はてなキーワード: 釈尊とは
https://hokusyu.hatenablog.com/entry/2019/05/28/004203
…われわれは肉食について問われることは覚悟しなければならない。…
まったくエヴァンジェリストの言い回しでありジハーディストの自己正当化の論理である。預言の民が他者に対しても邪教を崇拝しないよう勧め、ときにその宣教も暴力的なものになるのはやむを得ない。路上に爆弾を設置し無辜の異教徒を殺戮することも時には仕方がないのである。われわれは涜神について問われることは覚悟しなければならない。邪教を信仰した結果正しい宗教の信徒に殺害されることは受け入れなければならない。本当にそう言えるのだろうか? 私ならばそうした人とは距離を取りたいと思う。
ヴィーガンは昆虫や植物の生命については無視しているではないか、などの主張である。はっきり言って、このような極論でもって相手をギャフンと言わせたなどと思うのは小学生のうちに卒業してもらいたい。これについては、すでに指摘がある通り「不完全かもしれないが、肉食をするより肉食をしないほうが倫理的である」「そもそも、すべての生命尊重を第一義とするヴィーガニズム以外には無関係」などの反論が思いつく。
違和感は後段に進むにつれ強まり、個人的にはここで最も強まる。適当にググってWikipediaの肉食#仏教の項でも見てくるといい。
釈迦仏の弟子であった提婆達多が違背した原因は提婆達多が菜食主義を戒律に含める主張を釈迦が明確に否定したからであると記されているだけでなく釈迦が亡くなった原因は豚肉の食中毒であるとされている。(肉食を否定する大乗仏教においては豚の好むキノコを使った料理とされている。)
生き物の殺生を禁止する仏教において肉食が禁止されていない事は矛盾であるとように思われるがこれは当時の肉食に関する宗教論争と関係する。仏教の起こった当時のインドにおいては仏教だけでなくジャイナ教などの多くの宗派がアヒンサー(不殺生)を標榜していた。特にジャイナ教においては畑を耕すことによって虫が殺されることなどを指摘し、肉食する、しないにかかわらず生存する限り間接殺を免れぬことを理由に、無食による自殺を最上の行とした。これに対して仏教は間接殺を理論的に突き詰めることの限界を理由に中道を掲げ実際に生き物を殺す直接殺のみを明確に禁じ、間接殺においてはあくまでも貰い物の肉が、殺す所を見なかった肉、供養のために殺されたと聞かなかった肉、自分の為に殺された疑いの無い肉という「三種浄肉」であれば食しても問題はないとされた。さらにここで重要なのは古代仏教において比丘はあくまでも家庭の余った食事を物乞いすることによってのみ食を得るため、肉食=肉の購買による間接殺という矛盾が成り立たないことにある。
仏教において「ヴィーガンは昆虫や植物の生命については無視しているではないか」「肉食をするより肉食をしないほうが倫理的とは言えないのではないか」という主張は釈尊から直々に出ているのである。開祖がやってたことは正しいに決まっている。日本の「反ヴィーガン」空間において先に挙げた2点への非難が他国よりもはるかに強いこと、またその理由をぜひ直視していただきたいものである。これはヴィーガニズム崇拝者が「公の論理」でも「文明人の倫理」でもなんでもよいが崇拝しているドグマが旧約聖書(というのは、仏教の創始よりも後に書かれたものであるが)からの引き写しでありヴィーガニズムは倫理的に進歩した集団でもなく単にキリスト教系の新興宗教でしかない事実を裏付けるものであると言えるのではないかと思う。反論があるものなら聞きたい。
Anno Domini をまるで異教徒がすべて同意したかの如く common era とか改称しようとしている輩と一緒に地獄へ落ちてしまえ。
今の日本は、貧しい人が増え、彼らは明日への希望を見出せないまま生きる。一方で、少しでも豊かで生活が安定している人間は、自分たちの安定した生活を守る事ばかりを考え、困っている人たちを助けようとする人間は少ない。
その結果、日本全体が保身的になり、より一層悪い方向に向かっている。
貧しい人も、豊かな人も、共通して言えるのは、未来に対する不安だ。
そんな日本を救うのは、聖徳太子の時代より日本に伝わる仏教経典である法華経であると、私は信じる。
法華経は、不安に満ちたこの世界こそ、釈尊のおられる浄土であると説く。
本当はもっと楽で、楽しみに満ちた世界に生まれる事もできたのだが、我々は、何の因果か、わざわざこの不安に満ちた境遇に生まれてきた。
なぜなら我々自身に与えられた不安、例えば家族の事とか、仕事の事とか、そう言った問題の一つ一つが、我々に自身に与えられた課題であり、その課題を解決するために我々はわざわざ好んでこの地に降り立ったのだ。
法華経によってそのような考えに至ってから、私は前よりも生き生きと暮らせるようになったし、そうしたら、気持ちの持ちようは実際の生活も変えさえて、以前は貧しかったけれど、どんどん暮らし向きも良くなって言った。
法華経は新興宗教も含めていろんな宗派が信じているから、時には胡散臭く思えるかもしれないけれど、この教えは何も奇跡を必要としない宗教だ。
日蓮宗では、本迹一致を立てている。この本迹一致論は、
天台大師が『法華玄義』に説いた「本迹異なりと雖も不思議一なり」との解釈によるもので、
大聖人様の御教示ではないのです。
迹門という小さな川も、本門の大海に収まれば同じ海水となるという、
決して身延のような本迹二門を対等に見た上での「一致」を説くものではないのです。
大聖人様は『治病大小権実違目』に、
「本迹の相違は水火・天地の違目なり」と、
本門は事の即身成仏なり」と法華経の本迹の相違を明確に御教示されています。
法華経本迹二門は、
その説かれる法体においても勝劣があり、
しかし日蓮宗では、「実相一体」や「本迹未分」という勝手な解釈を加え、
「本迹一致」の邪義を主張していますが、
宗祖の正意に背く謗法の論となることは明らかです。
それを要約すれば、
二、釈迦一体仏
三、大曼荼羅
四、一尊四士
五、二尊四士があり、
このうち一、と三、を法本尊、
二、四、五、を仏本尊とし、
その中心は三、の大曼荼羅と、
四、の一尊四士であるが、
祖書の教示等に照らし、
『此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有(ましま)さず。
末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか』との御文を挙げ、
「仏像出現」の語句によって本尊は仏像が正意であるとしています。
末法の仏像に対する「出現」という表現を対比してみなければなりません。
後の「此の時地涌千界出現して」の御文と同じく、
あくまで現実に現れるということを示されたと拝すのが正しいでしょう。
「此の時地涌千界出現して、
「本門の釈尊を脇士と為す」を「本門の釈尊を脇士と為る」と誤読し、
一尊四士が正意であるとしている。
しかし、宗祖が御在世中に一尊四士の仏像を自ら造立された事実はなく、
との御教示ではありません。
法本尊について御教示された御書に照らして見ればいっそう明らかです。
「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり(草木成仏口決)」
「妙法蓮華経の御本尊供養候ひぬ。此の曼荼羅は文字は五字七字にて候へども、
三世諸仏の御師(中略)此の曼荼羅は仏滅後二千二百二十余年の間、
十方の諸仏は法華経より出生し給えり。故に全く能生を以て本尊とするなり(本尊文答抄)」
日蓮大聖人様の御真意は一尊四士などの仏像本尊にあるのではなく、
【補足】
(二、)釈迦一体仏
三一権実諍論(さんいちごんじつ の そうろん)は、平安時代初期の弘仁年(817年)前後から同12年(821年)頃にかけて行われた、法相宗の僧侶・徳一(生没年不明)と日本天台宗の祖・最澄(767年 - 822年)との間で行われた仏教宗論である。「一三権実論争」「三乗一乗権実諍論」「法華権実論争」などとも。
目次 [非表示]
1 概要
2 平安初期の仏教界
2.1 法相宗と徳一
3 論争の経緯
3.1 論争の発端について
4.2 南都教団への対抗
4.3 中傷者徳一に対する怒り
4.4 蝦夷征討との関係
5 その後
6 注・出典
7 関連項目
8 参考文献
「三一権実諍論」の「三一」とは、三乗と一乗の教えのことであり、「権実」の諍論とは、どちらが「権」(方便。真実を理解させるための手がかりとなる仮の考え)で、どちらが「実」(真実の考え)であるかを争ったことを言う。一乗・三乗の「乗」とは衆生を乗せて仏の悟りに導く乗り物であり、天台宗の根本経典である『法華経』では、一切衆生の悉皆成仏(どのような人も最終的には仏果(悟り)を得られる)を説く一乗説に立ち、それまでの経典にあった三乗は一乗を導くための方便と称した。それに対し法相宗では、小乗(声聞乗・縁覚乗)・大乗(菩薩乗)の区別を重んじ、それぞれ悟りの境地が違うとする三乗説を説く。徳一は法相宗の五性すなわち声聞定性・縁覚定性・菩薩定性・不定性・無性の各別論と結びつけ、『法華経』にただ一乗のみありと説くのは、成仏の可能性のある不定性の二乗を導入するための方便であるとし、定性の二乗と仏性の無い無性の衆生は、仏果を悟ることは絶対出来ないのであり、三乗の考えこそ真実であると主張した。このように三乗・一乗のいずれが真かをめぐり真っ向から対立する意見の衝突が行われた。
ただし、徳一と最澄の論争は三乗と一乗の争いのみに留まらず、教判論(数ある経典の中で釈尊の考え方に最も近いものを問う)における法華経の正統性を問うたものでもあるから「法華権実論争」と呼ぶべきとの考えもある[1]。この論争の間、最澄は『守護国界章』『法華秀句』など大部の著作を執筆しており、これは徳一からの批判への反論の書として書かれたものである。一方の徳一側の著書は、真言宗の空海(774年 - 835年)への論難である『真言宗未決文』以外現存していないため、詳細は不明である。しかし、徳一の主張は最澄側の批判書に引用される形で部分的に残存しており、ある程度の復元が可能である。
いずれにしろ論争は著作の応酬という形式で行われ、実際に両者が顔を合わせて激論を交わしたということではない。
奈良時代に興隆したのは、法相宗や華厳宗・律宗などの南都六宗である。本来、南都六宗は教学を論ずる宗派で、飛鳥時代後期から奈良時代にかけて日本に伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。天台宗は後述の如く最澄によって平安時代初期に伝えられたため、日本への伝来順は逆となったわけである。
この時代の日本における仏教は中国と同様、鎮護国家の思想の下、国家の管理下で統制されており、年ごとに一定数の得度を許可する年分度者の制度が施行され、原則として私度僧は認められていなかった。このことは逆に仏僧と国家権力が容易に結びつく原因ともなる。実際、奈良時代には玄昉(? - 746年)や道鏡(700年 - 772年)など、天皇の側近として政治分野に介入する僧侶も現れていた。桓武天皇(737年 - 806年)が平城京から長岡京・平安京に遷都した背景には、政治への介入著しい南都仏教寺院の影響を避ける目的もあったとされる。新王朝の建設を意識していた桓武天皇にとって、新たな鎮護国家の宗教として最澄の天台宗に注目・支援することで従前の南都仏教を牽制する意図もあった。
日本での法相宗は、南都六宗の一つとして、入唐求法僧により数次にわたって伝えられている。白雉4年(653年)道昭(629年 - 700年)が入唐留学して玄奘三蔵(602年 - 664年)に師事し、帰国後飛鳥法興寺でこれを広めた。
徳一は一説には藤原仲麻呂(恵美押勝とも。706年 - 764年)の子といわれるが疑わしい[2]。はじめ興福寺および東大寺で修円に学び、20歳代の頃に東国へ下った。東国で布教に努め、筑波山中禅寺(茨城県つくば市)・会津恵日寺(福島県耶麻郡磐梯町)などを創建したという。
前述のごとく、徳一の著作はほとんど現存していないため、その生涯は不明な点が多い。
天台宗は法華円宗、天台法華宗などとも呼ばれ、隋の智顗(538年 - 597年)を開祖とする大乗仏教の宗派である。智顗は『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』の天台三大部を著して、『法華経』を根本経典とし、五時八教(仏教の理解度の5段階に合わせて記された経典のうち、法華経を到達点とする)の教相判釈(経典成立論)を説く。
最澄ははじめ東大寺で具足戒を受けたが、比叡山に籠もり、12年間山林修業を行った。さらにそれまで日本に招来された大量の仏典を書写し研究する中で、南都六宗の背景にある天台教義の真髄を学ぶ必要を感じ始め、親交のあった和気氏を通じて桓武天皇に天台宗の学習ならびに経典の招来のための唐へ留学僧の派遣を願い出た。これを受け、桓武天皇は最澄本人が還学僧(短期留学の僧)として渡唐するように命じた。こうして延暦24年(805年)の遣唐使船で最澄は入唐を果たす。予定通り天台山にのぼり、台州龍興寺において道邃(天台宗第七祖。生没年不明)より天台教学を学び、円教(天台宗)の菩薩戒を受けて、翌年(806年)帰国した。
帰国後、最澄は桓武天皇に対し従来の六宗に加え、新たに法華宗を独立した宗派として公認されるよう奏請、天皇没後には年分度者の新しい割当を申請し、南都六宗と並んで天台宗の2名(遮那業・止観業各1名)を加えることを要請した。これらが朝廷に認められ、天台宗は正式に宗派として確立。これが日本における天台宗のはじまりである。最澄はさらに同じく入唐した空海に師事して、密教への理解を深める一方、六所宝塔院(比叡山寺(後の延暦寺)を中心とする)の造立計画を立て、弘仁5年(814年)には九州へ、同8年には東国へ赴くなど精力的に活動する。最澄の悲願は大乗戒壇の設立であり、大乗戒を授けた者を天台宗の菩薩僧と認め、12年間比叡山に籠って修行させるという構想によって、律宗の鑑真(688年 - 763年)がもたらした小乗戒の戒壇院を独占する南都仏教の既得権益との対立を深めていた。
論争の発端となったのは徳一が著した『仏性抄』であるとされる[3]。この書における一乗批判・法華経批判に対して最澄が著したのが『照権実鏡』であり、ここから両者の論争が始まった。
ただし、そもそも徳一が『仏性抄』で論難したのは中央仏教界の最澄ではなく、東国で活動していた道忠(生没年不明)とその教団であったとする説がある[4]。道忠は最澄が入唐前の延暦16年以降、あらゆる経典の写経を行った際、東国からはるばる駆けつけて2000巻もの助写をしたほど親交があり、東国における最澄の盟友的存在であった。道忠自身は鑑真の弟子で、律宗の僧侶であったが、戒壇が設けられた下野薬師寺との関連か[5]東国に住し、広く弟子を持つ僧侶であった。最澄が東国へ下った際には、すでに道忠は没した後で教団は広智(生没年不明)が率いる状態であったが、後に天台座主となった円澄(771年 - 836年)や円仁(794年 - 864年)・安慧(794年 - 868年)らは、もともと道忠の弟子もしくは孫弟子(広智の弟子)であり、道忠との縁から最澄に入門したなど、道忠は初期の天台教団の中で、非常に重要な役割を果たしていた存在であった[6]。
筑波山を開山し、会津を拠点とした徳一が標的としたのは、むしろ地理的に東国において布教を行っていた道忠教団であった可能性が高い。徳一の『仏性抄』の存在を最澄に知らせたのも道忠教団であったと見られる[7]が、異論もある[8]。
三一権実諍論に関する著作としては、
≪徳一側著作≫
『法華肝心』2巻
『法華権文』1巻
『中辺義鏡』20巻
『慧日羽足』3巻
『遮異見章』3巻
『義鏡要略』7巻?
『法相了義灯』11巻
『通破四教章』1巻
『照権実鏡』1巻
『依憑天台集』1巻
『守護国界章』9巻
『決権実論』1巻
『通六九証破比量文』1巻
『法華秀句』5巻
などが挙げられる[9]。論争の主要な流れとしては、
徳一の『仏性抄』(成立年不詳)に対し、最澄が『照権実鏡』(弘仁8年(817年)成立)で反論。
徳一の『中辺義鏡』『慧日羽足』に対し、最澄が『守護国界章』(弘仁9年(818年)成立)で反論。
最終的な結論として、最澄が『法華秀句』(弘仁12年(821年)成立)を著す。
となっている。なお諍論の前期において、最澄が『照権実鏡』で徳一の『仏性抄』を批判したのに対し、徳一の『中辺義鏡』では最澄の反論に全く答えていない。そのため『中辺義鏡』の批判対象としては、書名のみ残っている最澄の著書『一乗義集』ではないかとする説[10]、もしくは道忠教団によって書かれたと思われる『天台法華義』とでも称すべき書であったとする説がある[11]。続いて『守護国界章』下巻における三一権実論に対する徳一の反論として『遮異見章』『慧日羽足』が書かれたと思われ、それに対して最澄が『決権実論』で反論、結論の書として『法華秀句』を撰述したと見られる[12]。
一連の論争の内容は難解で、一乗・三乗の権実のみならず、教判論における法華経や天台三大部の正当性、天竺・震旦の先哲による教義解釈の是非など広範囲に及ぶ。しかし一方では、最澄の教法に対する価値論に対し徳一は仏法理解の先天的素質論を述べており、両者の論争の焦点があまり噛み合っておらず、議論そのものも詳細というよりは瑣末的であり、時折相手側への罵倒に近い表現も見られる(後述)など、すれ違いの印象も与えている。
天台宗側では『法華秀句』の成立をもって論争の終結とする(翌年に最澄は入寂)。論争の歴史を天竺や中国の仏教史まで遡って述べたもので、『法華秀句』の書名は、智顗による天台三大部の『法華文句』を意識したものと思われ、最澄の論争決着への決意が現れている。ただし、これは最澄側の一方的な論争打ち切りであり、徳一側からは決着がついていないとも言える[13]。なお徳一は天台宗のみならず密教に対しても問題視していたと見られ、真言宗の空海に対しても『真言宗未決文』で批判している(なお、これが徳一の著作として現存する唯一の史料である)。
下記は、取り立てて、最澄の書き物に怒りは表明されていないが、法相宗派の学者の何人かは、そのようにとらえているようである。その理由をあえて挙げるとすれば、次の事柄をあげられるが、これも、特にここに特記すべきほどのことではない。参考までに、法相宗派側の意見を以下に述べる。 最澄は、しばしば非常に激烈な表現を用いて論敵を攻撃しており、たとえば『守護国界章』において最澄は、非難の対象である徳一のことを「麁食者(そじきしゃ。粗末な食べ方をする者、半可通のこと)」「謗法者(ほうぼうしゃ。賢しらに法を曲げる者)」「北轅者(ほくえんしゃ。南に行こうとして牛車・馬車の轅(ながえ)を北に向ける者。方角もわきまえぬ者)」などの蔑称で呼び、本名の徳一で呼ぶことは一切ない。どちらかといえば秀才肌で生真面目な感のある[14]最澄が、これほどまでに攻撃的な姿勢で論争に臨んだ背景として、いくつかの原因が考えられる。
最澄は入唐求法から帰国する直前、越州に寄り、密教を龍興寺の順暁(密教の法灯においては傍流に属する。生没年不明)に学び、灌頂を受けている。帰国後も最澄の密教への関心は高く、自身より年少で僧としての地位も低いながら、正統的な密教を学んで帰国した空海に師事することになる。
最澄と同じく804年の遣唐使で入唐した空海は、真言八祖の一人恵果(746年 - 806年)から正統的な密教を学び、大量の経典・法具を携え、最澄よりやや遅れて大同元年(806年)に帰国していた。最澄は空海の招来した仏典を借り受けて密教を本格的に学びはじめ、弘仁3年(812年)には弟子の泰範(778年 - ?)らとともに空海の高雄山寺において灌頂を受け、正式に空海の弟子となっている。さらに泰範らを空海の下に派遣して密教の奥義を学ばせようとしていた。
しかし、弘仁4年(813年)最澄が『理趣釈経』(『理趣経』の解釈書)の借用を空海に申し出たところ、空海が密教の真髄は文章修行ではなく実践によってのみ得られるとして拒絶したため、両者の仲は悪化する。さらに最愛の弟子であった泰範が、最澄の再三の求めにもかかわらず比叡山への帰還を拒み、空海の下での修行を望んだことなどが重なり、両者は義絶するに至った。真言宗側では、これをさかんに吹聴するが、『理趣釈経』は、いわば、後世、淫靡宗教と結びついたものであり、空海がそれを見せたがらなかったのは、故あることであったようである。つまり、密輸入書物とも言えるものであり、かえって、見ないほうがよかったのではないかと思われている。
天台宗に密教の要素を取り入れ、新たな宗派としての地位を高めようとしていた最澄にとって、泰範・空海との訣別により孤立感が深まったことで、南都諸宗に対してより敵対的な姿勢に駆り立てられたともいわれる[15]。なお天台宗は最澄の死後、本格的に密教化することになる(→台密)。
最澄が論争相手とした徳一自身は、若年から東国に拠点を移して活動していた地方僧であったものの、彼が所属する法相宗自体は、当時の仏教界においては主流である南都六宗の中心であった。後世に天台宗の方が興隆していったため、三一権実諍論全体としては、新興宗派の総帥である最澄が、古い法相宗を代表する徳一を退けたという印象が残るが、実際には当時においては法相宗の方が主流派に属していたのであり、最澄はむしろ挑戦者であった[16]。前述のごとく年分度者の割当を勝ち取り、大乗戒壇の設立など、天台宗を確立して南都仏教に対抗しようとする最澄にとって、法相宗の理論家である徳一を説き伏せることは、天台宗の南都六宗への優位を示すことにも繋がるため、より攻撃的になったと、現代法相宗派の学者は考えている。
徳一の『仏性抄』は最澄にとって看過しがたい法華経批判の書であり、この法敵に猛反論しなければ自宗の存在意義そのものが危うくなる。しかしまた徳一にとっても、天台法華宗や密教の擡頭は、彼自身の属する法相宗にとっても、また従前の仏教体制秩序にとっても、異端なのであって、これを徹底的に論破しておく必要があった。徳一は『中辺義鏡』において法華教説や最澄に対して「凡人臆説」「顛狂人」「愚夫」などと悪し様に罵倒している[17]。最澄が『守護国界章』で徳一を「麁食者」「北轅者」と呼んだのはこれに呼応するものであり、互いに自宗派の存在意義をかけた真剣な論争であったがゆえに、ともに中傷めいた表現までもが用いられたともいえる。
宮原武夫(1933年-)は最澄と徳一の論争がここまで大きくなったのは、最澄が当時の朝廷が進めていた蝦夷征討に徳一が「非協力」的とみなしていた政治的問題にあったとする説を唱えている。
最澄が東国に下った際に活動の拠点としていたのは亡き道忠が活動の拠点としていた下野国と隣の上野国であったが、両国は当時朝廷が推奨していた蝦夷征討の兵站基地となっており、更に下野・上野両国から陸奥・出羽両国に対しては国司からの課役を逃れるための逃亡や朝廷による移住政策によって多くの人々が移り住んでいた[18]。蝦夷討伐には徳一の法相宗を含めた南都六宗や東国の鹿島神宮・香取神宮も征討の成功を祈願したり、寺院や神社を建立するなどの積極的な協力を行ってきた[19]。朝廷から天台宗の公認を得たばかりの最澄も東国における蝦夷征討を巡る様々な動きに直面して関心をもったと考えられ、この時の最澄の東国行きに随行した弟子の円仁(下野出身)も立石寺など東北から北関東にかけて多数の天台宗寺院が建立したと伝えられており、最澄とその門人は下野・上野両国を足掛かりに奥羽の人々に対する教化を進めようとしたとみられる[20]。
これに対して徳一の方は会津地方から越後方面への布教活動を進めており、蝦夷征討への協力や蝦夷がいる会津以北の奥羽への布教を示す史料は残されていない。宮原は最澄は『決権実論』の中で「北轅者常に迷ひて、分明の文を指さしめ、南、越の方に向はしむ」と記しているが、これは自分達や南都六宗と違い、蝦夷征討に対して祈祷<
私には生まれつきエゴがないので、個人的な望み(俗に謂う「夢」)がない
人々の洗脳を解いてデモクラシー革命を実現することが望みだが、それは、バイトして金貯めて実現しうるようなことではないし、TNT背負って溜池山王に突撃してもきっと実現しないだろう。バイトして金貯めて革命を実現する話をアニメ化でもしてほしいくらいだ(笑)
どうやったら人々からエゴがなくなる進化が起こるのか、日本人(笑)の近世近代以来の洗脳が解けるのか、判れば苦労しない。むしろ、洗脳が解けないようにして国家体制を実現しているわけだから、そんな容易に洗脳が解けるはずもないのだろうと思う。たとえ成り上がって革命を起こそうとしたところで、見つかったら確実にぶっ叩かれて刑務所に入れられるのが日本スペックなので、もう手の施しようがないのだろう
わざわざ近世近代の呪いを呼び起こして洗脳を強めることを、今の権力者や支配層、既得権益階級がやっていて、もはや滑稽なまでに愚民どもは釣られているようだ。近世近代のことを「日本古来」とかいう阿呆が多いし、そもそも「日本」なるものは古来存在しない。「日本」というのは近代の国家主義概念で、遡ってせいぜい徳川光圀の大日本史が端緒だろう
エゴのない進化を遂げるというのは一種の才能で、天才的なできごとで、ヨーロッパのモダンエヴォリューションに限らず、釈尊(ブッダ)にも起こった昔からあることなのだけれども、人類凡そをみると進化することは決してなく、むしろ幼稚化が進んでいる。岡本太郎が云っていたことも然もありなんと思う
宮澤賢治のいわゆる「雨ニモマケズ」は検定教科書で出てくることが多く、やたらともてはやされてきた。しかし、「雨ニモマケズ」が宮澤賢治自身の信仰の表れであって、いわば宗教であることは、習っただろうか? 習っていないとしたら、いろいろとまずい。国家的にしれっと宗教教育をやっているということであるし、また、正しく教えていないという、まさに学力低下以前の話。
宮澤賢治がなりたかった「そういう人」というのは、ブッダである。欲は無く、いからず(瞋らず)、よく(能く)観聴きする、すなわち貪瞋痴(三毒)の無い、覚った人だ。相談を受けて廻り、調停に入って争いをやめさせる人物。なりたい姿を自ら書いて携帯することで、己への戒めにしたのである。本来の「お守り」、憶持仏のたぐいだ。
宮澤賢治には、肉食(ニクジキ)に批判的な著作がよくある。豚を主人公にしてみたり、人の方が食われそうになる話を書いたりした。農業を研究していたのもおそらくは、肉食をせずとも生きていけるからだ。
そしておそらく、宮澤賢治は、ブッダ(釈尊)に関して事実誤認をしている。史実の釈尊は、雨季安居をしている。つまり、雨季には外を出歩かず屋内で過ごしている。
史実の釈尊は、無理をするなと説いていた。しかし往々にして捻じ曲げられるもので、無理をしたり、苦行をしたりする「仏教」がつくられてしまっている。
それに、和國(日本)に届いた仏教と称するものは、中国の信仰がごちゃまぜになっていて。つまり、儒教が混ぜ込まれている。それは、中国での布教教化のために都合がいいからだし、権力者などが儒教の教義と矛盾しないことを求めたからでもあるだろう。そうして、中国では仏教と儒教が習合し、それが輸入された。ちなみに、中国の技術・文化を受容するためにも、神道も仏教と習合したり、儒教とまぜられたりして、現存する神道も本来のものではない。
ともかく、史実の釈尊も丈夫な身体はもっていたけれども、雨風に勝とうとはしなかった。
教科書にやたらと出てきて「雨ニモマケズ」がもてはやされてきたのは、いわゆる根性論、「頑張る」ということを注入するためだろう。無理をして「頑張る」ことを美化することが未だに行われ、わざわざ公的に教育されている。世(国家社会)のため、ひと(他人)のためには、己を傷めつけることも厭わない、そうした生き方がずっと美化されてきた。世のため人のために自らを犠牲にするという教条は、そもそもは儒教であり、言い方を換えれば軍国教育のようなものだ。要は、階級差別と、全体のために個を犠牲にするという全体主義である。
かように日本とかいうものは未だに政教一致国家なのだけれども、そのことに自ら気づかなかったり、気づかないようにしむけられていることは危険だし、だからこそ、社会の既成構造を優越させて変革を避け、創造性や生産性が低く、そして、自死率は高い。
「世のため」とは人間社会のため、「人のため」とは他人のためなのですから、人間至上主義のエゴイズムがほとばしっていることにはかわりありません。さらにいえば、自分のためでは無いということによってあたかも「エゴイズムではありません」っていう大義名分を得るわけですから、むしろ危険です。
「世のため人のため」は人間中心の利己なのですから、どうやっても、地球のためとか宇宙のためとか動植物や国土風土のためだとかいう価値観には直結しえません。
道徳と称するものは、(儒教の)信仰ですから、「道徳はエゴイズムだ」というのはタブーであり、嫌悪されます。中国文化圏は儒教信仰で、日本というものも儒教国家です。そして、国家社会を維持するための方策として、儒教が教化されてきました。信仰を「間違っていますよ」と指摘されると怒るわけです、己の誇りの無さを埋めるために依拠するところですから。信仰とは、無批判に善悪が決まっていて、自然法則は抜け落ちます。日本は儒教国家ですから、儒教や道徳を批判することは国家社会の既成構造、既成状態を批判することと同じ、すなわち社会の既成状態によって助かっている人々にとって、儒教批判はタブーで、絶対にダメであるわけですね。
さて、例えば「一番じゃなきゃダメ」だというスパコンにせよ、その神戸のスパコンのケイってやつは確かに例えば気象シミュレーションに用いることで災害予測技術の向上にも活用されています。災害予測をすることで、「かけがえのない人命」が助かると、ほぼ皆思うでしょう?
人類は人間至上主義で、他の動植物や地球や宇宙のことが抜け落ちています。例えば、人命のためだとか、国家のためだとか、人類のためだとか、子孫繁栄のためだとか、そういう目的で資源も浪費するし、地球を破壊して、それでもなお増殖しようとしてきました。その異常性を省みることすら、ほぼ全ての人は、しません。
人命のためとか、産業のためとか、経済成長のためとか、国家のためだとか言っていれば、いくらでも資源を浪費してかまわないという理屈になるでしょう。そのためには、化石燃料を浪費するし、核燃料を遣ってでも電力をジャブジャブ消費可能にしなければならないということになる。防犯のためならば電灯点けっぱなしにもするし、宣伝のためならば看板の電灯も点けっぱなしにするし、自家用車は売りつけるし、誰もがモノを所有し放題で浪費していいという社会状態にした方が都合がいいわけです。
そもそもは例えば神道にせよ、原初の神道、つまり神祇信仰、いわゆる自然崇拝という時点では、地球や宇宙や自然現象に対する畏敬がありました。天皇は祭祀を行いますが、その祭祀の目的は天神地祇、つまり自然や自然現象の御機嫌を読むことです。それは、天皇以前の卑弥呼などであっても同じです。そういう超能力(ESP)であり、そういう職業です。
それに対して、神社神道へと変遷し信仰の対象が人へと換わり、そして人間の我欲を満たすことが主目的の祈願ばかりが行われるようになり、さらには国家主義のいわゆる右翼にせよ国家神道と称する儒教を信仰しているわけですけれども、そうなるともう人間社会至上のエゴイズムです。
人間ってそんなに大したタマなんか? 「かけがえのない命」っていうけど、どうせそのうち死ぬんだろ? それが当然の自然法則であるわけですから、その現実を直視してイヤイヤしないのが、本来の神道(原初神道)もそうですし、本来の仏教(人間釈尊が説いた仏教)もそうです。
儒教や国家主義だけではなく、民主主義とか共産主義とかでも凡そ、人間中心主義から脱け出られません。人間至上のエゴイズムから脱出するには、そもそもの自分自身の思想が、脳が、その域に達する必要があります。デモクラシーであろうがコミュニズムであろうが、当の人々ひとりひとりがその域に達した生物にならなければ、人間至上から抜け出した自己客観視の可能なスーパーエゴのある社会にはなりえないのです。むしろ、民主主義とかいってその域に達しない人が政治参加をして自己批判もしないでいると、エゴイズムによる政治になります。つまり衆愚政治になります。けれど言うまでもなく、独裁体制や階級政治、身分による社会であっても、社会を差配する者がエゴイストであれば、話になりません。
そうすると、今の、安倍日本にせよ、プーチンロシアにせよ、トランプアメリカにせよ、どうなのかって、いちいちここで言うまでもないと思います。
聖書っていう聖典がずーっと受け継がれてる(もちろん後代による修正・加筆はあるが)キリスト教と違って、仏教は経典だけで図書館が1個埋まるぐらいあって、そのどれを正典とするかで争いがある。
これが宗派の分かれる原因でもあるのだけど、その正典の選択によって教義が180度変わってくる。
しかもその経典というのも、そのうちかなりの量が、釈尊の教えが時代に合わなくなってきたために後代の人が書き足していったものだから、初期の釈尊の教えが何かという点についてははっきり言ってよく分からない。
各宗派や釈尊の教えに一致する点があればそこを入門として取り扱えばいいのだけど、一致してるのかしてないのかがまずよく分からない状況。書店に並んでる仏教入門は「空と縁起」の話からはじめるものが多いけど、これも龍樹っていうお坊さん(学者)が体系化した考えに過ぎないし、宗派によって理解もバラバラ。
http://anond.hatelabo.jp/20160827122113からの続き
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13163510618
言って欲しいか?今回のことはアンタが言ってはいけないことを軽はずみに投稿したことから始まる。
以前「始末書くらいでは済まなくなるぞ」と警告しておいたはずだ。以前のやり取りもプリントアウトして主監に提出だ、あなたはバカだから自分の投稿で包囲網をどんどん狭める(大笑)。
退職願の書き方は調べたか?「私は弘法大師を信仰していませんでした」とか「私はバカでした」とか、バカ正直に本当のことを書かなくて良い。「一身上の都合」でよい、よかったな、安心して退職願いが書ける。
依願退職だから、失業保険は無理だがはるかに多い退職金がでる、外道が退職するからといって高野山真言宗が退職金を払う必要なないと思うけれどあなたの人生ではそれなりの大事件なんだからもらっておけ、許す。
バカが騒げば騒ぐほど主監はバカをかばえなくなる、自分の首を絞めるだけでなく主監の選択肢を狭める、あなたの愚かさは主監を追い詰める。主監は「信仰者」だが本山は主監に「信仰者」として行動することを期待している。本山が絡むと主監はあなたをかばえなくなる。
あなたのように太い人脈はないが本山に知り合いが全然いないわけではないから、本山に知らせておいてやる。
諦めが付いたか??
ファイナルカウントダウンを始めたのはあなただ、自分でまいた種は自分で刈らねばならぬ、ジタバタするな、見苦しい。
日本仏教は世界最強の仏教だが欠点もある、inchiki_2004さんのような金持ち寺のバカ息子がいっぱいいて平均点を引き下げていることです。
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http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10163694695
過去の投稿を見ればわかる、頼むからもう少し仏教を勉強してくれ。
あなたが給料を得るのは普通免許を持っているから、私が給料を得るのは仏教徒だからだ。
「要普免」で高野山真言宗に貢献しているのか?釈尊と弘法大師の「信仰者」=仏教徒として給料を得ているのか?
世襲の寺に生まれたと言うことしか仏縁がない(本当に仏縁のある人がはたして寺に生まれるか??)住職が目標の外道と、成仏が目標の仏教徒とでは勝負にならんのだよ。
それゆえ、
削除するなよ。
プリントアウトすることは誰でもできる、内容は誰が出しても同じだ。
そんなにまな板の上にいるのが不安なら、自分でプリントアウトしてメモでもつけて主監のデスクに置いておくか、ご自坊に匿名で郵送すればよい。
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http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11164778016
ワイワイガヤガヤ楽しく妄語得上人法してますね、ゴミやガラクタがお互いをプラチナだ、ダイヤモンドだと言う。
(略)
「金持ち寺のバカ息子」の無能ぶり・バカぶり・怠惰・放逸・恥知らず等々、朝から晩までいやと言うほど現量=直接知覚してる。比量=推測・推理などする必要は全くない、目や耳が汚染され洗いたくなるくらいだ。
(略)
inchiki_2004さんはバカ(ヨガはヨーガが正しいのだからパーリ語はパーリー語が正しい!!)だから”現量”知覚能力はあるが”比量”推理能力は3歳児、肉体は健常だが精神に問題あり。
寺務長から「主監からお話がある、ちょっと特別応接まで」と何時言われるか?死刑執行が何時になるか?
多少でも仏教の知識があれば自分の犯した【罪】の程度を比量できるんだが、なにせ「金持ち寺のバカ息子」は「パーリー語が正しい」と「積極的に主張」!!する仏教ゼロだから、僧籍剥奪か?懲戒解雇か?退職願か?始末書か?退職金は出るかどうか?見当もつかない。
「おねげーでごぜーますだ、教えてください」と土下座リクエストする。
早く早くと死に急ぐな、遅かれ早かれ処分は出る。
他人のせいにするなよ、まな板のうえが心配・不安なのは仏教を知らないおのれの自己責任だ。
(略)
テーラワーダ外道いじめ、精神年齢3歳児をおちょくるのは面白いが、一人には高野山真言宗当局から「泣く子も黙る」厳しい処分??が下され、もう一人は10月15日に懺悔し悪口雑言を悔い改めてホンモノの「釈尊仏教」=「日本仏教」に転向するのだから今回はこのくらいで許してやる、ちなみに世親は大乗に転向したとき大乗を謗り続けてきたおのれの舌を切り裂こうとしたそうだがアンタの舌など別院に置いて行かれても迷惑なだけだからやらないように。
井の中の蛙、牛跡のボウフラ、穴の中でメクソとハナクソ、ゴミとガラクタがお互いにプラチナだダイヤモンドだと「妄語得上人法」していられるのもあとわずかだ!!
あなたのバカ暴走には同志○○さんもフォローのしようがなく困惑してると思う。
(略)
もとの言語がサンスクリットであれパーリであれ「短母音」と「長母音」を別の母音として区別する言語なんだから、その区別を反映しようとしない文字表記はローマ字であれカタカナであれデーヴァナーガリーであれ間違いである。
音を文字で表記するとき正解はないが間違いはある。「パーリー語」は間違いである。
ちなみにヨーガのオーがオじゃないのはオの長母音だからではない、オーは二重母音。
梵:Śāriputra シャーリプトラ、巴: Sāriputta サーリプッタ
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http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11167211446
高野山東京別院へ参詣してaksobhyavajraさんと会話してきました。
>もう犯人探しはしないがaさん(編注:野村氏の問題行動について高野山東京別院へ質問状を送った方)からの公開質問状の入った封筒をスマホで写真に撮っている職員を目撃してビックリした。
とおっしゃっていました。
ちなみに高野山東京別院は警視庁高輪警察署と隣接してるんですね、チットモ知らなかった!!別院で悪いことをするとすぐ捕まえてもらえますね。
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今、テレビを見ていたら、インターネット赤ちゃんポストについての記事を見た。
私は、これについては、非常にいい取り組みだと考えている。
たまたま1件、養母が詐欺容疑で逮捕されたとしても、その大きな流れを止める必要はない、と考える。
私が、2004年に釈尊から、「至碧金剛如来」という法号を与えられ、仏陀として認められた時に、釈尊から、
私が地蔵菩薩の魂である、と明かされた。私も、それについては、思い当たる節が沢山あった。
地蔵菩薩は、子供や水子の守り神であり、お釈迦さまから、釈尊亡き後の後事を託された。
その観点からして、中絶される命をどのような形かにせよ、救うことは、社会として認めるべきだと思う。
たとえ、里親が詐欺で捕まえられようとも、途中で育てられなくなって、施設に引き取られる運命を辿るにせよ、
とにかく、生まれて来たことを評価するべきである。その里親がいい人ばかりでなくても、子供を欲しいと願っている
家族の下に、一度でも行くことは、その子の運命として、喜ぶべきことである。現在は、無責任に妊娠するケースも沢山ある。
そして、生まれた結果、いじめや虐待に会う子供もいる。それでも、私は、産んで育てる方が良い、と思うのである。
これは、仏陀の視点であり、反対も沢山あると思うのであるが、宇宙創造主の御心からすれば、そういうことである。
赤ちゃんポストに、寄付するように心がければ良いと思う。私も、生活に余裕ができたら、ぜひ、慈恵病院の「こうのとりのゆりかご」に
今日も、「荒れる新成人」という毎年恒例の話が出てくる。しかし、新成人に文句を言って嘆く既成人たちは、「なにがなぜ悪いのか」を説明して叱れるのだろうか? 叱責が説得力をもつためには、なにがなぜ悪いのかを説明し、しかも叱る当人が己を律していなければならない。
「人を殺してはなぜいけないのか」という疑問が話題になったことがあったが、「そうした疑問をもってはならない」という社会気質が、この国にはある。何も考えずにただ「殺人=悪」だと言う。しかし、そんな思考停止では、真の倫理観は育つまい。究極的には、刺すか刺されるかの状況になれば他人を刺すものが必ず出るし、「死にたい」と思っている者には「他人を殺すまい」という抑止力はきわめて働きづらい。ただ単に「殺人=悪」だと言って洗脳するのでは、ものごとは解決しない。
この社会にあるのは、道徳倫理ではない。潔癖症なのだ。言い換えれば、怖いのだ。多くの者が、死を怖れると同時に、快適に暮らしたいと思っている。その、自分たちにとって心地の良いような潔癖な社会にしようとする理屈でできているのであって、真に「なにが悪いのか」は考えていない。
「なにが悪いのか」を考えずに杓子定規に順守して、「俺も守っているのだからお前も守れ」と言うのだろうが、そんな理屈ではよくわからない。ところが、いまの多くの人たちは、「俺はこんなに頑張っているのに」「私はこんなに苦しいのに」と言って他人に八つ当たりする。大流行中だ。
古くは、自分でも「悪い」とは思いもよらなかった行為を、偉い人に怒られたり、天変地異の原因になったと思ったりしたから、「しきたり」ができるようになり、いささか不合理な「しきたり」でも杓子定規に遵守するという社会気質ができた。それがそのまま江戸時代ころにはもう全国家的に流布されて、皆「お上」の言うことをきく「踏み絵社会」ができあがっていた。
さて、そもそも、社会的善悪というのは、真の善悪とは異なると思う。社会的善悪というのは、人間にとっての都合の良し悪しだ。自分たちの自我にとって「得だ」と思うことが善になり、「損だ」と思うことが悪になる。だから、死にたくなければ他の生物も殺すし、インフルエンザウイルスであれなんであれ、徹底的に殺すようにしているだろう。昔も今も、多くの生物を殺戮して、しばしば絶滅させてきた。
昔はもっと、「殺生は悪だ」ということが一般的に言われていた。いまは、平気で生物を殺すし、動物がたくさん殺されて食べられている。動物を殺すのを見たくないから食べない、というのではなく、見ずに食べる方法をつくりだして逃げている。ついには、魚肉や鶏肉に骨がないようにまでしている。もはや、生物っぽくなく、便利に食べられる。もちろん、骨抜き魚肉や骨抜きフライドチキンが出てくる以前に、チキンマックナゲットだろうがハンバーグだろうが、骨を意識することはないのだが。いまの欧米人はこの国の活造りを見ると「残虐だ」と言い出すが、我々はもともとは、生き物を殺して喰らっているという自覚をあえてもって、また、ピチピチしているのを見て「新鮮だ」と言って、喜びと有難みをもってきたのだ。反対に、たとえブロイラーにしようがハンバーグにしようが、動物を殺している残虐からは不可避なのだ。例えばマクドナルドなどにしても、全世界的に食肉を大量生産して流通させているが、膨大な殺生をしている。大量の飼料や水を消費して牛を飼い、また、深海魚まで獲っている。それはムダな消費なのではないか?
まあどうせ昔も、「殺生=悪」という「しきたり」でしかなかったのかもしれないが。だが、きっと、釈尊にしてもそうだし、「無益な殺生をしてはいけない」と言った多くの偉人たちのなかにも、「殺生ばかりをしていたら自分たち人間も生きていけないだろう」と直感していた者が少なくなかったのだろう。ただそれが、日本社会では、形式的にばかり順守される「法令さえ守っていればいい」的な実態になったのだ。それは結局のところが、日本社会のほとんどの人が無教養で思考停止をしているからなのだろう。つまりは洗脳されてきただけだ。
我々が生きていくためには、生物を少なからず殺す必要がある。そうしないと食べていくこともできないだろう。直接にも間接にも、殺生をしている。だが、際限なく殺しまくっていたら、無益な殺生になり、そして殺された生物種がしばしば絶滅する。
自我の屁理屈を超えれば、他の生物を殺しすぎるのは、生態系のつりあいを破ることになるから、我々自身も生きていくことが難しくなる。したがって、無益な殺生は、生きていくという観点でも明らかな悪だ。無益な殺生が悪だということは、合理的に説明可能だ。
いまのこの国では、「本当のこと」が言えない。例えば、政治的な発言が忌避されるのも異常だ。「それはおかしいと思う」と言える社会ではなくなっている。例えば原発にしたって殺生にしたって自殺率にしたって、さらには、インフルエンザだろうがHIVだろうがなにもかもを殺戮して存在を消し去ろうとすることの異様さにしても。
他人を叱れないし、叱る能力(冒頭に書いた通り)がそもそもない人が多いのだろう。なにがおかしいのかを言える雰囲気でもなければ、なぜおかしいのかも言えないからなのだろう。ひとりひとりが叱れない社会だから、マスコミが代弁することで憤懣の捌け口になっているのだろう。
我々は、完全には清廉潔白でいることはできない。殺生をしなければ生きていけないし、他人に迷惑をかけずには生きていけない。
だが、己の穢さを自覚しなければ、不潔であることに対する抑止力は働かないのではないか。
皆がまたぞろ、自分にとって都合のいいと思うことをやりたいから、例えばガソリンなどの資源エネルギーも多用するし、そうして地球温暖化も進んでいるのだろうし、有毒物質もまきちらしているし、将来の資源枯渇へと「ツケまわし」もしている。だが、「それは悪いことだ」とは、ほぼ誰一人として言わない。例えば、「自動車を抜本的に減らせ」とは、ほぼ誰も言わない。乗りたいからなのだろうし、自動車があることで産業があり雇用があるからなのだろう。同じように、「タバコは有害だから禁止すべきだ」どころか「増税すべきだ」と言うことすら、すぐさま自民党などから「葉タバコ農家が〜」という屁理屈が返ってくる。それではきっと、葉タバコ農家は死の商人だね。JTも、その大株主のこの国も、同じ国民から「血を吸って」「肉を喰らい」生きているのだ。
例えば米国人がやっていたら、この国でもやっていいことになる。迷惑駐車でもポイ捨てでもなんでも「他人たちがやっているから自分もやっていい」という言い訳は必ず出てくるだろう。互いに都合のいいことなのだから、みんなして「赤信号も渡る」のだろうし、「崖っぷちへと突撃する」チキンレースをやりもする。
ところで、自分たちにとって都合の悪いと思われる生物を徹底的に殺戮してきたから、HIVが出てきたり、新型インフルエンザが出てきたりしたのだと思う。少なくとも、薬物耐性病原体は、過度の殺菌をしてこなければ出てこなかっただろう。そうして、潔癖に潰しまくってきたから、いわば「テロ攻撃」が他の生物から、地球から、加えられているのだ。
それどころかさらに、いまの我々は、自己の心身にすら欺いて、自我が都合の良いと思うことばかりをしているから、心身の反乱をくらっているのだろう。癌にしても、アレルギーにしても、「精神疾患」にしても。人工的に潔癖な生活空間をつくってきたから、心身にとってかえって不健康なことになっている。
地球の生態系のつりあいも、自己の心身のつりあいも、壊しているからだ。だからかえって危機に陥る。不健康になる。
この国では少子化だと騒がれているが、世界人類はいまも増え続けている。はたして、「人口増=善」なのか? 人類が増えすぎたら、地球の生態系のつりあいは崩れる。すでに崩れている。しかし、自分が生きたいと思っている人たちは、「出産=悪」だとは決して言わないだろう。真実を言わないし、真実に気づきすらしないのかもしれない。
昔から、例えばクリスチャンは「人は原罪を負っている」と言う。また、この国では浄土真宗の檀信徒が最大多数だと言われているが、そもそもの浄土宗や浄土教は、悪の自覚から始まっている。つまり、「自分は悪人だ」と自覚しているからこそ、「地獄に堕ちる」と思い、「どうやったら救われるか」と考えるのである。それに比べると、いまの人間には、悪の自覚が足りない。
自分たちを律することができず、ゆがんでいく。ゆがんだことでトラブルが起こるごとに、対症療法をする。砂糖を入れすぎたから塩を足すかのように、余計なものをどんどんと付け足していき、だからますます錯乱していく。ぐにゃぐにゃにゆがんでいく。
究極的には、己の死に対して覚悟がないとはじまらないのだと思う。人類は、過剰な生存意欲があるからこそ絶滅せずに生きていられたのだろう。だが、だからこそ、生存意欲の過剰さに対する自覚をもたないと、欲望も執着も、いくらでも膨張して肥大化していく。そうして、人類も増えすぎるし、生物も殺戮するし、資源も食い尽くすし、自己の心身さえも傷つける。
異質な他者の存在に対して、多様性に対して、寛容に、しなやかに、ふわっと、受け入れないといけないと思う。究極には己の死に対して覚悟がないと、それはできない。だが、受け入れなければ、「テロ攻撃」が、他人からも、他の生物からも、さらには自分自身の細胞や潜在意識からも、加えられていくのだ。
いまのこの日本社会にしても、やっていることは正反対で、威圧して同調化させようとする傾向があり、それは近年ますます増している。それではきっと、ますます危険で不健康で暮らしづらい国になっていくのだろうと、私は思っている。
テレビはテレビで進化して、ネットはネットで進化するんじゃないかと。
これまでもこれからも。
テレビを見る人間はネットをみないし、その逆にネットに浸かった人間はテレビを見なくなる。
似たようなことがいろんな製品に対して起こる。
というか起こってるように思う。
地方では紙幣が主流だけど、都市部では電子マネーが主流になる。
ちょっと考えれば、日本中で同じサービスを提供するなんて無理だし、効率的じゃない。
田舎でsuicaが使えなくたって、田舎でiPhoneがつながらなくたって、代わりのものがあればいいじゃないか。
なんか高級住宅街とスラム街にわかれてる昔のアメリカみたいだよね。
高級住宅街とスラム街の住み分けと違って、明確な上下関係はないんだろうけどさ。
都市部への嫉妬とか憧れとかもなくなると思う。
みんなが持ってるから自分も欲しい、みたいな物欲はなくなるんじゃないかな。
だんだん、他人に興味がなくなるんじゃないかな。
みんなもう政治とかに興味ないじゃん。
そのうち芸能とかスポーツにだって興味が失せるよ。
他人がサッカーしてるのを見たってさ、「自分がしてるわけじゃねーし」くらいに思うようになるんじゃないかな。
昔、「夜もヒッパレ」って番組がやってたじゃん。芸能人がカラオケする番組。
なんで他人がカラオケする番組なんかやってたのか今じゃ謎だよ。
でも、サッカーに対してだってそう思うようになるよ。
どんなスーパープレーだって、見慣れちゃえばさ。
呟くなら、自分の部屋で、ただ声に出す。
そういう時代になるんじゃないかな。
いいかげんこの世の無意味さに気付くだろ。
すげーな釈尊って。
この境地に2400年も前にたどり着いていたんだもん。
他人に理解されないことに苦しむのは、ヒトとヒトが理解しあえるなどという幻想にとらわれているからです。
理解されて当然、という傲慢があるから、他人の言動や行動にいらついたり傷ついたりする。
血を流し痛がっている人の痛みがどれほどかを正確にわかる人はいない。
他人の痛みがわかるなんて言っている人を信用してはならない。
「この男は痛いだろう。だが私は痛くない。カイジくん、君もだ」
と言い放ったあのお爺さんだけが正直者だ。
2000年前は釈尊くらいしか気付き得なかった真理を、全員が気付き始めてる。
大々的に全ての人間にアピールなんかせずに、「価値が理解できる人だけ買ってください」というスタンスでモノを売る。
容姿も、性も、商品となって売買されてる。
釈尊は具体的な生き方を説いた人であった。真理を理論だけで理解しようとしても苦を乗り越えて生きることは出来ない。釈尊のこうした考え方を示すものに 毒矢の例えがある。
マールンクヤと言う若い弟子がいた。かなり理屈っぽい人だったようだ。彼は 「いろいろ考えたが世の中には解からない事が沢山ある。わかるものならばそれをはっきり解からせて欲しい。それがはっきりしない限り私はこれ以上修行が出来ない。」と言い次のような質問をした。 「世の中は常住なるものか それとも無常なるものか 世界に果てがあるのかないのか 霊魂と身体は同一か同一でないのか 死後の世界は存在するのかしないのか 」と言ったような問題に悩み釈尊に解答を迫ったと言う。「釈尊が世界が常住であると思うならそうおっしゃってください。それに応じて修行します。世界は常住でない 無常なものだと思うならそうおっしゃってください それに応じて修行いたします。」
それに対して釈尊はおおよそ次のようなことを言ったとされる。
「ある人が毒矢に射られたとする。 すぐに治療しなければならないだろう。ところが医者にかかる前に 一体この毒矢を射た人は誰か どんな名前の人か 身長は どんな顔の人で どこに住んでいた人か どんな弓で射たもので どんな矢じりがついていたのかと言ったような理論を追求していたら 結局 死んでしまうだろう。」 「それとおなじで世の中は有限か無限か 霊魂と身体は同一か そうでないか人間は死後も存在しているのか そのような問題に答えたところで私達の苦なる人生の解決にはならない。そのようなことがはっきりしたら修行すると言うのは正しくない。 世の中が常住か 常住でないかについて見解を持ったところで 私たちの老死 憂い 苦痛 嘆き 悩み 悶えは依然としてここにある。 私はいま 現実のこれらの老死 苦を超えることを説くのだ。 悟りに達すればそのようなことは気にならなくなるであろう。」 中部経典第63経
位牌ってなんだか良く意味が判んなかったですが、こういうことだったんですねー なるほど
仏教は本来お位牌必要としません。われわれは釈尊の弟子であるため、他界では釈尊と一緒になれるはず、特に供養しなくても成仏になれるはずです。仏教の起源地インドでは、お位牌はほとんど飾られていません。
なぜ、日本はお位牌と仏壇が必要なのか、これは仏教の伝来、日本の文化に深い関係あります。
仏教は紀元後1世紀に 中国に伝わり、538年前後日本に伝わってきました。仏教伝来とともに、中国の文化や風習なども伝わってきました。古代中国の儒教では、亡くなった人の名前、官位などを板に記する風習あり、これは最初位牌の形です。
日本においでは鎌倉時代に禅宗の寺院で用いられたが、江戸時代以降一般家庭では用いられた。これは仏教の普及に密接な関係あり。
鎌倉時代に入ると、前時代末期からの動乱で仏教にも変革が起きた。それまでの仏教の主流が「鎮護国家」を標榜した国家や貴族のための儀式や研究に置かれていたものが、次第に民衆の救済のためのものとなっていったのである。さらに江戸時代に徳川家康は、寺院諸法度を制定し、寺社奉行を置き、仏教を取り締まった。また、人々には必ずいずれかの寺院に登録させるようにした(寺請制度)。そのため、今日に至る葬儀を取り仕切る主宰教としての地位を確立した。
仏教普及によって、仏壇仏具は細分化され、お位牌も大量生産の時代が来ました、本来は高価で上流階級しか買えないお位牌は、庶民の間でも簡単に手に入れることが出来ました。
位牌買うならここで買ってあげてください!知り合いのサイト→http://www.futakiya.com/shopping/
「どちらが重いのでしょうか?」っていうのは、遥か昔から議論の対象になっていて、
「問うて曰く『知って犯した罪と、知らずして犯した罪とでは、いずれが重きものなるや』」
というのは、“多門第一”といわれた、釈尊の高弟“阿灘”の問いとして紹介される事も多い設問だけれども、原典は『那先比丘経』という、西北インドを治めていたギリシャ人の王ミリンダと、仏教僧ナーガセーナの“対談集”だよね。
http://anond.hatelabo.jp/20090517101611
つーのはやっぱりあると思うんだよね。
で、そもそもこの『過失>>>>故意』って考え方、ここ最近のネットはずっとそうだよね。
冒頭の問いかけに対する釈尊、あるいは仏教僧ナーガセーナの回答として記録されている文章というのは、
「あなたはどう考えるのか。灼熱し、燃焼し、炎熱し、炎上した鉄丸を、一人が知らないでつかみ、一人が知っていてつかむならば、いずれがひどくやけどをするのか?」
↑これだけ。文献によっては鉄丸だったり火箸だったりするんだけれど、そこはまぁ、大した問題ではない。
いわゆる「先進国」での、“法律的”“世間的”な標準は「知らなかったのであれば情状酌量の余地あり」というのが主流。「自発的に行われる行為にたいして罪状を重く見ている」のね?
どうしてかといえば、“再発・再犯の防止”という社会運営上の都合でもあるし、「全く知らなかった事を理由に処罰されたくは無い」という人情の表れでもあるだろう。
「(それをすればどのような結果になるか)分かっていれば実行に移さなかった」
とか、
「(適切な対処・対応の方法を)知ってさえいれば防ぐ事ができた」
とか、少なくとも、
「きちんと理解している人がそこに居さえすれば被害の拡大を防ぐ事ができた」事例というのは数限りなく存在するわけでね?
だからなのかどうかはいまひとつ確信できないんだけれど、哲学・宗教系では「知らずに犯した罪の方が重い」という解説が付いている事がほとんどなんだわ。
「無知こそが罪悪である。」
「悪いと思っていないから際限が無い」
大雑把にまとめるとこのようなスタンス。確かにごもっともなんだよ?ごもっともなんだけれど、非常に恣意的なものを見出してしまうのよ。少なくともおいらが知る限り、釈尊・阿灘の問答にも、ミリンダ王と仏教僧ナーガセーナの対談にも、原典に近いとされるものには「知らないで犯した罪の方が重い」という記述は無いんだよね。
「知らない」 という、そのこと自体が 「罪」 なのだから、人間はいろいろなことを知るべきだ。少なくとも、知ろうとすべきである。”
↑こんな言い回しがあちこちで目に付いてさ。
でもこれって、簡単に変質してしまわないか?
例えばこんな風に↓
「無知である事は大罪である。この大罪から逃れるために、この神(思想・主義・その他諸々)を信じなさい。信じない・信じられないものは大悪であり、人間ではないのだから、打ち滅ぼしてやる事こそが彼らにとっての救いである」
「知っていれば、つかみ方が違うし、布を巻くなりするだろうし、そもそもつかもうとしないだろ?」
っていうのが大体共通するところなんだけれど、知っていようが知っていまいが、同じように焼けた鉄を同じようにつかんだら、やっぱり同じように火傷するんじゃないのか?
乱暴な一般論化と言われるかもしれないが、念仏者たちを観察してきた経験上から言えば、
長いものには巻かれろとか、石橋を叩いて渡るならまだしも叩き過ぎて壊すとか、迷って迷って自分ではなかなか決められないとか、お上には逆らえねぇとか、どうせ生きてるの無駄だとか、どうせ俺なんてとか、人の幸せの為に自分を犠牲にしますとか、生意気なこと言うなとか、こういう権力者に迎合しやすくて女々しいナヨナヨな気質を作ったのは全て念仏思想ドグマだよ。
死んでから極楽逝きますとか言ってるから生きるちからが弱っちくなるんだよ。
釈尊はとんでもないスーパーマンで、凡夫はとうてい仏の足元にも及ばない馬鹿だから易しい教えしか救えないとか、経典の批判を直接しない代わりに、浄土三部教以外の経典を聖道門というレッテル言葉で持ち上げ褒め殺しにし、信仰の道を閉ざして有名無実の無用の長物にしてしまった。そんなのは中国のドンランが作った歪曲教義でしかない。
彼らは一見謙虚そうな態度にみせて、実は理想化された釈尊に押しつぶしされた卑屈根性に過ぎない。それは
そして、その信仰の意識すらないものであっても、念仏ドグマの影響に毒された思考のひとをたまにみる。
しかし、
そして、阿弥陀仏も西方浄土も、どこか遠い違う世界にあるのではなくて人間の心が生み出した概念に過ぎない。
現実にはありもしない西方浄土や阿弥陀仏を追い求めるのは現実逃避のオカルトだ。
鎌倉時代の封建社会のなかで権力者に念仏が重宝がられたのは、民衆を無力化して大人しいく飼い慣らすためだ。
法然が仏教を仏に成る宗教から、仏にすがる宗教に変質させたのだ。
だから俺は、織田信長のように念仏嫌いだ。
と、日蓮は言っている。
しかし、他の宗派では釈尊と一切衆生の間に差別化を図っている。
日蓮仏法において成仏という意味では一切衆生も釈尊も仏であることに差別は無いけど、では本仏とは何か?と考えるときに、本仏というのはその一人をして手本となるべき存在となる。
手本であるという存在は師匠であっても、教祖様的な階級とは違った存在だ。
あくまでも対等な立場でありながら手本となる存在が本仏だ。
しかし、対等でないものを有り難かって深遠ぶって釈尊を神格化して人間として見ることが出来なくなったのが多くの仏教団体である。
人間を超えた存在を作るとき、その名において人間を犠牲にすることも厭わなくなる。
仏とは生命なり。
いとーさんの52のコメントについてもですが、私の47と50のコメントについても、きちんとご返事をください。
60でりりこさんのコメントについて、
「いまのところ、あなたの言質には取るに足らない嫌味しかみあたりません。」
とおっしゃっておりますが、
りりこさんは、会話のキャッチボールをきちんとして欲しいとサラダボールさんに要請しているわけであり、単なる嫌味だけを言っているわけではないと思います。
まず、御自分の言いたいことばかりをよく他人にわからない仕方で一方的に主張するのではなくて、まずは相手との会話のキャッチボールを心がけてはいかがでしょうか。
仏の身ならば、なおのこと凡夫の衆生にわかりやすい対機説法を行わなければならないでしょうに(^^;
サラダボールさんの一連の言動は、多くの人にとって不可解に思われていますし、まともなキャッチボールではなくてドッジボールのように思われているのではないでしょうか。
悪気はないのかもしれませんが、ちょっとそのことを心がけてみてください。
釈尊は、いつも相手にとてもわかりやすいように説きました。
マッジマ・ニカーヤなどを読んでいると、どんな相手の質問もきちんと受けとめ、会話のキャッチボールについて天才的な人物だったことがよくわかります。
サラダボールさんも、仏を自称されるならば、マッジマ・ニカーヤなどに見られる釈尊の姿と、同等の御姿を衆生や凡夫のためによくよく心がけるべきではないでしょうか。
一言あつしさんの【63】に補足させて頂きます。
あつしさんは私が信頼して任命させて頂いた、
従って、あつしさんがされた、コミュニティ運営上の発言は、
よろしくお願いします。
>63
ドッチボールですか(笑)
集団化してこちらに一斉に複数のボールをぶつけてこようとするのはそちらですよ。
1対1になろうとせずに、私ごときに数を頼らなきゃならないなんざぁ??情けないもんですね。
対等の話し合いとはよべません。
いましばらく、やることあるから、ほかのことはあとから書きます。
私は、いとーさんとの1対1の話を希望しているのです。
大学院まで出ていると豪語するなら、やるのかやらないのかどちらかにして下さい。
「集団化して」
「数を頼らなきゃ」
他の人に代わって答えて頂いたことがありましたか?
私が丁寧に論拠を挙げて説明しても、
複数の方に批判されているだけの話です。
妙な言い掛かりは、やめて頂きたいと思います。
『無量寿経』に関して私に教えて欲しいということで、私に質問しているのですよね?
以前、メールで申し上げたように、
教えてくれというから教えてあげているわけですが、
私に教わるつもりではなく、私に喧嘩を売るつもりなら、
私も相応の態度を取らせて頂きますので、
そのあたりをはっきりさせてください。
私に教えてもらうような言い方をして、私にだけ論証責任を要求し、
失礼しました。
投稿が重なってしまいました。
それならお断りです。
私も暇ではないので、まともに話を聞かない人に講義するつもりはありません。
それとも、一対一で私とガチンコ勝負すると言うことですか?
それならお受けします。徹底的にお相手しますよ。
ただし、サラダボールさんの発言に、一々資料の提示と論証責任を要求しますので、
覚悟してください。
692008年04月11日 17:33 サラダボール >68
では、新トピックたてたので、こちらでどうぞ。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=29969117&comm_id=2135313&
それでは、『無量寿経』に関する議論はそちらで行いたいと思います。
こちらのトピックでは、
その際に、今後はサラダボールさんは論拠・資料を挙げて答えていく。
ということで、よろしいのですよね?
ちょっと待ってください。
コミュは全員参加のもので、私的なものではありません。
サラダボールさんがいとーさんと二人だけで議論したいということの理由を、まず御説明ください。
私も含めた他の当コミュのメンバーの合意もなく、勝手に二人だけの議論を立てられても困ります。
少なくとも、そうしなければならないことのきちんとした理由と説明をサラダボールさんは述べてください。
また、65のコメントは、私の63のコメントへの返事に全くなっておりません。
そのような態度で、「仏」を自称僭称されても、説得力がないのではないでしょうか。
まず、いとーさんの62と私の63における質問にお答え下さい。
<<1対1になろうとせずに、私ごときに数を頼らなきゃならないなんざぁ??情けないもんですね。
そもそも、私は1対1にサラダボールさんといとーさんがなるべきだと思っておりませんし、そのことに同意していません。
また、サラダボールさんから、きちんとその要請も受けておりません。
数を頼っているのではなく、まともな感覚の第三者が見ていて、あまりにも対応がおかしいので、サラダボールさんに対してその態度とあり方に疑問と異議を申し立てているだけのことです。
私は釈尊をとても尊敬しているので、このようにまともな対応もできない人が、仏を僭称することに大変な不快感を持っているということを、率直にお伝えしたいと思います。
いとーさんが同意されるならば、お二人だけで新たに立てられたトピで議論してもいいのかもしれませんが、どれだけいとーさんが誠意と論理と証拠を示されても、サラダボールさんがまともな感覚の持ち主から見たらとても受け入れられない、対話のキャッチボールも成り立っていない勝手な言い草ばかりされることが危惧されます。
やはり、当時者だけでなく、公平な第三者としてのオーディエンスから逐一コメントされることは、議論の公平性を保つためにも必要なことではないでしょうか?
これは、私以外のこのコミュのメンバーから指摘があったことですが、サラダボールさんは「未熟」な人間であり、「現代文もまともに読めない」、「キャッチボールもできていない」人だという指摘がすでにたくさんされていますよね。
私も、65のようなコメントを見ていると、そのような感を抱かざるを得ません。
いとーさんは、僧侶としての勤めも忙しく、コミュの運営もせねばならず、サラダボールさんだけに関わりあえるほどお暇ではありません。
また、どれほど労力と誠意を尽くしても、それを無にするような人物だと、私に限らずこのコミュの多くのメンバーがサラダボールさんに対して感じているのではないでしょうか。
にもかかわらず、いとーさんにそのような労力と時間の無駄を強いることは、大変忍びない申し訳ないことだと思います。
サラダボールさんが、いとーさんとの対話をお求めならば、まず二人で対話しなければならない理由をきちんと示し、およびこのトピですでに出されている質問にきちんと答えて、まともな感覚の持ち主であることを第三者にもわかるようにしてください。
72 2008年04月11日 18:26 サラダボール >70
>71
だが断る!
(-"-;)
彼の[仏]は[ほっとけ]と読むらしい 。。。。 (^^;ゞ
自分の説明責任は放棄するということですか?
そのような無責任な方は、相手にできませんね。
75 2008年04月11日 19:01 フロル そ??ですね??。
サラダボールさんは「議論をしようとするものが取るべき適正な態度」からはずれた態度をおとりになることがよくおありになって、それで多くの人が「こら」とか「ちょっと」とか「なんですかその言い草は」ともの申したくなっただけのことですよ。
別にサラダボールさんが論者として隙がなくて手強いので周りのものがいとーさんをフォローしようとして発言をするわけじゃないと思いますが。
お行儀の悪い子に「これっ」と注意したら、たまたま怒声が重なった、っていうくらいのもんで。
それをいとーさんが数を頼みにしてサラダボールさんを攻撃しているようなことをおっしゃるとは随分しょってますね。
大体、論拠もあげないで主観を言ってるだけの論証になってない発言に、論理上のつっこみを入れることもできませんよね・・・。
論証がなされてないので、論証に対する攻撃は不可能です。
みんながしたのは、サラダボールさんの態度に対する注意でしょう?
行儀の悪さを指摘するようなしょうもないことまで、いとーさんがしなきゃならないのがあまりにもお気の毒だとおもったのじゃないですかね、皆さんは。
(私はそうですけど。)
>74
>75
トピック2つ掛け持ちするのめんどっちぃ??。
そうですか。
私も恐らくコミュニティの他の皆様も、サラダボールさんとお付き合いするのが、
いい加減「めんどっちぃ」になりましたので、
申し訳ないのですが、このコミュニティから出て行ってくださいませんか?
自主的に出て行ってくださらないなら、私の権限で強制退会&アクセス禁止にさせて頂いてもいいですよ。
理由ですか?
「コミュニティのガイドラインに反している」それでもう十分でしょう?
一、お互い教えあおう!
一、間違ったことを教えないように気をつけよう。
一、教えてもらったら、素直にありがとう!ごめんなさい!
一、違うと思うときは、素直に違います!
一、自分の信仰を大事にしよう!
一、他の人の信仰も大事にしよう!
一、悪口は言わないようにしよう!
私はせいぜい、最後の一項目だけですが、
サラダボールさんは、七項目のうち、確実に五項目に反しています。
Steveは、相手を罵倒しまくっていましたが、その際に必ず根拠を述べていました。
そして自分の信仰に関する質問には、常に誠実にお答えくださっていました。
その論に納得いくかどうかは別として、 Steveの人柄や情熱に心動かされたし、
議論を通して多くのものを学ばせて頂きました。
ど根性さんは、ガイドラインに反することを一度もされなかったし、
根拠のない発言を一切されませんでした。
議論は最後まで平行線でしたが、pppの教えが釈尊の教えに直結することを、
知的誠実さを尽くして私逹に接してくださいました。
私はど根性さんの人柄や知性に大いに感服し、
御縁を大切にさせて頂こうと、マイミクにさせて頂きました。
お二人ともpppの素晴らしさを伝えてくださる素晴らし方です。
お二人を通して、pppの教えの素晴らしさを教えて頂くことができました。
私はサラダボールさんから学ぶ要素は、「反面教師」として以外見いだせません。
それでも、今まで論証責任を放棄した発言に 、我慢に我慢を重ねてきましたが、
今回遂に、自分の信仰について語ることすら放棄しましたね。
もう限界です。
害をまき散らすだけの存在であることは明かです。
もういいでしょう。
他の方の迷惑になるし、管理人の私の権限を行使させて頂きます。
コミュニティから出て行ってください。
<77 いとーさん
私もいとーさんのご意見に賛成です。
同感です。
「トピック2つ掛け持ちするのめんどっちぃ??。」
といったような、幼稚で無責任な態度を放置しておいては、まじめにこのコミュに参加して実のある真剣な議論をしたいと思っておられる参加者の方々に対して非常に迷惑ですし、不快感を与えるでしょうし、妨害になります。
サラダボールさん、自らの態度を改めることも非をお感じになることもできないのならば、もうそろそろこのコミュから出ていってくださらないでしょうか。
私が単にサラダボールさんについてよく知らなかっただけなのかもしれませんが、一番最初にやりとりをさせていただいていた頃は、まだ今よりもずっと言葉遣いも態度もまともな方だったように感じておりました。
その頃と比べて、どういうわけか、サラダボールさんは劣化の一途を辿っておられるように思います。
こんなに幼稚で無礼な態度をとる人とは、昔は思いもしませんでした。
ここしばらくのサラダボールさんの一連の態度は、非常に残念に思います。
なんとか改めて欲しいと思って苦言を呈してきましたが、もはやこれまでと思います。
もうこのコミュニティから出ていってください。
このコミュを心から愛し、大切にしているメンバーの一人として、お願いします。
>77
ここでは黙秘権を否定するのですね。
言いたくないことを黙っている自由を認めないのですね。
質問には絶対答えなければいけない義務なのですね。
黙っているのが悪いとは全く思えません。
知的誠実と言えば聞こえはいいけど、
私には知的誠実の名の下に人を見下したいだけにしか見えませんでしたよ。
802008年04月11日 21:07 サラダボール >78
どいつもこいつも管理人のYESマンみたいな腰巾着ばっか(笑)
そんなに一人で5人も6人もいっぺんに全部に答えてしまうと、論点が多岐にわたり過ぎて処理しきれない状態になるのは目にみえてるよ。
そういう状態に追い込みたいのだろうけどね。
言いたいことはそれだけですか?
一切謝罪の言葉が頂けなかったのは残念ですね。
私は当コミュニティの管理人として、常に知的誠実さを尽くしてきました。
今まで一度も、根拠のない発言をしなかったことを自負しています。
私は、コミュニティ参加者の皆様から一銭も頂いておりませんが、
コミュニティの今後のために、参加する方を選ばせていただきたいと思います。
相手に対して論証責任を求めている人物が、
自分の論証責任を放棄して無責任な発言を行うことは絶対に認めません。
既に警告させて頂いた通り、
コミィニティからの強制退会&アクセス禁止にさせて頂きます。
今日までお疲れ様でした。
さようなら。
管理人より 皆様へ
サラダボールさんを強制退会&アクセス禁止にさせて頂きました。
これまでさんざんコミュニティのガイドラインに反した行為を繰り返し、
態度を改めるどころか、更なる暴言を繰り返されましたので、
コミュニティの運営上、必要な処分を下させていただきました。
全く不本意なことであり、大変残念に思います。
皆様にも不快な思いをさせてしまい、本当に申し訳ありませんでした。
当コミュニティは、信仰に関して真剣に語りあうコミュニティです。
私は常に知的誠実さを尽くしますし、無責任な発言は認めません。
その方針は、コミュニティ立ち上げから一貫しております。
参加者の意向にあわせて方針を変えることはありません。
今後も、その方針でいきたいと思いますので、
皆様どうぞよろしくお願い致します。
合掌
83 2008年04月11日 23:29 いとー コミィニティを退会させられた方が、トピックごと削除してしまったので、
もう一度トピックを立てておきたいと思います。
『無量寿経』で二乗成仏が可能か?
いや、よく今まで付き合った。いとーさんの粘り強さに尊敬の念を感じます。
あたしなんぞ、とうに絡むのは時間の無駄だと思って眺めてましたもん(爆)
やっぱり日本語がどうしても通じない人っているのかなぁ。
>myinyaさん
ありがとうございます。
譲歩できるぎりぎりの所まで譲歩して、
なんとか対話の形式を成立させようと思いましたが、
とうとう、キレてしまいました。
論拠を挙げた上での批判なら大歓迎ですが、
最初から論拠がなく反証しようのない批判を行う相手と、
対話を続けるほど太っ腹にはなれませんでした・・。
私が、複数の方にヘルプしてもらっているような言い方は、
どうにも納得いきませんでしたね(苦笑)。
私はできるだけ複数の方に指示して頂けるように、
どきるだけ明晰で論理的な文章を構築心がけてはいましたが・・。