はてなキーワード: 資質とは
30代前半、女性、正社員。転職してから年収が大幅にアップした。
給与は約30万、手取り24万円前後、労働時間は平均月220時間。
時給は約1363円。
時給は平均値で約1333円。
もう少し差が大きければ、夫側が育休を取得してもいいが、
時給に換算したところ、同レベルだった。
3年前に亡くなった父の厚生年金の支給額は月22万円。
母の遺族年金額は当初14万程度、現在は9万円程度(口座振込額)らしい。
フルタイムで働いているにも関わらず、
私は転職するまで一度も、配偶者は残業代が非常に多かった月を除き、
月収が父の年金支給額を上回ることはなかった。
違いは、会社の業績によっては出ないこともある賞与の有無だけだ。
父は運良く、年金支給額が高いほうだったらしい。
しかし、全般的に元会社員・公務員の高齢者とその配偶者(専業主婦)が優遇され、
自営業や職を転々とした高齢者、若年層は厳しい状態に陥っているように思う。
現状では、親の支援なしに、子どもは育てられない。
母は、財産はすべて自分のもの、子どもには一切残さないと公言している。
私に言わせれば、無駄な出費が多すぎる。身の丈にあった暮らしをすればいい。
贅沢な暮らしに慣れた自分本位な人が多数派を占める限り、少子化は止まらないだろう。
将来、貯金が底をついたら、母は私を頼ってくるだろう。
そろそろ飽きたので勝手にまとめまーす。
世の中には、ホームレスを集めて、住む家だけを用意し、
そのホームレスの代わりに生活保護を取得して一部をピンハネするビジネスがあります。
studygiftは、これと同じ構図です。貧しい学生を集めて、彼らの代わりに学費を集め、
その一部をピンハネするビジネス。貧困ビジネスそのまんまです。
話題の坂口綾優さんは、既に100万円近く学費を集めたそうですが、
はたして次の人は、100万円いくでしょうか?もしかしたら、30万円しかもらえないかもしれません。
私立の大学だったら、どこもだいたい学費は一緒ですが、100万と30万の差。この差はなに?
同じ学費が必要なのに人によって貰える学費が違う。これはAKBの総選挙とまったく一緒のエゲツない人気投票。
総選挙で名前すら呼ばれないAKBメンバーの気持ち、学費をまったく貰えない苦学生の気持ちはどんなもんだろう。
AKBは、まだ芸能界だったりエンタメの世界ですが、教育・福祉の世界でこれをやるとはね。
一番どうでもいい点だけど、一番騒がれたのが、このエントリー第一号の女子学生の資質。
「経済的な理由で大学を諦める・・・」とサービスがうたっているのに、理念を台無しにするミスマッチな人選。
エントリー第一号が、東北の被災地出身の大学生だったら、今のような炎上はなかったのにね。
ネットで炎上したら、そのデータはずっと残る。もし、結婚したら相手の親族にも見られる。
サービスとのミスマッチでおきるリスクにしては、あまりにもおおきすぎないか。
楽に学費を集められてラッキーなんて思う方もいるかもしれませんが、そんなに甘くはない。
今後、学費をもらった人は、その行動を全てネットで監視されることになります。
旅行にいけば「その金はどこから出てるんだ?」と詰問されること間違いなし。
もし、さらに留年なんていうことになったら、出資者がアンチに変わることだってありえます。
金を払えば何をしても、何をいってもいいという人も世の中には沢山いますからね。
このstudygiftは、「学費」をもらうかわりに「自由」を売ることになると考えた方がいい。
studygiftが炎上し,坂口綾優とその愉快な仲間たちが非難の的に晒されている.炎上する要因としてはもちろん様々なものが今までに挙げられているが,そのすべてを端的にまとめると,書いてある文章がアホ丸出しだったのだ.
あれで金払いたくなる人間はそうそう居ない.まず写真からしてふざけているし,文章も「日本一のフォロワー数を誇る女子大生が遊んで奨学金止められたたから援助よろしく」位しか読み取れない.
結果,これだけ炎上してもたった90万しか集められないし,家入が「ざまーみろ」とかのたまったせいで,運営側に対して大きな不信を買うことになった.彼は我慢という言葉を知らないのだろうか?女子大生を広告に90万集めることがゴールではないのに…これだと,例え次の学生が出てきたとしても,希望通りの額を集めることはかなり厳しいだろう.
そもそもはあの文章が原因だったのだ.文章を綺麗な形へ整えさえすれば,ここまでの批判は起きず,緩やかな支援を得て, 日本のクラウドファンディングを形作るウェブサービスとなっていたかもしれない.困窮している学生たちに,奨学金以外の道を提供してあげられたかもしれない.studygiftの未来は輝かしいはずであった.それをすべてぶち壊してしまったのは―何度も言うが―そもそもはあのクソ文章が原因だったのだ.自分だったらきっとこう書くだろうというノリで,大体1時間位で適当に書いた.
早稲田大学社会科学部3年の坂口綾優と申します.私には夢があり,その夢を叶えるべく日々活動しております.しかしながら,私の現在の経済事情は非常に厳しく,このままでは大学を退学せざるを得ない状況に追い込まれております.現在の私にとって,皆様の金銭的支援は何よりも大切なものです.どうかご理解,ご協力のほど,よろしくお願い申し上げます.
改めて,私の夢並びに現在の経済状況についてご説明致します.私の夢は発展途上国の現状を皆様に広く写真を通じて伝えると共に,日本からのグローバルな人的支援,交流プラットフォームを構築することです.
私は幼い頃から海外に興味があり,特に一番興味を持っていたのは,雑然とした街並みの中で人々が活気よく暮らしている,発展途上国の国々でした.現在の私たちが持っていない何かがあると,小さい頃の私は考えていたのです.
大学に入って,私は少ない貯金を切り崩し,念願のインドへ向かいました.そこで得た数々の経験は私にとってあまりにも新鮮で,日本から見た世界は非常に小さいものであったと強く実感させられると同時に,将来は発展途上国を支援する職業へ就きたいーそのように強く思うようになりました.
それとほぼ同時に,私にとって強く印象に残っているのはSNSでの出来事でした.私は日本社会の様々な断片を写真に収め,SNSに投稿したところ,その芸術性や取り組みが日本中の皆様に高く評価され,Google+のフォロワー数日本一を獲得致しました.
写真は世界を変革する力となります.私が撮影した1枚の写真が世界中に伝搬し,世界中の方々から反応を頂く―そのような経験は私の短い人生経験の中で初めての出来事であり,同時に写真の持つ大きな力を実感した出来事でありました.
私は写真を通じて,日本中の皆様に私の想いを伝えたい.そしてゆくゆくは伝えるだけでなく,私自らが世界へ飛び込み,交流を豊かにしていきたい.これは非常に難しい仕事であるとは思いますが,幸いにも私の写真は非常に多くのフォロワーの方々が見て頂ける環境が整っております.私ならば,先の夢を叶えられる資質が備わっていると考えております.
しかし,私の現在の経済状況は大変悪化しております.以前は学費のために両親共々働いているだけでなく,私自身もアルバイトを続けていくことによってなんとか捻出できていたのですが,近年の不況の煽りを受け,アルバイトを多く入れる必要が出てきました.できる限りの努力はしたものの勉学とアルバイトの両立は非常に難しく,成績が落ちたことによって奨学金が打ち切られてしまい,退学せざるを得ないといった状況です.
もちろん,そのような厳しい状況の中でも必死に勉学に励むことによって,少なくない方々が実際に卒業しております.ゆえに,本来ならば私は夢を諦め,退学するのが適当でしょう.このような事態は私の努力不足が招いた出来事であり,恥ずべき事であると思いますが,それでも,私は夢を諦めることができません.
たとえ非常に少ない可能性でも,零でない限りはそれに賭けていきたい.皆様の支援は,私にとっての最後のチャンスです.以上の理由により,私は今回のstudygiftの試みを利用することに致しました.
今回,studygiftを通じてこのようなサポートのお願いをさせて頂いたのはもう一つの理由があります.それは,今回の試みが,日本でのクラウドファンディングサービスの一石となって頂ければという想いによるものです.
欧米諸国とは対照的に,現在の日本ではstudygiftのような,多くの一般の方々から少額の支援を募り,一つの大きな達成へと繋げるような試みは全く行われておりませんでした.このような活動は総称してクラウドファンディングと呼ばれております.
私のプロジェクトが成功した場合,私に続く第二,第三の,希望を抱いた学生がより皆様からの支援を受けやすくなるでしょう.私の活動はいわば,日本におけるクラウドファンディングの試金石です.皆様の支援が,未来ある学生たちを手助けする大きな風となります.私は自身のプロジェクトが成功するだけでなく,日本中の皆様が困窮している学生を支援する―そういった気運を形作る一助となることを強く願っております.
ここまで読んでいただき,誠に有難う御座います.以上が,私の嘘偽りない全ての想いです.皆様の支援を決して無駄には致しません.私は皆様の期待に応えられるよう,全身全霊をかけて勉学に励み,今後の世界を変革する力となるべく,日々邁進して参ります.そのためには皆様の支援が必要不可欠です.どうかご理解,ご協力のほど,よろしくお願い申し上げます.
坂口綾優
http://anond.hatelabo.jp/20120506044030の元増田だが、発達障害と育て方が無関係とは言わない。
http://anond.hatelabo.jp/20120505231549が書いているけれど、
発達障害は『治る』訳はないが、成長と環境により『社会適応できる』可能性はある、と信じて日々生きてる。
ただ、両者を混同する人が「発達障害は治せる!」とかドヤ顔で宣うんだろうな、とは思う。興味のない人間には『治る』だろうが『障害はあるけど辛うじて社会適応出来てる』だろうが、同じにしか見えないだろう。こちら的には、化粧とすっぴんぐらいの劇的な違いがあるんだがなー……。
私は「発達障害は出来ないことを認めること」がスタートだと考えている。自分にとっても、周囲の人間にとっても、「障害が障害のままで、ずっと有り続けること」を意識するのが最初。そして、「出来ない。『だから』どう対処するか?」を考える。配慮してもらって他人の手を借りるのか、TB元で言うところの杖みたいな道具を使うか、或いは他の方法を身につけるか、やり方は様々だが。
『発達障害は育ちが原因ではない』が、社会適応度は育てられ方に左右されると思う。少年事件の容疑者が精神鑑定で発達障害と鑑定されるケースがある一方で、ノーベル賞やら社会的成功をおさめた人の中には発達障害らしいと言われる方もいる。この違いは、個人の資質もあるかもしれないが、生まれ育った環境や今の状況にも大きく影響しているだろうから。
違う言い方をすれば、私が犯罪や他害をすることなく30年以上生きてこれたのは、両親が育ててくれて、周りに恵まれたから。私の手柄ではない。
最後に、
これは「認知療法」ではなく、「視覚化」と「構造化」ではないだろうか? 認知療法は、「認知」つまり物事のとらえ方を見つめ直し、思考パターンの修正をしていくもの…だったと思う。
最低賃金とは、最低賃金法の第1条(目的)で、「労働者」の「賃金の最低額を保護」することによって、労働者の生活の安定と労働力の資質向上、事業の公正な競争の確保のために定められたものです。
ぶっちゃけて言えば、最低賃金が当てはまるのは「労働者」だけなのです。一人社長や、フリーランスのような自営業は「経営者」なので労働者とはならないため、最低賃金は当てはまりません。
ただし、形式上は「請負」であっても、実態は「労働者」となっている場合は「偽装請負」とみなされ、厳しい取り締まりがありますのでご注意ください。
(そもそも1時間で作れる絵には最低いくら払うべき、みたいな話、一度も聞いたことなかったし)
これまで四つの観点からカルトについて述べさせていただきました。しかし、「入会防止」の目的なので、それに関連する内容に言及されており―学問的に説明が不十分でもあります―。オウムのすべてが網羅されているわけではありません。ましてや、私はカルトのすべてを論じることのできる立場ではありません。その意味では、本文は「オウムへの入信を防止するための手紙」でしかないかもしれません。
この理由で、カルトへの入会を防止するためにも、実学としてカルトのすべてを知るためにも、専門家による著書『マインドコントロールとは何か』(西田公昭 著 紀伊國屋書店) をお勧めします。
また、本文にはオウムの教義の概念が氾濫しているので、皆様にどのように受け取られるか気掛かりでもあります。これまでも、私は多くの方々から質問を受けてきました。説明責任があると思い、できる限り回答させていただきましたが、私どもの愚行をお伝えすることには失敗することが多かったです。殊に宗教的経験に係わる話になると、その方の人生経験に沿うように別の解釈をされてしまうことが多々ありました。人は自身の経験に基づいて物事を理解するものですから、無理もありません。
ですから、この度は説明方法を変え、具体的な描写とそれを説明する文献の引用を加えました。それでも、理解が困難な点があると思いますが、ご容赦願います。
現在、私はオウムの教義や麻原の神格を全否定しています。その正当性の根拠だった宗教的経験について、脳内神経伝達物質が活性過剰な状態で起こる幻覚的現象として理解しており、教義のいう意味はないと考えているからです。
それだけに、いかなる理由があれ人間として許されない罪を犯したことは、慚愧の念に堪えません。亡くなった皆さまのかけがえのない生命は取り戻すことができないこと、ご遺族の皆さま、重傷を負われた皆さまやそのご家庭の皆さまの苦しみが今後も続くであろうことを考えると、後悔の念ばかりが浮かびます。
また、オウムの教義や麻原から心が離れた今、私は無信仰の状態にあります。しかし、宗教の価値は認めています。信仰によって人格を高められた方々が多数いらっしゃるからです。人間には超越的な存在を感じる資質が備わっているのでしょう。それは、人類が誕生して以来、いかなることがあっても―権力から弾圧されても、科学が発達しても―、宗教が存続していることが証明しています。その資質によって人格を高めることは、決して否定できません。そして、超越的存在自体も、私などが否定できることではありません。
「超越的存在も否定できない」と申し上げると、これまで私が述べてきたことと矛盾していると思われるかもしれません。実は、「宗教的経験は脳内伝達物質が活性過剰な状態で教義のいう意味はない」ということも、私の個人的経験によってそう感じているだけであって、客観的真実ではないと自覚しています。私の経験に基づいて、多くの方々にそれを納得していただける程度の説明をすることは可能と思いますが、科学的に厳密な証明は不可能です。元々、この種の概念は、科学的な証明が可能なように定義づけすることができないからです。そのため、カルトの超越的世界観についても、それを科学によって排斥することは、極めて困難です。
また、前に「禅」の瞑想の例を挙げましたが、それは、オウムの技法と本質な違いはありません―もちろん、教義は大違いですが―。つまり、オウムは多くの文化遺産を採用―濫用というほうが正確かもしれません―してきたのです。この場合、伝統的に承認されており、有益性もある瞑想技法と“オウム的なもの”として排斥したら、社会問題になりかねないでしょう。そして、この事情はほかのカルトについても同様でしょう。このように、社会的要因によっても、カルトを構成する要素を排斥しきることは難しいのです。
これらのエアポケットにおいて、カルトはいつまでも生息し続けるかもしれません。
たとえば最近は、「スピリチュアル」が話題になっています。これはいまだ「カルト」とはいえないかもしれませんが、その超越的世界観が有益なものか有害なものか注意深く見守る必要があると思います。もし、恐怖を喚起する概念が含まれているならば、影響を受けやすい人は日常生活に支障をきたすでしょう。また、「スピリチュアル」が集団化すれば、個人の価値観が相当受容して、社会通念から逸脱した行動をとる人も現れるかもしれません。
以上の状況においては、結局、各個人が「カルト」を理解し、その基準を定めるしかないでしょう。本文が少しでもそのお役に立てれば、幸いに思います。
平成二〇年六月二五日
平成二〇年一〇月二七日改訂
◆参考記事リンク
『駅長日記:サリン事件実行犯広瀬健一氏の手記をUPしました』
『オウム元信者広瀬健一氏の手記「学生の皆様へ」』(2008年公開)
『オウム真理教元信徒広瀬健一の手記を一部公表。順次追加』(2011年~公開)
◆皆さんに読んで欲しい記事リンク
卓越した技能、交渉力、自己管理力が無いと無理!みたいな否定派。
そんな事無いっての。明治時代より前は自営業が圧倒的に多かったわけだし、
たいした話じゃない。働く手段の一つに過ぎない。
ノマドの原則はただ一点。
製品またはサービスが、市場に直接晒されるだけというだけの事。
品質が高ければそりゃ楽だけど、品質が低くても価格で勝負ができる。
しょうがないのでノマド(ネットワークエンジニア/SE/プログラマ)になった。
そして12年経つ。
俺の強みは二つしか無い。顧客が何を欲してるか瞬時に理解できる事、
それと、問題が発生した時にそれを必ず解決する事、この二つだけ。
それ以外はマジでヒドイ。
いや、守ろうと努力はするんだが、中学時分から昼出勤だったもんで、
長年染み付いちまった習慣はどうにもならん。
10年格闘したけど、結局、全く克服できなかったw
そのおかげかな? ラッキーくらいに思ってたが、
ずっとキープしてるから俺自身の資質による部分も大きいと思う。
ただとにかく真面目だけが取り柄ってのもいるし、
全体的にバランスがいいのもいるし、まぁとにかく色々だ。
市場に晒されるってのは確定的なので、じゃぁ交渉力が無いと難しいんじゃね?
という意見もあると思うが、例えばデザイナーにしろPGにしろ、
品質がめちゃくちゃ高いけど、交渉苦手どころか、コミュ障ってのもいる。
意外となんとかなんのよ。
何か一つ光るものがあればそれで十分って陳腐な結論になっちまうのかな。
あと、その光るモノって対象が、例えばプログラムが書けるとか、
デザインができるとか、情報発信できるとか、なんかそういうわかりやすい
技能に目を向けられがちだけど、
とにかくただ真面目、とか、とにかく相手の事をホンキで思いやれる、とか
そういうのでしっかり食ってるヤツもいるし、
驚くほど、その要素はなんでもいいんだよね。
というわけで、ノマドは憧れるならとりあえずちょっとやってみればいいし、
やって駄目ならまた働く先を探せばいい。
そもそも会社が気に入ってるならノマドに目を向ける必要なんて無い。
ノマドにしろ会社にしろ、「小さくはじめて大きく育てる」を忘れなければ、
それこそなんだってアリだよ。食える市場かどうか? それすらどうだっていい。
ノリだよノリ。ただそれだけ。
そりゃ東電は原発事故の被害者を全力で救済すべきで、風評被害も含めて手厚く補償しないといけないと思うよ。予測できない事故だから免責なんて、そんな主張をするつもりはない。
でも俺がもし、決定権を持つ立場だったら、たとえば2006年の時点で福島第一の津波対策に予算をどのくらい出せたか?津波にさらわれない位置に予備電源を移動させる決断ができたか?自信がない。
今回の津波は、「過去にあのあたりで何度もあった」という人もいるけど、実際にどのくらいのがあったのか検索してみると俺の探し方が悪いのか三陸海岸の津波とか861年?のとかがヒットするだけだ。三陸海岸とはまるで地理的条件が違うし、過去最大の津波が38mだからそれに耐えられるようにしろって、福島第一に38mの津波が来るようなら三陸海岸は100m超えちゃうよ。1000年以上前の津波なんて文献が信用できないし(昔の人は何かと大げさだからね)逆に言うと1000年以上来てないのに対策するって決断できる?俺にはできない。
共産党が津波の危険を指摘していた(http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-03-02/2006030201_01_0.html)というのも、これ予備電源が流されちゃうよって内容じゃないよね。実際に起こったトラブルを予言しているわけではない。正直言ってアカの手先のおフェラ豚が訳のわからないことを言ってるぜ、と思ってしまいそう。津波が来るような地震ならどうせ緊急停止しているんだし、引き波なんて1時間もすれば収まるんだからそのあと取水しても間に合うっての。っていうかピンポイントで「地下に予備電源があると冠水したときやばいよ」って指摘だったとしても、どうかな、ポンプがあるから冠水なんてしませんpgrってところだろう。
これは俺の個人的資質に欠けるところがあるからかもしれない。想像力に重大な欠陥があるせいかもしれない。でも自分が東電の立場になったら同じ事故を起こさないと断言できるかどうか、自信がない。
僕はとりたてて左でも右でもないと思うが、個人的に橋下徹氏のやり方には強い違和感を感じる。君が代を歌わない教員を罰する、などといったタカ派的な行動(http://goo.gl/fdA8f DailyMotion: これで彼自身恥ずかしそうにしてちゃんと歌っていないというのは置いておいて...)やテレビタレント時代の核武装とか中国売春ツアーODA発言とか弁護士懲戒請求の扇動とか、そういう極端な言動への違和感が第一にある。ナイーブに考えて、下品で息苦しいのである。
だが、僕が結構ファンである佐々木俊尚氏(http://twitter.com/sasakitoshinao)や夏野剛氏(http://twitter.com/tnatsu)など、わりとリベラルで先見的と思われる人たちが橋下徹氏に好意的な評価をTwitterでしているのを見て、どうしたものだろうか、としばし考えた。
たとえば佐々木氏は、橋下氏の実行力を評価し、橋下氏の批判者が感情的な批判しかできていない、ということを指摘していた。たしかに、行革や財政再建を目指す政策は私も賛成である。また、部落問題や暴力団のような複雑な問題も、彼くらいの突破力がないと解決できないだろう(私が橋下氏に一番期待しているのは、そのような問題の解決においてである)。ただ一般に彼のやり方は、敵を作り、スケープゴートを作ることで住民の溜飲を下げさせていることで勢いを維持しているように見えてしまい、その手法に狡さ・醜さを感じるのである。さらに言えば、それに乗ってしまう人々の多さにも空恐ろしさを感じるのである(こういうと香山リカ氏みたいだが)。私は、橋下氏はルサンチマンに駆り立てられて動いている人間だということに気づいたが、彼がさらに住民の潜在的なルサンチマンを煽っている構図なのではないかと思うのである。そういう点で、現代のヒトラーという指摘はあながち見当違いではない。
私みたいに、緊縮財政・行革による財政再建は大いに結構、だがイデオロギー的な押しつけの空気やタカ派的挙動、さらには彼を突き動かしている感情にはアレルギーがある、という層は多いのではないだろうか。
佐々木氏が今日になってついに「橋下氏について行けない人たち」などという(そこまで言ってしまうと戦時中の非国民とかと同じメンタリティーにしかすぎないだろう)気持ち悪い全体主義的なポストまで挙げていたので、なんだかガッカリさえした(本当の知性や強さというものは、結論の出ない曖昧さから目を背けず、それに耐えて批判的に考え続けることではないのか。)のと同時に、自分の中でどういう立場を持てばいいのか、折り合いをつけなくてはいけないのかな、とも感じたのである。
私は科学者だが、周りを見ていてたしかに偉大な科学者が必ずしも人格に優れているわけではないし、科学者を見る際には業績と人格、さらに教育者としての資質は分けて考えるのが普通だ。政治家もそれと似たようなもので、イデオロギーと実質的な政策を分けて考えるべきなのかもしれない。彼の財政再建のための活動は評価するが、彼の人柄や彼を突き動かしているイデオロギー的ものには疑問を感じる、という折衷的なスタンスをとれば、私自身感じている息苦しさにも折り合いをつけられる。
余談だが、橋下氏、昔はテレビではけっこうチャライ感じでいじられキャラだった記憶があるのだが、いつの間にあんなに強者のキャラになったのだろう。そういうパブリックなイメージの変遷のメカニズムにも興味がある。
ひとりのAnonymous Cowardより
「私は本当に貴社で働きたいのですが(…と笑顔で言って軽く笑いを取ったあとで)、貴社で働く際に求められる、一番重要な資質は何でしょうか?」
そういうのとか、御社というより、説明会にいるスタッフ(質問に答えてくれる当人)に向かって、「xxさんはどうして入社したんですか」「xxさんが個人的に欲しい人材は(社としてというより今こういった人が欲しい具体例を)」
もありだと思う。
就職活動している人が本気で働くイメージを持っていて何を要求されて自分がどんな労働を提供できるか考えてるかどうかって大事なことかなと思うんだが。。。気のせいか。
好きな女の子がいるとして、その子のFBとかtwitterは当然チェックしてる前提で、その子と会話してアピールする機会があることが事前に分かってるとしたら、振るネタぐらいは、せめて決めてから行かないか?
…まあ、とりあえず定番の質問は
「実際に働いておられる方の視点からみて、貴社の一番の魅力は何でしょうか?」
「私は本当に貴社で働きたいのですが(…と笑顔で言って軽く笑いを取ったあとで)、貴社で働く際に求められる、一番重要な資質は何でしょうか?」
とか。あとは、向こうの説明に漏れオチがあれば、ていねいにそれについて聞くとかか。
うまい、か、鋭い、か、面白い!、か、やる気ある、か、その辺をアピールできれば、充分じゃないか。もちろん、本気で質問ないなら質問不要。ニコニコした顔で相手を見てればおk。
元記事
http://yorogame.blog137.fc2.com/blog-entry-513.html
9条には問題があることを知っている人はいるだろう。だけど、税金を使った事業、公務員などがどのような理念の元に動けと書いてあるか、そのことを強く考え思った人は日本人全体でどのくらい居るだろうか?憲法には全体の奉仕者という言葉が使われている。私はトルストイに感化されてからこの文章を読んだので、とても美しい社会を善くする概念だと勝手に思った。そしてその全体の奉仕者という概念に多くの税金により給料を得ている人間はそれほど熱意をもった意識をしていないかもしれないと思った。
また、ネットとTVの間には断絶があると言うべきだろう。ネットの人間がTVで語ることはあるが、可能性の喚起という観点でみると、相互に繋がりを持たせることに、それほど効率的なやり方ではない。なんか知識人っぽいひとがごちゃごちゃ言う番組はみんないろいろ言うから、理解するコストが高い。これだ!という正解をしめすことよりはインパクトが無い。なのでネット人がTVにでても、ネット人に興味をもってネットのそんな情報を見るのは、もともとそういった資質の高かった人と言う事も出来る。
そして、日本を本当に良くする為に私は、ある程度国民に判断の指針となる理念をもってもらうため、近代国家の行動の拠り所である、法、をそれの最上位である憲法の重要さを多くの人に見られるように説くことではないかと思う。
現状の憲法の厳密な、正しい正しくないではなく、憲法の理念に基づいた行動というのを国民が意識するようになったら、憲法の解釈は人によって多少差はあるにせよ、ある政治問題について考えるための、体系的な前提を持つことになるので、それを前提として政治意見を言えば同意を得やすくできるのでは無いかと思う。
そのための行動として最も効果的だと私が思うのは、選挙で当選する見込みがあるか既に当選した政治家が、日本の様々な問題点を全て憲法に対する意識が欠けているということに帰結させるような理屈で、日本社会を善くしようという、国民にポジティブな意識、モチベーションを喚起する理念を語ることが良いのではないかと思う。現在は断絶的なメディア間の差異で国民は虚無感を抱く可能性がとても高いが、その理念に基づいてTVもネットも語るというある種の、政治意見がとるフォーマットを構築することが効果的では無いかと思う。
そしてネットとTVと新聞の世界を繋げるために、政治家はTVで希望を語り人気を集め、その詳しい論拠はネット上にあると示すという形をとるのは効果的ではないかと思う。
大阪の政治では根源的なありようのような希望を語ることによって支持をえてるように伺える。そういったやり方を模倣してその流れを促進すれば日本は今よりもっと良くなる可能性があるのではないだろうか。
また考え方をかなり飛躍させて言うなら、多少政治色をもった意味で、中国等海外で人気があり日本でも知名度の高いこの文章は雑感のまとめであり厳密性には欠ける。
私がこの文章で問題にしたいのは、日本におけるネットのTV、新聞がどのような役割を果たしているかということある。
TV・新聞といったオールドメディアと、それと比べれば、まだ若いメディアといえるインターネットが日本全体に相互に与え合っている影響を考察し、その問題点から、今日本にいる政治的影響力を持ちうる人間はどのように振る舞うべきかと言う事までを書く。
まず、社会に対して書かれた文章というものは、文章を書く人間が、抱いた、(社会を)こうしたいという意識を、書くという方法を選択した結果生まれた成果物である。
という見知でこの文章では、各メディア(主にネット・TV・新聞)の主張を捉える。
そういった視点として、メディアの主張の厳密な正しさより、そのメディアの志した方向性によって流れされた情報と、それによって喚起さうる国民の感情について考える。
まず、311の地震では、日本の各メディアはその問題に関して様々な意見が流れた。地震発生直後は地震その物の話題が大きかったが、原発の問題が発覚してからは少しずつ原発に関する情報が増えて行ったと思う。
この時とそれ以降に、私が感じた事を書く。
私が一番中もくしたのはツイッター上で様々な見解が流された点だ。私が一番印象的だったのは池田信夫氏である。彼は原発の取材をした経験があると語り、様々な自説を展開していた。それに対して色々な池田氏に対する意見が流れていた、私には批判的な意見が優勢にみえ、池田氏はあまり信用できないなという意識をもった。しかし、他の発言力の高かった人達の発言を見ても、実際どういうことなのかよくはわからなかった。
当然である。原発問題初期は原発について情報が不足していて、推理のような部分が多分にあったからだ。色々な人が原発で何がおこっているかについて色々な意見をいっているように見えた。
そして時間が進むと、放射能の問題がでてきた、それに付いても様々な意見が流れていた。
私は無職なので、一日中でもその情報を追う事もできた。だがそんなことをしたいとは全く思わなかった。色んな意見が交錯してかつ、正しい情報すら不確かな要素をもっているこの状況に情報を追うより、ある程度(半年~一年くらい)立ってからそういった過程を経て生まれた、纏まった情報、例えば新書などを見たほうが確実に問題が良く分かるだろうと思ったから。それに、私が原発のことを知っても、対して社会に意味は生じないという思いが意識の片隅にあった。
その間のTVと、ネットの関係はどうであったかは詳しくはわからないが、様々な原子力に関連のある組織が善意でネット上で公開したものにたいして、TV側が紹介をするということはあったとだろうと思う。それによって、日本社会に対する情報の取得源としてTVの比重が大きい人間に、ネットの情報を参照するための意識を喚起した可能性は高い。
だがこのことによって、日本社会は対して良い影響を受けなかっただろう。何故なら、一般人が原発に関して詳しい情報を知ること自体に私はあまり意味が無いと思うからだ。まず理解するのがコストが高い。そこで問題にたいする意識が削がれるだろうと思う。そして一般人は政治的影響力があまり無いので、厳密に正しいという情報をもっていても有効活用はあまりできない。そしてそれらの厳密な情報は政治的影響力の高い人間にとってこそ有効であることは云うまでも無い。だが日本のネット上では政治的な問題の意識の高い人間の間で、原発の科学的に厳密な情報を求める意識が高くなっていたと思う。だが現在から見て見ると、科学的な厳密さを考える事をもっと専門化にアウトソージングして、その原発問題の結果が与える影響とそれにより、日本社会が取り得るべき選択の可能性に、日本国民の意識というコストを割くべきだったと私は感じる。これはあくまでネットの情報をあまり熱心に追わなかった私の感じたことである。本当にどのメディアも積極的に見ていなかった難しくてめんどくさくてついていけないと思ったから。
原発の科学的情報を流すという方法とることの理由の根本は、日本社会を善くしようという物であると思う。その方法がもつ目的の効果を最大化させるために取り得る方法は何か。
国民に問題が起こっているが、対処にあたっていて良い結果を生むために努力をしているという姿勢を示すことである。それにより国民は政治に希望と期待などのプラスの感情、モチベーションが喚起される。よってあの次点で注目を集めるべき情報としては、正しいやり方でやっているという理念を示したものである。それにより希望をもてば人は情報を自分から進んで集めるか、焦りのような感情をもって科学的厳密さを追うこともなかっただろう。
当時にこういう指摘をしたひとはいたかもしれないが、正直全然探す努力をしていなかったので全く知らない。何か政治に語りたいなら積極的に情報をあつめるのが筋だろうけど、そういう動機付けが全然得られなかったんだ。そういった感情を掘り下げて得た見知で纏めているののがこの文章でもある。
それで原発初期から少しして以降の私の事を書く、私は精神病院に入院していた、院内ではTVしか見られなかった。3週間くらいで退院したが、TV軽くみたりネット軽くみても、原発に関しても地震に関しても似たような話というか、個人的に目に付く範囲で見た場合、個別の問題とでもいうべき問題について色々書いた文章ばかりにおもえて、はっきり云ってこういう物を私が読んで何か考える事に何の意味があるのかという思いを持っていた。そういう問題点を指摘したひとはあったかもしれない、だけど目に付かなかったのでどうでもよかった。
病院から退院してからは、大帝国とかランスクエストをやったりしてた、他に適当に本よんだり、読書メーターというのを初めて読書の記録をシステム的につけるようになって中々本を読むのが楽しくなったり、英語の勉強したりしていた、政治的なことに関してはそれなりに適当に見てたけどあまりよくわからなかった。だが10月02日にLeague of Legendsというゲームを始めて猿のようにやりまくっていた12月20日までやった。1試合平均35分前後かかる試合を900試合くらいしたと思う。その期間いつもみている政治的な主張の多いblogとか20サイトくらいいれているgoogle リーダーに全然アクセスしなかった。
それで、League of Legendsを止めてからまた本読むのが楽しくなってきて、色々と読んでいた。LoLで得られた経験から、本を読んで色々より強い影響を受けて、適当にblogにアホなおもいつき書きまくってた。どのような影響を受けたかというと、トルストイを読んで、社会全体の幸福を志向する事の美しさみたいなものを学んだ。
話を戻そう、つまり、色んな人が色んな目的でいろんなことを言っていたと思うが、私は2ヶ月もそれを無視してゲームやり続けても何とも思わなかったのだ。それがどういうことかというと、メディアは私の理屈で言えば、私の行動を変えさせる、メディアがしたい問題提起に私のモチベーションを喚起させる行動をとることは不可能ではなかった、何故なら凄い影響力の高い意見なら、私の見ている範囲のネットのblogにも情報は届くからだ。
そういう可能性をに影響を与える方法をとるということを考えることが大事であると思う。
その方法論を私なりに書きたい。
まず日本人には、共通のどういう社会を目指すべきかという根本的な理念が欠如しているように思う。たとえば憲法である憲法は理論上は国家のありようを書いた文書だ。9条には問題があることを知っている人はいるだろう。だけど、税金を使った事業、公務員などがどのような理念の元に動けと書いてあるか、そのことを強く考え思った人は日本人全体でどのくらい居るだろうか?憲法には全体の奉仕者という言葉が使われている。私はトルストイに感化されてからこの文章を読んだので、とても美しい社会を善くする概念だと勝手に思った。そしてその全体の奉仕者という概念に多くの税金により給料を得ている人間はそれほど熱意をもった意識をしていないかもしれないと思った。
また、ネットとTVの間には断絶があると言うべきだろう。ネットの人間がTVで語ることはあるが、可能性の喚起という観点でみると、相互に繋がりを持たせることに、それほど効率的なやり方ではない。なんか知識人っぽいひとがごちゃごちゃ言う番組はみんないろいろ言うから、理解するコストが高い。これだ!という正解をしめすことよりはインパクトが無い。なのでネット人がTVにでても、ネット人に興味をもってネットのそんな情報を見るのは、もともとそういった資質の高かった人と言う事も出来る。
そして、日本を本当に良くする為に私は、ある程度国民に判断の指針となる理念をもってもらうため、近代国家の行動の拠り所である、法、をそれの最上位である憲法の重要さを多くの人に見られるように説くことではないかと思う。
現状の憲法の厳密な、正しい正しくないではなく、憲法の理念に基づいた行動というのを国民が意識するようになったら、憲法の解釈は人によって多少差はあるにせよ、ある政治問題について考えるための、体系的な前提を持つことになるので、それを前提として政治意見を言えば同意を得やすくできるのでは無いかと思う。
そのための行動として最も効果的だと私が思うのは、選挙で当選する見込みがあるか既に当選した政治家が、日本の様々な問題点を全て憲法に対する意識が欠けているということに帰結させるような理屈で、日本社会を善くしようという、国民にポジティブな意識、モチベーションを喚起する理念を語ることが良いのではないかと思う。現在は断絶的なメディア間の差異で国民は虚無感を抱く可能性がとても高いが、その理念に基づいてTVもネットも語るというある種の、政治意見がとるフォーマットを構築することが効果的では無いかと思う。
そしてネットとTVと新聞の世界を繋げるために、政治家はTVで希望を語り人気を集め、その詳しい論拠はネット上にあると示すという形をとるのは効果的ではないかと思う。
大阪の政治では根源的なありようのような希望を語ることによって支持をえてるように伺える。そういったやり方を模倣してその流れを促進すれば日本は今よりもっと良くなる可能性があるのではないだろうか。
またこれらの考え方をかなり飛躍させて言うなら、多少政治色をもった意味で、中国等海外で人気があり日本でも知名度の高い蒼井そらが社会の理想と希望について語りながら、性的な事を行う映像を創ることもまた効果的であるといえる。
その理屈を使って、ネット上で論じられる著作権問題を憲法が持つ全体の利益という視点を重視して、多少厳密さを欠いたうえで語るなら、インターネット上の無料コピーは日本人が一般的に思っているほど、あまり悪いこととも言えないという理屈も導ける。
ネット上の無料コピーによる、著作権侵害が違法であるといっても、動画サイトで見るのは良いが、ツールを使って落とすのはよくないとかそういうのは根本的に考えたら些末な問題でやってることは本質的には同じとも云える。それを差異があるように演出しているのはあまり社会を善くするという意味は無いと云う事もできる。なぜなら、どのような方法であれネット上で無料コピーにより著作権を侵害するという行為によって逮捕される人は現状、全然居ないに等しいからだ。なのでこのような違法としていて一部はそれを遵守せよ!と感情的になっているがその視点は近視眼的ということもできる。そういったあまり根本的に考えなていない意見によって脅迫をかけるような同調圧力と化していると思う。全体の利益という視点を重視したら、違法としててもろくに取り締まりもおこなっていないやったもん勝ちみたいな、現状の無料コピーに対する意識というのは不自然です。赤信号は場合によっては無視してもいいという意識は誰でももっているように、無料コピーにしても、目立つ形でやった人間以外ととても運の悪い人以外には、取り締まりなど無いに等しいから、やるのは個人の判断で赤信号を渡ることと似たようなこと。という意識を多くの国民がもっていたほうが国家としては健全だと私は思う。その国民の意識に応じて法を変えれば良い。
そのようなそこの浅いときに、脅迫的ともいえる同調圧力意見というのはネットにはありふれていて、その思考方法を変化させるためにも、国家はどうあるべきかという形を分かり易く国民全員に伝えなければいけないと思う。
(終わり)
日本のメディア間の隔絶について 日本のおけるネットとオールドメディアの最適な関係の構築方法の模索
この文章は雑感のまとめであり厳密性には欠ける。
私がこの文章で問題にしたいのは、日本におけるネット、TV、新聞がどのような役割を果たしているかということある。
TV・新聞といったオールドメディアと、それと比べれば、まだ若いメディアといえるインターネットが日本全体に相互に与え合っている影響を考察し、その問題点から、今日本にいる政治的影響力を持ちうる人間はどのように振る舞うべきかと言う事までを書く。
まず、社会に対して書かれた文章というものは、文章を書く人間が、抱いた、(社会を)こうしたいという意識を、書くという方法を選択した結果生まれた成果物である。
という見知でこの文章では、各メディア(主にネット・TV・新聞)の主張を捉える。
そういった視点として、メディアの主張の厳密な正しさより、そのメディアの志した方向性によって流れされた情報と、それによって喚起さうる国民の感情について考える。
まず、311の地震では、日本の各メディアはその問題に関して様々な意見が流れた。地震発生直後は地震その物の話題が大きかったが、原発の問題が発覚してからは少しずつ原発に関する情報が増えて行ったと思う。
この時とそれ以降に、私が感じた事を書く。
私が一番中もくしたのはツイッター上で様々な見解が流された点だ。私が一番印象的だったのは池田信夫氏である。彼は原発の取材をした経験があると語り、様々な自説を展開していた。それに対して色々な池田氏に対する意見が流れていた、私には批判的な意見が優勢にみえ、池田氏はあまり信用できないなという意識をもった。しかし、他の発言力の高かった人達の発言を見ても、実際どういうことなのかよくはわからなかった。
当然である。原発問題初期は原発について情報が不足していて、推理のような部分が多分にあったからだ。色々な人が原発で何がおこっているかについて色々な意見をいっているように見えた。
そして時間が進むと、放射能の問題がでてきた、それに付いても様々な意見が流れていた。
私は無職なので、一日中でもその情報を追う事もできた。だがそんなことをしたいとは全く思わなかった。色んな意見が交錯してかつ、正しい情報すら不確かな要素をもっているこの状況に情報を追うより、ある程度(半年~一年くらい)立ってからそういった過程を経て生まれた、纏まった情報、例えば新書などを見たほうが確実に問題が良く分かるだろうと思ったから。それに、私が原発のことを知っても、対して社会に意味は生じないという思いが意識の片隅にあった。
その間のTVと、ネットの関係はどうであったかは詳しくはわからないが、様々な原子力に関連のある組織が善意でネット上で公開したものにたいして、TV側が紹介をするということはあったとだろうと思う。それによって、日本社会に対する情報の取得源としてTVの比重が大きい人間に、ネットの情報を参照するための意識を喚起した可能性は高い。
だがこのことによって、日本社会は対して良い影響を受けなかっただろう。何故なら、一般人が原発に関して詳しい情報を知ること自体に私はあまり意味が無いと思うからだ。まず理解するのがコストが高い。そこで問題にたいする意識が削がれるだろうと思う。そして一般人は政治的影響力があまり無いので、厳密に正しいという情報をもっていても有効活用はあまりできない。そしてそれらの厳密な情報は政治的影響力の高い人間にとってこそ有効であることは云うまでも無い。だが日本のネット上では政治的な問題の意識の高い人間の間で、原発の科学的に厳密な情報を求める意識が高くなっていたと思う。だが現在から見て見ると、科学的な厳密さを考える事をもっと専門化にアウトソージングして、その原発問題の結果が与える影響とそれにより、日本社会が取り得るべき選択の可能性に、日本国民の意識というコストを割くべきだったと私は感じる。これはあくまでネットの情報をあまり熱心に追わなかった私の感じたことである。本当にどのメディアも積極的に見ていなかった難しくてめんどくさくてついていけないと思ったから。
原発の科学的情報を流すという方法とることの理由の根本は、日本社会を善くしようという物であると思う。その方法がもつ目的の効果を最大化させるために取り得る方法は何か。
国民に問題が起こっているが、対処にあたっていて良い結果を生むために努力をしているという姿勢を示すことである。それにより国民は政治に希望と期待などのプラスの感情、モチベーションが喚起される。よってあの次点で注目を集めるべき情報としては、正しいやり方でやっているという理念を示したものである。それにより希望をもてば人は情報を自分から進んで集めるか、焦りのような感情をもって科学的厳密さを追うこともなかっただろう。
当時にこういう指摘をしたひとはいたかもしれないが、正直全然探す努力をしていなかったので全く知らない。何か政治に語りたいなら積極的に情報をあつめるのが筋だろうけど、そういう動機付けが全然得られなかったんだ。そういった感情を掘り下げて得た見知で纏めているののがこの文章でもある。
それで原発初期から少しして以降の私の事を書く、私は精神病院に入院していた、院内ではTVしか見られなかった。3週間くらいで退院したが、TV軽くみたりネット軽くみても、原発に関しても地震に関しても似たような話というか、個人的に目に付く範囲で見た場合、個別の問題とでもいうべき問題について色々書いた文章ばかりにおもえて、はっきり云ってこういう物を私が読んで何か考える事に何の意味があるのかという思いを持っていた。そういう問題点を指摘したひとはあったかもしれない、だけど目に付かなかったのでどうでもよかった。
病院から退院してからは、大帝国とかランスクエストをやったりしてた、他に適当に本よんだり、読書メーターというのを初めて読書の記録をシステム的につけるようになって中々本を読むのが楽しくなったり、英語の勉強したりしていた、政治的なことに関してはそれなりに適当に見てたけどあまりよくわからなかった。だが10月02日にLeague of Legendsというゲームを始めて猿のようにやりまくっていた12月20日までやった。1試合平均35分前後かかる試合を900試合くらいしたと思う。その期間いつもみている政治的な主張の多いblogとか20サイトくらいいれているgoogle リーダーに全然アクセスしなかった。
それで、League of Legendsを止めてからまた本読むのが楽しくなってきて、色々と読んでいた。LoLで得られた経験から、本を読んで色々より強い影響を受けて、適当にblogにアホなおもいつき書きまくってた。どのような影響を受けたかというと、トルストイを読んで、社会全体の幸福を志向する事の美しさみたいなものを学んだ。
話を戻そう、つまり、色んな人が色んな目的でいろんなことを言っていたと思うが、私は2ヶ月もそれを無視してゲームやり続けても何とも思わなかったのだ。それがどういうことかというと、メディアは私の理屈で言えば、私の行動を変えさせる、メディアがしたい問題提起に私のモチベーションを喚起させる行動をとることは不可能ではなかった、何故なら凄い影響力の高い意見なら、私の見ている範囲のネットのblogにも情報は届くからだ。
そういう可能性をに影響を与える方法をとるということを考えることが大事であると思う。
その方法論を私なりに書きたい。
まず日本人には、共通のどういう社会を目指すべきかという根本的な理念が欠如しているように思う。たとえば憲法である憲法は理論上は国家のありようを書いた文書だ。9条には問題があることを知っている人はいるだろう。だけど、税金を使った事業、公務員などがどのような理念の元に動けと書いてあるか、そのことを強く考え思った人は日本人全体でどのくらい居るだろうか?憲法には全体の奉仕者という言葉が使われている。私はトルストイに感化されてからこの文章を読んだので、とても美しい社会を善くする概念だと勝手に思った。そしてその全体の奉仕者という概念に多くの税金により給料を得ている人間はそれほど熱意をもった意識をしていないかもしれないと思った。
また、ネットとTVの間には断絶があると言うべきだろう。ネットの人間がTVで語ることはあるが、可能性の喚起という観点でみると、相互に繋がりを持たせることに、それほど効率的なやり方ではない。なんか知識人っぽいひとがごちゃごちゃ言う番組はみんないろいろ言うから、理解するコストが高い。これだ!という正解をしめすことよりはインパクトが無い。なのでネット人がTVにでても、ネット人に興味をもってネットのそんな情報を見るのは、もともとそういった資質の高かった人と言う事も出来る。
そして、日本を本当に良くする為に私は、ある程度国民に判断の指針となる理念をもってもらうため、近代国家の行動の拠り所である、法、をそれの最上位である憲法の重要さを多くの人に見られるように説くことではないかと思う。
現状の憲法の厳密な、正しい正しくないではなく、憲法の理念に基づいた行動というのを国民が意識するようになったら、憲法の解釈は人によって多少差はあるにせよ、ある政治問題について考えるための、体系的な前提を持つことになるので、それを前提として政治意見を言えば同意を得やすくできるのでは無いかと思う。
そのための行動として最も効果的だと私が思うのは、選挙で当選する見込みがあるか既に当選した政治家が、日本の様々な問題点を全て憲法に対する意識が欠けているということに帰結させるような理屈で、日本社会を善くしようという、国民にポジティブな意識、モチベーションを喚起する理念を語ることが良いのではないかと思う。現在は断絶的なメディア間の差異で国民は虚無感を抱く可能性がとても高いが、その理念に基づいてTVもネットも語るというある種の、政治意見がとるフォーマットを構築することが効果的では無いかと思う。
そしてネットとTVと新聞の世界を繋げるために、政治家はTVで希望を語り人気を集め、その詳しい論拠はネット上にあると示すという形をとるのは効果的ではないかと思う。
大阪の政治では根源的なありようのような希望を語ることによって支持をえてるように伺える。そういったやり方を模倣してその流れを促進すれば日本は今よりもっと良くなる可能性があるのではないだろうか。
また考え方をかなり飛躍させて言うなら、多少政治色をもった意味で、中国等海外で人気があり日本でも知名度の高い
この文章は雑感のまとめであり厳密性には欠ける。
私がこの文章で問題にしたいのは、日本におけるネットのTV、新聞がどのような役割を果たしているかということある。
TV・新聞といったオールドメディアと、それと比べれば、まだ若いメディアといえるインターネットが日本全体に相互に与え合っている影響を考察し、その問題点から、今日本にいる政治的影響力を持ちうる人間はどのように振る舞うべきかと言う事までを書く。
まず、社会に対して書かれた文章というものは、文章を書く人間が、抱いた、(社会を)こうしたいという意識を、書くという方法を選択した結果生まれた成果物である。
という見知でこの文章では、各メディア(主にネット・TV・新聞)の主張を捉える。
そういった視点として、メディアの主張の厳密な正しさより、そのメディアの志した方向性によって流れされた情報と、それによって喚起さうる国民の感情について考える。
まず、311の地震では、日本の各メディアはその問題に関して様々な意見が流れた。地震発生直後は地震その物の話題が大きかったが、原発の問題が発覚してからは少しずつ原発に関する情報が増えて行ったと思う。
この時とそれ以降に、私が感じた事を書く。
私が一番中もくしたのはツイッター上で様々な見解が流された点だ。私が一番印象的だったのは池田信夫氏である。彼は原発の取材をした経験があると語り、様々な自説を展開していた。それに対して色々な池田氏に対する意見が流れていた、私には批判的な意見が優勢にみえ、池田氏はあまり信用できないなという意識をもった。しかし、他の発言力の高かった人達の発言を見ても、実際どういうことなのかよくはわからなかった。
当然である。原発問題初期は原発について情報が不足していて、推理のような部分が多分にあったからだ。色々な人が原発で何がおこっているかについて色々な意見をいっているように見えた。
そして時間が進むと、放射能の問題がでてきた、それに付いても様々な意見が流れていた。
私は無職なので、一日中でもその情報を追う事もできた。だがそんなことをしたいとは全く思わなかった。色んな意見が交錯してかつ、正しい情報すら不確かな要素をもっているこの状況に情報を追うより、ある程度(半年~一年くらい)立ってからそういった過程を経て生まれた、纏まった情報、例えば新書などを見たほうが確実に問題が良く分かるだろうと思ったから。それに、私が原発のことを知っても、対して社会に意味は生じないという思いが意識の片隅にあった。
その間のTVと、ネットの関係はどうであったかは詳しくはわからないが、様々な原子力に関連のある組織が善意でネット上で公開したものにたいして、TV側が紹介をするということはあったとだろうと思う。それによって、日本社会に対する情報の取得源としてTVの比重が大きい人間に、ネットの情報を参照するための意識を喚起した可能性は高い。
だがこのことによって、日本社会は対して良い影響を受けなかっただろう。何故なら、一般人が原発に関して詳しい情報を知ること自体に私はあまり意味が無いと思うからだ。まず理解するのがコストが高い。そこで問題にたいする意識が削がれるだろうと思う。そして一般人は政治的影響力があまり無いので、厳密に正しいという情報をもっていても有効活用はあまりできない。そしてそれらの厳密な情報は政治的影響力の高い人間にとってこそ有効であることは云うまでも無い。だが日本のネット上では政治的な問題の意識の高い人間の間で、原発の科学的に厳密な情報を求める意識が高くなっていたと思う。だが現在から見て見ると、科学的な厳密さを考える事をもっと専門化にアウトソージングして、その原発問題の結果が与える影響とそれにより、日本社会が取り得るべき選択の可能性に、日本国民の意識というコストを割くべきだったと私は感じる。これはあくまでネットの情報をあまり熱心に追わなかった私の感じたことである。本当にどのメディアも積極的に見ていなかった難しくてめんどくさくてついていけないと思ったから。
原発の科学的情報を流すという方法とることの理由の根本は、日本社会を善くしようという物であると思う。その方法がもつ目的の効果を最大化させるために取り得る方法は何か。
国民に問題が起こっているが、対処にあたっていて良い結果を生むために努力をしているという姿勢を示すことである。それにより国民は政治に希望と期待などのプラスの感情、モチベーションが喚起される。よってあの次点で注目を集めるべき情報としては、正しいやり方でやっているという理念を示したものである。それにより希望をもてば人は情報を自分から進んで集めるか、焦りのような感情をもって科学的厳密さを追うこともなかっただろう。
当時にこういう指摘をしたひとはいたかもしれないが、正直全然探す努力をしていなかったので全く知らない。何か政治に語りたいなら積極的に情報をあつめるのが筋だろうけど、そういう動機付けが全然得られなかったんだ。そういった感情を掘り下げて得た見知で纏めているののがこの文章でもある。
それで原発初期から少しして以降の私の事を書く、私は精神病院に入院していた、院内ではTVしか見られなかった。3週間くらいで退院したが、TV軽くみたりネット軽くみても、原発に関しても地震に関しても似たような話というか、個人的に目に付く範囲で見た場合、個別の問題とでもいうべき問題について色々書いた文章ばかりにおもえて、はっきり云ってこういう物を私が読んで何か考える事に何の意味があるのかという思いを持っていた。そういう問題点を指摘したひとはあったかもしれない、だけど目に付かなかったのでどうでもよかった。
病院から退院してからは、大帝国とかランスクエストをやったりしてた、他に適当に本よんだり、読書メーターというのを初めて読書の記録をシステム的につけるようになって中々本を読むのが楽しくなったり、英語の勉強したりしていた、政治的なことに関してはそれなりに適当に見てたけどあまりよくわからなかった。だが10月02日にLeague of Legendsというゲームを始めて猿のようにやりまくっていた12月20日までやった。1試合平均35分前後かかる試合を900試合くらいしたと思う。その期間いつもみている政治的な主張の多いblogとか20サイトくらいいれているgoogle リーダーに全然アクセスしなかった。
それで、League of Legendsを止めてからまた本読むのが楽しくなってきて、色々と読んでいた。LoLで得られた経験から、本を読んで色々より強い影響を受けて、適当にblogにアホなおもいつき書きまくってた。どのような影響を受けたかというと、トルストイを読んで、社会全体の幸福を志向する事の美しさみたいなものを学んだ。
話を戻そう、つまり、色んな人が色んな目的でいろんなことを言っていたと思うが、私は2ヶ月もそれを無視してゲームやり続けても何とも思わなかったのだ。それがどういうことかというと、メディアは私の理屈で言えば、私の行動を変えさせる、メディアがしたい問題提起に私のモチベーションを喚起させる行動をとることは不可能ではなかった、何故なら凄い影響力の高い意見なら、私の見ている範囲のネットのblogにも情報は届くからだ。
そういう可能性をに影響を与える方法をとるということを考えることが大事であると思う。
その方法論を私なりに書きたい。
まず日本人には、共通のどういう社会を目指すべきかという根本的な理念が欠如しているように思う。たとえば憲法である憲法は理論上は国家のありようを書いた文書だ。9条には問題があることを知っている人はいるだろう。だけど、 Permalink | 記事への反応(0) | 04:44
自分のプライドの高さか何かから、「お見合いの結果交際に至る自分」を無意識に嫌った結果、
相手をdisって、付き合わないことを正当化して心の平安を得ているような気がした。
単なる勘だけど。
http://anond.hatelabo.jp/20111124032014
自分とは逆の目線から、これでもかとばかりに書かれているので反応してみる。
元増田が書いているのは要するに、この男には価値を感じない、ということだ。
しかし、相手の男は、少なくともお見合いの場に出てきているのだから
まあそこそこの職場に勤めているんじゃなかろうか。
少なくとも同僚や、あるいは学生時代の友人とと上手くやっていくだけの最低限の
コミュ力や、継続的に仕事や学業で、それなりにでも努力できる資質があるってこと
じゃないかと予想できる。
で、これだけのことが全部、童貞=恋愛経験がない=恋愛に資するリソースが無い
ということだけで無視され、全体としては「きもい」と拒否感を感じられ、軽侮され
怠慢だとか評価されてしまうわけだ。
結婚を考える場でありながら、継続的に収入を得られることやそのために努力した
ことはまるで評価せず、男性的な魅力が乏しく過去に経験が無いだけで「きもい」だ。
実際、自分も似たような経験があるのだが、正直馬鹿馬鹿しいという他ない。
それほど男性的魅力が欲しければ、まっとうな見合いの場になど出てこないで
結婚を考えるような状況で、収入の高さや、その収入を得るためにどれほど努力したか
ってのは、かなり高いポイントになるはず。
それを、婚活している女性は、男性的魅力の少なさを理由にして大幅に割り引いて
若さが無くなり魅力も少ない自分と釣り合わせようとするんだよね。
この元増田の、相手を過剰にDisるオーバーな表現なんてまさにそうだ。
こんな奴等ばかりなんだもの、結婚なんてとても考えられないわ。
自分の遺伝子を残そうとしないのは生物的におかしいというのは、生物学的に全くの間違い。
社会性を持つ動物は、直接的に自分の遺伝子を残そうとしなくても、自分に近似した遺伝子
つまり兄妹親戚の遺伝子が 残ることをサポートすることで、遺伝子の継承という目標を達成
している。
一人一人が全て己の遺伝子を残さなければならないというのは、生物学ではなく、キリスト教や
特に日本人という近似性が高いものが1億もいる遺伝子プールの中では、ちょっとやそっとの
欠損は容易に補填される。
基本的搾取権と言っても、基本的に誰でもが持ってるわけではなく、当たり前のように与えられているわけでもない
そう見えるだけでそうじゃない場合もあるし、本当に搾取的な事をしている場合もあるだろう
2chって学歴とかすごく気にしてる人もいる。yahoo知恵袋だと本当にそんなに気にしてない人もいるのに。例えば子供の進路でも単純に偏差値で決めるのでなく、校風やクラブ活動が活発かどうかなども基準に、本当に選んでいる人たちもいた。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1054596645 中学生の娘が偏差値55の私立高校に受かったのに、48の公立に行きたがってます。
自分は私立に行って欲しいのですが、本人の意思がかたいようです。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1111557701 高校受験を経験した方、志望校は何をみて決めましたか?(設備、部活、校風etc.)
来年受験の中3なのですが、どうしても偏差値だけで判断しがちになってしまいます。
2ch運営の削除要求に対する対応について、官僚的と評されてたのを読んだ事もあるが、硬直した柔軟性を欠いた態度、それがやりたくて仕方ないような空気を感じないでもない。
それに、あの仕組みは、作った人だけが得をしているのに、商業主義に乗せられてないと思っているのも不思議だ。
あと、ユーザーは、やたらルールに従うのが好きw そして新規の人をそれに従わせるのも好きw
だけど、元々は他の人が作っていた掲示板にマルチポストして宣伝して、客を奪ったのが始まりだから、ルール違反した人が作ったシステムという矛盾
なぜ、商業主義を嫌っているのを推奨したり、商業主義と関係ありませんよ、というポーズをとるかと言えば、自分達以外の商売をそこでさせないため。(これは当たり前でどこのサイトでもそうだろうけど、商業と関係ありませんよというポーズを取ってた)
2ch運営(初期運営?)ほどうまく搾取できてない集団だと思うけど、体質としては、そういう資質を持った人が、多く集まった印象を受けた。
しかし、みんなで搾取しましょう♪とか、音頭取ってやってるわけではないだろうから、自然とそういう感じになったのか、たまたまそう見えるだけか、よくわからないけど
何が似てるんだろう 何かが似ている
素じゃない感じとか、悪い意味で老成しているところとか
自分に対して不思議な事をしてきた人が、考えてみたらやってる事が親と似ているなあと思い、どういう心理や心境でこういう事をするのだろうと、探ってたら、やばい結果を探り当ててしまって・・・
これは、もう何たらハウス関係なくごく個人的な事だろうな、と思ったが
こういう人を、引き寄せてしまう魅力が何かあるのかもしれないとは思う。
閉じた世界を感じる
カウンターカルチャー的ではなく、強いものの味方で、弱そうと見たら、権威主義的な態度を取るw そんな感じ
実際、権力者の近くにいる人がいて驚いた。 無茶やってるように見せながら、力に阿り擦り寄り
切ったら血が出るような、人間的な感情の発露というのを、止められてるのか、切捨てられてるのかわからないが、人間的感情の発露が理解できない。
こういうのって、今年問題になってる地震後の原発問題に対する東電の態度が官僚的な事や、官僚全般(中には頑張ってる人もいるかもしれないが)や日銀とか、弁護士や医師、の一部の態度にも通じる態度のような気がする。それを真似してるような。所謂困ったエリートは、搾取が当然と思ってて、高校生ウルトラクイズの賞金か何かだと思ってるのかもしれないと思う。
真似してるというか、そういう良くない力がある事を知って、それを肯定しているようなところはあると思った。
書いていた創作か実話かわからない話に、精神病院の中の様子が出てくるものがあった。その中の患者の様子の描き方が、医師にとって都合が良い描き方をしていた。それは、そういう人ではなく、そういう状態の人なのではないのだろうか?そして、それを治すのが、サポートしたりケアしたりして治すのが、医師の仕事のはずなのに、それができてないのは医師の責任ではないのか?
それを認識してない、その視点からの指摘が無い、抜け落ちているのはなぜだろう?
強さ弱さしか見られなくて、それに対して自分はどう思うのかという自分の判断力が入ってない、ものすごく子供な状態のままいる、そのくせ力を欲しがるのか、子供だから力を欲しがる、のかもしれないが。
そんなにうまく力が手に入るとは思えないけど、だからこそ、弱そうなものを見ると見境がなくなるのかもしれないし、自分達のフィールドに引き入れてしまえば、それなりに力を保って人に接する事ができる仕組みを作っているというか、作ろうとしているのかもしれない
。。。。。。。という妄念
さえ湧き上がってきてしまうほど、個性的な人が集まっているのはなぜ?
ただのシェアハウスのはずなのに