる要素にはならない。
自分の中に必死で蓋をしているものをうかつに文章化なんかしたらおそらく何かが壊れる。
「愚痴を誰かにきいてほしい」「解決法を教えてほしい」「話して楽になりたい」なんて思える段階はとっくに過ぎてる。
「墓場まで持っていく」という言葉があるが、まさに誰にも話したくなく、話してもなんの解決にも慰めにも気晴らしにもならない、本当に一生自分の中で隠すしかない苦しみ。
そのじいさんが亡くなった。
昨年に父が亡くなり、私の実家は車を処分したので、実家に帰省するときはレンタカーを予約する。この連休もそうした。
安いので、地元の自動車修理工場がフランチャイズでやっているインディーズ系レンタカーにしてみたら、受付してくれた事務の親切な女性は、レンタカー約款を読み上げる間中修理工場から爆音で流れてくる演歌のUSENに向かって突然「ああうるさいっ!」とブチぎれ、「あなたもうるさいと思うでしょう!?」と私に同意を求め、同僚に修理工場につながるドアを閉めさせると、「最後に乗っていたのは平成15年式のBb(みんなの地元のDQNがよく乗ってたやつ)です。令和になってもまだ乗ってました」というある意味SDGsでは? みたいなことを平気で言う私に、令和2年式フィットハイブリッドという、まさに隔世の感というほかない車の操作方法をとても丁寧におしえてくれた。
そんな調子で車を借りて帰ったところ、母に、「同じ町内会のじいさんと私を、車に乗せて買い物に連れて行ってほしい」と頼まれた。
正直、ちょっと嫌だった。母はよく知っている人に違いないだろうが、私はそのじいさんをほとんど知らない。まさにあいさつ程度のイチゲンじいさんであり、むこうも私を同じように思っているだろう。そのイチゲンじいさんを車に乗せて買い物に行く…気が重い。万一大事故になったらどうしよう、面倒だなあとか、そもそも知らない人が苦手…などと種々のことが頭をよぎったが仕方がない。年齢的にも立場的にもそんな子どもじみたことは言ってられないので、私は母の申し出を受け入れ、じいさんと母を買い物に連れて行った。母には一瞬「ええ…」みたいな顔をしてしまったが、じいさんの前では全力の快諾顔を心がけた。
実家の所属する町内会は、会の中でまた数ブロックにわかれているらしいが、母らのブロックだけ会費が余りがちのため、いちど寄合(=飲み会)でぱっと使おうということになったそうだ。じいさんはブロックの会計掛で、だから買い出しにゆくとのこと。90代のじいさんが町内会の財布のひもを握る、これが種々の法律の目的条文に言うところの「少子高齢化の進展」ってやつだなと思った。なお、飲み会の予定は明日とのこと。何もかも急だ。
母とじいさんは、かごいっぱいに酒やつまみを入れた後になって、急に予算に収まるか心配しだし、その場で減らそうとするので、「レジ通して予算越えた時点で減らしてもらったらいいですよ」と私は横から口を出した。買い物は予算ぎりぎりにおさまっており、母は、じいさんのことを「さすが!」と謎にほめ、じいさんもまんざらでもなさそうだった。
じいさんは先述の通り90代、母は70代なので、畢竟ひとり30代の私が荷をせかせかとトランクに積み、これで一安心と思いきや、ついでに寿司の予約にも連れて行ってほしいというリクエストが出た。一瞬「マジか…」と思ったが、乗り掛かった舟というかもうすでに乗っている船なので、ニコニコ笑って「いきましょう!」とうけおい、ナビに寿司屋の住所を設定して寿司屋に向かう、その道々、寄合は公民館ではなくじいさんの自宅でやることになっているという話になった。
じいさんは、「もう暑いから、たくさん人が入るとエアコンを入れないといけないかもしれない」と言い、私は「電気代とショバ代として、今日買った酒の数本くらいご自身で晩酌にされても罰は当たらないと思いますよ。余っても最後みんなで分けちゃうんでしょうから、今日先に飲まれたらいかがです? あ、私は絶対誰にも言いません」と真顔ですすめ、それをきいた母は助手席で、じいさんは後部座席で笑っていた。
寿司の予約がすんで車にもどったところで、私はじいさんに「ほかに寄りたいところはないですか?」ときいた。じいさんが大丈夫というので、家まで送っていき、大量の酒を玄関通り越して冷蔵庫の中までわっせわっせと運び込み、私はようやくそこでお役御免となった。
じいさんの家の下駄箱の上には「努力」と彫られた大きな飾り駒があった。それは木工をしていたじいさんが昔手ずから彫った工芸品だそうで、「努力」と書いた将棋の駒というまんがみたいな一品を掘れる人がこんなに近くにいることに、私はいたく感じ入ってしまった。マクロ組めるより努力って掘れるほうがぜんぜんいいな。
そしてその三日後、飲み会から数えれば二日後に、じいさんは亡くなった。布団の中で亡くなっていた。連絡がとれないことを案じた親戚がすぐにかけつけ、発見ははやかった。
その日にはもう私は実家から婚家に戻っていた。母から送られてきたLINEでじいさんの突然の訃報を知らされ、文字通りの突然の訃報ぶりにひどく衝撃を受けたが、母はLINEに「まあ~おとしにふそくはないでしょう」(原文ママ)とも書いて寄越し、その意外なドライっぷりにはちょっと笑ってしまった。
そうして私は、じいさんを買い物につれていくことを快諾し、道中ずっとにこにこして、精一杯ふたりを手伝ったことを、本当によかった…と思った。じいさんのために、というか、自分の精神衛生のために、よかった。すげなくした直後に死なれたら、すげなくしたという自己責任(良心の呵責と言い換えてもいいかも)を背負いきれない程度にはショックだったと思う。
それに、連休のよく晴れた日に、ちょっと妙な三人組ででかけたその買い物、なんだか私には結局楽しく思われたから。
死ぬということが、生きるということから決して遠くはなれてはいないように、死んでしまった人たちもまたそうである、と私は思う。つかずはなれず、なんとなく私の歩様にあわせて、今も隣を歩んでいるように思う。
最初に私をかわいがってくれた人を亡くしたのはまだ私が赤ちゃんの頃、母の親友のお母さん。とても愉快な人で、父との結婚を迷っていた母に、「母(はは)ちゃん、馬には乗ってみよ、人にはそうてみよ、よ」とはげました。そのうちこの世にやってきた私は、母以外の人に抱っこされると、せっかくやってきたこの世の終わりのように泣き叫ぶタイプの赤子だったのに、その母の親友のお母さんにだけはごく機嫌よく抱かれていた。そういう写真が残っている。私は、物心もつかないうちに、おしゃべりもできないうちにお別れした、母に伝えきいただけで自分では何にも覚えていない彼女のことを、いつもお守りみたいに心の中に持っている。赤ちゃんだった私に向けられたその無償の厚意を、つらいときの糧にしているようなところが今もある。
最初に友達を亡くしたのは小学一年のころ、友達は前歯が抜けていて、永久歯が生えてくる前にいってしまった。その子のお母さんは今になっても私に会うと、生きてたらあの子もこんなふうだったのかと思うという。私の節目、節目に、そう思うという。そのとき、友達がわたしの隣にいないという人はきっといない。
父親は私のことが大好きだった。父と母と私の三人で、あるいは父と二人で、父の運転する車でいろいろなところに出かけた。ときには父にさそわれて、その仕事についても行き、こんなに大きな娘さんがいるのと客先に驚かれ、父はにこにこしていた。
父は死ぬ間際までほそぼそと仕事を続け、わたしは彼が亡くなる直前にアポをとっていた客先の数件に、父が亡くなったことを知らせる電話をかけた。はじめて話をした先方は、私が電話をかけてきたことによほど驚き、父が亡くなったとの知らせにしばし絶句した後、あなたのことを先生はいつも自慢そうにしていたと言い、最後には先生がいなくなったら誰を頼みにしたらいいか、本当にお世話になりました、と泣き出した。私は、涙する相手に、○○さんのおかげでほんとうに最後の最後まで誰かの役に立たせてもらって、惜しんでまでもらえて、父はとても誇らしく、ありがたく思っていると思います、と言うしかなかった。でも父は、実のところ、そんなに殊勝な人間でもない上、けっこう変わってるよなというレベルでこだわりの少ない人でもあった。
父が亡くなる直前までLINEをやりとりしていた人たちに、そのままLINEで父の逝去を伝えようとしたのだが、父はLINEのトークをある程度の期間が経つとかならず全削除するという、こだわりのなさを通り越して、ややサイコパスのような一面をもっていた。
亡くなるひと月ほど前、父は、免許を返納することにしたというLINEをわたしに送ってきた。車というものは私たちの思い出の多くを占めており、驚いた私が父に電話をかけると、「薄暮の時間帯に信号の見落としをした。今まで一回もそんなことはなかったんだから、もう潮時だと思った」と淡々と父は言った。あれだけ運転が大得意で、大好きで、アイデンティティの大部分をしめていたように見えたのに、引き際を悟ればもうしがみつない。その、ものに拘らない姿勢に私はいたく胸を打たれたし、これができない老人が多い以上、今もって、父の最も尊敬すべき美点の一つだとおもう。
ただ、電話を切ったあと、今までいろいろなところに連れて行ってくれて、たくさんの送り迎えをしてくれて本当にありがとう、と万感の思いをこめて送ったLINEも、父が、入院後(退院してくることはなかった)母とかわしあった感謝の思いを伝え合うLINEも、亡くなった時には父はすべて消しており、それを見て、私も母もあまりの父らしさに爆笑した。
(ついでに、父が亡くなる前々日まで、もはや執念のトークの削除を行っていたので、トークルームのどのあたりの人たちにまで逝去を伝えるトークを送るべきか見当もつかず、非常に頭を悩ませることになった)
そんな感じの人だったので、この世におおよそ未練というものがあったとは到底思えない。退院の手筈を整え始めていた日の深夜の3時過ぎという、家族がやや油断している上に一番身動きしづらい、マジでどうしようもない時間にいきなり息を引き取ったため、父の死に目にあえなかった母。父の逝去からしばらくして、急に「お父さん、最後に私に言いたかったことなかったんやろか」としんみり言い出したので、私は反射的にげらげら笑って「あるわけないやん」と言ってしまった。死ぬ間際まで律義にLINE全削除を続けた男にそんな情緒があるとはちょっと思えなかったのだ。母もすぐにげらげら笑いだし「そうやね」と言った。
こんなふうに父のことを思い出しているとき、私はやっぱり父がすぐ側にいるように思う、フロアシフトを挟んだスカイラインの、運転席と助手席くらいの距離のところに。
生まれてから今日にいたるまで、誰かの死はいつでもそばにありつづけた。だから死んでしまった人たちも、同じようにいつでもそばにいるように思う。
生きてとなりにいる人のように声をかければ答えるわけではない、電話をかければ出てくれるわけでもない。そうだったとしても、生きている人とはほんの少しちがう居方で、それでもわたしのとなりにいてくれているのではないか、と、わたしはいつも信じる。
じいさんは、私が買い物に連れて行った翌日の飲み会の日、つまり亡くなる三日前、近所に住むばあさんに、私のことを「車に乗せて買い物に連れて行ってくれた。あの子はとてもいい子だ」と言ったそうだ。
それを近所のばあさんから母は伝えきき、今度はわたしにそれを教えてくれた。じいさんがそう言ってくれたから、近所のばあさんは私に「会ってみたい」と言っているらしい。
ありがとうじいさん。よくわかんないけどばあさんも、私に会いたいと思ってくれてありがとう。会おう。
私は今、私に会いたいと思ってくれる人がいるなら、その人にとても会いたい。だから、次の帰省のときには、私は近所のばあさんに顔を見せに行くつもりでいる。
どんだけ悪いんだよ
『りりちゃんマニュアル』が巧妙な悪の教典であることは直観的に理解しやすいが、それを論理的に説明するとなると少し厄介だ。トレーニングついでに批判してみよう。
『りりちゃんマニュアル』と一般的な恋愛マニュアル、もっと広く「教育」そのものは何が違うのだろうか。前者が悪で後者が善だという直観的理解は共感の得られやすいものだと思われるが、両者に質的な違いはあるのだろうか。(あるいは我々の直観が修正されるべきか。私は教育の善性にベットする。)
一般的に、教育は善とされる。功利主義的に言い換えれば、教育の提供は、対象者に適切な知識や思考法を提供することで、彼が(功利的に)望ましい行動を選択する可能性=期待値を高める、ゆえに望ましい。ここで教育という用語に「適切である」という意味が前提されていることに留意する。
『りりちゃんマニュアル』を「(恋愛商法における)情報商材」と一般化しておこう。情報商材、という用語には「詐欺である」という含みを持たせてある。さきの議論を前提として用いて、「情報商材は教育ではない」ことを導出できないだろうか。すなわち、それは望ましくない選択を助長し、功利的な期待値を低下させる、と主張したい。
二者間における快楽の総量を考えてみよう。情報商材によって助長される行動は、「頂き女子」の快楽を増加させる以上に「おじ」の快楽をより減少させる、ゆえに悪である。これは十分な説明ではないように思える。
この立場においては、「おじ」の破産のリスクに対して「頂き女子」の得られる経済的効能はより小さい、と主張することができる(cf.「われわれは豪遊を控え、アフリカに寄付をすべきである」)。しかし、「おじ」に破産のリスクがなければ問題ないのか、「頂き女子」の得られる効能は「おじ」の損失より小さいのか(cf.反出生主義批判)、そもそも精神的充足を無視した仮定に意味はあるのか、などの批判が考えられる。
対象者を広げて、社会全体における快楽の総量について考えることで、問題は解決できそうだ。すなわち、情報商材によって助長される行動は、「頂き女子」の快楽を増加させる以上に社会全体の快楽を減少させる。
この立場においては、「頂き女子」は社会の基盤たる信頼関係そのものを毀損することで、社会に重大な損失を与えうる、と主張することができる。毀損する、とまで主張するには、いわゆる(ほとんど無害な)「恋愛テクニック」とは異なり、「情報商材」による社会関係一般における信頼関係への損害は、二者関係の改善による利益を誤差と見做せる程度に、著しく大きいことを示さねばならない。
一般的な見解としてはここまでとして、以降の実践的な線引きに関しては各界隈の見解に任せるのが適切なように思える。例えば、法的にな詐欺罪の構成要件は
「人を欺く行為(欺罔行為)、被害者の錯誤
、被害者による交付行為、財物または財産上の利益の移転の4つであり、これらの間に一連の因果関係が存在することが必要」とされている。この要件において『りりちゃんマニュアル』は違法とされる。
では、たとえば福祉の観点における線引きはどのようになされるべきだろうか。直観的に、いわゆる「社会的弱者」の特性を騙る行為は規制されるべきだろう。この立場を支持するならば、真に必要な支援を奪うことで快を低下させ、あるいは社会における福祉への信頼を毀損するからだ、というような主張が考えられる。
『りりちゃんマニュアル』は「弱者女性」のバイブルである、というような短絡的な意見が散見されるのは嘆かわしい。りりちゃんは福祉への信頼を毀損することで、彼女たちへ与えられるべき支援を著しく阻害しているのだ。